2012年9月28日金曜日

兼松しほ2






 九州にお住まいの兼松家の子孫の方より、貴重な資料をいただいた。大変ありがたい。その中に兼松しほについて書かれた資料があったので、その一部を紹介したい。

 Heathen Woman’s Friendというメソジスト宣教師の報告書の17240ページ、1886年のところに当時弘前女学校(当時はその前身のカロライン・ライト神学校、来徳女学校)の先生であったElla Hewettという方が当時の学校のことを記載している。1886年という明治19年で、この年に今の弘前聖愛中学、高校ができた。

 生徒数は10人あまりで、日本語と中国語(漢字)、と英語を学ぶとなっている。授業は朝の820分に声楽から始まり、おそらく賛美歌を歌うのでだろう。書道と裁縫で授業は午後4時ころに終わる。その後、7時15分に夕べの祈りに集まり、年長者は9時ころまで自習をする。土曜日には入浴したり、髪を漉いたりし、年長者は日曜日、木曜日の夕べの礼拝に、年少の生徒は金曜日の夕方に教室でお祈りをする。この年のクリスマスの直前に全校で招待された結婚式があり、教会の主要メンバーの娘が教会で式を挙げたようだ。

 兼松しほついて、「私たちは生徒数が増えて今年は(1886)新しい先生を雇うことが必要になってきました。幸いなことに弘前出身の方をお勧めいただけることになりました。彼女は昨春、私たちが弘前にいました時に私が個人指導を受けた先生でした。彼女は良家の育ちで、威厳があり、経験も豊かな女性です。彼女はかって弘前の普通女学校(東奥義塾女子部)で教鞭をとっていました。彼女はキリスト教徒ではありませんでしたが、キリスト教についての知識は深く、キリスト教に好意を持っていました。私たちのところに来て間もなく彼女は洗礼を申し出ました。彼女は学びたいという興味と意欲がはっきりしていて、彼女はこの学校ばかりでなく、ここ弘前でも貴重な助けになる人です。
 私たちががっかりしたのは、2、3週間して、彼女は皇后様の学校に在学中のある貴族のお嬢さん(津軽理喜子のこと)の侍女として仕えるために東京に行くように言われていると申し出たのです。彼女は私たちのところを去るのはいやだと感じているように見受けられました。私たちには、彼女がキリスト教の学校で教師をするよりは、たとえ召使いでも貴族の家に住む方が名誉なことと考えはしないか、そういう考えで彼女の心が動くのではないかと少し心配でした。もっともこの上京の話は彼女の家族が家臣として仕える大名に列せられる人からの依頼なので尊重せざるを得ないと感じていると言いました。彼女の本当の気持ちがどうだったにせよ、彼女の家族は疑いもなく上京すべきだと感じていましたし、そのように彼女に働きかけていました。彼女は12月まで私たちところに留まり、12月に彼女のクラスの試験をして暇乞いの準備をしました。私たちは彼女が去る前にお別れ会を催しました。私たちの牧師さんと奥さん、白人の先生、そしてその他数人に日本人の友人が出席しました。しかし感動的なお別れは、彼女の出発の前夜でした。女生徒たちは私がめったに聞いたことがないほどひどく泣きじゃくり、お別れの挨拶をしました。お医者さんの先生が私に申されるに、生徒たちの言葉を掛けて、もし兼松先生を愛しているなら、先生のためにお祈りして、そんな悲しみにくれているばかりではだめですよと言い聞かせたようです。」

 これをみると兼松しはは、明治19年(1886年)の12月に津軽理喜子の家庭教師として上京したことがわかる。42歳ころの話で、明治29年に腸チフスでなくなるまで、10年間、東京の津軽家にいたことになる。津軽理喜子の生涯については、熊本の細川家の縁故の方より手紙をいただいたが、プライバシーに関わることが多く、公開しない。写真は羽賀与七郎著「津軽英麿伝」から引用した。若い時はきれいなお嬢さんであったが、苦労も多く、後年のお顔は厳しい表情である。

2012年9月24日月曜日

掃除機ルンバ、買っちゃいました




 ロボット掃除機といわれるiRobot社のルンバという掃除機を買ってきました。以前から興味があったのですが、ちょっとおもちゃぽくて、とても使い物にはならないと考えていました。2、3日前ですが、お笑いのいとうあさこさんが、何かの番組で、このルンバをペット代わりにしている話を聞き、興味が出たので、インターネットで評価をみてみました。

