2008年11月21日金曜日

かご入りりんご



 高校2年生の時に、修学旅行できたのが東北で、旅行の最後は弘前でした。駅からすぐに弘前城を見学して、その近くの旅館に泊まったような記憶があります。仙台から松島、三陸浄土が浜、平泉、厳美渓、八幡平、十和田湖、弘前とほぼ東北一周の旅行で、それまでの修学旅行は九州でしたが、私たちの学年から初めて東北地方に行きました。男子校でしたので、松島の旅館では前日、神戸女学院が泊まったと知り、興奮したり、U君などは10月という寒い季節にも関わらず、上半身裸で八幡平の沼に入ったり、制服のままスナックに行ったり、30年以上たっても思い出の多い旅行でした。そのせいか、私の学年では例年以上に東北大学の進学率が高かったようです。

 この旅行の最後が弘前で、時期もちょうどリンゴの時期でしたので、みんな竹かごに入ったりんごをお土産に買っていきました。竹かごから見える赤いリンゴは本当にかわいく、大阪についても、周囲のひと、みんなから「ああ、青森にいったんだ」と思わせるようなものでした。その後、家内の実家に弘前に来るようになったのは30年前くらいでしたが、その頃には竹かご入りのりんごは少なくなり、開業した15年前くらいには、プラスティックでできたかごはあっても、竹かごはほとんど見かけなくなりました。おそらく製作コストが高く、
りんごを入れる箱としての存在価値がなくなったことと、宅急便などの発達があったことなどから、急速に廃れたと思います。最盛期には、百軒以上あった根曲がり竹によるかご生産者は、今ではほとんどなくなり、わずかに残っている生産者も高齢化し、工芸品として何とか、残っているようです。

 先日東奥日報で、あるお客さんから1万円のリンゴの詰め合わせをおくってほしいと青森の業者に依頼があったそうです。青森の業者ではそんな高いリンゴはない、そんなことはできないと答えたの対して、長野の業者は即答して対応した、もっと青森人も商売気を出さないとといった社説が載っていました。新幹線開業もまじかに迫っています。私個人の意見としては、りんごほどすばらしい青森土産はありません。是非とも昔のかご入りりんごを復活してもらいたいと思います。何種類かのりんごを詰め合わせて、根曲がり竹の手提げかごで売れば、多少高くても人気がでると思いますし、青森=リンゴというイメージアップにもつながります。工芸品のような竹製のカゴに、最高級のリンゴを入れれば十分に1万円で売れるでしょうし、もう少し安価なかごに入れておみやげ店で売ってもよいでしょう。工芸品のようなものは素人が作るには難しいし、年期もいるとは思いますが、昔のりんごかご程度のちゃっちいものでしたら、主婦の内職で作られるのではないでしょうか。一かご500円くらいの手間賃であれば、雪が多く、夜の長いこの地の内職にはもってこいのものと思われますし、シーズン以外に作ったものでも、土地、家屋が広いので作ったものを置いておく場所にも困らないはずです。りんご自体は結構重いものですので、3個か4個、違った種類のものがお土産としては喜ばれるかもしれません。

 こちらに来て、毎年リンゴを食べているせいか、ずいぶんとりんごの味にはうるさくなりました。蜜入りふじもうまいのですが、今年はとりわけ王林がフルーティーでいながら絶妙な甘味があり、本当にうまく、これは日本、世界にも通用すると思いました。以前、青森のリンゴを欧米で売り出そうと調査したところ、あまり甘すぎて、リンゴはすっぱいものだという欧米人には不評だったようです。ただうちに来ていたアメリカの留学生も最初はとまどったようですが、そのうち好物になったことから、浸透すれば十分に世界に通用するものだと思います。ただリンゴの難しいのは、同じ農園で同じ日にとったものでも、木によっては甘味が全くちがう点です。親類から毎年、たくさんのリンゴをいただきますが、ここのりんごは市販のそれに比べても非常にうまいものですが、それでも年により、木により味に違いがあります。

