2014年10月27日月曜日

冬用ブーツ



北国青森では、この時期になると、もう気持ちは雪。ああいやな季節になるなあと気が重くなる。そして、重い腰を上げて、あと2か月で確実にやってくる雪の準備をする。

我が家でも昨年、暖房用のボイラーの換気用煙突が雪に埋もれ、暖房がストップしたことがあった。そこで今年は煙突の位置を今より1m上げて、雪に埋まらないようにする。リビングの大きな窓が雪の重みで壊れないように、窓を守る板の塀を建てる、すべての木に雪囲いをする、などの準備を行う。

そして衣料もダウンのものに変える。インナーウェアー、部屋着はパタゴニアのR2とR3で今年も十分やっていけるが、10年以上使っているLLビーンのメインワーデンダウンパーカーもダウンの量が減ってきた。エディバウアーのカラコルムパーカーとペンフィールドのダースビルジャケットがメインとなる。できれば、軽いナイロンシェルのダウンパーカーがほしいところであるが、検討中である。

一番重要なのは、雪でもすべらない靴である。これは大事で、すべる靴を履くと怪我する。これまで冬場の靴としてはビーンブーツを愛用している。防寒性はないが、雪面のグリップが強いため、安心できる。ただ真冬にはいささか寒い。そこで2年前にカナダ、ソレル社のカリブという防寒ブーツを買ったのだが、どうも宇宙飛行士の月面ブーツのような感じがして、ほとんど使っていない。何しろでかい。今年は、違った雪用のブーツをと、探していると、カナダ、Keen社のウィンターブーツが評判がよい。色んな種類があるが、Summit County IIIというブーツを選んだ。ビーンブーツ、カリブともサイズは9であったが、最近は9.5を履くことが多いので、Keen場合も9.5にした。ややゆとりがあり、厚手のソックスを履けばピッタリである。この靴のサイズは標準的である。写真のソレルはサイズ9、キーンはサイズ9.5であるが、ソレルの方がかなり大きい。

この靴の特徴は底のソールで、気温により硬さが変化して、グリップ力が増す。REI(アメリカのアウドア店)の評価は4.8で、雪道での歩行には軽くて、暖かく、滑らないという意見が多い。期待できるが、さて世界で一番、雪の多い青森で通用するかは、また雪が降ってから評価したい。履いた感触では、ウルバリンの1000マイルブーツのようなぴったり感はないが、そうかといってカリブのような地面から離れたような違和感はない。前部、側面に防寒材が入っているので、カタログでは-30度までいけそうである。初代から始まって三代目となる。

ただOutdoor Gear Labという製品評価では、星三つ(5星満点)で、評価は低く、冬用ブーツとしてベストバイ賞はKamik Nation Plus、編集者のお勧めはBogs Ultra Mid、またColumbia Bugaboot Plus IIも、すべて星五つで評価は高い。ちなみにフリースの評価は、一位がパトゴニアのR1、二位はR3、三位はR2と妥当なところであるが、ダウンの評価では、一位がMountain Hardwear Hooded Ghost Whisperer(コロンビア)、二位にはMontBell Mirage Parka、三位はArc’teryx Cerium LT Hoodyが、そして四位にもMontBell Frost Smoke Parkaが入っており、日本のモンペルが健闘している。(http://www.outdoorgearlab.com/clothing-mens

*12/13 追加  青森も雪のシーズンになりました。実際にキーンのスノーシューズを使っています。保温性は高いのですが、ツルツルのアイスバーン状態の道では、むしろビーンブーツの方が滑りにくく、雪道でのグリップ力という点では、普通です。まあ完全に滑らない靴はありませんが。冬用ブーツとしての評価は★★★です。

2014年10月22日水曜日

宇野海作





 宇野海作は、孫文の中国革命に協力した山田純三郎とともに活動した人物だが、その正体ははっきししない。資料は少なく、青森県人名大辞典(東奥日報社。1969)には次のように書かれている。