 結構使えるという評価が多く、評価点も高いようです。昔に比べてかなり実用度は増したと考え、休みの日に近所のケーズデンキに行って、係員に話を聞いてみました。学習能力も高く、操作も簡単のようです。ただ充電器が1年か1年半で交換しなくてはいけないようで、一個1万円くらいかかります。消耗品としては少し高い感じがします。まあ一度、だまされたと思い、躊躇する家内を説得して買ってきました。一番高い780というシリーズを勧められました。

 家に帰り、早速3時間くらい充電してから動かすと、結構、音はうるさいですが、何度も同じところを掃除し、変なところに入っても、何とか脱出してきます。付属の装置を使うと2部屋、最初の部屋を20分くらい掃除した後、次の部屋の掃除を開始し、さらに20分くらいすると充電ドックに帰ってきます。動きをみているとおもしろく、まさにロボットという感じです。家具にぶつかる強さは弱いものですが、押し入れの一部に少し傷がついていましたので、あんまり高級家具で、傷一つつけたくない人にはお勧めできません。

 約50分の掃除後、どれだけゴミがとれたか調べると、結構細かいほこりがとれています。絨毯もきれいに掃除しますし、十分に実用に耐えるようです。同じ部屋を毎日掃除することも必要ないので、日を変えて2、3部屋ごとに分けて掃除をするのもいいかもしれません。ただソファーの高さが若干低いため、ソファーの下に入らないことは私の家の場合、欠点です。ソファーの下はけっこう汚れますので、ここを掃除してほしいところです。

 それでも主婦から掃除の手間を省き、家事の時間を減らすという点では値段以上の価値があるかもしれません。本来は、お年寄りこそ、使ってほしい商品ですが、年寄りの場合は、それほど忙しい身ではなく、自宅にいながらルンバを使うということになります。テレビを見ながら、ルンバが働いているのを見るといった光景です。変なところに挟まり、身動きとれない場合は、「助けて」といった言葉をしゃべると、年寄りには刺激になっていいかもしれません。よっこらしょと立って、ルンバを助けてやれば、うれしく思うかもしれません。

 本来、こういった商品は日本のお家芸なのですが、大手家電メーカは万一、仏壇のロウソクに掃除機がぶつかり、火事になると大変だと、商品化しなかったようです。確かにこういった商品は値段が高いため、消費者の苦情は多いかもしれませんが、逆にそういった苦情を解決することで、製品がさらに進化していきます。現在、日本メーカではシャープが販売していますが、売れているのは圧倒的にルンバのようです。東芝のものは、韓国のサムソンのOEMで、ちゃっかりルンバのまねをして低価格で販売しています。いつものパターンです。

 実売価格が2万円くらいになるとかなり売れ商品ですが、本体は結構大きく、狭い部屋では収納できず、場所をとるのが欠点でしょうか。よければ病院にも導入したいと思います。毎日5分は従業員早く帰れそうです。

 一緒にiPad camera connection kitも買ってきました。愛用のZeppelin AirUSBのアダプターで繋いでみましたが、まったく問題なく使えます。このUSBアダプターによるオーディオ機器への接続は難しいと書いているブログが多いのですが、Zeppelin は大丈夫のようです。どうも無線で飛ばして鳴らすとあまりいい音がでませんし、この機器はイコランザーでめりはりをつけた方がよいように思えます。iPADのイコライザーはわかりにくいのですが、設定のミュージックのところにありますので、ヴォーカルを聞くならそれに合わせた方が色ぽくなります。




2012年9月22日土曜日

自衛隊のシナリオ



 現在、自衛隊が想定する中国軍による尖閣諸島侵攻作戦は以下のようになっている。

 中国浙江省などの沿岸から出漁を装って出航する500-1000隻の漁船が一気に尖閣諸島を目指し、漁船群の後方には武装した海監や漁政などの政府公船が控え、海上保安庁の巡視船の警告を無視して上陸する。上陸後は演習中の海軍が陸軍部隊や海兵隊を島に上陸させ、橋頭堡を構築するというシナリオである。中国の漁船に乗り込んだ海上民兵を先頭に、海監や漁政などの軍事組織以外の法執行機関を押し出して侵攻するのに対して、ここで日本が真っ先に自衛隊を出動させると、「先に軍事力を行使したのは日本だ」、「侵略した過去を反省していない」と国際世論に訴える(尖閣衝突 問われる日本の覚悟 勝俣秀通 世界の艦船 102012)。

