2018年11月20日火曜日

I PhoneXR



   先日、家内から「あなた。携帯電話、ほとんど使っていないのに、毎月8000円以上払っているのよ」と言われ、ぎょっとした。7年ほど前に、知人が経営するAuショップに行き、Ipone5を購入した。その時のプラニングではごく標準的なものを選んだつもりだった。機種は買取で、毎月の支払いは確か5000円くらいだったと思うが、2年間半額などの特典がなくなり、正規の料金となったのであろう。もちろん今の若者のように毎日、何時間も使うなら毎月8000円以上の支払いは高くないであろう。ところが私の場合、仕事、趣味、あるいはメールはほとんどコンピューターを使うので、Iphoneを使うのは電話か旅行する時くらいであった。旅行中は便利であったが、それも最近はWiFiフリーの場所も多くなり、そうなるとより画面の大きなIPadを旅行先でも使うことが多くなった。ますますIphoneの出番はない。

 電話は1日に1、2回、それも5分くらい。またインターネットも一日5分くらいしか使わない。これで8000円は確かに家内に言われるまでもなく、高い。早速、先日、Auショップに行ってきた。調べてもらうと、過去、1年間の使用量は毎月0.1G0.4Gという驚くほどの少なさである。携帯電話ばかり使ううちの衛生士に聞くと、2、3日分の使用量だそうだ。もっと容量の少ないプランに変更した方が良いと言われ、一番安い、月1G以下のプランを勧められた。すぐに同意し、さらにIphoneXに機種変更するのはいくらかかるかと聞きと、48回払いで月2000円くらい、他にアップルケアーなどをつけても、月6000円くらいになった。今まで7年間、特に最近の5年間はかなり無駄な金を払ったことになる。

 早速、新しいIphoneXRを使ってみたが、正直、画面は大きくなったし、どうしたことかインターネット接続が早くなったが、それだけでIphone5からの7年間の進歩はそれほど大きくない。多分、OS自体は旧式も最新式も変わらないせいであろう。以前のコンピューターの感覚で言えば、7年の機種の差は非常に大きく、性能的にも全く違っていて当たり前であるが、このIphoneXについて言えば、7年の差を感じさせない。ニュースによれば、このIphoneXの売れ行きが思わしくないらしい。新しく出るたびに買い換える知人がいるが、この彼ですら、IphoneXは性能の割には高すぎると言っていた。コンピューターの性能がほぼプラトーになっているが、そろそろスマホも同じ傾向になってきたのであろう。

 飛躍的に伸びていた技術がピタッと止まる時点がある。飛行機で言えば、ライト兄弟が飛んだのは1903年、その後、11年、第一次大戦が始まると飛躍的に飛行機技術が進み、第二次世界大戦では頂点に達し、その後の発達は少ない。ジェット機になり、また性能は伸びたが、それも1960年頃、例えばボーイング707のように、それ以降のジェット旅客機の原形が登場すると、大幅な進歩は止まった。船や自動車も同じ経路を示している。固定電話から携帯電話からの進歩は大きく、またガラケーからスマホ(Iphone)の進歩も大きいが、すでに新しい何らかの登場が必要だろう。そこにはやはりスティーブ・ジョブスのような天才を必要とするのだろう。

2018年11月15日木曜日

英語ボランティアガイド



 ここ10年間、毎週、知人の歯科医師4名、アメリカ人教師がレストランに集まり、ワインを飲みながら英語の勉強をしている。10年というとかなり長い期間であり、本気で勉強するならもはや英語はペラペラなはずであるが、これが一向に進歩していない。振り返ってみると、10年前の英語力が100とすると今は105くらいか。あまり向上していない。他のメンバーも同じである。一番大きな理由は、勉強する気がないせいであろう。英語レッスンといっても、レッスン日以外は全く英語を喋るわけでもないし、英文を読むわけでもない。もちろん英語レッスン書など一切読んだことはない。ただ英語レッスンの内容は結構、高度であり、先週の集まりでは、アメリカ下院選挙とトランプ大統領のことで、1時間半のレッスンの大半を占めた。普段、アメリカの動向などあまり関心はないが、こうした英語レッスンで必ず取り上げられるので、語学の勉強はしないが、時事問題については一応予習しておく。

