2010年12月30日木曜日

若党町の士族の変遷




 明治2年地図と4年地図(士族引越之際図)は、内容は基本的にはほぼ同じであるが、若干記載事項は違い、2年地図に比べて4年地図では弘前城内施設や本丸御殿についての省略が多く、当然であるが鉄砲射撃場や米配給所など明治2、3年になくなった施設も記載されていない。一方、4年地図には2年地図にはなかった郵便局、魚市場や銭湯、町家についての記載があり、維新後の新たな施設が追加されている。4年地図が作られた、そもそもの理由は、おそらく廃藩置県後の士族の転居状態を正確に把握するためのものと思われ、「士族引越之際図」とされている通り、帰田法で郊外に転住し、引越した家については△印をつけて示している。そのため△印の数を数えることで明治2年から4年に引越した士族数を、文面ではなく、地図上で確認することができる。ただ印刷が不鮮明で、△印がついているか判別できないこともあるため、数値には幾分間違いがあるかもしれないがご了承いただきたい。

 弘前城北の若党町の一画を見てみる。この一画には明治2年当時、26軒の名が見えるが、明治4年地図ではすでに古川源左衛門の名前がなく、違う名前になっている。さらに26軒中、△印のない家は小田桐友平、横嶋彦八、工藤勝之丞、小館仙之助、梨田左源司、今井善作、今常左衛門、芹川得一の8人を数えるだけで、残りの17軒には△印、すなわち引っ越したことになる。26軒中、じつに18軒、69.2%がこの期間に引っ越した。若党町には禄高200から300石の中級武士が住んでいたが、明治維新により先祖代々の家屋敷を手放し、結局ここに戻ることはなかった。明治4年の帰田法、これは職をなくした士族に郊外の土地を与え、そこで自活させようとした政策だが、中級以上の士族に積極的に実施させた結果かもしれない。さらに65年たった昭和10年の「弘前市案内圖」(弘前市立図書館蔵)の若党町の同じところを見ると、住民は大幅に入れ替わり、明治4年にかろうじて留まった8軒のうち、昭和10年当時で存在するのは今井家と芹川家の2軒だけとなっており、空地も依然として多い。明治初期の士族の大量移住を何とかくぐり抜けても、その後の生活がきびしく、次々と故郷を離れたのであろう。

 ちなみに瓦ヶ町や、若党町の隣の春日町のような下級武士の住むところでは、これほど転居率は高くはない。中級以上武士では、中間や小者などの奉公人も多いため、明治維新による家禄の削減、停止は家の財政的な維持を不可能にしたであろうし、また藩での立場上、帰田法に従わざるを得なかった。帰田法自体、当初想定したほど地主からの土地提供がなく、実際の士族への田地支給に当たっては、家禄に応じての優先順位のようなものがあったかもしれない。

写真は上から明治2年、明治4年、昭和10年の地図の中から、若党町西側の一区画を示す。

2010年12月24日金曜日

佐藤弥六



 佐藤弥六(1842-1923)は、長男清明(農商務省馬政局長)、二男蜜蔵(大阪毎日新聞経済部長、「エコノミスト」)の父親というより三男洽六(ペンネーム紅緑、小説家、俳人)の父として有名で、佐藤ハチロウ、愛子の祖父となる。この人のエピソードは非常に面白く、明治期では弘前の文化的な先導者であったと同時に名物男でもあった。

 弥六は佐藤平兵衞と初代とする佐藤家の10代目に当たり、祖父新蔵は代官町に住み、表右筆や大間越町奉行などを務めた。幼児から秀才の誉れ高く、藩校の稽古館に学んだ後、選ばれて海軍術修行のため江戸に上った。弘前に帰ってからはオランダ語の本でナポレオン戦史を講義したが、これが弘前藩最初の西洋史の講義であった。その後、再び福沢諭吉の塾にて英学を学んだが、もっとも古い門下生のひとりとして福沢に愛され、慶応義塾の会計係などをしていた。しかし郷里の兄綱五郎の突然の死によって明治維新後に勉学の途中で帰郷し、兄の妻しなと結婚した。亡くなった兄の子、清明と操和を育てるため、士族の籍をおりて商人となり、親方町に唐物屋(和洋雑貨)を開いた。そのかたわら英学を教えたり、郷土史を執筆したりした。この頃のエピソードとして店先であれこれ商品を選ぶ客がいると「お前ばかり選ぶと、あとの客は困る。選ばずさっさと買ったらいいだろう」などと平気で客を叱りつけたという。頑固一徹で正義心の強い弥六は、生活に困る士族のために養蚕を導入したり、ぶとう、リンゴの栽培にも率先して実行した。明治22年には推されて青森県会議員に選ばれ、同時に恩師である福沢諭吉を通じてオランダ公使を打電されたが、老母の孝養のためにこれを断った。県会議員をやめた後は一切の公職に就くことなく、貧困のまま大正12年に亡くなった。