 これに対する対抗策は、まず尖閣諸島を占領させてから、奪取するという考えである。国際世論で中国の暴挙を訴えながら、まず海上自衛隊、航空自衛隊が出動し、尖閣諸島を完全に封鎖する。航空自衛隊は沖縄の嘉手納基地がベースとなる。日米安保条約は、在日米軍が日本の基地を使えるだけでなく、逆も可能であり、アジア最大の航空基地を拠点に、早期警戒機、補給機を使って、かなりの数の戦闘機を送り込むことができ、さらに機材の整備、補給の点でも嘉手納基地ほど理想的なところはない。一方、中国軍の問題点は、浙江省から尖閣までの距離は330kmであるが、最短距離で戦闘機を送るには、台湾の防空圏内に入ることになり、台湾との摩擦をさけられない。制空権を握れば、ほぼ戦闘は決着がつく。後は、海上自衛隊の護衛艦と潜水艦で包囲すれば、占領軍は万事休すである。

 いずれにしても、これは自衛隊単独のシナリオであるが、米軍が加われば、全く中国軍は歯が立たない。もともと中国は旧ソ連と同じく、陸軍国で、海軍、空軍の実力、練度は低い。海軍国家である日本は明治以後の長い歴史、戦後も実際の戦争経験はないものの、アメリカとの数多くの軍事訓練と信頼性の高い武器によって、海上自衛隊および航空自衛隊の実力は高い。核を使用しない通常兵器による局地戦では、現状でもほぼ上記シナリオ通りになるであろう。

 逆になぜ中国が尖閣、沖縄に固執するかというと、上図のように中国から見た地図では、日本および沖縄諸島があたかも、防護壁のようにぐるっと囲まれているため、日米による海上封鎖を恐れている。尖閣周辺の地下資源などは大きな問題ではない。石油も含めて、現代中国では海上からの輸送路が途切れると、国家の浮沈に関わる。昔のような自給自足生活はできない構造となっている。

 かって中越戦争、ベトナムと中国の戦争があったが、当時、鄧小平はアメリカにまずお伺いをしてから開戦に踏み切った。第二次世界大戦以降、大国間による戦争はあまりに経済的な損失が多く、イラク、アフガニスタンなど弱いものいじめに近い戦争しか発生していない。当然であろう。尖閣諸島についても鄧小平の棚上げ論は、いかにも鄧小平らしい実際的な大人の考えで、これでいいと思う。変に白黒をつけようとするよりは、灰色のままの方がお互いによい場合も多いのは、人間関係でも同様である。

2012年9月17日月曜日

弘前の坂







 弘前は平地にあるため、比較的坂の少ないところです。お城が少し高いところにあり、その西の部分が低く、東の部分が高くなっていて、前者を下町と呼んでいます。当然、下町に行くには坂を下るわけですので、新町坂、新坂などの坂があり、有名です。

 ただそれ以外の坂はどこにあるかと言うと、意外にわからないものです。明治二年絵図をひたすら見ていますが、最近になって、坂を表す記号を発見しました。現在の地図では坂を表す地図記号はありませんが、明治二年絵図では坂の部分に点線が入っています。

 これをみるとなるほどと思わせますが、へえこんなところを江戸の人々は坂と見ていたのかと、驚きます。明治二年といっても制作者の感覚は、江戸時代の人々の感覚と思ってもよいと思います。

 弘前城では、四つの坂が記入されています。まず左の大手門から南内門に向かう道が、坂。坂と呼べるか、微妙です。下の東内門から本丸の下乗橋への道。ここも微妙です。この下乗橋から本丸天守閣への道、これはかなりの坂です。同様に西の郭から本丸への道のきつい坂です。逆に北の郭のスポーツ広場から賀田門までは結構な坂ですが、記載はありません。

 禅林街のある茂森はというと、普門院の坂、これは当然でしょう。かなりきつい坂です。あとは天満宮から城西に降りる坂、ここは古道の雰囲気があり、好きな坂のひとつです。道が狭く、あまり使うひともいないようですが、昔の道です。

 次ぎに、今の藤田庭園から鷹匠町に降りる坂は、3つ。左から今の新町坂で、ほぼ現状と同じですが、その隣の新坂は全く違い、今は広くなっています。さらに城の西門から馬屋町に降りる道、これは市民会館の裏にその痕跡が今でもあります。昔は馬屋町に抜ける主要な坂だったのでしょう。市民会館の裏に行って、柵がしている後ろの方を見ると、弘前工業高校へ、何やら道跡らしきものがあるのがわかるでしょう。下町からお城に登城するのにこの道を使ったのでしょう。

