2019年11月23日土曜日

第78回日本矯正歯科学会大会(長崎)

新型艦 あさひ

軍艦島

ハウステンボス 光の王国

 今週の火曜日から金曜日まで、長崎で開催された第78回日本矯正歯科学会大会に参加してきました。鹿児島大学にいた時に、六大学セミナーという若手の先生が集まる会で長崎に行ったことはあるのですが、その時は伊王島のリゾートホテルで終日、缶詰研修していましたので、長崎市内はほとんど観光していません。
 
 今回は、まず到着した夕方から大浦天主堂とグラバー園をまわり、その後、中華街の江山楼で長崎チャンポンを食しました。ここは有名店で、まわりにほとんどの客がチャンポンか皿うどんを食べています。最初は、お店オススメのエビチリや唐揚げを注文しました。隣の席に外国の方がいて、メニューには料理の写真がないのでかなり迷っているようでした。そこで“ここのオススメはチャンポンと皿うどんで、ほとんどの客はそれを注文する”というと、それに注文しました。オランダからの観光客です。先に注文したチャンポンが私のテーブルにきましたが、やや期待はずれで、外国人観光客にオススメするのは食べてからした方が良かったと反省です。

 次に日は、世界遺産の軍艦島です。朝、10時半の船に乗り、台風の被害のために上陸はできませんが、2時間くらいの周遊コースです。久しぶりの乗船で、少し酔うかと思いましたが、全く平気でした。この日の昼食は、これも長崎名物のトルコライスで、ドライカレーととんかつ、ナポリタンが一緒に入った食べ物で、味もそのままです。原爆資料館、浦上天主堂から平和公園を見てから、学会場に行き、生涯研修セミナー“矯正歯科治療における顎口腔機能解析と評価”を聞きました。新潟大学の坂上先生が私の古い論文チューインガム法で測定した咀嚼能力と咬合および顎顔面形態との関連“(1988)を引用してくれました。感激です。この論文と”不正咬合者の咀嚼能力と矯正治療による変化“(1992)はすでに発表して30年近くなりますが、いまだに引用の多い論文です。その日の晩は、鹿児島大学の同門会の集まりで久しぶりに会う友人もいて、楽しいひと時でした。宴会後は思案橋の”よこはま“という中華料理店で皿うどんを食べましたが、ここもまあまあという感じです。

 木曜日は、午前中は学会に行きましたが、午後からはハウステンボスに行きました。学会参加者が多く、木曜日の長崎市内の宿泊が取れなかったことと、オランダ村のときから一度は行きたいと思っていたところだったからです。長崎駅から佐世保線で3時頃にはハウステンボスに到着し、駅近くのホテルオークラにチェクインしてから4時からの入場券にしました。平日で人も少なく、いろんなアトラクションもスムーズに見られ、また6時ころからは完全に夜となり、ライトアップされた園内は本当に幻想的で、またプロジェクションマッピングやイルミネーションショーも楽しいものでした。今回の旅でも、このハウステンボスの“光の王国”が最も感動ものでした。少し遠いのですが、是非とも行った方が良いところです。4時からの入園料5000円は高くありません。この日の夕食は園内の“レッドロブスター”にしましたが、ここも期待はずれで、まずくはないのですが、それほど感激するほどのものではありません。今回、長崎でいろんな名物料理を食べましたが、個人的にはリンガーハットの長崎ちゃんぽんが一番、好きで、口にあいます。長崎のタクシーの運転手にこうした感想をいうと、運転手も大笑いし、同意してくれ、彼もリンガーハットが好きで、いつもの食事はここでするようです。

 今回の長崎は、観光名所が多くあり、学会よりは観光が中心になり、反省しています。

2019年11月17日日曜日

深浦のマグロ、鰺ヶ沢のヒラメ、岩崎のズワイ

深浦のマグロ
貨客混載

貨客混載


 先日、講演会のために鰺ケ沢に行った。鰺ケ沢のホテルグランメール山海荘には2度ほど、今年も正月に行った。ところがいつも駅から送迎バスでホテルまでに行くので、鰺ケ沢の街中は知らない。今回、電車の発着の関係で講演の2時間ほど前に鰺ケ沢駅に着いてしまった。そこで、駅から遠いが講演会場まで30分くらいかけて歩いた。せっかくなので鯵ヶ沢の新名物、ヒラメのヅケ丼を食べようと“たきわ”という店に行った。鯵ヶ沢港のそばにあるお店で店内ではジャズが流れている。ここのヅケ丼は、昨年、グランメールで食べたものよりヒラメの身も厚く、甘くて美味しかった。あっと言う間に平らげたが、急に天候が変化して、外は嵐のような状態となった。この店から講演会場までは歩いて78分かかるため、こんな悪天候では歩けないと判断し、店で雨宿りすることにした

