2010年9月22日水曜日

岩川友太郎


 船水清著「岩川友太郎伝」の中に、岩川が子供のころに体験した2つのエピソードが書かれている。一つは江戸末期に行われた仇討ちの話、もう一つは養母殺しによる獄門打ち首の話である。ここでは打ち首事件について、同書から引用する。

 岩川友太郎が9、10歳、元治元年か慶応元年頃の話である。柳町に蝦名某の二男という下級武士が住んでいた。色の黒く、丸顔で愛嬌のある男で、友太郎とも面識があった。この蝦名家と同族のものが新寺町の白狐寺の門前に住んでおり、この家の主人は早くに亡くなり、未亡人と17歳の娘が暮らしていた。そこで娘に蝦名の二男を婿にすることが決めてあったが、娘がまだ年が若いので結婚はあと3年待つことにしていた(注:娘の年齢はもっと下であろう)。しかし婿として籍を入れてあったから、この男はいつも同家に出入りしていた。ところがこの婿を未亡人とは娘の祝言より一足先にわりない仲になってしまった。

 しかも、この上、この女は多情でひそかに新寺町某寺の住職とも関係していた。そしてこの住職が青森のある寺へかわることになると、住職の後を追って家を出る決心をした。このことを人から伝え聞いた婿は大いに憤慨し、殺意を抱いた。二人が弘前を離れると、その後をつけていた婿は和徳の町外れ、約半里ばかりのところで呼びとめ、近くの茶店でなじったが、しまいにかっとなってこの女を殺してしまった。養母とはいえ、親殺しのため罪一等重く、市中引き回しの上、斬罪獄門に処することになった。

 蝦名は単衣の黒紋付を着、びっこの馬に乗せられていた。背中には罪状を認めた木札を背負わされている。引き回しは朝早くから行われていたが、市中を回り歩くので時間がかかり、取上刑場についたのは正午すぎだった。刑場の周囲には青竹の矢来がめぐらされ、刑場内の正面に石地蔵を安置してある。獄門台はこの地蔵の反対側の左右に設けられている(注:当日の処刑は二人)。腰縄を引かれて刑場に入った蝦名は、地蔵の前に座し、ふところから一冊の経文を出して、これを読んで、読みおわると地蔵の右側に設けてある芦火に手をかざし、焼きスルメで冷酒を一杯飲んだ。これが刑場にしきたりだった。(すぐに赤面し、友太郎は蝦名が酒に弱いことを思い出す)。

 獄卒が荒むしろの上に罪人を座らせ、目隠しをさせ、両手を後ろに縛り、それを背後の棒の先に結んだ。この棒を前方に押し出すと、罪人の首筋が前方に伸びる。首切り役人が一人進み出て、縄たすきをかけ、長刀を引き抜いて二、三べん打ち振った。するとそばの一人が柄杓で刀にさっと水をかける。首切り役人が刀を高く振り上げた。パット打ち降ろした瞬間、首は四、五間も隔った獄門台の方に三間ばかり転んでいった。この斬首の刑が終わると、群衆は竹矢来を破り、獄門台へ向かってどっとばかり突進した。

 「人に押されて至り見しに、かの転がりたる首を二人の獄吏にて携え来たる五寸釘に上に突き刺したるところ生首の顔の筋肉を伸縮する拍子にみずから釘の上を回転し、思わず与は顔をそむけたり」としている。

 後日、成人してから記載したものだが、とても9、10歳の観察眼とは思えないほど、細かく記憶している。後年の生物学者の素質を感じさせ、当時の弘前藩の処刑をリアルに伝えてくれている。

