2018年10月14日日曜日

韓国国際観艦式





幕僚長は旧軍の大将の相当するが、勲章はつけていない
 先日、韓国で行われた国際観艦式では、当初、海上自衛隊が参加する予定でしたが、韓国政府が世論を気にして旭日旗を上げるのを止めさせようとしました。そこで、何を血迷ったのか、参加各国に軍艦旗を降ろして、国旗と韓国国旗をあげるように要請しました。軍艦旗というのは国際慣習法で、軍艦が公海を運行するためには必ず上げることになっている旗で、それを降ろすのは降伏する時か除籍、沈没の時だけに限られます。いかに不当な要求であるかは、軍関係者、韓国海軍もよく理解していることです。結局、海上自衛隊は騒動が大きくなることを避け、不参加することにしましたが、その後、各国はこうした不当な要求にどのような対応をしたかよくわかりませんでした。
 私がよくみる“北大路機関”という軍事ブログがあります(https://blog.goo.ne.jp/harunakurama)。ここにその経緯がよく書かれていますので、一部、引用してみます。まず各国の反応は、当然、韓国の非常識な要求にあきれたようで、中国海軍、マレーシア海軍は不参加、ロシア海軍は艦尾に軍艦旗をあげず、マストに軍艦旗と韓国国旗を上げ、さらに韓国国旗より高い位置に上げました。軍艦旗を上げるなという要求を無視して、さらに韓国国旗より上に自分の軍艦旗を上げました。ほかにはオーストラリア海軍、カナダ海軍、ベトナム海軍、タイ海軍、ブルネイ海軍、インド海軍も韓国の要求を無視し、軍艦旗を上げました。ちなみにアメリカ海軍は星条旗がそのまま軍艦旗なので関係ありません。タイ海軍はマストに大型の軍艦旗、これは戦闘旗といい、決して観艦式には上げない非礼なものです。シンガポール海軍はマストに韓国国旗を半旗、つまり弔意を表し、抗議しました。肝心の韓国海軍も政府の要求に拒否し、前代未聞の李氏朝鮮時代の軍旗を上げました。政府要求に対する反乱に近い行動です。政府のむちゃな要求に韓国海軍も恥ずかしい思いをしたでしょうし、耐えきれなかったのでしょう。
 海軍というのは、国が違っても、海軍軍人としての同志感は強く、こうした観艦式や共同訓練、寄港など、国同士の行き来も多いところです。さらに第一次、第二次世界大戦で国の形態そのものが変化しても、基本的には海軍はその創設時からの伝統を色濃く残しており、空軍や陸軍以上にそうした傾向が強いように思えます。かって日本海軍はイギリス、アメリカと並ぶ、海軍大国であったので、今でも海上自衛隊の国際的な地位は高いと思います。そうした中、今回の韓国で行われた観艦式は、いくら旭日旗が憎いといっても、非常に残念な結果に終わり、かえって韓国海軍の国際的な信頼を失った結果となりました。
 軍隊というのは、非常に保守的なところで、なまじ訳知り顔で政治家が軍の慣習に首を突っ込むとおかしくなることがあります。もちろんシビリアンコントロールという点では、政府の干渉も必要です。今回の韓国の対応には、日本政府ももちろん抗議しました。さらに韓国旗と自国旗だけ上げるようにいいながら、韓国海軍自身が李朝の軍旗を上げたことに批判が高まっていますが、これは韓国海軍による政府への抗議ですので、その意味を充分にわかってほしいと思います。
 話しが変わりますが、逆に自衛隊が世界中の笑いものになっていることがあります。自衛隊は軍隊ではないという建前なので、一佐、一尉といった特殊な階級(大佐、大尉)や普通科といった特殊な部隊名称があります。ただこれについては海外に行っても英語名称を変えるだけで問題はないのですが、問題は勲章です。さすがに軍をもつ国で勲章のない国はなく、各国の武官が集まる今回の観艦式のパーティーなどでは基本的には勲章をつけて参加します。ところが自衛官は防衛功労章くらいしかなく、メダル着用ができないことになります。隣国の中国軍も長い間、解放軍の成立過程から勲章のない国でしたが、最近になりようやく八一勲章というものを作りました。日本でも戦前の金鵄勲章復活の声もありますが、それにかわる勲章を是非とも早く制定してほしいものです。