 隣町の深浦では、最近、マグロをメインとしたマグロステーキ丼を売り出している。マグロといえば、大間が有名だが、深浦もマグロの漁獲高が多いので、町おこしとして深浦町もマグロ料理を売り出しているし、深浦マグロのブランド化を行っている。鯵ヶ沢はどうだと店主に聞くと、鯵ヶ沢でもマグロは取れると言う。メニューにマグロ丼もあったが、普通の冷凍ものかと思って頼まなかった。店主にすれば当たり前のことで、イカ、ヒラメ、マグロともに地元物であるが、観光客からすればわからず、少なくとも“目の前の港で水揚げされた鰺ヶ沢産マグロ”くらいの説明は欲しかった。今度は、マグロ丼を食べることにしよう。

 帰りに鰺ヶ沢駅前のスーパーに行くと、深浦産のマグロが安く売っていた。北金が沢産のイカも美味しそうであった。弘前のデパートの鮮魚店に行っても、築地卸と行った言葉が並ぶが地元の、深浦産や鰺ヶ沢産の魚が並ぶことは稀である。他のスーパーに行っても、同じような状況で、案外、青森県内でも地元の魚が食べられない。前述したヅケ丼のおばさんに聞くと、港で魚が取れても、通年的に、ある程度の量、買ってくれないと魚は売れず、どうしても地元には卸せないと言う。さらに深浦の隣の岩崎港はズワイガニの漁獲高は全国3位だが、全く知られていない。岩崎港では、ズワイガニといっても大型で身が多い本ズワイではなく、身が少なく、水分が多い紅ズワイガ多く取れるため、主として加工品にされ、一般の魚屋に出回らないと言う。新鮮な紅ズワイガイはとても美味しいのだが。

 青森県は三方を太平洋、津軽海峡、日本海に囲まれ、魚の宝庫である。このうち、西海岸の鰺ヶ沢、深浦などの漁港は、周囲に大きな町がないため、なかなか魚が捌けない。深浦では、地元のレストランなどでマグロ料理を出すように努力しているが、それでも集客は少ない。むしろ五所川原市や弘前市に積極的にサテライト店を出店して市場を開拓するような試みはどうだろうか。例えば、鰺ヶ沢や深浦漁港が共同して、その日とれた魚を朝の五能線に載せ、弘前駅まで運び、それをレストランが料理に使う。最近では各地で一般旅客電車に貨物も載せる貨客混載という概念が広がっており、バス、電車に乗客と一緒に荷物を載せる試みが増えている。朝方の五能線、深浦、鰺ヶ沢、五所川原、弘前を通る線の乗客はそんなに多くなく、貨物も載せることは可能である(車種によって出し入れが難しいが)。費用が高くなければ、保温箱に入った魚を数分間の停車時間で車内に入れることは可能だし、同様に弘前駅で素早く取り出すこともできる。駅前に料理店があれば、すぐに料理に使える。もちろん既成の魚卸市場からすればこうした直取引は反対するだろう。ただこうした試みが成功するなら取扱量も増え、こうした貨客混載ではさばききれず、市場で扱うことになる。

 いい素材があっても、それをうまく広告して売り出さなければ意味はない。青森県は自然に恵まれ、多くの宝物を有するが、いまだに十分に活用されていない。個人的には新鮮な岩崎港で水揚げされた紅ズワイを腹一杯、安く食べてみたいものである。岩崎港から弘前まで直線距離でわずか38キロ。将来、貨物用大型ドローンができれば20分の距離であるが、季節になっても弘前で紅ズワイは売ってもいないし、食べるところもない。あれだけ多くの北海道産の毛ガニが売っているというのに。

 こうした問題は、深浦、鰺ヶ沢、五所川原、弘前などの役場や関係機関が、広域な単位で検討してほしいところである。町おこしに色々な試みがされていて、深浦ブランドのマグロなどは良い試みである。ただ深浦に集客といっても限界があり、観光客でいえば弘前の方が多く、弘前に観光に来た客が同時に深浦産の美味しいマグロや岩崎漁港の紅ズワイを食べられれば、より満足は大きい。特に弘前は名物料理がないだけに、ここで西海岸の魚料理が食べられることは、双方に金が落ちる。あるいはこうした試みに共感する居酒屋などを募集し、今でも鰺ヶ沢産の魚を使った居酒屋があるが、正式な“鰺ヶ沢ヒラメ”、“深浦産マグロ”、“岩崎産ズワイ”といった町発行のマークを貼るのもいいだろう。色々なアイデアがあるだろうというが今回の感想である。