2008年11月18日火曜日

津軽美人






 津軽には美人が多い。これは県外から来るひとは皆そんな感想を持つようで、繁華街の土手町を歩いていてもはっとするような美人によくあうことがあります。だいぶ前のことですが、週刊朝日で「日本海 美人一県おき説」は正しいかという特集記事が載っていました。各県庁所在地の繁華街で10代後半から30代と思われる女性100人を観察し、「負け犬」で有名な酒井順子さんが美人と認める女性の人数を調査したものです。結果は青森県12.5%、秋田20.5%、山形7.0%、新潟12.5%、、富山9.0%、石川12.5%、福井6.5%となり、青森を除くとほぼ美人一県おき説は正しいというものでした。ちなみに東京は4.0%だそうです。

 私もひまな時は繁華街に立って100人中どれくらい美人がいるかといった遊びをしますが、これまで調べた限りでは仙台が最もひどく、仙台駅で3回調べてようやく該当者がいたほどでした(仙台のひとにはすいません)。秋田でも秋田市内はそれほどではなかった気がしますが、角館は高かったですし、また九州の小倉、山陰の松江は高い一方、名古屋(名古屋駅)、徳島は低かったと思います。これはお国自慢になりますが、青森でも青森市、八戸市より弘前市の方が美人は多く、弘前より北の五所川原、鶴田、金木などの方が美人が多いと思います。松木先生の本にも述べられているように、津軽弘前のルーツは北秋田からの人々であったことから、秋田美人も津軽美人も同種と見なされます。二重まぶたの出現率をみても、奈良県では58.1%に対して新潟では70.4%、北海道では73.2%、奄美大島では84.0%と近畿圏から離れると二重まぶたのひとが多くなるようです。またJC遺伝子による人類学的な調査によれば、秋田おそらく津軽もそうだと思いますが、北日本の日本海沿いにコ-カソイドしかないEC遺伝子ももつひとがいて、白人の血が入っているという珍説もあります。

 津軽を代表する美人と言っても、この地域は芸能に対する偏見が強く、芸能界であまり活動しているひとは少ないため、いい例が思いつきません。それでもこれは津軽美人と考えられるのは、TUBEの曲の作詞家として有名な亜蘭知子さん(弘前市)が挙げられます(写真上)。また女優の長内美那子(弘前市)も津軽を代表する美人じゃないかと思います。長内さんのお父さんは歯医者さんですが、芝居きちがいと呼ばれるほど地元の劇団活動を熱心にされた方で、亡くなってだいぶ立ちますが、今でも有名です。また少し古いですが、青い山脈で有名な歌手の奈良光枝さん(弘前市)もまちがいなくきれいなひとです。youtube上は奈良さん48歳の時のものですが、この年にしてはかなり美人と思いますが、若い時(28歳)のものも下にあげときました。ちょうど真ん中あたりで「悲しい竹笛」を歌っています。やや暗い感じで、声の質もどちらかというとクラシック系で華やかな芸能界には向いてないのかもしれません。近所の萱町の生まれのようです。また100本近くの映画に出ていた相馬千恵子さん(弘前市)もちょっと暗い感じの範疇に入る美人です。
 
 県外から弘前に観光で来られる方は、是非一泊して夜の鍛冶町に行ってください。ぼられるようなところはありませんから安心して入ってください(一万円かかった、ぼられたというところですから)。料金は銀座の数分の一ですが、容姿は負けていません。多くの津軽美人がいます。
 

