2007年12月30日日曜日

花の回廊 続き



 宮本さんと私は9歳違います。伸仁少年6年生のころは3歳だったため、ほとんど当時の記憶はありません。5,6歳ころからの記憶は鮮明ですので、その頃の尼崎を話したいと思います。

 尼崎は今でもそうですが、工場の街です。海沿いにある旭硝子の大きな煙突からはもくもくと煙が出て、それが街の誇りでもありました。難波小学校から伸仁くんの住んでたアパートまでの界隈は、中小の工場が建ち並び、朝からクレーンで機械を運んだり、何かを作っている音がしていました(今ではラブホテルなどになっています)。さらに住宅地やアパートの合間に数坪程度の小さな下請けの工場がいっぱいあり、すごい音を出して、旋盤加工などがおこなわれていました。当時は今と違い、騒音もそれほどやかましくなかったようです。機械油の臭いのする工場内には、いつも金属の削りかすがうずたかく積まれていました。工場の煙で洗濯物にすすがつき、こどもたちにも喘息が多かったようです。うちの姉はそのため実家の徳島県に1年ほど療養にいっていました。

 朝の通勤時には、上下灰色の作業服を着た若者が、それこそざっくざっくと足音がするほど、毎日たくさん通っていました。まるで兵隊の行進のような情景です。鉄工所や旋盤工場に行くところなのでしょう。夕方になると、酒屋の奥のスタンドで、工員たちががするめやおでんなどを肴に安い日本酒を飲んでいる光景があちこちにありました。その頃の酒屋は今と違い、酒を売るだけでなく、奥の方に立ち飲みのカウンターがあり、安い居酒屋になっていました。昭和43年頃の三和商店街の写真はここに載っています(http://www.geocities.jp/yahho_ama/y_196809deya.html)。伸仁くんや友人の月村くんが新聞を売りにいったのはこんな所です。昭和40年ころには百万ドルといった有名なキャバレーもでき、ネオンに飾られた飲屋街は目がくらくらするほど眩しかった記憶があります。また映画館、芝居小屋、ヌード劇場などもありました。

 当時は下水道も完備されておらず、道の横には小さなどぶや幅1.5mmくらいの排水路もありました。蘭月ビルの裏にもこんな排水路があったようです。子供たちはおしっこの飛ばしっこをしていたものです。伸仁くんのアパートの東のある庄下川はこういった生活排水や工業排水が流れ込み、どろどろしてメタンガスが発生し、すごい臭いがしていました。

 伸仁くんが通っていた難波小学校は、マンモス校で、一学年6-7組ありました。卒業生の多くは昭和中学校(現 中央中学校)にいき、私立中学校にいくひとはほとんどいなかったと思います。美少女咲子も昭和中学校に、優秀な兄は多分県立尼崎高校に行っていたのでしょう。難波小学校卒業の有名人としては確か漫才のダイマルラケットのどちらかが卒業生だったと聞いたことがあります。まだ始まっていない第6部では、伸仁くんも卒業後私立の中学校に行きますが、このような環境で育つと私立の学校の生徒にかなり違和感を感じると思います。私の場合も、周囲の生徒が芦屋や神戸の子が多く、小学校時代はどちらかというとおぼっちゃんだったのに、入学当初は変にがらが悪そうに見られようとしていました。尼の子はおまえらとは違うといった変なプライド?のようなものがあったのかもしれません。それも1年ほどですぐに慣れてしまい、遊ぶのも神戸の方に行くようになりました。

 宮本さんの作品は美しい物語が多いのですが、その意味でも流転の海シリーズ、花の回廊は宮本さんの原体験が色濃く反映された作品で、やや異質な感じがします。作家としての視点と原体験からの視点との折り合いが難しかったのでしょう。在日のひとの扱いがやや後付けな感じがして違和感があります。同様なことは映画「パッチギ」でも1では違和感なく楽しめたのですが、2では戦争問題が出てきて変な映画になってしまっています。過去の話の中に、今の考えが語られると、当時そんなことを当事者でもないのに考えていたのかとちゃちゃも言いたくなります。

2007年12月27日木曜日

FM放送



 午前中にFM青森のドクターズ・コンサルティングという番組の収録を受けました。月曜日から金曜日の10:45からの10分くらいの番組です。夏、秋とこれまでも2回ほど収録しましたが、子供の矯正治療という同じテーマでは飽きられますので、今回は大人の矯正治療というテーマでしゃべらせていただきました。

 4回分の収録をいっきにしますが、途中電話が入り中断したり、休診日なのに患者さんが来たりして、なかなか収録も大変です。以前は歯の衛生週間でFMアップルウエーブで3度ほど話させてもらいましたが、こういった収録も随分慣れてきました。

 テレビに最初に出たのは、サッカーの神戸市中学選抜の一員として広島選抜と試合したときです。御影中学の先生に引率され、広島市の国泰寺高校で試合を行いました。メキシコオリンピックの主将である八重樫茂生が解説で、広島の地元放送局で放映しました。録画でしたので、宿舎でみんなと見た記憶がありますが、ゴールキーパとして絶好調の試合で、完封に押さえることができ、0対0のドロー試合でした。

 次にでた?のは、鹿児島大学にいた当時、離島診療で3か月ごとに十島村という、鹿児島と奄美大島の間にある吐噶喇列島を歯科巡回診療に行ってたときです。NHKの全国放送の収録で、30分ほど離島歯科診療の話をしました。当然、放映されると思い、家族にも話していたのですが、放映では一切カットされ、大恥をかいた記憶があります。NHKというのは随分たくさん撮って編集するのだなあと思いました。その後、矯正の話は、鹿児島放送や青森放送でもしましたが、放送時間の関係で誰も見ていません。

 今回の話も知人の歯科医から、頼まれてたものです。当初は一回のみということだったのですが、こう何回も話すとなると、ネタも切れてしまいますし、宣伝と思われるのもいやですので、次回からは誰かに振ってみたいと思います。

 写真は日本テレビの夏名アナウンサーです。ばっちり矯正装置が入っています。おそらくは治療期間の短縮を図ったのでしょう、セルフライゲーションブラケットのデーモンブラケットのようです。

2007年12月26日水曜日

陸羯南賞



 今年は陸羯南没後100年にあたり、各種の催しが弘前で行われました。弘前文化センターで行われた記念展も多くの市民が来場され、関心の深さがうかがわれました。弘前市民への認知度は多少高まったと思われるます。しかしながら数年前、弘前商工会議所が提唱した「陸羯南賞」については、あまり進展していないようです。日本新聞協会では日本のピュリツアー賞としてボーン・上田記念国際記者賞がありますが、あまり知られていませんし、国民みんなから認知されたものでもないようです。

 「陸羯南賞」を作ったとしても、それが名誉ある賞として認められるためには、審査が厳正であることが条件となります。弘前市、あるいは弘前市商工会議所で主催しても、なかなか審査員を集めることは難しいと思いますし、費用もないでしょう。むしろ日本新聞協会と協力して、現在の新聞協会賞あるいはそれに準じる賞として「陸羯南賞」を作ったらどうでしょうか。今までの選考方法を変え、各新聞社の社長と有識者が自社以外の新聞記者あるいはジャーナリストを選ぶというやり方もあると思います。反骨のジャーナリストという基準で選択するのもよいのかもしれません。鎌田彗著「反骨のジャナリスト」の中で描かれている秋田の むのたけじさん などはまさにふさわしいでしょう。新聞社を退職して秋田の横手で一人で週刊「たいまつ」を発行し続けたジャーナリストです。毎日新聞社の社長北村正任氏も青森県の出身ですので、いいチャンスだと思います。

 このことをある記者に話していたところ陸鞨南と言っても全国的には知名度が低いからなあと言われました。このことで思い出すのは、知の巨人南方熊楠のことです。私が最初に南方熊楠を知ったのは高校生ころで、平野威馬雄著「くまくす外伝」(昭和47年)を読んでからです。多少誇張して熊楠の驚くべき人物像を描いています。それまでも平凡社で南方熊楠全集なども出され、一部のひとからは評価をされていたのですが、この本が熊楠ブームの原点と信じています。その後は鶴見和子はじめ、多くの作家による熊楠の本が出され、今の評価につながっていったと思います。ちなみにこの本を読み、熊楠に感化された私は神戸の古本屋に行き、熊楠全集を買って読もうとしましたが、あまりの難解のため中断しました(確か十二支考を含めた3巻です)。その後鹿児島から青森にくる時に近所の古本屋に売りにいくとこんな重い本はただでもいらないといわれショックをうけました。結局は捨ててきました。

 陸羯南も今のところ、くまくす外伝の出版前の状況かもしれません、何らかのきっかけでブレイクする可能性があると思います。平成21年からNHKスペシャルドラマとして「坂の上の雲」が始まります。羯南がどのように扱われるか期待しています。反骨のジャナリストとしての知名度が上がることを祈っています。そして陸羯南の生誕の地、弘前で「陸羯南賞」が表彰されればと思います。

2007年12月23日日曜日

編集のお仕事


 どの学会でもそうですが、学会誌を発行することが、学会の大きな仕事のひとつです。大学勤務時代は九州のある地方会雑誌の編集委員を長らくしていました。その後、開業してからはずっと東北の地方会雑誌の編集委員をしています。さらに以前編集理事をしていた日本臨床矯正歯科医会雑誌と別の全国的な学会誌の査読も行っています。

 日本臨床矯正歯科医会雑誌では、編集理事でしたので、編集のすべてを経験しました。通常、まず原稿集めから仕事が始まります。開業医の多い学会では、先生方も仕事が忙しく、なかなか原稿を書いていただけません。そこで学会などでこれはと思った研究をピックアップして発表者に論文作成をお願いするのです。何回も催促してようやく、原稿をいただくと、編集委員会を開催して、次は査読者を探します。2ないし3名のその分野に詳しい先生を選び、無記名にして原稿を送り、査読してもらいます。結構きびしい意見を書いてくる先生も多く、無理いって書いてもらった著者にきびしい査読結果を送るのは、なかなか難しいもので、中には怒られたりします。締め切りにも追われながら、ようやく訂正原稿がくると再び編集委員会で討議して印刷所に送ります。場合によってはページ数が多くて、大幅に減らしてもらうこともあり、一度な著者のところまで行って、半分にしてもらったこともあります。印刷所では活字を組み、著者に校正をしてもらい、OKとなって印刷に入ります。材料屋の広告集めも大変ですが、1冊の雑誌になると本当にうれしく思います。

印刷所の仕事も何度か見学に行きましたが、今やほとんどコンピューターでなされます。原稿の入力や編集はすべてパソコンで行い、アルミの版に出力され、それを印刷機にセットして、すっていきます。あっという間に印刷されてきます。まるで大型のプリンターのような感覚です。

 最近の学会誌では英文号もありますが、どういう訳がここ数編、英文論文の査読をまかされます。特に英語が得意でもないのに、どうしてわたしのところに英文論文が送られてくるか不思議です。さらに最近では、すべて所定のメールでやり取りされる上、査読結果も英文で書かなくてはいけません。どうみても日本人の書いた論文なのになぜ英文で査読しないといけないかわかりません。通常の論文の倍以上の手間がかかります。ネーティブから見れば、とんでもない英語です。著者には大変申し訳ないと思っています。

 他人の論文を読み、批判することは簡単ですが、実際論文を書くのは大変なことです。まして開業しながら論文を書くのは時間的にも非常に難しいと思います。大学時代は年に2編以上は書こうと志していましたが、開業してからは2、3年にひとつくらいになってしまいました。来年こそは是非1編は書いてみたいと思います。

2007年12月19日水曜日

珍田捨巳 6


 私の好きな論客のひとりである松本健一の近著「畏るべき昭和天皇」を読んだ。大変面白く一気に読めた。この本の中で、松本氏は昭和天皇を、明治人が作った絶対主義的な専制君主システムが破綻した昭和の時代に、たった一人で戦った「畏るべき」ひとであるという評価を下している。そして摂政時代のヨーロッパ外遊がその人格形成に決定的な影響を及ぼしたとしている。外遊による「カゴの鳥」からの脱却が、昭和期の無責任の軍人、政治家の中で唯一国際感覚をもつ常識人であり続けた。それまで無口で弱々しいとみられた昭和天皇がこの外遊を契機に驚くべき成長を遂げたことが記されている。この本の中で、珍田に関連することがあるので、ピックアップしたい。