2019年11月13日水曜日

佐藤弥六の書

佐藤弥六の書

陸奥評林

佐藤弥六

 佐藤弥六の書がヤフーオークションに5000円で出ていたので、思わず買ってしまった。佐藤弥六は、少年倶楽部で有名な佐藤紅緑の父で、小説家の佐藤愛子、詩人のサトウハチローの祖父となる。

 佐藤弥六は天保13年(1842)の生まれで、亡くなったのが大正12年(1923)なので、大正122月のこの書は最晩年の書と言える。サインには八十二翁弥六書となっているが、数え年齢で言えば82歳となる。

 内容については、詳しくはわからないが、人生訓のようなことが書かれている。佐藤弥六は天保13年の生まれ、第12代将軍、徳川家慶の時代で、水野忠邦のよる天保の改革は始まった頃である。徳川時代後期となる。まだまだ幕府がなくなるような気配は全くない。ペリーが浦賀に来航したのは嘉永6年(1853)、弥六は11歳の頃となる。幼少から秀才の誉れ高い弥六は藩学校の稽古館で学び、弘前藩記事によれば文久2年(1862)に弘前藩で海軍を作るために、船具軍用学取得目的で江戸に留学させ、勝麟太郎の塾で学ばせた。他には樋口左馬之助が蒸気機関学の取得を命じられている。18歳にして弘前藩から海軍学を学ぶように選抜されたことは、弥六の優秀性を示している。その後、弥六は英語勉強のために慶応元年520日、慶應義塾に入塾している。勝塾は坂本龍馬がいた神戸海軍操練所ではなく、江戸の塾であろう。その後、勝は慶応元年に海軍奉行を罷免され、蟄居生活となるが、弥六はその年の5月に福澤塾に入塾した。“幕末から明治初期の国内留学事情—洋学修行を志した津軽のサムライ”(保村和良、東北女子大学紀要、53:112-120.2014)によれば、福澤諭吉は「佐藤弥六罷り越し候。ピストルも買い入れ候積もり。この人はご承知も可有之、フェースフール(信頼の置ける、faithful)之人物に御座候。厚く御周旋被成遣可然奉存知候。塾に居候人とて尽く正しき人物斗りに無之、みちもすれば不正不信之ものも出来申候。人物之見分け、交も自ら厚薄有之義御心得迄申上候」と福澤は弥六を信頼の置ける人物と高く評価している。また“幕末・明治初期の弘前藩と慶應義塾—「江戸日記」を資料にして”(坂井達朗、近代日本研究)では、福澤の手紙では「この人は佐藤弥六と申し、旧津軽藩士、本塾へは多年寄宿、人物はたしかにして、少し商売を考えこれあり、失敗は致候得共、丸屋にも大いに関係して、早矢仕(はやしゆうてき)君もよく知るところなり。過般出府のところ、これと申し仕事もこれなく、就ては真利宝会社中として、弘前に居ながら相勤め、青森地方のことを引受候様の出来申間布哉」と書かれており、福澤は塾の会計を弥六に任せていた。のちに福澤はオランダ公使として弥六を推薦している。

 ここまでの弥六の履歴は、明治初期の人物としては相当、洋学(英学)に秀でており、そのまま行けば、留学し、その後は新政府の役人や教育家になったろう。ところが弥六のすごいのはここからで、故郷、弘前で兄が亡くなると、佐藤家を継ぐことと兄の子を育てるために、兄の妻を娶り弘前に戻った。弘前藩の英学寮の開設に当たっては、慶應義塾から永島貞次郎と吉川泰次郎の派遣に尽力し、明治4年には出来たばかりの青森英学寮の舎監をしていた。廃藩置県後は、きっぱりと洋学を捨て、商売人となり、郷土史に打ち込んだ。ただ相当にへんこつな人物で、商売人になったが、金を汚いとしゃもじに金を載せて客に渡したという。

 こういう人物であるので皆からは恐れられ、どこへ行っても正論を吐く。政府高官、校長と皆から尊敬されていても、弥六にとっては小人でボロカスであり、納得がいかないとこき下ろす。ただの変人ではなく、最高の学識を持つ人物だけに何か言われても反論できない。この書も内容はあまりわからないが、晩年になっても、その反骨精神は健在である。