2018年10月8日月曜日

江戸時代の弘前の道 その2

四ツ堰、 この堰の上の方でキリスト教徒の処刑が行われた?
道を横切る堰(水路)には橋があった、現在の文化センターあたり
かなり複雑は堰の通路、水路の幅とどれくらいだったろう。
マックレー、明治7年、左の2階建ての洋風建築は佐々木元俊宅 
メアリー・リンド、世界周遊記、明治27年、上の写真とは逆方向からの眺め、家の前には溝があった。







3.      具体的な例
 追手門から市役所と図書館の間の道をみてみよう。「弘前大絵図」では712.6mの広い道である。今は歩道も入れて12.6mでほぼ一致している。図3は東奥義塾の宣教師であったマックレーの本に載る同じ道の挿絵である。この本は明治七年に書かれ、左の二階建ての西洋館(弘前最初の西洋館、本町一丁目の佐々木元俊の家、明治七年に建てられた。)を除くと、ほぼ江戸時代の町並みである。図4はメアリー・リンドの世界周遊記(明治27年)に載る同じ道の写真である。明治27年で写真であるが、明治七年とあまり変化はない。城方向から本町方向の写真なので、二階建ての家は右に見える。雨上がり直後か、かなりぬかるんだ道となっている。家の前には細い溝のようなものがあり、道からは小さい敷居を通して入る。建物は変わっているが、道そのものは江戸時代と同じである。こうした写真や絵をみるとよくわかる。

4.     その他
 江戸時代、弘前の町中には岩木川、土淵川から堰(水路)が町中に血管のように分岐していた。各家には井戸があって、飲料などはこの水を使ったが、洗濯や野菜の洗い、あるいは農園の水やりにはこの堰の水を使ったと思われる。明治二年弘前絵図にも記載されているが、細かい通路が不明であったが、この「弘前大絵図」では堰の道筋もはっきり記載されている。さらに堰が道を横切る場所では、方法としては暗渠か、そこに小さな橋をかける方法が取られる。橋をかける場合も兼平石のような平の石を使う場合や、木造の場合もあり、また道幅全体にかけるか一部にかけるかがある。この絵図では木造の小さな橋を道の真ん中にかけることが示されている。大きさは道幅の半分くらいのところや道幅一杯のところがある。堰の幅は町中ではせいぜい50cmくらいなので橋がなくても乗り越えられるが、雪の時には橋のないところは、ズブット足が入ってしまうだろう。また木製なので、頻回の修理が必要だった。

 この「弘前大絵図」は調べると非常に面白い絵図であり、明治二年弘前絵図には載っていないキリシタン処刑場とされる四ツ堰も描かれている。一軒だけ堰上にある「山田司?」という人物が非常に気になる。全くへんなところに家がある。こうしたデジタルデータがあれば、高校生くらいでも充分に研究でき、夏休みの課題として、明治二年弘前絵図(1868)と比較、例えば道幅の詳細な変化、戸主の変遷な、町家と士族の屋敷の違いなどを研究できよう。さらに私は明治8年の新町地区の地籍図のデータを持っているが、それには「弘前大絵図」と同じく、家の敷地(幅、奥行き)や道幅が載っている。これと「弘前大絵図」との比較により、1800から1868年までの土地所有とその変遷も調べられるだろう。色々な活用が考えられる。全国高校生歴史フォーラム(地歴甲子園)では、こうした高校生による研究を募集しており、きちんとした指導者がいれば、こうした絵図を利用してすばらしい研究ができるだろう。


*上の3枚の写真は勝手の引用しました。申し訳ございません。







江戸時代の弘前の道 その1

南横町付近、赤字:江戸時代の道幅、黒字:現在の道幅、 赤色:拡大した道
弘前旧市内、赤字:江戸時代の道幅、黒字:現在の道幅、青色:拡大した道

 江戸時代の道はどんなだったのだろうか。もちろん車もなく、道を行き交うのは馬車、大八車と歩行者だけである。舗装もされていない。江戸のような大都市なら、人口も多く、行き交う人も多いため、繁華街では大きな道で、道幅も広かったであろう。ちなみに江戸では明暦の大火後、避難路と延焼を防ぐ為に、日本橋通りと通町筋が10間(18m)、本町通りで7間(13m)、ほかの道は5から6間(9から11m)と定められた。江戸時代、弘前の人口は3万人ほどで、東北では仙台に続く、人口の多い町であったが、それでも地方都市であった。こうした地方都市の道の詳細については、これまであまり知られていない