 佐藤紅緑は、弥六の二男として明治7年7月に弘前市親方町28番地で生まれた。一家はほどなく元大工町33番地に引っ越した。母しなは妹操美を生んで間もなく亡くなったので、紅緑は生みの母の愛情を受けることなく、主として面倒をみたのは、姉の操和と祖母であった。紅緑の子供のころのわんぱくぶりは、佐藤愛子著「血族」に描かれる佐藤ハチロウを上回るほどひどかった。

 ここで佐藤弥六の住所について考える。慶応義塾に行っていたのは義塾となる前、明治元年前のことと思われ、英学塾となった1863年から1867年の間くらいであろう。兄の死によって、維新後に弘前に帰郷したのであろう。佐藤紅緑の生まれた親方町28番地は弥六の開業した唐物屋の番地で同じであることから、この親方町の家は住居兼商店であった。その後、元大工町に移るが、その住所は32番地とも33番地とも言われ、はっきりしない。大正4年に発行された弥六の本の奥付の住所は茂森町33番地となっており、元大工町からこの頃には引っ越したようだ。
また祖父新蔵の家が代官町の土手町近く、代官町9番地あたりとされるので、家の所在地は先祖とあまり変わらないと推測し、明治2年地図で周囲を探したが、佐藤姓はあるが一致するものはいない。商人になって親方町に住んだとすると、明治2年地図は士族のみ記載されているため、わからない。

 それでも諦めず、さらに数日かけ、地図をくまなく調べたところ、何と上袋町に佐藤弥六の名が見える。少なくと、江戸から帰省し、親方町で商売をする前、明治2年10月には弥六は上袋町にいたことがわかる。

 明治2年というと東奥義塾の創立者の菊池九郎が藩主に従って上京し、慶応義塾に入塾する年である。当時の慶応義塾は英語を学ぼうとする希望者が多かったにも関わらず、菊池九郎を含むわずが3名のみが入塾を許された。おそらく佐藤弥六の働きがけもあったと思われるし、東奥義塾に開設においても慶應義塾から数名の先生が派遣されたが、弥六が陰で尽力した可能性もある。

 弥六のすごいところというか、へそ曲がりなところは、明治維新前は蘭学、英学という当時の最先端の知識を持ちながら、維新後は商店を始めたり、リンゴ栽培を行ったり、本は何冊か書いたが、藩史、地方史、あるいはリンゴの種類や仕立て法を書いた「林檎図解」など、それまで学んだものとは関係ない著作をした。その才能を地方に眠らせるのはおしいと福沢諭吉がオランダ公使という大きなポストを用意してくれても、固辞する。こういった天の邪鬼な性格は息子紅緑、孫のハチロウ、愛子にも連綿と繋がっているように思える。

 *地図では上袋町の真ん中当たりに佐藤弥六となっているのがわかるであろうか。また五十石町の右から4軒目に明石永吉の名があるが、日本商工会議所初代会頭藤田謙一の実家である。

2010年12月19日日曜日

ノルウェーの森


 ノルウェーの森、見てきました。最近は映画館に行くことも少なくなり、前回「崖の上のポニョ」をたった一人の観客として見て以来です(映画館には私以外誰ひとりもいませんでした)。

 目的は、我が母校、六甲学院がロケーションに使われたと聞いたからですが、わずか10秒くらい映像だけでした。がっかりです。村上春樹さんの作品は好きで、ほとんどの作品は読んでいますし、「ノルウェーの森」も好きで二度ほど読んでいます。村上さんの作品は映画化が難しく、本作品も作者自身なかなか許可しなかったようです。

 舞台は1960年後半から1970年代で、私もかろうじてこの時代の雰囲気は知っています。まず、映画の服装に違和感があります。時代考証をきちんとしているようですが、あまりにも服が新品ばかりで、貧乏学生にしてはきれいすぎます。当時の貧乏学生はほとんど着た切り雀で、服装には無頓着です。きれいな映画ということで、しょうがない面もありますが、最後まで奇妙な感じがつきまといます。

 また主人公の二人、松山ケンイチは体がもろ体育会系で、それでいて田舎ぽく、とても文学青年には見えませんし、菊池凛子も20歳になりたくない少女というより、魔女めいた場末のホステスの方が似合っている感じです。むしろ準主役の水原希子の方がちょっと小生意気で、つっぱった感じで、いい雰囲気でした。映画は内容のさることながら、主演女優、男優で映画の価値はだいぶ変わってきますが、特に今回は菊池凛子さんがミスキャストと思えます。