2008年11月13日木曜日

ミノルタCLE




 このカメラは非常に思い出深いものです。買ったのは、確か1981年ころだったと思いますが、当時で40mmレンズ付きで12,3万円と、私にとっては信じられない価格で、毎月1万円ずつ、返すのにほぼ1年かかり、その間非常に苦しい生活をした気がします。当時からライツミノルタCLの後継機として評価が高く、最新のレンジファインダーカメラ、最も安い?ライカレンズが使えるカメラ、あるいはライカを超えたカメラとされており、かっこよさも手伝い、仙台のカメラ屋で買いました。総販売数は3万2000台で、約10年間販売されていましたが、当時のミノルタの主力商品X-700より高価なため、一部マニアに売れたようですが、それほど人気が高くはなかったと思います。むしろ販売中止後に人気が出てきて、2001年のアサヒカメラでも最も復刻希望カメラとして挙げられ、中古価格も長らく高いものでした。最近はさすがに下がっていますが、それでも5万円くらいはしており、25年以上経過しているカメラとしては高い方ですし、専用の28mmのMロッコールレンズはいまだに名機とされています。

 CLEの前のライカミノルタCLについては、先に挙げたアサヒカメラ6月号で、当時の開発部長らとの会話が残っています。ライカはM5のサブポジション的なものとしてライカCLの生産をアジアの持っていき、安く作りたいと考えていたようです。その提携先としてミノルタが選ばれましたが、当時の経営者からはライカは神様のような存在で大きな衝撃を受け、ずいぶん意気込んだようです。その後、さらにAE露出を内蔵したCLEの開発につながったようですが、ライカは全く関知しておらず、全くのミノルタのオリジナルのものだったようです。ただ、Mマウントについては、ライツからマウントの図面や距離計の数字ももらっているという意味では正統なライカの血筋を引いているともいえそうです。

 子供の写真はほとんどこのカメラで写しており、その意味でもこのカメラは我が家にとっては大事なものですが、やはり日常のカメラとしてはデジカメには太刀打ちできず、ここ数年は全く使用していません。上の子供が大学のカメラ部に入るということで一時あげましたが、1年ほどすると使わないといって返してきました。私自身も老眼が進み、連動距離計によるピント合わせはとてもきついものです。今や銀塩カメラはもはや製造されなくなりましたが、デジタルカメラはあまり新機種の多さからもう二度と名機と呼ばれるものはでないでしょう。

 話は変わりますが、最近カメラレンズの製造をしている会社の経営者のひとと話す機会がありました。カメラレンズは自社の直轄工場でも作られますが、弘前にあるような小さな工場にも発注がきます。というのはレンズの切り出し、研磨、コーティングなどは熟練の技を要するため、安いレンズは中国などでも作れても、熟練が要する中高級レンズはこのような小さな会社の作られるようです。ニコンから時折こういった会社に、もはや製造していない古い、古いレンズの注文がくるようです。修理用のもので、何とニコンは在庫がないからといって修理を断ることはせず、レンズ自体を注文するようです。それも取り付けに失敗することも考慮して2枚のレンズを注文するようです。工場からすれば手間のかかる注文ですが、ニコンは子会社のレンズの発注にも誠実な対応をしてくれている(あまり生産調整をしないらしい)ことからむしろ喜んでやっているようです。ユーザからすれば、レンズの修理費に15000円とか20000円かかり高いと思うかもしれませんが、在庫のあるレンズで修理するのではなく、わざわざレンズメーカに特注するわけで、全くのオーダーメイドのものです。ニコンにしても決してもうかっていないか、むしろかぶっている可能性も高いと思います。ニコンというブランドを守るためには、こういった隠れた面での努力も必要と思いますし、またニコンの社風なのでしょう。

 デジカメ本体は海外で今後も作れていくと思いますが、レンズ、特に高級品はこういった中小の熟練工に支えられており、離職者が多く、熟練工の育たない中国での生産は今後ともそれほど増えないでしょう。ただ肝心の日本でもこういった修練に手間のかかる仕事は若者たちには嫌われていますが。

