2021年1月16日土曜日

マウスピース型矯正装置の問題 youtubeより

下右犬歯の歯肉退縮だけでなく、他の前歯も厳しい

前歯部、臼歯部、すべて開咬


大臼歯関係はそれほど変化していない





  日本矯正歯科学会では、インビザラインのようなマウスピース型の矯正装置について注意を与えている。すなわち適用範囲は広がったといえ、マルチブラケット装置より適用範囲は狭く、ちょとしたでこぼこなどが適用であり、抜歯症例や骨格性に問題のある症例では厳しい。以前のブログでも示したが、私の所の成人症例で言えば70%くらいが小臼歯の抜歯症例であり、非抜歯で治療できる症例は少ない。

 

 それではマウスピース型矯正装置をメインでしているところでは、こうした適用外のケースが治療していないかというと決してそうではないし、インビザライン社などもコンピューター上で一応は完成までのシュミレーションはする。その結果、どうなるかというと治療がうまくいかなかったり、患者が満足しないことになる。

 

 私のところでは、マウスピース型矯正装置は使用していないので、はっきりしないが、これまで2例ほどセカンドオピニオンで見てきたが、その治療結果は問題があった。そこでいい症例ばかりでないYou Tubeで紹介されているマウスピース型矯正装置の治療結果を見てみることにする。

 

 一例は、私の知っている先生のところでしているケースで、治療方針はかなりまともであるが、下の右犬歯の歯肉退縮がひどい。おそらく通常のワイヤー矯正で下の右の第一、あるいは第二小臼歯を抜いていれば、それほど難しい症例ではないし、こうした歯肉退縮もなかったであろう。現在、下の右奥歯にチタンプレートを入れて右大臼歯の遠心移動を行なっているが、この治療法は正しい。右犬歯の歯肉退縮は残念ではあるが、何とか治療は終了しそうである。それでも上の小臼歯を抜いているのを見れば、患者は非抜歯治療にこだわっていないので、なぜ下の右の小臼歯も抜歯しなかったが、悔やまれる。かなり治療の難度を高くした。

 

 次の症例は、まだ治療途中であるが、前歯、奥歯部がかんでいない、開咬となっている。私のところにきたセコンドオピニオンのケースもこれで、主治医からは自然にかむようになると言われたという。それは無理であろう。このケースでは治療前も前歯部の開咬が見られ、この部位に舌を出す、舌突出癖があることがわかる。こうした症例では、前歯に上下のゴムを使い、前歯、奥歯をしっかりかませて終了して、さらにチューンガムなどを用いて咀嚼訓練を行う。マウスピース型矯正装置はII級、III級ゴムのような水平成分のゴムを使えても、上下の歯をかませるUp & Downゴムの使用は難しく、それ以外の方法でかませていくのか、ワイヤー矯正などを併用してかませるのか不明である。

 

 三番目の症例は、まだ始まったばかりで、動画の途中で、現在の咬合状態と治療後の予想図が載っている。これをみると現在、奥歯の関係は上の奥歯が下の奥歯より前にあるII級咬合で、それもほぼ小臼歯1本分前にあるFull Class IIの上顎前突である。セファロ分析結果など不明であるが、この咬合と顔貌から見れば、矯正歯科専門医の多くは、左右上顎第一小臼歯の抜歯を考えるだろう。先生によっては下の第二の小臼歯を付け加える人もいるだろうが、非抜歯での治療は相当厳しい。というのはこのような大臼歯関係の場合、大臼歯関係をI級にするには大臼歯を5mm以上後ろに動かす必要があるからである。ところがこの治療後の予想図では、大臼歯関係はII級のまま上の歯を中に入れている。おそらく小臼歯、犬歯、前歯のかなりのディスキングをするのだろうが、それでも23mmが正常とされるオーバージェットが取れないはずである。つまり最初から出っ歯はきちんと治らない前提で治療計画を作っている。もしこうした治療計画を歯学部の学生が計画してきたなら、不合格だし、日本中の矯正歯科医でこのような診断をする先生はいない。もちろん患者が少し出っ歯が残ってもいい、非抜歯で、早い期間で治療してほしいと頼まれれば、まあ私は絶対しないが、する先生もいるかもしれないが、通常のワイヤー矯正ではこうした治療はしない。こうした診断ミスは、最近、セコンドオピニオンで来た患者もそうで、オーバジェットが10mmくらいある重度の上顎前突で、ある歯科医院で非抜歯、マウスピース型矯正治療で治すと言われたという。上の小臼歯2本抜いても厳しい症例で、非抜歯では絶対に治らない症例で、三症例目と似ている。つまり今より少しでも出っ歯が治ればという治療方針なのである。

 