 岩川友太郎(安政元年—昭和8年 1854- 1933)は、弘前市本町5丁目に、父岩川豊吉、母いちの長男として生まれた。父は貧しい表具師であったが、祖父は津軽藩校に務める学殖豊かな国文学者であった。生活が苦しかったので、口減らしのため、寺に小僧に出されたが、将来を考え、叔父の岩川藤兵衛をたより、15歳のころに藩の海軍局に入り、機関学を学んだ。その後藩校で英語を学び、新たにできた東奥義塾の英語の教師となった。ここで宣教師として弘前に赴任したウォルフにネーティブの英語を学び、さらに語学力を延ばすため東京外語学校に進学した。その後、開成学校、東京大学に進学するが、ここで恩師のモースと出会った。モースは日本に初めて生物学を紹介した人物で、友太郎は東京大学で最初に動物学を専攻した4人の一人であった。とりわけ英語が堪能なため、モース、後任のホイットマンにかわいがられ、生物学、とりわけ貝類学の研究にはげんだ。28歳に東京大学を卒業し、東京高等師範学校、女子高等師範学校の教授として日本の貝類研究の基礎を作った。子供のころ苦労が多かったせいか、心暖かいひとで、みんなに親しまれた。

 前回のブログで、松前徳広の墓と水野正名の墓のことを書いた。その後、長勝寺の墓地を訪れ、探したが、それらしき墓は見つからなかった。すでに改葬され、処分されたのであろうか。

2010年9月11日土曜日

観音山普門院





 弘前に来て、はや16年になります。近場のところは大抵行ったと思っていましたが、思わぬところにまだまだ面白いところがあります。

 今回紹介するのは、観音山普門院です。津軽観音巡礼33霊所の最後のところになります。禅林街には年に何度も行きますが、案外禅林街の裏にある普門院を訪れる方は少ないようです。というのは禅林街からの道順がわかりにくく、禅林街の向こう茂森新町の道から入らなければいけないからです。よほどのことでないとこの道を通ることはありません。

 茂森新町の入口からは、杉の林に囲まれた石段が岡の頂上まで続き、こんな緑の濃いところが市内にあるのに驚かされます。石段を登って行くと、本堂が現れてきます。また工藤他山のりっぱな墓もあります。一番面白いのは、本堂を取り囲むように小道があり、そこに小さい観音様がたくさん立っています。おそらく、この小道を廻り、そこの観音様にお祈りすることで33観音巡礼と同じ功徳があるのかもしれません。江戸時代では、西国33箇所観音巡礼や四国88箇所巡礼はそれこそ、夢のような話で、庶民はこういったミニチュア版の霊場で満足するしかなかったのでしょう。今では、祈願するひとも少ないようですが、往時は結構信仰深い人々に愛された小道だったでしょう。

 訪れた時は、院内には誰もおらず、周りが古い杉林で、あたかも山奥に入ったような感覚に陥ります。裏の細い道を降りて行くと、わずか5分ほどで蘭庭院の墓所に着きます。見上げると森が見えるだけで、蘭庭院のすぐ上にこれほどの静かな場所があるとは思わないでしょう。

 工藤他山は、幕末から明治にかけての儒学者で、「思斉堂」という私塾を開き、陸羯南はじめ多くの人材を育てた人物です。生まれは現在の西茂森、昔は古堀町、その前は片堀町と呼ばれたところです。明治2年弘前地図で見ると、古川英矢という家が生誕地と推測されますが、確証がありません。もう少し調べたいと思います。また地図では普門院内に工藤主膳墓があります。工藤主膳とは工藤他山のことで、他山は明治22年に亡くなっていて、今ある墓は死後に建てられたものです。明治2年のこの工藤主膳墓は何なのでしょうか。これも宿題です。生前墓でしょうか。

 また長勝寺の境内には松前志摩守墓がありますが、これは明治元年の函館戦争中に亡くなった松前藩13代藩主松前徳広の墓のようです。どうして松前藩主の墓がここにあるのかは、調べてみてください。おもしろい話があります。また水野監物墓というのもあります。ずっと調べていてようやくわかりました。これは明治5年に弘前刑務所で獄死した水野正名のことです。水野正名は九州久留米藩の重臣で、維新後藩政を主導するも、久留米藩難により失脚し、弘前で病死します。遺骸は長勝寺で弔い、遺髪を故郷の正源寺に持ち帰ったようです。九州久留米と弘前がこんな形でつながっているのはあまり知られていないと思います。水野の墓が今どうなっているか、心配ですので、一度長勝寺に行ってこようと思います。(http://snkcda.cool.ne.jp/sekihi/mizuno/mizuno.htm)。