2019年11月10日日曜日

歯科医師の高齢化



 私も今年で63歳になる。元気なうちは働きたいと思っているが、それでも老眼のため、年々、治療が疲れるようになった。ことに歯科の治療は内科とは違い、ものすごく細かい作業が要求されるため、高齢になって仕事をするのは難しい。うちの父は83歳まで一人で歯科医院をしていたが、だんだん患者さんも減り、また子供として、患者さんに何かあれば大変だと婉曲にやめるように促した。

 弘前の例で言えば、最近では70歳くらいで歯科医の仕事をやめる場合が多くなっている。昔の先生は、歯科も医科も死ぬまで、あるいは病気になって動けなくなるまで仕事をしていた先生が多かった。一方、アメリカの歯科医に聞くと、仕事は金儲けのためにするのであり、金を稼げれば、すぐに引退するという。そして引退後の生活をエンジョイする。知り合いのアメリカ人の矯正医は60歳くらいで引退して、今はアリゾナ州にいる。また台湾の矯正医は55歳で自分の診療所をクローズし、その後は週に23回ほど勤務医として働き、あとはゴルフをしている。

 こうした引退後の生活を考え、最近の先生は死ぬまで働こうとは思っておらず、患者が少なくなった、あるいは機械が壊れたと言った理由でやめることが多い。弘前の歯科医数は100名くらいであるが、60歳以上が半分ほどで、あと10年以内に少なくとも40人近くはやめるだろう。一方、新規に開業するのは年に2軒で、単純計算すれば、10年後は、40軒の歯科医院がなくなり、10軒できるので、差し引き70軒、30%少なくなることになる。医科の場合は、もっと深刻で、開業年齢が歯科より遅いため、開業医の高齢化、あるいは減少は著しい。

 ただ歯科の場合は、若年者のう蝕が減少し、今後、患者数も減るために、歯科医院の減少が大きな問題になることはない。一方、若い先生が増え、歯科治療のレベルが今後、上がるかというとこれは微妙であり、歯科大学の教育レベルが上がらない限り、日本の歯科医療の水準が上がることはない。というのは、日本の歯科大学では、学生の臨床教育は基本的にしないので、実際の患者さんを治療する機会は卒後研修に入ってからである。それも大学病院の患者数の減少に伴い、症例数は誠にお粗末で、研修医で終了しても、臨床レベルはかなり低い。その後、医科のように大学病院などに勤務して開業するなら一定のレベル、ここでは専門医ライセンスを持つが、歯科の場合は、研修医終了後、すぐに勤務医となることが多い。そうすれば、そこの年配の院長以上の臨床レベルになることは難しい。
 
 おそらく日本の歯科医師の臨床レベルをあげるのは、まず国立大学の大学院大学を撤廃し、アメリカ型の三年の専門医コースを作り、そこで各科の専門医ライセンスを取ることであろう。現状のような基礎科目による大学院では、学生は勤務医に流れる。さらに大学病院では、矯正歯科も含めて自費治療に関して一般歯科の半分から1/3くらいの値段にして、学生用患者数を増やすことである。弘前では十年後に70軒くらいになると言ったが、それでも口腔外科の専門医が10軒、矯正、補綴、小児、歯周疾患の専門医がそれぞれ5軒ずつあれば、計30軒の専門医がいることになり、全体のレベルアップにつながる。

 弘前で今、最も不足している専門医は、実は小児歯科で、日本小児歯科学会の専門医は、青森市の土岐先生と三沢市の濤岡先生しかおらず、弘前、五所川原地域には小児の専門医はいない。秋田県が3名、岩手県が8名、山形県が5名、宮城県が24名、福島県11名なので、ダントツに少ない。昔と違い、小児が減り、さらにう蝕が減り、また重症の子供も減った。そのため、新規開業の若手の先生方では、ほとんど小児の治療をしたことがない場合がある。歯髄処置や乳歯冠などできない歯科医もいるし、その他の処置内容もひどい。私も小児歯科の認定医を持っていたので、一般歯科医の大体の治療レベルがわかるが、やはり小児歯科専門医の方が臨床レベルは高いし、ハンディキャップ児の扱いもうまい。ついでに他の科の県内の専門医を調べると、歯科では補綴専門医が8名で、弘前には2名、口腔外科の専門医は15名で、弘前には8名、歯科保存専門医は2名で弘前は0名、矯正歯科学会の認定医は10名(専門医は1名)、弘前は3名(専門医1名)、歯周病専門医は3名で、弘前には2名となる。インプラント専門医は10名で、弘前は6名と多い。糖尿病専門医が青森県で54名、弘前に16名、消化器内視鏡専門医が120名いるに比べると、歯科の専門医は医科に比べると本当に少ない。