 新寺町はどうでしょう。二つの坂があります。本行寺の前から唐金橋(絵図では銅橋)を通って在府町に抜ける道で、美しい坂です。さらにその奥、専徳寺の前、加藤味噌醤油店から茂森に抜ける道、ここも美しい坂で、古い建物の加藤味噌醤油店の外観と相まって、タイムスリップしたような感覚がします。当時は南溜池が見れる美しい景勝の坂だったのでしょう。

 一番不思議な坂は、現在の弘前郵便局の前と、その北の緑町から坂本町に抜ける道です。私は毎日、この道を歩いていますが、ここを坂と意識したことはありませんでした。確かに多少は坂と言えば、坂ですが、ほんの傾斜がついたくらいのものです。ただ、緑町から坂本町への坂は、そう言われれば、夕日に染まったきれいな岩木山が見れるスポットでよく、ここでその美しい姿を見入ってしまいます。二階建て以上の建物をカットして、江戸時代の気分になれば、確かに岩木山がよく見える、坂だったのでしょう。

 住吉町の今の保健所前から稲荷神社までも坂になっていますが、ここも坂という感覚はないと思います。絵図上の坂と見なしている所は、制作者の主観によるのか、それともその当時の人々の一般的な感覚によるのかは不明ですが、その後に出来た明治四年の絵図では、北の郭から賀田門への道にも点線がありますし、鉄砲町、上鞘師町、下鞘師町、一番町、東長町、あるいは在府町、覚仙町、坂本町から土手町の道にも点線があり、より多く、細かく坂の記載がなされています。車のない時代、大八車を引っぱることも多く、ちょっとした道の高低が今以上に気になったのでしょう。こういった江戸時代の人々の感覚をしる点でも古い絵図は有効です。

2012年9月13日木曜日

兼松石居 4


 11月に弘前市の中央公民館主催の講演会があり、「兼松石居」について、話すように依頼された。兼松石居については、その子孫の方と交流があり、「はい。いいですよ」と簡単に引き受けたが、資料はほとんどなく、結局は昭和6年発刊された森林助著、「兼松石居伝」に準拠して話すことにした。診療の合間を見て、読み込んでいるが、漢文調の文体で読みにくい。

 兼松石居は、勝海舟の13歳上で、時代的には佐久間象山、藤田東湖、緒方洪庵、横井小楠と同世代といえる。つまり幕末に活躍したというよりは、その前の世代の人物といえよう。兼松石居は、ずば抜けて頭がよいひとで、子供のころから津軽の三奇童と呼ばれるほどの天才で、文武両道に優れた才能を示した。青年になると藩を代表して今の東京大学に当たる昌平坂学問所に入学し、そこでも学才が高く、先生、学生から押されて舎長に推される。寮長のようなものであるが、人物、学識が高くなければ、全国から集まった優秀な学生の中から選ばれることはない。その後は、若輩ながらその見識が期待され、世子の教育係となり、厳しい教育を行う。習字の時間に戯れて天狗のような髭ぼうぼうの鼻の高い人物を世子が書いたが、これが石居に似ているため、見つかったらやばいよねとなった。後日、石居は世子の描いた肖像画を習字の先生から受け取り、終生軸にして居間に飾ったという。

 この世子が亡くなるにあたり、その跡継ぎを他家から求める動きがあった。石居は世子の弟を跡継ぎにするのが、血縁を守る法にかなっていると断固として主張し、結局は蟄居されることになる。他には、櫛引儀三郎という学者は、次の藩主が熊本から来ると完全に決まった後に藩主に向かって諌言するという気骨の持ち主で、彼もその場で罪人となった。兼松石居と櫛引儀三郎も友人であったが、共に熱い。いわゆる漢学者といってもただ本を読むだけではなく、その教えを生き方、行動まで高めた人物であった。二人とも幕末期には、塾を開き、ここから多くの人物が出た。さらに兼松石居は水戸藩士とも親しく、その思想は尊王であり、間接的に藩論を尊王にもっていき、幕末には官軍に協力することになった。

