2020年9月27日日曜日

山用製品のおすすめ

パタゴニア R2

モンペル 折り畳み傘

サーモスの山用水筒とスノーピークのチタンカップ


 ロータリークラブを辞めてから、ほぼスーツを着ることもないし、さらにいえば、シャツさえも着ない。それで何を着ているかというと、春は、パタゴニアのR1, キャプリーン・ミッドウエイト、サーマルウエイトなど山用のベースレイヤーに、暑さに合わせてモンペルのウインドブラストやゴアテックスのストームクルーザージャケットなどをはおり、パンツはLLビーンのドレスチノにしている。夏になると、上はポロシャツやT—シャツで、パンツはLLビーンのクレスタ・マウンテンパンツとなる。そして秋になるとパタゴニアのR2およびR3、パンツは再び、LLビーンのドレスチノとなり、冬になるとLLビーンのワーデンパーカなどのダウンジャケットをR2の上にはおり、下はLLビーンの裏地付き、ダブルエルチノパンツとなる。今年の冬は、春先に半額で買ったNANGAのマウンテンビレーコートという強力なものが加わる。こうしてみるとLLビーンを山用とするのはどうかと思うが、それでも年中、山用の衣類を着ている。他にも、ミステリーランチのリュックには、モンペルの折りたたみ傘とサーモスの山用水筒は必ず入っている。

 

 大学生の頃からヘビーデユーティーな服が好きで、ブーツ、ジーンズ、ワークシャツというコンビが好きであったが、歳をとるにつれ、見た目より機能を重んじるようになり、より動きやすく、楽なもの、より軽いもの、暖かい、涼しいものを求めるようになった。山用のものをこれらの要件を追求したものが多く、結果として山用の服を着ることが次第に多くなった。例えば、パタゴニアのR2は軽くて動きやすく、それでいて暖かく、ついでに防臭性もある。これに慣れるともういくら豪華なカシミアのセーターでも着られない。これはうちの母親もそうで、最近はほとんどセーターを着ることはなく、さらにいうと、前ジッパー式なので、着るのが容易である。また耐久性もすごく、古いR2は十年近く、秋、冬ほぼ毎日使ってもヘタレないし、毛玉も出来ない。羊毛のセーターでは無理である。さらに山用のものはほとんどアイロンが必要ないし、洗濯してもすぐに乾燥する。もちろんクリーニングなど必要ない。


 水筒は、Klean Kanteenの水筒を使っていたが、サーモスの山用水筒に比べると保温効果は雲泥の差がある。朝7時に入れたコーヒー、お茶は確実に4時頃までは保温できるのはすごい。どうしてサーモスはこの水筒をスポーツ店(登山コーナ)にしか置かないのか不思議である。またモンペルの折りたたみ傘については、これまでの使用履歴、ひどいのになると買ったその日に風により破折、を経験した上で、最強の傘と言える。リュックに入れてほぼ2年間、それこそ何十回使ったが、全く問題なく、流石に山で使うことを想定した折り畳み傘と驚く。軽くて、しかも強い。また壊れても修理してくれる。またモンペルのウインドブラストは、小雨や夏でも冷房の強い時など、バックに入れておけば、重宝するものだが、ただ収納袋が別にあるのでポケットが収納袋になるパタゴニアのフーディニジャケットの方がいいかもしれない。試着できれば、購入したい。ついでに言うと、スノーピークのチタンマグ雪峰は、ビール、焼酎、ウイスキーを飲むのに良い。チタンの二重構造で、保温、保冷効果もあり、それでいて熱が伝わりにくい。軽いのでサーモスの山用水筒と一緒に使っている。

 

 いろんな衣類を買っておしゃれを楽しむのもいいだろう。ただ季節ごとに、決まった服を使いまわして着るのは、精神的にも非常に楽である。山用の衣類や製品には年配の方にとって機能的にも優れたものが多く、もっと積極的に活用したらどうだろうか。


 

