2008年12月28日日曜日

津軽のぼろ布文化






 紀伊国屋書店で「BORO」(小出由紀子、都築響一 アスペクト)を購入した。青森の”ぼろ”と呼ばれる使い古されて何度も継ぎはぎされた衣類のコレクションを紹介した本だ。

 青森では、東北本線が開業する明治中頃まで、木綿が非常に貴重で、衣類としてはもっぱら麻が使われていたようだ。麻の種まきから始まり、収穫、糸にして、それを織り上げる、おそろしく手間がかかる工程のため、布は非常に大事にされ、一片、糸くずまでも捨てられずに使われた。衣類はおしゃれのためではなく、寒さを防ぐための生活上欠くことができないものであった。ただ麻は非常にもろく、すぐに破けたため、何度も補修して用いた。その結果、何層も違った布が継ぎはぎされて、写真のような作品となった。津軽の女たちは少しでもおしゃれに美しく直した。

 津軽といえば、こぎん刺しや裂織などが有名だが、今のようなおみやげものには何の感動も覚えないが、こういった生活着のなかにこぎんやサクリなどの技術が見られると実の迫力があり、きれいである。現代抽象絵画やアンティークの絨毯を思い出す。欧米の最先端のファッション界でも十分に通用するデザインと色使いである。驚いた。最近ではジーンズにもこのぼろの感覚を取り入れたものが人気があるようだが、著者も「作り手が意図したものではないとしても、限られた資源の再利用、超絶技巧、愛情、経年美などきわめて今日的テーマーを示唆する」と述べている。全く、その通りで、非常に力強いインパクトを覚える。欧米ではこのような布を額にいれてリビングなどの飾ることがあるが、十分に通用する芸術作品であるし、ファッションとしてもすごい。

 ドンジャと呼ばれる布団がある、着物を何度も継ぎはぎし、その中に麻から糸を作る時に余った茎や枯れ草を入れて布団とした。重さが14kgもあるものもあり、立つものもあったという。稲茎や枯れ草の上に布を敷き、その上にこのドンジャを重ねたという。寒い冬には、服を着るとしらみが出るため、家族みんな裸で寝、男の子は父親と女の子は母親に抱かれて寒さをしのいだ。昔の家内の実家がそうであったが、いろりが各部屋にあるものの、外との間には障子一枚で前は熱いが、背中が寒いといった環境である。おそらく太古の昔からそうやってきびしい冬の夜をしのいだのであろう。

 いまではこのようなぼろ布はほとんど捨てられ地元にも残っていないが、青森市に住む田中忠三郎さんがみんなにばかにされながらも集めたコレクションがあり、それを本書は紹介している。地元ではこじき服としてだれも相手にしなかったものを、このような本にして紹介していただいた小出さん、都築さんに感謝したい。同時にこの衣類の配色、デザインの秀逸性はこの土地の人々の感性の鋭さを示していると思われる。

 津軽のぼろ布文化については、田中忠三郎さんの解説を参考にしていただきたい(http://www.sakiori.com/colum/News22/22b-tanaka/22b-tanaka.html)。

2008年12月25日木曜日

弘前の交通ルール



 青森に来てから車に乗ってないので、どこに行くのにも歩いて行くことが多いのですが、弘前の交通ルールは最悪で、本当に怖い思いがすることが何度もありました。先日も郵便局の前の広い道の横断歩道を青信号で渡っていると、前から来る数人の歩行者と私の間の3mくらいの間を右折するワゴン車が全速で通過して行きました。私のほんの1m前を横切ったのです。前から数人の歩行者が来るのですから、こちらも右折車を確認してなかったのですが、それにしても本当に怖いことです。その後、さらに歩いて、ダイエーの前の横断歩道を歩いていると、さすがに前のこともあり、傘を前に振り回しながら歩いていると、今度は左折車が突っ込んできます。急ブレーキで止まりましたが、さすがにきれて「止まれや」と大声で叫んでしまいましたが、運転しているおばさんはきょとんとしたままでした。

 数年前には娘が青信号で横断歩道を歩いていると信号無視の車に当てられ、幸いけがもほとんどなく、よかったですが、今年も上の娘の成人式でタクシーに乗っていた時にまたもや信号無視の車に横に当てられました。よほど運がないかと思われるかもしれませんが、いままで数度、右折、左折車による事故を目撃しました。診療所の前の横断歩道を歩いていると、前の自転車に乗ったおばさんが左折車にぶつかりました。自転車はぐちゃぐちゃになり、買い物品はそこらじゅうに散乱、それなのにぶつけたタクシーはそのまま行ってしまいます。さすがに腹が立ち、走ってタクシーを捕まえると、「お客さんを乗せていて急いでいる」と言われ、散乱した買い物品を集めているおばさんには「何ともありません」と言われ、そのままになってしまいました。またヨーカー堂の前の道では、これも右折したタクシーに高校生の自転車が引っ掛けられ、見ていると、降りてきたタクシーの運転者は何と曲がった自転車も手で曲げ直し、「直ったよ」と言って、そのまま走り去りました。また下の娘も自転車を引っ掛けられ、これもハンドルが曲がったのですが、「けががなくよかったね」と言われ、そのままだったようです。帰って来て、「なんで警察に通報しないのか」と言ってやりましたが、高校生には無理のようです。

 私の知っているアメリカ人も横断歩道を歩くときは怖いので、傘を前に振り回して歩くと言っていましたが、私もよく傘を前に振り回して歩いています。自衛にためですので、変態扱いしないでください。それにしても歩行者優先の概念のないひとが多すぎます。横断歩道を歩いていても通常は歩行者の横断を待って進むのがルールですが、平気で前を横切ります。かわいそうなのは気の弱いひとで、青信号になっても左折車がどんどんと走るため、信号を渡れないのです。先ほども一人の老人が横断歩道を渡れず、困惑していました。前に会った気の弱い若者などは結局は青信号でも最後まで渡れませんでした。

 これと同じような経験をしたのは、中国とインドで、どちらも交通ルールはひどいところです。中国の交通ルールについては次のようなブログがありましたので引用します。

「交通マナーのひどさは我々日本人の想像をはるかに超えています。
歩行者信号「青」の状態で、左右を見ずに歩き出せば、「ほぼ100%に近い確率で轢かれます」。そんなばかな?っと思われるでしょうが、残念ながら事実。これは、北京、上海等の我々がイメージする「大都会」であろうが全く変わりなし。車は米国式で右側通行、これも米国と同じで右折は赤信号でも「可」です。が、米国のように、一時停止後、歩行者を確認後に右折、なんてマナーは存在しません。歩行者がいようと、ほぼ速度を緩めずに交差点に「突っ込んで」きます。避けるのは「歩行者の義務」。

留学期間中、GWがあり、嫁が日本から遊びに来ました。交通マナーや公共での不条理を「口すっぱく」聞かせておきましたが、一瞬気が緩んだのでしょう、北京の「建国門」(街のど真ん中です)の大きな交差点で歩行者信号が青に変り、つい日本の感覚で踏み出してしまった瞬間、嫁の目前に右折しようとしているスピードに乗った「公共バス」が迫って、横にいた私からも「大声で罵っている運転手の表情がはっきりと見えるほどに接近、「ああ~ヤバイィィィ~~~」っと叫んだ瞬間、引き戻された嫁が歩道に尻餅、間一髪で「生還」。一緒にいた、韓国人の屈強なクラスメート男子が咄嗟に嫁のショルダーバッグのストラップを掴み引き戻した、というのが理解できるまでに零コンマ何秒だったでしょうか?公共のバスですらこの有様。以降、嫁は二度と中国には行く気がしないとの事。まあ当然でしょう、死にかけましたから。」

 さすがにここまでひどくはありませんが、弘前の交通ルールもこれに近いとも言えるでしょう。青信号を渡っている歩行者にぶつけると100%運転者の責任で、場合によっては業務上過失傷害罪になります。車を運転する方はくれぐれもご注意ください。それと同時に歩行者もぶつけられたら、そのままにせず、少なくとも警察には通報した方がよいと思います。数秒急いでどうするんでしょうか。

世界ふれあい街歩き


 NHKハイビジョン、BSで放送されている「世界ふれあい街歩き」にはまっています。この番組は世界各国の街をあたかも一人歩きしているように旅行するもので、「世界の車窓」同様結構コアなファンがいます。ただNHK総合では日曜日の深夜(12時ころ)から始まり、月曜日を控えるものとしては少し放送時間帯にはきついものがあります。

 他の旅行番組と異なり、まるで自分がその国に行って歩いているような錯覚を起こせる点もおもしろいのですが、全体的な雰囲気がのんびりしているところが好きです。実際はハイピジョン撮影の機器と、常にブレないような装置を身につけ、相当重装備で撮影しているようですが、それほど打ち合わせ、編集もせず、その場で会ったひとに話しを聞くというスタイルをとっているため臨場感があります。

 地中海のマルタ島(写真)と最近見たニュージランドのウエリントンもよかったです。この番組を見るたび、考えさせるのはみんな街を愛しており、何もなくても生活をエンジョイしている点です。老人は木陰で酒を飲みながら友人と日がな話しをしている、海岸で奥さんと一緒に夕日を毎日見ている、庭いじりに精を出す、など、日本人からすればひまでしょうがないと感じるかもしれませんが、そんな生活を市民は実に楽しでいます。見終わると実に幸せな気分になります。