 簡単な歯列の拡大を主体として叢生(でこぼこ)などではマウスピース型矯正はいいのだが、抜歯症例、骨格に問題のある上顎前突、反対咬合、上下顎前突などでは今のところ、ワイヤー矯正よりかなり治療が難しいというのが現状であろう。個人的な感覚から言えば、成人矯正でマウスピース型矯正の適用は、30-40%くらいではなかろうか。ただマウスピース型矯正装置を真面目にしている先生は、何度も計画変更し、アタッチメントを付け直し、さらにはアンカースクリューを併用するなど、かなり細かく治療しており、こうした症例をみるとワイヤー矯正より手間がかかる。

 

 おそらく今のままマウスピース型矯正治療が一般歯科医に広まり、患者からのクレームも増えると、矯正治療が特定商法取引法の適用となるだろう。矯正歯科学会はこうした法律の適用になることに反対しているが、私は患者の被害を考えると、少なくとも“マウスピース型矯正治療”については特商法の適用にし、書類によるデメリットの説明、治療途中での中断、返金などができるようにした方が良いと思う。

2021年1月14日木曜日

弘前市森町の忍者屋敷について その2

 

三重県、松坂、旧小津家

森鴎外、夏目漱石、旧宅




 前回のブログで東奥日報に掲載された弘前市森町の忍者屋敷は、根拠が少なく、不確かだと述べた。その後、明治二年弘前絵図で記載されている当時の戸主、“棟方嘉吉”について調べてみた。

 

 こうした人物について調べる場合は、まず弘前図書館にある“津軽家文書”、“石見文庫”、“八木橋文庫”などのある代数調、分限帳、由緒書などの目録に、そうした名前がないか確認する。“棟方”とつく名はあるものの“棟方嘉吉”の名はない。こうした場合、次に進むのが、内藤官八郎著、“弘藩明治一統誌”の“勤仕録”、“士族卒族名員録”、“人名録”の3冊である。特に士族卒族名員録は、士族3813名、卒族1833名、計5646名の名前が記載されている。ここもくまなく探したが、“棟方嘉吉”の名はない。この名員録は明治になり、帰田法により藩からもらった土地名と家禄を示しており、給禄の多寡により、藩における地位がわかる。明治二年弘前絵図では、すでに亡くなった人の名前をそのまま戸主名にしている例(森鴎外の渋江抽斎など)があり、この場合も戸主が“棟方嘉吉”の子供に変わった可能性もある。あるいは“嘉吉”は通名で、他の呼び名で記載されていたかもしれない。

 

 そこで、今度は、“弘前藩記事”をくまなく探していく、野辺地戦争、箱館戦争などの従軍兵士名や、賞典に名前が出ることあるからである。ここで大抵の名前が出てくるが、“棟方嘉吉”の名はなく、これ以上の調査は、分限帳や由緒書で棟方名に該当する書類を調査することぐらいしか思いつかないが、基本的にはその直系の子孫以外、開示ができない。今後、さらに文献的な調査を続けるが、まず“棟方嘉吉”が早道之者の頭であることを立証しなくてはいけないが、その証拠はない。

 

 次に“忍者屋敷”については、そもそも忍者屋敷という概念が不明である。忍者あるいはその子孫が住んでいた家を忍者屋敷とは言わないであろう。何らかのカラクリがある家を忍者屋敷と呼ぶようで、滋賀県にある甲賀望月家の旧宅は、隠し部屋、落とし穴、どんでん返しなどのカラクリがあり、観光名所になっている。同様に石川県の妙立寺には隠し階段や、抜け道、落とし穴などのカラクリがあり、忍者寺と呼ばれているが、建物そもそもは忍者とは全く関係ない。弘前市森町の忍者屋敷についても、その大きな根拠は床の間裏の隠れ部屋と玄関の鶯張りの板である。鶯張りの板については単に古い板が軋んでいると解釈もできるが、確かに床の間の隠れ部屋については不思議な空間である。幅60cm×95cmくらいの小さな空間で、ここから来客者の会話を盗み聞きしたという。

 

 そこで床の間の裏の空間について調べると、昔、行ったことがある明治村にある森鴎外、夏目漱石が住んだ家、この建物は明治になったできたものだが、床の間の裏が小さな部屋となり、障子を閉めれば隠し部屋となる。もちろん森鴎外は忍者ではない。さらに三重県松坂の商家、小津家の床の間のちょうど後ろに小さな部屋があり、床の間横からも入れるようになっている。もちろんここも商家であり、忍者屋敷ではない。同様に以前のブログで紹介した。旧伊東家、旧対馬家の床の間の裏にも小さな納戸のようなものがあり、戸がなければ、森町の家と同じような構造となる。さらに“弘前市仲町伝統的建造物群保存地区 旧伊東住宅、旧対馬住宅 保存修理工事報告書”(昭和58年)を見ると、両家の床の間裏の場所は、もともとは、いずれも厠であったことがわかる。

 

