2012年12月27日木曜日

Artとしての矯正歯科


 来年度の第29回東北矯正歯科学会は弘前で行われる。テーマを「Artとしての矯正歯科」とした。Artというと、芸術、美術のことを思い浮かべ、医聖ヒポクラテスの「Life is short, Art is long」という言葉も、芸術は長く、人生は短いと説明されることが多い。人生は短いが、ダビンチのモナリザは永遠の命を持っていると解釈されている。ただ、本来の意味でのArtとは技術、巧みのことで、先の言葉も元の意味からすれば、「人生は短いが、医術の道を学ぶのは長い」ということで、医術を極めるのがいかに難しいかを医者であるヒポクラテスが語った言葉である。この方がヒポクラテスの言葉としてはふさわしい。

 医療系の学会は、ほとんどの場合、正式名称は学術大会となっている。英語で表現すると、この「学術」は「Art and Science」となり、本来学術大会とは、巧み、技術を示す場でもある。ところが、かって医療があまりにArtの面が中心であったことから、近代医療はエビデンスベースに基づいた、一見すると科学めいた研究が主流となっている。

 ここで科学めいた研究と言ったが、医療面での研究は物理学、化学、生物学などと違い、100回実験をして100回とも同じ研究が出るものではないということだ。血圧を下げる薬にしても100人に与えて、80人は血圧が下がっても、15人は変わらない、5人は逆に血圧が上がることもありうる。多くの医療系の研究では、有意差検定という手段がとられる。2つの集団に違う治療法を行い、結果に違いがあるかどうかを検定する手段である。これにしても100%違いがあるという訳ではなく、違いがある可能性があるに留まる。自分の研究で申し訳ないが、最初30人の集団で研究し、差があっても有意差がない場合、違いはないと発表し、対象者数を50人に増やすと、有意差がでると、違いがあるとなる。適当なものである。さらにひどいのは相関係数というもので、咬む力とあごの形の間に相関、つまり咬む力の強いひとはあごががっちりしている、逆に咬む力が弱いひとは華奢なあごであるという関係があるとしよう。相関係数が非常に小さい場合でも有意の相関がでれば、関係があることになる。またワインは心臓病の発生のリスクを30%下げるといった研究も、対象者の選定によっては逆に30%上がるという結果もでよう。


 こういった有意差検定は一見、科学的ではあるが、研究方法、研究者により結果は異なる。そのため、理科系科学では、50年前の疑問が未だに結論がでないということはありえないが、これが歯科の分野では、白黒ははっきりしないことが山のようにある。事実の積み重ねにより科学が発達するのではなく、その時代の流れに左右されてくる。

 これは医学が人間を扱う学問であるから、仕方がないことであり、逆にScienceに価値があり、Artは時代遅れと考えるのはおかしい。先の天皇陛下の心臓バイパス手術は順天堂大学の天野篤教授も、おそらく心臓外科学会で、自分の手術法の研究を発表しているだろうし、その術式も説明しているだろう。見事な治療結果であろう。ただそれでは若手の医師が同じ、手術法をして同じ結果が出るであろうか。当然だが、否であろう。ここにArtの領域がある。手術法がいいかどうかは、術者の技量、Artに依存するため、トレーニングが必要となる。そのため、医療分野、とくに外科系、歯科系はどうしても徒弟制度という古いシステムが未だに必要となる。

 日本の医学、歯学の分野では、総合大学の中の医学部、歯学部という立場から、Scienceの面がこれまで強調されてきた。教授選考でも論文数、それもインパクトファクターの高い雑誌にどれだけ論文を載せたかという点が重要となっていて、Artという面はむしろ軽視されている。さすがに近年はそういうことがなくなったが、教授でも臨床はぜんぜんできないということもあった。ノーベル賞をとった山中先生は、臨床をできないので基礎科学者になったが、そのまま医学部教授になる先生も多くいる。そろそろ日本でも、Artの比率を高めた教育、Artをシステマティック、あるいはIT教材などを用いたそれこそ科学的な教育を主体としてほしいと思い、学会のテーマとした。ベテランの先生から、その経験を基にしたおもしろい講演が聞けると思う。


2012年12月26日水曜日

私と映画



 最初見た映画。小学校1年生くらいであったろうか、忙しい父が、今日は映画を見ようかと言って、兄と一緒に、尼崎の繁華街、中央商店街にある映画館に行った。

 映画館の名前は忘れてしまったが、尼崎OS劇場のあった繁華街の通りの手前、確か東洋劇場?か、主として洋画を流していた映画館で、その後もここで「シンドバットの冒険」三部作などを見た記憶はある。題名は「思い出のサンフランシスコ」であった。小学校一年によくそんな映画に連れていったなあと思うが、父が見たかった映画だったのであろう。当時、はやっていたトニー・ベネットの名曲「思い出のサンフランシスコ」にちなんだ映画で、今調べるとトニー・ベネット自身や、当時人気のあったドリスー・デイも出ている。まあB級の映画で、いまでは誰も知らない。