 映像的には確かにきれいで、ヘリコプターを使って風を作ったシーンは髪の毛が乱れて本当に美しい表情が撮れましたし、また草原を二人で早歩きしながら語るシーンは長いレールを使ったワンショットのいい映像です。

 木曜日の午前中だったせいでしょうか、映画館には50,60歳のおばさまが10名ほどいました。私も含めて、中年というよりはむしろ老年にさしかかった年代です。ただよく考えると、この人たちも1968年ごろというとちょうど20歳くらいで、今見ている映画の主人公や登場人物とぴったり年齢は重なります。何だか、あのおばさん達も40年前はあんな格好をして、あんな会話をしていたと思うと、不思議な感じがします。若い世代からすれば、自分たちの親あるいはじいさん、ばあさんがビートルズ世代で長髪、ベルボトム、ピース、フリーセックスなど文化の洗礼を受けているとは想像もできないでしょうが、事実です。私の親、祖父、祖母の世代は明治、大正で、圧倒的な世代差がありました。戦争の話をされても実感としては全く想像もできませんし、テレビどころか電気もなかったという話はまるで江戸時代くらい離れた感じです。それに比べて今の50,60歳代と10歳代の世代差は非常に小さいと思います。むしろ同世代間の差の方が大きいかもしれません。若いひとでも、ロックやコンピューターについて全く知らないひとも結構います。そういった意味では今はジェネレーションギャップより個人差の方が大きくなった時代なのでしょう。

 「ノルウェーの森」を映画化する際、時代性を無視する、舞台を現代にするのか、あるいは小説に忠実に、1968年ころにするのか、迷ったと思います。最終的には小説に忠実にしましたが、却って村上さんの現代性がなくなったように思えます。小説自体、著者の実体験がかなり含まれていますが、それを時代も含めて映像化すると内容がぼけてしまった感があります。むしろ何時代がわからない方がよかったし、うがった考えをすれば、この映画の服装の違和感はそれを狙ってわざと変な格好をさせたかもしれません。もともとこの小説の発表当時から、こんな女の子にもてて、すぐに寝るようなことはありえない、ただの若者の妄想であると言われていました。それを映像にするとますますリアル感がありません。三島由紀夫の「午後の曳航」の映画化は舞台を外国にしましたが、ノルウェーの森の舞台も海外、時代も現代にした方がより主題がはっきりしたかもしれません。

2010年12月16日木曜日

矯正歯科医院の継承



 一般歯科医院の継承についてはそれほど考える必要がなく、うちの場合も兄とわたしの二人が歯科医になったが、どちらも親の歯科医院を継ぐことなく、全く別のところで開業しているし、それで特に大きな問題はない。ところが矯正歯科では一人の患者さんの治療には最低で2年間、長いと10年以上になること、費用が請負制度であることなどから、治療の途中で診療所がなくなってしまうと患者さんにとって大変迷惑をかけるため、早くから医院の継承について検討しておかないといけない。日本臨床矯正医会でもそういった問題がよく議論される。

 継承の方法としては、医院の閉鎖と医院を誰かの継承する方法がある。医院の閉鎖はかなり長期の計画が必要で、私の尊敬するある年配の矯正医は、子供の患者は見ても最後まで見られない可能性があるため、治療をお願いしますと来ても取らないようにしている。また別の先生は70歳で引退したが、引退前の5年間は一切新患を取らないで、ほとんど収入のない状態で今いる患者だけを治療していた。どうしても医院を急に閉鎖する場合は、患者さんへの費用の返却と転医先を決めなくてはいけない。これは転居に伴う転医と全く同じやり方で、これをすべての患者にするのは大変難しく、例えば費用の点だけでも、すべての患者に治療の進行に沿った費用の返却をするとなると、年の売り上げの1.5〜2倍の費用を要する。それ以上に問題なのは、患者さんからすれば違うところには通いたくはないわけで、こういった転医にはかなり不満が噴出する。さらには近所に信頼がおける矯正医がいればよいが、遠方にしかいない場合は、そこに行ってもらうか、近くの一般歯科医にみてもらうことになる。いずれもかなり不満がでよう。急な医院の閉鎖は院長の急死以外は非常に難しい。

 一番いい継承のパターンは、子供に継承するパターンでこの例が多い。ただ矯正歯科の場合、子供が矯正歯科をマスターするまでに6年間の歯学部教育、1年間の研修医、その後少なくとも6,7年は矯正科の医局に残る必要があり、計13,14年かかる。うちのような娘ばかりの家ではこれも難しいし、子供の進路を歯学部の、さらに矯正歯科というように狭めるのも、本人が希望すればよいが、そうでなければかわいそうである。

