2011年3月29日火曜日

岸谷隆一郎


 山田良政、純三郎兄弟の甥に拓殖大学の佐藤慎一郎氏がいる。氏とは直接会ったことはなく、その点では実に残念である。生前の氏を知る人物からは今でも強く追慕され続けている。津軽の精神を体現した人物で、その生き様、教えは教え子の中に息づいている。氏を知る人々による座談会が以下のところからダウンロードできるので、一読を勧める。こういった真の教育者は今ではいない(http://ci.nii.ac.jp/naid/110000037354)。

 佐藤慎一郎氏の拓殖大学の最終講義が残っている
(http://blog.goo.ne.jp/greendoor-t/e/19f9884971d8e0c40098abfa5557000c)。その中で、満州国高官として活躍した黒石市出身の岸谷隆一郎のことが載っているので、その部分を引用する。

 「弘前中学の先輩岸谷隆一郎さんは、終戦の時には満州国熱河省次長(日系官吏の最高職)でした。八月十九日、ソ連軍が承徳になだれ込んできた。岸谷さんは、日本人居留民を集めて、 「皆さんは帰国して、日本再建のために力を尽くしてくださいと、別れを告げ、数人の日系官吏とともに官舎に引き揚げた。岸谷さんはウイスキーを飲み交わしながら、動こうともしない。人々は再三にわたって、「ソ連からの厳命の時間も過ぎた。一緒に引き揚げましょう」と、促した。岸谷さんは、「そんなに言ってくれるなら・・・」と起ち上がって、奥の部屋の襖を開けた。そこには日満両国旗に飾られた仏壇があって、香が焚かれていた。仏壇の前には純白の和服姿の八重子夫人(四十二歳。同志社大卒)が、澄み切った顔をして端 座していた。その隣には晴衣姿に薄化粧した玲子ちゃん(十七歳)、明子ちゃん(十五歳)二人のお嬢さんが静かに座っていた。人々は、「せめて奥さんとお子さんだけでも、私たちに預けてください。必ずお守りしますから」と頼み込んでみた。「僕は満州国が好きで好きでたまらないのだ。この辺で日本人の一人ぐらい、満州国と運命をともにする者があってもよかろう」とポツンと言われた。奥さんは、「いろいろお世話になりました。私は主人と行動をともにします」ときっぱりと言われました。二人のお嬢さんの、かすかな泣き声。人々も、もはやこれまでと別れを告げた。岸谷さんは人々を玄関から送り出して、内から鍵をかけた。奥さんと二人のお嬢さんは、窓から手を振って さようーなら をしていた。岸谷さん一家はその直後、自決された。岸谷さんは四十五歳であった。十余年前から岸谷さんの家にいたボーイの王君は、主人の覚悟を察知して、主人の日本刀を隠したり、「不好、不好」(これはいかん)と、泣きながら訴えて歩いていたという。 王君は主人の自決を知るや、直ちに李民生庁長宅に急報し、官舎に引き返して、両手に拳銃を構えながら、夜通し遺骸を見守っていたという。李民生庁長らはソ連軍の入場という混乱の中で、岸谷さん一家のために最高の寝棺を買いととのえ、承徳神社の境内に丁重に葬ってくれた。そしてこの李庁長もその後、中共軍入場とともに銃殺になったと伝えられている。」