 生徒は、先生の生き方、行動から、自分の生き方を模索する。兼松石居も誠実な人柄で、四畳の間に机と硯、いつも読書と著述、唯一の楽しみは一合の酒と豆腐という生き方であった。10代の生徒にとって、先生が自分の信念に基づき、断固として藩主、それの取り巻きに反対する姿や、質素で清廉な生活態度を見ていると、それが大きな教育になったと思われる。同じようなことは、拓殖大学の佐藤慎一郎先生にも見られ、近代中国を最も内面的に知る佐藤先生の意見は、歴代首相にも重要なものであったため、ずっと月1回、レポートの提出、意見のために内閣府に行っていた。それなりの謝礼は出ていたが、死んで棺桶には何も入れられないと、すべてその金は学生に使った。毎日、腹のすかした学生十数名を昼めしにさそって、食べさせた。自分は小さな都営住宅に住み、鮮度の落ちた魚を食べながら、訪れた学生には最も上等の座布団を勧めた。そして学生一人一人を非常に大切にし、励ました。前衆議院議員鈴木宗男さんは、拓殖大学当時はそれほど学校には行かず、中川一郎の秘書活動をしていたが、何度か、中川一郎と佐藤慎一郎宅を訪れ、その教えを側で聞き、大きな影響を受けた。
「天下悉く信じて多しとせず、一人之を信じのみにして少なしと為さぬ」(王陽明)。これは安岡正篤が好んだ言葉だが、佐藤慎一郎先生も好きな言葉で、おそらく兼松石居や、櫛引儀三郎も好きな言葉であったと考える。陸羯南、山田兄弟はじめ、こういった考えを貫いた津軽人は多い。

 兼松石居の二男、直(のおき)は、桐淵家に養子に入る。明治二年絵図では桐淵の家は一軒で、茶畑新割町に桐淵直哉の名がある。おそらく兼松直のことだと考えたが、森林助の「兼松石居伝」には兼松直の幼名を直哉と書いている。桐淵直哉は兼松直のことである。兼松石居は当時、茶畑町の私塾、麗沢堂に住んでいたと思われ、これは上図の相馬作右衛門宅であるから、二男の家とは割と近いところに住んでいたことになる。息子の直はたまには実家に寄ったのか。石居は、独り住まいだったので、直の妻は手伝いにいったかもしれない。




2012年9月10日月曜日

遺愛女学校


 函館の遺愛女子中学校・高等学校は、北海道でというよりは、関東以北では最も古い女学校で、創立は明治15(1882)というから、今年で130年を迎える伝統校である。アメリカ、メソジスト教会のM.ハリス夫妻が、駐独・アメリカ公使婦人C.R.ライト婦人の献金で、函館、元町にカロライン・ライト・メモリアル・スクールとして創立された。明治18年には校名を遺愛女学校に変えて、現在に至っている。

 第一回入学者、6名は、すべて弘前在住のキリスト教信者の子女で、第二回入学者もすべて、弘前出身者で占められていた。当時、函館は文明開化の新しい時代にはなっていたが、未だキリスト教徒は少なく、新しくできた外国人の学校に自分の娘を通わせようと思わなかったのであろう。確か、今東光の母親あや(伊東重の妹)は四回生で、青森の港から小さな船で命がけで、函館に渡ったと追想している。他にも、鎮西学院の中興の祖と讃えられる笹森卯一郎の妻、三上とし(敏)(明治4年昭和35)は、高等小学校卒業後の明治17年に遺愛女学校(当時はカロライン・ライト記念学校)に入学し、明治25年に卒業している(三回生)。三上としの記憶によれば、寮生活では会津出身の舎監、雑賀アサにより厳しくしつけられた。雑賀アサは戊辰戦争の時に会津城に篭城した一人で、下北半島に移住していたが、見いだされて当時、ここの舎監をしていた。三上とし(笹森敏子)と伊東あや(今綾)、野田こう(古澤香)の三人は終生仲のよい友達だった。山田良政の妻、敏子は明治9年生まれで、11歳の若さで、明治20年に遺愛女学校に入学し、高等科を卒業したのが、明治29年、そして2年間、宣教師の子弟の家庭教師をするなど、計11年も遺愛女学校にいたことになる。当然、英語はペラペラであった。高谷徳子(山田とく 明治元年昭和5年)は、東奥義塾女子小学部から、県立女子師範を経て、明治15年に遺愛女学校に入学し、23年に弘前に帰り、弘前女学校の教壇にたった。遺愛女学校の一回生であり、当時の女子としては最高の教育を受けた一人であり、後に実業家の高谷貞次郎と結婚し、生涯、キリスト教徒として種々の社会事業を行った。また高谷徳子同様に、東奥義塾の女子小学部に入学し、明治11年、17歳で受洗した大和田しなも、遺愛女学校に入学し、後に母校の教壇にたったが、おそらく一回生か、二回生であろう。また海軍の中村良三大将の姉、のぶは、弘前女学校の本科第一回の卒業生で、米婦人宣教師のボーカス校長の教え子第一号であった。中村のぶは、卒業後、医師である中村春台の自宅の一部を改築して、弘前で最初の子守り学校を開いた。中土手町という商家町にあって赤子から幼児まで預かり、授業料なし、教材、文具まで与えて教育していた。十名以上の子供たちからは「おのぶさん」といわれ親しまれていた。中村のぶ(1875-1939)はその後、養生幼稚園の保母を長く勤め、弘前の幼児教育の草分け的な存在だったようで、中村大将は生涯、3歳上のこの姉のことを尊敬していた。