 家をつくる時に最も神経を使うのは方位であり、特に玄関と便所の位置を決めるのは難しい。玄関のいい方位は、東、東南、あるいは北西となる、鬼門と裏鬼門はダメである。同様に便所のいい方位は東、東南、北西となり、玄関の方位と重なる。私の家でも台所や風呂などの場所が色々と検討すると玄関の横に便所を作ることになった。ただ窓なしの空間となり、本来は消臭や昔であれば汲み取りのために、外に接する場所でなくてはいけない。そうなると便所の位置は本当に悩む。おそらく伊東家も対馬家も方位から床の間裏、近くに厠を作らざるを得なかったのだろう。その後、厠は他の場所に移り、その空間が納戸になった。

 

 森町の隠し部屋についても幅が60cm、奥行き95cmくらいしかないので、厠としては小さすぎるが、伊東家、対馬家の例からすれば、昔は小さな厠であった可能性も全くは否定できない。ただ家内の実家は、すでに壊されてないが、明治中期頃の建物で、縁側の廊下に突き当たり、床の間に裏に幅1m、奥行き2mくらいの空間があり、ここは長持や掃除道具が入っていた。森町の家の隠し部屋も、納戸の可能性が高い。またこの隠し部屋は、床の間の裏にあるだけで、縁側の廊下には開口しており、そこからは丸見えで、全く隠し部屋にはなっていない。よほど前述した三重、松坂の小津家の方が隠し部屋に近い。来客者の会話を聞くためだけの隠し部屋として作ったのであれば、全く頭隠して尻隠さずで、お粗末で、どんでん返しくらいの工夫をして、万一、廊下に出た客からも見えないようにすべきである。来客が廊下に出て誰かが盗聴しているのが見つかれば、それこそ大騒ぎになる。

 

 この隠し部屋に関しても、カラクリのある忍者屋敷としてはいささか納得いかない。実用日本語表現辞典では、忍者屋敷とは“外見は普通の日本家屋であるが、家の各所に敵から隠れたり逃げたり、敵を捉えたりするための、構造上の仕掛けが加えられている家屋を指す通称”となっている。カラクリのない古民家は忍術屋敷とは言えない。


旧伊東家

旧対馬家






館山、旧小谷家 明治の建物であるが、床の間裏に60cm×180cmくらいの納戸がある

 

2021年1月11日月曜日

弘前の冬

 

弘前大絵図(1800)、家の前の道幅は4間3寸



明治二年弘前絵図(1868), 点線が坂道


 弘前に来る前まで、九州の鹿児島県と宮崎県にいたので、夏は涼しくていいやと思っていたが、それ以上に冬の厳しさと長さに閉口した。最初二年ほどは家内の実家に暮らしており、そこは明治時代の建物で、便所と風呂は土間の向こうにあった。冬に便所の横にあった温度計を見るとマイナス7度でほぼ外と同じ温度であり、夜中にトイレに行くと寒くて我慢できなかった。それでも雪の心配はしなくても良かったが、自宅を建て、門から20m離れて家を建てたため、雪が降ると、まず玄関までの道を開く必要があるようになった。1,2センチの雪なら可愛いものだが、1日に40センチ以上降る日も年に10回以上はあり、スコップ一回で30センチくらいしか進めず、玄関までの道のりの長さを呪う。15年ほど前だったが、こうして道の両側に置かれた雪が溜まって2m以上になったこともある。


上記坂道の今日の状態、道幅が4間(7.2m)もない

 

 仙台にいた時でもそうであるが、雪といえば、スキー場の美しいというイメージがあったが、青森で住むようになると、毎日の雪片づけの疲れ、もはや雪の美しさを楽しむ余裕もなくなり、どうしようもなく嫌なものになる。特に腹が立つのは、自動車道の除雪のためにかなり重い雪を玄関前に30センチ以上置かれる。これを取り除くのが大変で、重くて硬い。昔は、除雪することなく、降り積もる雪は固められ、道路は雪が固まった氷道となった。春になるとこうした圧縮され凍った雪を切り出し、道の両側に置かれた。

 

 冬になると馬車は車輪からソリとなり、荷物や人を乗せて走った。以前、ブラタモリ弘前編でディレクターの方から明治二年弘前絵図に記入されている坂道を点線で示す理由は何かと聞かれたことがあり、その時はわからないと答えたが、冬場、馬車でソリを動かす場合、坂は大変だったと思われる。坂を登るのも大変であるが、それ以上に下りの坂は荷台が馬にぶつからないようにブレーキをうまく使わないといけない。むしろ坂道でないところ、ありはゆるい坂を走りたいと思う。それゆえ、絵図の坂道を点線で示すことは冬場の運送では重要だったのである。

 

 江戸時代、雪国、青森ではどのように生活していたのかを示す文献は少ない。あまりに日常的であったからか、前述した坂での運搬方法や、市内には縦横に水路があり、道を横切るところは橋となっていた。おそらく木造のもので、雪に重みで毎年、大きな破折があったと思うが、どうしたのかもわからない。冬の寒さには暖を取らないといけないが、暖房用の炭、薪はどうしたのだろうか。明治二年弘前絵図では樋口村付近の岩木川沿いに焚火渡所の記載があり、他には北川端町、蓬莱橋付近に“藩士へ年々炭柾木舞渡所廃藩迄”の記載があり、弘前藩士の炭や薪がここで渡されたと思うが、そこまでのどうやって運搬したのか。もちろん、雪が降る前に各家は冬用の薪、炭を備蓄したであろうが、冬の間、物資の運搬がなかったわけではない。

