2009年12月25日金曜日

もうひとつの「坂の上の雲」



 有坂成章(ありさか なりあき)という人を知っているだろうか。日本陸軍の主要な歩兵銃として有名な38年式歩兵銃を作ったと言えばわかる人もいよう。元々は村田銃の後継として明治30年に開発された30年式歩兵銃の部品数を少なくして改良したのが、38年式歩兵銃で、太平洋戦争でも日本陸軍の主要歩兵銃として活躍した。

 うちの親父も、38年式歩兵銃を評して、アメリカ軍が機関銃でがんがん打ってくるのに、日本の銃は一発ずつしか撃てない、これではアメリカには勝てないよと言っていた。司馬遼太郎も同様なことを言っており、日本陸軍は明治に使われた銃で近代化されたアメリカ軍と戦うはめになった、何と不幸かと。

 兵藤二十八著「有坂銃」(光人社NF文庫)を読むと、こういった批判が的外れであるばかりでなく、日露戦争の真の勝因はこの30年式歩兵銃であり、これを開発した有坂成章に栄誉が与えられるとしている。

 日本では、30年式、38年式歩兵銃とされるが、世界ではArisaka rifleと言われ、いまでも命中率が高いのでハンティング用に使われており、人気も高い。銃の特性とは、基本的には火縄銃から変わることはなく、発射速度が速いほど、遠くまで、まっすぐに飛ぶ。撃ちだされた弾丸は、ゆるやかな弧を描いて飛ぶが、その最も高い点が「最高弾道点」と呼ばれ、その弾道点が低いほどまっすぐに飛び、命中率の高い銃だといえる。これを達成するためには火薬量を増やせばよいが、そうすると銃本体がよほど頑丈な構造でなくてはいけず、重い銃となる。もうひとつの方法は弾丸の口径を小さくすることで、有坂銃は後者の方法をとった。というのは、日本人は体格が小さく、重い銃を持てないこと、反射時の反動に耐えられないこと、必要な携帯弾丸重量を軽くさせることなどが理由にあげられる。また弾丸が小さいとそれに使う金属、火薬の節約となるからである。こうして30年式歩兵銃の口径は、日露戦争当時でも小さい、6.5mmとなった。最高弾道点は射程距離500mで1.20m、ロシアの1891年式歩兵銃が1.45m、ドイツの最新式1898年式ライフルが1.5mと同時代の銃に比べて最も命中率が高い。

 日露戦争当時、日本陸軍の野砲の性能はロシアに負けていたし、常に砲弾も不足していたが、こと小銃に関してはロシアに性能的に勝っていたし、弾丸製作も簡単なため十分量の予備があった。彼我の野戦軍が3000m以上離れた時はロシア軍が大砲性能で有利であったが、逆に距離400m以内になると俄然有坂銃の性能により日本軍が有利になった。そしてこれが日本軍の勝利をもたらした。余談だが最新のアメリカのM16においても5.56mmという小口径銃弾が使わている。

 なおボルトアクション式(一発ずつレバーを引いて玉ごめする)有坂銃は太平洋戦争まで使われたが、このタイプの銃は何も日本だけではなく、アメリカ、イギリス、ドイツ、ソ連でも使われており、完全に自動小銃化できたのは太平洋戦争中期以降のアメリカ軍のみであった。全歩兵の自動小銃化をするためには、銃製造、銃弾製造ともに大規模な生産体制が必要であり、当時これが可能であったのがアメリカだけであり、日本ではとても無理であった。また数撃ちゃ当たるという発想も日本軍にはなじめず、命中率からすれば自動小銃化は不必要と判断されたし、当時の主要作戦地は中国、ソビエトの平地部を想定しており、まさか南国のジャングルで戦うとは想定していなかった。

 日露戦争の銃および砲のほとんどの開発を天才有坂ただ一人に任せられた点でも明治の近代化と日露戦争の勝利がじつに綱渡り的なものであったことがわかる。若くても優秀なやつに仕事をバンと任せる明治の指導者の太っ腹さと、その責務を全うした有坂の姿もひとつの坂の上の雲でなかろうか。

*youtubeで「arisaka」で検索すると、アメリカでは普通に子供が銃をおもちゃがわりに撃っている。これを見るともともと好戦的な人種かと思ってしまう。弘前市在住の漫画家 山井教雄さんの近著「まんが現代史 アメリカが戦争をやめない理由」(講談社現代新書)も、狂ったアメリカ社会を痛烈に風刺している。

2009年12月24日木曜日

Q&A 矯正歯科治療はいつから始めるのがいいでしょうか?





 こちらに来院される、あるいは講演などでお父さんやお母さんから、「矯正治療はいつから始めるのがいいでしょうか」とよく質問されます。これに対しては、師匠である鹿児島大学名誉教授の伊藤学而先生はよく「始めたいと思った時期が一番いい時期です」と答えていました。私のこれに倣って「いいタイミングとは今です。子供に治療をさせた方がよい、子供が治療したいと思う時が一番いい時期です。」と答えています。

 現代の矯正治療では、手術も選択肢に入れるなら、成人になっても治療は遅いということはありません。下あごが上あごより大きく、噛み合わせが逆の反対咬合では、手術で下あごを後ろに下げることで治療は可能ですし、逆の上顎前突でも同様です。また治療期間や治療の大変さも、子供の時にするのとそう変わりません。

 子供のころから治療する場合は、一般的には二期の治療を必要とします。永久歯がすべてはえそろい、あごの発育が終了する中学2,3年までの時期を一期治療、その後の治療を二期治療と言います。あごに問題がある反対咬合では、あごの発育が完全に終了してから二期治療を始めるので上記時期よりは遅くなり、大体高校生ころから始めることになります。またでこぼこの症例では(叢生)、一期治療は経過観察し、二期治療から治療を開始する場合もあります。

 あごに問題がある反対咬合、上あごが小さい場合(下あごが大きい場合も)では、主として上顎骨前方牽引装置と呼ばれる、上あごの成長を促進させ、下あごの成長を抑制させる装置を用います。6-9歳ころがよく上あごが発育するため、この時期を中心に使います。また上あごが横にも狭い場合は、上あごを横に広げる上顎骨急速拡大装置というものを併用することもあります。またかみ合せが逆だと、上あごが大きくなろうとしても下の歯がじゃまする、逆に下あごが自由に大きくなるため、早めに前歯のかみ合せは治します。上顎前突では、下あごが小さい場合も多いのですが、機能的矯正装置と呼ばれるプラスティックでできた装置で下あごの発育を促進させます。成長期を通じて使用できます。軽度のでこぼこの症例では、上下のあごを多少拡大して、歯が生える場所を作ることも可能です。
 一期治療では、こういった主としてあごの問題も治すことに主眼が置かれます。また指しゃぶりやつばの飲み込み方の問題がある場合も、一期治療でこれを解消したいと思っています。

 二期治療では、マルチブラケット装置と呼ばれる装置が主として用いられ、歯の移動により治療を行います。この装置はそう何度の使用できないため、仕上げの治療としてこの装置を用います。一番自由度の高い治療法ですので、中学生以降の矯正治療と言えば、この装置をさします。

 簡単にいうと、一期治療は成長期に行われ、成長誘導という、成長を正常化することで正しい歯並びにするという考えに基づいています。小児歯科にいた私には、この成長誘導という考え方は馴染み深いものですが、実を言うと学問的にはコンセンサスは得られていません。あごに問題がある骨格性反対咬合については、上顎骨前方牽引装置にしても、あごの発育を押さえるチンキャップと呼ばれる装置にしても、その人のもつ遺伝的な骨格は変えられないというデータも数多くあり、その理論に基づく先生はいっさい使用しません。同様に上顎前突に使われる機能的矯正装置についても最近の研究では効果が少ないとされています。そうは言っても、これまでの私の25年間の矯正治療の経験からは、あごの発育をある程度はコントロールすることは可能ですし、一期治療をすることで、二期治療をしないですむケースや、手術をしないですむケースを数多く経験しています。私個人として、一期治療は重要と思っています。

 一期治療をすることで、二期治療を簡単にすることもできますし、6歳や7歳でその後の成長を完全に読み切ることはできないので、何もしないよりはやれることはやろうと考えています。ただあまり子供さんにとって負担が大きいと、肝心の二期治療の時にやる気がなくなりますので、できるだけ簡単な治療で、短期でするように考えていますし、明らかに骨格的な問題が大きい判断したときは早い時期から手術と決定して何もしません。

 個々の不正咬合の治療タイミングについては、仙台で開業している菅原先生の解説がまとまっています(http://shika1.com/orthodontic/02/index.html)。アメリカ矯正学会で早期治療の適用とされているものを紹介していますが、一般のひとには適用を判断するのは少し難しいと思います。子供さんの歯並びをみて、これは治療した方がよいと思ったなら、一度近くの歯科医院か矯正専門医院で相談してください。また患者さんが中学生以降であれば、是非本人ともよく相談してください。矯正治療するのは本人であり、その意見を無視して治療することはできませんので、本人が治療を始めたいと思った時期からでもよいと思います。ただ矯正治療は少なくとも2年以上はかかることは伝えていただき、高校卒業までに終了したければ、少なくとも高校1年生には治療を開始しないといけません。

 治療というと、すぐに装置をつけて歯を動かすことを想像すると思いますが、経過をみることも立派な治療であると考えています。乳歯を適切な時期で抜歯することで永久歯の正常な萌出を促すこともありますし、咀嚼指導や舌機能訓練などの習癖除去も重要です。早くから初めても、遅くから初めても、全体の費用としてそれほど違いはありません(一期の治療で終了するなら安くなることもあります)。乳歯列の反対咬合を除き、不正咬合は自然に治ることはありませんので、治したいと思うなら、自分でいいタイミングを判断する必要はなく、来院して相談していただければと思います。

 上記のビデオは、お金がなくて矯正治療受けられない子供達にボランティアで治療しようというsmiles change livesの活動を紹介したものです。残念ながら、日本ではこういった行為は難しいと思います。無料で治療しても、それ相応の収入があったと見なし、申告しなければいけないという税法上の問題があるからです。

2009年12月17日木曜日

冬の防寒着




 私が大学生の頃に、ちょうど「ポパイ」という雑誌が創刊されました。創刊号から夢中になり、この雑誌のポリシーにずいぶん感化されました。当初は、ロス、サーフィンといったアメリカ西海岸のファッション、文化の紹介が多かったのですが、次第にヨセミテ、ショイナード(パタゴニア)といったアウトドアの内容(当時はヘビーデューティーと言っていました)が多くなってきました。

 当時の冬のファッションというと、シャツはカンタベリーのラガーシャツ、ズボンはリーバイスの501、シェラデザインのダウンベストとマウンテンパーカ、靴はレッドウィングのワークシューズ、あるいはトニーラマのウェスタンシューズというのが理想的なファッションアイテムでした。ただ学生には高くて、とても手が出ませんでした。

 私の学生当時の冬の格好というと、カンタベリーのラグビーシャツと501は何とか買えましたが、ダウンベストはフェニックのナイロンシェルのもの、ワークシューズは無名のものと、貯金をはたいて買ったノースフェースのマウンテンパーカという格好です。ノースフェースのマウテンパーカ(写真上)は確か1978年ころ仙台のサイカワというスポーツ店で買った記憶があります。すでに30年以上たちボロボロです。綿、ナイロンの60/40という素材で作られ、緑、青、オレンジの3色があったと思います。その後、青森にくるまでは何とかこれでいけたのですが、さすがに青森の冬にはちょっときつく次に買ったのが、LLビーンのメインワーデンダウンジャケットです。素材はゴアテックスという空気は通すが、水は通さないという新素材になっています。確か、買ったのは1994年で、これもすでに15年以上たちますが、まだまだ現役で使っています。12月からの3ヶ月ほとんど毎日使用しており、冬の防寒着としてはなくてはならない存在です。多少、ダウンが抜け、またベンクロの部分もへたってきていますが、さすがにアウトドア製品のいいところで、頑丈にできています。

 そして最近買ったのが、エディバウアーのカラコラマパーカの復刻ものです。1970年代のものの復刻で、60/40素材を使っており、全体的なシルエットは昔のままです。もっこりとしたダウンパーカで丈の長いものです。タグまで昔のもので、凝った作りになっていますが、残念なことはジッパーまでTALON社製のダブルジッパを使用している点です。やはり耐久性の点からは日本の誇るYKKものを使用してほしかった。あと20シーズン何とか使っていきたいと思います。家内からはちょっとは違った色にすればと言われるのですが、どうもダウンパーカというと緑のイメージがあり、変化がありません。エディバウアーというとスカイライナーが有名ですが、私には丈が短く、復刻ものを見ても、昔に比べて薄くなった気がします。昔のはダウンをぎゅうぎゅうにつめ、パンパンになっていました。

 冬の防寒着としては、クールネックのシャツにフリースのジャケット、その上に上記のダウンパーカを着込みます。当然、下着は防寒用の長いやつ、さらにチノのズボンもフランネルの裏地付きのもの、靴はビーンブーツ、場合によってはソレルのカリブと、ほとんどエヴェレストか南極に行くような格好です。南極観測隊、エベレスト登山隊御用達といった文句にすぐに反応します。手袋も南極探検隊が使ったノルウェーのウールのものを使っています。体が寒さに慣れるどころか、鹿児島にいる時より弱くなりました。