 函館の遺愛女学校は、弘前出身者が多数を占めるため、弘前でも地元に女学校を作ろうという運動が起こり、作られたのが弘前女学校である。明治19年(1886)にライトに因んで来徳女学校として開校した。翌年には弘前遺愛女学校、明治22年には弘前女学校、戦後、弘前学院聖愛中学、高校として現在に至っている。創立から126年であるから、これも古い。山鹿元次郎が初代校務担当者で、教師には後に本田庸一の妻となる長嶺さだ(本多貞子)で、東京女子師範を卒業した才女で、他にも青森県立弘前女子師範学校を卒業した白戸サタや成田ラクがいた。非常の充実した教師陣であった。出資者の中には、黒石の資産家である加藤宇兵衛の名前があるので、後に支那方面軍の最高司令官の岡村寧次大将の妻チエも黒石からここに通ったのであろう。

 この女学校のおもしろいのは、男子入学も必ずしも禁じられている訳でなく、菊池九郎の長男で山田純三郎と一緒に中国革命に協力した菊池良一や、菊池三郎の長男、菊池辰雄もここに通っている。

 ちなみ弘前で最初に幼稚園が出来たのは、明治35年の弘前市立幼稚園で、その明治39年(1906)には若葉幼稚園(聖愛幼稚園)と養生幼稚園があり、前の二つの幼稚園は平成まであったが、現在あるのは養生幼稚園のみとなっている。106年になる。

2012年9月7日金曜日

兼松しほ

 



 兼松しほは、弘前藩の儒学者、兼松石居の長女で、兼松本家久通の長男穀(やごろ)に嫁いだ。親は弘前藩を代表する学者で、しほもそういった家庭環境に育ち、学びたいという強い熱情はあっただろうが、江戸末期の状況ではそういったことも許されなかった。元々、穀は体が弱く、子もないまま、明治5年3月21日に亡くなった。享年35歳であった。しほ、29歳の時である。これから見ると兼松しほの生まれは、1844年ころとなる。

 穀の亡くなる前のこととなろうが、兼松本家では血縁を絶やさないため、しほの弟で、穀の妹と結婚していた兼松石居の三男、郎(いつら)を養子に迎えた。しほの弟が、息子になったわけである。

 東奥義塾に小学科女子部ができたのは、明治8年であり、この年の女子生徒は66名であった。この女子部の先生の中に、兼松しほの名がある。3時に授業が終わると、しほはイング婦人に熱心に英語の教えを受けた。父親、石居が東奥義塾の創立者で、学問的にも優れた兼松しほが女子部の先生になるのは当然であろう。明治9年の女子部の先生は、中田仲、菊池きく、そして兼松しほの3名で、明治11年には脇山つやが入る。兼松しほは女子部でも最も古い教師であり、青森県の女子教育の最初に関与した人物である。兼松しほはその後、函館でさらに勉強したと言われるが、おそらく函館の遺愛女学校ができたのが明治15年、ここで英語の勉強をしたのであろう。明治15年というと、西暦で1882年、兼松しほ、38歳である。当時の感覚からすれば、完全に中年の領域で、この年齢でさらに西洋のことを学ぼうとしている。