2020年9月17日木曜日

弘前に住んで26年 津軽の特徴



 弘前に来て26年、尼崎にいたのが19年間、仙台は9年間、鹿児島は9年間いたので、弘前が一番、長く住んだところだし、おそらく死ぬまでここにいるだろう。確かに学校はこちらではないが、家内は弘前生まれで、その親戚、あるいは知人、友人もほとんどが弘前出身なので、周りはほぼ津軽衆に囲まれている。それでもいまだに驚くことがあるので、少し話したい。

 

1.     苗字の呼び捨て 敬語

 医者や学校の先生は、同僚同士でも“先生”と呼ばれるので、こうした呼び名に慣れており、それ以外の名字だけで呼ばれると、どうも違和感がある。もちろん、外に出れば先生とはつけないで“広瀬さん”と呼ばれることが多いし、これは普通のことである。ところが津軽では、どうも家では“ヒロセ”と呼ばれるようである。例えば“今日はヒロセの歯医者に行ってきた”、“ヒロセとこの受付は”などである。大阪では“広瀬先生のところに行っていた”あるいは“広瀬歯科の受付は”となるが、この“先生”、“歯科医院”が省略され、あたかも屋号のように“ヒロセ”と呼び捨てされる。学校の先生も同様である。津軽弁には敬語があり、昔は主として士族の言葉として、男女共、独特な敬語があったが、いつも間にか、そうしたサムライ言葉もなくなり、敬語=標準語と教育されてきた。家内の世代では高校で、綺麗な標準語、標準語の敬語を習う授業があったと言う。そのため、標準語が話せない場合は、敬語もできないことになり、郡部の患者さん、主としてその親、祖父に中には、歯科医院でも一切、敬語、丁寧語がない場合がある。最近では慣れたが、最初に“あんだあ(あなた)”と言われて時には驚いた。

 

2.     噂好き

 津軽の人は、何より噂、特に悪口が好きである。普段はおとなしいが、酒を飲んだり、長いドライブの車中で、人の悪口や噂話で盛り上げることが多い。不思議なことに人を褒めることはあまりなく、褒めている話がいつの間にか悪口となる。どうも褒めるのに抵抗があるようで、よその子供への悪口がその子の親に伝わって親同士がケンカになることもある。大阪ではよその子供の悪口が絶対に言うな、褒めておけば親は機嫌が良いとされ、京都人に至っては外で悪口を言っても何の得もない、いつも褒めろと言う。確かに人は褒められて怒る人はいないし、悪口を言われて喜ぶ人はいない。そうした意味では、外では誰に対しても悪口を言わず、褒めておいた方が無難であろう。

 

3.     墓参り好き

 鹿児島もそうであるが、津軽の人々も墓参りが好きで、春と秋のお彼岸と夏のお盆、これは必ず、行くし、それ以外にも月命日で行く人も多い。また自分の家だけでなく、親類や知人の墓も一緒に参る人もいて、お寺をハシゴすることがある。さらに老人だけではなく、子供、孫も一緒に行くことも多い。新寺町、禅林街の大きな寺を見ると、津軽の人々の信仰の深さが実感できる。また全国的には通夜は身内の人が、葬式は一般の人が集まる式であるが、津軽ではこれが逆になり、通夜が大掛かりとなる。また焼骨するのがものすごく早く、通夜の前に骨となり、通夜、葬式では骨袋に入った骨壷が置かれる。あと気になるのは、お坊さんがお経を読む時、鐘や太鼓を使い派手である。花篭も盛籠と言ってビールや食品が飾られ、パチンコ店の開業のようである。

 

4.     交通マナー、せっかち

 日頃、車に乗っておらず、どこに行くにも歩いて行くので、横断歩道に突っ込んでくる車には驚く。信号が青の横断歩道は、もちろん歩行者優先で、車は一時停止であるが、弘前市では多くの場合、徐行して停止することはなく、前の歩行者と次の歩行者との間に2mでも隙間があれば、右折、左折してくる。盛岡市、仙台市、あるいは尼崎市でも、横断歩道を渡る時、車はその数メートル前で一時停止するのが当たり前なので、軽くドライバーに会釈して渡るのが普通だが、ここ弘前では、自分の前後1mを車がすごいスピードで突っ切り、何度もはねられそうになった。ある友人は傘を持っている時は傘を前に出して車が突っ込むのを抑えると言っていたが、私も時たまする。ドライバーからすれば厄介な歩行者と思われるが、1m先の傘に急ブレーキをかけて止まり、罵声をあげるドライバーもいる。近くの郵便局も裏の駐車場が空いていても、近くに止めたいために平気で障害者用の駐車場に止める。普段はいい人が多いのだが、車に乗るとどうもせっかちになる人が多い。