 ただこうした英語レッスンを10年間もしていると、少し外国人と喋りたいという欲求がわくもので、先月も弘前図書館に行くために家の近くを歩いていると、中年の白人夫婦が歩いていた。雨が降っていたので、傘を貸してあげようとすると遠慮していたが、奥さんにかけてもあげると喜び、どこから来たかと聞くと、イタリアのトリノから2日前に来日し、弘前に一泊して北海道に行くとのことで、さらにどこに行くかというと、小堀旅館という。小堀旅館は本町の大学病院近くにある日本旅館で、渋い選択である。それじゃ旅館まで案内しようと、一緒に10分ほど歩いた。トリノ冬季オリンピックやピエモンテワインの話などをした。個人的にバローロワインが好きなので、そうした話をしたところ、よくそんなことを知っているなと感心された。わずか10分であったが両者にとっていい思い出になったろう。それにしてもイタリア人の英語は私の英語同様にひどい。

 他には、数年前、東京駅のすぐ横のホテルに泊まった時、夜の十時頃だったかフロント横の喫煙ルームでタバコをすっていると、外国人が入ってきた。話しかけると、スイス出身の技術者とのことで、タバコを吸うのは難しい世の中になったなあと、お互いの国に禁煙政策のことを少し話した。わずか10分程度のことであるは、未だに覚えている。彼の英語もどうもドイツ語の匂いがした。

 今年の弘前城の桜祭りでは、外国人観光客の写真を撮ってやろうと意気込んで家をでた。まず大手門入り口では、多くの観光客が掘に映る桜の写真を撮っている。“Would you like to take photos”と言うと、最初は警戒されるが、私はでかい望遠レンズをつけたSIGMASD クアトロを肩から吊るしているので、かなりのカメラマンと思われたのだろう。彼らのIphoneを借りて二、三枚写真を撮るとかなり喜ばれた。その会話を聞いていた他の数名の中国人観光客にも頼まれて、写真を撮った。さらに城内に入り、数組の外国人観光客客にも声掛けして写真を撮り、最後は日本人の若い女の子のグルプーの写真を撮ってあげると、確認後、”最高ね“とみんな奇声をあげて喜んでくれた。結局、10組くらいの主として外国人観光客を中心に写真を撮ってあげたが、白人のグループの方がこうしたことに慣れているのか、大げさに喜んでくれた。

 もはやこの歳になると、英語を学んだからといって、仕事や生活にそれほど役には立たないが、それでも少しでも弘前に来る外国人観光客に喜んでほしいと思う。将来的にはできるかわからないが、外国人向けのボランティアガイドになれればと、これからの英語の勉強をしていくつもりだ。

2018年11月12日月曜日

笹森順造5

前列ヒゲの人物が笹森順造



 笹森順造については、これと言った評伝はないが、最近、近所の古本屋で「参議院議員 マスター・オブ・アーツドクター・オブ・フィロソフィー 笹森順造」という小册があった。著者名はないが、45ページーの小册で、「唐変木」の別冊とある。調べると富本岩雄著、1961年に国際平和産業で発行された本であることがわかる。

 本書では、東奥義塾の塾長になるまでの笹森の弘前、早稲田、留学中のことがくわしく書かれている。おもしろかったのは、笹森が米国に留学したころ、ほとんど英語ができなかったことである。長男の笹森卯一郎は、東奥義塾を卒業後すぐに、インディアナ州のデポー大学に留学するが、8年間の勉学で博士号を得て、長崎の鎮西学院に勤務する。兄の影響もあり、笹森順造も早稲田大学にいるころから留学の希望があったが、兄に相談するといきなり留学するより、社会に一度でてからの方がよいとアドバイスされ、新聞社に勤務する。

