2015年8月24日月曜日

歯科の前衛治療


 歯科の最新治療法というと、審美歯科(矯正歯科も含む)、インプラント、CAD-CAM、マイクロスコープ治療などが取り上げられ、日本でも一部の歯科医院は、私は最新の治療を積極的にやっていますとHPなどで自慢げに紹介している。こうした治療法は、いくらでも金をかけてもよいアメリカの治療法であるが、必ずしも個々の患者の良好な口腔状態を確保するものではない。

 最近、ベテランの良心的な歯科医からは、相次いで、こうしたアメリカ式の高度な全顎的な治療には否定的な意見がでてきており、できるだけ手をかけない、その場、その場で手を加える治療法が提唱されている。図は、私がよく見る『土竜のトンネル』という東京の金子歯科の先生のブログからの引用で、高齢化の対応と保全のためには、追加処置が容易なことが最上位の目標となっていることを表す。

 昔、私の友人から、母親が入れ歯を入れているが、痛くて咬めない、息子、孫が集まって会食しても自分だけ、みんなと同じものが食べられず、楽しくない、何とか方法はないかという相談を受けた。何でも関西の有名な色々な歯科医院で治療を受け、かなり費用がかかったという。これは治療法の問題ではなく、精神的な問題が起因している考え、心療歯科をあげている病院に行くことを勧めた。ここで薬物療法、カウンセリングなどを受けたが、結局は治らず、鬱性疼痛と診断され、症状はいまだに改善していない。

 年齢をとるにつれ、歯周疾患、唾液の減少、喪失歯の増大などにより、すべての人の口腔内状況は悪化する。歯周疾患の唯一の予防法は、歯磨きであるが、脳疾患や認知症などにより歯磨きが困難になると、歯周疾患は急速に悪化して、歯の喪失にいたる。さらに唾液量の減少に伴い、齲蝕のリスクは高まり、義歯の適合も下がる。歯の数が減ると、残っている歯への負担が大きくなり、これにより歯の破折、咬耗が増加する。その結果、人間の根本的な欲求のひとつである食べることができなくなる。高齢者にとっては、食欲こそが残された欲求、楽しみの最たるもので、これが叶えられないとなると、それこそ生きる意欲の喪失に繋がる。老人ホームに入居する老人にとって、日々の生活で最も楽しみは食べることであり、食欲がなくなると次第に衰弱し、逆に食欲のある人は元気だと、ホームの職員からよく聞く。


 死ぬまで好きな物を食べられること、冬の雪の降る今際の際に『メロンが食いたい』と言えることこそ、幸せの最たることなのかもしれない。死ぬまで自分の好きなものを食べられる、こうした状況、環境を整備するのが、歯科医師の仕事であり、先に述べたベテランの優秀な歯科医はその方向に向かっている。こうした先生は、若いころ、当時の最先端とされる最新の歯科治療を実施したが、その患者が高齢になってみると、口腔状態が急速に崩壊していくことを目の当たりに見る。患者の個々の状況に沿って、最適で、将来的な変化にも対応できる処置を行う。さらに進んで、一部の歯科医は栄養士と協力して、胃瘻の患者が口から食べられるように食べ物を工夫して嚥下できるように指導している。味、形、色を工夫することで、おいしく食べられるようにし、口腔衛生、義歯の調整も含めて今後は、高齢者の歯科治療が、芸術ではないが歯科治療の前衛になると思われるし、おそらくこうした問題は世界共通なため、日本から世界に発信できる提案になるかもしれない。

2015年8月21日金曜日

妻と飛んだ特攻兵3





 テレビ朝日の戦後70年ドラマ『妻と飛んだ特攻兵』を見た。番組予告で実物大の97式戦闘機(単座)を使ったと聞いていたので、最後の場面でどのように奥さんが飛行機に乗り込むか、気になっていた。97式戦闘機を改良した2式高等練習機(乙型)や、98式直協偵察機を改良した99式高等練習機なら、複座なので、翼から乗り込むことができるが、単座の97式戦闘機では、一旦パイロットが外に出て、座席の後ろの胴体内に押し込むと思っていたが、番組では機体下部のハッチから乗り込むようになっていた。97式戦闘機の三面図をみると、右翼後部の付根の胴体に50cmくらいのハッチのようなものが見られる。97式戦闘機は軍の要求にも関わらず、胴体内に燃料タンクがなく、座席後方の胴体はがらんどうになっていた。そのため、ノモンハン事変でも撃墜された友軍のパイロットを草原に着陸して救助するという事例が多い。ノモンハンのエース、青柳豊曹長は被弾して着陸した11戦隊のトップエース篠原弘道を助けようと、着陸したところ、ソ連戦車に取り囲まれ、負傷する。それを見た岩瀬曹長がさらに着陸を敢行し、二人を胴体内に押し込んで、何とか草原から離陸して救助した。座席後部に二人を入れる空間があったことを意味する。敵戦車10台がせまった状況でよく二人を胴体内にすばやく入れることができるなあと思ったが、胴体下部にハッチがあれば、ここから短時間で無理矢理押し込むことができる。そう考えるとこの右胴体下部のハッチは胴体が空洞なので、このハッチから荷物を入れたのかもしれないし、それを救助用として使ったのだろう。ただテレビのように座席後部に補助椅子を作れたかは疑問であり、ここには隔壁のようなものがある。目撃者の証言からは複座としていることから、99式高等練習機と考えたい(他の搭乗員が奥さんの同乗を知っていれば、単座の2式高等練習機と複座の99式高練の編隊)。97式戦闘機の俊敏な飛行は、昭和15年製作の『燃える大空』に見られる。中国機役として95式戦闘機も登場し、実機を使ったシーンは貴重である。


