2009年11月21日土曜日
山田兄弟22
学会で福岡に行った折に、書店で「革命をプロデュースした日本人」(小坂文乃著 講談社)を買った。孫文の辛亥革命を金銭的に助けた梅屋庄吉の評伝である。これまで梅屋のことは資料が少なく、あまり知られていなかった。これは梅屋の遺したノートに「ワレ中国革命ニ関シテ成セルハ 孫文トノ盟約ニテ成セルナリ。コレニ関係スル日記、手紙ナド一切口外シテハナラズ」と記し、自分の行ったことが公になることで迷惑になる人を慮ってのことであったようだ。そのため梅屋の遺した資料はこれまであまり紹介されることがなく、その事跡もはっきりしていなかった。死んでもう100年も立つのであるから、日中友好の礎となった先祖を紹介しようと書いたのが本書である。
これを読むと、梅屋は当方もない額、本書では今の金額で一兆円を超える額を革命に援助したとしているが、これはやや大げさにしても、相当な額を革命に寄付したようだ。それも全くの見返りを期待せず。ここらに明治の人の偉大さがある。ひとが誰かを援助する場合、何らかの見返りを、仕事上あるいは、単に名誉かもしれないが、求めるのが普通であるが、梅屋は金には几帳面な性格でありながら、孫文の革命に同調し、中国人民に幸福のために、自分の私財を投げ打った。
「醇なる日本人 孫文革命と山田良政・純三郎」(結束博治著 プレジデント社)では、梅屋庄吉、トク夫妻は山田兄弟と革命の同志ではあるが、直接的なかかわり合いがないとしているが、小坂の本によれば、梅屋夫妻と山田純三郎の接点はかなりある。まず第一に同書の載せられている大正3年松本楼で開かれた日華同志懇親会の写真にも山田純三郎の姿が見えるし、1913年の孫文が日本滞在時の写真(p154)にも同様に梅屋と純三郎は一緒に写っている。さらに梅屋夫妻というと孫文と宋慶齢との結婚式を斡旋したとして有名だが、その結婚には孫文の中国人同志の多くは反対して出席しなかったが(孫文はそれまでの妻を離婚したので)、純三郎は結婚式には出席していることから、当然梅屋とも面識があったのであろう。1913年に孫文は第二革命に失敗して日本に亡命するが、その隠れ家として頭山満が東京赤坂雲南坂の海妻猪勇彦宅に匿ったとされているが、本書では大久保百人町の梅屋の自宅にも長期間いたようである。純三郎は当時、孫文としょっちゅう会って第三革命の指示を受けていたようであり、孫文が梅屋の所にいたならそちらで会ったはずである。そういったことから孫文の日本亡命時代には、梅屋夫妻と純三郎はかなりの交誼があったものと思われる。
1916年の宋慶齢から梅屋の妻トク宛の手紙(p209)には「私たち(孫文夫妻)はしばらく上海にいます。しかし、私宛のお便りは、これまで同様、山田純三郎先生気付で書いてください。大事な事や私の夫の名前は書かないでください。陳氏(陳其美)が袁のスパイに殺されたには山田先生のお宅でのことでしたから。」となっており、孫文や宋慶齢との連絡、革命資金の授与が山田純三郎を介して行っていたことがわかるし、陳其美の暗殺には純三郎宅での内通を匂わせている。
梅屋は晩年、孫文の像を寄付するため1929年に中国に渡るが、上海に出迎えにきたのが、山田純三郎であり、ここでの2年の滞在中にも何度か会っていると思われるし、また梅屋死後、妻トクは娘千世子一家と終戦まで上海に住んでいたことからここでも純三郎との交流があったに違いない。
こうしてみると、梅屋夫妻と山田純三郎の接点は多く、著者の祖母千世子が生きていればもっと詳しい交流の実像がわかっただろうと思われた。
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