 アメリカ、シアトルに着くと、弘前出身で、当時、北米時事主筆をしていた藤岡紫郎の世話になり、デンバーの教会に勤める同じく弘前出身の白戸八郎牧師のところに行き、今後の進路について相談する白戸の妻てるは、笹森順造の姉てるとは函館遺愛女学校の同窓であり、同校でも勉強のよくできる同じ名前の校友が三人いて、“さんてる”と呼ばれていた。そうしたこともあり、笹森の世話をした。ただ英語がわからない。本では

 「日本の学校で高等小学校から英語を十七年間も教わったのだが、米国に来て見ると一向役に立たない。そこで基礎から英語を習い直したいと思ってグランマスタースクールの一年生を志望したが、年が二十五にもなっているので許してくれない。そこでイーストデンバーハイスクールの校長スマイル氏に頼んで聴講生に入れて貰った。入ってみると語学がむずかしいのに教科目の内容が子供臭くてピンとこない。それでもスクールボーイをし、たたみ弁当にサンドウィッチとフルーツを入れ、一週二ドル五十セントを貰って通った」

 スクールボーイといっても、召使いのようなもので、こうした生活をして少しずつ英語も学び、2年後にようやくデンバー大学の大学院に進学するが、最初の3、4か月は全く授業についていけず、1年ほどしてようやくついていけるようになり、最終的にはAプラスの優秀な成績で卒業して、哲学博士号を取得した。

 現代の日本人同様に、語学の面では笹森順造はかなり苦労したことが、こうした文によってもわかる。逆にもっと初期の留学者、珍田捨巳、佐藤愛麿、川村敬三や兄の笹森卯一郎もそれほど語学の苦労をしていない。この差は、日本での学校教育に起因し、珍田、佐藤や卯一郎はすべて東奥義塾の卒業生であるのに対して、笹森順造は青森県立第一中学校、早稲田大学の卒業である。東奥義塾はほとんどの授業を英語で行い、外国人教師がいたのに対して、県立中学ではそうした教育はない。このブログで何度か紹介した須藤かく、菱川やすら横浜共立女学校の授業も英語で行われており、米国に留学後も語学的な苦労はない。

 明治中期から日本の教育は、海外の学問を翻訳して教えるやり方をしてきた。私の領域の矯正歯科学でも、海外で有名な教科書はすぐに翻訳本がでて、学生は日本語で学ぶ。こうした翻訳文化は、アジア圏内でも日本は際立ち、シンガポール、インドネシア、韓国でも高等教育機関の教科書は英語の場合が多い。すなわち大学卒業者はイコール英語ができることになる。こうした翻訳文化は内容をよく理解して、それをさらに深める点では優れているが、海外からの留学生、あるいは海外への留学には向いておらず、どうしても内向きの学問になりやすい。そのため翻訳文化が行き渡っていない明治中期までは、特にミッション系の学校では外国人教師から直接、生徒は英文の教科書、講義で授業を受けていたため、留学しても語学面での苦労は少なかった。

2018年11月11日日曜日

老後のボランティア活動


 先日、 横浜の海外移住資料館を訪れたときの体験であるが、館内に入ると数名の年配の方のボランティアが緑のベストを着て館内の説明を行なっていた。こうしたボランティアの一人に私が研究している“須藤かく”について質問すると非常に丁寧は応対をしていただき、さらに資料室は閉鎖中であったが、わざわざ担当者と交渉して、会えるように手配してくれた。

 たぶん70歳以上の方だと思われるが、こちらが恐縮するほど丁寧に対応いただき本当にありがとうございました。これからの日本は高齢化がさらに進み、いかに年配の方をうまく使うかが重要となってくる。一つには図書館、博物館など公共設備へのボランティアの活用である。図書館はすでに高齢者の溜まり場となっていて、朝から晩まで弁当持参で毎日通っている人もいる。そこまで行かなくても本屋で本を買うことなく、すべて図書館で本を借りる人は結構多い。少し本格的になり、何かを研究するようになると、弘前市立図書館で言うと、二階の資料室に来て、あの本をもってこい、これに関係する本はないのかと図書館員をこき使う御仁もいる。