 最近では、ナイロンシェルの軽いタイプのダウンが若者には、はやっているようですが、ナイロンシェルは破れやすく、水に弱いのが欠点です。ただ軽さと小さくできる点は非常にすぐれており、一昨年は母親にモンペルのダウンベストを買ったところ冬の室内着としてはセーターなどよりよほど軽く、暖かいと喜ばれました。昨年はダウンパーカを買ったところ、旅行に行くのに暖かいし、小さくできるのが重宝がられました。年寄りへのプレゼントとしてモンペルの軽量ダウンはとても勧められます。そういえば、昔作家の開高健さんも室内着としてこういった軽量ダウンを愛用していました。

2009年12月14日月曜日

土足厳禁文化



 つい先日オープンしたフランス、パリのユニクロは大盛況のようで、欧米では寿司、日本食なども含めて日本文化がクールと呼ばれて脚光を浴びているようです。とくにフランスでは若い子を中心にアニメがブームとなり、カワイイという言葉は世界語になり、ロリータファッションなどもブームになっており、東京原宿は彼らにとっては聖地のようです。

 私自身、北欧の陶磁器やインテリアが好きで、そういった雑誌はよく買います。スウェーデン、デンマーク、フィンランドの人々の家の紹介を見ていますと、ほとんどの家庭では家では土足ではないようです。大人はスリッパや室内靴、子供は靴下のままのようです。こういった屋内でも土足厳禁の文化は、私の知る限り、日本、韓国、タイ、イラン、トルコなどではありますが、欧米ではもともとなかった習慣ではないでしょうか。ここ10年ほどで急速に広まった習慣のように思えます。Leeという雑誌ではよくフランスの特集をしていますが、フランスでも土足のままの家は少ないようですが、そうかといってスリッパではなく、踵のない室内靴やサンダルを履いているひとが多いようです。一方、アメリカでは、これは留学生に聞いたことですが、屋内で土足厳禁のところはあることはあるが、非常に珍しいとのことでした。こういった家に行くと、そこのお母さんから靴を脱いで上がるように言われるようです。外国人が日本の家にくると、靴を脱ぐようにと言わないとそのまま上がると言われていましたが、今ではそういうことはありません。

 日本で生活し、土足厳禁の生活をした外国人は母国に帰っても、その習慣を続けるということも聞きました。ひとつに土足厳禁にすることで屋内が非常にきれいな状態に保たれることが、とくに主婦から喜ばれ、こういった習慣が広まったのでしょう。欧米では、ベッド以外では土足という従来型以外にも、部屋の中では履き替える、2階は土足厳禁という土足—土足厳禁混在型も多くあるようです。

 逆に日本では、昔スリッパはお客様用でしたが、今では靴を脱ぎ、スリッパに履き替えることが多くなりました。デイパックやダウンウエアなど、1970年代は若者のファッションについても、今や実用性の高さから年配の方にも愛用者が多いように思えます。グローバルーな時代になり、人々にとって便利なものは国を超え、急速に広がるようです。靴を脱いで生活する快適さ、部屋をきれいな状態でキープできる便利さから、屋内土足厳禁の生活習慣はますます広がるかもしれません。

 あと外人が見てびっくりするのは、クロネコヤマトのような宅急便で、自宅まで荷物を取りにきてくれたり、時間指定ができることに感激するようです。また日本のレンタルビデオの安さと便利さにはびっくりするようです。これらは欧米でも必ず成功すると太鼓判を押していました。個人的には、日本のカレーライス(インドのとは違います)は万国共通で人気があり、手軽な家庭料理としてルーが欧米でも普及すれば人気がでると思いますし、家庭用のホットプレートも野外のバーベキュー以外はみんなでテーブルの上で肉を焼いて食べる習慣がない欧米人からすれば、おもしろい調理器具だと思います。

2009年12月9日水曜日

六甲学院校舎


 六甲学院関係のブログは、関係者以外は全くおもいしろくないと思うが、意外にアクセス解析するとドイツ、アメリカなど海外から見ている人もいて、卒業生が多方面で活躍していることがわかる。卒業生で青森にいるのは我一人というしがらみのなさか、好き放題勝手に色々書けるのも楽しい。

 Youtubeを六甲学院で検索すると、70期生という私からすれば、子供の年齢より若い人たちが作った映画があった。タイトルは「バナナのちから」というもので、文化祭で上映されたようだ。B級映画というよりは、C級に近く、けっこう笑える。主人公のちょっと小太りの生徒、微妙にブニョブニョした体型で、70,80年代の台湾コメディーの主人公のような容貌で、といって見たわけではないのだが、この主人公の仕草がおもしろい。

 ほとんど校内で撮った映画だが、40年前とさほど教室もかわらず、ヒルケルさんが昔作った重い木製の机、椅子も健在である。体操服、夏服は昔よりおしゃれになっているが、生徒の気質はそうかわらず、男ばっかりの社会で暇をもてまし、山の中のオアシスで過ごしている。

 以前のブログでも述べたが、映画監督の黒沢清さんは私の一級上で、文化祭で彼の初監督映画を見たことがある。内容は前衛的で、出演者に女の子が出ているのがむしろ驚きで、そんなにかわいくなかった記憶もあるが、映画自体はいわゆる映画好きが自己満足で撮ったようなものだった。それに比べて「バナナのちから」は中学3年生ながら、観客を意識した作りになっており、商業映画としては完成しており?、巨匠黒沢監督に勝っているのではと思ってしまう。

 同級生の古澤くんは宝塚で「エリザベート」などのプロデューサなどをし、現在でも商業演劇の場で活躍しており、また大谷くんはお兄ちゃんの大谷亮介さんを手伝い、演劇のプロデューサをしたりしている。4期下には尾崎将也という脚本家もいて、結構演劇、映画関係者が六甲学院のOBにはいる。

 私の学んだ校舎ももうすぐ新校舎に建て替えられる。そういった点ではこの映画は古い校舎の雰囲気を残す記録になるかもしれない。来年公開の映画「ノルウェーの森」のロケにもこの校舎が使われるようなので、フランス人映画監督トラン・アン・ユンと六甲中学3年生、youtube再生回数22回の山川慎二司くん、両方の撮影による六甲学院の校舎が楽しめる。
*現在、上記動画は削除されています。結構おもしろいのに残念です。

2009年12月5日土曜日

漢名憲和と弘前



 「昭和天皇の艦長 沖縄出身提督 漢那憲和の生涯」(恵龍隆之介著 産経新聞出版)を読む。著者は先に「海の武士道」(産經新聞出版)という駆逐艦「雷」艦長、工藤俊作の感動的なドラマを著したが、本書は昭和60年に自費出版したもので、昭和天皇が台覧し、愛読していたとの話が伝わり、産經新聞から再販されたという経緯をもつ。

 沖縄という辺境の地に赴任した明治の教育者の気概とそれに呼応する生徒の話として、沖縄中学校長排斥ストライキ事件を伝える。当時秋田生まれの熱血教師下国良之助がいて、後に「沖縄の吉田松陰」と謳われるほど、生徒から慕われていた。この下国教頭の突然の免職辞令に対して、漢那らは退校願を出し、決死の覚悟で全校生をまとめあげ、ついには張本人の児玉校長の解任を引き出した。当然、漢那らは中学校中退で、高等学校への進学の道は断たれた。それが後日、海軍士官になる転機となったのであるが。今時、自分の将来をかけてまで先生の仇をうとうとする生徒がいるであろうか。またそうまでさせるような教師がいるであろうか。当時の沖縄の教育を含めて興味深い。

 弘前と沖縄は、距離は離れているが、関連は深い。琉球探検の笹森儀助、琉球学の加藤三吾はいずれも弘前の出身者である。本書にも二人の弘前出身者が登場する。ひとりは海軍兵学校時代の友人の中村良三と、もう一人は昭和天皇の渡欧随員である珍田捨巳である。漢那は海軍兵学校の入学時の成績が123名中の4位、卒業時は3位と非常に優秀であった。一方、中村は弘前中学始まって以来の秀才で、兵学校入学から卒業まで常にトップであったが、薩長出身者の多い海軍の中で自然に南北の辺境出身の両者は友人となったのであろう。

 当初、漢那が艦長を務めた御召艦「香取」の沖縄寄港の計画はなかったが、珍田が漢那の心情を慮った沖縄への寄港を決定した。結局、晩年まで昭和天皇は沖縄への行幸を希望していたが、これが最初で最後の沖縄訪問となった。宮古沖南下中に御召艦香取に飛魚が甲板にあがってきた事件があった。昭和42年の歌会で昭和天皇はこの事件を思い出し、 わが船に飛びあがりこし飛魚を さきはひとしき海を航きつつ と詠み、その思い出を後年まで鮮明に覚えていたようである。

 昭和60年の沖縄国体へのご臨席を要請された昭和天皇は「沖縄といえばすぐに漢那を思い出す。漢那のお陰で大正10年の沖縄にいくことができた」と発言し、国体出席への強い意思を示したが、結局は病気のため沖縄にいくことができなかった。また病床にあった天皇が、沖縄県民会議から送られた平癒祈願の署名簿の中に、漢那という名前があるのを見つけ、「これは漢和艦長の身内の者ではないか」と侍従に尋ねられたとの記述を紹介している。病床にありながら、こういった署名簿にもいちいちお目を通されていたかと思うと、感嘆する。それと同時に、昭和天皇にとって、皇太子時代のヨーロッパ訪問が最も楽しかった思い出であることが、このエピソードからも確認できる。漢那とともに珍田の津軽弁もその楽しい思い出のひとつであろうと推察される。

 後半は、漢那の政治家としての活動を紹介しているが、その中で著者は現代沖縄の政治状況に対して痛烈に批判している。本書を紹介したビデオでもその舌鋒はするどく、沖縄県人以外にはこんなことはとても言えないといった内容なので紹介する。

2009年12月3日木曜日

弘前観光ガイドプランナー養成講座





 本日、ふれーふれーファミリー ひろさきエスコートガイド(代表 一條敦子)主催による観光ガイドプランナー養成講座の講師として講演してきました。矯正歯科のお話はこれまで何十回も講演してきましたので慣れたものですが、今回は「弘前の生んだ偉人 山田良政・純三郎兄弟」というテーマの文化講演?で、いささか勝手が違い緊張しました。こういった雰囲気というのは、ふと思い出したのは、以前鹿児島で栄養士さん、養護教員を集めて食育、食習慣の講演をした時と同じで、一部観光コンベンション協会の男性を除き聴衆はすべて女性で、その熱心さには圧倒されるおもいです。

 来年度から青森にも待望の新幹線がやってきます。観光客の増加を見込んで、地元でもその受け入れ対策が立てられています。そのひとつに観光ガイド、これ自体は桜祭りの季節に地元ボランティアによるガイドが行われていましたが、これを発展させて個別観光客に合わせて地域全体のガイドをしようとするものと理解しました。お仕着せの観光案内にとどまらず、旅行客のそれぞれの要望に合わせた弘前市内のガイドをエスコートして行うもので、そのエスコートガイドにも広い知識と経験が求められます。そのため、こういった講義を聞くことにより知識を高めようとの狙いのようです。

 私も学会や純粋の旅行で、日本は熊本、大分、愛媛、山梨、群馬以外の県についてはすべて行ったことがありますが、旅行の思い出というと、名所、旧跡を見ることも大事ですが、いかに地元のひとと接することができるかが、大事だと思います。今まで一番記憶の残る思い出は、高校生の時に学校をさぼって一人で沖永良部島に行った折、地元の高校生、女の子と知り合い、そこの家に行き、すいかをごちそうになったこと、地元民しか知らないビーチで泳いだことなど、鮮明な記憶として残っています。

 ここでポイントとなるのは、普段あまりに日常化してしまい見過ごされているようなところがかえって観光客にとって面白く、青森市内でいうと今のアウガの地下の魚市場より昔の狭い魚市場の方が断然おもしろい。私の近くで言うと、まずは名曲喫茶「ひまわり」でしょう。そしてハイパーホテル横の岡野建具の「りんご脚立」、その横の情張り鋸やの「リンゴ用の鋸」、さらに行くと宮本工芸の「あけび細工」、さらに南横町の梅の湯、このあたりはしぶいところです。こういったところは観光客がふらりと来るところではないし、私自身もとくに用もないので行ったことはありませんが、エスコートガイドであれば交渉次第で見学ができるでしょう。絶対に通常の観光地廻りでは行けないところ、おまけのようなものが必要であり、それこそが地元に長らく住んでいるコネと人脈を駆使して、一般には開放していないところをガイドするのが、エスコートガイドに求められし、それを公的に支援するのが弘前市だと思います。

 さらに言うと、こういったガイドがいても、それを利用してくれるひとがいないと困ります。当然、幾ばくかのガイド料やガイドの飲食代は観光客持ちになりますが、弘前公園の入場料や他の施設への入館料は、ガイドはただ、一緒につれてきた観光客も20%オフといったサービスも必要でしょう。また旅行代理店やインターネットでの予約以外にも、ふらりとやってきた観光客のために駅あるいはホテルのフロントなどでも気軽に、前日にも予約ができることが望ましいでしょう。またゆくゆくは海外からの観光客、中国や台湾の人々にも、英語、中国語でのガイドも必要でしょうし、そういった人材なら大学にいくらでもいます。

 弘前は東北屈指の観光資源があり、これをどう活用するかが、町おこしのキーとなることでしょう。エスコートガイドの皆様の活躍が、今後弘前の活性化につながるものと信じています。是非とも若いひと達もこういった活動に興味をもってほしいと思います。