2019年11月7日木曜日

弘前れんが倉庫美術館 奈良美智

          
             斎藤義重
小野忠弘



佐野ぬい

天野邦弘


  YUKAKO

GOMA

 桜田弘前市長が、定例会見で、弘前れんが倉庫美術館での開館記念展に奈良美智さんの写真を中心とした作品を展示することを発表した。奈良さんは2015年の夏に美術館整備のアートアドバイザーになったが、翌年1月には役所のやりとりに時間が取られ、自身の制作がないがしろになっていると辞任した。その後、弘前市と奈良さんの関係はどうなっているか、気になっていたが、今回の報道で、高校の同級生である桜田市長の展示要請があったために、ようやく開館記念展に作品を出すことになったようだ。市長の個人的な要請がなければ、奈良さんの作品は展示されなかったことになる。時間的な問題でアドバイザーを辞任したとのことであるが、こうなるともっと深刻な決別理由があったのだろう。

 もともと弘前れんが倉庫美術館の発想は、奈良さんが弘前市民およびgrafと協力して吉野町煉瓦倉庫で行った三回の展覧会にある。私は三回とも行ったが、未だこれほどの展覧会は経験したことはない。一つは煉瓦倉庫自体の魅力で、内部の匂い、空間の時代性あるいは、最後の”A to Z”では二階も展示スペースに使ったが、床が抜ける危険性があるため、階段の下で係員が人数制限をしていたこと、こうした些細な記憶が残る場所であった。さらには、煉瓦倉庫の大きな空間に奈良さんのイメージする街をそのもの作り、独特な空間を市民とともに作ったし、費用の一部は寄付で賄った。そのために作品制作期間も含めて市民の関心は高かった。さらに会期が始まると、町中が奈良さんの展覧会一色となり、それを目指して、本当に全国から多くの若者が集まった。これほど弘前の街に若者が集まったことない。

 こうした煉瓦倉庫での奈良さんの展覧会の大成功が、弘前れんが倉庫美術館の始まりだったと思う。それゆえ、美術館建設の趣旨にも“コミッションワーク(依頼制作による恒久展示のアート作品)”を中心とした内容と書かれていたため、勝手に奈良さんの作品を中心とした”A to Z“のようなものが展示されると期待していた。ところが今回の記事を読む限り、20161月に奈良さんがアドバイザーを辞任してから、美術館と奈良さんとは作品展示も含めて一切無縁になった。もちろん奈良さん本人は出身地の思い出の場所に新しい美術館ができることは嬉しかったし、協力したかったのだろう。ただ弘前市の関係職員か、あるいは運営を任されている”弘前芸術創造“、”Nanjo Associates”(南條史生)との決定的な仲たがいがあったのだろう。むしろ早い時期から館長を決め、grafや立木祥一郎さんなどと組んだ方が良かったのかもしれないが、全国的な実績があるN&Aに運営を任せたのだろう。

 弘前は多くの現代美術アーティストが生まれた街で、奈良美智さん以外にも、現代絵画の小野忠弘さん、女子美大学長であった佐野ぬいさんや多摩美大の斎藤義重さんがいるし、また版画家の天野邦弘さんもいる。また若手ではNYで活躍するYUKAKOやアウトサイダーアーティストのGOMAさんと特別支援学校生徒との共同作品も素晴らしい。弘前大学教授だった村上善男さんも挙げてもいいし、さらに世界的に注目されている田中忠三郎コレクションのBOROやこぎんを現代美術の範疇に入れても良い。また今回の開館記念展にも出展する中国人アーティスト、潘逸舟さんは9歳から18歳まで弘前に居住し、多くのアーティストを生んだ弘前に感化されたのかもしれない。金沢21世紀美術館や十和田現代美術館のように世界中から現代美術の作品を集める必要はなく、奈良さんの作品を中心に十分に地元出身の現代美術アーティストだけで美術館が成立する。それゆえ、当初のコンセプト、奈良さんの煉瓦倉庫で行なった展覧会の延長にある美術館、がどこで変質してしまい、別物の美術館ができようとしている。おそらく美術館の運営を東京の会社に丸投げしたことが大きな要因で、彼らには地元愛はない。また本来、新美術館の開館は市民にとって待ち遠しいものであるが、未だに盛り上がっていない。一つにこれまでの奈良さんの展覧会に協力したNPO法人harappaや弘前市民に対して美術館から積極的協力を求めなかったことがある。唯一、ミュージアムロードに名前を残しませんか、という市からの案内があり、レンガに名前を入れてもらうもので、半年前にすぐに申し込んだが、未だに何の連絡もない。