 禅林街に行かれる際は一度、蘭庭院から奥の墓所に入ってもらい、そこから道を上がって普門院に行くといいでしょう。まだ行ったことのないひとは一度訪れてみてください。

2010年9月5日日曜日

山田兄弟29





 櫛引武四郎については、何度かこのブログでも触れたが、文献がほとんどなく、詳細はわかっていない。

 珍田捨己が昭和3年に書いた「櫛引錯斎先生」という文の中に次のような記述がある。

「先生には五男一女があった。長は英八(櫛引英八)、次は工藤(工藤行幹)の姓を昌し、次は女子、三男、五男は夭折し、四男(櫛引晴四郎)は桑村家に養われた。両兄(櫛引、工藤兄弟)は常に国事に莽走していたので、其家事向から子供の教育は大半弟の手に委せられ、弟は之れを吾が子の如く撫育し、而も先生伝統の硬教育で、或者は往復六里の道を通学せしめたり、或者は虚弱のため牛乳配達をさせられたりしたが、両兄はそれについては更に言を挿まなかった。殊に英八君の第四子武四郎は非常に頑固な性質であったので、或時之を麻縄で縛して、井戸の水の中に水とすれすれに1時間も釣り下げられた事もあった。而かも斯子は往年朝鮮の或る事件に連座し外務省では今も尚之を行方不明としている。」(伯爵珍田捨己伝 菊池武徳編 昭和13年)

 櫛引武四郎は大正2年(1913)の中国の第二革命で亡くなっているが、珍田は朝鮮の或る事件に連座し、昭和3年になっても、行方不明としている。珍田は昭和4年に亡くなるから、最晩年の記憶であろう。当時、珍田は侍従長をしており、外務省には直接関わっていないが、外務省の重鎮として、情報は十分に入っていたであろうし、工藤行幹、櫛引英八などの故郷の旧知から、武四郎の安否についての問い合わせもあったであろう。第二革命で亡くなったのを知っていながら、袁世凱を推した外務省、友人牧野伸顕に憚っての発言であったのだろうか、あるいはただの記憶違いか。

 Googleブックスで「櫛引武四郎」で検索すると、台湾で最近出版された張家鳳著「中山先生輿國際人士」(2010.7)が見つかった。中国語は不明だが、次のようなことが書かれているようだ?

「上海東亜同文書院ができた当時の院長は佐藤正、委員には佐々木四方志、山田良政らがいた。教務長は山口正一郎で、学生には山田純三郎、安永東之助、柴田麟次郎、大原信、櫛引武四郎ら19名がいた。佐藤正院長は着任後すぐに辞職し、同年陸軍少佐根津一が代理となった。」山田は明治9年生まれ、櫛引は明治8年生まれで、朝陽小学校、東奥義塾は同級ではなかったが、南京東亜同文書院の一回生では同級生であったことが確認される。

「今泉三八郎・佐賀県人・海軍兵学校退学生・常に沈黙寡言の風格をもつ青年で、中国二次革命初期に上海に来て革命軍に参加した。志村光治らと上海機器局上流に停泊している中国軍艦を爆破しようと計画した。 略  南京陥落した日、混乱した軍の中には志村以外にも、櫛引某(武四郎)、建部某ら、その他の者がいて、朝陽門のところで敵の襲撃にあった。その後、二人の敵を倒し、雨花臺にあった何海鳴司令部に逃げた。二次革命も南京戦からは、戦いが激しくなり、混乱して状況もはっきりしなくなる。指揮官の何海鳴に不満をもつ志村、今泉以外の、櫛引、福田ら多くの日本人が純真な気持ちから革命に参加し、軍事的な援助を行った。南京革命軍には10余名が参加していたが、彼らは状況が次第に危機的になっていることを知らなかった。言葉もわからないため、一時領事館に避難しようとしたが、途中多くものが官兵により殺害された。その中に今泉以外の櫛引、建部、秋葉らの3名がいた。」殺された死体の背広の裏には、「タ」の印があったことから、亡くなったのは建部とわかった。この建部は建部子爵(林田藩)の甥であったことから、家族が南京領事館に訴え、外務省でも困惑したようである。九州佐賀出身の林 傳作もこの戦いで肺に弾を受け、病院で亡くなった。かなりの数の血気にはやる元日本人軍人が、第二革命に参加しているようだ。文中の志村光治については、「同文書院記念報Vol4」の孫文、山田良政、純三郎関係資料の中に、山田順造宛の1962.10の手紙があり、住所は神奈川県横須賀市となっている。戦後、志村氏が当時の手記を残しているなら当時の詳細がわかるかもしれない。また同誌の山田純三郎年譜には1915年の項に、「東亜先覚志士記伝」598-611頁に上海機器局砲撃、肇和、広瑞(應瑞の間違い)二艦奪取計画となっているが、上記計画と類似したものか。