 以前ご紹介した禅林街の忠霊塔からの岩木山の風景です。ここからの眺めもいいですよ。

2009年11月29日日曜日

弘前偉人生誕地マップ


より大きな地図で 弘前偉人生誕地 を表示

 これまでこのブログで紹介してきた弘前の偉人の生誕地マップを作りましたので、紹介します。生誕当時の住所と今の町割りが違うため、正確ではない場合もありますが、お許しください。弘前市内は戦争による空襲がありませんでしたので、基本的には明治以降、旧市内は町割りそのものはたいして変わっていませんが、それでも番地は変わっていることが多く、文献上の生誕地の住所と今の地図上の番地が少し違うことが多いようです。最終的には他の資料をあたりながら、正確な番地を調べなくてはいけませんが、面倒なので、ここでのマップは大体この当たりと考えてください。例えば詩人の福士幸次郎の生誕地は弘前市本町5丁目あるいは59番地、通称橡の木となっています。橡の木というと当時の遊郭があったところと思いますが、現在の59番地とは一致しません。同様に詩人一戸謙三も本町71番地と言われていますが、現住所ははっきりしません。また本町というと日本貝類の先駆者、岩川友足太郎もここの生まれですが、今後調べたいと思います。本町も狭い範囲で多くの偉人が出ています。

 在府町などはブログ用の写真を撮りに行くことがよくありますが、住宅地なので不審者と思われ、在府町のお住まいの方々からずいぶん警戒されたこともあります。よそ者が、勝手に自分の家の写真を撮るのは、住んでいるひとからすれば、不愉快と思いますので、住民の方に会った場合は一言許可を得た方がよいでしょう。一方、ここに示した生誕地の場所、近くに今住んでいる人でも、この場所が弘前の偉人の生誕地とは全く知らないこともあります。現在、生誕地の標識があるのは、在府町の陸羯南、西川岸町の一戸兵衛大将と船沢の前田光世のみです。できれば、観光客のためにももう少し、標識を立ててもらいところです。この前、福島県の郡山に行きましたが、かなり金をかけた説明標識がいたるところにありました。弘前でも町々に町名の由来を説明した標識がありますが、観光客には好評で、ずいぶん熱心に見ているひとを多く見かけます。

 話は変わりますが、google mapは非常に優れたもので、よく活用しています。ただここで紹介したマップのような場合ではどうしても番号がついたアイコンを使いたいのですが、これが結構面倒です。マイアイコンというものを作るのですが、こういったアイコンを集めたHPがあり、そこからマイアイコンに追加して使います。ところがどうしたものか、貼付けても保存、印刷ができません。グーグルらしからぬサービスです。ついでに腹の立つこと。このブログは新型のmacbook-proで書いています。家で使っているi-bookが7年になり、バッテリーが30分も持たないので、さすがにここらが買い替え時と考え、新しいmac-bookを買いました。画面が非常にきれいになり満足していますが、コネクターが全く異なり、例えばファイヤワイヤーやプロジェクターにつなぐコネクターも小さくなり、前のが合いません(病院の2年前の買った一世代前のMacbookさえも合いません)。またマイクロソフトのオフィースもインテルに変わり、書き込みができず、最新のオフィースを買うはめになりました。マックの場合、スカジーからUSB、OS9からOS10,パワーPCからインテルと改良の度に、ユーザーは困惑させられますが、それ以上により魅力的なものになっているのがすごいところです。

2009年11月28日土曜日

矯正歯科卒後教育



 日本の卒後研修、それも国立大学歯学部の矯正歯科について考える。

10年ほど前だったか、国立大学の歯学部でも大学院大学化がなされた。大学卒業後は1年間の卒後研修を経た後、医局に入局するわけだが、その際、大学院の入学を勧められる。大学では毎年大学院数の定員があり、それにどれだけ充足しているかで大学が評価されるからだ。矯正歯科でも入局希望者はほとんど大学院入学を条件づけられるため、研修医の1年に加えて、大学院の4年を終了して初めて医局に入局できる。

 私がいたころは、当然研修医制度もなく、大学卒業後は医員として医局にすぐに残る。給料は少ないがなんとか自活できるため、新人研修や研究の手伝いをしながら、臨床を学ぶ。大学によって違うが、だいたい2年くらいの新人研修が行われ、鹿児島大学では当時、グループ診療、グループ全体で患者をみる、ことが行われており、すべての患者の検査と治療をこの新人が行う。当然、外来長およびグループ長の指導を受けながらであるが。1年間に数百人の患者を見ることになるため、ほとんどの症例をこの期間に体験できる。一方、このグループ診療の欠点は、患者の治療を断片的にみるため、ひとりの患者を最初から最後まで見ることができない。認定医の取得のために、私が外来長のときに、担当医制度を導入した。それでも最初の2年間の研修期間中には50人程度の患者は配当できたし、私自身もやめていった先輩の引き継ぎ患者も含めて200人程度も担当していた。

 当時は、医員と大学院生は半分くらいであったが、それでも同じシステムで両者を教育するのは大変難しかった。大学院生では4年で研究を終了しないといけないため、かなり研究に時間をさかれ、臨床には手が回らない状況であった。一方、医員には、医局の雑用が押し付けられ、また研究費も大学院生に重点的に割かれるため、なかなかできない。私のような叩き上げで大学院も出ていない者にとっては、実に腹が立つことが多かった。というのも大学院を出て、いよいよ雑用をしてもらおうという時期にやめる人も多く、そうかといって、大学院卒業した時点では、その期間4年間を医員として過ごしたひとでは、臨床能力にずいぶん差があるからだ。海軍士官学校出たてのパイロットと叩き上げのパイロットの関係に近い。

 今や矯正歯科に入るひとはすべて大学院生であるため、新人教育も統一されてきていると思うが、それでも研究と臨床を同時にするのは難しく、4年いても臨床のみ2年に足りないかもしれない。また大量の大学院生も受け入れるため、研究テーマも種が尽きてしまい、同じようなテーマのものが多くなってしまう。最近では、大学院の論文も英語で英文誌に投稿されることが求められるの、ますます基礎のそれも結果のだいたいわかったものが多くなってきている。これ自体は研究者の基本を学ぶ上では、重要であるが、もともと歯学部の大学院生は臨床を学ぶためにはいったので、こういった基礎研究には興味がなく、博士号をとると、その分野の研究からおさらばするひとも多い。また理学部などの他の理系大学院に比べると、歯科ではただ一編の研究、論文で博士号が取得でき、その意味でもおそまつと言える。
 アメリカ、ヨーロッパでも、医学、歯学は臨床学であり、まず臨床を学ぶのが中心となる。将来、大学教授を目指すものだけが、ある程度臨床をマスターした後、興味のあるテーマを見つけてPh-Dの資格を目指す。そのため欧米の研究者で日本の博士号に相当するPh-Dを持つものはほとんどいない。彼らからすれば、外科医になぜ組織培養の研究がいるのかということだ。一方、日本では明治以来、医学部では博士号の権威は高く、大学は講師以上では博士号がないとなれない、病院でも部長には博士号がないとダメ、給料も違った。
 ところがここ数年、日本でも博士号より、専門医を重視した考えが増え、今や医学部では大学院にいくよりは、より色々な病院を廻り、臨床能力を高め、専門医を取得するのを目指すひとが増えてきた。患者にとっても、医者にとっても、病院にとっても組織培養の専門家よりは心臓外科の専門医の方が役立つからである。当たり前のことである。

 こういった状況であるなら、大学も思い切って臨床中心の卒後教育を考える必要があろうが、大学教授自体が旧来の大学院を出た博士号所持者なので、なかなか変革ができないのが現状であろう。外科系は、体力的には30、40歳台が最も吸収が早く、この時期、4年の大学院教育は時間の無駄なような気がする。矯正歯科についても、大学6年、研修医1年、大学院4年の計11年を経て、初めて専門医教育のスタートにたてる。あまりにも廻り道ではないであろうか。こと臨床について言えば、アメリカの3年の専門医教育のレベルはおそらく大学院卒業後5年くらいのレベルであり。アメリカで3年で行われていることが、日本では実に10年かかることになる。さらにアメリカでは一般大学卒業後、一旦就職し、金をため、医学部に入り、卒業後は一般医に勤務して、金をため、今度が専門医になるということもよくあり、同じ10年かかったとしても、臨床医としては人間的な成熟度では格段の差がでる。

 神戸大学医学部の整形外科からIPS細胞の先駆者となった山中教授のようなひとも出ているため、医歯学での基礎を中心とした大学院教育を一概に否定はできないが、時代の流れから、臨床を主体とした卒後教育のあり方が問われている。特に矯正歯科の分野ではそもそも見る患者がいないという抜本的な問題を有しており、欧米のような料金を半分にするといった仕組みを作らないと、矯正歯科の専門医の能力は低下していき、専門性自体が無意味のものになると思われる。

2009年11月21日土曜日

山田兄弟22



 学会で福岡に行った折に、書店で「革命をプロデュースした日本人」(小坂文乃著 講談社)を買った。孫文の辛亥革命を金銭的に助けた梅屋庄吉の評伝である。これまで梅屋のことは資料が少なく、あまり知られていなかった。これは梅屋の遺したノートに「ワレ中国革命ニ関シテ成セルハ 孫文トノ盟約ニテ成セルナリ。コレニ関係スル日記、手紙ナド一切口外シテハナラズ」と記し、自分の行ったことが公になることで迷惑になる人を慮ってのことであったようだ。そのため梅屋の遺した資料はこれまであまり紹介されることがなく、その事跡もはっきりしていなかった。死んでもう100年も立つのであるから、日中友好の礎となった先祖を紹介しようと書いたのが本書である。

 これを読むと、梅屋は当方もない額、本書では今の金額で一兆円を超える額を革命に援助したとしているが、これはやや大げさにしても、相当な額を革命に寄付したようだ。それも全くの見返りを期待せず。ここらに明治の人の偉大さがある。ひとが誰かを援助する場合、何らかの見返りを、仕事上あるいは、単に名誉かもしれないが、求めるのが普通であるが、梅屋は金には几帳面な性格でありながら、孫文の革命に同調し、中国人民に幸福のために、自分の私財を投げ打った。

 「醇なる日本人 孫文革命と山田良政・純三郎」(結束博治著 プレジデント社)では、梅屋庄吉、トク夫妻は山田兄弟と革命の同志ではあるが、直接的なかかわり合いがないとしているが、小坂の本によれば、梅屋夫妻と山田純三郎の接点はかなりある。まず第一に同書の載せられている大正3年松本楼で開かれた日華同志懇親会の写真にも山田純三郎の姿が見えるし、1913年の孫文が日本滞在時の写真(p154)にも同様に梅屋と純三郎は一緒に写っている。さらに梅屋夫妻というと孫文と宋慶齢との結婚式を斡旋したとして有名だが、その結婚には孫文の中国人同志の多くは反対して出席しなかったが(孫文はそれまでの妻を離婚したので)、純三郎は結婚式には出席していることから、当然梅屋とも面識があったのであろう。1913年に孫文は第二革命に失敗して日本に亡命するが、その隠れ家として頭山満が東京赤坂雲南坂の海妻猪勇彦宅に匿ったとされているが、本書では大久保百人町の梅屋の自宅にも長期間いたようである。純三郎は当時、孫文としょっちゅう会って第三革命の指示を受けていたようであり、孫文が梅屋の所にいたならそちらで会ったはずである。そういったことから孫文の日本亡命時代には、梅屋夫妻と純三郎はかなりの交誼があったものと思われる。

 1916年の宋慶齢から梅屋の妻トク宛の手紙(p209)には「私たち(孫文夫妻)はしばらく上海にいます。しかし、私宛のお便りは、これまで同様、山田純三郎先生気付で書いてください。大事な事や私の夫の名前は書かないでください。陳氏(陳其美)が袁のスパイに殺されたには山田先生のお宅でのことでしたから。」となっており、孫文や宋慶齢との連絡、革命資金の授与が山田純三郎を介して行っていたことがわかるし、陳其美の暗殺には純三郎宅での内通を匂わせている。

 梅屋は晩年、孫文の像を寄付するため1929年に中国に渡るが、上海に出迎えにきたのが、山田純三郎であり、ここでの2年の滞在中にも何度か会っていると思われるし、また梅屋死後、妻トクは娘千世子一家と終戦まで上海に住んでいたことからここでも純三郎との交流があったに違いない。

 こうしてみると、梅屋夫妻と山田純三郎の接点は多く、著者の祖母千世子が生きていればもっと詳しい交流の実像がわかっただろうと思われた。

2009年11月20日金曜日

第68回日本矯正歯科学会大会



 11月15日から19日まで日本矯正歯科学会大会参加のため、福岡に行ってきました。学会自体は11月17日と18日でしたが、今回は専門医更新試験を受けるため、長期の出張となりました。

 日本矯正歯科学会の専門医制度は、試験に合格すれば自動的に更新されるものではなく、5年ごとに更新試験を受けることになっています。ジャンルを問わない3症例(保定終了2年以上)を提出して、合否を検討します。一応、今年度から更新受付を始め、今年は1症例の提出でもよいのですが、平成23年度までには3症例を提出して合格しなければ、資格剥奪となります。他の専門医制度では学会に参加し、ポイントを集めれば更新できるのに対して、きびしいものと言えます。幸い3症例提出して合格しましたので、しばらく安心です。今回は2006.6から1年間に終了した症例の中から選ばなくてはいけませんでしたので、3症例といっても準備は結構大変でした。患者数もこれからは減っていき、更新も難しくなってくるでしょう。