 アメリカで一番多いのは、開業希望の若手の矯正医に、年配の先生が、診療所、患者付きで売る。アメリカ矯正学会雑誌の後ろにページには毎号、セールの広告が並ぶ。
「アーリントン、テキサス 非常に定評のある矯正診療所(25年以上)の割には手頃な価格です。周辺地域は広く、診療所は3000平方フィートあります。最新の歯科用椅子3つと一つの椅子があり、必要があれば自由に調整できます。潜在需要の増加が見込まれるところです。3マイル以内に患者を紹介してくれる歯科医院が25軒以上あります。不動産も含めた購入オプションもあります。至急連絡ください。年売り上げ247000ドル」、「セーラム、オレゴン 診療所はオレゴンの州都近くのダウンタウンにあります。1か月に15人の新患がきます。潜在的にはさらに飛躍できる可能性を持ち、そう希望するドクターにはこの診療所はいい物件と思います。チェーアは4台、年売り上げは550000ドル」

多くのアメリカの矯正専門医は60-70歳ころには引退し、フロリダやアリゾナで老後を過ごす。子供に継承するケースは少なく、仲介業者を利用して自分の診療所を患者、スタッフ付きで売る。値段についてはわからないが、新規開業をめざす若手矯正歯科医にとっては手頃な価格であろうし、開業早々から売り上げが見込まれる。一方、売る側からすれば、今見ている患者さんを引き続き見てもらえ、また老後資金の一部も確保できる。ただ、いい先生が引き継いでくれればいいが、そうでない場合は患者さんが困る。これがアメリカでも一番の問題のようで、理想的には5年間、一緒にパートナーを組み、最初の年は売り上げの10%を渡し、次の年は売り上げの30%を、3年目には50%、4年目に70%、5年目に100%と徐々に新しい先生に経営を移行するやり方が勧められている。あまり患者の評判の悪いドクターは1,2年で解雇する。

日本でもこういった継承方法が検討されているが、まず市場が小さいのの仲買業者がないこと、若手の先生がこういった継承をいやがることが指摘されている。ある先生が全国の歯科大学の矯正科を訪れ、若手医局員にこういった継承物件を買うかと質問したところ、ただでもいらないというのはほとんどだったようだ。この話を聞いて相当ショックを受けた。何となれば、うちの診療所も誰かいい先生がいれば、ただで譲渡しようと考えていたからだ。なぜ若手は譲渡を嫌うかというと、スタッフを含めて経営的な責任を負いたくない、前の先生と比較されたくない、隠れた問題が発生しそうで怖いなど、いきなり医院経営をすべて引き受けるのはいやなようだ。そうかといって自分で新しい医院を開業するのも資金もないし、患者さんがくるかわからないので怖いという。もっとチャレンジ精神をもってほしい。

2010年12月12日日曜日

弘前の古い店




 待ちに待った新幹線もようやく青森まで来ることになり、地元では大変盛り上がっています。私も開業日は、わくわくし、どれだけ観光客が来るかと期待していましたが、町の様子はいつもと全く変わりません。

 何でも一番列車で来た観光客をお迎えしようと弘前駅に観光協会や市の職員ら200人近いひとが集まったようですが、実際に来た観光客は数人で、人数の割には大変な歓待です。
 もともと12月からの冬のシーズンは一年の内でも最も観光客の少ない時期で、だからこそ敢えて、この時期に開業いたとも言われます。もう少しすれば少しずつ観光客も増えることでしょう。

 弘前観光コンベンション協会でも、観光ガイドによる弘前の街歩きコースを作っていますが、今のところほとんど利用者がない状況です。これは大変もったいないことです。地元民が見ても、おもしろいコースがたくさんありますし、値段も安いと思います。昔の海軍の将校クラブの偕行社、松蔭堂、教会などコースの中には一般客としては行けないところもあり、時間があれば大変お得で、思い出になるコースですから、もっと多くのひとが利用されたらよいと思います。

 このコースを見ていると、私の診療所の入っている大家さんのところ、代官町の甘栄堂が載っていて、創業110年間となっていてびっくりしました。古いお菓子屋とは思っていましたが、これほど古いとは思いませんでした。弘前のお菓子屋は古いところが多く、一番古い大阪屋は340年くらい前、開雲堂は120年前、前に紹介した小判焼きの川越の黄金焼も121年と、軒並み100年以上たっています。さらに診療所のすぐ近くの石田パン店が大正14年の創業で、青森県で最も古いパン屋だそうです。私の好きなマタニのケーキー屋、パン屋さんも昭和6年創業ですから、すでに79年たちます。また長尾牛乳は創業が明治17年(1884)ですから、126年になります。こういった古いお店が弘前には本当にたくさんあります。新寺町にあるみそ、しょうゆ販売の加藤醸造も明治4年創業ですから139年になります。食べ物以外でも土手町の万年筆を売っている平山萬年堂は大正2年創業なので今年で97年、津軽塗の田中屋は創業明治30年で113年、江戸時代から兜や刀などの武具を作っていた明珍鉄工所、二唐刃物鍛造所にいたっては、おそらく300年はたっていると思います(二唐刃物の吉澤さんがパリに持っていった新作は、和風と縄文風のミックスですばらしい。文鎮はしゃれています
http://www.nigara.jp/work/hamono2010.html)。また代官町の矢川写真館も開業は明治14年(1881)で、今年で129年になりますし、同じく代官町の自転車屋さんタケウチサイクルも80年以上はたっています。

