2021年1月11日月曜日

弘前の冬

 

弘前大絵図(1800)、家の前の道幅は4間3寸



明治二年弘前絵図(1868), 点線が坂道


 弘前に来る前まで、九州の鹿児島県と宮崎県にいたので、夏は涼しくていいやと思っていたが、それ以上に冬の厳しさと長さに閉口した。最初二年ほどは家内の実家に暮らしており、そこは明治時代の建物で、便所と風呂は土間の向こうにあった。冬に便所の横にあった温度計を見るとマイナス7度でほぼ外と同じ温度であり、夜中にトイレに行くと寒くて我慢できなかった。それでも雪の心配はしなくても良かったが、自宅を建て、門から20m離れて家を建てたため、雪が降ると、まず玄関までの道を開く必要があるようになった。1,2センチの雪なら可愛いものだが、1日に40センチ以上降る日も年に10回以上はあり、スコップ一回で30センチくらいしか進めず、玄関までの道のりの長さを呪う。15年ほど前だったが、こうして道の両側に置かれた雪が溜まって2m以上になったこともある。


上記坂道の今日の状態、道幅が4間(7.2m)もない

 

 仙台にいた時でもそうであるが、雪といえば、スキー場の美しいというイメージがあったが、青森で住むようになると、毎日の雪片づけの疲れ、もはや雪の美しさを楽しむ余裕もなくなり、どうしようもなく嫌なものになる。特に腹が立つのは、自動車道の除雪のためにかなり重い雪を玄関前に30センチ以上置かれる。これを取り除くのが大変で、重くて硬い。昔は、除雪することなく、降り積もる雪は固められ、道路は雪が固まった氷道となった。春になるとこうした圧縮され凍った雪を切り出し、道の両側に置かれた。

 

 冬になると馬車は車輪からソリとなり、荷物や人を乗せて走った。以前、ブラタモリ弘前編でディレクターの方から明治二年弘前絵図に記入されている坂道を点線で示す理由は何かと聞かれたことがあり、その時はわからないと答えたが、冬場、馬車でソリを動かす場合、坂は大変だったと思われる。坂を登るのも大変であるが、それ以上に下りの坂は荷台が馬にぶつからないようにブレーキをうまく使わないといけない。むしろ坂道でないところ、ありはゆるい坂を走りたいと思う。それゆえ、絵図の坂道を点線で示すことは冬場の運送では重要だったのである。

 

 江戸時代、雪国、青森ではどのように生活していたのかを示す文献は少ない。あまりに日常的であったからか、前述した坂での運搬方法や、市内には縦横に水路があり、道を横切るところは橋となっていた。おそらく木造のもので、雪に重みで毎年、大きな破折があったと思うが、どうしたのかもわからない。冬の寒さには暖を取らないといけないが、暖房用の炭、薪はどうしたのだろうか。明治二年弘前絵図では樋口村付近の岩木川沿いに焚火渡所の記載があり、他には北川端町、蓬莱橋付近に“藩士へ年々炭柾木舞渡所廃藩迄”の記載があり、弘前藩士の炭や薪がここで渡されたと思うが、そこまでのどうやって運搬したのか。もちろん、雪が降る前に各家は冬用の薪、炭を備蓄したであろうが、冬の間、物資の運搬がなかったわけではない。

 

 道幅の数値が残っている1800年頃の弘前大絵図と明治七年頃の地籍図を比較しても、弘前城西側地域の道幅はほとんど変化なく、また広い。例えば、誓願寺からのまっすぐな道は両絵図とも6間(8.4m)と今の道幅とそれほど変わらない。家の前(坂本町)の道幅は弘前大絵図では4間3尺(8.2m)で今と変わらないが、緑町の坂道は4間(7.2m)で、現在より広い。江戸時代の大阪の道路幅は3間から5間(御堂筋は3間)を考えると、弘前の道は江戸時代、少なくとも後期は今と同じくらいに広かったようだ。もちろん江戸時代は火事が多く、防火、延焼防止のために道幅を広くとったのも理由の一つであるが、雪国の生活を体験すると、屋根から落ちた雪が道に両側に積もるために、道幅を確保するために最初から道幅が広くなくてはいけない。両側から雪がどんどんつもり壁のようになりその間が生活道路となっていたのだろう。

 

 家の構造も、今のようなガラス窓がないため、冬場は周囲を板戸で囲み、上部に少しだけ格子の入った障子窓があるだけなので、室内は日中でもかなり暗かったと思う。長い冬を昔の人はどのように過ごしたか、新たな研究対象である。





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