 映画の筋は完全に忘れたが、曲とどういうわけか、小雨が降るサンフランシスコの情景はよく覚えている。当時の映画館は、いつも一杯で、座席のみならず、通路に人が座り、後ろの方では子供が父親に肩車されて見ていた。

 その後は、もっぱら尼崎東宝に行き、怪獣ものと若大将ものの二本立てをよく見た。「キングコング対ゴジラ」で、これは母と行ったが、その後の「モスラ対ゴジラ」からは友人や兄と見に行った。子供たちの目当ては当然、怪獣ものであったが、加山雄三の若大将ものも、何だか日本とは別世界で、それなりに面白かったし、何より酒井和歌子さんがきれいだった。それでもあくまで、二本立ての脇であり、怪獣ものが始まると、子供たちは歓声をあげてはしゃぎまわった。

 小学校5年生になると中学受験のため、あまり映画を見に行くこともなくなったが、ある時、これも父が梅田に大きな映画館ができたぞ、一緒に行こうと兄と一緒にできたばかりの梅田OS劇場に行った記憶がある。何でも日本で始めて70mm映画上映館というマンモス映画館で、入ると、案内が席まで案内してくれる。確か題名は「これがシネラマだ」という映画で、ものすごい横に広いスクリーン一杯に映像が流れる。内容はシネラマの紹介だけのつまらないものであったが、それでも最初見た時はショックを受けた。今の3D映画どころでない。音響もすごく、その後、映画館もどんどん小さくなって梅田OS劇場のような重厚な映画館はない。

 中学になると、受験戦争にも開放され、月に一回ほどこづかいを貯めて、神戸三宮のビック映劇に行った。ここは名画座というもの、2本立てで、名作を安価で見られた。「イージライダー」、「イエローサブマリン」、「いちご白書」、「ガラスの部屋」などをここで見た記憶がある。すでにテレビが普及しており、映画館はがらがら状態になっていたが、それでも熱心な映画ファンがここには集っていた。

 本格的に映画を見だしたのが、大学に入ってからで、日曜日は必ず仙台の仙台名画座に行った。多い年では年間200本近く見たであろう。当時は、テレビでの映画放送はあったが(ちなみに最初のテレビでの映画放送は「裸足の伯爵婦人」で、そのテーマ曲はいまでもよく覚えている)、貸しビデオ屋さんはなかった。朝10時ころに起き、昼食を食いに繁華街に出、そのまま映画館に入り、2本映画をみて、街をぶらぶらして夕食を食べて、帰宅。こういった日曜日の使い方であった。本来なら彼女とデートといきたいところだが、そんな彼女もおらず、大学5年生まで、こんな生活であった。

 最近は、映画をダウンロードして、旅行中の電車の中で、Ipadなどで見ているが、仁義な戦いの全シリーズを見たのが、今年一番の収穫であった。


2012年12月22日土曜日

弘前藩出身の新撰組


 武士の二男、三男はかわいそうなもので、他家に養子にいくか、実家で一生過ごすしかなかった。それでも戊辰戦争、函館戦争になると、長男だけでなく、二男以下も戦争にかり出され、また人材登用の政策により、優秀な人材は江戸などに留学するようになった。さらに、その活躍により、別家を立てるケースも多くなってきた。

 こうした二男以下の若者は、ある意味、家のしがらみがなかったためか、ことに幕末、脱藩という行為にでるものがいた。弘前藩は最終的には勤王の方向に進むが、それまで藩論は尊王、佐幕のまっ二つに別れていたため、藩論が一致せず、幕末の騒乱に全く関与しなかった。そうした時代のうねりに参加しようとした若者が入隊したのが新鮮組である。

 弘前藩士で、脱藩して新鮮組に参加したのは、毛内有之助、千田兵衛、菊池央、白戸友衛である。

 毛内有之助は、弘前藩の用人(家老に次ぐ高官)、有右衛門(祐胤)の二男で、家は元寺町にある。文久元年(1861)に毛内家に伝わる名刀「天国」を持ち出し、脱藩する。その後、元治元年(1864)に伊東甲士太郎に誘われ新撰組に入隊する。文学師範、諸士調役、監察などの役についたが、伊東らが御陵衛士を拝命し、新撰組を脱退するときに行動をともにする。結果、慶応3年(1867)に近藤勇らにより京都、七条油小路にて暗殺される。他の藩士と違い、由緒ある家に育ったため、きちんとした学問、武道を収めていた。そのため「毛内の百人芸」と言われるように何でも器用にこなした。享年、33歳であった。父、有右衛門の後妻になったのが、毛内滝子で、日本でも有名な女流歌人であり、息子の有之助も和歌をよくした。新撰組にはめずらしい文科系の人物であった。

 千田兵衛は、慶応3年(1867)頃に新撰組に入隊する。上瓦ヶ町に千田百二郎の名があり、兵衛はその弟となる。近藤勇付きとなり、歩兵指図役下役として、鳥羽伏見、甲州、会津と転戦し、母成峠で戦死する。享年、23歳の若さであった。

