2018年7月16日月曜日

150年前の幕末・明治初期日本

 
 高くて、本屋で買うかどうか、かなり迷ったが、買ってしまった。「150年前の幕末・明治初期日本」。明治初期に来日した二人のオーストリア写真家、ブルーガーとモーザーのガラス原板の写真を高精密画像で紹介した写真集である。こうした明治初期の外国人が写した写真集はこれまでにもあったが、この写真集ではそれをデジタル撮影して高倍率に拡大して周辺に写っている人物、風景を紹介している。普通なら5000円以上する書物は専門書以外買わないが、その前に渡辺京二著「逝きし世の面影」を読んだだけに、当時の日本を読むだけでなく、実感するのは写真が必要だと思った。同書には多くの外国人が幕末、明治初期の日本を清潔できれいだと感嘆しているが、「150年前の」にある写真を見てみても、農家、商家、町家とも家の前はきれいに掃除され、写っている人々は武士、農民、商人ともこざっぱりとしていて、確かに清潔である。当時、写真を撮るには数秒以上の露出が必要だったので、写真に写る人々は前もって動かないように指示されたであろうが(知らない人は動いたので亡霊のように写っている)、周りの風景ごとわざわざきれいにしたとは思えない。道をよくみると小さい黒点がところどころあり、馬糞であろう。

 「日本人は貧乏人はいるが、貧困は存在しない」とチェンバレンは言ったが、江戸時代にもスラムあるいは貧乏人の住む長屋はあったろう。ただ粗末な家、衣装ではあったが、汚いわけでないし、臭いわけでもなかったのだろう。「150年前 」写真集には、幕末の横浜の中村川から南一ツ目沼あたりの風景写真が載っている。川沿いには農家が写っているが、どの家のきれいに掃除がされ、屋根の藁葺きも整っている。対岸の菓子屋、団子屋、荒物屋などの写真もあるが、これも道には馬糞があるもののきれいに掃除され、きちんとされている。どの家も決して裕福な家ではなく、むしろ貧しいといってもいい家なのだろう。それでも写真を見る限り、決して貧困とは思えないし、むしろ美しい風景と思える。ところがこの数年後、南一ツ目沼が埋め立てられ、簡易宿泊所が多く建てられ、横浜でも有数のスラム街となる。小さな部屋の多数の人が寝起きし、不潔な環境で、病気が蔓延した。貧困の誕生である。おそらく西洋型のスラム街が発生するのは明治になってからだと思われる。江戸時代にも貧乏人が多く住む地域があり、学者によれがスラム街とされているが、ごみ、糞尿が捨てられ、不潔で、生活の乱れた近代型のスラムとは異なり、秩序だった、整頓された区域だったのだろう。

 さらに「150年前の」の写真集に載っている人物の着物姿が現代人とはかなり違った印象を受ける。まず女の人の着物の打ち合わせがものすごく緩い。襦袢がかなり見え、着物を打ち合わせの位置が低く、さらに帯の位置も低いし、着丈も短い。かなりゆったりと着物を着ていて、動きやすそうである。生活の根ざした着物である。もちろん屈んだりすると乳房が見えるかもしれないが、そんなことはおかまいなしといった感じである。着物自体も古着なのであろう、かなりくたびれた感じであるが、かえって動きやすそうである。庶民の着物姿は、肖像写真に残されたものより、こうした風景画の中に写る人物の方がより実際に近いのは、今でも写真館で写真を撮る場合は普段と違っておしゃれするのと同じである。

 江戸時代は、今でいうリサイクル社会であり、着物は何度も古着として使われ、さらにおむつ、雑巾などに使われてから燃やされる。糞尿は近辺の農家の者が買いにきたし、「150年前の」写真集にも写っている路上の馬糞も馬糞拾いという商売があり、それを集めて農家に売った。このことは馬糞売りという特殊な商売で生活が成り立ったことを意味するし、さらに競争が激しいと共倒れするため、専業だったのだろう。江戸時代は厳格に職業と数が決まっており、常に供給過多にならないように株がないと仕事ができないようにした。さらに江戸時代は盲人は座頭という団体に所属し、鍼灸、按摩などは専売となったし、金貸しなども許された。逆に健常者は鍼灸、按摩は基本的には職業に出来ない風潮であり、過当競争の弊害を防いだ。

