2014年9月25日木曜日

appleと津軽塗、りんご



 私自身、apple コンピューターの愛好者で、IMacMacBook ProMacBook AirI-PadI-PodI-PhoneなどIT関係の周辺機器はすべて、Apple社のものを使っている。友人の多くも、同社の愛好家が多く、最近の矯正関係の勉強会では、ほぼ全員の先生がApple社、それもMacBook Airが主流となっている。持ち運びに便利なため、私も学会、講演はもっぱらMacBook Air、旅行にはI-Pad、普段はIPhoneを持って行くことが多い。人間は贅沢なもので、あんなに軽いと感激したMacBook Airももっと薄く、軽くならないかと期待している。

 弘前は、日本でも有数のリンゴの町、リンゴ関係で何らかのApple社との関係があってもよさそうだが、青森県にはApple storeは一軒もなく、全く無縁な状況である。リンゴ関係の付き合いで、何らかの交流があってもよさそうだが、そういった関連行事も聞いたことはない。

 ひとつの接点として、津軽塗とアップルコンピューターとのコラボが考えられる。津軽塗と言えば、座卓がまず思い起こされるが、日本住宅では和室がどんどん減って来ており、津軽塗座卓の需要はもっぱら、日本料理店や和式旅館に限られ、海外への販路も極めて限定される。最近になり、津軽塗のIPhoneケースなどが販売され、とくにIPadケースなどは人気がある。箸やお椀といった日常品はそれなりに売れ行きがあろうが、これも海外進出を考えると、限界があろう。

 ひとつの方向性として、アメリカ、オレゴン州にあるGroveというメーカーがある。この会社はIPhoneIPadなどのケースを何とすべて竹で作っている。竹というと日本、東洋のイメージがあるが、ここの製品はクオリティーが高く、高価にもかかわらず、非常によく売れている。いつも品切れ状態で、自分の好みのデザインを入れてもらうと、日本ではIPhoneケースで2万円くらいする。自分だけのIphoneということで、こんなに高いケースを買う人がいるのだろう。弘前のような田舎ではこういった高額な商品は売れないが、東京、世界ではこういった製品を買う人もいるのだ。

 この発想からすれば、手間ひまがかかる津軽塗のIPhoneケースが一万円くらい、Ipadケースが2-3万円くらいするのは、ぜんぜん高くはない。問題はどうやって売るかとプロモーションの世界となる。

 Apple社—リンゴー弘前—Big Apple—ニューヨークということで、ニューヨークのアップルストアに陳列しているすべてのアップル商品にすべて津軽塗を施すといった大胆なPRが必要かもしれない。こういった海外展開を考えたデザインや戦略は、津軽職人からはなかなか出ないところであり、市あるいは関係者、デザイナーの協力が必要となる。あるいは弘前市に仮設のアップルストアーを開設し、そこに津軽塗のサンプルを展示するという方法もあろう。世界で最も売れている商品といえば、携帯電話とコンピューター、そこに参入する企業は多いが、弘前市の特産品、津軽塗での積極的な挑戦が望まれる。


 ついでに言うと、これからリンゴの季節となるが、是非ともリンゴ籠の復活をお願いしたい。工芸品ではない、昔の簡単な根曲がり竹を使ったもので、りんごは4、5個も入ればよい。弘前駅で売れば、一個150円のリンゴ5個にかごをつけて、1500円で売れば、飛ぶように売れるのは間違いない。複雑なリンゴ籠の製作は難しいが、簡単なものであれば、農家の主婦を集めて教え、作れば一個500円程度の手間賃でも十分な副業となる。リンゴ籠をもって、新幹線に乗って東京に帰る。周りのひとは、ああ青森に旅行に行ったのだなあ、赤いりんごの季節になったか、おいしそうだなあ、今度買って食べようかとなるし、東京の友人のお土産には何よりである。リンゴ消費にもつながる広告媒体となる。

2014年9月23日火曜日

津軽手踊り 阿波踊り









 前回、津軽手踊りについて少し書いた。日本の踊りというと、いわゆる日本舞踊に代表されるお座敷踊りと、盆踊りに代表される外で、集団で踊る廻り踊りに分けられるように思える。

 芸子さんなどが京都のお座敷で踊る踊りは狭い日本間の空間で踊るため、手、足、しぐさで表現した個人的な技術を要する芸であるのに対して、盆踊りのような集団で、やぐらを立て、その廻りを単純な様式で踊る。同じ動作の繰り返しで、上手、下手はあっても個人の芸を見せるものではなく、むしろ同じ動作を繰り返して集団的な熱狂を誘うものであり、本来的には若者の性的エネルギーの発散の場でもあったのだろう。

 手踊り、それも女性と限定すると、日本で最も美しいものは、徳島県の阿波踊りと津軽の手踊りであるように思える。前者は廻り踊りの範疇に入るもので、今は連を組み、道をパレードのように踊っていくものであったが、昔は三味線を主体として、家や辻のところで、踊りの名人がその技を見せたのであろう。初めて阿波踊りを見たのは徳島県の脇町で、近所のおばさんたちが三味線を鳴らし、脇町の道を流していた。55年程前の話である。徳島市にも何回か見に行ったが、傘を被った踊り子が本当に皆、美人に見えた。最近もテレビで阿波踊りを見るが、昔に比べてもどんどん手が上がってきている。とても年配の方ではああいった手を高く挙げた姿勢での長時間の踊りはきついてあろう。昔は、もう少し、手の位置も低かったように思える。阿波踊りも時代が経るにつれ、少しずつ変遷しているのだろう。