 これが東京などですと、創業明治何年とか、それなりの老舗の風を作るでしょうが、弘前の古い店は全くそんなことを気にかけません。弘前の地元民でも、土手町にある黄金焼の店が創業121年とは誰もわかりませんし、まったく普通の店で、伝統的な黄金焼を一個50円でひたすら売っています。伝統で商売するのでなく、味と安さで現在のマクドナルドのハンバーガーと競争しています。これはすごいことです。

 なぜこういった古い店があるかというと、けっしてもうかっているわけではなく、何となく続けているだけのことでしょうか。今の経営者は大体50歳以上で、高校、大学を卒業したのが、1970年代くらいでしょう。ちょうど高度成長の時代で都会の多くの若者は親の仕事を継がず、この時期で老舗の店は後継者がいなくて廃業になりました。ましてその当時でも経営がきびしい店を継ぐ子供は少なかったと思います。ところが津軽では都会と違い20年遅れており、この時代に親の跡を継いだ子供が今店を経営しているのでしょう。それでも次の後継者はきついかもしれません。市内の繁華街である土手町でもここ数年の間に創業100年以上の店が何軒もなくなりました。

 一方、古い店が多い反面、全く新しい店も多く、今後の伝統を担う店も増えています。例えばフランス料理、イタリア料理、ケーキ店などは最新の東京にけっして負けないところが増えています。先日も診療所の忘年会でイタリア料理の「ダ・サスィーノ」に行ってきましたが、この店などは完全に東京のミシェランの一つ、二つ星のレベルです。値段は弘前では高いですが、それでも東京の半分ないし、1/3で味、サービスの点では決して高くはありません。またTree Bridgeというパン屋さんは午前中にはすべて売り切れというおいしいパン屋さんもあります。

 こちらに観光で来る皆さんも是非、弘前の新旧のお店を楽しんでください。

2010年12月9日木曜日

NTTタウンページ



 この時期になると、NTTからファックスにて電話帳広告申込書が送られてくる。それに署名、捺印してファックスで送り返せという何とも味気ない契約である。本当にこれで契約になるのかとも思ってしまう。以前は担当者が診療所まで来て、カラー広告にすればとか、色々とセールスをした上で契約したものだが、ここ数年はファックスだけの契約である。

 あまりに顧客をばかにしたやり方なので、今年度は申込書の余白に、「一声 毎年23万円の契約に対してファックスのみで済ませようとする企業体制には以前から不思議に思っています。無料の宣伝媒体(インターネット)がある状況下で、こういった高姿勢の企業態度に対して、経営者は何とも思わないのでしょうか」と書き込んだ。しばらくすると担当者の女の人から電話が来て、その旨は上司に伝えましたとのことであった。当然、上司からの電話は一切ない。
私のところでも、常に患者からどういったことでこの医院のことを知ったか、聞いている。知人紹介などの口コミと最近ではインターネットを媒介としたものが多い。一方、タウンページを見てという患者さんは開業以来、数名しかいないので、一刻も早く広告は止めたいと考えていたが、同業者の大きな広告を目にすると、中々止められず今日に至っている。毎月18900円、年額で226800円、安い広告費ではない。HPによる広告費は実質的には無料であることを考えるとなおさらである(東京の友人に聞くと、こんなものでなく、べろぼうに高いらしい)。

 ちなみにテレビ、ラジオ、新聞、インターネットなどの広告媒体の費用をまとめたものがある(http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20100222/1266830020)。それによれば、電話帳の広告費は2007年度が1014億円、2008年度が892億円、2009年度が764億円とここ3年間で24.7%の減少している。さらに2001年度と比べると1652億円であったものが764億円と53.4%の減少である。インターネット広告が735億円から7069億円の964.8%増に比べると、電話帳による広告自体がすでに消滅傾向にあると言ってもよさそうだ。毎年100億ずつ減っているようで、あと8年で消滅する計算になる。