 

5.     美人が多い

 津軽出身の芸能人は少ないが、うちに来る患者さんを見ても、美人が多いところだと思う。人を押しのけてまで前に出ようとしない性格のためか、芸能界などで活躍している津軽の女性は少ないが、街を歩いていてもハッとする美人がいる。この原因として、津軽では昔から度々飢饉が起こり、多くの人が亡くなったり、逃亡した。その後、再び各地から人が集まってきたが、ルートが二方面で、一つは裏日本の各地から水路、鯵ヶ沢、五所川原を介してのルートと、最も多いのは秋田から碇ヶ関を超えて来るルートであり、人種的には秋田県に近い。秋田県が美人の産地であるので、そこから来た人が多ければ津軽も美人が多い。

 

6. 偉人が多い

 “津軽人物グラフィティー”で書いたように津軽には極めて個性的な独創的な人物が多い。版画家の棟方志功、小説家の葛西善蔵、太宰治、愛生園の佐々木五三郎、奇跡のリンゴの木村秋則、スキーの三浦雄一、柔術の前田光世、現代絵画の奈良義智、ジャーナリストの陸羯南、冒険家の笹森儀助、考現学の今和次郎などなど、本当にたくさんいるし、共通項でまとめられるような性格がある。まず群れない、一人で活動し、周りから何を言われようと突き進む。チームとして活動するのは苦手で、大きな会社の創業者で津軽出身者は少ないし、金持ちではない。これは厳しい自然も関係するが、あまり枠にはまらない、非常識な人物が出るところであり、周囲もそれを助長し、面白がるところがある。実はバカにしているのだが。そうした強烈な個性がそのまま残され、いわゆる変人を生む風土となっている。ある韓国の歴史学者が“日本の歴史を見て、羨ましいのは多くの奇人がいることだ”と言っていたが、これは新しいこと、革新的なことは奇人変人から始まるというである。真面目な秀才型の人物は勉強で育つが、こうした変人は風土が生む。これだけ奇人変人の多いところは日本でも稀であり、そうした意味では1から4まで欠点を挙げてみたが、それを上回る津軽のすごいところであり、誇ってよい。中学生、高校生に奇人変人になれとは教育しにくいが、それでも自分の好きなことを、金にならなくても、人に認められなくとも、楽天的にやり抜くことは伝えてもよいだろう。



2020年9月13日日曜日

黒沢清監督 ベネチア映画祭、銀獅子賞受賞





 黒沢清監督が、念願のベネチア映画祭、監督賞である“銀獅子賞”を「スパイの妻」で受賞した。これまで何度も挑戦し、期待もされていたが、今回はあまり期待もされなかった作品が受賞したため、本人も含めて驚いた人も多いに違いない。作品についてはまだ日本で未公開のため、わからないが、予告編を見る限り、近作「散歩する侵略者」のような風変わりな、ある意味、黒沢監督的なものではなく、どちらかというと普通の作品のようで、それだけにかえって受賞が唐突な感じがした。

 黒沢清監督は、六甲学院の31期で、私の一期先輩である。そうしたこともあり、昔から作品の多くを見てきたが、娯楽映画としては正直にいえばあまり面白くない。一番、最近見た「旅のおわり世界のはじまり」も主演の前田敦子の歯がゆい行動、危険な海外にいるのになんとこの日本人女性は無防備なのかということばかり気になる映画であった。それでも見終わった半年以上経つが、結構シーンは覚えている。昔は同姓の黒澤明監督の影に隠れて、気の毒な点もあったが、1997年の「CURE」あたりから海外にも熱狂的なファンがいる映画監督となった。日本映画が全く人気なく、細々とポルノ映画でなんとか凌いでいた苦しい時期を体験した監督の一人であり、当時は、まともな映画がほとんど製作されず、苦しい時期であったのだろう。