 昔の阿波踊りの記録はほとんど残っていないが、松浦舞雪の「踊り」という作品がある。徳島の歴史家によれば、この絵は創作で、当時の阿波踊りを表現したものではないとのことであるが、92歳の母によれば、昔の脇町での阿波踊りは、こういった踊りだったという。町の踊りの名手、芸者たちが、辻や家の前で踊り、家々から出た人々から喝采を浴びた。集団踊りで町を流すが、ここぞというところでは踊り、三味線、歌の名人が登場して、その技量を披露するのである。

 確かに今のような連を組み、審査するような形式では集団で統一した美しさが求められるが、脇町のような田舎では阿波踊りも数少ない娯楽のひとつで、演芸として、男衆はきれいな女性の美しい踊りを見たかったのだろう。松浦の絵を見ると、踊り手は腰を中腰にしており、津軽の手踊りに近い踊りのように思える。今のように背筋をぴんと伸ばし、手をまっすぐに挙げる、女踊りとは全く違う。足の運びは、音曲が津軽とは全く違うので、むしろ前後的な動きで、横への動きは少ないと思うが、手の動きは、津軽手踊り同様にかなり変化に富んだものだったのだろう。


 現代舞踊と津軽手踊りのコラボの動画を載せたが、あまり成功しているようには思えない。むしろ日本で最も美しい手踊りの阿波踊りと津軽手踊りのコラボから、さらに美しい手踊りができるかもしれない。弘前と徳島市との踊りの交流があってもよさそうである。

慧相 10号 「今東光と津軽の人たち」ー山田良政との関わり



 大阪の矢野さん、北海道の漢さんの二人の今東光オタクが主宰している今東光文學研究會の雑誌「慧相」の第10号((2014.9)に「今東光と津軽の人たち」と題した拙文を掲載させていただいた。この二人の今東光和尚に対する傾倒ぶりは半端ではなく、今東光に関するあらゆる資料、記録を集めている。大学の研究者の文学論文では、あるテーマを見つけ、それにそった資料を集め、検証するが、この二人のやり方は、こういった象牙の塔に住む住人とは全く異なり、その根底に今東光和尚への深い愛があり、学術的とか、そういったこととは無関係にすべての記録の収集と記録、そしてその考察を行っている。そういった意味で、最初にオタクと呼んだが、全く悪い意味ではない。

 一度、図書館で雑誌「慧相」を見ていただければ、わかるが、その内容はおそろしく詳しく、今東光研究の分野ではこの二人のかなう者はおそらくいない。現在、この二人だけで10号の雑誌を発表していて、いつまで続けるのかわからないが、この雑誌がおそらく今東光研究の本邦における基本的な情報、文献となることは間違いない。100部発行という全くマイナーな雑誌ではあるが、今東光という極めて狭い分野で考えるなら、これほど重要な雑誌もなかろう。お二人の今後のますますのご研究を期待したい。

 私自身、つい最近まで今東光は大阪、河内の人とばかり思っていたくちで、ほとんど本を読んだこともなかった。こういった私が今東光研究の最重要雑誌に寄稿したのだから、恐れ知らずのことである。まあ、軽い読み物と考えていただければ幸いである。著作権は雑誌にあるが、一部紹介したい.興味のある方は研究會の方でも販売しているようなので、購入してください。


 今東光の初恋は、函館の遺愛女学校の幼稚園にいた時で、明治37,8年ころである。その相手は、山田良政の妻、山田(藤田)敏子で、当時、敏子は278歳であった。夫の生死もわからぬまま、弘前女学校に3年ほど勤務した後に、遺愛女学校に移った。そこの生徒に今東光がいた。今東光の母、綾とは遺愛女学校の後輩で親しく、今一家が神戸に転居してからも交際は続いた。そのため今東光自身も敏子の夫、良政のことは子供のころから話に聞いていた。

 『山田良政への東光の憧れは、「実は僕も山田家とは因縁あって良政未亡人敏子さんには可愛がられたのです。というには未亡人が母の仲良し友達だったからで、この小母さんに叱られると良政のところに送ると言うんだね。ところが僕は内心それを望んでいたな。革命の何たるかを知りませんが、その辮髪の奴らと戦うということに興奮したんです。彼奴等は悪い奴で中国人(漢民族)を虐めるから退治しに良政さんは行っていると聞かされていたので、それなら此方も弾丸拾いぐらいは手伝えると考えていたんだな」(「毒舌日本史」、文春文庫、1996)と言っている。山田良政の亡くなったのは1900年、東光はまだ二歳であり、上記文はおかしいが、良政の戦死が最終的に確認されたのは1922年になってからであり、それまでは行方不明とされていた。東光の幼い時の記憶であろう。孫文を見たという上記の日出海のエピソードは兄、東光にはもっと強烈な思い出で、「彼(孫文)はそこに並んでいる学生の頭を撫ぜて通り過ぎたが、僕がこの革命家を讃美の眼で眺めている前に来ると、柔らかい大きな掌で僕の坊主頭を撫でてくれたのを覚えている。恐らくは僕は支那の狡童のような面をしていたので、同じ支那の少年と思われたのではあるまいか。僕の叛骨は実はこの時以来、孫逸仙から受け継いだと思っている」と大変な感動であった』(「東光金蘭帖」、中央公論、1978