 その後、上京して津軽家に仕えたと聞いたことがあるが、ある程度わかったので、報告する。兼松石居は津軽藩主承昭の招きで津軽藩の由来を調べるために上京したが、その折、承昭の継室、近衛家出の津軽尹子(ただこ)の娘、お理喜様の養育、教育を頼まれたのであろう。そこで自分の娘、しほを養育係として送ったようだ。名前をしほから益子に改名し、明治29年9月3日に腸チフスで亡くなるまで、お理喜様の養育、教育を担当した。津軽理喜子は、東京女学館の第一回卒業生で、津軽行雅と結婚し、男爵津軽承靖の母となる。

 ここの面白い資料がある。近代デジタルライブラリーに明治33年発行の「明治才媛美譚」という書が収められていて、内容をインターネットでみることができる。その75ページに津軽理喜子の身の回りすべての世話をした、生活一般の先生としてしほの名が登場する。しほのことをあたかも母のごとく慕い、明治3054歳でなくなった時は、父母を失ったように嘆き悲しみ、その命日には必ず墓参したという。

 兼松しはの生まれたのは、1844年ころ。明治になったのが、23歳の時で、完全に近代教育を受けるのは遅すぎる世代で、これほど向学心に燃えた女子にとっては何とも生まれ合わせが悪く、かわいそうな気がする。せめて十年後に生まれたら、こういった才気のある女性はもっと活躍できたのかもしれない。いずれにしても、結婚、夫の死去にもめげず、東奥義塾の教師、函館への留学、そして藩主の娘の養育と、一生懸命生きた人生であった。

 上の写真は、津軽尹子の写真、中は東京女学館の記念写真で前列右から2番目が津軽理喜子、下は津軽家家系である。

2012年9月4日火曜日

大阪帰省


 最近は、大阪の実家に帰省するために、一泊付きの旅行パックを利用している。というのは、こういったパックで行くと、ほぼホテル代が浮くことになるからである。上の娘が京都にいたときは、京都のハイアットリージェンシー、大阪ではリッツカールトン、神戸ではメリケンパークホテルなど、普段高くて泊まれないようなホテルに泊まった。去年は変わったところで、六甲山ホテルに行ってきた。古いホテルで設備は今ひとつであったが、昭和初期ころのホテルの貫禄は十分に体験できたし、六甲山自体標高が高く、涼しかった。近くにオルゴール博物館、植物園や色々な観光施設があり、次女とあちこちに行って、本当に楽しかった。夕食は定番の野外ジンギスカンを選んだが、これはあまりにありきたりで、もう少し量は少なくてもきちんとした夕食にすべきだった。インターネットが全く使えず、これも仕事から完全に離れる点ではいいのかも。割合、60歳以上の年配の夫婦の宿泊客が多く、阪神近郊では穴場かもしれない。

 今年は、どこにしようかと考え、最初は一度宝塚ホテルもいいかと思ったが、新婚の時に使ったポートピアホテルに泊まり、近くのイケアを見ようということになった。ポートライナーで市民広場前にて下車。ここは何度か行ったことがあるが、それにしても降りる人の数が半端ではない。家内が近くのひとに聞くと、衣料メーカーのワールドのセールが国際会議場であるとのことであった。会員になると、入場可能となる。この関係者限定のバーゲンは昔から神戸では有名で、それこそ関係者のコネがないと入場券がもらえないものであったが、今はもう少し門戸を広げたのであろう。70、80%オフだから、みんな袋一杯の買い物をしている。来年は、ワールドに関係者がいるのでチケットもらって行こう。

 ポートピアホテルは、26年前に行った時と、ほとんど同じであった。あの六本木プリンスホテルのような、バブル時代のホテルの成れの果てという感じで、50過ぎの趣味の悪い熟女という雰囲気であった。中国人の観光客が非常に多く、朝食の乱雑さは、そういった宿泊者構成にも関係しているのであろう。最近、東京のどこのホテルも中国人が多く、それはそれでいいのであるが、ポートピアホテルでは、盗まれないようにロッカーのハンガーは取り外せないようになっていた。朝食も食べられないくらい持ってきて、ゆで卵や、パンなどは持って帰る。中国人の団体を泊めるかどうかで、確実にホテルの雰囲気が変わるので、これが一流か二流ホテルかの違いかもしれない。さすがにリッツカールトンでは明らかに中国人とわかる客は少なかった。