 我々32期からすれば、31期は一年先輩で、特にサッカー部の先輩は、試合も一緒に出るし、もちろん練習も同じなので、親しかった。それと関係して、一期先輩にも知人は多かったが、それでも黒沢清監督のことは全く記憶にない。10年以上前だったが、週刊誌“アエラ”の取材で、同窓会に行く恐怖を語っていた。何でも、しばらくぶりに同窓会に行くことにしたが、行っても誰一人自分のことを知らず、話しかけられなかったらどうしようというもので、実際は、同級生のみんな、監督の最近の活躍を褒めてもらい杞憂に終わった。あまり在学中は目立たなかった生徒だったのだろう。ただ私は、黒沢監督の最初の作品については、記憶している。当時、六甲学院では年に三回ほど、全生徒による映画鑑賞会が講堂であった。受験校で、よくのんびりと映画鑑賞などしていたなあと今では思うが、結構、そうしたことで映画好きになった生徒も多い。27期の大森一樹さん、38期の市野龍一さんも映画監督だし、36期の尾崎将也さんも多くのテレビでの脚本を書き、最近では映画の監督もしている。また同級生の古澤真くんも宝塚で「エリザベート」のプロデユーサーをしている。学校での映画上映に刺激されたのか、当時、文化祭では高校二年生が自主映画を作る習わしがあった。私が文化祭で見た黒沢清監督の最初の作品は前衛的、空想的な映画で、まず出演していた女の子をどこから調達したのか、すごく気になった。当時、学校は山の上にあり、社会からほぼ孤立した状態で、日常的に同世代の女子と接することはなかった。私に至っては、6年間、姉、親類以外の女性と喋ったこともなかった。この映画の女性もそれほど綺麗な子ではなかったが(失礼)、どのように出演交渉したのか、不思議であった。内容はすっかり忘れたが、かなり本格的な作品で、驚いた記憶があり、次の年、我々の学年も映画を作る際、とてもこうしたまともな作品は作れないと、当時流行っていたブルース・リーの空手映画のパロディーを作ることになった。大谷光瑞の別荘地、二楽荘の跡地で、同級生のAくん、Iくんなどが中心となって、何日かロケをして作った経験は今でも楽しい思い出である。その後、卒業30年目の記念同窓会で再演され、好評であった。

 今回の黒沢清監督の「スパイの女」は、地元、神戸を舞台に作った初めての作品で、そのインタビューでは、新開地などのなくなった映画館のことが語られているが、多分、僕らの世代で、最も頻繁に行った映画館は、神戸三宮近くのビッグ映劇で、二本立ての旧作がかけられた名画座で、「イージーライダー」、「いちご白書」などニューシネマ系の作品はほとんどここで見た。バス、電車が定期券で乗れたので、日曜日に尼崎から神戸に行き、映画を見るのは、それほど金がかからなかった。もしかして、ビッグ映劇の館内には黒沢さんもいたかもしれない。

2020年9月11日金曜日

困った患者さん

 

googleの悪いコチコミを一件2、3万円で削除しますという会社のメールがよくきます

 昔、鹿児島大学の矯正科教授、伊藤学而先生からよく言われたのは、医療は患者さんの治してほしいという願いを叶えるものであり、それに対して医療者はプロフェッショナルとして全力で助ける。患者さんがガンであったとして、それを治す方法があったとしても、患者さん本人が治す意志がなければ、無理強いできるものではない。ましてや歯科医療は、一部の口腔癌を除いて、生死に関わる疾患は少なく、放っておいて必ずしも深刻な状況に陥るとは言えない。例えば、小さい虫歯があり、そのまま放っておくとさらに大きくなり、神経まで達し、猛烈に痛くなる場合もあるが、それほど進まない場合もある。仮に少しずつ虫歯が進むにしても、骨髄炎まで進行して入院するような事態になることは少ない。