2008年11月12日水曜日

松木明




 2年ほど前だが、歯科医師会で弘前大学医学部麻酔学の松木明治教授の講演会が開催され、その懇親会でひよんなことから松木先生と話す機会があった。理事の中では文学畑に精通している?ということで、松木先生の横に座らされ、お相手をした。その時はない知恵を繰り出し、確か渋江抽斎のことを話したと思う。後日、どうしたわけか松木先生から著書多数を送付していただき、非常に恐縮したが、その著書の中にお父さんの松木明先生の「津軽地方の血液型」という大著があった。大変高価な本で、とても自分では買えなかった本でありがたかったが、何しろ、厚く、内容も濃い本のため、ぱらぱらとは見てきたが、なかなか読み切れなかった。

 最近の不景気のせいか、患者さんも少なく、少し時間をかけて読んでみた。松木先生のライフワークと呼べる作品で、昭和10年から第二次大戦で調査ができなくなる昭和18年までの足掛け9年、津軽一円の10万人を超える血液型を調べた研究である。すごいとしか言いようがない。協力者がいるとしてもよくぞこんな大事業を一人でやったもので、ここにも津軽のモツケ精神が垣間見れる。この10万人というのはすごい数値で、当時の津軽人口の1/5といわれ、全数調査に近い。今であれば、サンプリング手法も層化抽出法やランダムサンプリングなどの統計的な手法を使い、もう少し効率的に調査するかもしれないし、分析方法もクラスター分析、有意差検定などの方法も取るかもしれない。

 松木明(1903-1981)は、第八師団軍医広田守の長男として弘前市に生まれ、母親の実家を次ぎ、松木姓になった。弘前中学から弘前高校、東京大学医学部を卒業後、同大学の三田定則教授のもと血清学を学び、昭和9(1934)に郷里弘前に帰り、開業しながら、血清人類学の研究を行う。著書「津軽地方の血液型」の一節を紹介する。

 日本民族の平均の血液型は、A型が36.35%、O型が30.46%、B型が21.77%に対して、松木らの調査によれば津軽治療の血液型はA型33.28%、O型33.22%、B型25.14%とA型が少なく、B型とO型が多く、日本民族の血液型とは全く異なった分布を示すとし、「津軽地方と全く対照的な血液型の分布を呈するのは北九州で、最も典型的な日本型である。日本民族の血液型の変化は、北九州を起点として始まり、西日本から東日本へと東上するにしたがって、次第にA型が減少し、B型とO型が増加する。しかもその変化は非常に規則正しい推移を示して、樺太型アイヌを指向し、次第にこれに接近してゆく。地理的に本州の最北に位する津軽地方は、この血液型の変化の最終の地点となる。日本民族の血液型の変化に於いて、北九州を南端とすれば、津軽地方は実はその北端を成すものと言うべきである。血液型の変化の極まるところ、それは津軽地方であり、血液型の変化の終点に位置するのが津軽地方である。したがって津軽地方の血液型は、日本民族の血液型から見て最大の偏異を有し、最も隔絶した分布の様相を呈する」

 研究は単に血液型のみにとどまらず、アイヌ部落の分布や方言、通婚、歴史などの多岐に渡っている。弘前について言えば、そのルーツは北秋田地方から陸路入ってきた人々と、土着住民(アイヌの混血?)が混じったものとして結論している。

 この研究の今日的な価値は、津軽人のルーツを探るという点では非常に大きい。戦前では都市部を除き、いわゆる通婚圏は非常に狭く、ほぼ12km(3里)の中で行われ、外部との婚姻は少なく、他地域からの混血は少ない。本書にも各地の通婚圏を調べているが、例えば平地にある堀越村(現弘前市)では、平地からの配偶者(ほぼ同一地域)は60.0%、南津軽郡(近隣のところ)からは25.7%、山地から(近くの山間部にすむ人)は9.4%、その他東、西、北津軽郡からは0.7%となっている。県外からの配偶者はほとんどいない。現在では、いくら弘前とはいえ、こんなに通婚圏は狭くなく、かなり外部の血が混じっている。それ故、戦前の数値は狭い地域の特徴を今以上にクリアーに現す。

 もうひとつは、現在の研究では、プライバシーの保護と被験者の同意がやかましく、すべての研究、調査には倫理委員会ないしはそれに準じた機関の承認を必要とする。今の時代ではとてもじゃないがこんな研究は不可能かもしれない。