「宇野海作(うの かいさく)
明治十二年〜昭和二十六年(1879-1951)南津軽郡六郷村赤坂(黒石市)に生まれる。志士。支那浪人のあだ名がある。小学校の教育は、七歳のときから寺小屋で有名な黒森山浄仙人寺で受け、そこから弘前中学校へ入学した。このような例は珍しいものとされている。中学卒業後、単身渡米、米国での生活は、ただ皿洗いだと語っていたが、本当のことはわからない。帰国後は中国に渡り上海の東亜同文書院を卒業。通訳などをしたが、軍事探偵だったという説もあり、大陸時代の友人は、弘前出身の支那浪人山田純三郎や、元陸軍大将の松井石根、本庄繁らがいる。日支事変中、松井大将は南京攻略司令官であったが、南京攻略後松井は宇野を呼んで、宇野の知人である蒋介石のところに使わし、和議をすすめたとも伝えられている。いずれにしても宇野は非凡な人であっただけに、そして軍探といわれただけに、自分の過去を人に語ることをしなかった。従って宇野の大陸生活の真相を知る人は限られた人ばかりのようだ。長兄には元郡会議員宇野津五郎(明治9年—昭和16年)がいる。」

 宇野海作は東亜同文会ができた翌年の1899年9月に同会から北京語修得の目的で、岡野増次郎、曽根原千代三、山田純三郎、上田賢象、井手友喜、牛島吉郎ら6名とともに上海に留学した。1900年5月(明治33年)には南京東亜同文書院が設立された時には、曽根原、上田、岡野、山田と一緒にそのまま第一班(上級)として同院の一回生として入学した。当時の教官に、支那時文、支那語舎監として山田良政の名がある。このことから宇野は少なくとも1899年9月には中国に渡ったことになる。20歳の時となる。弘前中学卒業後に渡米したとすると、17、8歳で渡米したことになり、2、3年で帰国して、今度は中国に向かったことを意味する。

 一方、1920年1月のアメリカの国勢調査(census)では、Kaisaku Uno1911年にワシントン州のYakima郡に移住し、年齢は40歳で独身とある。若いときに渡米したとすれば、これは二度目の渡米となる。Frank Z Fukui(農業 Farmer 35)の家に下宿している。Fukui32歳独身で、1908年に渡米している。また同居人にはMasakane Tozawa(農業労働Farme Laborer)の名もある。23歳独身で、1914年に渡米している。肝心のUnoの職業欄はguitar とも読めるし、miterとも読めるが、判読できない。1930年の国勢調査、収容所キャンプには上記三名の名がないことから、その間に帰国した可能性が高い。

 昭和に入ると、山田純三郎と宇野海作はよく行動をともにしており、松井石根大将とも中国問題についてよく談義した。松井大将は南京攻略後に萱野長知、山田、宇野らとともに国民党との停戦和平を画策したが、内閣書記管長の森 恪や朝品新聞の尾崎秀実の妨害により失敗する。この三人は国民党内部に知り合いも多く、中国語も堪能なので、うってつけの交渉人であった。


 宇野海作が、東亜同文書院で中国語を修得したのに、なぜ渡米し、そこに9年以上過ごし、その後、また中国に戻り、軍探のような仕事をするのかは、全くわからない。最近、「諜報憲兵 満州首都憲兵隊防諜班の極秘捜査記録」(工藤胖著、潮書房光人社、2013)という本を読んだ。著者は青森県出身者であるが、こうして記録に残してくれれば、いいのだが、青森県人は口が重く、困る。宇野海作については写真一枚ない。

「黒石夜ばなし」(みなみや仙骨著、昭和35年)に
「今田平作の三男を源三郎といった。源三郎は明治十六年に生まれ、東奥義塾に入学した。東奥義塾時代の源三郎の同級生には板柳の工藤忠がいた。学校時代の源三郎は腕白で、東の今田、西の工藤忠と並び称せられ、互いに胆力を競ったものだ。
源三郎は十七才にときに中国に渡り、東亜文化協会に入り中国語を学んだ。数年後、日露戦争がはじまり源三郎は中尉相当官の待遇で第二師団付通訳官になった。源三郎は日露戦争が終わってから外務省の青島駐在事務官になったが、明治四十年頃から約八年間消息不明になった。
行方をくらました源三郎は軍事探偵として中国全土を遍歴していた。しかし家人は源三郎生存を信じなかった。任務を果たした源三郎は再び姿を現わし、南京駐在情報局長の地位についた。源三郎はその後、外事関係の仕事に従事していた。支那事変がはじまるや源三郎は老齢にもかかわらず特命を帯びて中国に渡り石家荘にいたが、激しいゲリラ戦のただ中で不規則な生活を続け、健康を害して故郷に帰った。生涯の大半を中国で送った源三郎も昭和十九年、波乱に富んだ思いでを残してこの世を去った。」

