2010年9月11日土曜日

観音山普門院





 弘前に来て、はや16年になります。近場のところは大抵行ったと思っていましたが、思わぬところにまだまだ面白いところがあります。

 今回紹介するのは、観音山普門院です。津軽観音巡礼33霊所の最後のところになります。禅林街には年に何度も行きますが、案外禅林街の裏にある普門院を訪れる方は少ないようです。というのは禅林街からの道順がわかりにくく、禅林街の向こう茂森新町の道から入らなければいけないからです。よほどのことでないとこの道を通ることはありません。

 茂森新町の入口からは、杉の林に囲まれた石段が岡の頂上まで続き、こんな緑の濃いところが市内にあるのに驚かされます。石段を登って行くと、本堂が現れてきます。また工藤他山のりっぱな墓もあります。一番面白いのは、本堂を取り囲むように小道があり、そこに小さい観音様がたくさん立っています。おそらく、この小道を廻り、そこの観音様にお祈りすることで33観音巡礼と同じ功徳があるのかもしれません。江戸時代では、西国33箇所観音巡礼や四国88箇所巡礼はそれこそ、夢のような話で、庶民はこういったミニチュア版の霊場で満足するしかなかったのでしょう。今では、祈願するひとも少ないようですが、往時は結構信仰深い人々に愛された小道だったでしょう。

 訪れた時は、院内には誰もおらず、周りが古い杉林で、あたかも山奥に入ったような感覚に陥ります。裏の細い道を降りて行くと、わずか5分ほどで蘭庭院の墓所に着きます。見上げると森が見えるだけで、蘭庭院のすぐ上にこれほどの静かな場所があるとは思わないでしょう。

 工藤他山は、幕末から明治にかけての儒学者で、「思斉堂」という私塾を開き、陸羯南はじめ多くの人材を育てた人物です。生まれは現在の西茂森、昔は古堀町、その前は片堀町と呼ばれたところです。明治2年弘前地図で見ると、古川英矢という家が生誕地と推測されますが、確証がありません。もう少し調べたいと思います。また地図では普門院内に工藤主膳墓があります。工藤主膳とは工藤他山のことで、他山は明治22年に亡くなっていて、今ある墓は死後に建てられたものです。明治2年のこの工藤主膳墓は何なのでしょうか。これも宿題です。生前墓でしょうか。

 また長勝寺の境内には松前志摩守墓がありますが、これは明治元年の函館戦争中に亡くなった松前藩13代藩主松前徳広の墓のようです。どうして松前藩主の墓がここにあるのかは、調べてみてください。おもしろい話があります。また水野監物墓というのもあります。ずっと調べていてようやくわかりました。これは明治5年に弘前刑務所で獄死した水野正名のことです。水野正名は九州久留米藩の重臣で、維新後藩政を主導するも、久留米藩難により失脚し、弘前で病死します。遺骸は長勝寺で弔い、遺髪を故郷の正源寺に持ち帰ったようです。九州久留米と弘前がこんな形でつながっているのはあまり知られていないと思います。水野の墓が今どうなっているか、心配ですので、一度長勝寺に行ってこようと思います。(http://snkcda.cool.ne.jp/sekihi/mizuno/mizuno.htm)。

 禅林街に行かれる際は一度、蘭庭院から奥の墓所に入ってもらい、そこから道を上がって普門院に行くといいでしょう。まだ行ったことのないひとは一度訪れてみてください。

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