 岸谷は、青森県黒石市の鍛冶屋の長男として1901年(明治34年)に生まれた(本名は岸谷一郎)。実家は鍛冶屋兼農業をしていたが生活はきびしく、弟の俊雄はいくら働いても楽にならない両親の生活をみてマルクス主義に傾倒するようになった。兄一郎は日本人の生活を豊かにするには満州の権益を利用した方がマルクス主義運動よりよほど現実的と考え、新しく設立されることになった日露協会学校の受験を決意し、青森県の受験者11人の中からただひとり県費留学生に選ばれた。1899年に東亜同文書院に入学した山田純三郎とだぶる。もともと日露協会学校(ハルピン学院)と東亜同文書院は、ロシア、中国と対象はちがうが、非常に似通った学校であった。ここでロシア語を徹底して学んだ岸谷は、卒業後、1923年(大正12年)に日露協会学校の助教授になるも、1927年には満鉄に入社し、調査部ロシア班に配属される。その後1932年には、満州国の官吏となり、黒河省、通化省、国務院などで働き、主として匪賊と呼ばれる中国共産党ゲリラを追討していた。その後、通化省の警務庁長時代には中国東北抗日軍の掃討作戦にも加わったため、現在でも中国、北朝鮮では悪魔呼ばわりされている。そして熱河省次長として終戦を迎える。

 現代中国、朝鮮では、岸谷は共産党ゲリラを討伐した東洋鬼として悪名高い人物だが、これはあくまで歴史の一断面であり、最後の死の潔さを見る時、ソビエト軍が侵略するや、急いで逃げ出した東大出の官僚、士官学校出の関東軍高級軍人に比べてよほど誇り高い日本人の姿をそこに見る。土壇場になると、人間の本性がみごとに現れる。

 なお終戦時、支那派遣軍総司令官の岡本寧次大将の妻は、黒石市出身の衆議院議員加藤宇兵衞の娘であった。

 なお岸谷の写真は、満州傀儡政府の東洋鬼として紹介されている中国のHPから引用した。意図とは別に実直そうな官吏の姿を見る。
 *岸谷のことは、「満州の情報基地 ハツビン学院」(芳地隆之 新潮社 2010)から引用した。

2011年3月26日土曜日

震災と自衛隊



 今回の震災ほど、国民に自衛隊の存在をアピールしたことは戦後なかった。被災者からすれば、自衛隊の存在がどれほど心強いと思った方も多いと思うし、自衛官の隊員の献身的な働きには、いくら仕事とはいえ、頭が下がる。確かに社会党政権下の阪神大震災に比べると自衛隊の出動も早かったとは思えるが、それでも実際の初動活動は米軍に比べると劣る。政府の即戦対応の違いと思われる。アメリカでは大統領は軍の最高指導者で、命令系統のスピーディさが普段の訓練、実践を通じてかなり確立しているが、それに比べると菅直人内閣の対応は、どうもちぐはくな感じを受けた。軍指導者としての経験や自覚がないことによるのであろう。もはや憲法違反であるから自衛隊を認めないとする社会党、共産党の論理は、とてもじゃないが、世論とは遊離しており、こういった国難の状況で国民が頼るのはやはり軍隊であろう。

 未だに軍隊の保有は憲法九条に違反していると叫ぶ一部の人々がいる。最近はさすがに、自衛隊不必要とは言わなくなったが、それでも災害救助に限定した存在にしろとして言っている。確かに東京消防庁のような組織も当然必要であろうが、こういった消防、警察と自衛隊は全く組織が異なり、厳密な階級のもと、命令系統が上から下へと直線的に繋がっている。師団、連隊、大隊さらに中隊は、刻々と変わる戦況に応じて、参謀本部からの命令を実践していく。これが軍隊である。消防隊は上からの命令に対して抗命しても、罪にはならなし、むしろ現場での判断が上層部の判断より優先される。それに対して軍隊では抗命は基本的には禁止され、自衛隊法第57条で「隊員は、その職務の遂行に当つては、上官の職務上の命令に忠実に従わなければならない」とされている。今回のような非常時では、死も覚悟するような状況におかれる可能性もあり、そういった状況では軍隊以外は活用できない。このあたりの覚悟にアメリカ大統領と日本の首相に一番差があろう。