 

 患者さんの中には、歯科医院に来て、検査を受け、ここの虫歯が放っておくと大きくなり、神経までいきますよと言っても、逆に絶対にそうなるかと聞き返す患者さんもいる。最初に述べたようにあまり進行しない場合もあるので、絶対に進行するとは言えない。もちろん、小さな虫歯なので、少し麻酔をして虫歯を取り、レジンという充填物を入れるだけで簡単な治療であると説明するが、すると今度はレジン充填をすれば一生もつかと質問してくる。平均的な予後は論文で発表されているので、そうしたデーターを示すと、今度は、本当にそうかかと聞きなおす。結局、こうした不毛な問答ばかりが続き、何を求めて歯科医院に来たかわからない患者がいる。

 

 同じようなことは矯正歯科でも起こる。一番多いのは、例年の今の季節、学校健診で不正咬合を指摘されたケースである。現在、学校歯科検診では不正咬合をチェックする項目があり、指摘されると学校から歯科医院に行くように指導される。こうした用紙を持って親が来る。もちろん正常咬合はおらず、でこぼこ、反対咬合、あるいは出っ歯の患者さんである。ざっと見て、大まかな診断と治療法を説明するが、最初の問い、“お子さんの歯並びについてどこか気になりますか”というと、親は“全く気にならない。治療しないといけないか”と答える。これは困る。こうなるとこちらは“治療は必要ないですね。矯正治療は本人、親が不正咬合を治したくなければ、治療する必要はありません”と答え、検診結果用紙にハンコを押して帰ってもらう。

 

 不正咬合だと、確かに食物を噛むのは少し劣るし、でこぼこだと歯磨きがしにくいなどの機能的な問題があるが、大部分は審美的、社会心理的な問題である。先日、新患できた患者の親は、不正咬合を放っておくと何か問題になるのか、機能的な問題があるのかと問うので、そうした問題は少ないと答えた。そうすると放っておいてもいいのかという。ただ歯並びが悪いと、それがお子さんのコンプレックスとなることもあると伝え、気になったらまた来院してくださいと言うしかない。

 

 逆に、矯正治療に完璧を求められる患者も困る。同じような治療をしても結果は患者によって変わるというのが医療であり、例えば90% に効く治療法があっても10%には効果がない。同じようなことは矯正治療でも必ず起こり、これを医療の不確実性という。もちろん医療者は最善の治療を行おうと努力するが、それでもうまく行かないことがある。これに対してどうしても納得しない患者がいる。高額な費用を取っているだけに余計に期待通りに治らない場合の不満は高い。もちろん最初の検査結果の説明の時には起こりうる主なリスクを説明するが、実際に骨性癒着(歯が骨とくっつき動かない)などが起こると、良い結果を得ることはできなくなる。こうした医療の不確実性については、本当に理解してもらうのは難しいし、経験、知識が増えると、確実性も増す。ただ経験も知識もない医師のよる誤った治療を、医療の不確実性の範疇に入れるのも問題である。

 

 他にはちょっとした問題で、Googleクチコミで低い点をつける人がいる。最近1点の低評価をもらったが、受付の電話応対についてのものである。受付はウチの家内が午前中、他の方が午後だが、二人とも20年以上受付をしており、患者さんに失礼なことは絶対に言わない。最近は、矯正を受ける患者さんが多く、なかなか予約が取れず、患者さんは診療が終わると1ヶ月後の予約を入れるため、平日の4時以降や、土曜日に新患が入るスペースが限られている。これはお客さんの多いレストランで、金曜日の夜、休日前の日の予約は取れないのと同じである。おそらく患者さんから何月何日何時、予約できますかと尋ねられ、そこはすでに予約が入っています。それでは何月何日何時はどうですかと言われ、これも無理です、何回かこうした応答で、受付の対応にキレタのであろう。スタッフと相談し、患者に都合に良い日を聞くだけでなく、空いている日、予約できる日、時間を言うようにすることにした。ただ食べログでは、飲食店の三大要素は料理、空間、サービスで、予約や入店時の対応は、この三大要素のサービスのほんの一部分しか占めておらず、飲食店で食事をし、空間で過ごし、サービスを受けなければ、飲食店をレビューする権利はないとされる。レストランに予約の連絡をし、食べもしない、行きもしないで、その対応がまずいと評価を1にできないようにしている。病院や医院の口コミサイトには、受付の電話応対へのクレームのような書き込みが多いが、これは食べもしない客からの評価と同じであろう。以前から匿名の投書、書き込みは無責任で、何とかならないかと思っている。歯科医師会でも実名による患者からのクレームのみを対応しており、影響力の大きなGoogleのクチコミも原則的には実名表示を望みたい。