 Youtubeを貼付けようと思いましたが、NHKの規制がきびしく、すべて削除されています。またNHKの過去の番組はアーカイブされ、インターネットで引っ張れるようになっていますが、一番組300円くらいかかります。イギリスのBBCでは無料なのにNHKもちょっとがめつい。テーマ曲も結構よく、Cで吹けばハーモニカでも簡単に吹けます。

 過去の無くなったもので今見たいものと尋ねられても、皆さんは何をイメージするでしょうか。私は船であれば、戦艦大和、建物であれば安土城を見てみたいと思いますが、それ以上に見てみたいのは建物や物より街とそこに住む人々です。江戸時代の大川周辺や吉原はいったいどんなところだろう。弘前の昔の土手町はどんなだったろう。本当に見たいものです。人々の記憶は、物や建物ではなく、街とそこに住む人々に結びつけられています。そういった意味ではこの番組で取り上げられる街はそれほど時代の波にも弄ばれず、昔のままの姿を今に伝えています。安易に街を便利なように再開発するのではなく、街の臭いを残して、多少不便でも、愛される街を作ってほしいものです。

 今、グーグルアースのストリートビューという機能を使えば、あたかも街を歩いているような体験ができるようですが、こういった記録、あるいは世界街歩きのような映像が残っていれば、100年後、200年後の人々は昔の町並みを追体験できるのかもしれません。

 12月29日の午前4時から1月2日までの連続5日間、総合テレビでアンコール放送が決定しましたので、録画してみてみてください。それにしてもすごい時間帯です。

12月29日(月) 午前4:00~「レイキャビク~アイスランド~」12月30日(火) 午前4:00~「ミュンヘン~ドイツ~」12月31日(水) 午前4:00~「レーゲンスブルク ~ドイツ~」1月1日(木) 午前4:00~「リンツ ~オーストリア~」1月2日(金) 午前4:00~「ウィーン ~オーストリア~」

2008年12月23日火曜日

顎変形症の治療


 日本顎変形症学会雑誌の最新号(18巻4号 2008)に、「本邦における顎変形症治療の実態調査」(小林正治ほか)と題された論文が載っていました。これは昨年、私の診療所にもきたアンケートを集計したもので、2006.4-2007.4の1年間の顎変形症の実態を調査したものです。外科系92施設、矯正歯科97施設からの回答で、本邦のほぼ実態を示したものと思います。

 顎変形症の手術数は、1年間で2926例(外科系)で、そのうち下あごの出た下顎前突が1977例(67.6%)、上顎前突は237例(8.7%)、上顎後退が310例(10.6%)、非対称が278例(9.5%)でした。この数が多いか少ないか、何ともいえませんが、以前に比べて上顎前突の比率が高くなっている気がします。欧米では上顎前突(下顎後退)の比率が高かったのですが、日本ではあまり下あごが小さくとも気にしないひとが多く、以前いた大学でも上顎前突の患者さんで手術を希望するひとは非常に少なかったと思います。

 また手術を行う前に、矯正歯科にて手術後にきれいに咬むように準備する術前矯正の平均期間は非抜歯では13か月、抜歯では18か月となっています。当院での平均とほぼ同じです。また術後の細かい修正を行う術後矯正の平均期間は11か月となっていますが、当院では約半年で、全国的な平均よりは早く装置をはずす傾向があります。患者さんからすれば手術前はなんとか辛抱できても手術後は一刻も早くはずしたいようです。

 また手術時間は、下顎後退術で69-337分(平均163分)、上下顎骨同時移動術では98-560分(平均285分)で、平均をみればこんなものかと思いますが、意外に施設間で差があるようです。出血量は下顎単独で50-512ml(平均203ml)、上下で20-1171ml(平均512ml)でこれも施設間で差が大きいようです。上下の場合は、血圧を下げて手術中の出血を減らす低血圧麻酔が行われていると思いますので、1000mlを超える出血はまずないと思いますが。

 入院期間は下顎単独で平均で15日、上下で17日となっており、以前に比べて固定法の改良によりずいぶん短縮されました。ワイヤーで固定していた頃は、約1か月の入院でしたから短くなりました。アメリカなどのでは手術後1,2日で退院させるようですが、これは医療保険の関係で、こんなに早く退院させるのは患者さんにとってきついと思います。

 合併症と偶発症は、術中の異常骨折が17施設、大量出血が9施設、吸収性骨接合システムの破折が8施設、神経損傷が8施設とのことでした。異常骨折といっても術式あるいは固定箇所を変えれば何とか対応できるので、そう大きな問題ではありません。大量出血はおそらく上顎の手術の際に上あごの奥の方の血管叢を傷つけたものでこの部位の止血は難しく、大量出血につながります。また吸収性骨接合システムとは確かサトウキビでできたネジやプレートを用いるもので、数ヶ月すると自然に溶けてなくなるため、チタンのネジやプレートと違い、取り出す必要がないものです。何年か前に弘前大学でもこの吸収性のものを使ったことがありましたが、術後の後戻りが大きく、患者さんにかなり迷惑をかけたので、それ以降は使っていません。その後、改良され、かなりしっかり固定できるものができたようですが、値段も高く、使っていません。神経損傷は下あごの手術の際に起こる可能性が高く、程度にもよりますが、神経が圧迫されたため、口唇のしびれが強くでることがあります。上あごの場合はきわめて稀ですが、浮腫により視神経などに症状がでることもあるようです。

 このアンケート結果を見る限り、今や顎変形症の治療をかなり確立させて、ほぼルーチンにやられるもののようですが、少数ですがやはりリスクはあると考えていただきたいと思います。

なお顎変形症の手術法は新潟大学歯学部の矯正歯科のホームページにわかりやすく解説されていますので参考にしてください。
http://www.dent.niigata-u.ac.jp/ortho/hp/treat2.html

2008年12月20日土曜日

山田兄弟17



 供養とは、亡くなったひとを思い出す事である。こういったブログで山田兄弟など郷土の生んだ偉人を紹介し、少しでも故人を思い出すひとが出ることは、そういった意味で供養となろう。中国革命に実際に参加し、亡くなった先人として山田良政を紹介してきたが、良政とともに恵州起義に参加し、からくも生きながらえ、その後第二革命で亡くなった櫛引武四郎というひとがいる。

「醇なる日本人」(結束博治著 プレジデント社)にも「良政が33年春、南京に開設された同文書院の舍監教授となった時の教え子に、櫛引武四郎がいた。櫛引は良政と同郷青森県の出身で、東奥義塾に学び、いわば良政の後輩である。彼は無理を願って良政と行を共にし、恵州の戦いに参加した。彼は幸い重囲を脱して上海に帰り、その後南支と内地の間を往復して、孫文の革命を支持し、1911年の辛亥革命から引き続き第二革命にも参加し、第二革命の偵察となって活動中、南京の戦陣で殺害された。彼もまた、師良政を追って若い生涯を終えた。恵州起義に参加し、第二革命でたおれた彼の死は、良政とともに孫文伝に記憶されるべき人物であろう。」と述べている。

 最近東奥日報社から発刊された笹森儀助書簡集に、明治35年に櫛引武四郎から笹森儀助宛の手紙が載せられている。抜粋すると「自分は櫛引英八の長男で、中国およびインドの革命に奔走しているものだが、一度韓国の義州から海城をへて、牛荘に行った折、山田良政とお尋ねしようと思ったが、そのときは不在で会えなかった。その後、恵州起義で山田良政の行方がわからず、あちこち探しまわったが、結局はわからず、今は革命資金?をためている。是非一度会っていただけないか。」というものである。この後、櫛引と笹森が会ったかどうか不明だが、山田良政と笹森義助は面識があるが、笹森と櫛引はとくに面識はなかったものと思われる。ただ武四郎の父である櫛引英八は五所川原(羽野木沢)選出の最初の県会議員であり、父親と笹森は面識があったのであろう。

 五所川原選出の県会議員で櫛引ユキ子というひとがいる。ロータリークラブの会員の県会議員の西谷さんに聞くと、政治家は世襲的に政治家をやるひとが多く、確か櫛引ユキ子さんも政治家の家系と聞いたので、ひょっとして同じ県会議員で親族かと思い、さきに挙げた櫛引武四郎について尋ねてみた。いまだ返答はなく、どうも関係はなさそうである。

 何とか、この櫛引武四郎と孫文、山田兄弟との関連を調べて、供養したいと考えている。情報があればご連絡いただきたい。

 

2008年11月21日金曜日

かご入りりんご



 高校2年生の時に、修学旅行できたのが東北で、旅行の最後は弘前でした。駅からすぐに弘前城を見学して、その近くの旅館に泊まったような記憶があります。仙台から松島、三陸浄土が浜、平泉、厳美渓、八幡平、十和田湖、弘前とほぼ東北一周の旅行で、それまでの修学旅行は九州でしたが、私たちの学年から初めて東北地方に行きました。男子校でしたので、松島の旅館では前日、神戸女学院が泊まったと知り、興奮したり、U君などは10月という寒い季節にも関わらず、上半身裸で八幡平の沼に入ったり、制服のままスナックに行ったり、30年以上たっても思い出の多い旅行でした。そのせいか、私の学年では例年以上に東北大学の進学率が高かったようです。