 Japan Ground Self-Defense Force(陸上自衛隊)、Japan Maritime Self-Defense Force(海上自衛隊)、Japan Air Self-Defense Force(航空自衛隊)という名称はもういいだろう。単純にJapan Army陸軍、Japan Navy海軍、Japan Air force空軍でいいのではないか。外国ではみんなそう呼んでいる。この中でもひどいのは海上自衛隊のMartimeは沿岸という意味で、これでは海上保安庁くらいの意味しかない。こういった国軍論争は、右翼的だと誹りを受けかねないが、普通に考えても、誰も自衛隊が日本軍ではないとは思わないであろうし、中国も含めた周囲国もそう思っている。ただ日本の一部の人々が反対しているのである。

 私自身、こういった問題に対して特に強い思い入れはないが、それでも日陰ものとして扱われてきた自衛隊に関しては、こういった機会に是非存在自体が誇らしいものになってほしい。憲法改正などの手段に、まだまだ期間はかかるかもしれないが、少なくとも階級名については伝統的な名称にすぐに変更すべきであろう。1尉、1佐では、誰もわからない。大尉、大佐の方がよほど馴染みがある名称で、戦争に負け、旧軍とは違うといっても、慣れ親しんだ名称まで訳のわからないものにしておく必要はない。また幕僚長など将官に至っては、何が何か全く解らず、役職名しかない。大将、中将、少将などの将軍名をきちんと名乗った方が責任の所在がはっきりして運用上もうまくいきそうな気がする。階級名の変更は国会審議で簡単に変更できるので、早急の改善を求める。

 同時に金鵄勲章も是非復活してほしい。これは軍人として抜群の功をあげたものに与えられる最高の勲章であり、イギリスのヴィクトリア十字章やアメリカの名誉勲章に相当する。日本の金鵄勲章は、大戦末期には死後授与だけであったが、本来は相当額の終身年金がつくもので、名誉だけでなく、お金の面でも価値があった。今回の震災においても危険を顧みず任務を行った隊員には、危険業務従事者叙勲が受章されると思うが、これは自衛官だけでなく、消防署員、警察官も含めた制度である。やはり自衛隊員、軍人のみの勲章があっても良さそうだし、多くの国もそうであろうが、唯一日本には軍人の武功に対する叙勲制度はない。これではさびしい。

 弘前の第39普通科連隊も現在、全力で震災地での活動を行っている。感謝したい。

2011年3月23日水曜日

土曜洋画劇場「裸足の伯爵夫人」


 テレビで最初に放送された映画は、土曜洋画劇場の「裸足の伯爵夫人」だったと思います。昭和41年、小学5年生ころのことです。初めてテレビで映画が放送されると非常に話題になりました。当時、映画は映画館でお金を払って見るものだと思っていましたので、テレビ会社はタダで太っ腹だなあと驚いた記憶があります。

 家族揃って、夜の9時の放送開始前からテレビの前に座り、テレビ最初の映画はどんなものかと固唾を飲んで見たような気がします。映画の題名は「裸足の伯爵夫人」、エバ・ガードナー、ハンフリー・ボガート主演というものでしたが、さすがに子供には難しい内容でした。映画自体はカラー作品ですが、当時は白黒テレビで、テーマー曲のボレロが劇中に何度の流され、内容は全く忘れましたが、どういうわけか未だにこの曲はよく覚えています。ちなみに家内や子供は全く聞いたこともない曲のようですが、当時土曜洋画劇場を見たひとには印象深い、メロディだと思います。エバ・ガードナーの豊満な肉体には子供心にも、肉を食っている外人はさすがに日本人とは違うと単純に思わせる存在でした。

 番組終わりには、淀川長治さんが映画の解説をして、有名なセリフ「さいなら、さいなら」を言って終わるのですが、この淀川さんは当時でもよく知られたひとで、大人から子供まで人気のあった「ララミー牧場」の解説者として登場していました。このララミー牧場は大阪では夕方の放送でしたが、こんな時間にみんなよく見ていたと思います。以前、同年輩のアメリカ人とテレビ番組のことで盛り上がり、昔のこんな番組面白かったなあと話していましたが、ベンケーシ、トワイライトゾーン、コンバットなどはアメリカ人もよく知っていましたが、ララミー牧場はあまり知らないようで、日本だけで人気のあった番組かもしれません。