 来年の春に開館ということで、すでに8名の現代美術アーティストによる開館記念展が決まっている。個人的には開館記念展には“Beyond A to Z”、奈良美智の特別展くらいを考えていた私にとっては期待はずれではあるが、どうか早く優秀で力のある館長を見つけ、自主路線に向かって欲しいところである。美術館本体は非常に魅力的であり、後は全国、世界から見学者が弘前に来る内容を目指して欲しいし、生まれ故郷を若い人にも魅力のある街にするために、苦い経験もあろうが、是非とも奈良美智さんに協力して欲しい。

2019年11月4日月曜日

弘前大学人文社会学部 国際公開講座2019



 文化の日、弘前大学で毎年行われている人文社会学部主催の公開講座に行ってきた。今年は、「日本を知り、世界を知る」のテーマで英文学から考古学まで広い範囲の講義が行われた。特別講演では台湾大学の張文薫先生の「津軽海峡、リンゴと太宰治—青森と南国台湾の繋がりー」と題した講演があった。

 台湾では青森と言えば、まずリンゴ、さらにはねぶた、あるいは太宰治もよく知られているという。台湾のデパートでは青森物産展が行われ、そこには弘前のりんごが高級果物として高い値段で売られていて、人気があるようだ。さらには台湾大学では台湾文学より日本文学が学生に人気があり、とりわけ人気があるには太宰治、芥川龍之介、中島敦、村上春樹で、夏目漱石、三島由紀夫、大江健三郎はあまり人気がないようだ。太宰の作品については、人間失格などは早くから台湾語訳で出版されていたが、その人気が急速に高まったのは、邱妙津の「ある鰐の手記」という作品による。邱は台湾大学を卒業後、ソルボンヌ大学に留学する才女だが、太宰の作品などに影響されて26歳の若さで自殺する。そのショッキングな話題はたちまち彼女の本をベストセラーにし、さらには彼女が心頭する太宰治の作品に向かった。その後、トレンディーな若者に太宰治は支持され、今では太宰のほとんどの作品は翻訳されていて、人気が高い。そのために青森に来る若者の中には、わざわざ金木の斜陽館に来るのが目的の人もいる。韓国や中国でも同様に太宰は人気が高い。

 張先生の専門は、戦前の台湾文学であるが、昔、当院に来ていた患者さんのお父さんのことを思い出した。彼は台湾出身で、今は彦根と台湾を行き来して生活し、たまたま娘さんが弘前大学にいたためにこちらで暮していた。私は、もともと台湾好きだったので、この方とも何度か話しあったことがあった。彼は戦前の台湾では非常に有名であった小説家の周金波という方の息子さんである。周金波は基隆生まれで、日本大学歯学部で学び、卒業後は基隆で歯科医院をしながら、小説を書き、戦前は大東亜文学者大会で台湾代表となる。戦後、ニ・ニ八事件後は日本への協力を批判され、弾圧を受けた。そのために戦後はあまり活躍することはなかった。

 こうした皇民作家と呼ばれる台湾人作家の昨今の評価について張先生に聞いてみたかったが、さすがに場違いな講演会でこうした質問はまずいと思い、諦めた。台湾の人と話す場合、まず民進党か国民党かをはっきりと認識しておかないとまずいような気がする。もちろん周金波先生の息子さんは、民進党で、台湾独立派である。こうした民進党の支持する人々の親あるいは祖父は、戦前に日本語の教育を受けたため、日本語が喋れる。これが鑑別の一つであり、国民党支持者の多くは戦後、中国から台湾に来たために、そういうことはない。今の若者世代は、こうした政党による違いは少なくなっていると思うが、台湾の方は親孝行な人が多いため、日本語をしゃべれる親や祖父への尊敬の念は日本への好意とそれとは逆に反中国に向かうことになる。