 この旅行の最後が弘前で、時期もちょうどリンゴの時期でしたので、みんな竹かごに入ったりんごをお土産に買っていきました。竹かごから見える赤いリンゴは本当にかわいく、大阪についても、周囲のひと、みんなから「ああ、青森にいったんだ」と思わせるようなものでした。その後、家内の実家に弘前に来るようになったのは30年前くらいでしたが、その頃には竹かご入りのりんごは少なくなり、開業した15年前くらいには、プラスティックでできたかごはあっても、竹かごはほとんど見かけなくなりました。おそらく製作コストが高く、
りんごを入れる箱としての存在価値がなくなったことと、宅急便などの発達があったことなどから、急速に廃れたと思います。最盛期には、百軒以上あった根曲がり竹によるかご生産者は、今ではほとんどなくなり、わずかに残っている生産者も高齢化し、工芸品として何とか、残っているようです。

 先日東奥日報で、あるお客さんから1万円のリンゴの詰め合わせをおくってほしいと青森の業者に依頼があったそうです。青森の業者ではそんな高いリンゴはない、そんなことはできないと答えたの対して、長野の業者は即答して対応した、もっと青森人も商売気を出さないとといった社説が載っていました。新幹線開業もまじかに迫っています。私個人の意見としては、りんごほどすばらしい青森土産はありません。是非とも昔のかご入りりんごを復活してもらいたいと思います。何種類かのりんごを詰め合わせて、根曲がり竹の手提げかごで売れば、多少高くても人気がでると思いますし、青森=リンゴというイメージアップにもつながります。工芸品のような竹製のカゴに、最高級のリンゴを入れれば十分に1万円で売れるでしょうし、もう少し安価なかごに入れておみやげ店で売ってもよいでしょう。工芸品のようなものは素人が作るには難しいし、年期もいるとは思いますが、昔のりんごかご程度のちゃっちいものでしたら、主婦の内職で作られるのではないでしょうか。一かご500円くらいの手間賃であれば、雪が多く、夜の長いこの地の内職にはもってこいのものと思われますし、シーズン以外に作ったものでも、土地、家屋が広いので作ったものを置いておく場所にも困らないはずです。りんご自体は結構重いものですので、3個か4個、違った種類のものがお土産としては喜ばれるかもしれません。

 こちらに来て、毎年リンゴを食べているせいか、ずいぶんとりんごの味にはうるさくなりました。蜜入りふじもうまいのですが、今年はとりわけ王林がフルーティーでいながら絶妙な甘味があり、本当にうまく、これは日本、世界にも通用すると思いました。以前、青森のリンゴを欧米で売り出そうと調査したところ、あまり甘すぎて、リンゴはすっぱいものだという欧米人には不評だったようです。ただうちに来ていたアメリカの留学生も最初はとまどったようですが、そのうち好物になったことから、浸透すれば十分に世界に通用するものだと思います。ただリンゴの難しいのは、同じ農園で同じ日にとったものでも、木によっては甘味が全くちがう点です。親類から毎年、たくさんのリンゴをいただきますが、ここのりんごは市販のそれに比べても非常にうまいものですが、それでも年により、木により味に違いがあります。

2008年11月18日火曜日

津軽美人






 津軽には美人が多い。これは県外から来るひとは皆そんな感想を持つようで、繁華街の土手町を歩いていてもはっとするような美人によくあうことがあります。だいぶ前のことですが、週刊朝日で「日本海 美人一県おき説」は正しいかという特集記事が載っていました。各県庁所在地の繁華街で10代後半から30代と思われる女性100人を観察し、「負け犬」で有名な酒井順子さんが美人と認める女性の人数を調査したものです。結果は青森県12.5%、秋田20.5%、山形7.0%、新潟12.5%、、富山9.0%、石川12.5%、福井6.5%となり、青森を除くとほぼ美人一県おき説は正しいというものでした。ちなみに東京は4.0%だそうです。

 私もひまな時は繁華街に立って100人中どれくらい美人がいるかといった遊びをしますが、これまで調べた限りでは仙台が最もひどく、仙台駅で3回調べてようやく該当者がいたほどでした(仙台のひとにはすいません)。秋田でも秋田市内はそれほどではなかった気がしますが、角館は高かったですし、また九州の小倉、山陰の松江は高い一方、名古屋(名古屋駅)、徳島は低かったと思います。これはお国自慢になりますが、青森でも青森市、八戸市より弘前市の方が美人は多く、弘前より北の五所川原、鶴田、金木などの方が美人が多いと思います。松木先生の本にも述べられているように、津軽弘前のルーツは北秋田からの人々であったことから、秋田美人も津軽美人も同種と見なされます。二重まぶたの出現率をみても、奈良県では58.1%に対して新潟では70.4%、北海道では73.2%、奄美大島では84.0%と近畿圏から離れると二重まぶたのひとが多くなるようです。またJC遺伝子による人類学的な調査によれば、秋田おそらく津軽もそうだと思いますが、北日本の日本海沿いにコ-カソイドしかないEC遺伝子ももつひとがいて、白人の血が入っているという珍説もあります。

 津軽を代表する美人と言っても、この地域は芸能に対する偏見が強く、芸能界であまり活動しているひとは少ないため、いい例が思いつきません。それでもこれは津軽美人と考えられるのは、TUBEの曲の作詞家として有名な亜蘭知子さん(弘前市)が挙げられます(写真上)。また女優の長内美那子(弘前市)も津軽を代表する美人じゃないかと思います。長内さんのお父さんは歯医者さんですが、芝居きちがいと呼ばれるほど地元の劇団活動を熱心にされた方で、亡くなってだいぶ立ちますが、今でも有名です。また少し古いですが、青い山脈で有名な歌手の奈良光枝さん(弘前市)もまちがいなくきれいなひとです。youtube上は奈良さん48歳の時のものですが、この年にしてはかなり美人と思いますが、若い時(28歳)のものも下にあげときました。ちょうど真ん中あたりで「悲しい竹笛」を歌っています。やや暗い感じで、声の質もどちらかというとクラシック系で華やかな芸能界には向いてないのかもしれません。近所の萱町の生まれのようです。また100本近くの映画に出ていた相馬千恵子さん(弘前市)もちょっと暗い感じの範疇に入る美人です。
 
 県外から弘前に観光で来られる方は、是非一泊して夜の鍛冶町に行ってください。ぼられるようなところはありませんから安心して入ってください(一万円かかった、ぼられたというところですから)。料金は銀座の数分の一ですが、容姿は負けていません。多くの津軽美人がいます。
 

2008年11月13日木曜日

ミノルタCLE




 このカメラは非常に思い出深いものです。買ったのは、確か1981年ころだったと思いますが、当時で40mmレンズ付きで12,3万円と、私にとっては信じられない価格で、毎月1万円ずつ、返すのにほぼ1年かかり、その間非常に苦しい生活をした気がします。当時からライツミノルタCLの後継機として評価が高く、最新のレンジファインダーカメラ、最も安い?ライカレンズが使えるカメラ、あるいはライカを超えたカメラとされており、かっこよさも手伝い、仙台のカメラ屋で買いました。総販売数は3万2000台で、約10年間販売されていましたが、当時のミノルタの主力商品X-700より高価なため、一部マニアに売れたようですが、それほど人気が高くはなかったと思います。むしろ販売中止後に人気が出てきて、2001年のアサヒカメラでも最も復刻希望カメラとして挙げられ、中古価格も長らく高いものでした。最近はさすがに下がっていますが、それでも5万円くらいはしており、25年以上経過しているカメラとしては高い方ですし、専用の28mmのMロッコールレンズはいまだに名機とされています。

 CLEの前のライカミノルタCLについては、先に挙げたアサヒカメラ6月号で、当時の開発部長らとの会話が残っています。ライカはM5のサブポジション的なものとしてライカCLの生産をアジアの持っていき、安く作りたいと考えていたようです。その提携先としてミノルタが選ばれましたが、当時の経営者からはライカは神様のような存在で大きな衝撃を受け、ずいぶん意気込んだようです。その後、さらにAE露出を内蔵したCLEの開発につながったようですが、ライカは全く関知しておらず、全くのミノルタのオリジナルのものだったようです。ただ、Mマウントについては、ライツからマウントの図面や距離計の数字ももらっているという意味では正統なライカの血筋を引いているともいえそうです。

 子供の写真はほとんどこのカメラで写しており、その意味でもこのカメラは我が家にとっては大事なものですが、やはり日常のカメラとしてはデジカメには太刀打ちできず、ここ数年は全く使用していません。上の子供が大学のカメラ部に入るということで一時あげましたが、1年ほどすると使わないといって返してきました。私自身も老眼が進み、連動距離計によるピント合わせはとてもきついものです。今や銀塩カメラはもはや製造されなくなりましたが、デジタルカメラはあまり新機種の多さからもう二度と名機と呼ばれるものはでないでしょう。