 その後、土曜洋画劇場は日曜洋画劇場になり、さらに荻昌弘の月曜ロードショーや水野晴郎の金曜ロードショーに繋がり、テレビで映画を見るのが普通になってきました。反比例するかのように映画館に足を向けることはなくなり、家族別々でテレビを見るようになり、家族団欒としてのテレビの機能は減ってきたようです。また大阪に限定した番組編成だと思いますが、昼の3時ころからも冠タイトルのない映画番組をしていた記憶があります。「クォ・ヴァディス」を初めてみたのはこの時間帯でした。ひょっとすると月曜ロードショーより早い放映だったかもしれません。

 テレビは私たちの世代にとっては、最大の生活品、なくてはならないもので、間違いなく最も影響を受けたものだと思います。「ルーシーショウ」や「奥様は魔女」で見られるアメリカは、本当にあこがれの存在で、番組に出てくる大きな冷蔵庫や1リットル入りの牛乳などはアメリカの物質文明をダイレクトに私たちに伝えるものでした。後年、大きなビン入りの牛乳が日本でも買えるようになった時は、これで日本もようやくアメリカに近くなったとの感慨を持ったものでした。昭和40年以降の日本人は、こういったテレビで知ったアメリカの姿を幸福の象徴として追い求めていったのでしょうし、アメリカ人と話していてもベトナム戦争前の1950、60年代が最も幸福な時代だったようです。そういった点では「裸足の伯爵美人」も、こういった時代を反映した作品で、落ち着いたらもう一度見てみたいと思います。自分が若い頃にはやってよく聞いた曲、音楽のことを英語では「My Songs」と簡単に言いますが、同じく各自に「My TV」あるいは「My movies」があると思います。

2011年3月21日月曜日

大阪万博


 大阪万国博覧会があったのは、ちょうど1970年でしたから、私は中学2年生でした。自宅からは1時間くらいでしたので、春から秋の会期中に4、5回は行ったでしょうか。朝早く兄と一緒に、千里の万博会場に行き、1,2時間ゲートで待ち、開門と同時にダッシュです。アメリカ館、ソビエト館の人気が高く、ダッシュして行ってもすでに長蛇の列で、それでも2時間ほど待ち、何とか見学することができました。月の石は見たはずですが、今やすっかり記憶にありません。

 当時、外国というと「兼高かおるの世界の旅」というのが、毎週日曜日の9時ころからテレビでやっており、その知識くらいしかありませんでした。世界中にはこんな国があるのか、兼高さんは英語がしゃべれてすごいなあという感想はあったのですが、実際に海外に行くことなんて当時は夢にも思いませんでした。そういった時代の万博です。六甲学院には外人教師が多かったのですが、それでも外人自体が非常にめずらしく、私などは万博では身も知らない外人にサインをもらったくらいです。フランス館に行き、そこで始めたフランス料理、と言っても今で言う簡単なランチですが、それでもそんなものは生まれて初めて食べるもので、へえフランス料理はこんなんだあ、兼高さんがフランスで食べていた料理はこんなんだと思ったりしました。当時でも、洋食屋もたくさんあり、カレーライスやナポリタン、ハンバーグなどは食べていましたが、それ以外の西洋料理は万博で初めて食べたような気がします。