 学会自体は、やや停滞した感じがしました。参加者は以前に比べて増えたようですが、研究内容もあまり新鮮みがなく、我々臨床医からすれば、それほど臨床に使えるものはありません。大学の教官自体が学位を基礎でとったせいか、大学の研究自体も臨床とは直接関係ない、研究のために研究といったものが多く、なおかつ理学部などの基礎から見れば陳腐な内容です。いつも思うのですが、歯学部という専門学校のようなものが、医学部や理学部のような大学に背伸びして見栄を張っているような気がします。基礎をやるなら、他学部の基礎講座に行き、そこで研究をして基礎の学会に出すべきだし、歯学部の教官から指導を受けるより、よほど効率的ないい仕事ができると思います。福岡というとかって高濱先生という大変ユニークな教授が九州大学にいました。機能、遺伝と咬合、顎骨というテーマで大変興味深い研究をされ、その後も中嶋教授が継承されています。一度、高濱先生の指しゃぶりの講義があり、コレクションしている何百枚写真を提示され、指しゃぶりの実際、手の指のみならず、足指から、アクロバティックな指しゃぶり法など教授いただいき、驚いたことを思い出します。こういった不正咬合はなぜ起こるのかといった根本的な問いに対する研究は以前多かったのですが、最近ではほとんどありません。

 矯正学会というと、業者展示も大掛かりですが、今回は会場が離れていたため、行ったり来たりが大変でした。昔は、この2日間で年間の売り上げの半分を稼いでいたため、熱気がありましたが、今では事前にほとんどファックスやメールで注文するため、熱気はかなり薄くなりました。業者の人も顔なじみが多いのですが、転職が多く、それも他の矯正会社に移るため、誰がどこの会社かしばしば混乱します。この商売は覚える商品が多すぎて、一人前に成るためには時間がかかりますし、矯正治療自体もある程度知識が必要なため、どうしても同じ分野の会社に務めるのでしょう。私自身はこういった矯正材料の業者も患者さんの治療にはかかせない存在だと思いますし、より安全でよい商品を開発してくれることで患者さんにとっても助かります。

 学会も年に一度、友人にあう機会ですが、今回は遠方のためか、学会場が広いためか、あまり会えませんでした。

2009年11月8日日曜日

山田純三郎没後50年墓前祭



 本日、11月8日の午後1時から弘前市新寺町の貞昌寺にて山田純三郎の没後50周忌墓前祭が行われた。秋日和の暖かい天気の中、東京から3名、青森から9名の、計12名の参加者があり、ささやかではあるが、思いのこもった墓前祭が行うことができた。霊前には今回の墓前祭に合わせたように発刊されたちくま文庫「孫文の辛亥革命を助けた日本人」(保阪正康著)を供えた。感無量である。

 東京のTさんの弘前、つがるへの思い入れは強く、2000年には山田良政没後100年の墓前祭もHさんのご尽力で行われ、今回もすべてのお膳立てをしていただき、Tさんには本当に感謝する。

 山田純三郎は1960年2月18日に84歳の生涯を全うして東京で死去したため、その墓は東京にあるが、今回こういった形で早めではあるが、生まれ故郷の弘前で何とか50周忌をできたことは、供養にもなったろうし、弘前市民としての面目も立った。おそらく来年も弘前市としては何の行事もないため、次の記念事業をするとなると75年、100年記念事業と随分先になる。今回弘前で何もなければ本当に恥ずかしいことであった。

 墓前祭終了後の座談会では、前日台湾の駐日大使の相当する人がやってきたこと、また中国政府の関係者もくる予定であったことが報告された。台湾、中国間の関係は近年急速に接近してきたが、それでも台湾政府と中国政府が日本で会う機会は、中国革命に参加し、孫文の忠実な同志の碑がある、ここ弘前以外あまりないであろう。

 その座談会では、司馬遼太郎の「津軽には陸羯南を研究するひとはいない」という批判に対して、地元弘前の有志が発奮して、各種の陸羯南の紹介がなされ、ようやくここ数年で陸羯南の認知度が高まり、市民権が得られたが、山田兄弟についてはまだまだだとされた。全く同感である。弘前の友人に聞いても、山田兄弟のことを知っているひとはほとんどいないのが現状である。台湾からきた患者さんのお父さんのSさんも、台湾では宮崎兄弟(民蔵と滔天)については非常によく知られているが、山田兄弟ことを知るひとは少ないと言っていた。当日配布された資料(陸奥新報?)には津軽奇人こ物語 山田純三郎の巻で、中国問題の専門家Sさんの言葉として「滔天は文章が巧く、浪曲の名人の桃中軒雲右エ門と組んで有名だが実際は何もしていない。上海の山田純三郎宅に泊まり、毎日のように酒ばかり飲んでいた」と書かれている。これは宮崎滔天のあまりにこき下ろした言い草で、中国革命に対する滔天の貢献は非常に大きい。ただ中国革命を通じて実際に参加して、孫文亡き後も、孫文の遺志を受け継ぎ、革命精神を継承したのは山田良政であり、純三郎である。宮崎滔天がよく知られているというより、むしろその功績に比べて山田兄弟があまりにも評価が低いのである。これは山田兄弟自身が名を後世に残そうとする気持ちが全くなかったことによるであろうし、地元津軽、弘前のひとがあまりに冷たかったことにもよる。存外、地元弘前より東京、あるいは台湾、中国のひとの方が興味があるようで、この貞昌寺の碑も案内するとびっくりするようである。

 このブログではこういった弘前の偉人を紹介してきた。これらのひとに共通することは、皆名誉も金も求めず、義のためにその生涯を捧げた。笹森儀助は沖縄のひとのために、山田兄弟は中国のひとのために、珍田捨巳は海外日本人移住者のために、津軽とは全くかけ離れた世界の思いを馳せ、奮闘してきた。そこには津軽という風土に根ざした共通の精神がある。青森というと田舎と若い人は劣等感を抱くかもしれないが、100年前に郷土の先輩は今よりもっと僻地にありながら、視野の広い生き様をしてきた。自信を持つべきで、是非ともこの津軽から、弘前から、できれば東奥義塾から世界に羽ばたく人物を将来でてほしいと切に願う。

2009年11月4日水曜日

どこの歯科医院がいいのか



 どこの歯医者さんがいいのかとよく患者さんから聞かれます。当然、私ども矯正歯科医の立場、紹介していただくという立場からは、どこがいいとは明言することはできませんが、内心ではここはやめた方がいいというところも実際にはあります。

 矯正歯科というのは、基本的には自分ところで一般歯科はやっていませんので、虫歯の治療や抜歯はすべて紹介して治してもらうことになりますし、最初の検査でこれまでの治療の善し悪しを判断します。私の場合は、小児歯科に3年いました関係から、子どもの虫歯治療については少しうるさい気がします。

 歯科というのは、医科と違い、かなり職人的な要素があります。どれだけ細かく、きちんとした仕事をするか、それも現行の保険制度ではどんなにきちんと治療しても雑に治療してももらえるお金を同じですので、治療に対する誠意はこういった倫理観、職人魂に依存します。ところが開業医ではサービス業の要素もありますので、かなりきちんとした治療がなされても愛想がないところは、人気がないといった現象がおこります。口の中をみても、それはきちんとした治療が保険でなされ、レントゲン写真をみても見事な根っこの治療がなされていて、感心して患者さんに聞くと、ここは無愛想だから今は違ったところに行っているという患者さんも多いようです。

 例えば、前歯にレジンという充填物を詰める時、色が合わなかったり、つめたところに段差がでることがあります。職人の先生は気に入らないからもう一度再治療するわけですが、患者さんからすればまた痛い思いもするでしょうし、時間もかかり、こういったところはもう行かなくなります。また根っこの治療、これは最も歯科医の力量を示すものですが、きちんとした治療をしようと思うと、大変時間もかかりますし、リーマと呼ばれる針のようなもので長時間、根っこをかき回されるのは苦痛でしょう。ただこのあたりが難しいのですが、ベテランの先生は失敗なく、すぐにできても、新米の先生では失敗ばかりして、時間もかかります。だから丁寧で時間を掛けるというのも、必ずしもいいとは言えないのです。

 私が歯科医の技量を評価する点は、ひとつはきちんとした定期検査をしているかという点です。現在の歯科治療では、とくに歯周病の治療には3か月ないし6か月ないしの定期的なフォローアップは必須であり、これをきちんとしているのが重要です。次に根っこの治療の良否です。根っこの治療はブラインドで治療するためかなり難しい技術が必要です。ただ外からは見えないことから、手を抜こうと思えばいくらででも抜けるところです。根っこの先まできちんと充填されているかがポイントです。術後のレントゲン写真をきちんと見せてくれるところ、痛くなくても定期的にレントゲンを撮りチェックするところがいいでしょう。被せたり、つめたりするのを評価するのは難しいのですが、あまり歯科衛生士や歯科助手がやっているとろころは感心しません。確かに先生よりベテランの助手の方がうまいかもしれませんが、やはり責任の所在となると先生が処置すべきだと考えています。さらに転住した場合、これまでの治療経過を資料とともに渡してくれ、転住先の先生を紹介してくれる先生がいれば、これは名医です(矯正歯科ではこれは当たり前ですが、一般歯科では非常にめずらしいと思います)。

 最近では、根っこの治療に自信がないので、歯を抜いてインプラントをするといった先生もいます。こういった先生と話すと、根っこの治療より統計的なデータからインプラントの方が予後がいいといった論を展開します。確かにその先生がきちんとした根っこの治療を行い、20年以上その患者の経過をみていき、一方、インプラントでの治療でも20年の予後をみて、両者の比較からそういう結論に達したのであれば、説得力があります。開業して5年や10年の先生でこういったこと言うのはおかしなことです。

 職人というのは、自分の仕事に誇りをもつと同時に、できないことはしません。私には自信がないし、よそでやればと言うか、あるいは紹介するものです。患者さんのいいなりにならないし、患者さんに問題があれば怒ります。こういった態度は、患者さんに誤解を招くかもしれませんが、私はこういった職人気質の歯科医が好きです。こういった歯医者さんははでな宣伝もしませんので探しにくいかもしれませんが、きっとすぐそばにいると思います。

2009年11月1日日曜日

自衛隊次期戦闘機



 飛行機ファンにとって、いま最も熱い話題は自衛隊の次期戦闘機(FX)のことでしょう。当初は、何がなんでもF22ラプターだと言っていましたが、どうも無理なようで最近ではF4ファントムをもう少し使って次期戦闘機の決定を先送りするようです。

 F22ラプターはあまりに性能がすごすぎて(キラーレーシオが1:100、つまり100回対戦しても1機しかやられない)、開発国のアメリカですら、政治的なリスクが大きく、持て余しぎみの機体です。そのステルス性能はほぼ1cm、虫くらいの大きさにしかレーダーには写らないようで、空戦技能に自信を持っていた自衛隊のパイロットでさえ、実戦訓練では「F15でF22の演習相手を務めるのは極めて不愉快になる。なぜなら戦闘態勢に入っても見つけることはできず、何も撃つことなく、突然「お前はすでに死んでいる」と言われるのだから」と、そのすごさに驚嘆しています。

 こういった機体だけに、日本への譲渡については、中国との関係悪化を危惧するアメリカ政府からは反対され、すでに生産自体も打ち切ったようです。中国からすれば、日本がF22をもつことは、大変な脅威で、核兵器に匹敵するものと見られています。現在、開発中の空母にしても、日本がF22と既存のF2を持つことで、いつでも沈められる存在になってしまうからです。

 FXを巡る日米の駆け引きについては、「蘇る零戦 国産戦闘機VS F22の攻防」(新潮社 春原剛)にくわしく書かれています。アメリカが日本を守るための3つのタブーというのがあり、まず筆頭は核兵器、二番目に航空母艦、三番目にスパイ衛星だそうです。北朝鮮のミサイル問題に対処するとして三番目のタブーは無くなっていますし、今後作られるDDH22と呼ばれる護衛艦はまさしくヘリコプター空母で、この2番目のタブーも冒していることになります。さすがに核兵器の保有はあり得ないと思いますが、原子力潜水艦は保有を望んでいるようです。

 この書には、現在開発中の国産戦闘機「心神」のことが書かれています。そのステルス性能については、あまり知られていませんが、ほぼサッカーボール大で、F22に比べるとかなり落ちますし、次期戦闘機候補のF35の4cm大に比べても見劣りします。4.5世代と言われるヨーロッパーのタイフーンでさえ、1m大であることを考えると、これから開発するものとしてはお粗末な気がします。ただステルス性能はエアーインテークの形状が原因であることがわかっているようで、強力なエンジンを搭載することで解決できるようです。著者は自前の国産戦闘機の開発を願いながら、次の第6世代、これは変形するステルスの無人機というものらしいが、その日米共同開発を提唱しています。

 防衛費というのは、生命保険料と同じ性格を有します。何もなければ、掛けたお金を全く無駄になりますが、そうかといって何も掛けないと万一の時に困ってしまいます。財政が豊かでない折、どれくらい掛けるか、それも戦闘機は寿命が30年はあるので、30年後を見越した判断が求められます。とくに隣国中国が金に任せて大幅な軍国主義に走っており、一方、アメリカは中国を警戒しながらも、経済面では無視できない国になり、日本への安全保障は軽視されてきています。また中国政府のJRのリニアカーへの執着は、主として航空母艦へのカタパルトへの転用を考慮したものであり、民間企業も知らないうちに、安全保障に関わることになります。