 今年、弘前図書館の古典書籍、絵図の一部がデジタル化されて公開された。その中でも個人的に最も興味が引かれたのは、「弘前大絵図」(岩見文庫)である。寛政12年(1800)とされ、弘前の町の15枚分間絵図となっている。士族だけでなく、町民も含めて全戸主名と家の敷地(幅、奥行き)が記載されていて、大変重要な絵図である。この絵図には、ところどころ道幅も書かれている。弘前は空襲に会わず、ほぼ江戸時代の町並みが残っているため、1800年ころと現在の道を比較できる。
https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11F0/WJJS07U/0220205100/0220205100200010/mp000085

1.      比較方法
 弘前の近所の道幅を示したのが図1である。赤線は「弘前大絵図」に載る道幅である。すべて間、尺表示なので、四間三尺については4.3と表示した。一間はおよそ1.8m、一尺は0.3mなので4.31.8m×40.3m×3=8.1mとなる。同じ道でも数カ所に表示がある場合は代表的な幅を、また差が大きい場合は〜表示とした。 現在の道幅(黒線)については、大まかではあるが、Googleマップの最大拡大から調べた。最大拡大では画面上の5m17mmで、1mm0.294mとなる。家の前の道をGoogle マップで測ると30mm、すなわち8.82mとなる。実測すると側溝から側溝まで測った約8mなので、少し広く計算される。
 そこで家の前の道を「弘前大絵図」でみると、4間3尺、8.1mとなっていて、今の道幅とほぼ一致する。他には南柳町の道幅は4間、7.2mで、Google マップでは6mでやや狭い、同様に徳田町の道幅は5間、9mだがマップでは6.3mと狭い。弘前郵便局前の道と中央通りの道は戦後、拡張された道なので当然、広い。土手町から城東に抜ける道は絵図では5間、9mだが、現在は38mの大きな道となっており、駅から城へ向かう中央通りは絵図では4(7.2m)の狭い道だったが、今では23mの大きな道となっている(赤色で塗った道)。当たり前だが、都市計画で明らかに拡張した道幅は江戸時代より広くなっている。一方、近所の道をみても、驚くほど江戸時代と道幅が変化していない(青色で塗った道)。もともと道幅が4から6間と広く、自動車時代になっても充分に対応できたためかもしれない。現代人の感覚でみても、広い道のように思える。おそらく人、馬の往来だけならこれほど広い道は必要ないが、屋根から落ちた雪の除雪のため、あるいは火事の延焼を防ぐために道幅が広くなったのだろう。

2.      弘前旧市内の比較

 弘前の旧市内について、「弘前大絵図」(1800)から、道幅を調べ、図2に示した。弘前城周りの道幅は7間(12.8m)とかなり広く、ほぼ現在の道幅と同じである。さらに誓願寺に向かう道も6間3尺、11.7mと広い。この図に書かなかったが、他には禅林街の長勝寺に向かう道は7間から9間3尺(12.6m17.1m)と非常に広い。今でも禅林街の道は広く感じるが、この感覚は江戸時代でも同じであった。他の道は概して、4間から6間(7.2m〜10.8m)くらいであり、最小は鷹匠町小路の23尺(4.5m)となる。
 細かくは調べていないが、全体をみても、明らかな戦後の都市計画で道が拡張されたところ以外は江戸時代の道幅のままである(青色で塗ったのは明らかに広くなった道)。他には和徳通りはもともと6間10.8mの広い道であったが、昭和初期の火事をきっかけに両脇の家々がセットバックした。今は16mの道幅となる。ただ歩道も含めた道幅なので、実質的には両側の歩道分は広くなっただけである。また弘前大学医学部附属病院前の道も、江戸時代は42尺、7.8mの道であったが、今は11mの道となっている。ここも明治時代の大火で道を拡張したのであろう。他には弘前城から茂森に行く道も53尺、9.9mから15.9mに拡大されたが、これはごく最近工事が終わったばかりである。道沿いにある酒屋は、この道路拡張で、建物ごと後ろに移動する大工事であった。空襲や火事がなければ、道路の拡張は非常に難しい。私の診療所のある代官町も5間、9mの道から新しい道は19.6mに広がっている。ところが診療所の前の道から土手町の道は古い道のままで、歩道をいれても未だ12mくらいである。車道そのものは7.6mで、50年前以上から歩行者の多い道なので歩道を整備しようとしているが、周囲の店がセットアップに協力しないので、未だに拡張できない。
 こうしてみると、弘前は江戸時代の道が残っているばかりか、道幅のセットバックの難しさから、歩道が少し整備されたくらいで、ほとんどの道が昔のままの大きさであることがわかる。