 これは全国的な流れであり、会社を辞めて年金生活者になると、パチンコ、麻雀、将棋、釣り、映画などに行くようになるが、金がかかる趣味は嫁から批判的に見られるため、最終的には図書館に行くのが、もっと誰からも何も言われない暇つぶしとなる。また図書館主催の無料の講演会や古文書教室などがあり、これらに参加する老人も多い。これからの図書館の活用を考える場合、こうした老人をどう取り扱うか、あるいは活用するのかが大きなテーマとなる。

 一つは、老人を図書館サービスに活用することである。本の貸し出し、整理などの受付業務に活用する方法で、これについては実際に行なっているところも多い。ただ蔵書のデジタル化などはコンピューターの知識が必要なため、もう少し若い方をパートで雇って従事しているようだが、これも適性をよく見れば老人であろうが十分にできる。さらに学校の先生や郷土史の専門家であれば、県外からの研究者や先祖を調べる方への対応も十分にできるであろう。さらに進めば、“津軽の冬”といった大きなテーマについて、数十人のボランティアで分担して研究することもできるであろう。研究会のようなものを作って各自持ち寄った資料を吟味して最終的には本とするのもいいだろう。弘前市では弘前城を案内する無料ボランティアガイドが、もう十年くらいになるのか、積極的に活動している。いい見本である。こうした活動はもっと多くの公共機関で実施して欲しいところである。図書館だけではなく、弘前博物館でも横浜の海外移住資料館のようなボランティアガイドがいても良い。2年後にはレンガ倉庫に新しい美術館ができるが、こうした施設にもボランティアガイドが欲しいところである。

 女の方は、年配になっても、友人と出かけたり、サークルに入ったり、運動をしたりして中々忙しい。それに較べて男性、とりわけ仕事一筋だった方は、定年後、何をして良いか分からず、暇をもてあそぶ。ロータリークラブの一種に、退職者やセミ退職者によるプロバスクラブがある。青森県にも青森市、六ヶ所、五所川原にあるが、残念なことに弘前にはない。ロータリークラブに較べて会費が安く、例会にも参加しやすくなっている。ロータリークラブは会社が定年などで辞めると退会することになるが、弘前ロータリークラブでも退会者を中心にプロバスクラブを作ろうとする試みがあったが、いつの間にか、立ち消えになった。こうしたボランティアクラブも年配の男性が入るにはいいのかもしれない。週一回、必ず皆に会うというのがいのだろう。自分自身もすでに年金をもらっている年齢になっており、そろそろ老後の生活を考えなくてはいけない。先生は郷土史などをしていて、老後は大丈夫と言われるが、本格的な研究となると大量の資料を読まなくてはいけないため、いくら暇があっても体力がなければできるものではない。