 

 道幅の数値が残っている1800年頃の弘前大絵図と明治七年頃の地籍図を比較しても、弘前城西側地域の道幅はほとんど変化なく、また広い。例えば、誓願寺からのまっすぐな道は両絵図とも6間(8.4m)と今の道幅とそれほど変わらない。家の前(坂本町)の道幅は弘前大絵図では4間3尺(8.2m)で今と変わらないが、緑町の坂道は4間(7.2m)で、現在より広い。江戸時代の大阪の道路幅は3間から5間(御堂筋は3間)を考えると、弘前の道は江戸時代、少なくとも後期は今と同じくらいに広かったようだ。もちろん江戸時代は火事が多く、防火、延焼防止のために道幅を広くとったのも理由の一つであるが、雪国の生活を体験すると、屋根から落ちた雪が道に両側に積もるために、道幅を確保するために最初から道幅が広くなくてはいけない。両側から雪がどんどんつもり壁のようになりその間が生活道路となっていたのだろう。

 

 家の構造も、今のようなガラス窓がないため、冬場は周囲を板戸で囲み、上部に少しだけ格子の入った障子窓があるだけなので、室内は日中でもかなり暗かったと思う。長い冬を昔の人はどのように過ごしたか、新たな研究対象である。





2021年1月10日日曜日

アメリカ人はバカ?


 昔から、胡散臭い話をすぐに信じる人がいて、例えばノストラダムスの大預言で1999年に地球は滅亡するという話を信じて、宗教に走った人もいた。よく考えれば、西暦はキリストが生まれたとされる年を元年として作られたもので、イスラム暦では1421年、皇紀2659年など、世紀末思想は西暦でなければほとんど意味を持たないものであり、これだけでも馬鹿げた予想とわかる。

 

 現在では、こうした嘘のニュースを信じる人は1999年当時より確実に増えており、その原因はフェイスブック、ツイッターなどSNSの普及とヤフーニュースのように最適化が図られ、個人の興味のあるニュースばかりが出てくる事による。具体的に言えば、アメリカ大統領トランプ支持派が見るニュースは、全て選挙は不正で、無効であるというものしかない。こうした人に限って、マスコミは信用できないと、新聞、本は読まないし、テレビは見ない。ひたすらSNSでまことしやかに流れる言動を信じる。

 

 今回のアメリカ大統領選挙で、まず流されたのは選挙会場でトランプ票をバイデン票に差し替える映像である。選挙用紙を納めたトランクから用紙を出しただけの映像なのだが、全く違った解釈が行われた。普通に考えるなら、これほど大胆な選挙不正が行われるはずがない。その後、連邦最高裁判所でバイデンの当選が否決されるとフエイクニュースが流れ、選挙不正が却下されても、裁判官に問題があるとなっている。さらに、これは重要な隠蔽工作だというのが、バイデンの当選に決定的な影響を与えるデーターがあるドイツ、ハンブルグのCIAが運営しているサーバー会社にアメリカ特殊部隊が攻撃して死傷者が出たというニュースがあった。これもその後、全くフェイクニュースであることがわかった。現在、1月の中頃、そろそろトランプ大統領の命令で戒厳令が施行され、バイデン一味を逮捕するというニュースが出ているが、これも全くの嘘っぱちであろう。

 

 2005年、アメリカの台風、カトリーナがフロリダに上陸し、甚大な被害があった。その折、黒人たちが商店に乱入し、そこに置かれた商品を次々強奪したが、その映像を見て、ある白人は黒人はああいうことをすると怒っていたが。私にはアメリカ議会になだれ込むトランプ派の白人もそれほど変わらないように思えた。私の周囲のアメリカ人の多くは反トランプ派であったが(多分、インテリが多いので)、実はアメリカの白人の70%が今回の選挙ではトランプに投票したようで、このことは反トランプの白人は例外的で、多くのアメリカ人白人は、連邦議会に侵入した暴徒と同じであると考えたほうがが良い。終戦後、アメリカ人は優しい、紳士であるというGHQの宣伝のせいか、こうした武力的、人種差別、強権的なアメリカ人の姿はずっと日本人の心から消えていたが、今回のアメリカ議会の侵入の映像は、単に民主主義に反するという綺麗ごとではなく、イスラム圏内で嫌われるアメリカ人の醜い側面を見た思いがする。そうした意味ではトランプ大統領はアメリカ国内に大きな対立を作ったことは間違いない。

 