 話は変わりますが、最近カメラレンズの製造をしている会社の経営者のひとと話す機会がありました。カメラレンズは自社の直轄工場でも作られますが、弘前にあるような小さな工場にも発注がきます。というのはレンズの切り出し、研磨、コーティングなどは熟練の技を要するため、安いレンズは中国などでも作れても、熟練が要する中高級レンズはこのような小さな会社の作られるようです。ニコンから時折こういった会社に、もはや製造していない古い、古いレンズの注文がくるようです。修理用のもので、何とニコンは在庫がないからといって修理を断ることはせず、レンズ自体を注文するようです。それも取り付けに失敗することも考慮して2枚のレンズを注文するようです。工場からすれば手間のかかる注文ですが、ニコンは子会社のレンズの発注にも誠実な対応をしてくれている(あまり生産調整をしないらしい)ことからむしろ喜んでやっているようです。ユーザからすれば、レンズの修理費に15000円とか20000円かかり高いと思うかもしれませんが、在庫のあるレンズで修理するのではなく、わざわざレンズメーカに特注するわけで、全くのオーダーメイドのものです。ニコンにしても決してもうかっていないか、むしろかぶっている可能性も高いと思います。ニコンというブランドを守るためには、こういった隠れた面での努力も必要と思いますし、またニコンの社風なのでしょう。

 デジカメ本体は海外で今後も作れていくと思いますが、レンズ、特に高級品はこういった中小の熟練工に支えられており、離職者が多く、熟練工の育たない中国での生産は今後ともそれほど増えないでしょう。ただ肝心の日本でもこういった修練に手間のかかる仕事は若者たちには嫌われていますが。

2008年11月12日水曜日

松木明




 2年ほど前だが、歯科医師会で弘前大学医学部麻酔学の松木明治教授の講演会が開催され、その懇親会でひよんなことから松木先生と話す機会があった。理事の中では文学畑に精通している?ということで、松木先生の横に座らされ、お相手をした。その時はない知恵を繰り出し、確か渋江抽斎のことを話したと思う。後日、どうしたわけか松木先生から著書多数を送付していただき、非常に恐縮したが、その著書の中にお父さんの松木明先生の「津軽地方の血液型」という大著があった。大変高価な本で、とても自分では買えなかった本でありがたかったが、何しろ、厚く、内容も濃い本のため、ぱらぱらとは見てきたが、なかなか読み切れなかった。

 最近の不景気のせいか、患者さんも少なく、少し時間をかけて読んでみた。松木先生のライフワークと呼べる作品で、昭和10年から第二次大戦で調査ができなくなる昭和18年までの足掛け9年、津軽一円の10万人を超える血液型を調べた研究である。すごいとしか言いようがない。協力者がいるとしてもよくぞこんな大事業を一人でやったもので、ここにも津軽のモツケ精神が垣間見れる。この10万人というのはすごい数値で、当時の津軽人口の1/5といわれ、全数調査に近い。今であれば、サンプリング手法も層化抽出法やランダムサンプリングなどの統計的な手法を使い、もう少し効率的に調査するかもしれないし、分析方法もクラスター分析、有意差検定などの方法も取るかもしれない。

 松木明(1903-1981)は、第八師団軍医広田守の長男として弘前市に生まれ、母親の実家を次ぎ、松木姓になった。弘前中学から弘前高校、東京大学医学部を卒業後、同大学の三田定則教授のもと血清学を学び、昭和9(1934)に郷里弘前に帰り、開業しながら、血清人類学の研究を行う。著書「津軽地方の血液型」の一節を紹介する。

 日本民族の平均の血液型は、A型が36.35%、O型が30.46%、B型が21.77%に対して、松木らの調査によれば津軽治療の血液型はA型33.28%、O型33.22%、B型25.14%とA型が少なく、B型とO型が多く、日本民族の血液型とは全く異なった分布を示すとし、「津軽地方と全く対照的な血液型の分布を呈するのは北九州で、最も典型的な日本型である。日本民族の血液型の変化は、北九州を起点として始まり、西日本から東日本へと東上するにしたがって、次第にA型が減少し、B型とO型が増加する。しかもその変化は非常に規則正しい推移を示して、樺太型アイヌを指向し、次第にこれに接近してゆく。地理的に本州の最北に位する津軽地方は、この血液型の変化の最終の地点となる。日本民族の血液型の変化に於いて、北九州を南端とすれば、津軽地方は実はその北端を成すものと言うべきである。血液型の変化の極まるところ、それは津軽地方であり、血液型の変化の終点に位置するのが津軽地方である。したがって津軽地方の血液型は、日本民族の血液型から見て最大の偏異を有し、最も隔絶した分布の様相を呈する」

 研究は単に血液型のみにとどまらず、アイヌ部落の分布や方言、通婚、歴史などの多岐に渡っている。弘前について言えば、そのルーツは北秋田地方から陸路入ってきた人々と、土着住民(アイヌの混血?)が混じったものとして結論している。

 この研究の今日的な価値は、津軽人のルーツを探るという点では非常に大きい。戦前では都市部を除き、いわゆる通婚圏は非常に狭く、ほぼ12km(3里)の中で行われ、外部との婚姻は少なく、他地域からの混血は少ない。本書にも各地の通婚圏を調べているが、例えば平地にある堀越村(現弘前市)では、平地からの配偶者(ほぼ同一地域)は60.0%、南津軽郡(近隣のところ)からは25.7%、山地から(近くの山間部にすむ人)は9.4%、その他東、西、北津軽郡からは0.7%となっている。県外からの配偶者はほとんどいない。現在では、いくら弘前とはいえ、こんなに通婚圏は狭くなく、かなり外部の血が混じっている。それ故、戦前の数値は狭い地域の特徴を今以上にクリアーに現す。

 もうひとつは、現在の研究では、プライバシーの保護と被験者の同意がやかましく、すべての研究、調査には倫理委員会ないしはそれに準じた機関の承認を必要とする。今の時代ではとてもじゃないがこんな研究は不可能かもしれない。

 松木はこの研究後も民俗学、言語学へと傾倒していくが、常に津軽の地を愛した。

 蛇足であるが、本書の余論に有名な安寿と厨子王伝説が紹介されている。津軽の伝承では安寿姫と厨子王は津軽の人とされ、故郷に帰った厨子王は身代わりになった安寿姫の霊を阿曽部の森に祀ったところ、ここに美しい山が出来たのでこれを岩木山と名付けた。それ故、岩木山の神は山椒大夫の故郷、丹後のひとをひどく嫌い、もしも一人でも丹後のひとが津軽に入ると、天候が荒れるという。天候が荒れる時は、丹後の者が入り込んでいるのはないかと非常に詮議され、見つかれば即刻領外へ追放した。藩政時代、天候が不順な時は、必ず国中に布令を出して、碇泊の船はもちろんのこと他国からの興行物などはみなその生国を改め、丹後の者は決して入国を許されなかった。

 丹後のひとにはかわいそうだが、こんな言い伝えが流布でされているのではしょうがない。

2008年11月9日日曜日

笹森儀助 5



 昨日、弘前文化センターにて「笹森儀助書簡集」発刊記念シンポジウム 津軽・偉人を生む風土 と題される講演会があった。当日、第15回ロータアクト地区年次大会(若者たちによるロータリー活動)が同じ会場で行われていたが、ちょっとさぼってこの講演会に参加した。年次大会にも出席しなくていけないため、途中退席したが、なかなか有意義な講演会であった。参加者が少ないのではと危惧したが、ほぼ満席の状態で、こういった分野に興味があるひとが意外に多いと感じた。

 理科系の私には、多少難解な講演内容であった。まず青山学院大学の小林和幸教授による「国家と国民〜笹森書簡集から見えるもの」の基調講演後に、稲葉克夫氏(郷土研究家)、河西英通教授(広島大学)、北原かな子(秋田看護福祉大学)によるシンポジウムが行われた。明治期における民権派、国家主義などの政治的な運動における当時の笹森の立場、観察者としての役割が明確にされ、中央から切り捨てられる地域、人々を観察して報告し、その地域を助けることがひいては国の利益になるという考えが提示された。河西教授から民族学者の宮本常一は笹森儀助を尊敬していたとの話があったが、宮本の名著「忘れられた日本人」、このタイトルこそ、笹森の行動の原動力であったろう。笹森自身の郷里、津軽もまさしく「忘れられた日本」であったからこそ、よけいに北海道、沖縄、韓国の現状がより人ごとでなく、実感できたのであろう。

 北原教授から、弘前の東奥義塾の明治初期の学問レベルについての話があった。義塾に現在ある数多くの洋書から、当時の学問レベルは相当高いとは推測されるが、実際にこれらの洋書を当時の学生が読みこなしていて、本当の実力があったのかという疑問が投げかけられた。義塾から最初にアメリカのデポー大学に留学した珍田捨巳、佐藤愛麿など留学生は、正式の入学試験合格し、アメリカ人の中に混じり、ほとんどすべての学生が最優秀の成績を残したことから、すでに義塾にいた当時から十分に洋書を読みこなす実力があったと結論し、明治8年,11年ころの状況を考えると、これに匹敵する学校は日本でも東京大学ぐらいしかなかったと語っている。東京大学は日本中の秀才が集まるところだが、それと同じかそれ以上の高い質の教育がこの辺境の地で行われていたことは奇跡としか言いようがない。さらに人口比でみてもそれだけ優秀な人材がこの地にいたのであろうし、今でもいると信じる。菊池九郎の教育者としての偉大さがわかる。