2018年11月7日水曜日

AirFlow Prophylaxis Master 購入しました。

新型のエアーフローです

モリタのハンディタイプ


右の機械は蒸留水を作る機械です。


 スイスのEMS社の細かな粉によりバイオフィルムを除去するAirFlowの新型 “Air Flow Prophylaxis Master”を購入しました。昨年、モリタのパンフレットで“エアーフローハンディー3.0”のことが載っていたので、矯正用ワイヤーを着けたままPMTCをするにはこれはいいとすぐに買いました。矯正用装置の周辺の汚れをとるには粒子の大きなハンディパウダーリコールやミントを使える青いタイプのエアーフローがよいと出入りの歯科商店から勧められ、購入しました。ワイヤーが入っていても比較的簡単に清掃されるので、成人を中心にPMTCが必要な患者さんに使っていました。その後、昨年の日本矯正歯科学会の商社展示会場でEMSの方に聞くと、将来的にはパウダーはエアーフロープラスという粉が中心となり、モリタのハンディタイプはあくまで数歯に使うものであり、本格的に使うのであれば、きちんとしたものの方がよいと言われました。さらにハンディタイプは、重量が重く、長時間使うと疲れるし、また水量、パワーも調節できず、常にフルパワーで粉の消費も大きいと言っていました。本格的に買うなら機械本体とハンドピースが別々になったものを買った方が、水量や粉量も変えられるので維持費も安くなると言っていました。ハンディタイプを買う時にはそうした説明はなかっただけに、モリタの騙された気がします。どうもEMSの機器販売をモリタがしたかったようですが、松風が日本での販売権をすでに持っていますので、販売権外のハンディタイプをモリタが扱ったようです。知らないで損をしました。そこで矯正学会の会場にいたEMSの人にさらに聞くと、当時、松風から出ている機種はエアロルマスターとピエゾン(超音波スケーラー)がついたものと、2種類のハンドピースがついたエアロマスターと、1本のハンドピースがついたエアーフローS1がありますが、これらは順序、廃止され、今後は2種類の新型機種が中心となるとのことでした。

 そこでEMSの英語版のHPをみると、すでに最新型のエアーフローが載っています。細長いスタンドにきれいに収められ、1本が超音波スケーラー(ピエゾン)と1本がエアーフローのハンドピースがついたものと、もうひとつはエアーフロー1本だけのものです。将来的にはこの2種類に統一するようです。松風には新機種がでれば教えてほしいと言っていたのですが、なかなか日本での販売はなく、ようやく今年の10月に新機種が日本でも発売することになりました。もちろん新機種のデモも早めに申し込んでいたので、3週間ほど前、発売してすぐに実物を見ることができ、その洗練された設計に大変驚きました。旧製品がかなり時代遅れに見えますし、性能や保守管理も全く異なります。先日の日本矯正歯科学会でもEMSの衛生士に来週、うちの診療所に入ると言うと、驚いていました、青森では初、東北でも早い方です。衛生士さんは今後、この機種をEMSのメイン商品として日本全国の歯科医院に紹介するといきごんでいました。
今日、診療所に製品が届きました。すべてオートマティックになっており、あらためてよく練られた製品だと思いました。実際に患者になって試してみると、従来のエアーフロータイプは粉が歯に吹き付けられ、痛い思いがしましたし、口中粉まみれになり、あまり気持ちのいいものでありません。ところが新型は基本、グリシンがメインのエアーフロープラスを主として使うので、全く痛くはなく、水を吹きかけられているという感触のみです。全く粉っぽさがありません。ただ、機械のメイテンサンスは少し、面倒で、チューブ内の汚れを防ぐために消毒液は毎晩流す必要があります。スタッフが帰る前に1分ほど余分にかかりますし、次の日は、チューブ内の消毒液を水で流す必要があります。


 電磁弁の調子が悪く、ハンドピースから水滴が落ちるので、今度、本体を交換するとのことでしたが、個人的にはかっこよく非常に気にいっています。しばらく使ってみて、長所、欠点もこのブログで述べたいと思います。

2018年11月4日日曜日

野の花 流転の海 第9部


昨日撮影した弘前城西堀

 宮本輝さんの新刊、「野の春 流転の海 第九部」を読了した。執筆から37年、よくぞここまでたどり着けたと心から著者におめでとうと言いたい。37年という期間は途方もなく長く、その間、書き続けるためには体調面でも支障がなく、もちろん長編を書く精神的な強さも保っていなくてはいけない。著者にとっても、ライフワークである本書を何とか完了できたことは、ほっとしたことであろうし、我々、読者にとっても、本来ならこれからもう続編を読めないという多少の喪失感があるものの、むしろ“お疲れさまでした”と礼を言いたい。