  今回、デジタル写真は、デンマークのPhese oneという会社の8000万画素のカメラを使用している。Phase one社は、日本のマミヤを買収し、高解像度の中判カメラを販売している。1億画素のXF100moという中判カメラの価格は630万円。ガラス乾板は寸法がまちまちであるが、10インチ×12インチ(254mm,305mm)の情報量はとても大きく、数億画素であろうとされる。今回は8000万画素のカメラで撮影したが、それでも完全に複写できたわけではない。拡大、画像加工で、これまで見えなかったものが見えてきただけに、他の古い写真も同様な方法で再検討してほしい。現在、市販カメラで最高解像度はマルチショットによる4億画素のヘッセルブラッドのH6D-400c MS576万円。

2018年7月11日水曜日

診療所のプリンター エコタンク搭載モデル


 私の診療所には多くのプリンターがある。まず顎運動測定装置用のプリンター、筋電図用のプリンター、デジタルレントゲン用のプリンター、受付用のプリンター、そしてメインの院長室のプリンター、計5台のプリンターがある。開業当初、レーザープリンターがよいと思い、キャノンのA4専用のビジネスプリンターを買った。結構高く、40万円以上かかったと思う。これを十年以上使い、その後、アップルの接続端子が変わったので新しいタイプのキャノンのビジネスプリンターを買った。Image Runner IRC2110というもので定価は確か40万円くらいしたが、安くしてもらい、それでも25万円くらいした。こうしたビジネス用のレーザープリンターはいずれもキャノンのオフィース設備関連会社から買ったが、いつの間にか、そうした会社もなくなった。

 ビジネス用プリンターは使っているところが多いと思うが、問題は印刷費である。とくにインクトナーは驚く程高い。私のところでは2年間ごとに4色のトナーをそれぞれ交換し、各トナーがそれぞれ25000円くらいするため、交換の度に10万円近くかかることになる。カラーコピーで一枚当り10から20円くらいになる。この出費は大きい。

 そこで登場したのが、エプソンのエコタンクシリーズである。これはプリンターの価格破壊と言ってもよい商品である。これまでキャノンを中心としたプリンターメーカーの商法は本体価格を下げて、カラートナーでもうける仕組みであった。プリンターを5000円で買ったのに、交換したカラートナーが5000円かかったという笑えない話もあるし、インクがなくなれば新しいプリンターを買う人もいる。エプソンのエコタンクプリンターの本体価格は、インクジェットプリンターにしては高い方だが、インクがなくなるとトナーを交換するのではなく、ボトルでインクを補充する。そのため、トナーを買う必要がなく、補充用のインクも安い。今度、診療所のプリンターのインクがなくなったら、このエコタンクプリンターに交換しようと待っていたが、ようやくインクがなくなったので、エコタンクシリーズでは一番、大型のEWM5071FTを購入した。

 M5071A3までに印刷できるインクジェット複合機で、値段はヤマダ電気でちょうど10万円だった。印刷コストはカラーで一枚0.8円、白黒0.4円で、これまでのレーザープリンターの10-20分の一コストである。本体は20kgあるので二人がかりで3階まで運んでくれたが、接続は本当に簡単で、まずタンクに4色の液を注入し、その後は30分くらい運転準備をし、エプソンにHPからドライバーをダウンロードすれば、無線ランで簡単に繋がる。

 一番心配していたのが印刷速度で、カタログではカラーで約10ipmとなっていてはっきりわからないが、一分間に10枚であればレーザープリンターの半分くらいとなる。印刷速度が遅いのはいやだなあと思っていたが、医院の標準的な文書を数枚印刷したところ、ファーストプリントタイムも早いし、実際の印刷も早い。その後、普通紙に写真を全面印刷したが、これもそれほど時間はかからず、印刷速度については通常のオフィースで使う分には全く問題はないように思える。画質のついてはエプソンの写真用最高機種のPX5VIIをデジタルレントゲン用のプリンターとして使っているが、このプリンターで印刷したカラー写真に比べるとかなり劣る。ただ前まで使っていたレーザープリンターと比べると画質は違うものの、どちらもこんなものかというレベルで、印刷費を考えれば十分に納得できる。

 プリンターの印刷コストが1/10から1/20になるということは、経費削減が叫ばれる昨今の会社でも大きなメリットである。うちでも10年間のプリントコストが本体価格25万円にトナーを4回交換したので40万円、計65万円、年間6.5万円かかったが、これが本体価格10万円にインク代2180円×10回、5年で交換しても年間のコストは2.5万円くらいと1/3くらいになる。コスト的に最も大きなメリットがでるのはビジネス用であるが、本丸のビジネス用エコタンク搭載プリンターは、今のところ、今回買ったM5071FTと用紙容量の少ないM970A3Tしかない。おそらくM5071FTより印刷スピードと耐久性がもっと上がったインクジェットプリンターPXM7110Fのエコタンク版が将来でるであろうが、これが本丸中の本丸で、ある程度の会社ではこれで十分となる。印刷速度が一分間に20枚以上、耐久枚数が60万枚、印刷コストがカラーで0.8円、本体30万円以内であれば、これまでレーザープリンターを使っていたオフィースでもエコタンク内蔵型プリンターが標準になるかもしれない。うちの場合は、毎日20-30枚,月で600-700枚、年間で8000枚くらいとなる。この規模であれば、M5071で十分であろう。