 松木はこの研究後も民俗学、言語学へと傾倒していくが、常に津軽の地を愛した。

 蛇足であるが、本書の余論に有名な安寿と厨子王伝説が紹介されている。津軽の伝承では安寿姫と厨子王は津軽の人とされ、故郷に帰った厨子王は身代わりになった安寿姫の霊を阿曽部の森に祀ったところ、ここに美しい山が出来たのでこれを岩木山と名付けた。それ故、岩木山の神は山椒大夫の故郷、丹後のひとをひどく嫌い、もしも一人でも丹後のひとが津軽に入ると、天候が荒れるという。天候が荒れる時は、丹後の者が入り込んでいるのはないかと非常に詮議され、見つかれば即刻領外へ追放した。藩政時代、天候が不順な時は、必ず国中に布令を出して、碇泊の船はもちろんのこと他国からの興行物などはみなその生国を改め、丹後の者は決して入国を許されなかった。

 丹後のひとにはかわいそうだが、こんな言い伝えが流布でされているのではしょうがない。

2008年11月9日日曜日

笹森儀助 5



 昨日、弘前文化センターにて「笹森儀助書簡集」発刊記念シンポジウム 津軽・偉人を生む風土 と題される講演会があった。当日、第15回ロータアクト地区年次大会(若者たちによるロータリー活動)が同じ会場で行われていたが、ちょっとさぼってこの講演会に参加した。年次大会にも出席しなくていけないため、途中退席したが、なかなか有意義な講演会であった。参加者が少ないのではと危惧したが、ほぼ満席の状態で、こういった分野に興味があるひとが意外に多いと感じた。

 理科系の私には、多少難解な講演内容であった。まず青山学院大学の小林和幸教授による「国家と国民〜笹森書簡集から見えるもの」の基調講演後に、稲葉克夫氏(郷土研究家)、河西英通教授(広島大学)、北原かな子(秋田看護福祉大学)によるシンポジウムが行われた。明治期における民権派、国家主義などの政治的な運動における当時の笹森の立場、観察者としての役割が明確にされ、中央から切り捨てられる地域、人々を観察して報告し、その地域を助けることがひいては国の利益になるという考えが提示された。河西教授から民族学者の宮本常一は笹森儀助を尊敬していたとの話があったが、宮本の名著「忘れられた日本人」、このタイトルこそ、笹森の行動の原動力であったろう。笹森自身の郷里、津軽もまさしく「忘れられた日本」であったからこそ、よけいに北海道、沖縄、韓国の現状がより人ごとでなく、実感できたのであろう。

 北原教授から、弘前の東奥義塾の明治初期の学問レベルについての話があった。義塾に現在ある数多くの洋書から、当時の学問レベルは相当高いとは推測されるが、実際にこれらの洋書を当時の学生が読みこなしていて、本当の実力があったのかという疑問が投げかけられた。義塾から最初にアメリカのデポー大学に留学した珍田捨巳、佐藤愛麿など留学生は、正式の入学試験合格し、アメリカ人の中に混じり、ほとんどすべての学生が最優秀の成績を残したことから、すでに義塾にいた当時から十分に洋書を読みこなす実力があったと結論し、明治8年,11年ころの状況を考えると、これに匹敵する学校は日本でも東京大学ぐらいしかなかったと語っている。東京大学は日本中の秀才が集まるところだが、それと同じかそれ以上の高い質の教育がこの辺境の地で行われていたことは奇跡としか言いようがない。さらに人口比でみてもそれだけ優秀な人材がこの地にいたのであろうし、今でもいると信じる。菊池九郎の教育者としての偉大さがわかる。