 菊池央は、英、央五郎とも呼ばれ、弘前藩士の三男として生まれ、千田と同じく、慶応3年に入隊する。鳥羽伏見、甲州、会津戦争では白河の戦いで戦死する。局長近藤勇の仇、清原清を討つ命を受けて、出陣し、達成した。享年21歳で、おそらく千田と一緒に脱藩して新撰組に入隊したのであろう。菊池姓は多く、父親の名がわからず、絵図では同定できない。

 白戸友衛は、弘前藩士白戸秀平の二男で、千田、菊池と同じく慶応3年に入隊し、大砲警備下役として、鳥羽伏見、会津、函館戦争に転戦し、生き残るも、弘前藩に引き渡されると知り、自決する。白戸姓は明治二年絵図では、6名、可能性としては千田兵衛の同じ町、上瓦ヶ町の白戸林之助の息子のように思える。同時期に入隊した、千田、菊池が戦死しており、おめおめと生きながらえるのを恥として、自決したのであろう。享年、不明。

 そういえば、詩人、劇作家の寺山修司の祖父、寺山芳三郎は会津、函館戦争では賊軍として、さらに西南戦争では西郷軍として戦い、その先祖は薩摩藩士であったという。かなり眉唾な話であり、少なくとも薩摩藩士が新撰組に入隊することはないし、函館戦争中、榎本、土方のところで戦うことなかろう。ひとつの可能性として、弘前藩には、ふたつの寺山家があり、一つは小人町寺山尚吉、もうひとりは春日町の寺山忠八で、両家とも武芸の家と思われ、この関係者の一人が芳三郎で、千田、菊池、白戸と同じような行動を取ったような気がする。これは全くの妄想で、関係者がいれば、お詫びする。


2012年12月20日木曜日

中国の民主化


 今回の選挙では、自民党の圧勝に終わった。安部首相もしばらくは経済、景気対策に主眼が置かれると思うが、その次に課題となるのが外交関係となろう。とくに日米関係と日中関係がキイとなろう。

 思い起こすと、戦前の日中関係で、一番の失策は、日本政府が孫文、蒋介石を支援しなかったばかりか、敵対したことであろう。孫文、蒋介石らの国民党幹部と日本人との関係は非常に深く、早い時期に日本政府が支援の方向で進めていたなら、中国の赤化は抑えられ、現在、台湾のような政治体制をもつ国が隣国にできたであろうことは間違いない。日清、日露戦争による朝鮮半島の権益までは許されようが、さらに満州、ここまでは当時の帝国主義的な観点からすれば、ぎりぎりであったが、日支事変まで拡大したことから、日本の体力を越える膨張主義となった。中国人である孫文、蒋介石からすれば、満州までは漢民族の埒外で何とか、我慢できたとしても、中国本土まで日本軍に責められると、国民感情からも敵対せざるを得ない。それをもって生意気だとばかり、ほとんどの新聞、マスコミは中国を懲らしめるといった風潮となった。明らかに中国本土を日本領としようとする帝国主義の流れであり、今日の観点から言っても完全に誤りであった。少なくとも、満州国建設の時点で、外務大臣佐藤尚武の主張するように国民党政府と妥協すべきであったであろう。中国軍より軍備的に優勢であるという奢りによる、さらに侵略的に進めたことは敗因であった。
 こういった歴史から現在の日中関係を眺めると、現在の国家を否定するのではなく、将来的な民主化国家になるように時間をかけて、眺めていくことになろう。台湾の中国化が危惧されているが、ここで中国の台湾化という逆の発想もありうることで、共産党下での経済的自由化という離れ業ができたのであれば、ゆっくりとした民主化は可能な流れであろう。国民が食うのに困らない状態にするまでは、ある程度、アジアにおいては独裁的な政治体制が必要だが、生活に余裕ができた時点になると、その不満のはけ口として、民主化、投票によって指導者が決められる社会が求められる。もはや中国各地で行われる争議、デモを保安によって押さえつけるのは無理な状況になっている。現在、県レベル以下では直接選挙によって決められているが、日本の国会議員に当たる全国人民代表は間接選挙となり、全国人民代表大会でも大きな議論はなく、候補者も党の審査を必要する制度では、将来的には国民の不満を解消できないであろう。中東のジャスミン革命のような急速な民主化は混乱を招くだけであり、ゆっくりとした民主化が求められる。

2012年12月15日土曜日

風立ちぬ


 宮崎駿監督の新作が決まった。「風立ちぬ」という堀辰雄の有名な小説と同じ題であるが、内容は零戦の設計で有名な堀越二郎の物語となるようだ。モデルグラフィックという模型雑誌で連載していたもので、早く本にならないかと思っていた作品だったが、いきなり映画化ときた。