 どうも日本では明治時代から白人を礼賛する空気があるが、ことアメリカ人に関していえば、西部開拓時代にインディアンを皆殺しにする、平気で日本で原爆を落とす、世界で一番戦争を起こす、トランプを大統領にする“愚かなアメリカ人 stupid American”ということがよくわかった。

 

2021年1月8日金曜日

世界中の矯正歯科医は100%、マルチブラケット装置を使う



 現在、中学生以下の患者は最後まで責任を持って見られないので、子供の矯正治療をしていないが、それでも意見だけでも聞きたいという患者が多い。多くは治療中の患者、それも上下の歯列の拡大治療をしている患者か、そうした治療を勧められた患者で、今の治療法で良いのかという相談である。

 

 顎の大きさに比べて歯が大きく、でこぼこしている不正咬合は叢生(そうせい)と呼ぶが、日本人の不正咬合の中でも一番多く、軽いものも含めれば、50%以上の頻度となる。これには噛み合わせが逆の反対咬合や逆に出っ歯になっている上顎前突の症例も含む。すなわち、出っ歯ででこぼこがある症例や、さらに上下の前歯が前に飛び出している上下顎前突も含む。

 

 こうした叢生の症例の場合、治療法としては上下の歯列を横に前に広げる拡大治療と歯を何本か、多くは小臼歯を抜く抜歯治療に分かれる。成人で言えば、こうした叢生の場合、私の診療所のケースで言えば、ほぼ70%は抜歯症例となる。わずかなでこぼこの症例や噛み合わせが逆の場合は非抜歯で治療する場合もあるが、大抵はでこぼこを取るだけなく、口元を引っ込めたいという要求も多い。知人の台湾の矯正医によれば、台湾で矯正する患者の多くは口元を引っ込めたいという患者が多く、ほとんど抜歯症例になると言っていた。最近では、私の所でも軽度の叢生では、歯の両端を少し削る(0.1-0.2mm)、デスキングという方法と矯正用アンカースクリューを使い、それほど歯を前に出さないででこぼこを取ることもできるようになったが、今の口元より5mm以上入れるとなると抜歯することが多く、必然的に抜歯する率が高くなる。

 

 一般歯科、特に床矯正治療、拡大治療を行う所では、非抜歯による治療を勧める。もちろん非抜歯、拡大治療で治るのであれば、それは好ましいことであるが、実際は半分以上失敗することになる。すなわち、口元が出ている患者にさらに歯を前に出すとゴリラのような顔貌になるため、患者は満足しないし、上顎前突の患者ではでこぼこがなくなっても出っ歯が残っているようなら満足しないであろう。矯正医の考える理想咬合は決まっていて、まず1。でこぼこがないこと、2。前歯、奥歯がしっかり噛んでいること、3。横から見た口元が美しいことを目指す。もちろん100点満点になることがないが、それでもそれを目標に診断し、治療する。結果、それに近づけるために非抜歯での治療は無理で、歯を抜かなければダメだと診断する。

 

 ところが一般歯科の一部は、1のみ、つまりでこぼこのみしか考えない先生がいる。上下の歯列を拡大し、奥歯、前歯が全く噛まない、あるいは横顔がゴリラのようになっても、でこぼこは治ったと自分の治療を肯定する。そうした点にクレームをつけると自分の所では抜歯による治療をしないと、これ以上の治療を断る。しかし、こうした先生は、それほど強い使命感で非抜歯治療を行っているものではなく、ただ単に抜歯治療による叢生、上顎前突、上下顎前突のマルチブラケット治療ができないだけなのである。

 

 1、2、3の全てを改善するには、どうしても抜歯とマルチブラケット装置による治療を必要なことが多いため、世界中、特にアジアの多くの矯正歯科医は、床矯正や拡大治療に否定的である。逆に抜歯+マルチブラケット装置による治療ができない、得意でない先生が、床矯正、拡大治療を勧めると言っても間違いない。最近では、これに加えてインビザラインによる治療を勧める先生もいて、床矯正、拡大装置、インビザラインとなるが、全世界の100%矯正歯科医が使用するマルチブラケット装置による治療ができなければ、こうした傍流の治療法ではうまく治療することはできない可能性が高い。

 

 ただこれだけは言っておきたいのは、一般歯科の先生の多くは、子供のうちに矯正治療をすれば、大人になって矯正治療をしなくてもすむかもと思う善意で治療しているし、こうした先生はそれほど極端な治療費も取っていない。結局は、かかった費用、期間と結果のCP(コストパフォーマンス)の問題となり、50-70%の仕上がりでよければ、一般歯科医での矯正治療は否定できないし、それで満足する患者も多い。


 

2021年1月5日火曜日

東奥日報、忍者屋敷の特集記事について

 