 こと防衛費については、これまで比較的正しい判断をしてきたと思います。ラプター20機とF35を50機、それと空母と原子力潜水艦、これが防衛関係者の理想的な防衛装備だそうですが、これだけで数兆円以上の予算が必要で、例え見栄で最新兵器をもっても、韓国のように金がなく、中途半端な戦力しかないのでは困ります(独島級揚陸艦 金がなく1隻しか揃えられず、搭載ヘリコプターやホーバクラフトも買えない F15K 安く買ったせいか中古部品が使われ、故障しても部品がない)。軍事力のパワーバランスはギリシャローマの時代から外交の要であり、難しい状況に民主党政権も立たされています。。

2009年10月29日木曜日

日本の矯正歯科医の実力


 こんな田舎で開業していますが、何人かの海外からの転医症例があります。アメリカから3名、韓国から1名です。この少ない経験から海外の矯正歯科医の臨床能力を語るのは難しいと思いますが、友人からの情報や海外留学生からの情報をまとめると、アメリカでの治療はかなり大まかな印象を受けます。患者数が日本に比べると多いためか(年間患者数が平均でも200名、日本では数十名)、スタッフに任せて、どちらかというと並べるだけといった症例が多いようです。一日に数十名の患者をさばくとなると、流れ作業的にアシスタントにドクターが指示して、ワイヤーを替えるといったところです。そのため、治療の細部にはあまり凝らないようですし、症例的にも比較的簡単なものが多いようです。

 あごのずれがある場合は、簡単に手術を併用しますし、歯根もがっちりして、あごの発育も日本人より良好な場合が多いようです。そして比較的、古い治療法に固守する傾向があり、いまだに金属製のブラケットも多用されています。日本では患者の希望もあり、白色の審美ブラケットが主流ですが。また見えない矯正治療、舌側矯正もアメリカではめんどうなためか、それほど普及していません。

 それに比べて韓国からの症例はブラケットのつける位置やワイヤーのベンディングなど、実に日本的で、きちんとした臨床態度に好感を持ちました。日本の矯正歯科医と同じような感覚で治療しているのでしょう。

 日本人の矯正歯科医は、手先の器用さや、几帳面な性格から、世界でもその臨床能力は高いと思います。おそらく日本矯正歯科学会の専門医試験を通った先生方は、語学のことは除いて、アメリカやヨーロッパのボード(資格試験)は十分に通ると思いますし、実際通っています。かってはアメリカが矯正歯科のトップでしたが、今やある意味先進国ではほぼ臨床的には変わらなくなってきているようです。そうはいっても矯正歯科のメーカの多くはアメリカですし、情報発信元はアメリカの雑誌(アメリカ矯正歯科学雑誌)ですので、海外の矯正歯科医にとっても、アメリカがスタンダードになっています。一方、新しい知見はほぼアップデートで情報交換ができますし、材料もそんなに違いがありません。以前、青森県の矯正歯科医が三沢に米軍基地に行ったことがあります。ベースには矯正歯科医が1名、口腔外科医が1名、一般歯科医が3名いましたが、私達矯正歯科医の会話は、主として最新の治療法についてであり、一般歯科の先生はおまえらの言っていることは全くわからないと嘆いていました。矯正歯科ジャーナルという雑誌に時折、各国の矯正歯科医のインタビューが載っていますが、ほとんど違和感を感じません。おそらくその先生にあっても、この症例はどうするか、どんな材料を使うのかといった会話がすぐにできると思います。言葉を別にすれば、欧米の矯正歯科医も日本の患者を見ることができますし、私もイランで開業することもできます。こういった意味では矯正歯科医はグローバルなものと思います。

 ただ世界的に日本の矯正歯科医の最も遅れている点は、その専門教育にあるようです。欧米では3年ないし4年の専門医のコースがあり、ここではかなりきちんとしたカリキュラムが組まれ、多くの症例を配当されます。それに対して我が国では、どちらかというと、学者を育てる教育になっており、歯科大学卒業後、矯正歯科を学ぼうとしても、大学院にいくことになります(国立では)。現代の大学院の研究は欧米誌に投稿するようになっていますので、必然的に基礎の研究をすることになります。その基礎研究の合間に配当された患者を見るわけですが、昨今の患者減に伴い配当患者数も激減し、博士号はとれても臨床能力はさっぱりだということになります。また教官も兼業を禁止しているせいか、臨床能力が低いようですし、若い先生に患者をまわすため、助教以上の教官ではほとんど臨床をみないという現象もおこっています(患者数が足りないため、若い先生に優先的にまわす)。欧米では、教授も含めてプライベートの診療所をもっていることも多く、またベテランの開業医が大学の教育することも多いようです。将来、教授を目指すひとだけが博士号を取得するようです。

 それでも若い先生の中には、少ない症例を、それはそれはきちんと考え、丁寧に治療する人もいて脱帽します。私たち世代はどちらかというと、数見て、その経験で適当にやっていることが私も含めて多いのですが、こういった若い先生方はさらに症例も積み重ねるうちに、世界でも最高の治療技術をもつようになるでしょう。

 写真のアイススケートのキムヨナさん、矯正治療終了してきれいになりました。ずいぶんと口元が引っ込みました。抜歯症例でしょう。

2009年10月22日木曜日

セファロ分析



 矯正歯科の検査というと、口、顔の写真、口の模型、口全体の大きなレントゲン写真(オルソパント)とこれは矯正歯科特有のセファロというレントゲン写真をとります。このセファロというのは、正式には側貌頭部X線規格写真と呼ばれ、一定の距離から撮った、規格した大きさの顔の横からのレントゲン写真です。大きさが一定に撮られているため、過去のものと比較することで、あごの発育などを測ることができます。

 まずこのセファロをシャーカステン上に置き、上下のあご、歯、頭蓋などを、紙にトレースしていきます。ついで種々の測定法の沿う基準点、基準線を書き込み、角度や、長さを計測しています。標準あるいは平均値との比較からずれた数値を取り出し、下あごが大きいとか、上あごが小さい、上の歯が出ているなどを調べていきます。矯正歯科では非常に重要な診断です。

 昔の医局教育では、このセファロのトレース、分析が非常に厳しく、エンピツは2Hで、線を引くときは息を止めて、一筆書きでといったことが注意されました。また同じ写真を時間、日にちをかえ、透写させ、ずれがないかチェックされたりしました。現在では、こういった操作をコンピューターの画面上でできるようになっていますので、簡単にはなっていますが、基本は変わりません。

 ここでの基準点、基準点は実際にない頭の中の架空の点を意味しますので、どこに基準をとるかが難しいところです。ある程度の臨床医になると、ほぼ一致してきますが、最近の若い先生では、コンピューターにたよるのか、ほとんど素人のような透写図を書きます。それ故、今でも専門医試験ではトレースを持参させます。トレースだけである程度診断能力が判定されるからです。

 ただここで問題になるのは、いわゆる標準値(平均値)、あるいは標準図形というものです。昔はアメリカのものを使っていましたが、さすがに白人と日本人は違うだろうということで、1950年代ころから日本人の標準値が作られるようになりました。正常咬合で、バランスのよい顔をした人を集めてセファロを撮り、その値を標準値、標準図形にしました。正常咬合をともかく、バランスのよい、いい顔というのはかなり主観的なもので、それも一大学のごく少数の被験者を対象にしたものです。確か、20-50人くらいのサンプルです。これが日本人を代表する値かというとはなはだ疑問です。アメリカのある分析法の基準は一人のハリウッドの若手女優さんのものであるというのは有名な話ですが、他の方法も統計学的な意味でいうなら、似たり寄ったりです。

 多くの集団では、計測値は正規分布を示すことが知られ、平均値付近が一番数が多く、それから離れるにつれ、数が減ってきます。日本人の70%以上は不正咬合ということを考えると、正常咬合で、バランスをとれた顔の人のみを対象とした調査は、歴代のミス日本を集めて平均したようなもので、日本人の基準値というより理想値と言った方がよいかもしれません。

 一方、日本顔学会の東京大学原島博先生の研究、これは色々な世代、人種、職業の人の平均顔を算出したものですが、平均顔というのは実にバランスのとれた顔で美男、美女であることがわかっています。私の個人的な意見ですが、案外矯正歯科で使う標準値も、こういった意味では日本人の平均を表しているかもしれません。

 顔に対する評価、とくに横顔は、一般集団、歯科医、矯正歯科医では好かれる顔は割合一致しており、口元があまり突出せず、バランスのとれた横顔が好まれますが、矯正歯科医はやや一般集団よりオトガイがやや突出し、口元は引っ込んだ白人型の横顔を好むようです。

2009年10月11日日曜日

大学芸術学部を弘前に





 東奥義塾の創始者、弘前市長であった菊池九郎は、雪深く、中央から離れた、貧しく、辺鄙な青森県には何もないのではと問われ、「それでも人間がおるじゃないか」と答えた。青森県は人材の宝庫である。とくに芸術分野では、はっきりとした四季と長い冬が影響するのか、数多くの芸術家を生んでいる。北欧がそうであるように、長い冬は芸術家を生み、育てる基かもしれない。

 画家では、日本画の工藤甲人、現代アートの旗手奈良美智さん、女子美大学長の佐野ぬいさん、現代絵画の小野忠弘さん、版画家天野邦弘も弘前の出身であり、先頃亡くなった抽象絵画の村上善男さんも長らく弘前生活していた。音楽関係でも、現代音楽家の下山一二三さん、イタリアで活躍中の若手ピアニスト堀内亮さん、変わったところではドラえもん、仮面ライダー等作曲した菊池俊輔さんや鈴木キサブロー、三浦徳子、亜蘭知子さんなどの大ヒット歌謡曲の作詞、作曲家もいる。

 また弘前市内には40軒以上の美術ギャラリーがあり、音楽についても、弘前オペラ、弘前交響楽団、弘前バッハアンサンブルはじめ、27の音楽サークルが活動している。日本演劇の父と呼ばれる小山内薫は、その父が弘前藩の藩医であったことあり、古くから弘前では演劇活動が盛んで、現在でも劇団雪国、劇団弘演、弘前劇場、劇団夜行館などがあり、とくに弘前劇場は国際的にも知名度の高い地域劇団として知られている。

 人口17万人の地方都市としては、驚くほど文化的な活動が活発な街であるといえよう。こうしたことから、この弘前に大学の芸術学部を作ったらどうであろうか。先に述べた弘前の芸術家の多くは、東京の芸術大学に進学した。というのは、今は山形に東北芸術工科大学ができたが、当時東北地方に芸術大学がなかったからである。高い授業料とともに東京での生活はかなり費用がかかったであろう。

 先頃、弘前駅前の複合商業施設「ジョッパル」が40億円の負債を抱えて倒産した。こちらの新聞では駅前中心活性化のカナメのこの施設をどうするかが議論になっている。はっきりいってこれだけの負債を払うことはもはや不可能と思われる。ダイエー撤退後、売り上げの何パーセントを家賃として払うという極めておいしい条件でテナントを集めてきたが、それでもがらがらで売り上げも増えなかった。こういった施設に再度同様な商業テナントが入ることは難しいし、負債を返すことはできそうにない。むしろ大学を誘致してきて安い家賃で貸す方が地域としてはうるおう。というのは大学を誘致できれば、学生、教員が地元に落とす金も期待できるし、何よりも若者が地元を離れることが少なくなり、あるいは県外からも若者を呼べる。

 ジョッパルは、地下1階、地上4階のかなり大きな床面積を有し、5学科、120名くらいの学生は十分に収容できる。地下は音楽など遮音を必要とする活動にはもってこいだし、4階の市民ホールはそのまま演劇の講義、実習に使える。最近の芸術大学というと郊外の山に囲まれたといったところをイメージしがちであるが、やはりアクセスがよく、近所に喫茶店や飲みやなどがある中心街がよい。その点でジョッパルは街に中心にあり、バス、電車、車のアクセスもよい。4学年、教員も含めて500人を超える若者が集める意義は弘前市にとっても大きい。

 学科としては、絵画、工芸、音楽、演劇、インテリアの5学科くらいでどうであろうか。奈良美智さんなど教授で来てもらえば、それだけでも全国から学生がくる。また津軽塗、ブナコ、裂織、打刃物などの伝統工芸も発達しており、こういった校外での授業も可能であろうし、既存の工芸製作所とのコラボも可能であろう。またブナをはじめ、木材も豊富なところで、家具の設計や製作にも向いている。

 過去に本多庸一、阿部義宗、古坂 カン城(父が弘前出身)、笹森順造の4名の弘前出身の院長を輩出し、初等部が戦時中に疎開してきた青山学院大学に来てもらうことが一番望ましい。すでに青山学院女子短期大学には芸術学科があり、ノウハウはあるであろうし、ブランド名で全国からの学生を集めることができる。

 芸術学部なんだから、AtoZ 奈良美智展のように学生自身が教室を作ったら面白いし、金もかからないであろう。授業料100万円×480の4億8000万円と私学助成金8000万円の収入では、かなり学校の経営はかなりきついし、何より東京の大学が地方にくる抵抗もあるだろう。青森県、弘前市がかなり誘致に積極的な姿勢をみせないと実現は難しい。

 負債だけでなく、大学誘致にはかなり煩雑な手続きが必要で、こういった構想も実現の可能性はほとんどない夢物語だが、何らかの将来のビジョンをもった弘前市、青森県の対応が望まれる。
 