 大正10年のイギリスにおける歓迎晩餐会での、昭和天皇の「堂々たる御態度」、「玉音朗々、正に四筵を圧するの概」に駐英大使の吉田茂は感嘆している。ただ公式晩餐会での通訳をつとめた珍田の声は小さく、「英語巧みなるも声量不足」され、それ以降は東宮御用掛の山本信次郎(海軍大佐)に変えられている。デポー大学で弁論を行い、パリ講和会議でもファイターと知られる珍田は、日本語はともかく、英語での演説は朗々としているが、この時期はむしろ外交官僚としての態度が備わっており、通訳としては向いてなかったのかもしれない。随行員のひとり「竹下勇海軍中将の述懐」で「三名(閑院宮、珍田、竹下)殿下の御挙動に就いて、尚未だ御直しにならざる点二三ヶ所あり。珍田伯、涙を流して言上したり、余も軍人が敵陣に向かい突入し、又は敵艦隊と交戦するは決して難事にあらず。唯だ殿下に諌言を言上するは至難中の難事なり。之を敢えてするはよくよくの事と御召され、御嘉納あらせらるることを切望申上げるに、賢明寛大なる殿下は能く御嘉納あらせられたり」。珍田の真摯な態度が垣間見られる。おそらくこの外遊中、珍田は折にふれ、欧米事情、国際平和協調、国際法、立憲君主制度など教えた。外遊中、宮中とは違い、天皇と臣下の距離はより近かったのであろう。珍田はパリ講和会議では人種差別撤廃案などを提出し、非白人国やアメリカ黒人の賛同を得る一方、中国の二十一か条要求の取り消し要求や韓国併合などの件については無視し、自国のためにダブルスタンダードも平気でできる外交のプロでもあった。そんな珍田からすれば若き天皇の成長を喜ぶ一方、欧米白人社会のしたたかさをまだ教えきれなかった悔いがあったのかもしれない。
戦後、昭和天皇が積極的にキリスト教を宮中に取り入れ、わざわざ皇太子の家庭教師にクリスチャンを指名したたことを、松本は占領軍に対する天皇のしたたかさとしており、その後の押し返しをみると実際その通りとは思うが、その脳裏にはキリスト教徒であった珍田や牧野らの姿をなつかしみ、また自分の人格形成によかったと思ったのかもしれない。珍田らの明治期のクリスチャンの思想基盤は、武士道や国家あるいは国体の上に築かれたものであり、外交や天皇の教育に宗教が登場することはなかったと思われる。

2007年12月16日日曜日

インプラント矯正


歯を動かす場合、動かしたい歯だけでなく、動かしたくない歯も動きます。抜歯をして、前歯を中に入れたいと思っても、奥歯も前に動きます。このことを固定といって、奥歯をどれだけ動かさないようにするかで、最大固定、最小固定などと呼ばれます。とくに問題になるのは、いわゆる出っ歯(上顎前突)の症例で、多くの場合、上の奥歯を動かさないようにして前歯を最大限後ろに送るように計画されます。

従来は、ヘッドギアーと呼ばれる、ベルトや帽子のような装置を10時間程度使用してもらい、奥歯が前に寄らないようにしていましたが、なかなか大変で、とくに成人にその装置の使用を勧めるのには抵抗がありました。

10年ほど前から一部矯正医がインプラントを固定源にして歯を動かす試みをするようになりました。歯が無くて、そこにインプラントを入れる症例などに限り、それを利用して歯を動かしていました。その後、矯正用として小さなネジタイプのインプランやチタンのプレートを用いたより強固な固定のできるものが登場しました。この分野での韓国の企業の躍進はすさまじく、ここ数年は数多くの矯正用のインプラントが登場しました。現在では一般の歯科インプラントと区別してTAD(テンポラリーアンカレッジデバイス)と呼ばれています。矯正期間中の1、2年くっついてくれればいいからです。

当院でも2,3年前から利用し、ようやく終了患者も出てきました。固定がきっちりできるため、かなり計画通り治療ができ、助かっています。一方、脱落するケースも多く、特に骨の未成熟な成長期の患者さんへの使用は禁忌となっています。成人、20歳以降の患者さんのみ限り用いています。ヘッドギアーのような装置を使わなくて楽だと思うのですが、患者さんによっては手術が怖いのか、拒否されるひともいます。当院では矯正治療で抜歯する際に、口腔外科の先生に頼んで一緒にインプラントを入れてもらうようにしています。

矯正用インプラントは、上顎前突の多いアメリカでは今最も脚光を浴びており、専門誌でもその特集ばかりの1年でした。ただ矯正用インプラントが登場したからといって矯正自体の基本は変わるものではありませんし、小児の治療には使えません。

2007年12月13日木曜日

キリム 1


 セネのキリムです。もう少し、細かい画像を載せたいのですが、どうもBloggerのアップロードの調子が悪く、かなり容量を落とさなくてはいけないようです。
 このセネのキリムは数年前の兵庫県西宮のアートコアで購入したもので、非常に気に入っています。セネはイランの北西部にある都市で、現在はクルデスタン州の州都サナンダジとなっています。18世紀、ペルシャ中央政府はクルド人の統治を容易にするためこの地にテヘランから役人を派遣し、都市を作りました。その際、クルドの伝統的文化とペルシャのモダンな文化が融合され、キリム、絨毯も独特な発展をしました。
 キリムというのは、あくまで絨毯の脇役たるもので、多くのキリムはだいたい絨毯をやや省略したデザインとなっています。極端な例では、絨毯を包む布代わりにキリムが使われていたようです。絨毯は財産と考えられていましたが、キリムはどちらかというと日常品と考えられていたようです。そのため1970年ころ世界中でキリムがブームになるまで、商品とはあまり考えられていなかったと思います。
 セネのキリムも、絨毯同様、かなり緻密に作れており、真ん中にメダリオンがあり、花を変形させた独特の模様(ヘラティ文様)も絨毯をデザインを変形させたものと思います。めまいがするような模様です。このキルムはおそらくは1930-1940年ころの製作と思われます。もっと古い、19C末あるいは20初のものは赤みがもう少しあせています。ただボーダと呼ばれる周囲を取り巻く模様をよく見ると、全く左右対称になっていません。イスラム文化では対称性が求められ、商品化されたものでは少しの非対称もありません。1950年以降のキリムはかなり対称なものになっており、その点でもそれよりは古いと勝手に考えています。
 たて糸には綿糸、横糸にはウールが使われていて、非常に薄い仕上げになっています。また編み方もSlitweaveと呼ばれる高度の技法が用いられ、曲線が連続的に表現されています。そういった意味でセネのキリムはペルシャの中でも最も優れたキリムと言えると思います(セネの絨毯はもっとすごい)。このキリムもメダリオン部の白の色彩と周囲の赤のコントラストがすばらしいと思います。
 セネのキリムは古いものでも比較的コンデションがよく、おそらくは敷物ではなく、壁掛けとして使われたのではないでしょうか。セネのキリムはハーレムの間仕切りに使われ、他の婦人より目立つように複雑な模様にしたというエピソードがあります。現在もセネでは輸出用のものが生産されていますが、どぎつい色彩が使われていて、このキリムのようなしっとりした感じはないと思います。古いものほど人工染料の使われ方が少なく、その分色調がしっとりしています。

2007年12月9日日曜日

ブナコ3



 ブナコの特徴は、軽くて成形が自由にできる点だと思います。そのためブラケット(壁につける照明)やペンダント(天井に吊るす照明)などは非常にむいています。ただブラケットやペンダントは電気工事が必要なことや、他のインテリアや部屋の雰囲気に合わせる必要があるため、通常は新築時に買うものです。贈り物には向いていません。むしろ照明としてはテーブルスタンドなどの方が贈答品には向いているようですが、種類が少ないようです。以前、ダストボックスや椅子をプレゼントに選んだことがありますが、こういったものはプレゼントには喜ばれます。またこの前紹介した大きなランドリーボックスに使えるものなども、値段によっては売れそうです(一般住宅にはやや大きいか)。
 洋間やリビングの掛け軸について以前書きましたが、外国のインテリア雑誌などで見かける中国や日本の書画は大体写真上のように額を作り、そこに収めて掛けています。大型の額のため、かなり重量があり、また費用もかかります。一旦、表装をほぞく必要もあり、また季節ごとに絵を変えるといった掛け軸の軽快性もなくなります。それでは、壁にくぎを刺し、それに掛け軸のひもをかけて吊るす方法はどうでしょう。これでは貧相ですし、またかっこ悪いと思います。正式な床の間でも上部は壁で仕切って、ひもが見えないようにしています。そこで写真下のように掛け軸の軸とひもを隠すような屋根(ブラケット)をつけたらどうでしょうか。フォトショップでむちゃくちゃ作ったもので、かえってイメージが壊れるかもしれませんが、かなりスッキリします。洋間やリビングでもこういったブラケットをつけると掛け軸も飾れるのではないでしょうか。ブナコの自由な造型性や軽さが生かせると思います。ただ実際に商品化となると需要がかなり限られることや、掛け軸の幅は種類は限られているとは言え、数種類あることなどから、なかなか難しいと思います。
 器から照明器具、さらには椅子といったブナコのたえまない変遷や、日本や海外のブランドやデザイナーとのコラボも、今後ますますしてほしいと思います。青森県は貧しい県ですので、東京や大阪、あるいは海外に高額で付帯価値のあるものを輸出して、豊かになってくれればと思います。

2007年12月6日木曜日

ブナコ 2



左のブナコのうつわは、2年ほど前に弘前市内のリサイクルショップで購入したものです。確か8000円くらいだったと思います。購入後に店長といろいろと話をしました。値づけがむずかしかったでしょうと聞くと、持ち込みのもので、ほぼ未使用ですが、中古食器の評価としてはこれくらいと言っていました。何の木材がはっきりしませんが、底の木目が非常に美しく、また縁の細工もすばらしいものと思います。ブナのテープ自体を互い違いに色目を変えているため、きれいな模様が出ています。相当手の込んだものと思われます。いつ頃に作られたものかははっきりしませんが、今ではなかなか作られないものではないでしょうか。おそらくは量産品の類いではなく、工芸品として作られたものかもしれません。いずれにしても非常に安い買い物だったと思います。こういうこともあるので、たまにはリサイクルショップものぞいてみるものです。
 当初は、すしでも盛ろうと考えていましたが、あまりに美しすぎてもったいない気がして、未だに未使用です。前の持ち主も同様だったのでしょう。このあたりが、実用品と工芸品の使い方の難しい点で、食器としては下の写真のような現行品の方が優れていると思いますし、この路線でいいと思います。若い人はいいものを日常の生活にどんどん使っていき、生活そのものを楽しむ傾向があります。きれいなものでも高くてもったいないと思うようなものは、売れないのではないでしょうか。また食材を盛る器としても、あまりに凝ったものは使いにくいと思います。
話は変わりますが、9月に大阪の学会に行った折に、ちょうど京都市立美術館で「北欧モダン デザイン&クラフト展」がやっていました。大変混雑していましたが、内容はそこらで買えるようなものが展示していて、こんなものでよく展覧会が開けるものだと感心しました。ロールストランドの食器などは私も持っているものや、オークションなどでよく見られるもの(1-3万円程度のもの)が堂々と展示しており、入場料1000円は返せと言いたいところです。津軽の特産品であるブナコやこぎん刺し、津軽塗などもどこかできちんと収集しておかないと、散逸してしまう可能性も高いと思います。前回紹介したブナコや今回の盆もブナコの会社の方ではすでに保管しておらず、展覧会をする場合でも北欧モダン展と同じようになってしまいます。陶芸のような作家名が残るものについては、例えば津軽の代表的な陶芸家高橋一智の場合でも、遺族あるいはコレクターがその作品を保存していますが、ブナコ、こぎん刺し、津軽塗のような作家名にないものについては作品が散逸してしまう可能性が高く、弘前市立博物館などが積極的に収集してほしいものです。

2007年12月2日日曜日

ブナコ 1




ブナコは今脚光を浴びています。ブナコは、ブナ材の薄いテープを巻き締め、鉢や皿などに成形したもので、歴史的にはそれほど古いものではありません。1958年に青森県工業試験場の城倉可成と工芸家石郷岡啓之助によって開発されたものです。リンゴ酢の研究開発に使われていたブナ材単板を筒状に巻いた道具がヒントになったそうです。木材でありながら自由な成形ができること、最近ではエコの点からも評価されているそうです。開発当初からかなり色々な試作がなされていたようで、写真上のようなブラケット(照明)もすでに20-30年前には作られていたようです。現行のもの(写真下)に比べて全体的にボリュームが大きいようですが、実に斬新なデザインです。ただ当時はそれほどデザインに対する関心は薄く、この商品も試作に終わった可能性があります(実はネットオークションで買ったのですが)。おそらく望月好夫さんの製作と思われます。その他にはペンダントなどの照明器具や椅子、鉢などかなりおもしろいデザインのものが当時作られていましたが、市場ニーズが少なく、商品化されなかったようです。ようやく最近になり市場が追いつき、ブナコ人気につながったものと思います。
弘前市内の繁華街、土手町にようやくブナコのショールームが12/1にオープンしました。早速、本日見てきましたが、おしゃれな空間にブナコの作品がたくさん展示されていました。ビームスやカッシーナのオリジナルブナコも展示されていましたが、その中でかなり大振りなダストボックス(高さ50cmくらい)が目につきました。オープン祝いの花を置くため上下逆にして花置きとして飾られていましたが、前にベターホームズにいた店員さんが私のことを知っていて、わざわざ見せてくれました。内面を赤、青、無色に塗った3種類があり、洗濯物や本、ドライフラワーなどを入れるものとして使えそうです。北欧ぽいかんじで本当に部屋のアクセントになります。まだ試作段階のようですが、東京や欧米で人気がでそうな商品です。
またブナコ商品の裏にブナコのマークが入るようになりました(made in aomori)。民芸運動の影響で、これまでは一切マークは入っていませんでした。以前にもベターホームズの店長に海外に売り出すためには是非ブランド名を入れるべきだと進言しましたが、実現されうれしく思っています。さらにいうとブナコのコレクターが現れるようになるためには、一部限定商品には商品番号や作者名も記すのもいいと思います。私の好きな北欧の陶器には裏にSaxboといった会社名、55といった商品名、Staeher-Nielsenといった作者名が入っており、コレクターに愛されています。
世界に発信できる商品は弘前にはまだまだあると思います。ブナコがさらに世界に羽ばたく日を期待しています。