 東奥義塾は、その後菊池の尽力もむなしく一時廃校になる。それとともに優秀な人材は弘前中学、青森中学などに行くようになる。弘前、青森中学およびその後継の弘前高校、青森高校からも確かに著名な人物を輩出しているが、明治期の東奥義塾のような人物は現れていない。この原因としては、義塾のような私立学校はトップの方向性、明治期の東奥義塾について言えば、菊池九郎と本多庸一の強い個性がそのまま学校運営、教育に生かされていたことが挙げられる。官立の学校はすべて東京大学を頂点とする中央の教育カリキュラムに準じて教育がなされており、その意味では地方から東京大学を超える学校は出現しないことになる。ミニ東京大学のさらにミニ、ミニ、ミニ学校が地方に作れるだけである。また校長はじめ教職員も転勤を繰り返し、非常に薄められた教育理念しか学校に定着しない。これらが官立学校の卒業生の質を決定したのであろうと推測される。

 このことは現在にも当てはまり、私立の開成、麻布中学高校の人物一覧(http://ja.wikipedia.org/wiki/開成中学校・高等学校人物一覧、http://ja.wikipedia.org/wiki/麻布中学校・高等学校人物一覧)と弘前高校、青森高校(http://ja.wikipedia.org/wiki/青森県立弘前高等学校の人物一覧、http://ja.wikipedia.org/wiki/青森県立青森高等学校)を比較するとその差に愕然とする。とくに戦後の卒業生ではより顕著である。先に挙げた東奥義塾の例のように津軽に優秀な人材が少ないということではない。将来を見据えた教育機関、教育者の問題であり、単に東京大学入学者数が何人であるといった表面的な成績ではない。

 教育とはその結果が出るのが数十年先のものである。校長、教員が数年おきに変わるような現在の公立学校の現状では、個々の先生の資質により生徒の将来に影響を及ぼすことはあっても、学校として優秀な人材を育てることはほぼ不可能ではないかと思われる。実現は難しいと思われるが、優秀な校長のリーダシップがとれるような体制と、教師の短期の転勤はさせないような構造転換が必要かもしれない。今のところ、優秀な中高一貫の私立には、受験においても、人材育成においても公立高校は勝てないのではないかと思われる。

 山田兄弟にしても、珍田捨巳、笹森儀助にしても、いわゆる一高、東大を出たエリートではない。エリート体制の出来ていない明治の時代であったからという声もあろうが、青少年期に先輩、教師から植え付けられた強い使命感、熱情こそ、人物を育てる要と思われる。本シンポジウムでは「教育」、「人材育成」、「人脈づくり」を弘前の地域活性化、街作りの重要なヒントとして挙げたが、かっての東奥義塾、これは笹森順造の後期の義塾にも当てはまるが、べらぼうな高給で日本中から優秀な教師を集め、明確な教育方針で世界に羽ばたく人物養成を目的とした。高い教育理念を掲げる指導者と教育機関が必要であり、文科省の教育方針とは違った地域独自の公立高校のあり方を探る、あるいは現義塾高校の再度の復活を期待したい。

今回のシンポジウムでは、笹森家から弘前市に笹森儀助の書簡はじめ貴重な資料の寄贈があった。弘前の文化人の多くが、どちらというと文学畑のひとが多く、小説家は取り上げられても笹森儀助、陸羯南、山田兄弟、珍田捨巳、一戸兵衛などそれ以外の人物は取り上げられなかった(こういうこともありこのブログではいわゆる文学関係の偉人はあまり取り上げていない)。郷土文学館という立派な施設もあるが、私に言わせばいまさら石坂洋次郎はないだろうという気もある。名称変更と展示内容の見直しを期待したいし、笹森の資料も常設の展示を希望する。かって笹森の服が青森商業高校の倉庫に忘れられ、しまわれたままになっていた愚は絶対にさけたい。

2008年11月3日月曜日

奈良美智




 「ふるさとは遠きにありて思うもの」。離れて初めてふるさとのありがたみがわかる。雑誌ブルータスの最新号で、愛する地方都市という特集の冒頭で弘前が取り上げられ、現代アートの奈良美智さんのインタビューが載っていた。

 「以前は、郷土愛やお国自慢が嫌いだった。だけど、それはきっと自分と故郷が近すぎたというか、客観的に見ることができなかったからだと思うんだよね。今は郷土愛やお国自慢をする気持ちも理解できるようになった」、「太宰の津軽って小説に弘前のことが津軽人の魂の拠りどころであるなって書かれているのを読むと、結構じいんときたりするようになりました」、「正岡子規を育てた陸羯南や、明治期の探検家の笹森儀助とか、そういう人たちが隣町にいたっていう歴史を聞くのが、最近すごく面白くてね。弘前に住んでいた子供の頃は全然興味を持てなかったのに」

 私の場合は、よそから来て、逆に改めてこの地の偉大さがわかり、地元民の無関心さにやきもきしているところだが、案外多くの津軽の人たちは奈良さんと同じような感覚なのかもしれない。外から眺めてみて初めてわかることは多く、幕末の先人たちも日本各地を訪ね歩き、藩という枠組み外から見ることで初めて日本という国家、明治維新の必然性を学習したのであろう。これだけ人の移動が容易になった今の時代でも、弘前では100年以上同じところに住んでいる家も結構ある。昨今の不況により、地元への就職先がないため、しかたなく都市部へ就職するが、やっぱり地元が一番、東京は怖いと感想をもらす若者も多い。こういった若者たちは、いったん外から弘前を眺める貴重な経験を積んでおり、新たな町おこしの旗手になっていくに違いない。

 今日の東奥日報でもドイツで活躍する弘前出身のコンテンポラリージュエリーアーティストの鎌田治朗さんのことが紹介されていたが、奈良さんの影響か、今弘前でもアートに対する関心が高い。あちこちで小さな作品展が行われ、新しい作家も登場している。作家、音楽家、画家といったアーティストの系譜は連綿と続いており、津軽の風土はこういった芸術家を育てるにはいい所かもしれない。ただこれもしょうがないことかもしれないが、地元では評価されず、また活躍の場もない。いやむしろ、地元に執着する必要もなく、どんどん東京や海外に機会を求めて進出してほしい。

 奈良さんのようなアーティストや作家などは近年でも地元からたまに現れているが、一方珍田捨巳、笹森儀助、山田兄弟のような人物は戦後出現していない。現在では、いわゆる偉人と呼ばれるジャンルの人物自体が消滅しており、かすかに残るとすれば、アフガニスタン復興に命をかけるペジャワール会の中村哲さんや元国連難民高等弁務官緒方貞子さんのような人道支援の人物が該当するかもしれない。このようなジャンルの人物を地元から輩出するには、風土としては適しているが、武士道、キリスト教に代表される精神的なバックボーン、教育が欠如している。かっての藩校稽古館や東奥義塾のような教育機関あるいは菊池九郎や陸羯南のような教育者が必要なのかもしれない。

 ロータリ財団奨学生という制度がある、これは国際ロータリー財団が奨学金を出し、地域の優秀な若者が海外に留学し、研究することを支援するシステムで、弘前からも実に優秀な人物が出ている。先にでた緒方貞子さんもこの奨学生である。この制度のいいところはお金だけでなく、海外の有名大学も財団奨学生なら受け入れるという了解があること、留学先のロータリークラブが奨学生を世話をする点である。昔に比べて、今はお金の問題よりは希望の研究、仕事をする機会が与えられない点が大きく、夢を実現するためには何らかの架け橋をする人物、機関が必要である。県外あるいは海外にいる弘前出身者も多くの縁故を持っているはずでそれを使い、とくに海外への留学、仕事を希望する地元の若者が夢を実現するような何らかの機関、システムがあればと思う。奈良さんもドイツに留学する際には結構苦労したのではないかと推察する。

2008年11月1日土曜日

石油の支配者




 新書は、内容の薄いものと濃いものにはっきり分かれるが、今回紹介する浜田和幸著「石油の支配者」(文春新書)は後者に属する。少し前、ガソリン価格が急に高くなったことは記憶に新しく、日本中に大きな混乱を招いた。供給先の中東に戦乱が起こり、供給が減った訳でもなのに、いきなり価格が高騰した。なぜという疑問から、本屋で何気なく買ったものだが、この疑問に親切に答えるばかりでなく、さまざまな私のとって新たな知見を与えてくれ、実に内容の濃い本であった。

 内容については本書を読んでもらえばわかるが、結論からすれば、ガソリン高騰の犯人は投機マネーとドル安ということである。1バレルの原価は、おおむね10ドル以下、アフリカの場合は、50セント以下であり、産油国はこの価格以上売れば、利益がでる。現在、世界中の投機マネーの総額は、一京7000兆円という信じられない額にのぼり、これは世界中のGDPの400倍という数値になる。この途方もない金が利益の上がるところに動いていく。そのごくごく一部の金が、長期保有を意図した原油先物市場に流れ込んだ。インデックス・スペキュレータと呼ばれる投機筋が使う当てもなく買った原油は、2008年5月の時点で11億バレルという。同じような手法で彼らはトウモロコシや小麦も買い占め、すでにアメリカの需要の2年分の小麦を買い占めている。ただこの買い占めは、投機マネーからすれば、25の主要商品を扱う先物市場全体で1800億ドルに過ぎず、全体の投機マネーのごくごく一部でしかない。膨大な金が世界中を駆け巡り、あまりの巨大さのため、ちょっと方向が変わるだけで、世界中が大混乱する時代になったといえよう。