 東奥義塾は、その後菊池の尽力もむなしく一時廃校になる。それとともに優秀な人材は弘前中学、青森中学などに行くようになる。弘前、青森中学およびその後継の弘前高校、青森高校からも確かに著名な人物を輩出しているが、明治期の東奥義塾のような人物は現れていない。この原因としては、義塾のような私立学校はトップの方向性、明治期の東奥義塾について言えば、菊池九郎と本多庸一の強い個性がそのまま学校運営、教育に生かされていたことが挙げられる。官立の学校はすべて東京大学を頂点とする中央の教育カリキュラムに準じて教育がなされており、その意味では地方から東京大学を超える学校は出現しないことになる。ミニ東京大学のさらにミニ、ミニ、ミニ学校が地方に作れるだけである。また校長はじめ教職員も転勤を繰り返し、非常に薄められた教育理念しか学校に定着しない。これらが官立学校の卒業生の質を決定したのであろうと推測される。

 このことは現在にも当てはまり、私立の開成、麻布中学高校の人物一覧(http://ja.wikipedia.org/wiki/開成中学校・高等学校人物一覧、http://ja.wikipedia.org/wiki/麻布中学校・高等学校人物一覧)と弘前高校、青森高校(http://ja.wikipedia.org/wiki/青森県立弘前高等学校の人物一覧、http://ja.wikipedia.org/wiki/青森県立青森高等学校)を比較するとその差に愕然とする。とくに戦後の卒業生ではより顕著である。先に挙げた東奥義塾の例のように津軽に優秀な人材が少ないということではない。将来を見据えた教育機関、教育者の問題であり、単に東京大学入学者数が何人であるといった表面的な成績ではない。

 教育とはその結果が出るのが数十年先のものである。校長、教員が数年おきに変わるような現在の公立学校の現状では、個々の先生の資質により生徒の将来に影響を及ぼすことはあっても、学校として優秀な人材を育てることはほぼ不可能ではないかと思われる。実現は難しいと思われるが、優秀な校長のリーダシップがとれるような体制と、教師の短期の転勤はさせないような構造転換が必要かもしれない。今のところ、優秀な中高一貫の私立には、受験においても、人材育成においても公立高校は勝てないのではないかと思われる。

 山田兄弟にしても、珍田捨巳、笹森儀助にしても、いわゆる一高、東大を出たエリートではない。エリート体制の出来ていない明治の時代であったからという声もあろうが、青少年期に先輩、教師から植え付けられた強い使命感、熱情こそ、人物を育てる要と思われる。本シンポジウムでは「教育」、「人材育成」、「人脈づくり」を弘前の地域活性化、街作りの重要なヒントとして挙げたが、かっての東奥義塾、これは笹森順造の後期の義塾にも当てはまるが、べらぼうな高給で日本中から優秀な教師を集め、明確な教育方針で世界に羽ばたく人物養成を目的とした。高い教育理念を掲げる指導者と教育機関が必要であり、文科省の教育方針とは違った地域独自の公立高校のあり方を探る、あるいは現義塾高校の再度の復活を期待したい。

今回のシンポジウムでは、笹森家から弘前市に笹森儀助の書簡はじめ貴重な資料の寄贈があった。弘前の文化人の多くが、どちらというと文学畑のひとが多く、小説家は取り上げられても笹森儀助、陸羯南、山田兄弟、珍田捨巳、一戸兵衛などそれ以外の人物は取り上げられなかった(こういうこともありこのブログではいわゆる文学関係の偉人はあまり取り上げていない)。郷土文学館という立派な施設もあるが、私に言わせばいまさら石坂洋次郎はないだろうという気もある。名称変更と展示内容の見直しを期待したいし、笹森の資料も常設の展示を希望する。かって笹森の服が青森商業高校の倉庫に忘れられ、しまわれたままになっていた愚は絶対にさけたい。

2008年11月3日月曜日

奈良美智




 「ふるさとは遠きにありて思うもの」。離れて初めてふるさとのありがたみがわかる。雑誌ブルータスの最新号で、愛する地方都市という特集の冒頭で弘前が取り上げられ、現代アートの奈良美智さんのインタビューが載っていた。