2018年7月8日日曜日

ワールドカップでベストエイトになるには


 ワールドカップの一次リーグの組み合わせは、抽選と世界ランキングにより決まる。すなわち参加国はランキング順位により1から4ポットに分けられ、第一ポットには開催国と世界ランキングの1から7位までの国、ドイツ、ブラジル、ベルギーなどの国がA組からH組までに分かれる。次の第二ポットにはランキング8位から18位までの国、スペイン、クロアチアなどがここに入る。日本はワールドカップの抽選の段階では世界ランキングが44位なので、第四ポットである。

 実際、第四ポットに入ったセルビア、ナイジェリア、豪州、モロッコ、パナマ、韓国、サウジアラビア、日本の中で決勝トーナメントに進んだのは日本だけで、それだけでもすごいことである。さらにいうと、第三ポットに入るデンマーク、アイスランド、コスタリカ、スウェーデン、チェニジア、エジプト、セネガル、イランのうち、決勝トーナメントに進んだのはデンマーク、スウェーデンだけであり、スウェーデンが準々決勝に進んだ。逆に第一ポットは、ロシアも含めるなら、ブラジル、ベルギー、フランスの4チームが第二ポットではイングランド、ウルグアイ、クロアチアの3チームが準々決勝に進んだ。

 このことはワールドカップにおいても日本やロシアのような世界ランキングの低いチームが活躍する例外はあるが、基本的にはランキングの高いチームが残っている。つまりワールドカップでベスト8あるいは4になるためにはその前に世界ランキングで十位以内に入っておく必要がある。そうすることで、一次リーグも死の組に入らず、比較的コンデションのよい状況で決勝トーナメントに進めることができる。

 現在、日本は世界ランキング61位。最下位はソマリアの206位。世界は国連加入国が193カ国、その他が13カ国であるので、すべての国がサッカーのランキングに入っている。今回の日本のワールドカップの活躍で、順位をかなり上げそうだが、第二ポットに入る18位以内に入るのは難しい。

 ランキングの算出は難しい計算によるが、現状ではランキングの高い国が揃う欧州、南米諸国が有利な状況になっている。これを打破して今後、日本がランキング上位になるためには、ワールドカップの活躍も大事だし、2019年に招待されている南米選手権(コパアメリカ)でもいい結果がほしい。この大会で活躍すれば、かなりランキングが上がる。またアジア選手権で優勝すれば、コンフェデレーション杯にでられ、この大会での結果もランキングに大きく影響する。それに比べて親善試合の点数は低い。

 アジア代表のオーストラリアでは、欧米のチームに所属する選手は15名(その他Jリーグが2名、韓国、サウジアラビア、トルコリーグが1名)、サウジアラビアでは欧米のチームの所属するのは3名、韓国では5名(その他Jリーグ5名)、イランでは12名(その他カタールのリーグに2名)、日本では15名(本田と長友はイタリアにする)となり、日本とオーストラリアが欧米のチームに所属する選手が多い。といってもオーストラリアの場合、国内リーグのレベルが低いし、もともとイギリス連邦の一員であったので、イギリスでプレイする選手が多い。

  日本がアジアでも強くなった要因の一つは、欧米のチームに所属する選手が多くなり、欧米のプレイに慣れてきたこともある。さらにブラジル、ドイツといった強豪国と試合する場合も名前負けしないようになっているし、選手自身も例え、ネイマールやメッシといったスーパースターも十分に対応できすようになった。最初に日本がワールドカップにでた1998年のフランス大会では海外のチームに所属する選手は一人もいなかった。2002年の日韓大会では中田ら4名が海外のチームにいた。2006年ドイツ大会では6名、2010年南アフリカ大会では4名、2014年のブラジル大会では12名の選手が海外でプレイしていた。今後は代表チームももっと海外での試合をすべきだし、次回開催までには欧米の強豪国、ドイツ、フランスに相手のホームで勝つくらいの実力、ランキングで言えば少なくとも20位くらい、第二ポットに入っていないと、連続して決勝トーナメントあるいはその先のベスト8になるのは難しい。