宇野海作の4歳下の後輩だが、同じような活動をしている。この人も全く無名である。

11/15 追加 :上記の本に、津軽平八郎の三男、信麿がアメリカで本多庸一と会っているところに、宇野海作がたまたま訪れた。本多がこの青年と話をするのを聞いていると、あたかも主人に仕えているような態度なので驚いていると、後で津軽家につながる人物とわかったという話がある。本多二度目の訪米時のことで、1896年、宇野海作17 歳のときである。

2014年10月18日土曜日

ルーツ探し



 以前、テレビで「ルーツ」という番組があった。これはある黒人が自分の先祖を調べていくうちに、先祖がアフリカから売られてきた奴隷で、南部の荘園で働かされたことから始まる、壮大なドラマであった。その後、アメリカでは自分の先祖を調べるルーツ探しが流行し、今日まで続いている。移民の多いアメリカでは自分のルーツを調べることがアイデンティティ確立の一助になっているのかもしれない。アメリカでは、どうも故人の個人情報は日本ほど規制が厳しくなく、過去の戸籍などは誰でも自由に見ることができ、年会費を払えば、新聞、写真、戸籍、親類などあらゆる個人情報に接することができるサイトが多くある。これを使えば比較的簡単にルーツを調べることができる。またこういった需要も多いため、サイトも多いのであろう。

 翻って日本では、こういった仕事は特殊な探偵社や行政書士がやっているようだ。日本では個人情報がうるさく、基本的には故人の直接の子孫でなければ、戸籍、あるいは寺の過去帳に触れることはできない。そこでこういった探偵社に委任状を渡して、先祖探しを代行してもらうのである。数十万円の費用がかかる場合もある。故人の情報など、今の人からすれば個人情報として悪用されないように思えるし、まして100年以上前に亡くなったひとの情報が悪用されないと思うが、これには同和問題が深く関係している。明治四年の最初の戸籍簿では、身分の項目があり、士族、平民などとともに一部の地域では新平民、元非人といった用語が記載された。また先祖に犯罪者がいる場合も同様で、子孫としては隠したいことなので、戸籍は誰にも見られないようにしている。

 私のブログを見て、先祖探しを依頼される方は年に数名いる。これまで230名の方からご連絡をいただき、できるだけ協力しているが、士族の方の調査は比較的容易だが、商人、農家の方の依頼は、実をいうとほとんどわからず、実際の戸籍を調べてもらうか、檀家の寺に過去帳があれば、それで調べてもらうように答えている。明治6年の弘前下町の地籍図には商人、農民、士族も含めてすべての人名が記載されているので、現在、人名のデータベース化を進めているので、少なくとも明治6年ころに下町に住んでいたなら、当時の住まいは発見できる。この明治6年の他地区の地籍図が弘前図書館にどうもありそうなので、できればデジタル化できれば、明治初期に弘前に住んだ3万人のかなりの人について調べることができそうである。許可がいただければ調査して、自腹でもいいからデジタル化したい資料である。

 また士族については、弘前藩に代数調、分限帳、由来書というものがある。これは明治初期に各藩士に自分の先祖について藩に提出した資料で、先祖を調べる重要な資料である。以前は研究者であれば自由に見ることができたが、今は基本的には子孫以外の閲覧は禁止されている。この資料などは150年前の資料であり、それも士族にのみ限定された資料なので、同和問題や犯罪歴など過去の個人情報が悪用される可能性は全くない。単純に自分の先祖のことをひとに見られたくないという心理上の問題があるだけだろう。ただ、こういった資料を調べようとするひとは子孫以外、例えば今東光の先祖を調べたいといった研究者が中心なので、完全公開しても全く問題はないように思える。さらに言えば、おそらく薄い和紙に書かれた書物なので、いくら子孫にのみ閲覧といえ、多くの方に見せていると資料自体の破損に繋がるため、古地図とともにまっ先にデジタル化すべき資料だし、できれば現代語に訳して、データベース化すべきだと思う。現在、弘前図書館でも実に1834冊の本のデジタル化が進められているが、多くは国文学関係の資料である。実際の利用者を調べれば、それほど利用されていないであろう。さらに資料を見ると、必ずしも弘前図書館にしかないものではなく、他の図書館でも閲覧できる資料である。同じ手間をかけるなら、弘前藩の代数調、分限帳、由来書など、ここにしかない資料をデジタル化して公開してほしい。