 

 PS:医院ではこうした口コミサイトの評価で患者数が大きく、減少することがあり、低評価の医院に、削除を一件、数万円で請け負う会社からのダイレクトメールがしょっちゅうくる。一度は明らかにこの会社と結託した人の仕業だったので、google社に報告して削除してもらった。



2020年9月6日日曜日

宮本輝 「灯台からの響き」







 小学2、3年生の頃か、毎週火曜日になると、近所の駄菓子屋に走っていき、山積みされた漫画雑誌、少年マガジンを買うのが、楽しみであった。家に帰ると貪りつくように読んだ記憶は懐かしい。現役の作家でこうした楽しみをもたらすのが宮本輝さんで、新刊が出るのが毎回楽しみで、買うと一気に読んでしまう。

 

 この作品も、内容についてはネタバレになるので述べないが、前作“草花たちの静かな誓い”が海外舞台、ミステリー調で、やや違和感が残っただけに、今回はいつもの宮本さんのタッチになったのが嬉しい。神戸で絶大な人気がある洋画家、小磯良平さんも一時、抽象画に挑んだことがあり、割合長い期間、新しい作風を作ろうともがいた時代があった。後年、小磯良平さんの回顧展を開くと、この時期の作品がつまらなく、むしろ原点の婦人像をさらに深化してほしいと思われ、この時期が残念でならない。宮本さんの場合は、こうしたこともよくわかった人で、少し冒険をしても、自分の得意な分野にまた戻る。

 

 宮本さんの最近の作品は、その作品のキイとなる言葉、趣味、人物、場所を配置する。今回の作品では、森鴎外の“渋江抽斎”、灯台、支那そばがキイとなる。明治の大文豪、森鴎外の作品、“雁”や“高瀬舟”などを読んだことがある人は多いと思われるが、実は森鴎外の作品の中で最も評価が高いのが“渋江抽斎”なのである。まあいっぺんに読んでみれば、わかるが、一回読んで、こんなにつまらない本はないと思うし、それ以前に最後まで読めない。ただ宮本さんもそうだが、何度も読んでいるうちに、江戸後期から明治に行きた市井の人々の息遣いをこれほど見事に淡々と描かれたことに驚くだろう。今、“城下の人”(石光真清著)という近代日本が生んだ素晴らしいノンフィクションを読んでいるが、鴎外の“渋江抽斎”はこれを大文豪がギュッと凝縮したようなもので、一時、弘前大学の松木明先生の人名誌で、渋江抽斎の登場人物のことを調べたことがあるが、その一人一人に、これまた渋江抽斎と同じような人生があり、鴎外の作品の奥深さに驚いた。作家にとり、ページ数を増やすことは、ある意味容易であるが、逆に必要最小限の言葉に省略するのは、非常に難しいし、決意がいる。この背景には、森鴎外の漢籍への深い知識が絡んでいるのは間違いなく、漢文では短い語句の中に多くの意味を持たせる。そうした意味では“渋江抽斎”は日本語で書かれた漢文の小説であり、これは漢文の素養が高い森鴎外以外にはもはや書かれない代物である。

 