  宮崎監督は、もともとミリタリーものが好きなひとで、これは私にもわかるが、戦争が好きなわけではなく、何となく、軍用の機械が好きなのだ。これは好き嫌いなので、どうしようもないもので、宮崎監督もこれまでも多くの作品を、こういった模型雑誌などで発表してきた。漫画家としての仕事はほぼ、これだけであろうし、おそらく雑誌の発行部数からすれば、それほど多くの原稿料ももらっていないだろう。それでも、好きなものは書きたいのであろう。

 実際、この種のもので映画化されたものは、「紅の豚」しかないし、個人的には宮崎作品の中でもこの作品が一番すきだが、この作品にしても、水上機という特殊な飛行機を描き、直接的な戦争は描かれていない。こういった配慮をしたにも関わらず、評価は低く、何かの雑誌で、これに懲りて、自分の趣味と映画監督の仕事は分けると発表していた気がする。「紅の豚」の一番の魅力は、美しい空とそこを飛ぶ飛行機の美しさであろう。監督自身も夢中になり、相当力を入れた表現となっている。アニメ史上あれほど美しい空はない。

 堀越二郎というとまず零戦を思い浮かべるが、彼の最大の功績は96式艦上戦闘機の設計であろう。96式艦上戦闘機といっても、飛行機ファン以外ほとんど知らないだろうが、昭和10年ころに活躍した飛行機で、この機種により、日本の航空機もようやく世界基準を越えたものとなった。それまでの飛行機は今の中国と同じく、欧米の機種のコピーに近いものであった。始めて九試単座戦闘機一号機(96式艦上戦闘機の試作)飛行したとき、最高速度が444.5kmをたたき出し、速度計の故障かと間違えられたという。さらに二号機の試乗では、前原中将は「外国にいるようだ。こんな愉快なことはない」と大いに喜んだ。この飛行機は、空気抵抗の軽減のために、世界で初めて沈頭鋲と皿子ネジ/鋲止めナットが採用されたし、落下式増槽も同様である。新型のフラップといい、すべて後の零戦に受け継がれているが、ようやく欧米の飛行機のレベルを越えた国産戦闘機が完成した。もちろん、欠点もないわけではなく、あまりに軽量、空気抵抗の少ない、美しい飛行機を目指したため、機種の発展性が少なく、ドイツのBf109やイギリスのスピットファイアーのようにエンジンの発展に伴って、性能向上型ができる余裕がなかった。96式戦闘機もそういったわけで寿命は短く、太平洋戦までの短い期間が活躍時期といってもよい。このことは、零戦でもいえ、零戦も21型に尽き、その発展型は21型を越えることはなかった。Bf109B型が最大速度470kmであったが、後期型のK型では740kmと格段に性能が良くなっているのと対照的である。

 映画は、おそらく零戦までは扱わないであろう。96式戦闘機でも試作機1号機(九試単座戦闘機カ-14)は、美しいカモメと呼んでもよい飛行機で、逆ガル型の主翼はスマートな固定脚と相まって美しい。量産型のものは、通常の水平翼となっているが、当時の塗装、飴色、赤、白のコンビネーションはまるで、レーサ用の飛行機のようで、「世界の傑作機 96式艦上戦闘機」の野原茂さんの描く横須賀海軍航空隊所属の大石兵曹長搭乗の機体は美しい。

映画の完成が待ち遠しい。


2012年12月7日金曜日

矯正治療の難しさ




 最近、治療結果に対して非常に厳しい患者さんが増えています。鏡を見て、ここの噛み合わせがおかしい、隙間が0.3mm開いている、真ん中が0.5mmずれている、歯茎が0.5mm下がった、歯の傾きや、なかにはトルク(歯根の位置)がおかしいという方がおられます。

 確かによく見ると、こういった問題点があり、それは術者の責任でもあるし、私の臨床技術の稚拙によるものでしょう。もっと、勉強しなくてはいけません。ただ一方、どうしても歯とあごの関係上、理想的な形にはできないこともありますし、舌の癖や、咬み方により直らないこともありますし、また歯根吸収のように予想できない問題もあります。

 矯正の分野でも、完璧な治療を望まれれば、出来るだけ努力はしますが、実際にそうならないことも多々あり、これを責められると何とも言えません。抜歯をして口元を入れようとしても、舌の力が強く、予想より後退量が少ないことがあります。途中経過で、こういったことを説明しますが、それでも強く責められると、落ち込みます。特に多いのは、後戻りの問題で、保定装置については一般的には一生使うようにと指導しますが、実際は一生、保定装置を使うことなどできず、どこかで使わなくなるでしょう。その場合は、最初に一生使うと言えば、患者さんのせいによって後戻りが起こったと説明できるからです。アメリカで提唱された方法です。私自身は、2、3年すれば保定装置をはずします。当然、ごくわずかな後戻り、下の前歯に起こることがありますが、それが気になるひとは再治療をすることにしています。10年間で3回再治療したひともいます。最初のころは、再治療については抵抗がありましたが、結局、どんなに説明しても納得してはくれないので、ここ10年くらいは希望があれば、装置代無料で再治療します。