 NTT東北電話帳の創立20周年を期して、5年後のイメージを平成17年に宣言している。それによれば「電話帳への愛、お客様への愛、社員への愛の三つの愛を形にすることを経営理念として掲げ、信頼され、愛される会社を目指そう」となっている。実際は全国10社ある電話帳会社の大方の社長は、NTT本体からの天下りで、顧客大事、売上げ確保など自分たちが経験したこともないようなことを声高に叫ぶが、実際は単に経費削減のみが先攻し、その挙げ句がファックスによる契約申込書である。顧客に対して、一度も訪れることなく、唯一の伝達手段がファックスと電話だけというやり方は、サービス業ではあり得ない。郵送することもなく、ファックスだけよこしていいと考える発想は、経営者として相当感覚がずれている。ましては今時電話帳に載せるような顧客はアナログ派で、こういった顧客こそドライなやり方が向いていない。

 一方、これとは逆の経験をした。私のコレステロール値が高いため、家内がサンスターから「緑でサラナ」というジュースを購入している。ところが生産に何か問題があったのか、サンスターからしばらく供給できない旨の手紙が速達で配達された。その後、しばらくすると今度は供給が可能になった旨が再び速達で配達され、お詫びの品として歯みが剤や歯ブラシなどの詰め合わせが送られてきた。非常に丁寧な対応である。おそらく購入者の多くは、メタボに悩む中高年の人々であり、これだけ丁寧な対応をされると、仮に一時発送が遅れても、今後とも継続することであろうし、何よりも企業イメージがアップした。昔、パナソニックで石油ファンストーブが事故を起こすとのことで、それこそ飽きるほど,何度も、長期間回収のCMを流していたが、途中からこれはパナソニックの戦略と気づいた。実際、あれだけ宣伝しているから、仮に事故があっても、パナソニックの責任になることはないが、それ以上のパナソニックのブランド、絶対の信頼を守った意味が大きい。

 こうしてみると、最近のNTTはイメージ戦略が最低であり、よく夕飯時にNTTの子会社と思われるNTT何とかという会社から電話接続を変えませんかとか、光通信にしませんかといった電話が来る。夕飯時に寛いでいる時に誠に腹立たしい。夕飯時は遠慮するのが普通であるが、デリカシーが足りない。家にいるのを狙って電話しているようだが、最近ではNTT何とかと聞くだけで、押し売り電話と勘違いする。よほどイメージをダウンさせている。こういった子会社のやり方に対して、NTT本体は一切関知していないかもしれないが、NTT 何とかと社名につける限りは責任がある。

 ちなみに手元に2010年版のデイリータウンページ(青森県津軽版)があるが、掲載広告で目立つのは、医者と歯医者だけで、これでほぼ半分くらいになる(全部で670件くらい)。旅館、ホテル、レストランなども広告が多そうだが、実際旅館、ホテルで7件、グルメ(レストラン、食堂)で8件だけである。それに対して歯科は48件、医科は175件で、掲載広告の大きさもどれもかなり大きい。いかにも歯科医、医師がだまされやすいかがわかるとともに、世間の会社では無駄なものにはコストをかけないという姿勢が急速に広がっている。

2010年12月5日日曜日

函館「佐藤安之助の墓」2




 前回のブログで、函館にある「佐藤安之助の墓」について、弘前藩譜代の藩士の墓ではないかとしたが、本日図書館で調べると、どうやら私の間違いのようである。たまたま同姓同名で、函館二設口の墓の主は駒越村の安之助のようである。間違った記述をして申し訳ない。

 「津軽近世資料7 弘前藩記事五 」(坂本寿夫編、 北方新社 1994)の弘前藩記事61 戦死履歴其二に「佐藤安之助  陸奥国津軽郡弘前駒越村の平民なり。文政9年8月18日、同所に生る。祖父は佐藤伝右エ門、父は藤助と称す。母は同郷平民田代村田沢孫右エ門の長女なり。明治元年10月、松前の役、元鹿児島藩士伊集院宗次郎の軍夫となり。従て航す。同二年4月、二股の戦、銃丸に中て死す。其屍を同所中に埋む。同年12月(津軽)承昭死を憫み、毎年米五苞を其親族に与えて祭資に供せしむ。其書に曰く、駒越村安之助 当夏松前渡海。二股の役、銃丸に中て相果候段、不憫の事に候、仍為祭資毎年五俵づつ永世被下候事 明治二年12月 民事局」とくわしく書かれている。また明治3年9月に常盤坂の大星場の西側に落成した招魂社で戊辰戦争、函館戦争で亡くなった津軽藩兵の招魂祭が行われた。その時の「招魂祭調」には「安男霊 駒越村安之助 薩州人数へ御貸郷夫」となっている。名字は後日加えたとなっており、従軍時は駒越村の安之助であったが明治4年の姓尸不称令により名字を名乗ることができるようになった。また明治二年の松前戦争届には、函館戦争当時の弘前藩従軍の詳しい報告が載っており、藩士、軍夫の討死、深手、浅手など死傷者の名前が記載されているが、安之助の名前は見えない。おそらく薩摩軍に所属していたためであろう。