 本題に戻ろう。本書では、各地にある灯台を巡って、主人公は旅をするが、我が青森県にも足を運んでくれ、竜飛崎にきて、龍飛崎灯台を見る。竜飛崎は弘前藩領絵図では“龍濱崎”とされ、その先にある小島、帯島は“ヨンヘイ シマ”となっている。アイヌ語では“オー”は群生する、うようよいるの意味で、“ペイ”は水の意味で、魚な鳥が群生する、寄り集まってくるという意味だというが(三厩村誌、昭和54年)、これがなまり“ヨンヘイシマ”と記載されたのだろう。せっかく青森県にくるのであれば、弘前に泊まりに、“渋江抽斎”の住んでいたところにも行って欲しかった。うちの母は大阪から弘前に来て、そこからなんとタクシーに乗って竜飛岬まで行った。車のない私にとっては、青森県に住みながら竜飛岬はアクセスが悪くなかなか行けないところであるが、本書に刺激され是非一度は行きたい。

 

 そういえば、森鴎外が“渋江抽斎”を知ったのは、鴎外の趣味である“武鑑”の収集で、その過程で、“渋江抽斎”の蔵書印のある武鑑に度々出会ったことによる。その後、渋江抽斎に興味を持つようになり、知人を介して調べていく。鴎外の執筆過程は、本書の亡き妻への一枚のハガキに導かれて多くの新たな親友、知人を得るのに似ており、“渋江抽斎”は一種の伏線と考えてよいかもしれない。ちなみに鴎外に渋江抽斎のことを知らせる佐藤弥六という人物は、佐藤紅緑の父、サトウハチロウ、佐藤愛子の祖父となり、佐藤家でも最も偏屈で愛らしい人物である。

 

 宮本輝さんの作品は、誰だって人生はやり直せるし、生き方も考え方次第で変えられると励ましてくれる。新型コロナウイルス騒動で大変な時期ではあるが何とか乗り越えてほしい。


PS:単行本の場合、あまりカバーを外すことはないが、この本の表紙はタイトルに沿ってオシャレです。



 

2020年9月5日土曜日

所得税と歳出

 



 前回の続きだが、明治20年、初めて所得税が始まった頃、300円以上の収入のある人が対象であった。明治20-30年ころの物価は、木村屋のあんぱんが1個、1銭、うどん、そばは2銭、カレーライスは5-7銭であった。一円は、今の2万円から3万円の価値となる。そうなると所得税を納める人の年収は600-900万円くらいとなる。300円以上の所得のある人の数は、全国で12万人、当時の人口、3900万人の約0.36%となる。詳しく見ると一等、3万円以上の所得のある人は東京で42名、最高は三菱財閥の岩崎弥太郎の長男、久弥で申告額は70万円となる。

 

 少し古いが2018度の所得者構成比で見ると900万円以上の所得のある人の割合は6.81%、明治時代、所得税は一家全体の収入にかかることから、今のように夫婦で共稼ぎの場合は、この比率はもっと高く、年収1000万円以上の世帯割合は平成12年で12%となっている。ちなみの2018年で見れば2500万円以上の割合が0.33%であるので、明治20年の300円以上の所得の人と同じような比率となる。

 

 明治23年の巡査の初任給は6円、小学校教員は5円、東京の大工の日当は50銭、日雇い人夫の日当が20銭くらいである。現在の警察官、教員の給与はボーナスも含めれば30万円くらい、大工の日当は13000円くらい、日雇いは最低賃金だとしても東京で8000円くらいである。給料から見ると一円の価値は4-5万円くらいと高くなる。これで換算すると、うどん2銭が1000円、カレーライス5銭は2500円とかなり高い。これまで明治20年の一円の価値は2-3万円くらいとされているが、むしろ今は大量生産により物の価値が全て下がっていると見ると、一円の価値はもっと高く45万円くらいと考えた方が良さそうである。明治の300円以上の所得のある人は今の1500万円以上の収入がある人だと見なされ、そうした人だけが所得税を払っていたことになる。多くの人々にとり税金はそれほど多くはなかったのではなかろうか。所得税は3円、高めの換算をしてもたった15万円しかなく、実収入は1485万円となる。現在では例えば1500万円の収入で、所得税が33%と地方税が10%の計44%で、収入の55%が本当の所得となり、825万円となる。1485万円稼ぐためには、今では3000万円近く稼ぐ必要がある。