2018年7月6日金曜日

弘前藩の忍術書



 弘前で忍術書が見つかったというニュースが74日の朝日新聞、毎日新聞、サンケイ新聞など全国紙の記事となった。新聞によると、京都市の忍術研究家、上田哲也さんが今年の3月に弘前市立図書館で調査した文書の中に、武器の作り方やまじないの文言などが書かれた忍術書を発見したという。その後、青森大学の清川繁人教授や青森県古文書研究会の辻敏雄さんらと解読を進めたところ、甲賀忍者や伊賀忍者に伝わる忍術などが書かれているだけでなく、独自の記述も多く、また漢字と片仮名を交えた文章からも江戸中期のもので、弘前藩家老、棟方作兵衛が死去し、忍者集団の早道之者が解散された1756年ころに棟方家の関係者が後世に忍術を伝えるために書いたとしている。さらに明治42年に岩田清三氏より図書館に寄贈されたが、清三氏の父を戊辰戦争に参軍した岩田平吉と推定し、弘前藩の忍者の指導役だったとされる「棟方家」の一族とは同じ部隊で、弘前城下の居住地も近かったことから、棟方家の忍術書が岩田家に送られたとしている。

 かってに写真を引用して申し訳ないが、この忍術書には寄贈者として岩田清三の名が載っている。岩田清三は岩田平吉の子ではなく、孫である。弘前市の仲町の武家屋敷、岩田家にある説明によれば、岩田家は初代、大膳から始まり、十代が平吉恵則(御馬廻番頭格御祐筆、五両一人扶持、西洋砲術師範、明治28年(1895)没)となっている。その子が亮次郎(安政3年(1856)生まれ、明治41年(1908)没)で、孫が清三(明治17年(1884)生まれ、昭和26年(1951)没)である。つまり清三氏が25歳の時、おそらく前年に亡くなった亮次郎の遺品の一部を弘前図書館に寄贈した。岩田平吉は幕末、江川塾で砲術を学び、弘前藩の砲術隊長として活躍した人物だが、明治五年には上京して海軍省造船局砲器科に勤めた。明治20年代に弘前に戻り、明治28年に亡くなった。ということは、平吉の子、亮次郎は16歳で父と一緒に上京した可能性が高く、15年ほどしてから弘前に戻ったのか。

 忍者書の現物を見たわけではないし、専門家でもないのに、適当なことを言うなとお叱りを受けると思うが、まず“漢字と片仮名を交えた文章”から江戸中期の書とするのは、どうかと思う。忍術書として有名な“万川集海”(1678年)も漢字と片仮名混じりの文だし、江戸時代でも科学書などでは唐文字の楷書と片仮名の本はある。ただ楷書漢字に片仮名を交えた文章は、むしろ明治期の本として考えた方が、江戸中期、宝暦の頃のものと見るよりは理解しやすい。これは古文書の時代鑑定の専門家がいるので、調査をすれば簡単にわかるだろう。また早道ノ者は、家老あるいは大目付が物頭を兼ね、その配下として早道ノ者小頭、早道ノ者、見習いなどからなり、小頭、早道ノ者は世襲かもしれないが家禄が少ない軽輩である。忍術書があったとしても、こうした書を小頭あるいは早道ノ者の子孫が持つのはわかるが、より上位、それも度々交代する家老が持っていたとは考えにくい。さらに幕末、棟方滝根(作兵衛の四代後の子孫、晴吉貞敬の長男、忠一)の住まいは長坂町、平田平吉の家は小人町で、それほど住まいが近いとは言えない。表紙には「雑 レ四ノ二  忍之巻」とあり、他のシリーズの中の四ノ二であり、この書だけ取り上げ、忍術書として扱うのはどうかと思う。シリーズ全体の一部として評価すべきあり、他の巻は武芸やまじないなどを集めたものであれば、これだけを忍術書として時代、由来まで決めるのはどうであろうか。

 いずれにしても現物があるので、大学や研究機関の専門家が調査すれば、もう少しはっきりするだろう。弘前藩に忍者がおり、忍術書もあるというには全国的なニュースになるかもしれないが、大騒ぎして後でそうではありませんでは、恥ずかしいことなので、十分調べてから、改めて観光資源などへの活用を検討したらどうだろうか。