鈴木貫太郎首相暗殺未遂(二二六事件)

 鈴木貫太郎は終戦時の首相で、今年のドラマや映画でも日本を終戦に向かわせた恩人として描かれている。実は鈴木は、二二六事件では安藤大尉の率いる一隊により左脚付近、左胸、左頭部に三発の銃弾を浴びた(四発ともいわれ、肩の線に沿ってはずれた)。とどめこそなされなかったものの、三発の銃弾を浴びて普通は助かる訳はない。この時に使った拳銃が支給品の二十六年式拳銃である。この拳銃は耐久性と故障は少なかったが、初速が遅く、命中精度も悪かった。鈴木貫太郎襲撃時も近距離からの発射でいながら、発射時のブレがあり、急所が外れたのであろう。さらに初速が遅く、銃弾も脳内での変形が少なく、あまり脳へのダメージも少なかった。銃弾は左頭部から左耳付近から抜けたとようで、頭蓋に命中した弾丸が初速、破壊力が少ないので、骨により侵入角度が少し変わり、脳の外側部をへて左耳から出た。脳の重要な部分をよけたので、一命をとりとめたのであろう。昭和10年に採用された新型拳銃の九十四式拳銃はまだ二二六事件当時まだ少数であったが、大正14年に採用された十四年式拳銃はすでに一般的であっただけに、事件当事者の下士官が二十六年式を携帯したのは、幸いであった。将校は個人の嗜好で拳銃を買うため、おそらく外国製の拳銃を持っており、もしそうした拳銃が使われたなら鈴木貫太郎はほぼ即死であったろう。


2015年8月17日月曜日

ダブル・エル・チノ





 最初にジーンズを履いたのはよく覚えている。小学校5年生の時で、尼崎の三和商店街近くのミリタリーショップへ母と一緒に行って、買った。当時はまだベトナム戦争まっただ中で、この店も米軍の放出品が中心で、店の片隅にジーンズが置かれていた。日本製は一切なく、確かリーバイスとリーの2点であった。子供用といっても種類はなく、その時に買ったのはリーのライダースというストレートなジーンズで、それ以後もリーのジーンズが好きで、中高校生のころはほとんど、このジーンズであった。大学生になると、本流のリーバイスも日本で手に入りやすくなり、501など古典的なジーンズを履くようになった。さすがに臨床実習をする大学六年生になると、ジーンズで患者をみるのはできないので、リーバイス社の別会社であるDockersのチノパンを履くようになった。当時、プロゴルファーの中でも、ゴルフ用のズボンを履かず、このドッカーズのチノパンを好む選手が多く、タイガーウッズも愛用した。股上が深く、動きやすいチノパンで、その後もずっと愛用してきたが、唯一の欠点は生地が弱く、すぐに糸がほつれてきて、破れる。破れては買うということを繰り返し、20本近いチノパンをはきつぶしたが、その後、ドッカーズ自体が日本から撤退してしまった。しばらくは在庫をオークションなどで買ってきたが、どうしょうもなくなり、ラングラー、エドウィンなどの他社のチノパンも試したが、結局はLLビーンのドレスチノが最もよいと判断し、ここ5年くらいはこれを中心に履いている。LLビーンのチノパンはきっちり作っており、生地も強く、気にいっているが、それでも軍用の要素が少なく、最近のミリタリーブームに影響され、昨年、ヒノヤのBuzz Rickson’s Early Mikitary Chino1945年モデルを注文した。アメリカ軍のオリジナルチノに近いもので、生地は素晴らしく、洗濯してもほのかな光沢は失われない。股上もまあまあ深いが、ジッパーでなくボタン止めにしたのがいけない。トイレにいく度に難儀する。

 そこで、今度もまたLLビーンに注文してドレスチノとダブルエルチノを注文した。ダブルエルチノパンツはLLビーンを代表するもので、定番商品となって、人気も高い。数年前に安くなったので、2本ほど注文したが、耐久性は抜群であるが、生地の光沢がすぐになくなり、けば立つ。ドレスチノに比べて、ここがウィークポイントである。定価でダブルエルチノが6900円、ドレスチノが9900円、3000円違うが、ドレスチノを選ぶ。冬はこのダブルエルチノの裏地付きをここ10年ほど履いているが、どうも最近買ったダブルエルチノは裏地付きのものや以前のものとは生地が違う。撥水性に優れ、ノーアイロンで、光沢も変化ない。非常にすばらしく、ドレスチノにかなり近づいてきた。定番とはいえ、少しずつ改良している。