 当時の恥ずかしい話として、うちの母親が大阪本町の問屋から、親戚がそこで店をしていたのですが、夏用の短パン買ってきました。チェック柄の薄い素材のパンツで後ろにはポケットもついています。少し短い形状でしたが、夏場は涼しくていいわということで、夏休みの万博をはじめ、よそに遊びに行くときはいつもその短パンを履いていました。ところが1年後、阪神尼崎の尼センで買い物をしていたところ、母が「去年買った短パン、あれ下着やったんや」と言い出します。見ると下着コーナにあの短パンが置いています。慌てて見ると、全く同じ柄で、後ろにポケットのある下着、今で言うトランクスがその店に置かれています。そう母親は短パンとトランクスを間違え購入し、兄と私は一夏中、ブリーフの上にトランクスを履いて、万博にも行った訳です。その格好で日本館の前で撮った写真があります。母いわく「下着にポケットつけるのがおかしい。こんなことするから短パンに間違える」と言い訳していましたが、今でも本当に恥ずかしい話です。これが最初にトランクス型の下着に出会った瞬間です。それまで下着というとブリーフ、それもBVDの下着が最高におしゃれと考えていましたので、このトランクスはショックでしたし、未だに後ろのポケットの用途はわかりません。ちなみにジーンズを始めた履いたのは、昭和42年、小学校5年生のころで、尼崎の三和商店街の入口の前の道を右に折れたところに今のアメリカ屋みたいな店があり、そこで初めてリーバイスのジーパンを購入しました。当時、一種のミリタリーブームでそういった店ではアメリカ軍放出のジャヤケットなどの衣類があり、その中にジーパンがありました。衣類にはシミがあったりして、友人はベトナム戦争で戦死した兵士のものだと言って恐れていました。そういった店でしたので、今の古着屋のような匂いがして気持ちが悪かった記憶があります。

 こういったジーパンも中学になると、綿パンの方がかっこよく思い、それほどは着ませんでした。大学生のころ、1970年代ころからみんな穿くようになりましたが、それまでは確かジーンズもミリタリー衣類、作業着扱いだったと思います。

 今でも戦後日本のハイライトは東京オリンピックと大阪万博だったと思います。ちなみに貼付けた「兼高かおる 世界の旅」の最後にパンアメリカの広告がありますが、かっこいい。

2011年3月18日金曜日

三十光年の星たち



 宮本輝さんの新作「三十光年の星たち」を読了した。大地震後の、こんな時期によく本など読めるなと思われるかもしれないが、テレビ、ラジオで伝えられるあまりの悲惨な状況を、もう見たくないというのが理由である。

 阪神大震災当時に比べると、インターネット、携帯は益々発達し、瞬時に多くの情報が簡単に見つけることができる反面、情報により自分が踊らされ、かえって不安感が増すようになった。歯科の例で申し訳ないが、こういった患者さんも増えている。例えば、口に潰瘍ができ、それを検索すると、さまざまな情報がそれこそあっと言う間に出てくる。調べていくと、どうも俺の潰瘍は口腔ガンかもしれないと不安にかられ、気になって気になってしかたがないということが起こる。実際、口腔ガンなどはめったにないもので、ほとんどは杞憂に終わる。これなどインターネットがなかった時代は、調べるにも「家庭の医学」といった本くらいしかなく、ひどくなるようなら病院に行こうと思っているうちに治ってしまう。情報が人間の心理的な処理能力を越えるからであろう。

 本の内容にふれる。何をやってもだめで、親にも勘当された仁志という青年が、借金をしている佐伯から旅行の運転手と借金回収の仕事をすることを命じられ、そこから自分探しとそれを取り巻く様々な人物に接するうちに新たな目標を見つける。