 うちの娘は、もともと反対咬合で、それは治ったのですが、下の歯がでこぼしています。しょっちゅう電話で治療したいと言ってきますが、上の前歯がある程度きれいに並んでいて、下の前歯のみでこぼこのケースは、まともな矯正歯科医は治さないと答えます。固定式、取り外し型の保定装置をはずせば、後戻りします。ましては数十年のスパンでみれば、あごの発育もあり、かなりの頻度で後戻りはあると思います。こういうこともあり私は、ちょっとしたでこぼこについては極力治しません。例えば、もとの歯並びが40点、矯正治療で90点にし、それが後戻りして80点になっても前よりはかなりよくなったと言えますが、もともと80点の歯並びを治療で95点にするのは簡単ですが、すぐに90点あるいは85点まで戻ります。ほとんど治療した意味がなくなります。それ故、ちょっとした不正咬合は、治療は容易だが、それを維持するのが難しいということと、こういった少しの不正を気にするひとは、要求も厳しいので、治療はやめます。

 これは言い訳になるかもしれませんが、医療では不確実性という言葉があります。人間を対象にしている限り、リスクがあり、治療をしても治らないことや、逆に悪くなる可能性もあるということです。また完璧な治療を望まれても、できないこともありますし、それを維持できないこともあります。こういった点から、軽度の不正咬合では、メリットに対するリスクが相対的に大きいため、矯正治療はあまり勧めません。理想咬合というのは、100点満点の状態で、一般集団にはまれなかみ合わせです。こういったかみ合わせは100人、いや数百人に一人いるくらいです。通常の正常咬合という概念は、70点あるいは80点以上のかみ合わせをさし、本来、70点以上であれば、治療適用にならないと思います。

 舌側矯正についても、見えない矯正治療に固守する患者さんは、治療結果に対してかなりシビアーです。私の稚拙な技術ではとても対応できないため、基本的には断っています。感覚的な話ですが、専門医試験に出すような症例でも、90点程度、10年後の保定後の状態で95点以上の症例はごくまれだと思います。何らかのケチはつけれます。患者さんは100点満点の治療結果を求めますが、努力はするが、実際には無理というのが現実だと思います。

2012年12月4日火曜日

日本ブランド


 先日の新聞で、ドイツのミーレ社のことが載っていた。ミーレと言えば、洗濯機、食器乾燥機で有名な家電メーカーであるが、何でも、故障が少ない、仮に故障しても15年分の部品をストックしており、大抵の故障には対応できるシステムになっている。値段は高いが、信頼のあるメーカーとして健全な経営をしている。

 こういったメーカーは欧米で多く、日本の家電メーカーでも故障は少なく、補充品も揃っているが、欧米のメーカーほどではない。これと対極なのが、中国、韓国メーカーで安いが、故障は多く、故障すればそれまでである。

 いわゆるブランドというのは、こういった信頼関係のことであり、当分、中国、韓国からはブランドメーカーは現れない。例えば、世界を代表するカメラメーカであるニコンの話であるが、古いレンズが故障したとすると、関連のレンズ製作メーカーに当時の、3040年前の設計図をメーカーに送り、装着に失敗した時のことを考えて2枚のレンズを発注するという。手間がかかり、それなりの費用もかかるが、それでもたった一つの修理のために、2枚のレンズをわざわざ作らせるのである。これがブランドメーカーである。

 こういった話は、あまり知られていないし、経営的には、無駄が多い。現代のような安売り社会では、こういったブランドイメージを守ることは非常に難しいが、ミーレの例を出すまでもなく、長く商売するためには、大事なことであろう。往々に売れだすと、事業の拡大に走る傾向があり、そうした途端に破綻する。今の規模を維持しながら、発展させるのが、長く続ける方程式であり、こんな例はおかしいのだが、弘前に明治4年にできたせんべい屋があるが、ここ150年、店の規模は同じ、生産数も同じ、多分売り上げも同じであろうが、一切、支店を作らず、150年前と同じ商売をしている。おそらく商売として、厳しい時期もあったし、逆に好調な時期もあって、多分この好調な時期に欲をかかなかったことが、商売を続けられた秘訣であろう。

 足りて知る、自分の欲をコントロールし、背丈に合った経営をすることが必要であろう。成熟した社会とはそういったものであろう。中国では、共産党幹部が私利に走り、数千億の資産を海外に持ち出しているという。一人の人間が一生食うには、こんな巨額な金は必要ない。欲にはきりがないということか。