2018年7月4日水曜日

最近の結婚





 娘が今度、結婚するのだが、最近の結婚は昔とは様変わりしているので、びっくりしている。

1.      結納がない
 昔は、新郎側の両親(あるいは父、または母親)が新婦側の家に行って、水引と一緒に結納金を納め、さらに婚約指輪なども贈る。そして新婦の家族、親類も正装して迎え、お返しをし、会食をして終了となる。うちの場合も父が歯医者で仕事を休めないので、母親が尼崎から弘前の家内の家に行って、結納の儀式をした。終わると大鰐温泉に泊まり、そこからタクシーに載って竜飛まで行ってしまった。
 姉の場合でいうと、結婚が決まると、嫁入り支度として、まず京都の西陣の着物屋を家に呼び、訪問着、無地着物、留袖、喪服など数種類の着物を作る。兄や私の場合では、当時、結婚指輪は給料の3か月分と言われていたので、数十万円のダイヤの指輪を買いにいく。さらに新居(アパート)を買うあるいは借りる。その後、結納金により新婦側が家具、電化製品など新生活に必要なものを買った。ところが現在では、結納あるいは結納金そのものがなくなり、ダイヤの結婚指輪などは買わないし、結婚家具。電化製品も買わない。さすがに部屋が二人が住むには狭い場合は、転居するがそうでなかったら、どちらかのアパートに住むし、特に新たな家具、電化製品も買わない。

2.      仲人がいない、父親の友人が呼ばれない
 昔の結婚式と言えば、式が決まれば、仲人を誰にするかが両家で話し合う。新郎の場合、誰に仲人するかにより、会社でも引きが違ってくるため、これは重要なこととなる。基本的には新郎の勤める会社の部長、重役、社長レベルの人に仲人をしてもらう。さらに出席者の大半は新郎、新婦の会社関係と親の友人となる。弘前の場合で言えば、親が商工会議所やロータリークラブのメンバーであれば、それだけで100人以上と招待者となる。300人規模の結婚式で言えば、新郎、新婦の親類が50人くらい、友人が50人くらい、そして新郎、新婦の知人、会社関係の人が200人程度なる。結婚式費用はすべて両親持ちとなり、新郎新婦の負担はないかわりに、親が結婚式を席次から内容まで決めてしまう。
 ところが今の結婚式で多いのは、親類と少数の友人のみを招待した50人以下の式で、有名ホテルになると土曜、日用になると十数組の挙式が行われる。また両家の親類とあとは新郎、新婦の会社、友人関係のみ出席、100-150人程度の式で、両家の父親の友人、会社関係は全く呼ばない。こうした場合は、父親、母親と本当に親しい関係であっても結婚式に呼ばれることはなく、私の場合も昔だったら年に数組の結婚式にでていたが、最近が葬式に出る回数は増えたが、結婚式に出る機会は減った。

3.      礼服は着ない。
 昔の結婚式と言えば、父親はモーニングコート、母親は留袖、親類の男性は黒のダブルの礼服、女性は留袖と決まっており、出席者もほぼ皆、これと同じ格好であった。ところが最近の結婚式に行くと、父親のモーニングは変わらないが、母親は洋装のドレスが多く、親類も同様、新郎新婦の友人は、男性が普通のブラックスーツ、女性も洋装のパーティー服がほとんどである。よほどの年配でないと礼服は着ないようである。ある意味、かなりドレスダウンであり、娘が結婚する会場の写真を見させてもらうとアロハシャツやシャツもoutに出している人もいる。

4.      披露宴で余興が少ない
 出席者の負担を減らすためか、昔に比べて余興は少ない。田舎の結婚式では最後は親類縁者のカラオケ大会になり面白かったが、最近は友人のビデオメッセージや新郎、新婦のプロフィールビデオなど映像が多く、人間味がなく面白くない。その割に、両親への感謝の手紙などお涙頂戴演出があり、くだらない。小津安二郎の“麦秋”ではないが、親への感謝は人のいないところでしてほしい。

5.      新婚旅行、婚姻届
 昔は結婚式に続いて、別府、宮崎、ハワイなの新婚旅行に向かった。そして帰国後、しばらくしてから婚姻届をした。ところが今では結婚式の前にいい日を選んで婚姻届をするカップルも多いし、新婚旅行も式に続いて行くことはない。結婚式をして初めて結ばれるカップルも昔は多く、新婚旅行で相手との相性は悪いと“成田離婚”という言葉があったが、この段階では婚姻届もしていないので、離婚にはならない。

 これは姪、甥などの結婚式、披露宴にでた私にあくまで私見であり、地域によっては昔の結婚に近いところもあろうが、それでも確実に言えるのは、昔の結婚式は家同士の式であったが、最近の結婚式はあくまで個人の式である。さらには結婚式そのものもやめていまい、婚姻届だけというカップルも増えている。旦那が給料を稼ぎ、嫁は家と子供の面倒を見るという古い概念はほぼ消滅しており、男女、それぞれが稼ぎ、両方により家事、育児を分担するという流れが定着しており、それに伴い結婚式もどんどん変わっている。