2009年10月8日木曜日

アメリカの食事事情



 今、アメリカからの交換留学生を預かっています。これで2度目なので慣れそうなものですが、これがなかなか大変で家内もストレスが貯まっているようです。

 留学生の食事には、家内もずいぶんと気を使っているようですが、あちらでどんな物を食べているかは気になるところです。そんなことで先日、この留学生にアメリカの食事状況について聞いてみました。買い物は月に一度、スーパーに買い出しに行き、車いっぱい、冷蔵庫2台分を一気に買うようです。多くはインスタント食品、冷凍食品で、生野菜は買わないようです。これを冷蔵庫一杯に詰め、各自が帰ってくると勝手に冷蔵庫から好きなものを取り出し、電子レンジでチンするといった案配です。朝はコーンフレークなどのシリアルに牛乳をかけ、昼は学校の食堂でマックなどを食べ、夜はピザ、スパゲティーやラザニアなどを食べるようです。履歴にわざわざ日曜日は母方の両親を呼んで、ファミリーデーを開くと自慢して書いていましたが、要するにこの日だけ、少し料理をして、みんな一緒の食べるというわけです。他の家では、こんなこともしていないようで、各自がめいめい勝手に冷蔵庫から好きなものを取り出し、食べているだけで、お互い何を食べているのか、いつ食べているのかもわからないようです。

 ニュージランドに行った日本人の留学生のホームスティー先も、このような状況で、遠慮してあまり冷蔵庫から取り出せず、いつも空腹だったとを聞きましたし、イギリスもこうだったという声もあります。

 友人のアメリカ人、彼は日本に来てすでに20年以上になりますが、に聞きますと、1960年代くらいはまだ家で食事をして家族で食べるのが一般的だったのが、1970年くらいから冷凍食品が発達し、また主婦も外で働くようになり、次第に自分のところで食事を作らなくなったようです。今では家で料理をするのは、ごく一部の料理好きのひとで、それも毎日作ることはないようです。さらに郊外のスーパーではこのような要望に沿うように、中国産の安くて、大量のいわゆるジャンク、インスタント食品が山のようにあり、自分で作るより安く、うまいため、ますます拍車がかかっているようです。

 日本でも子どもも忙しく、なかなか家族そろって食事をするのは難しくなってきましたが、まだアメリカほどではありませんし、外食も多くなったとはいえ、食事は自分のところで作るというところが多いように思えます。

 欧米のこのような食事事情を、むかしは郊外型の大型スーパーによるものとされていました。日本のように近くにスーパーや店がなく、車で郊外の大型スーパーでまとめ買いするからだと。しかし、近年、日本でも欧米なみに車で郊外のスーパーに買い物に行くというのは、きわめて当たり前のことになりました。

 こうなった理由のひとつにはアメリカ人の無頓着さ、おなか一杯になって食べられれば何でも良い、作るのが面倒だ、自分の好きな物を食べたい、味音痴などによるものでしょうが、米が主食でないことも理由のひとつでしょう。米食を中心としたアジア各国では、欧米ほどインスタント食品の家庭での普及はなされず、多くの家では自分のところで作ると思います。米を主食にする限り、いつも炊くという操作が必要となります。またご飯そのままでは味が薄いため、一緒に食べるおかずが必要となります。カレーだったり、コチジャンだったり、醤油味だったりしますが、何らかのおかずが必要で、これ自体はインスタント、レクルト食品でもいいのですが、どっちみちお米を炊くならおかずも作ってしまえということになります。
 
 アメリカで販売される多くの冷凍食品は,安くて、量の多いものとなると、必然的に中国産、それも何が使われていないかわからないような代物で、これを自分の子どもに毎日食べさせるというのは、子どもの健康を考えると問題があります。また好きな物だけ勝手に食べさせるというのも、偏食や肥満の原因になるでしょう。家族一緒に食べること、家で料理すること、これは家族の基本だと思いますし、実現が困難というほどのものではありませんが、アメリカでもそういった動きはありません。スーパーマーケット、食品業界自体がHome-cookinngを,値段や便利さで排除していっているのかもしれません。近未来の日本の姿として食糧の自給率と共に、こういった食事事情も考えておかないといけない問題です。

2009年10月5日月曜日

世界の傑作機




 本屋で文林堂から出ている世界の傑作機「ドルニエDo335 プファイル」を購入しました。こういった空想兵器に類する試作機もなかなか捨てがたいもので、つい買ってしまいます。とくにドイツ機は、さすがジャーマン魂というか、射出座席など凝った作りをしていて、こんなものをよくつくったなあとつくづく感心します。写真をみると、単座の戦闘機としてはとてつもなくでかく、F-86セイバーなどの戦後のジェット戦闘機よりも大きく、最新のF-16に匹敵する大きさです。日本人ではこんなでかい機体を発想することさえできないし、ましてエンジン2機を串刺しにする機体はあることはあるのですが、実際に作ってしまうことなど到底不可能です。

 文林堂との付き合いは長く、小学校の高学年から中学生ころから、航空ファンを毎月買っていました。今と違い、読者のプラモデルの作品が誌上で紹介され、プラモデルの作り方も載せられていました。当時は今と違いモデル雑誌はほとんどなく、航空ファンが唯一の存在でした。そのころはプラモデルと混じり、ソリッドモデルの作品も載せられ、その完成度の高さには驚き、一度朴の木で挑戦した記憶があります。

 親が歯医者をしていたため、手先の器用さを習得できるプラモデルは奨励され、ほしいというと買ってもらうことができました。実にうれしいことでした。といってもそれほど高いものは買うことはできず、主としてレベル社の1/72シリーズの第二次大戦機やタミヤの1/100のジェット機シリーズなどの100円から200円くらいのものをよく作りました。たまには大枚をはたき、モノグラムの1/48やレベルの1/32も作りましたが。作り出すと、次第に塗装に興味がわき、その資料として買い始めたのが「世界の傑作機」シリーズです。当初はこの雑誌も灰色の表紙に飛行機の図面を書いた、あっさりしたものでしたが、次第にカラー化され、今では相当な部分カラーで表現しています。このシーリズの白眉は、折り込みのイラストで、多くのものが野原茂さんによって描かれていました。その緻密な表現と色づかいは、本当にすばらしく、間違いなく野原さんは本邦屈指の航空機イラストレーターでしょう。

 本屋でこの雑誌、とくに日本の軍用機を見かけると、ほとんど購入していますが、最初のころはその名の通り、世界の傑作機を紹介していましたが、今のシリーズになるとこれが傑作機かと疑うようなものも扱われるようになっています。飛行機ファンにとっては、かえってこの方が購買意欲をそそられます。アラドAR234ブリッツ、コンベアB-36ピースメイカー、さらにはブラックバーンバッカニアや、ロシアの機il-2シュツルモヴィック、ポリカルポフ1−16などしぶいところをついてきます。もはや模型製作の参考書というよりは、航空機マニアの路線になっているようです。内容も、当初は開発経緯や実戦記事などが中心でしたが、最近ではメカ中心になり(試作機では実戦もないわけですが)、私のような長年の航空ファンもチンプンカンプンの高度なオタク内容になってきています。

 すでに40年以上、途中中断期もありましたが、ほぼ2か月ごとに発刊され、今のシリーズで135巻、これまでも何度も違うシリーズが出たと思いますので、一体全体、全部で何冊だしたか見当もつきません。文林堂は主として航空機を扱った雑誌を発行している会社ですが、さどかし航空機オタクが集まっているのでしょう。鉄道ブームで、鉄道オタクはよくテレビに登場しますが、存外飛行機オタクは見かけません。といっても世界中で最も多いのは車オタクと飛行機オタクで、この雑誌も海外でも販売されています。ここまでくれば、未知の領域、第一次大戦機に突入してほしいものです。それこそ傑作機と呼べる機体がまだ残っています。また DVD付きとは言いませんが、文林堂ホームページに雑誌を買った人のみログインでき、そこで動画や音を楽しめたらと思います。どうでしょうか、文林堂さん。実物のエンジン音だけでも聞いてみたいのですが。

2009年9月21日月曜日

山田兄弟21


 残念なこととうれしいこと。来年2月18日は山田純三郎の没後50年にあたる。そのため、昨年から弘前市の関係者に「山田純三郎没後50年企画展」を企画、提唱してきたが、どうも実現は難しいようである。

 山田兄弟の資料の多くは、現在愛知大学に保存されている。昨年、愛知大学主催で山田兄弟企画展が弘前で行われたが、展示場の関係からその資料の一部を紹介したにすぎず、私個人としては他の資料も見たいと考えていた。その折、愛知大学の同窓会、霞山会の方や愛知大学の先生にお会いして、50年企画展の構想を話すと、大変協力的で、いい感触をもった。さらに幸運なことに、愛知大学の新学長は弘前の出身で、家内の親類でもある。

 ある人にこの企画展のことを話すと、どうしても企画展をしたいなら個人でやればと言われたが、山田兄弟と孫文の資料は中国や台湾では貴重な国宝級の資料であり、それを個人で借りることはできない。やはり責任をもって保管できる施設、市ないし県が正式に依頼しない限り、大学としてもおいそれと貸し出す訳にはいかない。

 台湾では馬総統により、従来の中国との関係が見直され、どちらかというと国民党寄りの山田兄弟についても、台湾—中国政府としては重要な存在になってきている。事実、今年は孫文を描いた映画(孫文 百年先を見た男)も上映中で、日本—中国—台湾をつなぐ孫文と山田兄弟の存在にも今後脚光があてられてくるであろう。そのため企画展において中国、台湾政府の協力を得ることは十分に可能であり、中国、台湾の博物館にあるにある山田兄弟の資料の貸し出しも可能かもしれない(台湾には戦後、山田純三郎が寄付した孫文関係の資料がある)。

 さらに没後50年というのは生前の純三郎を知っているひとがぎりぎり生存している可能性があり、この企画展を通じて新たな資料の発見も期待できる。

 どうも市の関係者には、戦前の中国革命の協力者=満州=軍国主義といった発想があるのか、できるだけ戦前の歴史にはふれたくないといった気配がある。太宰や石坂洋次郎などの小説家はいいのだが、政治運動に関わった、特に戦前の軍部に関わった人はだめだということのようである。

 2000年は山田良政の没後100年に当たり、霞山会が主体となりシンポジウムを開催し、立派な本も出版された。この時も、地元弘前では何のイベントもなく、唯一東京在住の有志が企画して貞昌寺でしのぶ会が開催され、台湾政府からも大使にあたるひとがやってきた。今回の50周年を逃すと、節目の年は後何十年先になるが、このまま何もないのは弘前市民としては恥ずかしいことである。

 うれしいこととして、今年8月に保阪正康さんの「孫文の辛亥革命を助けた日本人」(ちくま文庫、2009)が筑摩書房から出版された。これまで、山田兄弟について書かれた本はすべて絶版になっており、古本やなどで探さないと読めない状況であった。これではなかなか世間の関心を引くことはできない。そんなこともあり、保阪さんが1992年に出版した「仁あり義あり、心は天下にあり 孫文の辛亥革命を助けた日本人」(朝日ソノラマ)の文庫化、新書化をお願いするため、版権を持っているであろう朝日新聞の書籍部に昨年メールした(くわしくは山田兄弟14を参照にしてください)。一市民からの要望に、朝日新聞からの反応は当然なく、何の連絡もなかったが、この度偶然であろうが、この本の文庫化が筑摩書房でなされた。没後50年を迎える時に保阪さんの著書がこういったかたちで出版されたのは本当にうれしいし、山田兄弟の供養になった。感謝するとともに、多くの方が読まれるのを期待する。できれば地元、弘前の紀伊国屋書店の月刊売り上げベスト10くらいに入るように、読者の方も買っていただき、一人でも多くの方が郷土の先人の生き方に触れていただきたい。。

2009年9月13日日曜日

珍田捨巳 9



 昭和天皇の評伝としては、ハーバート ビックス著「昭和天皇」などがあるが、日本人には昭和天皇はあまりみじかすぎてこれまでまとまった日本人による評伝はなかった。福田和也著の「昭和天皇」は現在3巻まで発刊されているが、これまでの評伝の中では最も傑出したものである。当たり前のことであるが、昭和という時代を最も体現したのが、昭和天皇であり、その人生はそのまま昭和日本を写している。この本の第二巻は主として、摂政時代の昭和天皇とヨーロッパ外遊のことがくわしく述べられており、興味深い。ただこの本の難点として、あるいは一般的な評伝についても当てはまるが、写真が少ないのが残念である。著作権などの問題が多いのだろうが、写真のリアリティーをもっと活用してほしい。

 天皇自身も後に語っているが、その人生で最も楽しかった思い出は、このヨーロッパ外遊であった。それまで宮中という籠の中で育った天皇にとって、この旅行ほど自由で、のびのびとした体験はなかったのであろう。この外遊を統括してすべての段取りをしたのが珍田捨己であった。老齢にさしかかった珍田にすれば、天皇は自分の孫ほどの関係であるが、初の国際舞台へのデビューをつつがなく行うのが、珍田の責務であり、また珍田や原敬、牧野ら西洋的な立憲君主制を目指す人たちにとっては、天皇教育の集大成でもあった。正直失敗し、天皇の恥となるようなことがあれば、それこそ切腹を覚悟したであろう。

 この任にふさわしい人物として原敬や山県有朋ら、政府重臣が一致して推挙したのが珍田であった。その語学力や海外での豊富な経験が理由であったろうが、言うべきことはいい、それでいて人を明るくさせる珍田の性格が愛されたのであろう。ヨーロッパに行く船中で珍田が天皇に西洋流の礼儀作法を教える場面を福田は  「貴婦人役の二荒芳徳の前に立ち、微笑みつつ頭を下げ、その手をとり、腕をくんで、胸のあたりに手がくるように姿勢をただす。「こうでございます、殿下、試してきてくださいましぇ」とズーズ弁で云う」と描く。ユーモラスなシーンである。それまで国際マナーなど全く知らない天皇にすれば、スピーチの仕方から立ち振る舞いまで、こまごまとしたことを覚えなくてはいけなく、若い天皇にとっては閉口したことであろうが、珍田のおかしさに救われたことであろう。
 