 令和三年14日の東奥日報の紙面で、“弘前・森町 謎の古民家は「忍者屋敷」だった!?”という2面にわたる特集記事があった。東奥日報部長、珍田秀樹の署名があるので、彼の責任記事であろう。青森大学、清川繁人教授の研究を紹介したもので、弘前にある忍者屋敷の履歴と、存続、活用を訴えたものであり、コロナ騒ぎで暗い気持ちを、楽しいトピックで解消しようとした紙面であることはわかる。世界的にも人気のある忍者屋敷が、そっくりそのまま弘前にあり、日本では滋賀県にある甲賀忍者屋敷(望月氏旧宅)に次ぐ、二番目の忍者屋敷であり、実際に忍者が利用した建物としては日本で唯一と鼻息が荒い。

 

 もちろん、忍者の存在自体は、日本史の専門家から誰も否定されていないし、近年の研究では、戦国時代では大きな活躍をしていたことはわかっているし、さらに江戸時代、その子孫がどうなったかなどの研究もあるが、忍者屋敷については、実際には学問の対象にすらなっていない。

 

 通常、こうした特集を組む場合は、一人の研究者のみの意見をそのまま載せると、内容が偏るために、必ず第三者の意見を聞く、裏を取ることが鉄則である。もちろんベテランの記者はそうしたルールは知っていて、弘前大学の研究者や日本史の専門教育を受けた学者に意見を聞こうとしたと推測されるが、多分、よくわからないと断られたのだろう。私が最近読んだ「戦国の忍び」(平山優、角川新書)、「忍者に末裔」(高尾善希、角川書店)など、史学の専門家の本もあるのだから、こうした著者にコンタクトをとり、意見を聞けば良いし、記者は当然、そうしている。ただ、忍者屋敷と言われれば、誰も相手にしなかったのが実情であろう。それならば、胡散臭い学会ではあるが、国際忍者学会の三重大学国際忍者研究センターの藤田伸也教授、山田雄司教授など6名ほどの教職員がいるので、少なくとも忍者屋敷に肯定的な彼らのコメントはとり、掲載すべきであったろう。

 

私のような素人でも疑問に思うのは

1.     なぜ隠し部屋や、うぐいす張りの板があるからくり忍者屋敷を江戸時代、弘前に作る必要があるのか。屋敷にからくりをして、敵の侵入に備える必要性は、江戸後期に全くなかった。さらに床の間の裏に細長い空間、隠し部屋の事例は他にもあるが、忍者屋敷とは言わない。

2.     紙面では、この屋敷を早道之者の詰所としているが、根拠が薄い。少なくとも詰所とするなら、それを示す書あるいはここに住む住人が代々、早道之者の頭であるという証拠は必要だろう。今のところ、幕末の住民、棟方嘉吉が、早道之者を統括する棟方作右衛門貞良の子孫のように書いているが、明治二年弘前絵図では棟方姓は9名いるのに、同姓だから忍者集団であるというのはあまりにひどい根拠である。直系の子孫は棟方晴吉(貞敬)—棟方滝根であり、その住まいは在府町—長坂町である。少なくとの棟方嘉吉が早道之者でなければ、忍者が住んでいた家にもならない。先祖が忍者であった家が忍者屋敷というなら、伊賀忍者の末裔が住む江戸の鮫河橋谷町は忍者村?(「忍者の末裔」では伊賀忍者の末裔、松下家を扱っている。同書は江戸時代の士族の日常がよくわかる良書である)。また詰所は、特定の勤務の人が集まって詰めている所であり、近習詰所や御城番詰所などの場所をさし、個人住宅が詰所となることがあるのか。

3.     棟方家のあった白銀町から森町に詰所を移動し、この家の住民が変わっても詰所として存在し、1735-1750年まで旧忍者屋敷とあり、一旦解体されてから、1761年以降に再建され、そしてその忍者屋敷も火災で消失し、今の建物は江戸後期に作られたものとしている。1と同様に、この建物が早道之者詰所とする文献がなければ、空想であろう。江戸後期、弘前城下で、わざわざうぐいす張りの板を玄関につけ、敵を警戒する必要性はないし、そうした忍者屋敷を作る理由、根拠もない。おそらく津軽史(御日記)などには建物の記載が多く、該当する建物の記載があろうと思うし、御家中屋鋪建家図で同じような構造の家が見つかるだろう。

 

 もちろん、早道之者という隠れた存在であるので、公式な書に詳しく書かれていないことはわかるが、この家を忍者屋敷と考えるにはあまりに文献的な根拠が少なく、理論の構築が断片の記述を集めただけの空想的なものである。医学系の論文では、結論が決まると、それに沿った論文を考察に集めてくるが、同じように清川教授も薬学部なので、森町の建物が忍者屋敷と断定し、それを補足するデーターの断片を持ってきているように思える。一方、人文系の研究者も卑怯で、こうした論があっても、ほとんど無視して、口を閉ざす。面白い記事ではあるが、今のところ“忍者屋敷など存在しないし、それを示す証拠もない”というのは結論であろう。1977年出版の「板柳町誌」には中野松山家がフランス王家のルイ一族の末裔であるという記事があり、この時も、元県会議員が中心になって、松野一族が所有する青銅製の香炉などのルイ一族の遺品を守ろうとする後援会ができたが、これと同じようなものだろう。