2007年11月30日金曜日

珍田捨巳 5


珍田捨巳、牧野伸顕、西園寺公望、この3人は、摂政時代、即位後の昭和天皇をよく支えた。大正というと、大正デモクラシーと呼ばれるような自由な時代と思われがちだが、資本主義の台頭と、それに伴う資本家に支配された社会秩序の不平等が現れ、さらにそれに呼応するかのような各地の小作争議や戦闘的な労働運動が発生し、社会主義的な考えも広がっていた。また軍部では日露戦争の勝利による権利意識が顕著になった時代でもあった。このような時代にあって国体の中心であった大正天皇が病弱なため、非常に不安定な状況であった。
珍田、牧野、西園寺など、後に宮中グループと呼ばれる人々は、その頃欧米各国を取り巻く国際協調主義を天皇に教え、あくまで中立的な立憲君主像を求めた。その総決算として行われたのが天皇のヨーロッパへの外遊であった。珍田は供奉長として天皇とともにイギリス、フランス、ベルギー、オランダ、イタリアなどの各国を訪れた。随行した山本信治郎によれば「皇太子殿下は、恐れ多くもほとんど慈父に対するような態度で珍田に接せられ、私どもはそばで拝見いたしておりまして、ただ感激した次第です」と語っている。一方、珍田は帰国後、牧野にヨーロッパ外遊中の皇太子の行動について「御性質中御落着きの足らざる事、御研究心の薄きことなどは御欠点なるがごとし」ときびしい評価を出している。これは将来の天皇に課せられた巨大な任務を慮ってのことであろう。その後も、珍田は自分の外交チャンネルを利用して、欧米の社会状況を折にふれ、天皇に進言した。昭和3年の天皇即位の大礼が京都で行われたが、高齢の珍田はひとつの儀式も欠かさず出席し、侍従長としての責務を全うし、その翌年亡くなった。天皇に対して忠臣であった。
珍田亡き後も牧野はひとり、天皇を輔弼したが、軍部、外務省に影響が少なく、次第に孤立化していく。
珍田は、子供の頃の名前は辰太郎であったが、その後捨己(すてき)と言った。在外勤務中にステッキ(杖)と発音が似ているため、捨巳(すてみ)と改めたという。それ故、珍田捨巳、珍田捨己のどちらも正しいことになる。
近年、「相手を信頼して、反省する」珍田の外交方式が日本のその後の外交基調になり、その結果「相手国を信じる」珍田外交が日本を滅ぼしたという論がある。外交のプロである、珍田にすれば外交の駆け引きのルールには精通しており、単純に相手国を信じた訳ではあるまい。ただキリスト教徒として、武士の末裔として人間相手の話し合いでは信義が最も重要と認識していたのであろう。

2007年11月24日土曜日

第一回東北矯正歯科学会秋期セミナー


昨日、仙台で行われた東北矯正歯科学会秋期セミナーに参加してきました。宮城県歯科医師会館で行われましたが、なかなか盛況で多数の先生方に参加していただきました。準備をしていただいた仙台の先生方には感謝です。どうもありがとうございました。
4人の演者が「成長期の咬合管理」というテーマで講演しました。私も30分ほど、当院での流れ、治療方針などの説明をさせていただきました。講演後、親しい先生からは矯正専門医の本音を聞けておもしろかったというお褒め?の言葉をいただき、やや安心したところです。
せっかく講演するので、開業当初の3年間の患者のその後の経過を調べてみました。95から97年までの3年間に当院にて検査を受けた患者のうち、乳歯列、混合歯列期から長期咬合管理を受けた173名について、その後の経過を追いました。反対咬合85名のうち卒業、終了までいったものは21名(24.7%),管理継続中が17名(20.2%)、中断47名(55.3%)となりました。中断患者のうち一期治療中のものが44名(93.6%)でした。 叢生(でこぼこ)では35名のうち、卒業、終了は18名(51.4%)、中断は18名(45.7%),そのうち一期治療中のものは11名(68.8%)となりました。主訴が改善すれば、よいと考える患者は多く、反対咬合患者では噛み合わせが改善し、ある程度その状態で落ち着いたなら、多少でこぼこがあっても来なくなる傾向があるようです。叢生の場合は基本的には二期治療終了まで主訴は改善しないため、保定中に来なくなる傾向があるようです。
成長期の反対咬合の患者さんでは、中学あるいは高校生ころからあごが急に大きくなり、噛み合わせがくずれることがあります。そのため噛み合わせが治ったからといって通院しないことはないようにしてほしいと思います。一度、来院しなくなると、あとで悪くなっても、なかなか来院しにくくなるものです。ですから、とくに男子の場合は終了は完全に終了するまでは見ていかなくてはいけません。
二期治療を受けるとまた費用がかかるため、これくらいでよいと思い、来なくなるケースもあると思います。本人、親と十分に相談して二期治療を開始しますので、したくなければそれでよいと思います。半年、一年ごとの定期検査で虫歯のチェックや歯磨指導、レントゲン写真によるチェックなどを行います。
写真はカナダのアニメ「BraceFace」の主人公Sharon Spitです。Wikepediaで見る限り、あまりおもしろそうではありません。
ホームページはこちらです。http://www.bracefacetv.com/index.asp

2007年11月18日日曜日

近藤翠石の掛け軸 続き




前回の続きとしてもうひとつの近藤翠石の掛け軸を紹介します。うちの母親は趣味で水墨画を描いていますが、一度金屏風を画材として使いたいと思い、友人から古い金屏風をもらってきました。結局、屏風自体は破損が多く、捨てることになったのですが、その時屏風に貼られていたのがこの掛け軸です。私自身母の絵よりはよほどましと思い、何とか説得して表装してもらいました。
前回、紹介した能州の絵に比べてかなり丁寧に描いています。賛は「裏山帰樵」となっています。樵が山から帰るモティーフは、南画では比較的よく用いられます。山に柴を刈り、田畑で作物を作るといった素朴な生き方に共感がもたれたためです。右の絵では山の中腹から滝を見ながら茶をゆっくり飲む文人の姿が描かれています。よく描かれていますが、前回にもお話したように、南画の価値は今は非常に低く、オークションに出しても2,3万円くらい、競合者がいないと1000円くらいで落札されます。
掛け軸に描かれるのは、文人の理想の風景で、確か、1に見てみたい所、2に行ってみたい所、3に住んでみたい所、4にそこに一生住みたい所で評価するようです。この絵に描かれているような所に私は住みたいとは思いません。とても文人の境地には達していないようです。
今まで数多くの美術展を見ましたが、確か1985年ころ京都で行われた富岡鉄斎展に一番ショックを受けました。没後150年の大規模な展覧会で、鉄斎の全貌を余す事なく伝えるものでした。掛け軸のような小さく作品でも鉄斎にかかれば、そこに小宇宙を作り出します。世界に通用する画家だと感じました。その後も南画、水墨画に興味をもって見てきましたが、近年ますます凋落傾向にあり、現代の日本画家で軸物をかけるひとはもはやほとんどいないようです。多くの日本画は洋風の部屋に飾ることを前提にしているため、横長の額縁サイズになっています。この画家がいきなり縦長の軸物をかけといってもそれは難しい。岩手県立美術館にも萬鐵五郎のかいた軸物(ほぼ遊びでかいたものだが)があるが、あまりに稚拙で軸としてはバランスが悪い。
この極端な縦長の画材というのは西洋ではほとんどない形式で、このまま日本で廃れていくかと思うとさびしく、こういった制約した形式の中で、若手の日本画家が挑戦してほしいと思います。同時に欧米のインテリア雑誌などではリビングに実にうまく掛け軸が飾られており、そういった例も取り上げていってほしい気もします。

2007年11月11日日曜日

近藤翠石の掛け軸



左の掛け軸は昨年、ヤフーオークションで8000円で買ったものです。落款は翠石となっており、Googleで検索すると、大橋翠石と近藤翠石の二人の画家が検索されます。大橋翠石は虎の翠石と呼ばれる動物画の名手ですが、どうも落款が違うようです。近藤翠石は大阪の南画家の森琴石の弟子だそうで、現在はほとんど無名ですが、戦前は少しは有名だったようです(明治3年ー昭和25年 http://www.morikinseki.com/monzin/kyusyu.htm)。実は家にはこれと落款が全く同じ二幅の掛け軸があり、どうもふたつの掛け軸とも近藤翠石のものと思われます。
さらに賛を見ると、「庚申」と読め、これは1920年をさします。近藤翠石、49歳の時の作品と推定できます。またこの後の「孟秋」とは7月のことを言います。「能州」は今の能登地方を指しますが、その後の文字がわかりません。電子くずし字辞典で調べると(http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/shipscontroller)、どうも自次あるいは白次のように見えます。構図から左に島が右上方に二層の寺らしきものが見えます。能登半島でこれに該当するのは東海岸の穴水町付近と思われ、その付近の神社、寺を調べると、明千寺の山号が白雉山(はくじさん)とあります。Google Mapで見てみると、石川県鳳珠郡穴水町明千寺あたりの海岸線から左に能登島、右に白雉山を見たところと推定できます。おそらく雉を次と間違えたのでしょう。Google earthで立体的にみても付近の山は低く、とてもこの絵のようには切り立ったものではありません。近藤翠石がこの地を旅したときに書いたものでしょう。無料で使わせてもらっているGoogleの宣伝にもなりますが、こういった調べごとがインターネットで1、2時間で調べることができ、本当に夢みたいな話です。

拡大地図を表示
近藤翠石という画家は今ではほとんど知られていない画家ですが、この絵をみても技量は確かなものです。ただ残念なことは、いくらオークションとはいえ、たった8000円で取引されているという事実です。今の家は和室、床の間はないため、掛け軸は人気がありません。とくに南画はじみなため、オークションをみても本当に安い価格で取引されているようです。掛け軸は巻いておくと実にコンパクトになりますし、季節のものをかけておくと、そこがあたかもドアを開けた世界になり、本当に楽しいものです。額縁に入った絵は固定した窓に例えることができますが、掛け軸はドラエもんの「どこでもドア」のように、新たな世界が目の前に浮かびます。もっと注目されてもよいと思いますし、今は買い得です。名画の値段ーもう一つの日本美術史ー(瀬木慎一著 新潮新書)というおもしろい本があります。明治、大正期に活躍した野口小蘋という女流画家がいますが、大正期の画家としてはトップに近い評価を受けており、当時でも数千円の価格で取引されていたとの記載があります。今でいう数千万円に相当します。南画の評価は現在では低く、金持ちの代表的な掛け軸とされる橋本雅邦とともに非常に安くなっており、その評価の落差に驚かされます。

2007年11月6日火曜日

山田兄弟7


山田良政をモデルにしたマンガがあります。安彦良和さんの「王道の狗」(白泉社、全4巻)の主人公で、加納周助という名前になっています。左の図は物語のラストに近い場面で主人公が恵州蜂起に向かう場面です。この後、実際には良政は戦死します。当然マンガですので、ほとんどフィクションで、良政の履歴とはほとんど違います。調べてみると作家の安彦さんは弘前大学に在籍し、学生運動で中退してマンガ家になったようです。弘前にいた時に山田良政のことを知ったのでしょう。
このマンガの中で加納の武術の師として武田惣角が登場します。武田惣角といえば、植草芝平とともに、合気道の創始者として有名です。この二人に師事し、惣角から免許皆伝をもらった久琢磨(ひさ たくま)という朝日新聞の記者がいました。うちの両親が大本教系統の宗教団体に入っており、神戸の大水害の時にこの道場に父と一緒に行ったことがありました。父が数人と一緒に道場の周りを見回りに行った時に、突如砂防ダムが決壊して、ドンという音とともに、押し流され、それを私が発見して助けたということがありました。その時に一緒にいたのが久さんでした。きゃしゃな感じの普通の老人で、ばたばたした状況の中で平然と座っていたのが記憶にあります。武術の達人といっても、その風貌を見ただけでは誰もわからないと思います。
同じようなことは太平洋戦争の勇者も、戦後はきわめて平凡で淡々とした生活をしていた人が多いようです。例えば勇猛を誇る駆逐艦艦長の春田均中佐は、戦後、小さな材木屋に勤めながら、もくもくと病弱な妻の介護を37年間も続けたという(最前線指揮官の太平洋戦争 岩崎剛二著 光人社NF文庫)。功を誇るわけでもなく、幼い子供たちを妻に代わって淡々と世話することは、なかなか軍人にはむずかしいことだと思います。
本当に勇敢で、強いひとというのは、案外見た目は平凡なのかもしれませんし、逆に平時で平凡なひとも戦時では余人のまねができないような勇敢な行動がとれるのかもしれません。

