2008年11月9日日曜日

笹森儀助 5



 昨日、弘前文化センターにて「笹森儀助書簡集」発刊記念シンポジウム 津軽・偉人を生む風土 と題される講演会があった。当日、第15回ロータアクト地区年次大会(若者たちによるロータリー活動)が同じ会場で行われていたが、ちょっとさぼってこの講演会に参加した。年次大会にも出席しなくていけないため、途中退席したが、なかなか有意義な講演会であった。参加者が少ないのではと危惧したが、ほぼ満席の状態で、こういった分野に興味があるひとが意外に多いと感じた。

 理科系の私には、多少難解な講演内容であった。まず青山学院大学の小林和幸教授による「国家と国民〜笹森書簡集から見えるもの」の基調講演後に、稲葉克夫氏(郷土研究家)、河西英通教授(広島大学)、北原かな子(秋田看護福祉大学)によるシンポジウムが行われた。明治期における民権派、国家主義などの政治的な運動における当時の笹森の立場、観察者としての役割が明確にされ、中央から切り捨てられる地域、人々を観察して報告し、その地域を助けることがひいては国の利益になるという考えが提示された。河西教授から民族学者の宮本常一は笹森儀助を尊敬していたとの話があったが、宮本の名著「忘れられた日本人」、このタイトルこそ、笹森の行動の原動力であったろう。笹森自身の郷里、津軽もまさしく「忘れられた日本」であったからこそ、よけいに北海道、沖縄、韓国の現状がより人ごとでなく、実感できたのであろう。

 北原教授から、弘前の東奥義塾の明治初期の学問レベルについての話があった。義塾に現在ある数多くの洋書から、当時の学問レベルは相当高いとは推測されるが、実際にこれらの洋書を当時の学生が読みこなしていて、本当の実力があったのかという疑問が投げかけられた。義塾から最初にアメリカのデポー大学に留学した珍田捨巳、佐藤愛麿など留学生は、正式の入学試験合格し、アメリカ人の中に混じり、ほとんどすべての学生が最優秀の成績を残したことから、すでに義塾にいた当時から十分に洋書を読みこなす実力があったと結論し、明治8年,11年ころの状況を考えると、これに匹敵する学校は日本でも東京大学ぐらいしかなかったと語っている。東京大学は日本中の秀才が集まるところだが、それと同じかそれ以上の高い質の教育がこの辺境の地で行われていたことは奇跡としか言いようがない。さらに人口比でみてもそれだけ優秀な人材がこの地にいたのであろうし、今でもいると信じる。菊池九郎の教育者としての偉大さがわかる。

 東奥義塾は、その後菊池の尽力もむなしく一時廃校になる。それとともに優秀な人材は弘前中学、青森中学などに行くようになる。弘前、青森中学およびその後継の弘前高校、青森高校からも確かに著名な人物を輩出しているが、明治期の東奥義塾のような人物は現れていない。この原因としては、義塾のような私立学校はトップの方向性、明治期の東奥義塾について言えば、菊池九郎と本多庸一の強い個性がそのまま学校運営、教育に生かされていたことが挙げられる。官立の学校はすべて東京大学を頂点とする中央の教育カリキュラムに準じて教育がなされており、その意味では地方から東京大学を超える学校は出現しないことになる。ミニ東京大学のさらにミニ、ミニ、ミニ学校が地方に作れるだけである。また校長はじめ教職員も転勤を繰り返し、非常に薄められた教育理念しか学校に定着しない。これらが官立学校の卒業生の質を決定したのであろうと推測される。

 このことは現在にも当てはまり、私立の開成、麻布中学高校の人物一覧(http://ja.wikipedia.org/wiki/開成中学校・高等学校人物一覧、http://ja.wikipedia.org/wiki/麻布中学校・高等学校人物一覧)と弘前高校、青森高校(http://ja.wikipedia.org/wiki/青森県立弘前高等学校の人物一覧、http://ja.wikipedia.org/wiki/青森県立青森高等学校)を比較するとその差に愕然とする。とくに戦後の卒業生ではより顕著である。先に挙げた東奥義塾の例のように津軽に優秀な人材が少ないということではない。将来を見据えた教育機関、教育者の問題であり、単に東京大学入学者数が何人であるといった表面的な成績ではない。

 教育とはその結果が出るのが数十年先のものである。校長、教員が数年おきに変わるような現在の公立学校の現状では、個々の先生の資質により生徒の将来に影響を及ぼすことはあっても、学校として優秀な人材を育てることはほぼ不可能ではないかと思われる。実現は難しいと思われるが、優秀な校長のリーダシップがとれるような体制と、教師の短期の転勤はさせないような構造転換が必要かもしれない。今のところ、優秀な中高一貫の私立には、受験においても、人材育成においても公立高校は勝てないのではないかと思われる。

 山田兄弟にしても、珍田捨巳、笹森儀助にしても、いわゆる一高、東大を出たエリートではない。エリート体制の出来ていない明治の時代であったからという声もあろうが、青少年期に先輩、教師から植え付けられた強い使命感、熱情こそ、人物を育てる要と思われる。本シンポジウムでは「教育」、「人材育成」、「人脈づくり」を弘前の地域活性化、街作りの重要なヒントとして挙げたが、かっての東奥義塾、これは笹森順造の後期の義塾にも当てはまるが、べらぼうな高給で日本中から優秀な教師を集め、明確な教育方針で世界に羽ばたく人物養成を目的とした。高い教育理念を掲げる指導者と教育機関が必要であり、文科省の教育方針とは違った地域独自の公立高校のあり方を探る、あるいは現義塾高校の再度の復活を期待したい。

今回のシンポジウムでは、笹森家から弘前市に笹森儀助の書簡はじめ貴重な資料の寄贈があった。弘前の文化人の多くが、どちらというと文学畑のひとが多く、小説家は取り上げられても笹森儀助、陸羯南、山田兄弟、珍田捨巳、一戸兵衛などそれ以外の人物は取り上げられなかった(こういうこともありこのブログではいわゆる文学関係の偉人はあまり取り上げていない)。郷土文学館という立派な施設もあるが、私に言わせばいまさら石坂洋次郎はないだろうという気もある。名称変更と展示内容の見直しを期待したいし、笹森の資料も常設の展示を希望する。かって笹森の服が青森商業高校の倉庫に忘れられ、しまわれたままになっていた愚は絶対にさけたい。

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