 

 新聞も読者を対象にしたものであるので、こうした面白い記事も必要で、それに対して反論するのも興ざめであるが、それでも東奥日報のファンの一人としては私論を述べた。


PS: 紙面では江戸後期における忍者屋敷居住者の変遷を示す図の中に、明治二年弘前絵図を示していて、そこに“添田直太朗”の記載があるが、これは“珍田直太朗”の間違いで、外交官、珍田捨巳の父、有孚のことで、野呂謙吾の長男、直太朗が珍田家の養子に行って珍田有孚となった。同様に2018.2.16の私のブログで1800年当時の住人を斎藤伖八郎と書いたが、新聞の斎藤誠八郎が正しいのかもしれない。”誠”とは読めない気もするが。


2021年1月2日土曜日

絨毯が結ぶ世界 京都祇園祭インド絨毯への道

 

南インドのシルク絨毯 クリスティー 3400万円


 今年の正月はコロナ問題のため娘も帰省せず、ひたすら妻と二人で家にいた。テレビを見ても、あまり面白い番組もなく、部屋でほとんど本を読んでいた。今回はある程度、こうした事態が予想されたので、早めにアマゾンに普段なかなか読めない大著を注文した。それが

「絨毯を結ぶ世界 京都祇園祭インド絨毯への道」(鎌田由美子著、名古屋大学出版、2016年)で、本文371ページ、注125ページ、カラー図版188、挿図167のボリュームがある本で、定価で10000円もする。もちろんこのボリュームならこれくらいするし、歯科関係の本では23万円するのは普通だが、人文系の本としては高価である。

 

 内容については、著者の東京大学の博士論文を下書きにかなり、新たな知見を加えたもので、ある程度、オリエンタル絨毯の知識がある私でも理解するのは相当難しい。欧米ではもともと絨毯はインテリアの一部として愛用され、多くのコレクターと専門家がいるが、日本で、このような著書が出ること自体、驚くべきことといえよう。以前、アートコアから絨毯を買った時に”Hali”という雑誌を数冊おまけにもらったことがあるが、その内容を見て、欧米の学者のレベルの高さを垣間見た思いがあったが、日本でもこうしたラグに対する研究書が出たかと嬉しい。

 

 内容については、十分理解できなかったが、今ではあまり評価されていないインド絨毯についての新しい知識を得ることができた。これまでキリム、絨毯について多くの本を読んできたが、主としてオリエンタル絨毯、これはペルシャ、トルコを中心としたもので、もう少し具体的に言えば、現在のイラン、トルコとコーカサス諸国の絨毯、キリムについて書かれたものである。一部、アフガニスタン、北アフリカの絨毯についても紹介されているものの、インド絨毯については、ほとんど記載されていない。おそらくイスラム国家であったムガール帝国が崩壊する19世紀後半以降、イギリス植民地、ヒンズー国家の樹立とともに、絨毯そのものの伝統が廃れた結果であろう。現在の商業的絨毯、アンティークも含めて19世紀後半以降の絨毯が中心となり、インド絨毯の全盛期がその前であったことによる。インド絨毯といっても著者によれば、精緻で密度の濃い北インド産と織りが荒くカラフルな南インド絨毯に分かれるが、両者とも全盛期は17世紀から19世紀であり、それ以降は優れた作品はない。流石に200-300年前の絨毯となると、数が少なく、ほとんどが美術館に収められているので、商業的な取引はない。またインドではイスラムからヒンズー教に変わるにつれ、絨毯の利用は減り、捨てられていったと思うし、床に敷くという使用法をすれば、消耗していく。

 

 ところが、こうした古い時代の比較的コンデションの良い絨毯が日本、とりわけ京都の祇園祭の使われる山車に飾られていた。これらの絨毯の種類、履歴についてはほとんど分かっていなかったが、著者の研究により、多くは南インド産であり、オランダ商人を通じて日本のもたらされてきたことがわかった。日本では床に敷くこともなく、あくまで祭の飾りのみに用いられ、大切にされてきたので、200-300年前の南インド産の絨毯が綺麗にまとまって残るという奇跡が起こった。こうした京都での南インド産絨毯を解明することにより世界中にあるインド産の絨毯について、その由来を著者は追求し、これまでほとんど知られてない南インド産絨毯の評価を多くの資料により説明した。大きな業績である。

 

 一方、本書では1910から1941年ころ、主として京都美術倶楽部の売り立てで扱われた南インド産の18世紀ころの絨毯、21枚を挙げているが、今どうなっているのかは非常に気になる。これらは主としてオランダ商館、商人が売った、あるいは贈られたもので、所有者は大名クラス、あるいは裕福な商人に限られる。本書では白黒写真で解説しているが、戦災で消失しなければ、日本のどこかにあるに違いない。おそらくはかなりくたびれた状態でどこかの蔵にあり、古くて汚い絨毯としてオークションに出る可能性もある。昨年のクリスティーのオークションでも18世紀、南インド、デカンのシルク絨毯が3400万円ほどで落札されたが、コンデションが良ければ、日本にある南インドのアンティーク絨毯も高価格がつくと思う。