 もうひとつの原因として、アメリカドルの下落が挙げられる。原油の取引についてはドル建が原則である(ペトロダラー)ため、ドルの相対的価値が下がれば、それだけ原油が高くなる。アメリカはすでに物を作って売る国ではなく、金を売る国になっているため、常に金が入らなけらば回らない国になっている。莫大な財政赤字の上、今のような金融崩壊になるとドル暴落の可能性も高い。その萌芽としてドル下落が原油価格の高騰に影響したとも言えよう。

 本書で最も興味深かった点は、石油は化石燃料で有限であるという説(ピークオイル説)に対して、石油は地球内部から染みでる汗のようなものであり(原油自然発生説)、原油は無限にあるという「原油無限説」が紹介されているところである。これは全く知らなかった。もしこれが本当なら、すべてのエネルギ政策が無意味なものなる。全く荒唐無稽な説のように思えるが、ロシアでは旧ソ連時代からまじめに研究されており、近年になり超深度掘削技術が開発された。ロシアの枯渇したと言われる61の油田のうち37の油田で再び生産が開始され、今やロシアは産油国となった事実を見ると、あながちうそとは思われない。実際にメキシコ湾の海底油田でも完全に枯渇したと思われる油田を再開発したところ、最盛期の日量に達し、埋蔵量も6000万バレルから2億バレルに拡大されたという事例もある(ユウジン・アイランド油田)。

 そういった観点からみると我が国でも、写真のような資源探査船が登場してきている(写真は資源探査船しげんとちきゅう)。「ちきゅう」にいたっては排水量は59.500トンもあり、最初聞いたときは桁が間違っていると思ったほどだ。何しろ旧海軍の大和よりは少し小さいくらいの重さで、たかが海洋研究のためによくもこんな船を知らぬ間に作ったなあと思ったが、海洋国家日本のエネルギー政策からすれば重要な切り札となろう。高校地図で確認すればわかるが、日本は土地こそ狭いが、東西南北の国境(島)を結ぶと、世界で6番目の管轄水域をもつ国である。やりようによっては海洋資源の活用がまだまだできそうであり、あまる語られないがひとつの国策となっているのであろう。

 他にも携帯電話一台につき、0.03gの金が含まれており、うまくリサイクルすると日本都市鉱山から発掘される金の量は6800トンで南アフリカより多いといった記述も含めて、大変充実した内容の本である。世界金融危機の理解にも参考になる。

2008年10月26日日曜日

デイパック






 私が大学生のころ、1975年ころですが、「ポパイ」という雑誌が若者たちのバイブルで、随分影響を受けました。当時、アメリカの若者たちに間ではバックパッカーとよばれる人たちが、大きな荷物をリュックに詰め込み旅行することがはやり、次々とアウトドアーのメーカが創設されました。私も雑誌で取り上げられていたデイパックがどうしてもほしくなりました。そのころ一番有名だったのがシェラデザイン社のティアドロップ型のものでしたが、なかなか地方(仙台)では手に入りませんでしたし、何よりも高くて手がでませんでした。そこで、仙台の登山用品を扱う店に行き、物色しましたが、大型の登山用のリュックはあっても、小型のものがなく、ようやく探し求めたのが上のデイパックです。3000円くらいの国産のもので、ロゴも入っていますが、ネパール語?(hisamatsu?)で書かれていて読めません。高かったノースフェイス60/40パーカ(本当はシェラデザインが欲しかったのですが)とカンタベリー社のラグビーシャツを着て、このデイパックに教科書から何でもこれにつめて学校に行っていました。信号を待っているとよくおばさんからどこの山に行くのと聞かれました。最初、こんな格好で出歩くのは相当かっこ悪かったのですが、現在ではデイパックは老人の必需品となっています。

 次に買ったのは、パタゴニアの創始者で有名なシュイナードのバックパックです。旅行用に買ったもので、このバッグも思い出が多いものです、インドに1か月旅行に行った時もいつも一緒でした。デリー、アグラ、ウダイプール、ジャイプール、カトマンズ、ナムチェバザール、エベレストベースキャンプもこれを担いで行きましたし、文化革命直後の中国にも持っていきました。その他、国内のあちこちにこれを担いで旅行しましたが、さすがにここ10年ほどはお蔵入りしています。家内は早く捨てろといいますが、思い出が詰まっていてなかなか捨てられません。また最近ではアウトドアーブームも再燃してきており、多少はオークションなどで売れるかとも期待しています。

 最後のは2年間に買ったもので、昔欲しかったシェラデザインの復刻がでたというのでインターネットで9800円くらいで買いました。昔はもっと高かったような気がしますが。それでも今では20000円くらいしますので早く買って正解でした。冬場は両手が使えるため、ごついダウンジャケットを着て、このデイパックに弁当を入れて出勤しています。おっさんなのに若いかっこうをしてと言われますが、昔の格好をしているだけですし、冬場の津軽にはソレルの防寒シューズとダウンジャケットはそれほど大げさな装備ではありません。


 最近読んだ本、「破天 インド仏教徒の頂点に立つ日本人」(山際素男 光文社新書)。こんな日本人がいるのかと感心しました。以前からインドでは不可触民を中心に仏教がはやっていることは知っていましたが、その指導者が日本人とは知りませんでした。これほど個性的で、そうとうアクのある人物ですので、日本ではへたをするときちがい、狂信者を思われるかもしれませんが、インドの大地に見事に適用して活躍しています。本書にでている写真は、歯の抜けたヒッピーのような精悍な人物ですが、最新号のプレイボーイ誌の特集では入れ歯も入れ、やや太ったため貫禄もでています。インドのカースト制度こそインド社会における最大の問題であり、これに果敢に戦う姿勢には感動を覚えると同時に、つい日本の仏教、僧侶との対比を考えてしまいます。本当に宗教のすごさ、こわさ、パワーを感じます。

2008年10月24日金曜日

津軽の愛すべきもつけ・じょっぱり 2









 前回、近所のお店を紹介して、よくこんな商売でやっているなあとと言いましたが、今月の家庭画報ショピングサロンに近所のものが紹介され、驚きました。家庭画報というと都会のセレブなミセスが読む、ハイソな雑誌で、それに掲載される商品は厳選されたものです。かって日本臨床矯正歯科医会でも啓蒙広告を出そうと、広報会社と相談したところ、家庭画報は掲載の審査がきびしく、美容整形などの広告は一切出さない方針で、こういった雑誌に出した方がよいという結論となり、何度か掲載していただきました。

 今回掲載されたのは、岡野建具のヒバでできたりんごの脚立です。家から20mくらいのところにある作業場は毎日通るところですが、いつも一人の老人が脚立を作っています。作業所は、こんなこと言うと失礼ですが、微妙に傾いており、いつも地震の度に心配になりますが、平常通り、作業が毎日続けられています。木の乾燥、切り出し、取り付け、仕上げまで丁寧な作業が続きます。とはいえ、今時アルミの脚立が主流で、リンゴ農家でも木製の脚立を使うとこは少ないと思ってましたが、こういう風に全国に販路を伸ばしているようです。なかなかしぶとく商売をしています。

 同じようにうちの3軒隣の宮本工芸も以前、家庭画報で紹介されたことがありました。近所で2軒のお店が家庭画報で紹介されたことになります。宮本工芸も外観からすれば、それほどきれいでなく、また商品も結構高いので、弘前でこれを買うひとはしれていると思っていましたが、都会では結構売れるのかもしれません。

 岡野建具の横には「じょっぱり鋸や」というリンゴ用の鋸の販売、修理をおこなっている店もありますし、和徳町にはブリキ缶に入った津軽飴を売っている店もあります。この津軽飴というのは麦芽の水飴で、はちみつのようなものと考えてもらえばいいのですが、ようするにただの水飴です。昔、紙芝居の時のもらったあの飴です。またねぶたの時に使う津軽笛を生産、販売しているところもあります。

 また市内のあちこちには、ガラスの陳列ケースに入り、100グラムいくらで売るせんべい屋も多くあります。この津軽せんべいというのも、おいしいもので、特にピーナツが入ったものはお気に入りです。

 大阪、東京などの都会っでも昭和40年ころまではこういったお店も多くあったと思いますが、スーパーの発達により今は完全に消滅しています、ただ津軽のは、いまだにしつこいというか、もつけというのか、強情というのか、がんばって商売しているところがたくさんあります。逆に今では、かえって若い人に注目されて雑誌にも取り上げられ、販路も日本中になっているのかもしれません。