 チノパンばかり履いて30年、耐久性をもう少しチェックしないといけないが、おそらくLLビーンのダブルエルチノパンツが、値段の割に最もよい商品といえよう。チノパンは上にポロシャツを着てもいいし、シャツにネクタイ、紺ブレの組み合わせもよい。応用範囲が広く、普段はチノパンの上に診療着を着て治療している。買ったばかりを写せばよかったが、洗濯4回目の写真である。生地が柔らかくなり、いい感じである。古くなると、家内に頼んで、短パンにしてもらい、夏はこれを履いている。


2015年8月16日日曜日

県外弘前市民パスポート




 「東奥日報」、815日の朝刊に、地元では有名な路地裏探検隊の隊長、鹿田智嵩さんの記事が載っていた。“地域活性化 直言エッセー ジュッパツ 振興”という連載で、「土地に暮らすような旅から弘前ファンに 青森県は『人に会いにゆくツーリズム』」と題して、ただの旅行ではなく、弘前のファンになってもらうこと、それには地元の人との繋がりが必要だとしている。弘前が気に入って毎年のように来る方がいるが、多くは街歩きツアーやねぷた祭を通じて、地元の人と交流し、それが縁でリピーターとなって毎年のようにやってくる。そして「観光は多様化、何でもアリの時代になったが、『人に会いにゆく(来る)ツーリズム』これこそが魅力的な『人』が多い青森県にふさわしいスタイルではないだろうか」と新たなツーリズム観光の型を提案している。

 実は私の知り合いにも多くの弘前ファンがいて、毎年あるいは年に何回も弘前を訪問している。Aさんは弘前の教会関係の知人がいて、その方々に会うのが楽しみで弘前を訪問し、Bさんは息子が弘前大学にいるため、最初は息子に会いに来たが、次第に弘前の町並みが気に入って年に何回も来ているし、Cさんは弘前大学主催のサマーカレッジに、老齢にも関わらず出席し、Dさんは恩人の墓参りに毎年来ている。

 弘前は、昔と今が混在した町で、弘前城を中心とした江戸文化と明治の洋館、そして若者たちが始めた今風の店があり、周辺にもノスタルジーにあふれた黒石、世界遺産白神山地のある目屋、雄大な景色の十和田湖、そして泉質の違う多くの温泉がある。食も、ほとんどの食材、魚、肉、野菜、果実も自給自足でき、山菜、きのこなどの山の幸、そして豊盃に代表される日本酒や最近飲んでみてうまいと思ったリンゴシードルもある。地球温暖化に伴い四季の変化の乏しい日本にあった未だにはっきりとした四季があり、長期滞在だけでなく、一年中見所が多いところである。

 ふるさと納税が、今、豪華な特産品がもらえると人気がある。弘前市のふるさと納税を調べると、一口城主として弘前城天守閣曳屋イベント参加と3施設共通券がもらえるだけである。これは正しい。特産品で納税をつるというのは、本質に背くものであり、やはり弘前を応援するという趣旨のものではならない。本を出版したことから、先祖が弘前という方からのメールが多くいただき、何度かは実際に先祖が住んでいたと思われる場所に案内したことがある。こうした体験から、弘前出身で、今は県外、東京に住むという方は非常に多い。34代前が弘前出身となると、もはや墓所も移し、弘前には縁者もおらず、ほとんど弘前との関係はない。それでも元々の故郷としての弘前を懐かしむ人は子孫も含めて多く、こうした方々から弘前を第二の故郷、元々の故郷と思っていただきたい。


 そこで提案であるが、ふるさと納税、1万円以上をしてくれた方を“県外弘前市民”と認定して、パスポートと広報弘前、TekuTeku、弘前酔連、月刊弘前などの雑誌、弘前人物志などの郷土本など、主としてアップデートな情報を流し、より弘前を身近に感じてもらう。多くの講演、手作り体験などが弘前文化センターなどで開催され、安い費用で受講できる。また弘前バル街、宵宮、花火祭りなどの期間情報は意外と県外の人には知られていない。観光のきっかけになるだろう。そしてパスポートは弘前城、藤田庭園、りんご公園、博物館などの施設やレンタルサイクルなど市が管轄するものについては、すべてタダにするようにし、場合によっては協力してもらえるレストラン、居酒屋、お土産屋では10%OFFといったサービスも含める。パスポートを首からかければ、県外から来た“弘前市民”として地元の人も声をかけやすいし、話の端緒になる。県外からの観光客をもてなす心が大事であり、こうした観光客のなかから弘前に移住し、本当の弘前市民になる人が現れないとも限らない。物でつるのではなく、アイディアで観光客、リピーター、定住者を増やそう。