2007年10月21日日曜日

アグリー・ベティ


NHK-BS2でアグリー.ベティという新番組がこの秋から始まりました。月曜日の午後11時からやっています。ださくて、かっこわるい主人公のベティーが、セレブでファッショナブルな雑誌「モード」の編集長アシスタントとして活躍するもので、アメリカではゴールデングローブ賞やエミリー賞を受賞した人気のある番組のようです。この主人公のベティーの口元にはメタルのブラケットが装着されています。さらにワイヤーとブラケットを止める結紮ゴムも青やピンクのものを使っており、それは目立つ事。おそらくドラマの主人公が矯正装置をつけて出ているのは初めてのことだと思います。主演のアメリカ・フェレーラは、おそらくこの役のために装置を装着したでしょう。眼鏡と同じく、主人公の完全なキャラになっています。
ベティの自己紹介ということで雑誌「モード」に提出した履歴書がHPに載っています(http://www3.nhk.or.jp/kaigai/uglybetty/resume/index.html)。アメリカ人の履歴書の書き方がわかって面白い。それこそ何でもこれまで経験したことを書くというもので、日本人ならアイスクリーム家でバイトしたくらいのことは履歴書にも書きませんが、ベティにかかると「ソフトクリームスペシャリスト、週末夜間マネージャー ダブルスクープ導入時にソフトクリームマシンの操作およびメンテナンス担当 2名の従業員(本人を含む)の管理」となります。
ややおもしろく書かれているとは思いますが、履歴書は面接をする側からすれば会話に糸口を探り、人物を知るためのもので、何も書かれてない履歴書ほど面接に困ることはありません。面接官もベティーのような履歴書をもらうと、少なくともおもしろそうなやつと興味を持たれること確実です。以前就職前に大学生の女の子で、ラジオ体操指導者というライセンスをもっている子がいました。それは絶対に履歴書に書くべきだといったのですが、はずかしいから書けないということでした。大学生の娘にも早速メールを送り、ベティーのような履歴書を書けるような経験を積むとともに、やってきたことはきちんと記録することを勧めました。わたし自身これまでも、講習会、講演会、役職など行ってきましたが、全く記録していないため、案外忘れてしまうことが多く、経験したことをきちんと記録しておくことも就職のような時には非常に役に立つと思います。
日本でもドラマに矯正治療をしている主人公がでるように早くなってほしい。

2007年10月15日月曜日

山田兄弟8



「津軽奇人伝 続」原子昭三著に山田兄弟についても次のような記述がある。
「良政が孫文と初めて会談したのは明治32年7月のことだった。当時、東京神田三崎町には、津軽出身の書生がゴロゴロしていた宿舎があった。ある日良政は「おい、今日は支那の偉い人が来るから、少し静かにしろ。相撲だけはとるな」と言いつけた。弟の純三郎は障子の破れ目から支那の偉い人を、垣間見たら、額はオデコ、後頭部もオデコのような小肥りの変哲もなさそうな小男がちょこんと座っていた。」     純三郎にとっても初めて孫文と会った瞬間であった。

上海日報紙に
「良政氏は裡に熱血もえ、外に冷静に、極めて真摯な人物であった。氏は最初上海にきた当時在留青年を集めてキリスト教青年会を組織したことがある。エバンス書店の主人などは、その頃の良政をよく知っているとのことである。また良政がいよいよ広東で事をあげることになるや、青年数名は香港の良政氏に手紙を出して従軍せんことを願った。しかし良政氏は大いに驚き、早速返事をよせて断然これを許さなかった」
「良政がいかに生徒に慕われておったかというのは、同文書院の生徒に櫛引武四郎という同郷弘前出身者がおった。彼は良政が止めるのもきかず、逆に恵州に参加し、九死に一生の生還をすることができた。しかし大正2年第二革命に於いて南京郊外で戦死、39才の生涯を終えている」     第二革命は1913年であることから、櫛引は1874年生まれで、良政の6歳年下、純三郎からは3歳年上にあたる。恵州蜂起が1900年であることから、26歳のころに参加した。良政が教鞭をとっていた南京同文書院(後1901年より東亜同文書院)ができたの1900年春で、おそらく櫛引は同文書院の1回生15名のひとりで、純三郎とは同期であったと思われる。ふたりはその後、どのような活動をしたのだろうか。

2007年10月7日日曜日

一戸兵衛 4



一戸大将は漢詩を愛し、造詣も深かったが、こんなエピソードがある。
「自分は幼少のころ、『実語教』とういものを父から習った。その中に『山高キガ故ニ尚カラズ。木アルガ故ニ尚シトス。人肥エタルガ故ニ尚カラズ。智アルガ故ニ尚シトス』ということが書いてある。私はどうしても、この『山高キ』の『高キ』がおぼえられず、また『ガ』ということがおぼえられなかった。出来ないと父に頭をコツンと叩かれる。それがくやしいので、どうしてもおぼえなければならない。カナ字をつけようにとしても、それを知らない。仕方ないから、本に鳥の絵をかいておいて『山高キ』の下にゆくと、鳥の絵をみて、鳥はガーガーとなくから『ガ』だと思い出して『山高キガ故ニ』と読んだものだ。それから一通り分かってきたら、好きになってよく覚えた。」 菊池九郎もそうだが、幼少期の漢文の素読を難しかったようだ。

弘前出身で山田純三郎のおいでもある佐藤慎一郎は
「一戸家と佐藤家とは親戚関係にあるが、叔母の話では、青春時代、一戸兵衛には秘かに恋した女性があった。たまたま上京して、その女性が一人の紳士といとも睦まじく、馬車に乗っているのを見て、ものすごくショックを受けた。そのとき、少年の胸には大きな憤りと悲しみ、そして『いまにみろ』という不撓不屈の炎がもえあがったという」  後半は少し飛躍していると思う。

弘前中学の成田豊実先生は
「一戸大将は、弘前の護国館の初代館長をされたり、東奥義塾に多額の寄付をされるなど、郷土を深く愛していたが、反面、津軽人を嫌っていた面もある。それは『一戸は少年時代不良であった』とか、『一戸の家は昔、おれの家の借子だった』と、とかく大将の悪口をいう者があったためである」 太宰治も同じようなことを『津軽』で書いているが、このような傾向はいまだにあるようである。どうも津軽人はややひねくれたところがあり、偉いひとをみると賞賛することをよしとせず、何かけなすところがないか探す傾向がある。そのため気候がきびしいせいもあるが、功成り遂げると故郷に帰らない。

2007年10月4日木曜日

宮崎椅子製作所の椅子


6か月前に注文した宮崎椅子製作所のPePe loungeがようやく届きました。ロット番号が5番でかなり早いロットです。懇意にしている近所のベターホームズの店長さんから以前紹介され、買ったものです。宮崎椅子製作所というから宮崎県にある会社かなあと思いましたが、HPで調べると徳島県鳴門市にある会社です。細部の加工がすばらしく、アーム部の継ぎや仕上げに手がこんでいます。当初、価格も45000円くらいで、この価格でこの仕上げは驚異的に安いと思いました。ただ残念なことに注文後、HP上で価格変更の通知が出ていて、その変更日付がHP発表の1か月前くらいになっていました。ベターホームズの店員さんが先方に連絡した時は45000円くらいだったのですが、手に入れた時の価格は56000円くらいになっており、また仕様も異なっていました。店長さんが気の毒がり安くしてもらいましたが、注文した時から値段が上がっても、普通は注文した時点の価格で販売すると思います。営業面ではまだまだ問題はあるようです。
もの自体は、かなり座り心地がよく、がっちり座れる感じです。座った時のアームの感触もよく、椅子自体も美しい作品です。なら材に赤のファブリックを合わせましたので、やや和風の北欧風という感じです。
隣に写ってきるのは有名なYチェアーですでに8年ほど使用しています。アーム部が汚れていますが、状態はよい方だと思います。
この2脚を比較しますと、先の不満を抜きにしてもやはりYチェアーの方が座り心地はいいと思います。普段は薄いクッションをひいていますが、PePe loungeよりゆったり長時間すわれます。幅はほぼ同じです。
8年前のYチェアーの価格は確か60000円くらいだったと思います。今はユーロが上がり、8-90000円くらいしていますが、8年前に価格で考えるとウムと考えてしまいます。確かにYチェアーは曲げと切り出しを多用し、マスプロダクション的な製品に対して、PePe loungeはかなり職人に手が入り、手間がかかっており、高くなるのはわかります。PePe loungeをみていると職人さんたちはさらに細部に手を入れ、フィンユールの椅子のような仕上げを目指しているのかもしれません。ただそうすると高くなります。このあたりのバランスが本当に難しいと思います。これからも期待したい会社ですし、できれば冬の長い津軽の地にもこういった椅子の会社ができたらと思います。
ちなみに下に敷いているキリムはイランのアフシャール・シルジャンと呼ばれるところのものです。トルコ系の遊牧民アフシャール部族が作ったものです。かなり太くてしっかりした糸を用いて、つなぎ織りで織られたものです。ボーダーのチューリップ模様はカシュガイやローリ族の影響だと思います。5.60年は経っていますが、フランジまで残っており、コンディションはよいと思います。最近の絨毯屋ではあまり見かけないようです。

2007年9月30日日曜日

菊池九郎 2



菊池九郎は、弘前市長坂町で生まれた。明治4年の士族在籍引越之際の図からは、現在の31番地あたりに菊池九(郎?)の記載がある。前に紹介した北辰堂の右斜め前あたりである。長坂町は今でも格式ある家並みが続く、静かな町で藩政時は中級武士の住んでいたところである。菊池家は南北朝ころまでさかのぼる名家で、津軽藩初代藩主の為信ころから仕えた。父新太郎は奉行を勤め、知行100石の中級武士であったが、早くに亡くなり、奈良家から嫁いだ幾久子は大変苦労しながら多くの子供たちを育てた。幾久子は、14歳の時に父奈良荘司を亡くした。正義のために重役と争い斬に処せられたためである。そのため家禄も没収され、少女時代から貧苦に悩まされたが、悲憤に沈む母をなぐさめながら、家計を支えた。本当に賢明な婦人だったようだ。ところが幼児期の喜代太郎(九郎)はあまり勉学には興味がなかったようで、今でいうところの登校拒否であったようだ。当時は論語などを幼児期から私塾に行って学ぶことは通例であったが、喜代太郎はだだをこね、行くのをむずかり、隣家の成田茂佐衛門になだめすかされてようやく登校していたという。幼なじみで生涯の友人の本多庸一は、幼児から才能が光り、対照的であった。
幕末期、津軽藩は佐幕につくか薩長につくかで、藩論は二分された。隣藩の秋田藩が幕府に反感をもち、薩長側につくと判断した津軽藩は庄内藩と連携して秋田藩を討とうと決まった。その使者として選ばれたのが菊池、本多、石郷岡らであった。彼らは庄内藩の藩主に会い、津軽藩は徳川側につくと決定した事情を説明し、同盟関係を結んだ。ところが彼らの留守中に藩内は事情はすっかり変わり、官軍側につくことになってしまった。帰藩してこのことを知った菊池らは多いに怒り、脱藩してそのまま庄内に行ってしまった。藩政奉還後、脱藩者であった彼らは処罰を受けなくてはいけない身であったが、信義をつらぬいた彼らを責めることはできず、また若い彼らに期待していた。
明治2年6月には藩主津軽承昭に随行して菊池は上京し、7月には慶応義塾に入学した。翌年3月には鹿児島留学を命じられ、鹿児島藩の英学校に入学し、その後兵学校に移り、砲術、兵制の研究を行った。ここで多くの知己を得るとともに、西郷隆盛に敬慕した。明治4年冬に弘前に帰り、作ったのが、東奥義塾である。
菊池九郎は決して傑出した才能ももつひとではなかったが、母幾久子と西郷隆盛を生涯尊敬し、敬慕し、それがかれの人格を形成したと思う。その純粋でやさしい人柄は教育者として、東奥義塾から優秀な人材を輩出した要因となっている。多感な青春期はひとの影響を受けやすく、教育とは最終的には教師の人格そのものが生徒に影響する。

2007年9月25日火曜日

菊池九郎 1


菊池九郎(1847-1926)は、全国的には知名度は低いものの、青森にとっては非常に重要な人物である。東奥義塾を創設し、数々な人物、珍田捨巳、山田兄弟、今和次郎、一戸兵衛などを育てた教育者としての功績は大きい。傑出した人格者として知られ、後藤新平などにも影響を与えた。これまでにも引用した 中学生のために弘前人物志(弘前市教育委員会)から引用する。明治期の人物を知るいいエピソードである。

「私は、6歳の時に父に死なれたため、叔父である菊池家に引き取られました。多忙な叔父は、あまり家に居ませんせしたが、それでも家のいるときは、少しものんびりしていません。小包の紐が落ちていれば、丁寧にほどいて束ねて抽き出しに入れたり、裏へ出てりんごの虫をとったりします。衆議院議員や市長という肩書きはそっちのけにして、道路に落ちている馬糞をひろい集めてきては、りんごの樹の肥料にするなど、よく働く方でした。叔父は、誰にでも親切で公平だったので、家に働いていた下男などは「旦那様の為なら、死んでもいい」とまで云ったものです」(菊池知学)
「明治25年頃、私は東京の先生のお宅に、足かけ3年ほど寄宿していました。そして、この家では主人、家族、雇人などが、みな平等に仕事をしているのに驚きました。たとえば、ランプを掃除したり、雨戸を開けたり、使いに出たりというのは、普通は書生がするのにに、ここでは家族の誰でもがやっています。食事のときも、先生、母上、書生、女中までがズラリとならび、主人も女中も、みな同じ物を同じように食べているのです。食事の時は無言で静かに箸をとるのが普通ですが、この家では、家族が談笑しながら食べます。平生家族と語り合う時間の少ない先生が、この食事の時間を利用していたのでしょう。ただ、西郷南州の話になる時は、先生は箸と茶碗をおき、両手を膝の上にのせて話をし、終わると再び箸をとって食事をしました。いかに西郷南州先生を敬慕していたかを、この事でもよくわかると思います。」(船水武五郎)
今の政治家、こんな人物がいるであろうか。