 中央から離れているせいか、ここ津軽にはまだまだ古いものが残っていますが、経営者は高齢化しており、このままではいずれ消滅します。新幹線開通の機に、観光客用のマップや、あるいは市の観光課などが雑誌やテレビの取材用の案内をするのもいいのかもしれません。日本臨床矯正歯科医会の広報の仕事を見ていると、いかにマスコミの中に入り、それを上手に利用することが必要と思われます。担当者が、マスコミ関係者を呼び、昼食会をしたり、情報の提供を求められたりした場合は誠実に対応し、きちんとした資料を渡す、これまでマスコミで取り上げられた実績をファイルにしていつも出せるようにする、こちらから積極的に材料を提供するなど、広報活動の活性化が必要です。できれば広報関係に長く従事したプロを市の職員として雇うのもいい方法です。マスコミは意外に保守的で狭い、社会です。

2008年10月18日土曜日

津軽の愛すべきもつけ・じょっぱり


 津軽弁の「もつけ」とは、調子にのりやすい(飲めと言われれば飲み、踊れと言われれば踊る人)ひょうきん者 ・変わり者 ということらしい。何かにつかれたように、そのものだけに熱中するひともこのもつけと呼ばれるが、こういったひとは津軽の地には多い。

 司馬遼太郎の北のまほろばに、次のような文章がある。「以前、韓国に知識人が「日本史でうらやましいのは、奇人や変人が多いことです。」といってくれたことを思い出した。他から命ぜられたり、そのことによって利益を得るわけでもないのに、自分が決めた何事かをなしとげるのが奇人とすれば、青森県にはそういった精神の風土がありそうである。」

 山田良政、純三郎兄弟は、中国革命、孫文もつけと呼べようし、笹森儀助は探検、調査もつけ、本多庸一はキリスト教もつけ、前田光世は格闘技もつけ、陸羯南はジャナリストもつけ、葛西善蔵は小説もつけ、東北きっての社会福祉施設を作った佐々木五三郎(写真)も慈善もつけと言ってもよいほど、人生そのものを犠牲にして何事かに熱中した。日露戦争中に中隊規模で敵地を攻撃した一戸兵衛も軍事もつけと呼んでよさそうだし、外交一筋で海外とやりあった珍田捨巳も外交もつけと呼べよう。

 こういった個性の強い、独自の生き方をするひとの系譜は、今なお津軽には流れており、先に紹介した無農薬、無肥料でにリンゴ栽培を行っている木村秋則さんや食材のすべての自給自足を目指すイタリア料理の笹森通彰さんも、がっちりこの系譜に連なる。また日本では全く評価されなくても独自の絵画を目指し、今や最も注目されている現代アーティストの奈良美智さんも、そうであろうし、こんな小さな街で独自の演劇を試行し、国際的にも評価の高い弘前劇場の長谷川孝治や、寺山修司にも言える。

 明治以降の教育とは国民に画一的な教育を施し、点数のみにより評価するもので、こういった特徴ある人物は創られない。それなのに弘前の地ではいまだに、個性のある人物が輩出する。ただ時代の流れによるのか、近年は芸術家が主体をなしているが。


 山田兄弟においては、こういった個性が地方に埋没せず、活動できたのは、陸羯南、一戸兵衛、菊池九郎などの郷土の先輩や後藤新平、児玉源太郎、満鉄理事の犬塚信太郎のひきがあったためだろう。近年、有能な若者が郷土から出ても、郷土の年配者や有力者によるひきが少ないことも、芸術以外で中央や世界で活躍するひとが少ない理由であるかもしれない。

 以前大学にいた時、医局の講演でよんだ東北大学歯学部口腔外科の手島教授を空港まで出迎えたことがあった。手島教授は医局に来ると、ちょっと紹介したいひとがいると言われ、私のような新米助手を医学部長にところまでわざわざつれていって紹介してくれたことがある。また山田兄弟のことで東京に行ったときには、ある人物がわざわざ人を集めていただき、面識をもつように仕向けてくれたこともある。愛知大学主催の講演会では受付にいたひと、実は愛知大学OB会の顧問の方だが、教授はじめ色々なひとにその場で紹介いただき、大変ありがたかった。このような目上のものが、若い人を重要な人物に引き合わせることは、東京などの都会では割と行われているのいかもしれないが、残念ながら弘前ではこういった経験はない。

 こんなことを考えていると、近所にももつけ、じょっぱりのひとがたくさんいるようで、リンゴ用のはしごを作っているところや、あけび細工の店、豆腐屋、納豆屋、畳屋、のこぎり屋?や銭湯などもあり、今時こんな商売本当にやっていけるかと思われる、東京や大阪ではとっくに滅びている商売をがんこにやっているところがある。夏にはひとりで金魚を売り歩くおじさんもいる(最近は見かけないが)。


11月8日に弘前文化センターにて東奥日報主催で「津軽・偉人を生む風土」笹森儀助書簡集発刊記念シンポが開催され、小林和幸教授はじめ多数の学者によるパネルディスカッションがある。残念ながら土曜日は仕事が忙しくて参加できないが。こういった津軽のもつけに対する学問的なディスカッションが行われると思われる。

愛すべき津軽のもつけ・じょっぱり、万歳!

2008年10月16日木曜日

第36回日本臨床矯正歯科医会大会





 10月14日,15日に静岡県掛川市のヤマハリゾート つか恋で行われた日本臨床矯正歯科医会大会に出席してきました。ヤマハつま恋といえば、私たちの世代には吉田拓郎、ポップコーンといったイメージがあり、期待しましたが、もう全盛期は過ぎたのでしょうか、何となく寂れた印象ももちました。部屋は4人用の部屋で、ここに一人で泊まるのは本当に寂しい思いがしました。部屋からインターネットにもつながらず、夜も食べるところが限られ、やや不満がありますが、大会自体は関係者の努力により大変思い出深いものになりました。

 今回、アンコール症例発表ということで、「ツインブロックを用いたClass II div.2症例」というタイトルで発表しました。協力をいただきました患者さんには感謝します。ただ一例症例では、30分という時間がもたないことと、いい症例を出してもあまり勉強にはならないと思い、1995-2003年に治療を行った上顎前突症例についての調査結果もあわせて発表させてもらいました。ツインブロックなどの機能的矯正装置を用いた70症例のうち、非常に効果があったのは50%、少し効果があったのが15%、効果はなかったのは15%という結果でした。機能的矯正装置は患者さんにより効果があるひとと、そうでないないひとに分かれる結果となりました。遺伝的な要因により、成長のポテンシャルのない患者さんではあごがあまり大きくならないようです。ただマルチブラケット装置による仕上げの治療の前に下あごの成長の良否がわかることは抜歯部位や治療を考える上で大きな参考になると思います。

 講演が最後の演題でしたのでもう一泊して、少し掛川市内も観光しました。掛川城というのがありますが、平成になって再建されたものなので、何だか映画のロケ地のような感じです。それでも鉄筋コンクリートではなく、木造りでしたので雰囲気はありました。お昼はタクシーの運転手さんから聞いたうなぎ屋さん(甚八)に行きました。かなり込むと聞いていましたので11時15分くらいに行くと、さすがに一組しかいませんでした。さばき、焼きと原則に沿って調理していましたので、20分くらい待ちました。その間にあっという間にお客さんが来て、外まで順番待ちの状態で人気店のようです。味は最高でした。うなぎ自体は小さいのですが、外はぱりっと中はジューシに調理されており、本当に久しぶりにおいしいうなぎを食べました。また料金もリーズナブルで確かうな重の竹で1550円くらいでした。うなぎと言えば東京の新宿のデパートなどでは4000円くらいしたのを食べましたが、ごく普通のもので身はぶよぶよしており、最近ではうなぎなんてこんなものかと思っていましたが、さすがうなぎの地元ではこんなうまいところがあるようです。また注文をしてすぐに出てくるようなところはどっか手抜きがされているはずです。4人席が4つと6人のカウンターのみのお店ですが、注文がきてから2人でさばき、おばちゃんが焼くといったこのスタイルでは、いくらお客さんがきてもこの席数が限界なのでしょう。店の造りはそれほどではありませんが、この調理スタイルは非常にポリシーが感じられ、好感がもてました。このウナギを食べれただけでも掛川に来たかいはありました。うなぎ好きなひとは是非おさえておきたいお店です。

2008年10月13日月曜日

BD-1



 先週の金曜日からたて続きに行事が続いています。先週の金曜日には、東北青色申告連合会が青森市でお昼から夜まであり、診療は休診。土曜日はロータリークラブの地区大会が五所川原市であり、朝から夜まで出席、またもや休診。日曜日も午前中の大会に出席。本日、月曜日は祝日ながら土曜日のかわりの診療。明日から木曜日まで日本臨床矯正歯科医会出席のため静岡の掛川市に行きます。またもや休診。10月は例年学会や色々な行事が重なり、休診がちです。このあたりが一人でやっている医院の問題点です。従業員は喜んでいますが。

 さて前にレニャーノの自転車を紹介しましたが、今回は折りたたみ自転車のBD-1を紹介します。街乗り用にと思い、確か8,9年前にこれも近くの自転車屋で買いました。ドイツのダームスダット工科大学のマーカス・ライズとハイコ・ミューラーが開発したため、会社名は「r&m」となっています。折りたたみ自転車の傑作と呼ばれ、今でも改良されながら、販売されています。

 折りたたみ自転車もタイヤの大きさが色々ありますが、16インチじゃ少し小さすぎてスピードが出ないため、18インチのこれにしました。オプションの「3 Way Bag」も一緒の買いましたが、結局は折り畳んで、旅行に行くこともありません。普段もほとんど折り畳んで使用することはありません。また荷物をシートポストに取り付けるキャリアも購入しましたが、支えが複雑なためすぐに撤去しました。