 今では戦前に日本語を受けた世代はほとんどなくなり、台湾でも日本語を喋る人は昔に比べて減っているが、それでも日本に対する畏敬は強い。35年前だが、台湾の高雄の歯科医院を訪ねてことがある。そこの先生のお父さんは戦前に慶應義塾大学を卒業したインテリで、わざわざ日本から客が来るということで、本当に久しぶりの丁寧が挨拶を受けた。もはや日本では見られないような丁寧な日本語と応対で驚くとともに、それを見ている歯科医の息子、およびその妻、孫の彼に対する尊敬の念はひしひしと感じた。

 1957年の嵐寛寿郎主演の「明治天皇と日露大戦争」が台湾で公開された時には、天皇のシーンが出るたびに、観客が直立し、礼をしたという逸話があるほど、戦前の日本語を喋れる世代の日本愛は強い。台湾の方にとって、青森県は雪、温泉、お祭り、歴史のある場所で、私たちが南国ハワイに憧れるような一度は行きたい場所である。紅葉の季節、わざわざ自転車を持ち込んでサイクリングしている台湾人観光客を多く見るが、弘前で誰もレンタルでサイクリング用のマウンテンバイクや小型自転車を貸すようなことはしていない。7万円くらいのそこそこのマウンテンバイクや小型自転車を一日3000円くらいで貸せば、30日でペイできる。サイクルネット弘前でも普通自電車を500円、電動自転車を1000円で貸しているが、是非、ビアンキのような自転車メーカーのシティー、スポーツタイプ、小型車のレンタルバイクも用意してほしいし、そうした機種については、予約あるいは数日借りなどもできるようにしてほしい。わざわざ台湾から自転車を持ってくるのはかなり大変であり、こうしたサービスはそれほど費用もかからない。個人的には弘南電鉄で大鰐まで自転車持ち込みで移動し、そこからりんご、田園地帯を廻るコースが勧められる。

2019年11月2日土曜日

現代美術史 山本浩貴



 来年の春には、弘前に現代美術館ができるので、少しお勉強しようと山本浩貴著“現代美術史”(中公新書)を買った。先日、東京までの出張があったので、行きは話題の大木毅著“独ソ戦 絶滅戦争の惨禍”(岩波新書)を、帰りにこの“現代美術史”を読んだ。3時間くらいの乗車なので、ちょうど良い分量である。

 ところが、この“現代美術史”があまりに難解でほとんど理解できなかった。20世紀に入っての現代美術を総観するのは、著者も語っているように、かなり大変な作業であり、それもわずかな挿入写真でコンパクトにまとめるのは至難の業であることは認める。それでも中公新書も編集者がいるのであれば、もう少し、内容は薄くしても、わかりやすいものに出来よう。欧米だけでなく、日本、あるいはアフリカ、在日など多くの世界とその時間軸も含めて文庫本で語ることは不可能ではないにしても、少なくとも現代美術の知識のない読者には理解しにくい。

 それと対照的に“独ソ戦”は、ややもすれば軍事専門的な記載になりそうだが、攻撃、防御などの細かい経過は適切な図でわかりやすく、省略している。おそらく出版会社の担当者の技量の差であろう。どちらも取り上げる内容はエキセントリックなものではないが、独ソ戦の売り上げが好調なのはこうした点もあろう。

 著者が専門的な知識、全てを本に真面目に注入すればするほど、本の内容も次第に難しいものになっていく。たとえ100の知識があっても、それを100全て書くのではなく、30でもいいから一般読者を想定してより理解されるべき内容にすべきであった。特に本はどれだけ売れたかが重要であり、こうした売れる本を作るためには、編集者の力量に頼ることが大きい。もちろんあまり編集者が強くいうことは著者からすると腹の立つことであろうが、それでも読者に理解される本でなくてはいけない。

 それでもこの本を読むと、“現代美術”の多彩な展開、活動の概観はかろうじてわかった。ただこうした美術が一過性もものではなく、数百年後、そこまでいかなくても100年後に残るものだろうか。青森県にも十和田現代美術館があり、見にいったことがあるが、正直、全く印象はなく、面白くない。何となく今風な感覚があり、自分がオシャレだというように思えるだけである。現代美術といっても幅広いジャンルがあり、作品により好き嫌いがあるものの、やはり一般人にも理解できる点では具象的な作品に人気がある。オノ・ヨーコのようなほとんど美術品とわからない作品よりは奈良美智の絵の方が理解しやすい。ジャクソンボロックよりは同時期に活躍したマルクジャガールの方が素人には鑑賞しやすい。