 前作の「三千枚の金貨」同様に、最近の宮本さんのスタイルで、主人公が様々な人間や場面に出会うことで、真実の道を見つけ、新たな人生を踏み出す、こういった内容である。今回のテーマは、目に前の結果を追い求めるのではなく、30年後をスタートラインとして、その30年を準備期間とするというもので、そういった人間やエピソードが随所に見られる。地球から30光年先の星というのは宇宙からすれば、非常に近い距離であり、一瞬の時間である。その一瞬の30年という期間をこつこつと自分なりにがんばることで、ようやく一人前になると。社会というのは、パン屋でも、大工でも、警官でも、あらゆる仕事は小さな存在の人間が懸命に自分の使命、JOBを果たすことで成り立っており、そういった個人の日々の努力により社会は動いている。地震が起こっても、いつも通りガソリスタンドの従業員はガソリンを売っているし、新聞配達の人も同じように配達している。自衛隊、警官、消防士も懸命にその職務を果たしており、こういった人々の努力がなければ社会は存在しない。色々な事情で人から借金することもあろうが、毎月少額2000円でもよいから、けっして諦めず借金を返し続けること、こういった社会の務めをきちんと果たすことが大事であり、それをないがしろにしない心持ちが新たな出発や困難に打ち勝つ力を与える。

 最近の若者は、我慢がないというが、避難場における中学生や高校生の活躍をみると、自分たちよりよっぽどしっかりしている。この小説の主人公のような、もう少し我慢して継続すれば、一生の仕事が見つけられるのに、ちょっぴり我慢すればいい面も見えてくるのにと残念に思う。昔は、金がなく、丁稚奉公のような形で職業を強制的に選ばされた。正月以外は実家にも帰れず、ひたすら耐えるしかなかった時代に比べて、今は仕事もやめても親元で暮らせば、何とかなる。こういった恵まれた状況で我慢せよというのは昔に比べてよほど難しいことだが、私は若者たちの真摯な善意を信じる。地震後の30年は、こういった若者たちにより、今よりよほどまともな日本ができると信じるし、そのためには難しいかもしれないが、宮本さんのいうように、つまらないと思ってもやめずに、こつこつと一生懸命に毎日の仕事をすることが大事だと思うし、そういった点が日本人の長所であろう。

 よりよき小説とは、人に生きる力を与えるものであり、宮本さんの次回作は是非、災害に受難した東北の人々に落ち着きと希望を与える作品を書いてほしい。物質的な復旧は進んでいくにしても、今後最も必要なことは人々への心理的なサポートであり、それができるのが小説家の務めであろう。私も歯科医になって、ようやく30年になったが、歯科医を続けてきた意味について今回の大惨事を通じてもう一度見直したいと考えている。

2011年3月10日木曜日

山田兄弟35



明治2年弘前地図の大型印刷ができたので、関連施設、注文先に順次送付している。買ってきた箱が大きく、それにBOサイズの地図を丸めて入れ、送付したが、送られた先では、大層な箱に一枚の印刷物だけが入っていたのに驚いたかもしれない。折り目がつかないようにするために、こうなったのでご了承いただきたい。ブログにて地図の購入を募集したが、問い合わせは、ほとんどが東京、関東在住の方からで、それもすべて親が弘前出身の方であった。地元からの注文は友人以外にはなかった。

 先週は、弘前市立図書館へ、本日は弘前博物館に印刷した地図をもって、寄贈に伺った。突然の来訪にも関わらず、双方とも丁寧に対応いただき感謝している。図書館の話では、寄贈は受けるが、寄託は今のところは受けないとのことであった。また博物館の方は、寄託も受け入れるが、収納場所が狭く、受け入れるかどうかはもう少し検討したいとのことであった。

 地図データが入った冊子も現在、印刷所を決定し、投稿済みで、もう少しすれば、校正、発行となる。5月くらいまでには冊子も完成できそうである。4月には弘前大学の先生と一度、話し合いを持ちたいが、できれば、どこかに寄贈、寄託する前に、専門家による分析を行っていただき、きちんとした研究報告をしてほしいと思っている。その後、保管、保存のために公共機関に収めればよいと考えている。

 今月は東京のT氏から、山田兄弟と孫文の人形を台北駐日経済文化代表処のロビーに置くことが決まったとの報告を受けた。この人形は、平川市で独学でユニークな人形を製作している木村ヨシさんの人形で、「中国革命は第二の明治革命である。中国と日本の協力がなければ、アジアの復興はない。アジアの復興ななければ世界の平和はない」と常に孫文が語る様子をイメージしながら人形で表現したという(創作きものとヨシ人形 津軽新報社)。木村ヨシさんの人形は平川のアップルランドの売店に展示しているので興味のある方は見てほしい。