 ちなみに櫛引錯斎(儀三郎)の家は、弘前市鷹匠町にあった。上の明治2年弘前地図では鷹匠小路となっており、現在の住所では鷹匠町44番地、藤田記念庭園の下あたりになる。なお鷹匠町には成田滝弥の名前が見えるが、青森県のリンゴ作りの功労者、菊池楯衞の生まれたところである(菊池家に養子にでる)。
 下の地図では、中瓦ケ町に工藤行幹の家が見られる。櫛引の家から養子に行った先であろう。左4軒先に菊池元衞の名が見える。津軽信政公事績の著者として検索される。さらに菊池元衞の家の前に一戸谷弥の名前が見られる。一戸兵衛陸軍大将の実家である。生まれたのは父の実家である田代町の船水邸であるが、育ったのはこの家であろう。

2010年9月2日木曜日

今東光



 今東光というと、映画「悪名」のイメージのせいか大阪出身の作家と思われている。実際は、父の仕事の関係上、生まれは横浜であるが、両親とも純粋の弘前人であり、りっぱな弘前出身者と考えても差し支えない。

 父武平は、弘前藩の下級武士、今文之助の4男として明治元年に弘前市山下町2番地で生まれた。当時の町割りは、現在でもそのまま残っており、店舗などが入る複合ビルになっている。敷地は200坪くらいであろうか、明治2年弘前地図では長男の今宗蔵の名前になっている。ちなみに宗蔵は東奥義塾の先生で、自由民権運動に参加した。

 武吉は、東奥義塾で学んだ後、函館商船学校を卒業し、日本郵船に勤務した。海外航路の船長を長く務めたが、ちょっと風変わりなひとで、「くるみ船長」と呼ばれた菜食主義者で、くるみをもっぱら主食にしたようである。また晩年には今はやりのオカルト、精神世界に通じるインドの神智学に凝り、クリシュナムルティの著書『阿羅漢道』を翻訳したりしている。

 母綾(あや)は、弘前藩医師伊東家久の4女として、弘前市元長町16で明治2年に生まれた。現在もその子孫が同じ所で医院を開業しており、また当時の家屋は仲町に保存されている。伊東の家の子供は、非常に優秀で、二男伊東重(1857-1926 春庵、号舜山)は、東奥義塾に進学し、明治9年の明治天皇のご巡幸の折には天皇の前で珍田捨巳らとともに英文暗唱を行った。明治8年に宣教師イングから最初に受洗した14名の義塾生の一人である。大学予備門を経て、東京大学医学部に進んだが、英語能力がずば抜けており、英語の授業はすべて免除され、その時間を利用して、理学部にいたモース教授の生物進化論などの講義を受けた。後に生家で開業し、養生理論を紹介したり、弘前市長などになった。弟の三男甚も優秀で、東奥義塾に入学したばかりの13歳の時に珍田や山鹿元二郎らとともに受洗した。当初は兄についで医学を志したが、途中から東京大学文学部に転じてドイツ文学を専攻して、卒業後は各地の官立高等学校で教えた。この兄弟は、伝道師の道を選ばなかったが、熱心なキリスト教徒であり、また「田舎新誌」(竹栖社発行 ヤブ医者のすみか)という漢文や和歌を載せた同人誌を出すような文化人でもあった。綾の父、伊東家久は同じ弘前藩典医の北畠家からの養子で、長男春益は22歳の若さで亡くなり、長女りょう(良)は斎藤連に嫁ぎ、次女ひでは体の弱かった母もとの代わりに家事を行い、二男重、三男基、三女ひさは今家に嫁ぎ、その長男邦器は新聞記者となった。四女あや(綾)が今武平と結婚して、東光、文武、日出海の三人の子供をもうける。