 図書館のデジタル化が叫ばれているが、古地図とともに、こういった明治以前の個人情報について、デジタル化して公開すべきか、きちんと市の方で指針を示してほしいところである。いくら弘前図書館に言ったところで、公務員の立場からは、市の指針がなければ勝手に公開することはできない。少なくとも弘前藩資料に関しては、よほどのものでなければ、少なくともすでに150年、世代でいうと5世代は経っているので、個人情報保護法に触れないと思う。

2014年10月16日木曜日

正しい歯磨きの仕方







 患者さんには、毎日、正しい歯みがきの仕方を教えていますが、実を言うとこの“正しい”という言葉がくせものです。基本的に、歯を染め出し、磨き残しがなければ、どんな磨き方でもいいのです。齲蝕の発生原因を考えると、プラーク(歯垢)がなければ、齲蝕は発生せず、完全に取り除けば、理論的には齲蝕になりません。

 一方、歯周疾患については、歯肉のマッサージと歯周ポケット内の細菌除去が重要となります。最近の子供達は虫歯が少なくなってきましたが、相変わらず歯肉炎は多く、歯茎が腫れている子供達は多いようです。また成人以降も同様に、虫歯より歯周疾患の予防がメインとなります。それ故、歯みがきの指導も、歯周疾患向けの歯みがきの仕方を教えることになります。

 日本で、一般的に行われている歯みがき法は、バス法、スクラビング法と呼ばれるものです。歯面に対して45度の角度で歯ブラシを当て、前後に数ミリずつ振動させるやり方(バス法)と歯ブラシの角度が90度にして振動させます(スクラビング法)。実際、バス法は柔らかく、細い毛の歯ブラシで、やさしく磨くのは難しく、スクラビング法は強い力で磨くと歯肉退縮の原因になります。両者を混ぜたような歯磨き法を指導しています。歯みがきのコツはできるだけ、力を入れずに、あまり前後に動かさないことですが、意外にこれを守るのは難しく、かなり力を入れ、前後に大きく、動かして磨く方が非常に多くいます。若い女性の場合は、元々歯肉が薄いので、硬い歯ブラシで強く擦ると、歯茎が下がり、知覚過敏になる人も多く、磨きすぎも気をつけなくてはいけません。

 アメリカの歯科医師会(ADA)はテレビコマーショルをよくしますが、テレビゲームの変なキャラクターを使った広告があります。またADAが推奨しているスローガンは一日“2回、2分間の歯みがき”ですが、実際の歯みがきの仕方の動画を見ても、かなり適当ですし、どうしてあんな大きな歯ブラシを使うのか、笑っちゃいます。最後に舌の掃除、これは口臭予防にはいいことです。それに比べて日本のサンスターの指導は細かい。御国柄が出ていておもしろいと思います。

 歯磨きというとバカにされるかもしれませんが、きちんとした歯磨きをすれば、少なくとも虫歯になることはありません。歯科医になってから虫歯が新たに出来た歯科医、衛生士はあまり見かけませんので、歯磨きで虫歯は予防できます。ただ歯周疾患については、遺伝的な要因もあり、また加齢に伴い進行するものですから、歯磨きだけで予防できるものではありません。定期的な歯科医院での診査と歯のクリーニング、歯石除去などが必要です。かなり進行を遅らせることは可能でしょう。


 85歳以上を超高齢者、100歳以上は百寿者と呼ぶようですが。長生きして元気なひとは食欲があるような気がします。80歳を過ぎても、若い人と同じくらいの量を食べるひとや、好きなものを食べたさに遠くまで外出したりするような老人は元気なひとが多いようです。ただ老人の方がよく服用される薬、降圧剤、抗うつ剤の中には唾液分泌を減らす副作用があり、それでなくても老人では唾液量が若者の数分の一になるので、入れ歯などをしていると痛くて咬めないということになります。こういった場合も、最近はよいゼリーがあり、入れ歯の下に入れることで、痛みを軽減できることもあります。今日の晩飯は何かなあと思うことが、元気の秘訣のように思えます。そのためには、痛みがなくても定期的に歯科医院に行くことが大事ですし、できれば何もしない歯科医院が一番いいです。行くたびに、あちこち治すような歯科医院はやめた方がよいでしょう。