このメールの5分後には観光ボランティアガイドの方からメールがきた。春のコースに在府町も入れ、できれば山田兄弟についても観光客に紹介したいとの問い合わせがあった。偶然とは言え、山田兄弟に関連することが続き、うれしい。できれば台湾、中国からの観光客用に、山田兄弟の紹介および貞昌寺の碑についての中国語のパンフレットを作っていただくよう要望した。実際、アップルランドのひとに聞くと、台湾の観光客を案内すると、なぜ弘前に孫文と蒋介石が書いた碑があるのかと驚くようである。新寺町の雰囲気、あるいは昼食には近くにそばのうまい「會」もあり、観光客にも十分に満足できるところである。またここから加藤味噌醤油の所の坂を下り、唐金橋から禅林街への道筋も気分のいいところで、自転車で行くにはちょうどよいコースである。

「近代青森県の100人を語る」(八戸地域社会研究会 1983年)に今東光の母親あや(綾)についてのおもしろい話が載っていたので紹介する。
「日韓合併の時に近所の家で日章旗を立てないということで、ひどく警察官にとっちめられておったわけです。それを見て東光のお母さんは「そりゃ立てない人もあるでしょう」と言ったというんですね。あの厳しい時代ですよ。そしたら警官が「何だ」と言うから、「合併された韓国の人たちは、ちっとも日の丸を立てるような気持ちにならんでしょう」と言った。それで「お前は朝鮮人か」と言われてね。「そうかもしれません」なんて言ったらしいんです。どこかそういう反骨の精神があったらしいですね。女ながらに」

日韓併合は明治43年であるから、あやが42歳ころの話である。あやは当時の日本の女性としては最高の教育を受けた一人で、高い自負もあったのであろうが、この逸話には女としての男に対する反骨、一般人から権力者(警官)に対する反骨、日本政府に対する反骨が含まれており、こういった津軽の精神的な気質は今東光に受け継がれただけでなく、津軽人全般に当てはまるものであろう。結構好きな話であり、これではあの毒舌の今東光和尚も母親には頭は上がらなかったであろう。

2011年3月7日月曜日

歯科助手



 「青歯会報」という青森県歯科医師会の発行している雑誌の最新号(459巻 2011年3月号)にアメリカの歯科助手ついての面白い話が載っていたので紹介する。著者は上十三支部の大島忍先生で、ご主人の関係で現在アメリカに在住して、どういう訳かアメリカで歯科医ではなく、歯科助手をしている。ライセンスの問題もあるが、著者も言っているように好奇心から、この仕事を選んだようだ。

 アメリカのカリフォルニア州では、歯科助手(Dental Assistant)はカレッジ(短大)、民間施設のコースなどで、40時間の歯科学全般の講義と500時間の実践トレーニングからなる半年から1年のプログラムを受け、合格するとDAの終了証書がもらえ、歯科医院での治療の準備や歯科医師の治療補助ができる。ここまではほぼ日本の歯科助手と同じで、日本でも歯科医師会主催の助手コース、これは乙種の場合は72時間、甲種の場合は約400時間の講義と実習を受ける必要があるが、両者とも医師法により業務はかなり限定され、基本的には患者の口に直接タッチすることはできない。器材の片付け、セメント、印象剤の練和、レントゲンの現像などができ、バキュームなごの診療補助は微妙であるが、これ以上のことはできない。