 世界に認められている日本人のブランドは、勤勉で、真面目という点であり、こういった評価は海外で働くすべての日本人が背負うものであり、これに答えるべき世界の各地で日本人は活躍している。昔、ネパールのナムチェバザールというエベレスト麓に小さな村のさらにはずれに旅館を経営しながら、付近の子供たちに学校を開いている一人の老人がいた。キリスト教とかいう宗教的なバックボーンは一切ないが、自分がしたかったので、定年後にネパールに来たという。どちらかというと金よりやりがい、生き甲斐に、価値を見いだす人物が日本人には多いように思える。こういった活動は、あまり報道されていないが、ネパールのこの地区の人々にとっては、日本人はこういった人物とイメージされる。先の東日本大震災は大きな試練であったが、一方海外の人々の日本人に対する暖かい思いを知る機会になった。

 サムソンのような韓国型経営をしないと世界では生き残れないという識者も多いが、ひとのものをパクリ、安く売るやり方は、日本人には合っておらず、研究者、営業担当者のやりがいに繋がるような、品質の優れた製品を真面目に、勤勉に作るのが長く生き残る方法と思える。昨今のスバル、マツダ、ダイハツのような自動車企業の姿勢には拍手を送りたいし、こういった企業姿勢は世界で通用する。ソニー、パナソニックも原点に帰れば、もう一度復活するだろう。日本ブランドを大いに活用すべきであろう。


2012年11月28日水曜日

台湾映画「言えない秘密」




 誰かが言ったが、面白くない本、映画は途中でやめる。時間の浪費だからと。

 ツタヤのレンタルビデオで毎月4本ビデオを借りていますが、おもしろい映画はめったにありません。いつも期限ぎりぎりで見るため、早送り、あるいは途中でみるのをやめてしまいますが、今回のレンタルは久しぶりにおもしろかった。

 今回は、台湾映画、「父の初七日と「言えない秘密」のふたつを借りました。家内は韓国ものが好きですが、私はどちらかというと台湾映画が好きです。「非情城市」という名作にはまったのがきっかけですが、話題作がなくなると、たいてい台湾映画を借りています。今回の「父の初七日」は台湾のお葬式を描いていて主題自体がおもしろいものだし、台湾の風土が感じられ、まあまあいい映画でした。

 今回、ブログで紹介したいのは、もうひとつの映画、「言えない秘密」、これは是非お勧めの映画で、この手の映画では「ある日どこかで」、「ジェニーの肖像」以下、「時をかける少女」以上の評価です。というとネタばらしになりますが、タイムトラベラーものですが、新機軸でよくできています。
 
 前半は、高校生の淡い恋を描いた青春もので、それはそれで楽しめますが、典型的、古典的な恋愛もので、ここらで、早送り、ストップ体勢となりますが、ピアノの旋律が美しく、まあもう少し見ようかと見ていました。主演の女優のグイ・ルンメイというひとは、私のタイプで、笑顔のきれいなひとです。撮影当時、24歳でやや高校生という設定には無理があるようです。一方、主演男優がもうひとつパットせず、ここらは女性が見るには厳しいかもしれません。それと高校の制服が、何だか、漫画の「花よりダンゴ」ぽくて、しらけてしまいます。

 こういった点を差し引いても、なかなかよくできた映画で、全編に織り込まれたピアノ曲が美しい余韻をひきますし、脚本もよくできていますし、エンディングもうまくいっています。こういった映画があるので、話題作以外もねちこく見る必要があります。ただめったにいい映画には当たらないので、時間の無駄にはなると思いますが。

 ネタばらしになるので、あまり書けませんが、途中で止めないで最後までみてください。50-70歳は医学的には熟年と呼ばれるそうですが、たまには高校生のころに気持ちを思いだすのもいいでしょう。

2012年11月25日日曜日

須藤かく13


 図書館で、「青森県海外移住史」(青森県発行 昭和46年)に須藤かくのことが載っていたので、転写する。おそらく本邦で最初に須藤かくについて記述されたもので、但し書きに「本稿はアメリカで活躍した笹森順造氏の提供によるもので二、三本文と重複する方もあるが、そのまま集録して紹介した」とある。笹森順造はアメリカ留学後に東奥義塾の再興に尽力した人物で、後に青山学院院長、国務大臣となった。須藤かくの叔父、須藤勝五郎とは若党町の実家が近いこと、同じキリスト教徒として須藤かくがアメリカに移った後も交流があったのであろう。須藤かくの父親が早く、東京に行ったことについては、佐藤幸一氏の著書「船将須藤勝五郎の生涯」でも、須藤新吉郎の消息が、明治6、7年以降、記録がぷっつりと無くなることから東京に移住したと推測している。須藤かくが13歳で東京に行ったとなると、明治6年ころとなる。東京女学校が開学したのが、明治5年であることから、確かに当時、東京でも女子の高等教育機関はほとんどなく、男に交じって学んでいた可能性はある。
 その後の記載は、例えばLaura memorial collegeをローラン・メモリアル、Yosokichi Naritaを吉田源五郎、フロリダで医業に従事していた(再渡米後はケルシー女史の故郷のオネイダにいた後、老後をフロリダで過ごした)など間違いもあるが、ほとんどは正しい。