 イギリス国王はじめ、各国の首脳と天皇との会談は、機密事項が多く、ほとんど珍田が通訳したと思うが、ジョージ五世が語り、それを珍田が津軽弁でぼそぼそと天皇に通訳し、天皇がしゃべり、それをまた国王に通訳する、こんなやり取りがあったのだろう。天皇の宿泊所のウンザー城にジョージ五世が一人で突然現れ、珍田、天皇、国王の3人で話しあったことがあった。後に天皇は「ここでイギリスの立憲政治のあり方を話しあい、それ以降、立憲君主制の君主はどうなくちゃならないかを始終考えていたのであります」と語っている。珍田自身演説はうまくはなかったが、アメリカ領事であった時はウイルソン大統領やブライアン国務長官とは私生活でも本当に懇意であり、国籍を問わず珍田の人柄が誰からも愛された。そういった意味で昭和天皇のヨーロッパ外遊の通訳としてこれほど適した人物もいなかった。

 後年、昭和天皇が生涯で最も楽しい記憶を思い出す時、珍田のぼそぼそした津軽弁も脳裏によぎったにちがいない。戦後、自分の子ども秩父宮と津軽家の華子妃殿下の婚儀に際しても、存外珍田の縁が関係しているのかもしれない。

 写真上、イギリスのロイド・ジョージ首相と歓談中の昭和天皇、右端に珍田の姿が見られる。写真下はエディンバラ訪問中の昭和天皇、右隣に珍田がいる。ひげの人物は閑院宮載仁で、当時陸軍大将として随行した。いくら天皇の叔父とはいえ、主役を差し置きややしゃしゃりですぎであろう。

2009年9月6日日曜日

顎顔面矯正治療


 鹿児島市で開業しているくろえ矯正歯科の黒江和斗先生の「顎顔面矯正治療のすすめ」の講義を8月2日(日曜日)に青森県歯科医師会館(青森市)で受けてきました。

 ちょうどねぶたの時期で、大阪から母親が来ていたため、講演後の黒江先生の懇親会に出られず残念でした。

 黒江先生は、私が鹿児島大学歯学部矯正歯科学講座にいた時の指導教官で、私にとってはいわばお師匠様になるわけで、何でも言うことを聞かないといけません。黒江先生とはそれ以外にもねずみの実験、十島村歯科巡回診療、ヨットなどでもお世話になり大変感謝しています。典型的な薩摩勇人で、小さいことにはくよくよせず、誠実な性格で、歯科医より戦国の武将の方がよかったかもしれません。ご自身も飛行機が好きで、ライセンスを持ち、友人の飛行機であちこち行っていました。一度、アメリカから来たウイリアムソンという矯正医を飛行機に乗せて、大学病院を周回したことがあります。医局員は診療中でしたが、それに気づき、診療をやめ、窓から手を振ると、それに答えて黒江先生の飛行機も病院前の空でウイングを振ってくれました。確か、お父様も戦時中は輸送機のパイロットで、あの有名な陸軍トップエースの黒江保少佐も親類だと聞きました。血が空を飛ぶのが好きなのでしょう。また素潜りも得意で、海中をそれこそ20、30M、2分間くらい潜ります。すごいものです。

 今回の講演会では、主として急速拡大装置による上あごの拡大による治療方法の説明でした。大変きれいな症例で、よく非抜歯でなおったなあという症例が何症例かありました。改めて人間の適用能力に驚きます。

 上あごについては、正中口蓋縫合が癒合していなければ、かなり拡大は可能です。急速に拡大することでこの縫合部が開き、その状態で置くと、同部の骨化が起こるため、安定しています。問題は下あごの拡大です。黒江先生も下あごの拡大は直立といっていましたが、拡大されることであくまで歯が直立するわけで、歯槽骨は拡大しません。ウイルソンカーブという正面から見て、左右の奥歯の咬む面を結んだカーブはあごが狭い人では急で、あごの広いひとでは緩くなっています。ゴリラなどではほぼ平行になっているようです。つまり下あごの拡大は最高で下の奥歯を平行にするのが限界だということです。それ以上に拡大して奥歯の咬む面が外を向くような状態はあり得ません。また骨による拡大でないため、頬からの圧力、舌の圧力などの平衡関係によって安定性が決定してきます。広げても頬の圧が強いと再び狭くなります。上あごはかなり拡大するし、安定もするが、下あごの拡大には限界があり、不安定だと言えると思います。

 拡大するのか、歯を抜くのか、この判断は相当難しく、一種のひらめきで決めてしまいます。黒江先生なら拡大を、私なら抜歯という選択の分かれが出るかもしれませんが、矯正専門医ではこの診断の幅、治療の仕上がりなどはある程度の範囲に収まっています。ある程度拡げても戻ってしまうようなら、抜歯にすればよいだけですが、あまり非抜歯にこだわるととんでもない噛み合わせになってしまいます。

 講義の中で、離乳期の発達過程として、離乳初期(5〜6か月)の舌の動きは前後的であるのに対して、離乳中期(7〜8か月)では舌を上下に運動させて食物を押しつぶすことが可能になり、哺乳期、離乳期の舌機能の発達不良が後の舌の突出癖や運動異常につながるようです。育児書を見ると、生後5,6,7か月用の離乳食はそれぞれ、これとほんとにきめ細かく離乳食のメニューが載っています。またベビーフードの種類も本当に多く、これほど手をかけないと赤ちゃんが育たないのかと考えさせられます。逆にあまり手がかけすぎることが舌機能の発達を阻害するのかもしれません。

2009年9月2日水曜日

忠霊塔



 禅林街にある長勝寺に母と家内と一緒に行ってきました。20年ほど前に一度行ったことがありますが、本堂が改築されていて前の印象とは違うようです。以前はもっと雑然とした印象でしたが、今回はすっきりした、いかにも禅寺といった感じになっていました。

 団体さんに紛れ込んで、ガイドさんの説明を聞いていましたが、あまりに熱心に色々なところを案内してもらい、無料で案内してもらうのもばつが悪く、途中拝観料を払ってきました。

 出口の山門の右手に高い塔が立っています。忠霊塔といって太平洋戦争で亡くなった人々を慰霊するためのものです。戦前、多くの県で忠霊塔や忠魂碑が作られましたが、戦後GHQの命令でこういった戦争を思い出す施設はほとんど取り壊され、日本でもこれだけ立派な忠霊塔が残っているところは少ないと思います。何でも仏舎利塔ということにして、GHQの命令を無視したようです。せっかく浄財を集めて作ったのに壊すのをおしかったのか、あるいはなんで戦争に負けたからといってすぐに壊さなくてはいけないのかと思ったのかもしれません。いかにも反骨の津軽らしいところです。

 案内板は大分さびが出て、読みにくいのですが、ノモンハンやニューギニアなどの激戦地の土や石を持ち帰り、それを壁の材料に使ったようです。一階はかぎがかかって公開されていませんが、以前行ったことのある人によれば部屋になっていて、写真などを展示しているようです。

 弘前城内の護国神社内にも多くの碑が立っており、英霊の御霊を重んじるつがるの人々のけなげな気持ちが偲ばれます。母親の兄、私のおじは下士官で、インパール戦で戦死しました。二等兵からの叩き上げで、中国戦線の後、インパールに転戦して、そこで亡くなりました。出征にあたり祖母はおじに「これでチャンコロを切ってはいけませんよ。チャンコロでもおとうさんもおかあさんもいるのだから」と言って、軍刀を渡したようです。また戦中、おじの戦友が祖母のところに来て、おじが戦死したと一旦報告したようですが、途中人違いに気づいて、再び祖母にさっき言ったのは間違いだったと訂正したようです。祖母は喜びのあまり、近所の八幡神社に飛んで行って、お礼に行ったようですが、帰るとうなだれて、戦死したひともいるのに私だけ、こんなに喜び、本当に恥ずかしい、とぽつりともらしたようです。結局は戦死し、ぬか喜びだったわけですが。

 私の父も東京歯科専門学校(現東京歯科大学)から学徒で出陣し、昭和16年に中国戦線、敗戦時は黒龍江のソ連国境付近におり、そのまま捕虜になり、モスクワ南方の捕虜収容所に2年間いました。都合6年間出征したことになります。戦争経験者の多くは口がかたく、この当時のことはめったに語りませんが、酔ったときなどに昔の話しがでてきます。本当に濃い記憶があるようで、細部にわたって記憶しています。戦争という生死がかかった状況は、何十年たっても鮮明な記憶としてあるのでしょう。

 忠霊塔の奥には、岩木山を眺める絶好のスポットがあるようです。今回は行きませんでしたが、天気のいい日に一度行ってみようと思います。

2009年8月20日木曜日

紺ブレ(ネイビージャケット)



 商売柄、会合に出席する際には、スーツよりはブレザーの方が楽なので着る機会が多い。何種類かのブレザーを使い回して着ているが、そのうち最も古い、20年前に買ったDAKSのブレザーがさすがにくたびれてきて、袖やあちこちが破れてきてしまった。愛着もあるのだが、家内がみっともないということで、ここ1年ほど東京や大阪に行く折にあちこち探して来た。

 この歳になるとかっこいいというよりは楽なのがいいため、着てみて楽なもの、楽なものばかり探してきた。結論としてはナチョナルショルダーで肩のパッドが入っていないもの、ウエストが絞られていないもの、肩が立体裁断で少し前身ごろのものが楽であった。

 以前、Cantarelliというイタリアの大手既製服メーカーものが気に入っていたが、尼崎にあったNAKAGAWAという店がなくなったことと(最近復活した)、どうもこのメーカーは着心地がいいのだが、耐久性に欠け、扱いも荒いせいか、ところどころ糸がほつれてきている。若い時にあこがれていたブルックスブラザースもスーツはもっているが、中国製で値段の割には高い?あるいはブランド名が価格の半分かとも思った。同様に一着もっているJ-PRESSのブレザーもアメリカントラッドの伝統を守り、着心地は楽なのだが、これも私の金銭感覚からすれば質の割には高い気がする。

 そんなこんやで、悩んでいるうちにDAKSのブレザーのやぶれがさらに大きくなり、今年の夏には買わなくてはいけないことになった。インターネットで調べるとリングジャケットという大阪のメーカーの裁縫がよく、非常に評判が高い。帰省の折に一応見てみようということで、大阪梅田の阪急ナビオのメンズ館に行って来た。ところがこんなところにはめったに行かないせいか、まちがってリングジャケットの隣のBatakという店に入ってしまった。東京代官山の店で体にフィットして実に着心地がよい。私の場合、袖丈が長い場合が多いのだが、ここの服はセミオーダーになっているためジャストフィットにできそうである。一回りしてから隣のリングジャケットも覗いてみたが、ここも評判通り着心地が良い。ここらが潮時かと思ったが、どちらも7万円をこえ、ブレザーに7万円かと思うとさすがに躊躇して、またブルックスブラザースやJ-PRESSも覗いてみたが、同様な値段で裁縫など上記の服に比べてかなり劣る。

 リングジャケットの服を安く売っている大阪本町の船場センタービルのトラッドハウスフクスミも覗いてみようと船場に久しぶりに行った。船場はおじさんが昔店を出していたため30年以上前にはよく行ったのだが、久しぶりに行くと随分凋落した感じであった。道行くひともまばらでかっての盛況ぶりはない。

 このセンタービルの8号館にある小さな店がフクスミである。店内には所狭しとスーツとブレザーが置かれている。コンブレでいいのはないかと言うと年配の店主が出してきたのが、同店のオリジナルのMessengerというブランドジャケットである。よくできているし、着心地もよい、さらに値段が安く、上記ブランドの半分以下である。話しをしていると30年前のブルックスブラザースのブレザーを出してきてくれ、見せてくれた。ここで昔受託生産していたようである。こうなると値段に弱い私は春夏ものと秋冬ものの2着を買ってしまった。

後日、丁寧な梱包で自宅に送られて来たが、生地もよく、裏星といった手縫いの箇所もあり、袖の仕上げも丁寧で、縫製もしっかりしている。工場名は伏せているが、案外リングジャケットで作っているのではと思ってしまう。おしゃれな男性雑誌にも取り上げられないが、ブランド名にいっさいこだわらない人は一度行かれることをお勧めする。かってAVON HOUSEというメーカーが好きで、こづかいを貯めてハリスツイードのジャケットを買ったが、25年たってようやくこなれてきた。フクスミのハリスツイードジャケットもデイーテルがすごく、ほしい商品だ。
(http://www.rakuten.co.jp/fukusumi/394885/458756/)

*書いていて調べると、BATAKは英国スタイルにこだわるメーカー、リングジャケットはイタリアの服作りを追求する注目されている国内メーカーで、結局買ったのはもろアメリカントラッドで、おしゃれ好きの人からは笑われる話です。

2009年8月16日日曜日

高齢者が使うには難しすぎる




 大阪にいる母親は、韓国ドラマのファンで、毎日テレビで見るのを楽しみにしている。BS放送では最新の韓国ドラマを多く放送していることもあり、朝から晩まで新聞の番組表に印をつけて視聴している。

 たまの外出時には見れないこともあり、今年大阪に帰った時にハードディスク付きのレコーダーを買った。番組表をそのまま録画できて便利と思ったからだ。うちの家内も一週間分の韓国ドラマを予約して時間の空いている時に見ている。非常に簡単な操作で録画予約ができ、重宝している。