 こうした教育熱心な家庭に育った綾は、当時の女子としては最も高い教育を受けた。朝陽小学校卒業後(?)、函館の遺愛女子学校に進学した。遺愛女子学校は東北以北で最古の女学校で明治15年にメソジスト宣教師ハリスにより創立された。おそらく綾はその1回生あるいは2回生であったと思われる。小さな手こぎ舟で津軽海峡を渡り、外人宣教師から直接英語を習い、賛美歌を歌った。弘前からも多数の女子がここで教育を受けた。特に1、2回生の多くは弘前の出身者で占めた(明治19年に遺愛女学校の分校を弘前に開設、弘前遺愛女学校)。多くの場合、生徒は在学中に受洗したので綾もキリスト信徒であった可能性が高い。英語教育は徹底しており、綾も相当鍛えられたと思われる。遺愛女子を卒業後は、東京の明治女学校に進み、さらに高い教育を受けた。明治女学校の卒業生には、羽仁もと子、相馬黒光、野上弥生子などがおり、学校の雰囲気はわかる。こういった教育を受けた綾は、いわゆる当時の先進的なインテリ女性だったようだ。今でいうと今東光のお母さんは、ハーバート大学卒業で、英語がぺらぺらといった感じであろうか。さらにメソジスト派の信徒であり、この宗派は規則正しい生活を規範にしていたため、禁酒、禁煙、公娼廃止など、きびしい生活態度を律した。初代弘前市長の菊地九郎も信徒であった母幾久子、妻久満子の双方から、こういった生活態度を求められたので、さすがに閉口したようで、男にとっては酒、たばこ、女、当然ギャンブルなどもっての他のきびしい節制を強いられた。

 今東光も、こういった母親のもと育てられた訳だが、父の仕事の関係で、横浜、小樽、函館、大阪、神戸、東京と転々とする。神戸では関西学院中学部に入るが、おそらく母親がメソジスト派であったため、同じ宗派の学校ということで関西学院を選んだのであろう。ただ思春期を迎えるにつれ、こういった母親に反抗するようになり、結局関西学院も退学、その後兵庫県立豊岡中学校に転校するも、ここでも再び問題をおこし、退学処分となり、以後正規教育を受けることはなかった。弟の日出海は、対照的に神戸一中、暁星中学校、浦和高校、東京大学仏文に進んだ。

 親がえらくて、教育熱心であると、子供はプレッシャーによるのか、それともその反発によるのか、グレることがある。今家とは親類筋にあたる(珍田捨巳の祖父有敬には男子がなかったため、野呂家から有孚を養子にしている。有敬の娘が今家に嫁いだようだが、確認はとれない)珍田捨巳の家の場合も、長男千束は一高を卒業するも、何度も東大受験に失敗し、気を腐らせて、水商売の女と遊ぶようになった。期待された二男は海軍に行くが、軍艦爆発事故で21歳の若さで亡くなる。千束はあまり欲のないひとか、後に家督を継いで伯爵になったが、すぐに弟の秀穂に家督を譲っている。作家タイプにひとで、鎌倉の文人とは親しく、今東光、日出夫、小林秀雄らと仲がよく、よく酒を飲んだようだ。

 父親が船長であったため、長い航海の間、子供のしつけ、教育はすべて母親の綾が受け持った。この母の存在が、よきにつけ、悪きにつけ、今東光の人生に決定的な影響を与えたと思われる。

 写真上は、明治2年当時の伊東家の所在地。伊東春庵は重のこと、隣の伊藤廣ノ進は伊東梅軒のこと。今は養生幼稚園となっている。写真下は、今東光、父武平の生家があった弘前市山下町の今の風景。地図は前のブログで示した。区割りは当時と同じ。

 今東光 関西学院と東光の生涯(矢野隆司著 関西学院史紀要2005)を参考にした。