2021年1月1日金曜日

左翼、新聞による中国報道

勇気ある名著である


 中国共産党の酷さと官僚主義の恐怖をはっきりする事例は、毛沢東が行なった大躍進の時代のエピソードである。これは農工業の生産にノルマをつけて西洋諸国に追いつこうとする毛沢東の政策によるもので、1958年から1961年に行われた。とりわけ農業への被害はひどく、この政策により2000-7000万人とされる信じられない死亡者、主として餓死者を生んだ。おそらく歴史上でもこれほど多くの犠牲者がでた事例はない。

 

 最初に、1956年の68日に河南遂平衛星公社で、1ムー平均で1007.5キロの小麦の収穫があったと言うニュースが流れた。その後、次々に記録更新がなされ、630日には2551キロ、95日には広東北部山連県で30218キロの収穫があったと報告され、毛沢東を喜ばせた。もちろん全てホラであり、中央政府のご機嫌をとるために、地方の役人がでっちあげた数字である。食料過剰を信じた毛沢東はそれを輸出に回した。政府だけでなく、研究機関も、この食料高生産を信じたが、実態はむしろ不作であり、農民は飢えていた。ところが中央に高生産を報告した手前、役人は、農家を徹底的に捜索して、全ての食料を奪っていった。その結果、各地で人肉を食う事件が発生し、信じられないほどの餓死者が発生した。

 

 それでも、こうした惨事に立ち上がる義人がいたことも記す。ある生産隊長は、自分の判断で食物を村人に配り、餓死しないようにしたが、逮捕され、五年の懲役を受け、また別の生産隊長は村の惨事にいたたまれず、倉庫にある食料を調達して、村人に配ったところ、悪質分子として逮捕され、死亡した。逆に公安には、逮捕者数のノルマが課され、遂には逮捕コンクールが実施された。他にも多くの中国人がこうした惨状に立ち上がったが、次々と逮捕され、死んでいった。

 

 問題は、当時の朝日新聞はじめほとんどのマスコミと現代中国学者は、中国の大躍進政策を絶賛していた。唯一、人民公社の問題点を指摘したのは中国史学者の小竹文夫と我が弘前出身の佐藤慎一郎しかいなかったのは、小竹は東亜同文書院を卒業して長らく中国で生活していたこと、佐藤も中国で暮らし、直接中国人からインタビューして、こうした事実を知ったのだろう。隣国で5000万人が飢餓で亡くなっても、ほとんどのマスコミ、学者が逆に絶賛していたと言う恥ずかしい事実は、これまでまったく反省されておらず、ようやく2020年に京都大学の村上衛によって“大躍進と日本人「知中派」—論壇に置ける訪中者、中国研究者”で触れられている。かなり勇気のある論文で、先輩の著名な中国研究者のことを批判するだけでなく、こうした論文は中国政府から睨まれ、研究のための中国入国を断られることもあろう。高校の時に、好きで著書の多くを読んだ中国学者の竹内好も、毛沢東、文化大革命を絶賛し、後日、毛沢東の大躍進の失敗、文化大革命の悲劇を知るにつれ、当時のほとんどの左翼、現代中国学者は中国の御用聞き学者と判明した。彼らが常に批判続けた戦前の軍部御用聞き学者よりひどい。なぜなら中国は外国であり、彼らは中国を批判する自由があったのだから。

 

 そして遂に大躍進から2020年で、60年経つた。当時を知る中国人は高齢で、少数となり、その間、中国で2000万人以上、餓死した事実をマスコミから完全に封じ込め、その事実を消滅するのにほぼ成功した。よく考えれば、2000万人以上の餓死者を出した歴史を完全に抹殺することができたのは、すごい。ユダヤ人のホロコーストの犠牲者は1000万人程度であり、これをはるかに上回る餓死者を出した歴史を隠せるのであれば、文化大革命も消せるし、ほとんどの負の歴史は簡単に消し去る。

 

 中国共産党官僚主義の怖さは、楊継縄著“毛沢東 大躍進秘録”に見事に描かれており、日本共産党、左翼学者はこの本をきちんと理解し、なぜ当時の党、学者が、隣国の歴史上最大の人為的失敗について黙っていたどころか、逆に絶賛していた事実について、藤田省三の転向の思想史研究と同じレベルで評価してほしい。もちろん彼らは、日本軍の南京虐殺を信じても、大躍進で2000万人以上がなくなったとは信じないし、この“大躍進秘録”も嘘っぱち本として片づけるであろう。ただ中国では香港人のみ、この本を読んでおり、彼らは信じ、戦っている。その実感はリアルである。