 「以前は、郷土愛やお国自慢が嫌いだった。だけど、それはきっと自分と故郷が近すぎたというか、客観的に見ることができなかったからだと思うんだよね。今は郷土愛やお国自慢をする気持ちも理解できるようになった」、「太宰の津軽って小説に弘前のことが津軽人の魂の拠りどころであるなって書かれているのを読むと、結構じいんときたりするようになりました」、「正岡子規を育てた陸羯南や、明治期の探検家の笹森儀助とか、そういう人たちが隣町にいたっていう歴史を聞くのが、最近すごく面白くてね。弘前に住んでいた子供の頃は全然興味を持てなかったのに」

 私の場合は、よそから来て、逆に改めてこの地の偉大さがわかり、地元民の無関心さにやきもきしているところだが、案外多くの津軽の人たちは奈良さんと同じような感覚なのかもしれない。外から眺めてみて初めてわかることは多く、幕末の先人たちも日本各地を訪ね歩き、藩という枠組み外から見ることで初めて日本という国家、明治維新の必然性を学習したのであろう。これだけ人の移動が容易になった今の時代でも、弘前では100年以上同じところに住んでいる家も結構ある。昨今の不況により、地元への就職先がないため、しかたなく都市部へ就職するが、やっぱり地元が一番、東京は怖いと感想をもらす若者も多い。こういった若者たちは、いったん外から弘前を眺める貴重な経験を積んでおり、新たな町おこしの旗手になっていくに違いない。

 今日の東奥日報でもドイツで活躍する弘前出身のコンテンポラリージュエリーアーティストの鎌田治朗さんのことが紹介されていたが、奈良さんの影響か、今弘前でもアートに対する関心が高い。あちこちで小さな作品展が行われ、新しい作家も登場している。作家、音楽家、画家といったアーティストの系譜は連綿と続いており、津軽の風土はこういった芸術家を育てるにはいい所かもしれない。ただこれもしょうがないことかもしれないが、地元では評価されず、また活躍の場もない。いやむしろ、地元に執着する必要もなく、どんどん東京や海外に機会を求めて進出してほしい。

 奈良さんのようなアーティストや作家などは近年でも地元からたまに現れているが、一方珍田捨巳、笹森儀助、山田兄弟のような人物は戦後出現していない。現在では、いわゆる偉人と呼ばれるジャンルの人物自体が消滅しており、かすかに残るとすれば、アフガニスタン復興に命をかけるペジャワール会の中村哲さんや元国連難民高等弁務官緒方貞子さんのような人道支援の人物が該当するかもしれない。このようなジャンルの人物を地元から輩出するには、風土としては適しているが、武士道、キリスト教に代表される精神的なバックボーン、教育が欠如している。かっての藩校稽古館や東奥義塾のような教育機関あるいは菊池九郎や陸羯南のような教育者が必要なのかもしれない。

 ロータリ財団奨学生という制度がある、これは国際ロータリー財団が奨学金を出し、地域の優秀な若者が海外に留学し、研究することを支援するシステムで、弘前からも実に優秀な人物が出ている。先にでた緒方貞子さんもこの奨学生である。この制度のいいところはお金だけでなく、海外の有名大学も財団奨学生なら受け入れるという了解があること、留学先のロータリークラブが奨学生を世話をする点である。昔に比べて、今はお金の問題よりは希望の研究、仕事をする機会が与えられない点が大きく、夢を実現するためには何らかの架け橋をする人物、機関が必要である。県外あるいは海外にいる弘前出身者も多くの縁故を持っているはずでそれを使い、とくに海外への留学、仕事を希望する地元の若者が夢を実現するような何らかの機関、システムがあればと思う。奈良さんもドイツに留学する際には結構苦労したのではないかと推察する。