 完結編の「野の春」は、これまでシリーズ以上に淡々とした流れであり、熊吾の死に向かうラストランを愛おしむようなタッチで描いていて、人間の生き様に対する静かな感動を覚える。もともと自伝的な小説ではあるが、あくまで主人公は父である熊吾と母親、房江とその周辺の人物である。もちろん息子である著者も主要人物ではあるが、その感情は直接、本の中では描かれない。一方ではその時代、状況における、それぞれの著者の感情は今でもはっきりと覚えていると思うが、小説には登場させない。それを表現するのはいわゆる私小説あるが、この小説は完全に著者を主人公の熊吾の息子という第三者的な見方で描いており、佐藤愛子さんの「血脈」と双璧をなす作品であるが、個人的には「流転の海」は「血脈」をはるかに凌駕する作品と思う。なぜなら佐藤愛子さんの父、佐藤紅緑、兄、サトウハチローや周辺人物である福士幸次郎などはすべて有名人であり、その縁故や行動はある程度、記録でたぐれる。ところが宮本輝さんの場合、父親の熊吾は無名の人物であり、その履歴は例え、妻や子供でもはっきりしない。これを書くのがどれほど大変かは、自分の父親のことを考えれば容易にわかる。私の父は、七年前に八十八歳でなくなったが、二年前に徳島市で学会があり、その折に軍隊での履歴が記述された軍籍を徳島県庁でもらってきた。この軍籍で初めて満州にいた時の部隊、部隊長名あるいは捕虜収容所(マルシャンスク)などがわかった。子供のころ、父に連れられ東京の部隊長に会いに行ったことがあるが、関係者なのだろう。お互い親子として数十年暮らしながら、自分の父親のことは全くわかっていないのが普通である。

 こうした点では、「流転の海」は自伝的小説といっても大部分はフィクションであろうが、それでも自分の父親を描くのであるので、全く空想のまま小説は書くことはできず、執筆には大変苦労したに違いない。以前、このブログでも尼崎の蘭月ビルのことを書いたが、小説自体が当時の尼崎に正確であり、小説を構築する上で、事前の調査も充分に行ったに違いない。ただ有名人や有名地でなければ、昔のことを調べるのは本当に難しく、著者の記憶力が凄かったにしろ、調査には相当な手間と時間がかかったのだろう。

 熊吾が亡くなったのは、伸仁くんが21歳のころで、熊吾自身は自分の子供が成人するまで見届けられただけで充分満足しているが、最後の熊吾の息子への言葉(ネタバレで秘密ですが)に対する著者(伸仁くん)の回答が、この本なのかもしれない。父が亡くなった後、自分は思いがけず小説家として成功し、その姿を見せられなかったのは残念であるが、何とかやっている。あの世にいる父にそれを証明し、供養するとともに、亡くなるまで毛嫌いしてきた父をもう一度、見直すことができた。親子という宿命からは逃げられないが、こうした小説という形、第三者的な立場から両親を描くことで、昭和を生き抜いた日本人を描くことができた。

 「野の春」の舞台は大阪万博の始まる前、1968年ころの大阪(福島)であるが、私は12歳でかなり記憶が鮮明になってきた時代である。万博開催のためか、大阪、尼崎からは、どんどん汚いものが消えていった時期であり、同時に街からの人間臭さもなくなった。小学校1、2年生のころは夏になると、近所の小路には床机で夕涼みをする背中一面入れ墨をしたおじさんが多くいたし、溝の溜まった米つぶをすくって食べていた浮浪者もいたが、もはや昭和40年代になるとそうした風景も見ることはなく、基本的には今と同じ時代となった。そういえば、自転車に幟を立てて毎回、尼崎市市議選に出馬していた上田侃太郎というかわったおっさんがいたのも、その頃だった。そのため「野の春」では、それほど時代の臭い、色は表現されず、唯一、古い日本を鮮明に残すのが、熊吾が最後を過ごす狭山の精神病院だったのは、小説の締めくくりとしてもふさわしい。

 「流転の海」は、著者の間違いなく代表作であると同時に、近代日本小説の金字塔である作品だ。そして故人を思い出すのが供養であれば、本シリーズの完結は両親への最高の供養となったように思える。こうしたことで供養できるのは作家冥利につきる。