ボロックやモンドリアンの抽象絵画は、感覚で捉えるものであり、その内容を言葉で表すことは非常に難しい。それ故、こうした“現代美術史”の本を書くことは大変だったと思う。それでも時代、地域の範囲を狭くしても、もう少し、わかりやすい内容にできたと思い、残念である。むしろ、1年間くらいかけてじっくりと、多くの画像、映像を使った講義の方が作者には向いているのであろう。弘前でも現代美術館ができるが、こうした現代美術のセミナーの開催も期待したい。

2019年11月1日金曜日

めぐり逢い

  以前、録画していたアメリカ映画“めぐり逢い”を見た。不朽のラブロマンス映画で、これまでも何度か見たことがあるが、今回は英語の勉強として見た。というのは1950年代の映画は今と違ってアメリカ英語でもわかりやすいからで、例えば、“アメリカングラフティー”は1974年の映画であるが、舞台は1960年代初頭の高校であるので、スラングも少なくてわかりやすい。さらにこの“めぐり逢い”は主演女優がイギリス出身のデボラ・カーなので、日本人にはアメリカ英語よりわかりやすい。といっても実際はほとんど字幕で理解するが、それでもよく聞くと、20%くらいは理解できる。何度も見ればもっと理解度は進むのであろう。名作映画で、見るたびに泣かされる。

デボラ・カーについては、日本人ファンとの心温まる交流がブログにあるので、見て欲しい。

 著者は、中学三年生の時にたまたまレンタルビデオで借りた“めぐり逢い”をみて、すっかりデボラ・カーのフアンになってしまった。なんとかファンレターを出そうとあちこち探すが、インターネットもない時代、なかなかわからず、ようやく昔の俳優協会の名簿を教えてくれる方がいて、その住所に手紙を出した。すると驚くことにデボラ・カー本人からお礼の手紙とサイン入りのポートレートがきたという。さらにそれから13年後、デボラ・カーの死を知った著者は、お悔やみの手紙を、これも住所がわからず、インターネットでイギリスのサフォークに住むことだけを知り、そこの郵便局長宛に手紙を出した。するとわざわざ自宅に転送してくれ、デボラー・カーの娘さんからお礼の手紙が来たという。

 非常に感動深い話で、こうしたファンとの暖かい交流が、著者の人生にも何らかの影響を与えたようである。私も、小学四年生の頃だろうか、少年マガジンにページの横に、プロ野球選手の住所が平気で書いてあった。ダメ元でいいと、なけなしの小遣いで、オバQのハンカチを買い、返送用の封筒を入れて、大人気の長嶋茂雄選手に送った。すると2、3週間後に、サインの入ったハンカチが送り返され、それはびっくりした。もちろん次の日はみんなに見せびらかしたのは言うまでもない。その後、味をしめ、王貞治選手にも同じようにハンカチを送ったが、返事はなく、それ以来、私にとっては長嶋>王となった。

 インターネットの時代になると、手紙を出すことは本当に少なくなったが、それでも手書きの手紙をもらうと嬉しくて、何度も読み直す。手書きの手紙には、書き手の性格まで想像してしまい、サインも含めて自筆というのは嬉しい。上記のデボラ・カーへのファンレターの件でも、おそらく皆から忘れられた時にファンレターをきたこと、日本から送くられてきたことなどが、病気でありながら嬉しくて、返事を出したのであろう。

 今時は、個人情報保護法により、タレント、スポーツ選手、漫画家、小説家の住所はわからないようになっており、ファンレターを出す人も減ったであろうし、事務所に送っても、嫌がらせの内容もあるかもしれず、タレント本人に渡すかどうかわからない。ただ内容は事務所で確認するかもしれないが、基本的には本人に渡すと思うし、よほど忙しい人でなければ、ファンラターは目を通すだろう。昭和天皇のエピソードに、晩年、多くの日本国民が病気快癒を祈り記帳を行なった。おそらく数十万人になるだろう。天皇はそれを、体調が悪いにも関わらず、すべて目を通したという。そして侍従に“ここに書かれている漢那というには、欧米留学の時に乗ったお召し艦「香取」の子孫だろうか”と尋ねたという。知った人がいないかと目を通し、皇太子時代の欧州遊学の際に知り合った漢那憲和少将のことを思い出したのだろう。

 私のところでも、弘前の歴史に関する問い合わせがよく来るし、中には大部の資料を送ってくださる方もいて、大変恐縮する。ところが私自身、面倒臭がり屋で、返事は出しても手書きで手紙を書くということはしない。お礼の意味からももう少し対応を考えなくてはいけない。