2007年9月8日土曜日

健康保険の適用できる不正咬合 顎変形症


手術をしないと上下のあごのズレを改善できず、かみ合せも作れないような症例では、その術前、術後矯正治療は健康保険が適用できます。一番多いのは下あごが上あごより大きい、下顎前突の症例です。噛み合わせは反対咬合となります。このような症例では、通常上下のあごがずれていても、何とか咬もうと上の前歯は飛び出て、逆に下の前歯は中に入り、上の奥歯が広くなっています。そのためあごのずれが例えば10mmあっても前歯のずれが3mmといこともあります。これは補償作用といいます。検査を行い、あごのずれが10mmと決定すると、今の位置から10mm下げた状態で咬むように手術の前に準備しておくことが術前矯正です。通常、上の小臼歯を2本抜いて、その隙間を利用して上の前歯を中に入れていきます。ブラケットをつけてワイヤーとゴムの力で歯を動かします。大体、術前矯正には1年半くらいかかります。
手術法で一番多いのは上の図にある下顎枝矢状分割術と呼ばれる方法です。もともとは開発者の名前をとってDal Pont-Obwegeser法とされていましたが、日本でも1970年代ころから盛んに使われるようになりました。最初のうちは分離した骨をワイヤーで軽く固定し、骨がくっつくまで大体4-6週間、上下の歯を縛っていました。そのため入院期間は長くて患者さんは大変でした。最近では固定にチタンでできたネジやプレートを使うため1-2週間くらいの入院になりました。大変進歩したものだと思います。
術前矯正は正確なゴールを目指しているため、手術が当初の予定と1mmでも狂うと、かみ合せがくるってしまいます。そのためサージカルガイドプレートと呼ばれるプラスチックの板を用意して、下あごを正しい位置に動かすガイドとして、その位置で固定します。このあたりの手技が大変微妙で口腔外科医の腕によります。
術後の問題として一番多いのは、下唇下部のしびれと触覚の鈍麻です。小さな神経が手術により切られることと、分離した骨を固定する際の圧迫によるものです。多くの場合は自然に解消しますが、鈍麻が続くことがあります。ただごはんつぶがついてもわからないといったくらいのものです。あと矯正医として深刻なのは、固定のズレと術後の後戻りです。ガイドを使ってかみ合せを合わせても、分離した骨を引っ張って固定してしまうと当初の予定とは違ってきます。また移動量の10-20%は後戻りしますので、それによってもかみ合せがくるうことがあります。ガイドを入れて1週間くらいは上下の歯を縛って固定しますが、それを解除する時はいまだに緊張します。
大学時代はすべて自分の患者の手術に立ち会い、一部手術にも手伝わせていただきましたが、大変細かな手術で、口腔外科の先生方も神経を使うと思います。
かみ合せと顔貌が劇的になおる治療法ですが、手術に伴うリスクもありますので、十分に検討して治療を受けられたらいいと思います。

2007年8月28日火曜日

宇宙大作戦



「宇宙大作戦」が現在、NHKのBS2で放送されている。若い人にはスタートレックといった方がなじみがあるかもしれないが、僕らの世代ではやはり宇宙大作戦である。放送時間が土曜日の1時半ということで、ソニーのスゴ録に入れて見たいところであるが、娘が同時間他の番組を録画しているので、しかたなく深夜一人で見ている。
中学生ころに確か放送されていたが、僕が最もよく見たのは、高校3年生の時(1974)で、再々放送くらいで深夜、毎日放送していた。高校3年生ともなると受験勉強でこんなテレビを見る暇もないはずだが、どうした訳がこのころはこの番組にはまり、おやじとコーヒーを飲みながらみるのが日課となっていた。クラスでもう一人はまっていた友人がいたので翌朝は決まって前の回の批評をお互いにしていた。
宇宙大作戦は後年、映画化されよりスケールの大きなものになっていくが、やはり初期のシリーズがおもしろい。カーク船長の女好きも初期シリーズではあからさまで、笑いをさそう。先週の「危険な過去の旅」でもタイムスリップした1930年代の慈善家の女のひとにすぐにメロメロになり恋に陥ってしまう。とても船長らしからぬ行為である。それでいてその女のひとが交通事故で死なないと歴史が変わると知るとすんなりと状況を受け入れてしまう。非常に軽いのである。他のシリーズでもカーク船長の女好きのため何度エンタープライズ号が危機に陥ったことか。普通、こんな経験をすれば少しは反省するのだが、カーク船長は全くめげない。腹も出て、それほどかっこいいとは思わないが、どうしたことか結構もてる(むしろひとりよがりの気もしないではないが)。
高度の知能をもつ宇宙生命体に人間のむきだしの欲望、本能が勝つというパターンはSFではよく見られるが、「宇宙大作戦」は欲望強い人間性をカーク船長に代表させ、MRスポックや他の登場人物とからませて物語を作っている。「2001年宇宙の旅」が硬派のSFを代表するなら、宇宙大作戦は軟派のSFとして見ごたえがあり、今でも高い人気をもつのであろう。
NHKのBSでは「コンバット」、「ララミー牧場」、「奥様が魔女」、「逃亡者」、「ルーシーショー」などの古いドラマを放送しているが、今見るとそれほどおもしろくない。今見てもおもしろいと思うのは、宇宙大作戦以外では「ヒッチコック劇場」、「タイムトンネル」、「アウターリミッツ」くらいか。

2007年8月26日日曜日

健康保険の適用できる不正咬合 唇顎口蓋裂


25年ほど前、東北大学の小児歯科にいたころ、口蓋裂チームに所属していました。手術は口腔外科が、矯正治療は矯正科が、う蝕処置は小児歯科が、言語治療は言語治療室がチームを組んで、唇顎口蓋裂児の治療を行っていました。といっても顎口腔機能治療部というところに行き、幸地先生の指導のもとに矯正治療を主としてやっていました。小児歯科からは私が、口腔外科、矯正科からもそれぞれ先生が来て治療をしていました。その頃は、青森や岩手から来る患者も多く、忙しくて大変勉強になりました。ここで矯正治療に興味を持ったため、その後幸地先生に紹介してもらい鹿児島大学の矯正科に行くことになりました。唇顎口蓋裂の矯正治療を私の矯正治療の原点です。
唇顎口蓋裂とは、唇裂(唇のみ)、唇顎裂(唇と歯が生えているところの骨)、唇顎口蓋裂(のどちんこまですべて)、口蓋裂(のどちんこだけ)に分かれます。口蓋裂はさらに軟口蓋裂(のどちんこのみ)と硬口蓋裂(その前に硬い部分も)に分かれます。また片側性と両側性に分かれます。唇の手術はだいたい生後6か月で、口蓋の手術は生後1歳6ヶ月ごろに行われます。施設によっては出生後すぐからホッツのプレートと呼ばれるプラスチックでできたマウスピースのようなものを入れ、ほ乳の手助けと手術をしやすくすることもあります。
唇顎口蓋裂の矯正治療の難しい点は、裂隙のタイプが差があるだけでなく、手術法や術者によって上あごの成長にかなり差が出る点です。通常の矯正治療においても個人差があるのは当然ですが、唇顎口蓋裂では手術による差も出てきます。強引な手術、とくに口蓋裂の閉鎖手術では、傷あとによる上あごのかなりの成長抑制がおこるため、ひどい反対咬合(かみ合せが逆)になります。唇顎口蓋裂や口蓋裂ではいずれも口蓋閉鎖術が必要なため、多くの症例で反対咬合となります。また唇顎裂や唇裂でも前歯に限局した不正咬合がおこるため、その矯正治療には健康保険が適用されますし、自立支援法も使えます。
弘前大学の形成外科からはだいたい2歳ころに私のところに紹介されてきます。この頃は主として歯磨きの仕方(母親)やフッ素塗布などの予防処置をしています。通常は永久歯が萌出するころから、治療を行います。反対咬合のところで紹介した上顎骨前方牽引装置や、リンガルアーチあるい前歯にブラケットをつけて、反対咬合の治療を行います。8歳から10歳ころには裂隙部の骨のないところに腰から骨を移植します(骨移植術)。東北大学が日本でも最初にやった施設だと思いますが、25年ほど前では十分な骨移植ができず、そこに歯を移動するのは難しかったのですが、現在は手術法の改良で十分な量の骨を入れることができるようになりました。糸切り歯が生えるころを目安にしますが、もう少し早くすることもあります。上あごは横にも狭いため骨移植術の前後に上顎骨側方拡大装置を使うこともあります。永久歯列の完成する中学生から高校生ころに全部の歯にブラケットをつけて仕上げの治療を行います。上下のあごのずれが大きい場合は手術を併用して治療します。
開業してこれまで100例以上の症例を見てきました。多くは大学病院で治療されるためこれでも個人の開業医としては多い方だと思います。手術法の進歩により最近では傷あともほとんどなく、ぱっとみてそれほどわからなくなってきていますし、骨移植術や初回の口蓋形成術もマイルドな方法がとられるようになり、ほぼ健常児と同等の仕上げを行えるようにもなってきました。ただ依然として旧来のやり方で手術されている症例もあり、初回の手術による上あごの成長抑制が強いとなかなか矯正治療単独ではうまくいかないのも事実です。いずれにしても2歳から20歳まで見ていく訳ですので、責任も重く、常に最新の情報を仕入れてよりよき治療を受けられるように努めています。親御さんたちも長い通院期間で本当に大変で、頭が下がります。

2007年8月21日火曜日

陸羯南4


昨日の弘前ロータリークラブの外部卓話で、陸羯南記念事業実行委員会の事務局長の舘田勝弘さんのお話を聞いた。羯南と正岡子規の交流についてのお話をいただいたが、内容が濃く、30分の時間では足りないくらいであった。当時新聞「日本」の給料は他の新聞社の半分くらいしかなかったのに、多くの記者が羯南を慕って集まったようだ。それほど新聞社としては困窮した状況であったし、羯南自体生活費にも困り、袴も一張羅しかなかった。その袴も佐藤紅緑の求めに応じてあげていたようだ。このような状況下でも、羯南は病魔に侵され、新聞人としての仕事もできない子規をかわいがり、客員社員として給料を与えていた。実の徳の厚い人である。
保坂正康著「昭和とは何だったのか」(講談社文庫)で、日露戦争と太平洋戦争のナショナリズムの違いについて検討している。その中で、日露戦争に行きつくまでのプロセスと太平洋戦争へのプロセスの類似点を指摘し、陸羯南の「近時政論考」(ttp://www.aozora.gr.jp/cards/000253/files/1401_24296.html)を引用し、伊藤、山形ら明治指導者を国権論派とし、対外政策では穏健派に立ち、国内体制拡充のためには対外政策を二義的に考える欧米的な立場をとったとしている。一方、開戦賛成派の参謀本部の軍人らを国富論はとして位置づけ、国富の公益を優先して考える。日露戦争と太平洋戦争の分岐点はこの指導者のナショナリズムの違いとしている。陸羯南のような明治の知識人は、欧米の言語、文化、思想に通じていて、彼らの主張するナショナリズムは昭和十年代の偏狭なナショナリズムとは本質的に違う。国権論からのナショナリズムと国富論からのナショナリズムは競合しながらも、日露戦争の勝利に伴う国民感情の傲慢さからしだいに大衆ナショナリズムに変遷していき、太平洋戦争に向かった。
舘田先生のお話を聞きながら、羯南は50歳で死んだが、あと30年生きていればどうだったろうかと考えた。おそらく山田兄弟との関係からも孫文の中国革命にも肩入れしたであろうし、その後の日中戦争にも反対したであろう。