* 流転の海 第1部はすでに読んでいますが、野の春を読んで、再読しようと文庫本を買って読んでいます。これはある意味すごいことですが、第9部から第1部にそのまま繋がります。普通、第1部から9部まで37年も間隔があくと、少し辻褄が合わないことがあったりしますが、そうしたこともなく、なりより文体が全く変わっていないのには驚きます。作者のすごさでしょう。

2018年11月2日金曜日

第77回 日本矯正歯科学会大会



東京タワーから見た富士山の夕陽



 今週の火曜日から昨日まで、横浜みなとみらいのパシフィコ横浜で行われた第77回日本矯正歯科学会に参加してきました。鹿児島で行われた学会が第52回でしたので、それからすでに25年も経つことになります。当時は、学会といっても参加者は千名程度であり、地方、県庁所在地にある1500名程度の文化会館などの設備があれば、何とか開催することができましたが、最近は参加者も二千人を越え、今回はもっと多いような印象を持ちました。パシフィコ横浜の大ホールは収容人数は最大で5000名、一階席だけで3260名となっています。この会場がほぼ満杯でしたので、かなりの参加者がいたことになります。

 ただ内容は、個人的には興味が少ないものでしたので、あまり会場にはいませんでした。初日は、長女と次女と東京の日本橋で会食しましたが、その時間まで約6時間、何をするか。最初は上野の美術館でもと思ったのですが、ふと“東京タワーに行こう”と地下鉄で大門まで行き、そこから増上寺を通って東京タワーに行きました。家内は修学旅行で行ったようですが、私は数十回、東京に行っていますが、初めてです。東京に勤務している娘たちも行ったことないと言っていましたので、案外、大阪人にとっての大阪城的な、東京の人も行ったことのない人が多いのかもしれません。先月はスカイツリーに行ったので、二つのタワーを征服したことになります。ここでの最大にうれしかったのは、ちょうど太陽が富士山に沈むのを見られたことです。展望台は鈴なりの人で、あちこちから“Mt.Fuji “の声が聞こえます。観客の8割は外国人です。さかんに写真を撮っています。後で調べると、2018年度の”東京タワーからダイヤモンド富士を見る“は2月と11月の2回で、11月2日の1634分頃となっています。今日はダイヤモンド富士が見られたのでしょうか。私が東京タワーに行ったのは1030日でしたので、太陽は富士山のやや右から沈みましたが、それでも富士山のきれいなシルエットが見られてラッキーでした。

 翌日の水曜日は朝一番から講演を聞きましたが、すぐに飽きて、家内とレンガ倉庫に行くことにしました。その途中に、ふとみるとJICA横浜 海外移住資料館というビルがあります。「須藤かく」のことで一度、行きたかったところなので、レンガ倉庫の帰りに立ち寄ることにしました。今回は矯正学会に来たので、“須藤かく”の資料を一切持ってきていませんが、館内のボランティアをしている年配の方にこれまでの研究についてお話すると、少しお待ちくださいと図書資料室の方を紹介してもらいました。ちょうど資料室は閉鎖中でしたが、担当の方には熱心に話を聞いていただき大変ありがとうございいました。後日、資料をお送りするということになりました。ボランティアの方の非常に丁寧な対応には、自分も逆の立場になることも多いのですが、そうした丁寧な対応はしていませんでしたので、反省させられました。アメリカには全米日系人博物館があり、ここに日系人の記録の集約化が図られていますが、ほぼすべての日本人移民が出発した横浜の地にこうした資料館があるのは素晴らしいことであり、外務省外交資料館の一部の記録、外国旅券などもここで閲覧できればいいのですが。海外に移住した先祖、逆に海外に済む日系人祖先を訪ねる場合、まっ先に来るのはこうした資料館であり、より一層の資料の充実を望みます。移住者にとって日本は故郷ではありますが、二世、三世、四世となるにつれ、親戚も全くわからなくなり、故郷そのものもわからなくなります。

 2020年の矯正学会は世界、アジア矯正歯科学会大会を同時開催することになり、かなり大掛かりな大会になりそうです。期待しています。