 函館戦争では弘前藩からも多くの戦死者がでた。例えば若党町からも「高杉尚良 左膳と称す。弘前市若党町に居り、世世禄200石を食む藩士たり。天保6年馬屋町に生まる。死する時35 家督は静太郎」と高杉左膳という足軽頭が函館桔梗野で戦死した。2010.11.24のブログに出した若党町の地図に、高杉静太郎の名が見える。また同じく若党町の葛西清生という人も戦死している。24歳であった。父の名前は次郎兵衛(文弥)で、同じく地図上で葛西次郎兵エの名が見える。

 昭和3年発行「青森縣総覧」(東奥日報)に記述されている明治33年以降(昭和3年まで)の青森県からアメリカへの留学者115名について名前を載せる。別に移住者の項目があるが、ここでの留学者の中にも移住目的のものを多数いるようだ。山田良政、純三郎兄弟の二男晴彦、四男四郎の名前が見える。二人ともアメリカに行ったきりのようである。メソジスト宣教師の名前が数名見られるが、ほとんどのひとは無名であり、二男、三男、四男の名前が多いことからも、一旗揚げようとアメリカに渡ったひともここに含まれる。

留学者(米国)
川村武三郎、小笠原直三、成田とみ、木村千代太郎、山田四郎(山田兄弟四男)、佐々木章之助、対馬良二、水木音弥、長谷川浩、中里常人、木村むめ、西村近應、宮田雄二郎、大溝啓二、山田清彦(山田兄弟二男)、宮川栄七、坂田善吉、上田彗範、松本たき、桜田三次郎、後藤小三郎、三上庄吉、鎌田通、松森敬三、三上善五郎、菊池辰男、島本盛、小平みつ、石沢藤次郎、新井田四郎、廣田順吾、藤田元三郎、柴田徳次郎、工藤まき、高杉栄次郎、工藤敏雄、楠美久次郎、田戸関繁太郎、新岡喜代志、伊東久蔵、菊池武次郎、佐藤豊三郎、中畑四郎、藤田浅吉、高橋ます、大和田良三、櫛引淳太郎、境八百四郎、村元元清、工藤要、棟方武次、立藤鉄三郎、鳴海要助、島中大和、工藤盛勝、大阪力次郎、鈴木陸奥夫、長尾大介、藤田徳蔵、川原政憲、吉田善五郎、湊稲雄、小木勇蔵、長谷川久太郎、杉山金太郎、須郷健太郎、安田清、棟方八郎、栗村仁、白沢甚助、佐々木徳一、長尾民三郎、柴谷興三右衞門、小平三郎浩、小野藤右衞門、鎌田健吉、小島忠郷、宮城逸、大和田四郎、杉山純一、福井善祐、斉藤豊次郎、斉藤冽泉、倉岡藤吉、熊井田次郎、小原良吉、宮本留助、吉田健四郎、阿部友一、藤川正詮、武林清一、蝦名健四郎、野呂久蔵、森真四郎、佐藤栄四、鈴木貞見、栗村直衞、白鳥基正、七戸賛三、藤田正之助、小島忠郷、杉山瀧次郎、斉藤清三、葛西孝雄、兼田秀雄、磯部唯浩、磯部わさ、三浦嘉八郎、須貝止、島川勉、斉藤庫次郎 (明治33年以降、昭和3年までのアメリカ留学者)

2010年12月1日水曜日

函館「佐藤安之助の墓」




 暇なときは、明治2年弘前地図に記述されている名前をかたっぱしからインターネットで検索しています。2000名くらいはいると思うので、全部検索するのはさすがに無理ですが、ランダムに名前を打ち込み、検索します。当然ほとんどの人名は検索されないか、一行くらい載っているだけです。
 例えば、馬屋町、今の弘前工業高校隣あたりに白取数馬という名が見えます。20件検索されますが、実質的には1件だけで、それには「1823-1898幕末—明治時代の武士、戊辰戦争のさい藩論に抗して勤王を主張、後庄征討軍の大隊長をつとめた」とあります。

 それでは白取家の隣の貴田稲城はと検索すると、865件ヒットするが、関係するのは10件くらいである。資料を高照神社に寄付したようで、その解説に「貴田家は藩の山鹿流兵学師範を勤めた家柄で、先祖の貴田元親は山鹿素行と同門、その子一学が四代藩主信政に抱えられ、孫の親邦にいたって弘前に移り住んだ。本資料は、廃藩後の明治32年に子孫の貴田稲城が高照神社に奉納したものである。」とある。