2007年8月9日木曜日

「花の回廊」と東難波町


驚いた。宮本輝の新作「花の回廊」は私の生まれ育った尼崎市東難波町が舞台です。この作品は「流転の海」の第五部にあたり、宮本さんのライフワークと呼べるもので、大変好きなシリーズです。今回の作品では主人公の松坂熊吾の1人息子伸仁が、困窮のため両親と離れておばのいる尼崎の東難波町の一風変わったアパートに住み、そこの住人との壮絶な関係を描いたものです。
あまりにリアルなため、宮本さんのHPの履歴を調べると、宮本さん自身小学5年生から卒業まで尼崎市東難波町に住み、難波小学校に通っていたようです。主要な舞台である蘭月ビルというアパートは阪神バスの東難波の停留所前、映画館の隣にあったようです。この映画館は確か大映の映画館で、子どもたちは若大将シリーズやゴジラなどの東宝系の映画館に行っていたため、あまりなじみはありません。阪神尼崎から三和商店街をまっすぐに行き、次の道を右に折れていき、国道を渡ったところです。この道沿いにはパチンコ屋やいかがわしいキャバレーなどがいっぱいあり、お世辞にもいい環境とはいえません。はてこの映画館の横にこんなビルがあったかとなると記憶がはっきりしません。確かに映画館の隣に秋月ビルというビルがあり、裏にはお好み屋があったような気がしますが、普通のビルだったようです。宮本さんと私では年齢差が9歳ほどあるため、私の知っている頃にはだいぶ変わっていたのかもしれません。
難波小学校についても、校門の前に文具屋があり、記念切手などが売っていたという記述があります。3、4坪ほどの小さな文具店で私のころは、プラモデルブームで表のショーケースには完成品のプラモデルが展示されていて子どもたちは食い入るように眺めていました。店内に入ると左手に切手売り場、右手にはプラモデル、奥には文具が並べられていて、いつも店内は子どもたちで足の踏み場もないほど混雑していました。学校の東隣には難波公園があり、そこから東に3つの道がありました。私の家は左と真ん中の道をまっすぐに行ったところでしたが、右の道はたいへんぶっそうなところでした。花の回廊で描かれているような在日朝鮮、韓国人や労働者、クスリをやっているひとがたくさんいて、一杯飲み屋、ホルモン屋やなにかわからないような店やアパートが密集していました。またこの道からひと二人が歩けるくらいの狭い横町がたくさんあって、夕方になると七輪で魚を焼いたりする光景があちこちでありました。小学校4年生ころだったでしょうか、6年生くらいの上級生に脅され、ここらのアパートにつれていかれ、宿題を手伝わされたりしたこともありました。4畳半の部屋に一家5人が生活していました。この界隈はタバコ屋と理髪店がある交差点が入り口で公園までの一帯でした。昔は青線もあったようですし、殺人やけんかもよくあったようです。近くの銭湯にいくと何人かのひとは必ずいれずみをしていました。伸仁くんはこの道のさらに右の道を通ってアパートに帰っていったようです。
小説には甲田という鉄工所を経営する人物も登場しますが、これも一字違いで実際にいたひとで、小説とはいいながらかなり実体験も入っていると思います。私のいた当時でもどぶに流れている米粒をスプーンですくって食べている浮浪者をみて、絶対にこんな生活はしたくないと思ったり、遠足に行くときの弁当がなくて先生がだまって作ってやったりするほど貧しい人たちが集まっていた地区で、宮本さんのいた時にはおそらく小説に出てくるようなことも本当にあったのでしょう。
それにしても作家というのはすごい。子どものころもわずか2年間の生活をこれほど鮮明に覚えている才能と感受性はすごいと思います。主人公の熊吾やその妻房江も1人息子の伸仁をこんな環境にいたら、とんでもない人生を歩むと考え、中学は絶対に私立に行かそうと強く思うのですが、まさしく私の母もそうでした。ところが当の本人はこんな親の思惑とは別にすぐにこんな環境にも慣れて、楽しんでいたと思います。友人の家での楽しみは部屋の中でのプロレスで、そこのお父さんは昼間から酒浸りで、いつも赤い顔をしていましたが、プロレスで部屋の中のものを壊しても、もっと壊してしまえと声援を送るひとでした。べったん、ベーゴマ、銀玉鉄砲、ケンパなど毎日よくも遊んでいたものと思いますが、そんな子どもが悪い子と付き合うのは歯医者であった親を心配したのでしょう。しょっちゅうあの子と遊ぶなとか、あんな所にいくなと言われていました。全く房江から伸仁への小言と同じです。ただ花の回廊では在日朝鮮人、韓国人の扱いが大きいようですが、当時はほとんどの人が日本名を名乗っていましたので、子どもには区別がつかず、ちょっとうちとは違うなあと感じてもとくに意識したことはなかったと思います。
こんな所で育つとどんな高級な料理を食べたり、ホテルに泊まっても、「しょせん尼の子、かっこつけるな」という声が心の中でリフレインします。

2007年8月6日月曜日

山田兄弟7


これも「津軽を拓いた人々」からの引用である。山田良政の妻とし子の話をする。

山田良政の伴侶として菊池、山田家が選んだのは、医師藤田奚疑の長女藤田とし子(明治9年ー昭和36年)だった。藤田奚疑は非常に進歩的な人で早くからキリスト教徒となった。自分の娘たちも幼児からキリスト教教育をさせようと、11歳になったとし子を函館の遣愛女学校に入学させ、米婦人宣教師から英語とキリスト教を徹底的に教育された。高等科卒業後も学校に残り、足掛け10年以上も学んだため英語はぺらぺらだったという。
厳格な士族の生活になじませるため明治31年6月に山田家に入籍して同居することになった。夫の良政とはまだ会っていない。良政は革命運動に明け暮れるがその寸暇を惜しんで弘前に帰郷して、とりあえず結婚式はあげたのもつかの間、一週間ほどで中国に行ってしまった。これが良政ととし子があった唯一の時間である。その後も中国からは何の連絡もないまま、ひたすら良政の帰りをとし子は待ち続けた。実際は9月には良政は戦死したのであるが、はっきりしないまま、弘前女学校や遣愛女学校で英語などを教えていた。
一応中国革命を成功させた孫文は、大正元年に純三郎とともに日本にやってきた。とし子は良政の父晧蔵と孫文の通訳を英語でしたという。この時、孫文は良政の遺徳をしのび東京谷中に記念碑を建てた。これらのこともあり、大正2年にとし子もようやく遣愛女学校を辞して、老齢の山田家の両親のもとにあって孝養を尽くした。大正5年には孫文の分身というべき戴天仇が晧蔵の病気見舞に来弘し、また大正7年には純三郎が良政の死んだ現場を訪れ、一塊の土を持ち帰り、郷里に埋葬した。同年11月に晧蔵が死んだ。なすべきことをすべてし終えたとし子は離籍を申し出て、藤田姓にもどった。とし子の晩年は穏やかだったという。

2007年8月5日日曜日

山田兄弟6




近くの紀伊国屋書店で「津軽を拓いた人々ー津軽の近代化とキリスト教」相澤文蔵著、北方新社を購入した。明治期の津軽の主としてメソジスト派のキリスト教の活動を調べた力作で、山田兄弟についても一部述べられているので、引用する(このブログでは色々な本から勝手に写真や文を引用していて、著作権からすれば非常に問題がありますが、あくまで弘前の生んだ偉人を紹介する目的で行っていますのでご了承ください。)

山田兄弟の父晧蔵の妹久満子は、政治家菊池九郎に嫁ぎ、また九郎の姉きせ子は晧蔵に嫁いでおり、山田家と菊池家は2重の親類関係であった。山田晧蔵ときせ子との間に生まれたのが、山田良政(明治元年−33)、純三郎(明治9-昭和35)である。また菊池九郎と久満子の間に生まれたのが菊池良一である。菊池九郎は親友の本多庸一の影響もあり、早くからキリスト教の信者となり、その兄弟三郎、軍之助も熱心な信者で、布教活動なども行っていた。子どもたちの信仰に応じてしまいには、母親の菊池幾久子(1819-1893)も、59歳になって洗礼を受け、信者となった。九郎の母親の幾久子は気丈な女性で、幼少のころから苦労しながら菊池家に嫁ぎ、36歳で夫と死別したが、九郎など三男二女を育て上げた。それ故、この女性の存在は菊池、山田家では中心的なものであり、幾久子がキリスト教の信者になったため、九郎の妻久満子も三郎の妻なか子も信者となり、後に禁酒運動などの婦人矯風会の活動の中心人物となる。
写真下の女性が九郎の妻で山田晧蔵の妹、久満子である。きびしい性格が見て取れる。熱心な信者で弘前教会婦人会や愛国婦人会などを結成した。ちなみに夫の九郎はこの妻はにがてだったようで、ずいぶん愚痴をこぼしていたようだ。
このような環境下で、山田兄弟も教会に通うようになるのは自然なことであった。山田良政もその後上海では在留邦人の青年たちの間にキリスト教青年会を組織したりして布教活動を行った。また現地から弘前の両親あての手紙に弟の純三郎を教会に通わせるようにという文面もある。そのために純三郎も東奥義塾にいたころの明治26年に受洗した。純三郎は後年子息たちに「わしが悪の道に曲がらなかったのは、若いころ教会に通ったせいだろう」と言っていたという。
孫文は医師であると同時にキリスト教徒で、その革命運動もキリスト教的ヒューマニズムとは無関係ではなく、同じキリスト教徒として山田兄弟も孫文の人格、革命運動に共鳴したのかもしれない。キリスト教は神の下の人々の平等を説くため、明治期にキリスト教徒となった人々には社会主義、社会運動に共鳴する素因があった。キリスト教徒であるおばや親類などが貧民救済、部落問題、禁酒運動、子守り学校などの活動をしているのを子どものころに見聞した山田兄弟にとって、中国の窮状は見ていられなかったのだろう。

2007年8月3日金曜日

伝説の阪口塾



昭和40年のはじめころ、関西では中学受験の阪口塾と高校受験の入江塾というスパルタ教育の2つの伝説的な塾がありました。まんがのドラゴン櫻に出てくるような一風変わった情熱的な先生が受験指導をしていました。私も小学5年生の時に、親が急に受験に目覚め、この阪口塾に行くはめになりました。通常4年生からみんな行っていましたので、大分遅れての入塾でした。
先生は阪口辰夫というひとで、その頃(昭和42年当時)は大阪の出来島というところに塾がありました。阪神尼崎から西九条線に乗り、出来島の駅から歩いて5分くらいのところにありました。その当時でも出来島周辺は戦後の大阪を色濃く残した街でした。塾は元牛小屋を改良したもので、キリストはこんなところで生まれたのかといった感じがしたものでした。授業が始まるとすぐにテストがあり、すばやく阪口先生が採点して、成績順に並びかえが行われます。成績がよい生徒は畳敷きの部屋の一番後ろで、そこには座布団もありました。通称、灘組よ呼ばれていました。その前には甲陽組が、その後はその他組が並んでいきます。成績が悪いと、板間に座らされます。ここは冬は風が入り寒いばかりか、外のトイレの臭気もただよってきます。私の場合は、畳敷きと板間のところを行ったり来たりでした。
阪口先生は、ものすごい迫力と熱情で授業をするのはいいのですが、畳敷きの一番前に座ると(ここが多かったのですが)、つばは飛び、うるさくてかなわない思いをしました。生徒の後ろには父兄席があり、熱心な父兄が授業のメモをとっていました。自分の子どもが寝ていると急に生徒のところに来てどつく親もいて、笑いをさそいました。
壁には模擬試験の成績が名前入りで掲示されていいます。参考書は忘れましたが、自由自在、応用自在、5000題?などを使った記憶があります。全部積み重ねると1mくらいになったでしょうか、それを何度もすり切れるまで勉強します。毎晩2時ころまではやったと思います。そのため日本放送のオールナイトニッポンなどは小学5年生ころから聞いていました。いまだにこれほど勉強した記憶はありません。ただこれだけスパルタであっても生徒はその当時そんなに深刻とは感じていなかったのが不思議です。この頃国語の課題で読んだイギリスの児童文学「トムは真夜中の庭で」は今でも愛読書です。
阪口先生はその後、西宮の方に塾を移し、さらに規模を拡大したようですが、後に卒業生の進路を調査したところ、高校の成績が悪かったり、中退したりする卒業生がいてショックを受けたようです。スパルタ教育、詰め込み教育の弊害というべきものかもしれません。私も中学入学後は、阪口先生ほど熱心に教えてくれる先生の出会わなかったせいか、また自主的に勉強をする習慣が身につかなかったせいか、あまり勉強はできませんでした。同じ小学校から灘中学に行った同級生もその後、東大を中退したという噂を聞きました。
受験指導で有名な医者の和田秀樹さんもこの塾の出身者ですが、同じようなことを書いていました。
中学受験のはしりのころの話です。

2007年7月27日金曜日

山田兄弟5


山田良政は、恵州の戦いで戦死したことはすでに述べた。良政と関係のあるひとについて書こう。
妻とし子(敏子?)とは実はこの最後の中国行きの直前に結婚した。とし子とはわずか一週間しか夫と生活を供にしなかったが、彼女は弘前や函館の女学校で教えながら、夫の死後も節を守り、昭和36年にクリスチャンとしての長く清らかな生を終えた。とし子という女性はどんなひとだったが全く不明で今後調べたいが、どんな思いで良政亡き後の人生を送ったのであろうか。純三郎の妻といい、革命に捧げた人たちの妻たちの苦労は大変なものであっただろう。良政がクリスチャンだったかはわからない。
またこの恵州の戦いに参加し、三多祝の乱戦で九死に一生を得たのは、良政に師事した弘前の櫛引武四郎(政治家工藤行幹のおい、津軽藩の儒者櫛引錯斎の孫にあたるか)で、彼は後に大正2年の第二革命で南京で戦死した。この櫛引武四郎についても、ほとんど記録は残っておらず、歴史の闇に埋もれている。こういった歴史にも残らず、中国革命に命を落とした日本人はたくさんいたのであろう。
菊池良一についても調べているが、あまり記録にでてこない。偉大な政治家、菊池九郎の長男として生まれ、姉いねは理学博士で日本天文学のパイオニアである一戸直蔵に嫁いだ。長男良一は京都帝国大学卒業後、一時日支商事会社を興して、その社長になっていたが、のちに新聞記者、弁護士などとなった。大正4年には青森県郡部選挙の代議士となり、政界に進出した。そして大正6年、9年の総選挙に当選した。良一の娘節子は婿をとり、その子昭一は東京都小平市に在住とされている。
山田兄弟の活躍した時代は、とくに後半は青森県の出身の大物が枯渇してきた時期でもあった。陸羯南、珍田捨巳、一戸兵衛などジャーナリスト、外交、陸軍を代表し、影響をもった郷土の先輩や、その友人後藤新平、犬養毅などにより、山田兄弟も明治、大正時代はずいぶんと助けられた。昭和に入ると軍部が影響を持つようになると同時に、上記のような常識人が亡くなったため、大局的な判断をすることができなくなった。日中戦争では純三郎のような国民党との強固なコネクションをもつ人物をうまく使えば、和平活動などの結果も大きく違ったと思われる。純三郎の苦悩は大きかった。少なくとも珍田、一戸など政府首脳に位置するひとがそばにいれば、もう少し賢明な方法がとられたであろうと思われ、残念である。その後の未曾有宇の悲劇も回避できたかもしれない。
「青森県の101人」 北の街社 昭和63年 稲葉英夫 を参考にした。