 ここからがアメリカ的なところで、このDAの上にRDA(Registered Dental Assistant)という制度がある。州公認の歯科助手のことで、1.X線撮影の講義(32時間)、2. 歯面清掃の講義と実技(16時間)、3. 感染予防の講義(8時間)、4.カリフォルニア歯科規定講義(2時間)、5. 心肺機能蘇生術コース、6. シーラント処置(16歯)と実技 の講義と実習を終了し、州の試験に合格して初めてRDAとなる。当然、時給面でもDAよりは高くなる。RDAになれば、日本の歯科衛生士に近い仕事ができ、口腔内診査、テンポラリークラウンの製作、合着、縁上歯肉の過剰セメントの除去、スタディモデルの印象、咬合採得などが歯科医師監視したで法的にも許されている。日本では歯科助手がこういった仕事をそれば違法となる。さらにRDAの上には外科、矯正、歯科修復専門の上級コースがあり、これはRDA EF(RDA Extended Function)と呼ばれ、州のテストに合格すればさらに業務範囲が増え、サラリーも増加する。

 RDAやRDA EFの試験は難しく、基礎から臨床に及ぶ広い範囲から出題されるペーパー試験とタイポドント模型を使った実技テストからなる。

 一方、アメリカの歯科衛生士は、確か4年生大学で歯科衛生士のプログラムを受けるが、大変人気が高く、難しい。歯科衛生士も学校卒業した時点ではDH(Dental Hygienist)だが、州の試験に通ってRDHとなり、さらに専門のコースに進むとRDH EFとなる。衛生士は週給も高く、30-40ドルくらいあり、結婚、出産、子育てなどライフスパンに合わせて勤務形態を変えることも可能で、白人占有率の非常に高い職業の一つである。多くのアメリカの歯科医院では、衛生士を雇わないで、歯科助手だけのところも多く、また歯科衛生士を雇っているところは、衛生士用の部屋を用意し、そこペリオの治療などを単独でさせている。局所麻酔や縁下歯石の除去や当然レントゲン撮影も可能である。

 アメリカはおかしな国であるが、プラグマティズムの国で、こういった勉強すれば、それの伴った資格を取ることができ、さらには業務も法律で拡大することができ、サラリーも増える。そのため、一旦就職しても、より高い資格と給料を得ようとキャリアアップが可能となる。翻って日本ではどうかというと、日本の歯科衛生士は現在3年の教育期間が義務づけられているが、その業務範囲は2年だった時と全く変わっていない。歯石除去にしても歯石は縁上と縁下で分かれているわけではなく、連続してついているのであるから、それを縁下はできないというのはおかしい。確かにアメリカのように局所麻酔を歯科衛生士がするというのは問題だが、歯周疾患、う蝕予防、あるいはレントゲン撮影についてはもっと業務範囲を拡大しても3年間の授業と実習があるなら、試験に合格すれば許してもよいと思う。

 一方、歯科助手の制度については、現在、歯科医師会などの講習会でその資格を取ることができるが、受講者は原則的には歯科医院の勤務している人に限られていること、きちんとした教育カリキュラムを組むのが難しいこと、第三者機関による試験を行っていないこと、民間の資格であることなどから、医療従事者として、医療システムに入ることができない存在であり、これを充実するには歯科医師会以外の民間の学校で1年間のきちんとした教育を受け、それを歯科医師会で厳正な試験をして県単位の資格を与える必要があろう。乙種歯科助手の講習時間は72時間とされているが、准看護士の1500時間のカリキュラムに比べて余りに少ない。逆に甲種歯科助手の講習時間は400時間と長いが、甲種、乙種の業務範囲、仕事は全く同じである。歯科も医療であるなら、受付、事務員以外の診療にタッチする従業員は何らかの資格をもつ構成になるのが望ましい。医科では看護士会の働きで、准看護の制度は次第に廃止され、看護士を中心として体制になっているが、歯科医院では依然としてある意味無資格の歯科助手という存在があり、医科に準じるなら歯科衛生士だけにするのか、人が足りないなら歯科助手をきちんとした資格とする必要があろう。そろそろ歯科助手に関しては抜本的な改革が求められる。