        須藤かく  日本人女医の草分けー

文久2年弘前生まれ、明治維新廃藩置県後に父は青森県庁に出仕したので、かく女史も13歳の時、父に伴われて青森に移ったが、ほどなく家族とともに東京に転居した。
向学心の盛んな女史は学校にはいりたいと思っても東京に女子の学校がなかったので、男装して中学校に入学したが、それがある所で、性別がばれて退校させられた。
それから横浜にあるアメリカのミッションスクールにはいり、ケルシー女宣教師について普通学のほか医学を学んだ。明治24年にケルシー宣教師に伴われ、かく女史はサンフランシスコに上陸し、ニューヨーク州フェアポートで勉強し、次いでフィラデルフィアの電気治療学校に学び、またシンシナティー市のローラン・メモリアル女子医科大学に入り、明治29年優等で卒業、翌年ケルシー宣教師とともに帰朝し、内務省から医術開業免許状を受け横浜で開業5年に及んだ。
明治35年ケルシー宣教師とともに再渡米し、フロリダ州セントクラウド市に居を構え、医業に従事し、後年に姪の夫吉田源五郎と同居し静かに百歳の長寿を楽しみにしている。けだし本県出身の米国移住者の女性先駆者として異色の功労者である。

写真は笹森順造

2012年11月22日木曜日

中国の空母とステルス機


 中国海軍初の空母「遼寧」が就航した。日米軍事専門家の意見では、ほとんど空母として基本的な性能がなく、全く脅威ではないという点で一致している。理由としてはエンジンが一般船舶用のディーゼルエンジンを使っているため、最大速度で19ノットと低速で、これでは航空機の離陸に必要な揚力が得られない。あくまで練習用空母で、仮に何とか航空機の離陸ができても、燃料は多く積めず、また武装もできない。できるだけ軽い状態でないと離陸できないわけだ。

 また最近、2種類のステルス戦闘機の試験飛行にも成功したが、肝心の航空機エンジンの国産化にめどがたっていないし、ステルス性能にも疑問符がついている。さらにこういったステルス型戦闘機は、通常の航空力学と反した構造となっているため、その操作にはコンピューター制御が絶対に必要で、現時点では高い空戦能力を有する技術はない。試験飛行から実用化まではまだまだ時間はかかるであろう。通常、旧ソ連のようにこういった最新兵器は隠蔽するものを、こうも早く公開すること自体が、航空機会社と政府の思惑、こんな性能の兵器を作ってますよ、アメリカには負けませんという強がりのように思える。

 中国軍では、船舶用エンジン、航空機用エンジンがいずれもネックになっている。軍艦の船舶用エンジンは、ダッシュ力が求められるため、燃費は悪いが、ガスタービンのものが使われている。実は、このガスタービンエンジンは用途がほぼ軍艦に限られているので、生産メーカーは英国のロースロイス社とアメリカのGE社にしぼられている。ロシアもガスタービンには強い。これは航空機用エンジンでも全く同じで、GEとロールスロイスが強い。日本でも、自衛隊の軍艦、航空機のエンジンは、ほぼGE、ロールスロイスのエンジンを使っている。そのライセンス製作を通じて、日本のエンジン技術はそこそこ高く、近年は一部の兵器には国産のものが使われている。一方、中国においては、ずっとエンジン開発をロシアのコピーですましてきたので、近年になって中国の軍事力を脅威と感じ、ロシアが技術提供を拒否すると、途端に軍艦、戦闘機の開発が頓挫する。
 太平洋戦争においても、日本は軍艦の蒸気エンジンは何とか、欧米に近い性能のものができたが、結局、最後まで航空機用、戦車用のエンジンは欧米に匹敵するものができなかった。工業力の差である。戦後はその反省に立って、日本は基礎工学のレベルを上げていき、自動車エンジンでは世界最高の性能を達成できた。ただ民需用とは違い軍需用エンジンについては予算も少なく、戦車用エンジンまでは何とかなったが、航空機、船舶用エンジンはそのレベルに達していない。一国の工業力のレベルが反映される。思うに日本が太平洋戦争中に自動式拳銃の開発が遅れた理由のひとつに、ついにスウェーデン鋼使ったバネができなかったことによる。小さな部品、ひとつひとつが重要となる。
 こういった観点からすれば、中国の軍事力は、現時点ではかなり信頼性の低いものと考えられ、空母保有、ステルス機開発でも、これだけマスコミが騒ぐのは、むしろ自衛隊、軍需産業の思惑もからんでいるのであろう。ただ中国の兵器開発は旧ソビエトのやり方を完全に踏襲しており、その発想は西洋諸国のものと違い、人命、安全軽視、経験に基づくもので、航空機用エンジンにしても耐久性はあまり考慮されず、壊れたら取り替えという発想である。以前、宇宙服開発の歴史をテレビでみたが、ソビエトでは宇宙服の気密性を得るのに、ワンピースの服をパイロットに着せ、その端をぐるぐる巻き、ゴムで縛るのである。あまりに原始的な方法に唖然としたが、これで事故は一度もなく、現在の宇宙服もこの方法である。中国の二隻目の空母は、ガスタービンの開発を諦め、一挙に原子力推進エンジンを選択するかもしれないが、そこには安全設計はなかろう。ネジ一本の精度で、壊れる可能性があり、これはこれで非常に怖い。