 さらに貴田家の隣、佐藤安之助を検索すると、東京出身の軍人で、後に衆議院議員となった人がいるようです。中国通で孫文にも関係があったようです。もうひとりは、函館戦争で戦死した佐藤安之助というひとです。函館の二設口台場山の新政府軍陣地跡近くに「佐藤安之助の墓」があり、横にある大野町教育委員会の掲示板には「 墓に は「佐藤安之助鹿児島藩従者・明治2年4月24日」と刻まれているが、「弘前藩記事・戦死履歴」には「文政10年8月18日生・鹿児島藩伊集院宗次郎軍夫」、開拓使編「戦死人墳墓明細履歴書」に「42歳陸奥国津軽郡駒越村」とあるように、その履歴はほぼ明かされている。」と書かれています。また函館護国神社にも墓があるようで、その解説には「弘前藩領駒越村の農。薩摩軍伊集院宗次郎隊軍夫。明治二(1869)年4月24日蝦夷二股で戦死。享年42歳。」と、同じ内容ですが、ここでは農民になっています。また大野町文化財保護研究所ではさらに「中山に祀つられている佐藤安之助もその一人である。安之助は、青森県岩木川のほとりにある駒越村の農家に生れた。農民・安之助は、新政府軍側の薩摩小荷駄 隊に所属して箱館戦争に加わり、四月二十四日、台場山付近の激戦で命を落としたとなっている。土方歳三率いる榎本軍三百人が、乙部に上陸した新政府軍六百 人を迎え撃った「二股口の戦い」である。この戦いでどんな活躍をし、どのような最後を遂げたかは分からないが、中山峠のほかに二つの墓をもつことからも、 多くの人の胸に名を刻み込む働きをしたことと思われる。」としている。

 二設口の戦いは激しく、政府、榎本軍も多くの死者を出したが、どうして一介の農夫、従者の墓がここにあるのかは、「その履歴はほぼ明らかにされている」という説明では理解できません。

 明治2年地図中の佐藤安之助の家は、今の弘前県立工業高校横あたりになり、かなり大きな敷地、おそらく300坪以上の敷地と思われます。馬屋町小路には幕末混乱する藩論を勤王の方向に持っていった西舘孤清の家があります。西舘の家は、代々家老職を務めた家柄ですが、この家と佐藤安之助の家の大きさがほぼ同じです。

 弘前藩では、禄高により住居の大きさは決められており、200石では50坪、150石では40坪、100石では30坪、50石では25坪、50石以下では25坪以下とされ、敷地もそれに合ったものだったでしょう。例えば、現在保存されている「旧岩田家住宅」は住居が34坪、敷地が200坪です。200-500石の中流武士の屋敷です。佐藤安之助の家はこれよりは大きいものと推測されます。となると、幕末には無役だったかもしれませんが、佐藤安之助の家は弘前藩譜代の名門の家であったと思われます。

 それではなぜ佐藤安之助は薩摩藩伊集院宗次郎隊軍夫という低い身分で函館戦争に参加したのか。それはわかりませんが、42歳という年齢、あるいは家庭の事情で、藩から兵士としての参加を認められず、個人的に軍夫として参加し、戦死したのかもしれません。その死を悼み、この激戦地にお墓が作られた可能性があります。

 二設口の墓の主が、駒越村の農夫の佐藤安之助か、弘前藩の譜代武士佐藤安之助かは、地図一枚で簡単に決定できるようなものではなく、さらに資料を揃えて確証しなくてはいけません。大野文化財保護研究会にこの旨をメールにて送付したところ、早速会員の方から再考するという返事をいただき、すばやい対応に感謝しています。明治と言えば、ついこの間まで周りに明治生まれの人がいたような想いがしますが、わずか100年前とはいえ、歴史は誰かが語らなければすぐに忘却されてしまいます。

 ちなみに馬場の下に、馬役有海登という名が見えるが、荒井清明著「続々弘前今昔」では、明治4年地図では「元有海登、古川冨太郎」となっており、ここが工藤他山(古川冨太郎)の思斉塾であったところだとしています。明治4年士族引越之際の図で確認するとそう書いていました。生徒数200名という思斉塾はここにあったのでしょう。多くの書では五十石となっていますが、明治2年地図には載せず、明治4年に載せることからも、明治2,3年頃に馬屋町で塾を開いたのでしょう。

*追加:12/2 本日、馬屋町に行ってきました。町の大半は弘前工業高校になっていました。今の新坂は地図でもわかるようにあまり使われていない道だったのでしょう。むしろ馬屋丁に続く、お城からの道がもっぱら使えわれたと思います。市民会館の裏を探すと、この古道跡が確認できました。弘前工業に続いているようです。