2007年7月26日木曜日

医療安全対策



今年の4月から医療法の改正に伴い、医療安全対策が各診療所に求められるようになりました。7月からは移行期間も過ぎ、院内での実施が必要です。内容は多岐に及びますが、医療機器の点検やヒヤリ、ハット事例の報告、感染対策の講習と実施などが盛り込まれています。歯科医師会の取り組みは遅く、先週くらいに書類が来て、いきなり実施するようにというものでした。いつも思うのですが、本当に対応が遅いと思います。
従来、矯正歯科では診療にほとんど観血処置(歯を抜いたり、神経をとったりなど)がないため、あまり感染対策はなされていませんでした。大学病院の矯正歯科ですら、いまだに治療に用いるプライヤーなど使い回しにしているところもあるようです。私のいた鹿児島大学では開院当初からすべての矯正器具を滅菌して使用していました。現在ではこのやり方も多数のところでやられていますが、30年前では、プライヤーをラックにいれてアルコール綿で拭くだけ、あるいは薬液に浸けるだけというところがほとんどでした。
当院でも必要なプライヤーを多数揃え、すべて滅菌の上、使用していましたが、グローブに関しては実はあまり使っていませんでした。ひとつは観血処置がないため血液を介しての院内感染はほとんどないこと、また事故として考えられるのはワイヤーなどによる針刺し事故でグローブでは防げないこと、細かな操作が難しいことなどで、これまで全面的な使用はためらっていました。この医療法の改正に伴い、当院でも遅ればせながら全面的にグローブの使用に踏み切りました。
グローブは大きく分けて、ラテックス、合成ゴム、プラスティックに分かれます。ラテックスが最も手になじみ、一般的ですが、術者のラテックスアレルギーの問題や子どもへのラテックスの感作が危惧されています。国立成育センターではラテックスは使っていないようですし、弘前大学病院でも外来を見てみるとプラスティックが主流になっています。当方でも、それでラテックス外のものを探していますが、なかなかいいものはありません。また矯正治療では金属の結紮線を使うことが多く、操作中にグローブに引っかかってしまいます。今のところプラスティックのものが矯正治療には向いているように思われ、製品の評価を行っています。
日本ではあまり話題になっていませんが、海外では歯科ユニットに使われる水質汚染が問題になっています。すなわち、ユニット内の配管に付着したバクテリア層のため、便所の水くらいに汚染されているというものです。欧米では細菌数などの規定がありますが、日本では水道水の塩素処理などでそれほど問題がないようです。最近のユニットではユニット内の水質を消毒するシステムがあるようですが、最も進んだやり方は下の写真のアメリカのエーディック社のユニットと思います。このユニットは2Lのボトルに入れた薬剤でユニット中の水質を消毒するもので、当然患者に使われる水も消毒済みのものをボトルに入れて使えます。タービン、うがい、シリンジなど使われる水はすべてこのボトルから供給できます。日本でもタカラという会社のユニットもこのシステムを使えるようですが、かなり補助的なものです(実はタカラはこのエーディックをまねたようです)。
いずれにしても国際規格に則った医療安全システムを従業員一同協力して完備したいと思います。

2007年7月19日木曜日

三橋美智也とアルファー波



三橋美智也といっても若いひとにはピンこないと思います。私たちの世代でも「怪傑ハリマオ」の主題歌を歌ったひとという認識しかありません。若いひとにはむしろお菓子の「カール」のCMソングを歌っているひとと言った方がよいかもしれません。
最近、怪傑ハリマオを偶然聞く機会があり、三橋美智也おもしろそうと思い、買ったのが上のCDです。東京のタワーレコードなどを見てみたのですが売っておらず、地元弘前の小さなレコード屋の店頭にワゴン販売されていました。さっそく帰って聞いてみたのですが、さすがに古くさく、しまったと思いましたが、一応は習慣でIpodに入れておきました。後日、散歩しながら聞いていると、これがすごい。高音が脳に響き渡ります。もともとBang&Olufsenのイヤフォーンはへたなスピーカより定位がよく、ほぼ両耳の間の頭の中で音楽が流れますが、ミッチーの高音はそれがより上方で鳴っています。さらに口蓋からのどの奥がバイブレーションするような感覚もあり、すごいと思いました。以前、ユーミンの声はモンゴルのホーミーのように可聴できないアルファー波がたくさん入っているから心地よいというテレビ番組がありましたが、ミッチーの声はまさしくそうです。定位のいいイヤフォーンで試してみてください。スピーカーでは味わえない、脳の中で(やや上の方)音楽が鳴っている実感が味わえると思います。
このアルバムの中では星屑の街(ゴスペラーズではありません)は、なかなかしぶい。

両手をまわして帰ろう揺れながら
涙の中をたったひとりで

聞いているうちにこれを主題歌でアキ・カウリマスキ監督(フィンランド)が映画でも作ってくれないかと思いました。この監督の映画音楽はいつも変な曲が選択されていて、「過去のない男」でも列車のシーンでいきなり日本の曲が流れていていました。きっとカウリマスキ監督も三橋美智也のファンになると思います。彼の映画にぴったりです。「浮き雲」と同様、この映画も本当に何度みても笑わせます。

2007年7月14日土曜日

平和祈念像のモデル?


長崎平和公園のシンボルである平和祈念像のモデルについては、母方の親類間では奇妙な伝説がある。この像は、彫刻家で有名な北村西望先生が原爆犠牲者の冥福を祈り、1955年に建てられたものである。建設当時、日本ではプロレスが人気であったため、力道山をモデルにしたという説もあった。それくらいこの像のモデルは当時の日本人離れした顔、身体であったため、このような説も出たのであろう。
私のおじは、長谷川茂雄といい、もう20年くらい前に亡くなった。関東のどこかの生まれで、東京高等師範を卒業後の昭和4年に脇町中学に赴任した。どうして四国のこんな僻地に来たかというと、東京で好きなひとがいて、その人が病気療養のため松山に引っ越したため、出来るだけ近い赴任地ということで徳島県に来たようだ(そんなに近いとは思わないが)。大学時代ラグビーをやっていたため、脇町中学でもラグビーを指導し、脇中を何度も全国大会に出場させ、活躍した。四国に初めてラグビーを紹介したとして、地元脇町ではいまでもラグビー饅頭や脇町高校には「四国ラグビー発祥の地」と刻まれた記念碑があるほどである。
このおじさんは若い頃から長髪で、色黒で彫りが深く、子どもの頃みた記憶でも日本人離れして容姿であった。若い頃はさらにかっこよく、脇町に赴任当時は、町の若い女子はほとんど熱を上げ、憧れていたという。タイロン パワーのような感じである。当時、化粧品などの雑貨を扱っていた祖父が惚れ込み、娘のむことして拝み倒し、おばさんと結婚したようである。町の若い女子には相当嫉妬されたようである。
このおじさんがラグビーのチームを引き連れて国体(九州?)に出場した時に、北村先生から声を掛けられ、脇中の教え子で、スポーツ万能「セントウ」こと、吉田廣一さんと一緒に東京の北村先生の自宅を訪問した。セントウさんは脇町では当時知らないひとがいないくらい柔道、レスリングで活躍したひとで、その体は大きく、筋骨隆々としていたという。子どもの頃から背が高く、並ぶといつも先頭、スポーツをやらせば何でも先頭なのでこんなあだながついたようだ。
母方の伝説では、北村先生はおじさんの顔とセントウさんの体を合体させて平和祈念像を造ったという。かなり信憑性はあやしいが、最新のWikipediaでもセントウさんの紹介があり(前はなかったと思う)、徳島県、とりわけ脇町ではこの伝説はわりと信じられているようである。確かにおじさんを知っているひとからみれば祈念像の顔、特に髪型は長谷川のおじさんそのものである。
北村先生の家には座敷に風呂があり、おじさんは驚いたといっていたようで、これが事実なら信憑性もあるのでは。
ちなみにこのおじさんは、高校ラグビーなどで義務化されているヘッドキャップを発明した。脳震盪などの事故を防ぐため、ラグビーメーカのウシトラと協力して作ったようです。

2007年7月12日木曜日

若党町


今回は弘前城の北側にある若党町を紹介します。写真のようにサワラの生垣と黒塗りの板壁で囲まれた家並みが続き、まるで江戸時代にタイムスリップしたような街並です。サワラの生垣は外からは中は見えず、中からは外が見えることから敵からの防御用となり、またその実は非常食になるようです。若党町、馬喰町、小人町は総称して仲町と呼ばれ、現在は「仲町伝統的建造物群保存地区」となり、国の伝統的建造物保存地区にもなっています。
比較的、早い時期に町割りされたところで、中級、下級武士が住んでいたところのようです。北の押さえとして亀甲門があり、その門を出たところが亀甲町で、その裏が若党町となります。弘前城を中心(正確には本丸)として、北東の鬼門には八幡神社が、南西の裏鬼門には長勝寺が、全く等距離におかれ、北、南、西には下級、中級武士が、東には上級武士の居宅があったようです。さらに言うと、弘前城自体が岩木山の南東にあり、いい位置にあると思います。昔の町割りは、かなり厳密に方位の考えで造られたようです。
この仲町には旧伊東家、旧岩田家、旧梅田家などの武家屋敷が復元修理され。観光客に開放されています。なかなかいい家ですが、台所の暗さにはびっくりします。昔の主婦は大変だったと思います。伊東家に以前行った時には作家の今東光、日出海兄弟が住んでいた部屋という表示がありましたが、いまはなくなっています。今兄弟の母清美の実家は、医師で有名な伊東家の出身で、元長町にあったこの家にも今兄弟はよく遊びに行ったのでしょう。ちなみにこの伊東家の隣の元大工町には佐藤愛子、佐藤ハチロウの父である佐藤紅緑が住んでいて、今兄弟もこの佐藤紅緑のいろんな話を母親の実家では聞かされたようです。後の作家活動を始めたきっかけになったかもしれません。
この界隈は立派な家が多く、散歩にいく度にいったいどういう人が住むのか想像してしまいます。映画「青い山脈」に出てくるような、田舎にいながらも標準語をしゃべるような女学生が、いまは年配になっているかもしれませんが、いるようなムードがあります。夕暮れ時、あるいは真冬の雪の積もった時なんか、本当に静かで美しいところです。できれば電柱はムードを壊すので、是非とも地中化してもらいたい。昭和50年ころの新聞記事で「風格のある町」として東の横綱に挙げられたことがきっかけでこの町の保存運動が起こったようですが、ぎりぎりだったと思います。壊すのは簡単ですが、残すのは本当に難しいと思います。

2007年7月4日水曜日

笹森順造4


米山に推されて青山学院の院長になったが、教師、生徒間との摩擦も多く、志半ばで辞めることになった。戦後初の選挙では東奥義塾の教え子の応援を受けて、トップ当選を果たした。以後連続4期(8年間)、ついで参議院に連続3期(16年間)当選して、政治家の道を歩んだ。その間、片山内閣の国務大臣として入閣し、復員庁総裁や賠償庁長官などを勤めた。戦後の混乱したこの時期、復員とくにソビエトに強制移送された57万人の日本人の復員は難航を極めたが、粘り強く交渉した。また米国での生活や語学力を生かして、アメリカとの交渉に臨み、賠償請求権の放棄など、敗戦により苦しい状況の日本を助けた。
剣の達人で、クリスチャン、酒もタバコもやらず、勤勉で実直な笹森は、朝早くには官邸に出勤し、夜遅くまで仕事をこなした。官邸の玄関番が笹森のこの謹厳な生活態度にいたく感激して、自分の孫の名付け親になってほしいと頼んだというエピソードがある。政治家は議場で議論すべきだとして、酒席への招待も根回しも一切断わり、地元からの嘆願も嫌った。後の首相となる三木武夫とは日本協同党以来の大親友であった。三木武夫夫人は笹森のことを「真面目なひとで、いかにも古武士という感じでしたが、人に優しくて幅広い考え方を持っていた。話しても暗さがなかった」と話している。私は親類が徳島県に多く、三木の元秘書を知っているが、そのひとの三木評と非常に似ており、性格的には気があったのであろう。
昭和39年の東京オリンピックの時には、デモンストレーションとして日本武道も公開されたが、笹森も日本剣道界の代表としてこれに参加して、小野派一刀流の極意を披露した。その年にもらった勲一等瑞宝章より、日本武道館の完成とともに、笹森には名誉でうれしかったであろう。
笹森は明治19年生まれで、武士の時代はとうに過ぎていたが、幼いころの剣術修行、厳格なキリスト教教育、弘前の風土などから色濃く、その精神には武士道のスピリットが流れていた。最後の武士と呼べよう。
私の通っていた学校(六甲学院)の創立者は武宮隼人というバリバリのイエズス会の神父で、その頃、全校生徒に対する朝礼は場合によっては数時間にも及び、生徒が気分が悪くなりばたばたと倒れても、訓話をやめなかったというエピソードがある。非常に厳しいひとで、悪いことは悪い、少しの悪いことも許さないという姿勢で、生徒からは反発もあったようだが、生徒には打ち解けてなんでも話すことから慕われた。笹森の話を書きながら、ふと武宮校長のことを思い出した。