 神戸で食事というと、最近よく行くのは中華街の民生広東料理、ここはいつも込んでいるが、何を頼んでも安心しておいしいし、それほど高くなくて、好きな店だ。何より庶民的な感じがすばらしい。今回は、次女にどこかいい店がないかと探してもらって行ったのが、阪急西宮北口近く「レギューム Les Legumes」という野菜をメインにしたお店である。西宮北口駅下の方の医療関係の診療所や予備校が入ったビルの10Fで、最初、6時に予約しようとしたが、いっぱいで7時半の予約となった。予約なしでははいれないであろう。本格的な店というよりは少しカジュアル系のお店で、若いカップルにはいい感じの店であった。青森県の新鮮な野菜に慣れた私にも、新鮮でうまい野菜であった。ただ趣旨はわかるが、この野菜はどこの産で、どういったものといった説明はうるさく感じる。食べてみてうまかったので、どこのものかと聞くのはわかるが、味に箔をつけるようで、最近のこういった傾向はあまり気に食わない。
 
 弘前にも情熱大陸に出た笹森さんがやっているイタリア料理「オステリア・エノテカ・ダ・サスィーノ」という店がある。ここの素材はほとんど、オーナーシェフの笹森さん自らが作っているが、そういった説明はない。素材をそのまま使うことはなく、何らかの手を加えてよりおいしくしている。笹森さんの店のディナーが4000円、6000円、8000円と考えると、レギュームのディナーの4725円はそれほど安くはない。というよりは2030席の小さなレストランでオーナ自らが給仕するサスィーノが安いのかもしれない。

 人間の舌はやっかいなもので、おいしいものを食べてしまうと、ついそれと比較してしまう。昨年、三重県津の友人を訪れた時、津ミートカシワギという肉屋さんの二階で最高級の松坂牛を吐きそうになるくらい食べた。これ以降、肉の味の上限はかなり上がってしまった。同様に田舎では、どこも野菜くらいは自分のところで作るため、友人や親類からしょっちゅう野菜をもらう。新鮮だけでは、野菜はうまいとは言わない。


下の写真はミートカシワザキ。ネットで注文もできるので一度、もう一度食ってみたい。

2012年9月2日日曜日

コンピューターの故障


 2週間からブログの更新をしていない。実は、自宅のコンピューターが急に動かなくなったためだ。アップルのMacbook Proを愛用しているが、急に終了ができなくなり、パワーボタンを押してリセットすると起動マークが回転したまま動かない。これは困ったとは思ったものの、この時点では何とかなると思い、古い雑誌から色々な救出法を試した。ところが十種類くらいの方法を試したが、一向に直らない。ここまで半日。これは本気に困った状況と思い、アップルのサービスステーションに連絡した。非常に丁寧に質問に答えていただき、かなりストレスが溜まった状況だったが、随分楽になった。ただ指示された新たな方法でも結局事態は好転せず、ハードディスクの物理的な損傷の可能性があると言われた。

 まだ買って3年くらいなので、故障はないと思い、バックアップはとっていなかった。自宅用なので、それほど重要なデータはないが、それでも写真、音楽のデータも多い。そこで、何とか、データだけでも救出できないかと考え、古いコンピューターで検索すると3万円で救出するという会社があり、早速、連絡して、壊れたコンピューターを送った。一週間後、ほとんどのデータは救出できたとの連絡が入った。1TBのハンディーHDにデータを入れてもらい、送付してもらった。修理費はHDこみで49000円。そしてアマゾンで2.5インチの内蔵HDの安いものと、交換に必要な器具を購入した。届いたコンピューターの裏を外して、新しいHDを交換。これは15分くらいで終了した。その後、OS、アプリケーションをインストールし、データの入ったHDから情報を転送した。一括転送できないので、一個ずつファイルを転送した。ここまで半日。何とか、転送はできたが、どこにどのファイルがあるか、わからず、容量から推定して元のファイルに戻した。ここまでまた半日。ほぼ元通りになったが、どうしてもメールの送信ができない、各種設定を色々と変更したが、結局は3時間経っても送信できなかった。ところがOSをアップデートすると何とか、送信が可能となり、ようやくコンピュータは直った。

 ここまで2週間を要したが、その間どうもふらつきがするので、血圧を計ると、普段は120くらいで安定していたが、140を超え、今日は160を超えた。これまで130くらいに上がったことはあったが、こんなに上がったのは初めてで、先ほど、救急病院を受診し、様子を見るようと言われた。

 以前もコンピュータが故障したとき、胃が痛くなり、胃カメラを飲んだが、どうもコンピュータの故障は体に具合が悪そうだ。