2012年11月18日日曜日

現代セミナーひろさき —耳で聴く新・弘前人物志—、「兼松石居」


 今日は、弘前中央公民館主催の平成24年度、第3回 現代セミナーひろさき 耳で聴く新・弘前人物志、「兼松石居」で講演を行った。2ヶ月ほど前に依頼を受け、例によって簡単に引き受けたものの、こちらは歯科医が本職で、歴史はあくまで趣味。色々と資料を漁ったが、結局は昭和6年に発刊された森林助著「兼松石居伝」の本以外には、まともなものはなく、話もこれに準拠した。ただこれではあまりに面白くないため、得意の明治二年明治絵図の内容を挟んで、話をすることにした。

 会場には熱心な聴講者、20人程度が集まり、やや緊張したが、無事終了してほっとしている。ただ個人的にはいささか、肩に力が入り過ぎ、内容が難しくなった。反省している。もっと焦点をしぼって話すべきで、講演に用意した60枚程度のスライドの半分以上は飛ばして説明することになった。1時間の講演時間では少なすぎた。どういった聴衆なのかをもう少し検討して、講演内容を検討すべきであった。

以下、講演のレジメを貼っておく。

        兼松石居
  津軽の近代化の礎を築いた教育者
                             広瀬寿秀

 兼松石居は文化7年5月3日に生まれ、明治101212日に亡くなった。西暦でいうと1810年生まれ、1877年に亡くなったことになる。同時代の人物として、藤田東湖(1806年)、佐久間象山(1811年)、緒方洪庵(1810年)、横井小楠(1809年)が挙げられるが、明治維新のハイライトを浴びた人物をいうより、プレ幕末、プレ明治の人物を捉えた方がよい。福沢諭吉が1835年、橋本左内が1834年、吉田松陰が1830年、勝海舟が1823年、西郷隆盛が1828年生まれと考えると、それより一昔前の人物である。兼松石居が昌平坂学問所に入る時の江戸将軍は11代徳川家斉で(1787-1837)、つまり幕末期の15代将軍徳川慶喜(1837-1913)の4代前となり、幕末というより江戸後期と言ってよかろう。さらに幕末期、兼松石居は世子問題で蟄居されていたため、幕末から明治維新の間は完全に沈黙していた。こういった背景を考えて、兼松石居の業績を考える必要がある。
 兼松石居は、若い時は当時の正式な学問、朱子学を学び、昌平坂学問所でも舍長に選ばれるが、尊王思想、陽明学、蘭学などについても興味を示し、柔軟な思考の持ち主であった。さらに藩主とも親しく、そういった考えを積極的に弘前藩の教育方針にする立場であったし、実際に多くの有能な門人を生んだ。
 幕末期、弘前藩には工藤他山(1818-1889)、櫛引錯斎(1820-1879)などの塾があり、次第に稽古館、東奥義塾に収斂していくが、彼らの先輩にあたる人物が石居であり、本多庸一(1849-1912)、珍田捨巳(1857-1929)、菊池九郎(1847-1926)など明治の偉人を生み出した。彼らにとっては、父親の世代にあたり、実際に本多庸一の父、本多東作や珍田捨巳の父珍田有孚とは同僚であり、親しい。学識、人徳とも高く、さらに津軽順承(ゆきつぐ)の世子問題でみせた気概は、同時代のほとんどの弘前藩士からは、一目置かれる存在で、ある意味、弘前藩の教育、知的な分野でのリーダーであった。あの頑固で、変わり者の佐藤弥六でさえ、大変尊敬していたことからもわかる。
 さらに在府の時期が長く、津軽人には珍しく社交的な人物で、多くの藩外の知己がいて、例えば杉田成卿、江川太郎左衛門、佐久間象山、藤田東湖ら、当時の一流の人物と深い交流があった。その関係から、勝海舟、福沢諭吉、山岡鉄舟らとも面識があり、佐々木元俊を杉田塾に、木村繁四郎、釜萢庄左衛門を江川塾、勝塾に、篠崎進を下曽根塾に、吉崎豊作、佐藤弥六を慶応義塾に送った。幕末から明治にかけて、弘前藩では優秀な若者を江戸に留学させているが、慶応義塾への留学者27名、海軍、兵学研究のために留学したもの35名にのぼり、これらのコネクションを作ったのが、石居の人脈であったことは間違いない。
 こういったことを考えると、もし兼松石居がいなければ、思想的にも東奥義塾ができたかどうか疑わしいし、うがって考えれば、幕末期において弘前藩の佐幕派から勤王派に鞍替えはなかった可能性もある。
 今回の講演では、こういった観点から、忘れられた人物、兼松石居の功績について検討してみたい。