弘前人物志、青森20世紀の群像(東奥日報社,2000)および剣道塾長 笹森順造と東奥義塾(山本甲一著、島津書房、2003)を参考にした。

2007年6月27日水曜日

笹森順造3


日本ローターリクラブの創立者の米山梅吉と弘前の関連は深く、笹森と東奥義塾も米山には世話になっている。先日の弘前ロータリークラブの夜間フォーラムで配布した文章を載せる。
「米山梅吉と弘前」
日本ロータリーの創始者である米山梅吉と弘前の関連は深い。米山の生涯で最も影響を受けた人物は、明治期の日本を代表するキリスト教指導者で弘前出身の本多庸一(1848-1912)である。庸一は津軽藩本多東作の長男として弘前市在府町3番地(現弘前大学医学部正門前)に生まれた。その祖先は家康の養女満天姫の輿入れとともに弘前に来たといわれ、父は300石の禄をはむ上級武士であった。藩の命令で横浜に英語を学びに行った折に宣教師ブラウン婦人に感化を受け、明治5年に洗礼を受け、キリスト教徒となった。「キリスト教はいかんが、本多の耶蘇教ならいい」、「本多の耶蘇なら本物だろう」といって、多くの信者が生まれたというエピソードがあるくらい庸一の入信は多くの津軽人に影響を与えた。その後、東奥義塾の塾長となり、教育と伝道に明け暮れるかたわら、自由民権運動にも加わり、県会議員や議長なども勤めた。
 一方、米山梅吉(1868-1946)は、早くからアメリカ留学を志し、明治18年に語学勉強のために、東京英和学校(のちの青山学院)に入学した。ここでの教師には後の外務次官となる弘前出身の珍田捨巳がいて、知己を得ている。渡米した米山はサンフランシスコで留学中の庸一と会い、強い影響を受けた。後に青山学院での講演で「一夜、食後談も尽き、室の机の上の紙に徒ら書きなどをしていた間に、先生(庸一)はさも私の注意を惹くかの如く、「巧遅」と「拙速」の四字を二度も三度も書いてみせるのであった。先生は私の欠点を知り抜いて、私の注意し。私を訓へられたのであった。私は以来之を忘れたことはなく、事に臨む毎に思い出して座右の銘にしているのである」と語っている。
 青山学院の日本人としての初代、実質的には創始者となった庸一は1890-1907年という17年間に渡り、院長を勤め、青山学院の土台を作った。明治40年に青山学院を辞任した庸一は日本メソジスト教会の監督として日本各地を伝道していたが、明治45年にチフスにかかり亡くなった。
 庸一を尊敬していた米山だが、キリスト教化された武士と言われる厳格な庸一は近寄りがたく、またキリスト教への傾斜を恐れたのか、庸一の院長時代には青山学院にはあまり関係していない。庸一の死後、青山学院の支援に乗り出す。米山は昭和8年には青山学院の院長に強く推されたが、「自分は酒も煙草ものむ俗人だから」と言って断り、かわりに弘前出身の阿部義宗を第5代院長に推した。
 庸一の起こした東奥義塾は、その後経営難となり、大正2年(1913)には廃校となっていた。この再興にための塾長となったのが笹森順造(1886-1876)である。大正13年には義塾には5万円の基本金が必要となったが、どうしても5千円足りず、郷土の先輩珍田捨巳に相談に行ったところ、紹介されたのが、米山であった。笹森より19歳年長で、ほぼ米山と庸一の年齢差である。日本橋にある三井信託銀行の社長室に米山を訪ねた笹森がおそるおそる5千円の援助を求めたところ、ああそうですかといった調子で即座に米山は援助を承諾した。その後も笹森が欧米旅行の行った際の費用や三井物産の海外支店が旅行のサポートをおこなった。笹森の姿の後に尊敬する庸一の姿を見たのであろう。
 昭和14年の夏に米山は、阿部義宗の後の青山学院院長の招聘のために弘前の笹森を訪ねた。軍部の力が強くなった当時、キリスト教関係の学校はきびしい状況であった。その状況を打破する院長として米山が選んだのが笹森であった。世話になった米山の熱願に負け、笹森は第6代の院長に就任した。
 米山は私財を投じて後の青山学院附属となる緑岡小学校と幼稚園を寄贈し、米山が小学校校長、妻はるが幼稚園園長として運営した。昭和20年、空襲の激しくなった疎開先として選んだのはゆかりの深い弘前であった。
 米山はアメリカで庸一と出会い、その真摯な奉仕の精神に圧倒された。この出会いがなければ後の日本ロータリーの設立もなかったかもしれない。米山にとっての弘前は、本多庸一の生まれ故郷として思い出深いところであったのであろう。

2007年6月26日火曜日

笹森順造2



笹森が塾長として再興した東奥義塾は、非常にユニークな学校で、無試験入学を行った。当時、弘前には中学校は弘前中学校と弘前工業学校の2校で、毎年数百名の不合格者を出していた。アメリカ暮らしの長い笹森にしてみれば、入学は各小学校に推薦にまかせ、進級を難しくする方法を考えたのであろう。大正11年に開校し、入学者数は152名、入学金は1円、授業料は月3円だった。当時の授業料は公立も高く、中学に行ける児童は親が金持ちに限られていた。この学校はメソジスト派のキリスト教教育をメインにしていたが、笹森の発案で剣道の授業も正課となった。講師陣はすごく、後になるが教師25名のうち、7名がアメリカの大学を、そのほかには東京高等師範、京都帝大、早稲田高等師範、青森師範などを卒業したものが大半であった。私のおじは東京高等師範学校を卒業して昭和初期に徳島県の阿波中学に赴任したが、赴任した折には駅から学校までの沿道を町のひとが迎え、その中を馬に乗ってきたそうだ。それくらい、高い教育を受けた教師が田舎に赴任することはまれであった。優秀な教師を集めるために笹森は尽力し、給料も青森県の平均が120円に対して、東奥義塾では145円であった。生徒に本当に優れた教育をするという観点から教師を選考したため、詩人の福士幸次郎も一時教師となり、その教え子には後の直木賞作家の今官一も出ている。
理想的な学校を目指して笹森は奮闘する。経営的には慢性的にきびしかったようだが、何度も原因不明の失火が起こり、鉄筋コンクリートの校舎作りが着手された。メソジスト教団の支援も受けて、昭和6年にヴォーリーズ設計による3階立ての校舎を63000円の資金で作られた。ヴォーリーズの建物は今でも日本に多く残り、例えば関西学院大学、神戸女学院や大丸心斎橋店など代表的な近代建築とされている。お城近くの今の観光館あたりにあった旧東奥義塾校舎がそうだったのだろうか。郊外への校舎移転に伴い簡単に壊したようだが、今から考えると随分もったいない。いずれにしても日本の北の果てにこれだけの学校を作った笹森の情熱は、西の長崎鎮西学院の再興を目指し、早死した兄卯一郎の意思を受け継ぐものであろう。
明治期にアメリカから弘前に迎えた宣教師の数が34名、東奥義塾からアメリカに留学したものが40名にものぼり、時代や地域性を考えるとこの学校の特異性が現れている。
下の写真は弘前市若党町の笹森の生家跡と思われるところである。すべての建物は壊され、広い敷地内は荒れるにまかせてはいるが、逆に今はやりのイギリス式庭園のようで、かえって自然の庭のような景観になっている。

2007年6月22日金曜日

ipod


診療所の音楽はこんなシステムで鳴らしています。開業以来、有線で音楽を流していましたが、ずっと同じチャンネルしか聞かないため、有線料金がなんかもったいないと思っていました。CD1枚にMP3で圧縮した音楽を入れれば、7.8時間は大丈夫と考え、すぐに有線の契約をやめ、レンタルしたイージリスニング曲をCDに入れ、買ってきた再生機で流していました。ところが1年ほどで調子が悪くなり、修理にだすと、ピックアップと呼ばれる装置、光を読み取る装置がだめになっているとのことでした。幸い無料保証期間1年のぎりぎり手前でしたので、何とかなりました、メーカーに問い合わせると毎日7.8時間も再生するような設計はなされていないとのことでした。その後も同じやり方で使っていましたが、また1年ほどでピックアップが壊れ、修理費に2万円ほどかかるということでした。そこで目につけたのはipodで、ハードディスク系のipodは回転系がいかれると思い、IC系のipod shuffleを選択しました。初代のタイプでこれでも7,8時間分くらいの曲は入ります。当初、アンプとつなぐケーブルもモンスターケーブルしかなく、かなり高かったのですが、今では1000円くらいで買えます。おそらく機械本体よりバッテリーの方が先にやられると思いますが、今のところ2年間は異常なく動いています。ただ充電にやけに時間がかかります。新型では2時間で80%くらい充電できるようです。いずれにしても装置自体は7000-9000円くらいで、もう完全にもとはとれたと思います。スピーカーは有線の残していたものをそのまま使っていますが、Boseなんかに変えればもっとよくなるでしょう。一度、自宅のTime domain MIniを診療所もっていって鳴らしましたが、どこで聞いてもあまり音の強弱がなく、いい音でした。ただアンプ内蔵のため長時間、長期間の使用は問題があるかもしれません。むしろYoshii8やEclips TDの方がよいと思います。安くするのであれば、アンプはボーズの一番安いパワーアンプでいいと思います。
小野リサ、Paris Matchやしぶいところではjoni jamesなどを入れて楽しんでいます。独身以来あまりレコード屋に行くこともなくなりましたが、これをきっかけに新宿のタワーレコードに行ったりする楽しみもできました。竹内まりあの新しいアルバム、評判よいようですので、早速買ってきて聞こうと思っています。

2007年6月21日木曜日

筋電計


顎変形症の施設基準をとるためには、下顎運動測定装置と筋電計が必要です。当院でも以前紹介したシロナソという顎運動測定装置とマッスルバランサーという筋電計を用いていました。ところがこの4月に厚労省からの通達で、5月末までに保険適用の器材を用意するようにという指示がありました。薬事法に通ったということだけではだめで、さらに保険適用承認が必要だということです。シロナソは幸い承認されていましたが、筋電計が承認されていません。歯科用の筋電計はこれともう一種類しかなかないため(これも未承認)、医科用のものを買う必要になり、慌てて連絡しましたが、どれも納期には間に合わず、あせりました。幸い日本臨床矯正歯科医会が団体で日本光電に生産量を延ばすように交渉いただき、何とか5月末には納入でき、ほっとしています。
写真右の装置が筋電計です。測定しましたが、非常に操作が簡単です。やや歯科用に使うにはオーバスペックで、色々なつまみがあるのですが、ほとんど使わないようです。それにしても高い装置で、ほぼ国産の中型車が買えるくらいです。歯科ユニットを購入しようと考えていたのに、お預けです。医科用の装置は、生産量が少ないことや安全性がより求められる点から高いのはわかりますが、利幅も大きいのではと考えてしまいます。以前、器具の自動洗浄機の導入を検討したことがありました、同じドイツのメーカでも家庭用の食器洗浄機が20万円くらいなのに、洗浄温度(70度か90度)や洗浄能力のわずかな違いで医科用では200万円もします。

2007年6月9日土曜日

石場旅館



元寺町にある石場旅館を紹介します。この旅館は弘前に現存する最も古い旅館で、明治12年創業とされています。実はこの旅館に一度泊まったことがあるのです。弘前に住んでいるの、どうして泊まったかというと、高校の修学旅行で泊まりました。高校の修学旅行は例年九州だったのですが、私の学年はどういうわけか東北地方に行こうということになりました。松島から浄土が浜、八甲田、十和田湖と巡り、最終日に弘前の石場旅館に泊まりました。その当時の旅館の記憶は全くないことから、ごく普通の旅館だったのでしょう。
この旅館は戦前は格調高い旅館で多くの著名人、特に政治家が泊まったところのようです。近くあった齋吉旅館も有名な旅館でここは文学者が多く泊まったところです。旅館主の斎藤吉彦が民俗学をやっていたせいで、森鴎外、葛西善蔵もここに泊まり、石坂洋次郎が葛西とあうため足繁く通ったところです。
調べてみると石場旅館は結構安く、朝食込みで宿泊すれば1万円もかからないようです。夕食は鍛冶町なんかで食べれば、昔の旅館にムードに浸れるのではと思います。ホテルにあきたひとにはいいのでは。市内の観光地にも近く、場所的にはいいところです。石場旅館の隣近くにある翠明荘も格調高い料亭で、ここの夕食はかなり高いようですが(3回ほど利用しました)、せっかく弘前に来たというのであれば奮発したらどうでしょうか。以前ここの欄間がお宝鑑定団に出ていてとんでもない高値でした。