 孫文は何度か、神戸を訪れているが、年代的には1913年3月に神戸を訪れたときのことであろう。東光15歳で、関西学院中等部入学前の出来事である。弟の日出海(当時10歳)の記憶では、母と一緒に出迎えてお辞儀をしただけだったようで、今東光の創作かもしれないし、この時、孫文に同行している同郷の山田純三郎の手引きがあったかもしれない。東光は、後年、文壇の寵児になる前の無名の時期にも、師匠の谷崎潤一郎、大親友の川端康成は当然として、それ以外にも、森鴎外、芥川龍之介、夏目漱石等歴史的な人物に会ったり、また航研機で有名な藤田雄蔵中佐を幼なじみの友達だったり、不思議な縁に恵まれた人物である。さらにここに孫文が加わる。

2014年9月21日日曜日

津軽手踊り









 津軽の芸能と言えば、まず津軽三味線を思い出す方も多いと思う。確かに津軽三味線独特の音色、メロディーは一度聞くと、その迫力に驚き、引きつけられる。それ故、津軽三味線教室は、津軽にとどまらず、全国にいたるところにあり、昔いた鹿児島にもあった程である。さらには、海外では日本の三味線=津軽三味線のイメージが定着するほど、日本を代表する津軽芸能と言ってよい。

 ただ地元にいると、こういった芸能はあくまで酒宴の余興として行われるもので、飲みながら、食べながら聞くものといった感覚が強い。津軽三味線の場合は、最近は高尚になり、何かパーティー、懇親会で演奏される時も、演奏中は飲食を中断して、じっと真剣に演奏を聞かないといけないような雰囲気となる。演奏が始まると、会話を止め、演奏に聞き入り、終了し、拍手して、宴会が再開となる。

 もともと津軽の芸能は、歌、音楽、さらには踊りの3つが組み合わさったものが一番、にぎやかで、祭りのような楽しい雰囲気で、盛り上がる。最近はあまりこういった3つが組み合わさった余興は少なくなったが、昔は正月のめでたい宴会などではこういった楽しく、にぎやかな芸能が主流であったのだろう。多分、酔客からは踊り手に卑猥なやじが飛び、みなして大笑いしたのであろう。

 津軽の手踊りの特徴は、最初から最後まで中腰で踊る。この姿勢をキープしながら踊るのはかなり体力がいるだろう。また男性からみれば常におしりの丸みが強調されることから、そこはかとない色っぽさがただよう。日本舞踊なような高尚なものでなく、祭りや宴会での芸であり、庶民の芸能であった。はでな動き、とくにその手さばきと足の運びは美しく、かつエロティックであり、伴奏の津軽三味線と歌い手との一体感は、ねぷたのじゃわめきと同様に津軽人の魂を揺さぶる。

 県外の方は、あまり津軽手踊りを見る機会はないと思うが、毎年、青森市では手踊名人戦が開かれ、今年で43回目を迎える。津軽手踊りと言ったが、正式には南部手踊りもあり、名人戦では子供の部、組踊の部もあって、熱心なファンがいて地元テレビでは、民謡選手権も兼ねて「青森県民謡グランプリ」として放送されている。また子供に特化した大会としては弘前市で県ちびっこ手踊り王座決定戦というのもあり、青森県各地にある手踊り会の子供達が踊る。これも大人顔負けの美しい踊りを見せ、おもしろい。


 ただこういった踊りを観光客が見る機会は少ない。本来はお座敷芸なので、大きな料亭の余興として、酒を飲みながら見るのがよいのだが、今や料亭はどんどんなくなっていて、地元民もめったに見ることはない。6月ころ、弘前ではよさこい祭りが行われ、土手町を中心に多くのグループが参加して、年々盛況となっている。ただよさこい祭りは、北海道のソーラン節と高知のよさこい祭りがミックスされたもので、全く津軽らしさがなく、個人的にはあまり好きではない。むしろ黒石よされの方がよほど情緒があってよい。津軽三味線の認知度は高まったが、津軽手踊りの認知度は低い。観光客の集まる場所、時期、例えば桜祭り、ねぷたの時期に駅前や弘前城内に特設会場を作り、演奏したらどうだろうか。市の観光課、コンベンション協会も津軽の総合芸能として、津軽三味線、民謡、踊りがミックスされた津軽手踊りの全国的、世界的なアピールを考えた方がよい。YouTubeにも正式な動画は1本もないのはさびしい。大会優勝者や名人の芸をきちんと動画として撮り、積極的に発信したらどうだろうか。