 当時、ハンドル形態が少し、オリジナルより内側に倒れているBD-1Cというタイプがありましたので、あまり前傾姿勢でこぐのも苦痛ですので、これを選びました。正解でした。

 折りたたみ自転車の割のはスピードも出やすい自転車ですが、サスペンションが妙な感じで、落ち着けません。またタイヤが小さいためか、しょっちゅう空気が減り、高めの空気圧で乗るためには毎回空気を入れる必要があります。またハンドルステルの初期のものは溶接でしたので、若干不安があったのですが、それが的中して、一度運転中にステムからハンドルが急にはずれて、危うく事故になるところでした。その後はネジによる固定に変えられましたが。ただ、ハンドル部の折りたたみ部分は今でも強度的には心配です。タイヤは変えましたが、その他はオリジナルのままです。ハンドルバーとディレーラーをもう少しいいものに変えたい気がします。

 折りたたみ自転車というと僕たちの世代はブリジストンのピクニックというのを思い出しますし、高校生ころに乗っていた気がします。今でもあるのでしょうか。自動車のミニを彷彿させるようなかわいい自転車でした。

2008年10月6日月曜日

住吉町




最初見た時は印象的な景色でも、そこに住み、毎日眺めていると、当たり前の景色になります。中央弘前駅から坂を登ったところにあるのが、弘前昇天教会です。レンガ造りの古い建物で、冬の雪の多い季節に初めて見たときは、別世界にいるような気がしました。子供が明星幼稚園というこの教会の附属幼稚園のようなところに通っていたため、何度か日曜礼拝にも参加しました。大正10年に建てられた教会で、椅子席とじかに床に和式で座れるようになっています。イギリスの聖公会の教会なので、内部の装飾はカトリックのものに比べて質素ですが、どこかしら明治のにおいのする建物です。中央弘前からのこの坂はなかなかいい風景です。

この道を右に曲がったところに、吉井酒造煉瓦倉庫があります。ここでは3度、現代美術の売れっ子の奈良美智の展覧会が行われました。3度とも、実にいい展覧会でした。ほとんど全国から集まったボランティアで展覧会は作られましたが、さすがの奈良さんの作品も建物の存在感に負けそうで、ようやく3回目にA to Zで調和した感じです。古い建物をこれほど、うまく活用した例はあまり知らず、奈良さんの作品と建物が一体となって優れた作品になったと思います。最近の美術館と言えば、近代的な建物で、有名な建築家が奇をてらった建物を建て、競っていますが、はっきりいってこの煉瓦倉庫には勝てないと思います。建物自体の、壁、天井、梁そのものに歴史があり、訴えてきます。最後のA to Zで、倉庫の2階で奈良さんの海と船を表現した大きな作品がありましたが、これなんかどこの美術館でもこれほどの作品のスケールは表現しえなったものと思います。そういった意味で、奈良さんの作品は青森県立美術館はじめ、多くの美術館で展示されていますが、この煉瓦倉庫での展覧会を超えるものは出てこないと思います。これをみた人は本当に幸せです。

昨日はここで青森犬?の写真展がやっていました。倉庫の入り口では若手のアーチストの手作りの作品が販売されたりしていました。この犬は展覧会の収益で作られたもので、この大きなものが青森県立美術館のあります。埴輪のような地中に埋められているよりは、屋外にはなされた、ここの方が犬にとっても幸せそうで、作品としてしっくりきます。

煉瓦倉庫の周辺の場所はすでに市が購入したようですが、建物自体の購入は交渉に難航しているようです。いずれは何らかの美術館には
なるとは思いますが、何とか現状のまま活用してほしいものです。横浜の煉瓦倉庫、金沢の煉瓦倉庫、函館の煉瓦倉庫のように外の煉瓦のみ残し、中は別の建物というのでは価値が一気に下がります。二階に上がるのに重量制限があり、数人ずつ細い階段に登る方がよっぽど、ドキドキして面白い体験になります。あまり早急に結論を出さず、中身も何とか現状のまま美術館にする方法を考えてほしいと思います。

2008年10月5日日曜日

弘南鉄道





 弘南鉄道は、現在2つの路線があります。弘前ー大鰐間の大鰐線と弘前ー黒石間の弘南線です。最初、弘前に来たときは、こんなところにも私鉄があるんだなあと思いました。関西の私の感覚では、私鉄といえば阪神や阪急のイメージが強く、こんなちっぽけな私鉄がまだ残っているのが不思議な気がしました。また写真の中央弘前駅は始発駅ですが、本通りの裏に隠れたようにあり、ちょっとしたバス停のような感じです。とても始発駅とは思えないようなかわいい駅です。こちらに来て、1年ほどこの中央弘前駅から西弘前駅まで通っていましたが、四季それぞれの弘前の風景が見られ、楽しい思い出です。さらに大鰐までこの路線で行くと、桜やリンゴ畑も見られ、ちょっとしたローカル鉄道の旅を楽しめます。

 使っている車両は、東急電鉄の古い車両で、鉄道マニアのはたまらないようです。沿線に写真を撮っているひとも何度か見かけました。折りたたみ自転車などを持ち込めば、ぐっと活動範囲も広がります。朝夕は沿線の高校生で結構込み合いますが、それ以外はがらんとしています。30分に1本くらいで運行しており、弘前に観光にきた際は、鉄道ファンでなくても利用したらどうでしょうか。車では見られない風景が見られます。

 今のように車社会の中で、こういった小さな私鉄を維持すのは経営的には大変で、かっては全国にも多くのこういったローカルな私鉄があったのですが、今やほとんどはなくなっています。ただ最近ではエコブームを反映してか、お荷物の市電も各地で復活されているようです。以前いた鹿児島でもお城に方に行く路線が、車の邪魔になるからといって廃止され、もう一線の鹿児島ー谷山の路線も廃止されそうになっていましたが、何とか存続され、今に至っています。一度廃止すると復活はできません。ガソリン代の高騰や、エコのためにも是非ともこういった小さな私鉄は残してもらいたいと思います。できればヨーロッパで行われている自転車を直接持ち込める車両(朝夕を除く)や、全国の鉄道ファンを集めた催しなどしてほしいと思います。

 中央弘前駅近辺には観光スポットもありますので、次回紹介します。

 鉄道と言えば、私の友人が、これも鉄道ファンには有名な五能線に蒸気機関車を走らせようとがんばっています。なかなか費用がかかようですし、D51など大型の上記機関車は線路自体の大掛かりな補強が必要で、小型のものしか走らせることができないといった制約もあるようです。興味のある方は 五能線活性化倶楽部(http://www.gonousen.jp/) をご参照ください。あの五能線に機関車が走れば、さぞすばらしいことでしょう。

2008年9月30日火曜日

山田兄弟17





 総理大臣となった麻生太郎首相の座右の銘は「天下為公」であり、中国の古典「礼記」の一節である。自分の政策集団の名前も「為公会」と名付けるほど、この言葉が好きなようだ。天下は権力者の私物ではなく、公(そこに暮らす全ての人々)の為のものであるという意味らしい。

 この言葉は、孫文が最も愛した言葉であり、山田純三郎に送られた書にも書かれており、多くの人にも頼まれるとこの言葉を揮毫した。「大道之行也 天下為公」で一対であるようで、為すの意味に二通りの解釈があり、「天下は公になる」では“大道”(正道、常理)が正しく実践された時、天下は人々が共有するものとなる”と解釈され、「天下は公のため」では前者の解釈となる。孫文も麻生首相も後者の意味として用いているようだが、社会主義の国では大道が共産主義という言葉で置き換えると後者の意味となる。日本の首相の座右の銘が「天下為公」と報道されれば、これは台湾、中国の人々からみれば孫文を連想させるものであり、麻生首相はそこまで考えて座右の銘としたかはわからない。いずれにしても好意的に見られる戦術である。


 麻生首相の祖父、吉田茂も、上の写真のように安東領事時代、山田、蒋介石の満州への革命工作の行状を本省に送っており、欧州勤務後の奉天領事、天津領事の時も、中国情報獲得のため山田とも面識があったと思われる。昭和10年の「孫文の雄図を懐ふ」(山田純三郎)の中にも、「孫氏は、突然どうも胃の具合がよくないと大分苦しげに訴えられた。当時のわが天津総領事の吉田茂君が、直ちに医師を呼んでくれた」の記載があり、面識があったようだ。安東領事の後、吉田はパリ講和会議に岳父牧野伸顕とともに訪欧し、そのままロンドンの日本大使館の一等書記として赴任する。ここでは昭和天皇ヨーロッパ外遊のお膳立てをすることになり、随員として参加した弘前出身の外交官珍田捨巳とともに行動する。珍田は岳父牧野の友人であり、パリ講和会議以来さらに親しい関係になったと思われる。天津領事の時には、珍田から山田純三郎のことを聞いて、面識があったのだろう。


麻生首相が孫文の愛した「天下為公」を座右の銘をする背景には、孫文を核とした日中、日台、アジアの友好平和のシグナルとしてとらえてもよいのかもしれない。