2012年11月25日日曜日

須藤かく13


 図書館で、「青森県海外移住史」(青森県発行 昭和46年)に須藤かくのことが載っていたので、転写する。おそらく本邦で最初に須藤かくについて記述されたもので、但し書きに「本稿はアメリカで活躍した笹森順造氏の提供によるもので二、三本文と重複する方もあるが、そのまま集録して紹介した」とある。笹森順造はアメリカ留学後に東奥義塾の再興に尽力した人物で、後に青山学院院長、国務大臣となった。須藤かくの叔父、須藤勝五郎とは若党町の実家が近いこと、同じキリスト教徒として須藤かくがアメリカに移った後も交流があったのであろう。須藤かくの父親が早く、東京に行ったことについては、佐藤幸一氏の著書「船将須藤勝五郎の生涯」でも、須藤新吉郎の消息が、明治6、7年以降、記録がぷっつりと無くなることから東京に移住したと推測している。須藤かくが13歳で東京に行ったとなると、明治6年ころとなる。東京女学校が開学したのが、明治5年であることから、確かに当時、東京でも女子の高等教育機関はほとんどなく、男に交じって学んでいた可能性はある。
 その後の記載は、例えばLaura memorial collegeをローラン・メモリアル、Yosokichi Naritaを吉田源五郎、フロリダで医業に従事していた(再渡米後はケルシー女史の故郷のオネイダにいた後、老後をフロリダで過ごした)など間違いもあるが、ほとんどは正しい。


        須藤かく  日本人女医の草分けー

文久2年弘前生まれ、明治維新廃藩置県後に父は青森県庁に出仕したので、かく女史も13歳の時、父に伴われて青森に移ったが、ほどなく家族とともに東京に転居した。
向学心の盛んな女史は学校にはいりたいと思っても東京に女子の学校がなかったので、男装して中学校に入学したが、それがある所で、性別がばれて退校させられた。
それから横浜にあるアメリカのミッションスクールにはいり、ケルシー女宣教師について普通学のほか医学を学んだ。明治24年にケルシー宣教師に伴われ、かく女史はサンフランシスコに上陸し、ニューヨーク州フェアポートで勉強し、次いでフィラデルフィアの電気治療学校に学び、またシンシナティー市のローラン・メモリアル女子医科大学に入り、明治29年優等で卒業、翌年ケルシー宣教師とともに帰朝し、内務省から医術開業免許状を受け横浜で開業5年に及んだ。
明治35年ケルシー宣教師とともに再渡米し、フロリダ州セントクラウド市に居を構え、医業に従事し、後年に姪の夫吉田源五郎と同居し静かに百歳の長寿を楽しみにしている。けだし本県出身の米国移住者の女性先駆者として異色の功労者である。

写真は笹森順造

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