 ところが大阪の実家では電波障害もあり、ケーブルテレビで視聴している。この場合、レコーダーで録画予約する場合、まずケーブルテレビの番組表で録画したい番組を予約し、その後、レコーダーで日時、時間を設定して始めて録画できる。さらにその際には入力切り替えをしてコンポーネント1からビデオ1へと切り替えをしないといけないため、テレビ、レコーダー、ケーブルテレビの3つのリモコンを駆使しなくてはいけない。実に煩雑な操作を必要とする。

 ケーブルテレビの情報のひとつをまず選択して、その情報がラインを通じてレコーダーに送られる訳だが、その際にレコーダー側に、その時間にデーターが送られてくることを教えておかないといけないことになる。

 とてもじゃないが高齢な母親にこんな複雑な操作をできるわけはなく、月刊テレビガイドで録画したい番組をチェックしてもらい、兄に後で入れておいてもらうことにした。

 家電メーカーも随分昔から誰でも簡単に操作できるように工夫を重ねているようだが、なかなか解決しないようである。コンピューター技術というのは「属性」を選択していかないといけないため、来週のこの番組を録画したいと思っても、年月日や時間、放送局を指定しないとどうしようもない。簡便化しているとはいえ、一番組を録画するには、何種類かの属性を打ち込まないといけない。むしろ属性を打ち込むという点ではGコードという古いやり方の方が属性を数字で打ち込むだけなので簡単かもしれない。「新しい資本主義 希望の大国・日本の可能性」(原丈人 PHP新書  この人も含めて1950年代生まれの慶応大卒の人には優秀なひとが多い)でも、前期デジタル時代、後期デジタル時代(ポストコンピューター)の次の時代としてネオアナログ革命がやってくると予想しているが、年配のひとも含めてあらゆるひとが簡単に機械を操作できるようになるためにはネオアナログ革命の到来が必要なのかもしれない。

 本来、コンピューター、家電分野で最も開発が待たれる自動翻訳機でも、googleの自動翻訳や色々な翻訳ソフトをみてもそれほど進歩はない。もし発音、聞き取りを備えた完全な翻訳機が完成できれば、世界中の多くのひとが機械を通じて話すことができ、語学学習の必要性もほとんどなくなるはずだ。立体テレビといった過去には夢のような機械も実現が可能になり、製品開発の決め手がどんな夢をもつかになっているが、未だに実現できないのがこの翻訳機である。

 おそらくは計算を主体とした2進法を原理としたコンピューターでは限界があり、それを超える新たな基礎的な発明が必要かもしれない。そういった点では医学の世界においても診断機器の発展はあっても診断そのものはまだ人間が必要だし、そのためには経験も必要であろう。

2009年8月4日火曜日

矯正治療の難しさ



 矯正治療は、本当に難しいと感じます。通常、歯を動かし、完成するまで最低でも1年半、その後も2、3年はみるので、少なくとも4、5年はかかることになります。当院でも1995年に開業しましたが、その当時の患者さんも多数いて、すでに14年たっていることになりますし、今後もさらに経過を見て行く必要があるでしょう。

 米作りは年に一回しか収穫できないので、20年のベテラン農家でも、20回しか米作りを経験していないとも言えます。気候や品種などによっても栽培方法は違いますし、土地の耕し方や肥料の種類や与え方なども毎年違うのかもしれません。

 矯正治療も不正咬合の種類や顎骨形態の差や発育状況によっても治療法は違ってきますし、さらに患者さんの年齢、性別や性格なども関係してきます。歯を動かすのは原理的には力をかければ動きますし、実際学術雑誌では数式を用いて歯の移動を計算する論文も多くあります。ただ現実的には、計算通りに歯が動くことはありません。同じ力、同じ方向に歯を動かそうとしても個人によって、その反応は違ってきますし、同じ個人でもそれまで動いていたのが急に動かなくこともあります。大臼歯という大きな奥歯と前歯を引っぱり合えば、普通に考えれば、根が小さな前歯が動くはずです。ところが前歯が全く動かず、奥歯だけが動くこともあります。相撲取りと子どもがロープを引っぱりあい、子どもが動かず、相撲取りのみが動くようなものです。数式ではあり得ないことです。

 かみ合わせというのは、長年その状態であったのですから、口の機能面からすれば今の状態が最も安定した状態です。それを矯正治療するということは一旦安定性を崩すことになります。その抵抗の仕方が個人によって変わってきますし、また矯正治療後の安定性も違ってきます。ある患者では、矯正治療をしてワイヤーを入れると、それこそあたかもそこに歯が動きたかっているかのように、どんどん並んでいきます。当然治療期間も早い。一方、ある患者さんでは、色々な方法を試してもいっこうに歯が意図したところに動いていきません。治療期間もかかりますし、どうしても治療後の後戻りも多い。特に悩まされるのは、かみ合わせが深い場合と舌機能の問題がある症例です。

 かみ合わせが深い患者さんの場合、咬む力が強いため、なかなかかみ合わせが浅くすることができませんし、舌機能に問題がある患者さんではゴムなどを使って咬ませても、また開いてきます。

 時折、昔矯正治療が終了した患者さんが何年もたって来ることがあります。口をみるまでいつもびくびくしている状況で、どれだけ後戻りしているか本当に怖いというのが実感です。多くの患者さんでは前歯がでこぼこしてきたと来られる訳ですが、ほとんどの場合、なんだこれだけしか戻っていないのかと逆にほっとします。簡単な再治療で治るためです。それでも治療後、10年、20年、30年たったらどうなるのか、未だ心配です。一度、鹿児島大学で治療した時の患者さんと15年ぶりに会ったときも,まず最初に見るのは口元です。きれいな笑顔を見ると本当にうれしく感じます。

 矯正治療を学んで25年以上たちますが、それでも本当に難しい仕事だと思います。

2009年7月25日土曜日

藤田謙一3




 弘前商工会議所により昭和63年に発刊された「藤田謙一」を読む。

 伝記なので、当然藤田謙一の生涯を称賛したものであるが、もうひとつ歯切れが悪い。確かに多くの寄付を行い、津軽の発展に貢献したことは間違いないのだが、藤田を知る人々にとってもあまりよくわからない人物であったようである。自分の子どもさえも、父親は忙しく、あまり会うことはなく、晩年になるまでどんな考えをしているか十分にわからなかったようだし、後年、精力を傾けた育英事業による学生も、貧しい環境で高等教育を受けられた恩恵を感謝するものの、藤田そのものとの接触は少なく、追悼文においても藤田の人間性に触れるものは少ない。

 藤田は大正、昭和期の成金との評価もあり、一代で巨万の富を築き、冤罪といってもいい事件で一気に転落した人生は成金の典型的な例であろう。貴族院の選挙では今で言う数億円の金をばらまくなど、会社経営や事業などでもかなり強引な方法をとったものと思われるし、敵も多かったようだ。貴族院選挙中、友人に「胡座で金を使わず一票頂けるのは貴兄位のものだ」開口一番の挨拶でいい、一票今の1000万円で買い回るやり方は褒められたものではない。選挙の競争相手に「この藤田と在ゴのアンサマ達を対手の駆け引きする心算では話しにナランヨ」と平気に言い放つ藤田の無神経さは、金をもらうのはありがたいが、それほど感謝しない人も弘前に多かったと思われる。藤田が寄贈した弘前公会堂も昭和32年には取り壊されることになった。商工会議所から壊さないで保存してほしいとの要望もあったが、それほど大きな声にならなかったのは藤田のこういった性格によるかもしれない。名前が残る藤田記念庭園にしても、藤田が亡くなった後、弘前相銀の唐牛氏に売却され、その後弘前市に売られたもので、藤田が市に寄贈したものではない。

 孫文への援助や内モンゴルの徳王への支援なども、かなり軍部や政府の意向に沿うもので、金銭的、生活的援助など以外はあまり濃厚な関係はなさそうであり、昭和14年に発行された藤田著の「世界平和への道」でも当時の帝国主義的な考えから抜け出していない。さらにモンゴルの徳王の支援やその子トガルソロン王を自宅に居住させ、モンゴルの民族主義に共感したとされるが、近著「ノモンハン戦争 モンゴルと満州国」(田中克彦 岩波新書)で述べられているような外モンゴルと内モンゴル、ソ連との関連などの複雑な民族状況を当時理解しているとは言えない。同じように中国問題にしても汪兆銘政府を支持しており、あくまで政府、軍部の見解を超えるものでない。

 「われわれは他者の人生に意味を与えることはできませんーわれわれが彼に与えることのできるもの、人生の旅の餞として彼に与えることができるもの、それはただひとつ、実例、つまりわれわれのまるごと存在という実例だけであります。というのは、人間の苦悩、人間の人生の究極的意味への問いに対しては、もはや知的な答えはあり得ず、ただ実存的な答えしかあり得ないからです。われわれは言葉で答えるのではなく、われわれの現存在そのものが答えです。」(ヴィクトル・フランケル 「意味への意志」、 宮本輝著「骸骨ビルの庭」から孫引き この本の最後の方で私の好きな弘前の地酒「豊盃ほうはい」がまるやかでうまいとの記述があります。)

藤田は確かに偉大な事業家で、金持ちだったが、その心、精神の師を幼少期、青年期の持たなかったのが不幸であったかもしれないし、藤田自身も師とはなれなかったようだ。どうも藤田謙一という人物は好きになれない。

2009年7月21日火曜日

鹿児島県十島村



 皆既日食がきれいに見える所として、鹿児島県十島村のことが新聞やニュースで取り上げられています。皆既日食を見るツアーが20万円以上するため、ツアー客以外のひとが島にやってきて、住人が困っているとのことです。

 十島村は、口之島、中之島、諏訪之瀬島、悪石島、平島、宝島、小宝島の7つの有人の島と臥蛇島などの無人島から成っています。村の役場は、鹿児島市にあり、週一便の村営の「十島丸」が鹿児島市から各島を結び、奄美大島にいくようになっています。

 もう20年以上前になりますが、鹿児島大学歯学部附属病院の巡回診療で、この十島村に2年ほど行く機会に恵まれました。年4回ほどだったと思いますが、一週間ほどかけて、村営のモータボートのような小さな船に器材を積んで、各島を廻っていきます。南シナ海は外洋で、こんな小さな船では揺れて、揺れて、船酔いには難儀しました。大きな波に突っ込むたびに、運転室のプロペラのように羽が回転する円形の窓からしか外が見えなくなります。それでも、そのうち慣れ、大型の客船の十島丸に乗ると、全く酔わなくなりました。

 携帯用の歯科用のユニット、コンプレッサー、といっても合わせて30kg以上ありますが、その他の診療器材を船からおろし、島の診療室まで運び、そこで臨時の歯科診療所を開設します。何時間も船で揺られているため、陸に降りても、なんだか足がふわふわします。まず小中学校の生徒が検診にきます。本土の学校検診と違い、虫歯があればその場で治療です。生徒たちにとっては恐怖の時間だったでしょう。検診終了後に、残された虫歯のある子どもたちの治療が始まります。根っこの治療は一日ではできませんので、初期の虫歯の治療か抜歯です。その後は一般住民の診察ですが、多くは抜歯か、入れ歯の調整です。たまには痛みをこらえて何週間もたち、膿みでパンパンになった患者さんが来ますが、切開して拝膿すると痛みがあっという間になくなり、神様扱いされます。お腹が痛い、鉈で手を切った、ヤギが死にかけている、といった歯科の範疇でない患者さんも来ますが、島の看護士で処置が無理なら鹿屋基地からヘリコプターを呼びます。

 島での生活は、本土からの船便が生命線で、台風などで船が欠航すると、とたんに生活品が不足していきます。一度ある島で1週間かんづめになったことがあります。私と看護士さん、村役場のひとが一緒に民宿に泊まるのですが、この時は、3,4日でこれが島でかき集めた最後のビール、5,6日で最後の焼酎といって役場のひとが島中から酒をかき集めてくれました。食料は各家で大型の冷凍庫があるため、これくらいでは無くなりませんが、嗜好品から無くなっていきます。やぎは野生のもいて、一度ヤギ狩りにもつれて行ってもらいましたが、岩山に村民で追いつめて、捕まえます。やぎやぶたは村で屠殺されますが、血が内蔵に入ると食べられないため、首の後ろの動脈をナイフで刺し、血抜きをして殺します。その晩のおかずにとれたての豚汁、トンカツとしてでてきますが、さすがに食欲はわきません。

 日本の義務教育のすごいところは、こういった島でも教育の機会均等が徹底しています。当時、小宝島に就学を控える子どもが1名いました。隣島の宝島で下宿する方法もあるのですが、小学1年生から親元を離れるのが、かわいそうだということで、廃校になっていた小学校をきれいにして新たな小学校ができました。先生一人とその子ども2人が鹿児島市からやってきて、都合3名の小学校ができました。そのころは人口20名くらいでしたが、今は2倍くらいになっているようです。島の子どもたちは、人数が少ないため、教師と生徒がほぼマンツーマン教育で、落ちこぼれはいません。そのため、高校は鹿児島市の進学校に行く生徒を多いのですが、競争心がないため、苦労するようです。

 今回の皆既日食騒ぎで十島村も全国的に脚光を浴びていますが、騒ぎも過ぎると再び平和な状況に戻ることでしょう。何しろ、交通の便が船便、それも週一回しかないため、1,2週間予定が狂っても大丈夫なひとしか、ここには観光にもいけず、そういった意味でも秘境と言えるでしょう。鹿児島市の人たちもほとんど行ったことのない所です。