2008年11月1日土曜日

石油の支配者




 新書は、内容の薄いものと濃いものにはっきり分かれるが、今回紹介する浜田和幸著「石油の支配者」(文春新書)は後者に属する。少し前、ガソリン価格が急に高くなったことは記憶に新しく、日本中に大きな混乱を招いた。供給先の中東に戦乱が起こり、供給が減った訳でもなのに、いきなり価格が高騰した。なぜという疑問から、本屋で何気なく買ったものだが、この疑問に親切に答えるばかりでなく、さまざまな私のとって新たな知見を与えてくれ、実に内容の濃い本であった。

 内容については本書を読んでもらえばわかるが、結論からすれば、ガソリン高騰の犯人は投機マネーとドル安ということである。1バレルの原価は、おおむね10ドル以下、アフリカの場合は、50セント以下であり、産油国はこの価格以上売れば、利益がでる。現在、世界中の投機マネーの総額は、一京7000兆円という信じられない額にのぼり、これは世界中のGDPの400倍という数値になる。この途方もない金が利益の上がるところに動いていく。そのごくごく一部の金が、長期保有を意図した原油先物市場に流れ込んだ。インデックス・スペキュレータと呼ばれる投機筋が使う当てもなく買った原油は、2008年5月の時点で11億バレルという。同じような手法で彼らはトウモロコシや小麦も買い占め、すでにアメリカの需要の2年分の小麦を買い占めている。ただこの買い占めは、投機マネーからすれば、25の主要商品を扱う先物市場全体で1800億ドルに過ぎず、全体の投機マネーのごくごく一部でしかない。膨大な金が世界中を駆け巡り、あまりの巨大さのため、ちょっと方向が変わるだけで、世界中が大混乱する時代になったといえよう。

 もうひとつの原因として、アメリカドルの下落が挙げられる。原油の取引についてはドル建が原則である(ペトロダラー)ため、ドルの相対的価値が下がれば、それだけ原油が高くなる。アメリカはすでに物を作って売る国ではなく、金を売る国になっているため、常に金が入らなけらば回らない国になっている。莫大な財政赤字の上、今のような金融崩壊になるとドル暴落の可能性も高い。その萌芽としてドル下落が原油価格の高騰に影響したとも言えよう。

 本書で最も興味深かった点は、石油は化石燃料で有限であるという説(ピークオイル説)に対して、石油は地球内部から染みでる汗のようなものであり(原油自然発生説)、原油は無限にあるという「原油無限説」が紹介されているところである。これは全く知らなかった。もしこれが本当なら、すべてのエネルギ政策が無意味なものなる。全く荒唐無稽な説のように思えるが、ロシアでは旧ソ連時代からまじめに研究されており、近年になり超深度掘削技術が開発された。ロシアの枯渇したと言われる61の油田のうち37の油田で再び生産が開始され、今やロシアは産油国となった事実を見ると、あながちうそとは思われない。実際にメキシコ湾の海底油田でも完全に枯渇したと思われる油田を再開発したところ、最盛期の日量に達し、埋蔵量も6000万バレルから2億バレルに拡大されたという事例もある(ユウジン・アイランド油田)。

 そういった観点からみると我が国でも、写真のような資源探査船が登場してきている(写真は資源探査船しげんとちきゅう)。「ちきゅう」にいたっては排水量は59.500トンもあり、最初聞いたときは桁が間違っていると思ったほどだ。何しろ旧海軍の大和よりは少し小さいくらいの重さで、たかが海洋研究のためによくもこんな船を知らぬ間に作ったなあと思ったが、海洋国家日本のエネルギー政策からすれば重要な切り札となろう。高校地図で確認すればわかるが、日本は土地こそ狭いが、東西南北の国境(島)を結ぶと、世界で6番目の管轄水域をもつ国である。やりようによっては海洋資源の活用がまだまだできそうであり、あまる語られないがひとつの国策となっているのであろう。

 他にも携帯電話一台につき、0.03gの金が含まれており、うまくリサイクルすると日本都市鉱山から発掘される金の量は6800トンで南アフリカより多いといった記述も含めて、大変充実した内容の本である。世界金融危機の理解にも参考になる。