 

 こうした税収の少なく財政的に厳しいのが明治の政府であった。日清、日露戦争など、軍備への支出が多かったが、社会保障費はほとんどなく、さらに文教費、公共事業費もかなり少ない。こうした歳入も少ないが歳出も少ない時代がかなり長く続き、明治20年の歳出が8000万円(今の4兆円)であったが、明治37年で2.8億円、さらに日露戦争で増え、明治44年には5.9億円、昭和に入り少しつつ増えたが、昭和12年で27.1億円となった。当時の一円の価値は今の2000円くらいなので、これでも5.4兆円くらいの財政規模であった。インフレを考えると明治20年とそれほど大きな変化はない。小さな国家であった。

 

 戦後になると、昭和23年の歳出は4620億円なので、一円は今の10-15円として換算すると6兆円くらいで、これも大きくはない。歳出が極端に大きくなったのは、昭和43年頃からで、昭和43年で5.9兆円、昭和53年には34.1兆円に、さらに昭和63年には61.5兆円に、そして平成26年には実に100.2兆円となった。昭和43年の物価は今の半分なので、当時の歳出5.9兆円は今に換算すると12兆円、まだ少ない方である。昭和63年の初任給は15万円、今は20万円くらいなので、1.3倍くらいになったとすれば、昭和63年の61.5兆円は今の80兆円くらいとなり、ほぼ今の水準となった。

 

 明治からの歳出の変化を見れば、昭和45年頃が、佐藤栄作から田中角栄の頃が、近代日本の大きな分岐点、すなわち小さな国家から大きな国家になったのだと思う。

2020年9月3日木曜日

明治のお金持ち

 青森県内にある弘前市の藤田記念庭園および洋館、金木の斜陽館など、昔の大金持ちの作った古い建物を見ると、その規模、豪華さに驚く。今の時代、これほどの自宅を建てる金持ちはいない。最近でこそ、所得税の累進性あるいは、税率の上限が下がってきたが、昭和61年ごろでは所得税と個人住民税を足すと88%、現行でも55%となる。もちろん大きな家に住んでいるとこれ以外にも膨大な固定資産税がかかるし、6億円以上の相続となると相続税が55%となる。東京のような地価の高いところで、200坪で6億円というのはありうる話で、その場合、3億円以上の相続税となる。  例えば、昭和61年頃、1億円の収入がある金持ちがいたとしよう。税金に8800万円支払い、残りは1200万円しかないので、それほど大きな家は建てられない。それでは明治時代はどうかというと、明治に早い時期では地租、土地に対する税金はあったものの、所得税、相続税はなかった。その後、明治20年に初めて所得税が作られ、その時の税制では300円以上の収入、今でいうと600-900万円以上の所得のあるものだけが所得税を払った。税率は19段階に分かれ、300円では3円、1万円で200円、20万円では6000円となる。一円は2、3万円であるとすれば、600万円の所得で6万円の所得税、40億円の所得で1億2000万円である。昭和61年の税率88%であれば、40億円の収入があれば税金は35億円であるので、34億円も安い。 

  ちなみに明治20年の国家予算を見ると、歳入は8816万円、1円の現行価値を高めに3万円しても2兆6000億円くらいにしかならない。2015年の日本の歳入は96.3兆円、そのうち税収は概ね60兆円である。明治20年の人口は約4000万人で。今は2倍以上になっているとはいえ、明治政府の歳入はあまりに少なく1/20以下である。明治国家は富国強兵で軍事費への支出は高かったが、それでも2020年度の防衛費は5兆3000億円で、明治20年の国家歳入の2倍となる。 

  “生きづらい明治社会 不安と競争の時代”(岩波ジュニア新書、松沢裕作)では、明治社会は今のような生活保護のような制度がなく、貧困に落ちても国が助けてくれる社会ではなかったとしている。政府は貧困層に冷たく、恤救規則という制度があったが、その拡大には大きな反対があったという。貧困者を助けることは怠けているものを救うことになり怠惰を容認することになるという考えである。ただこれも歳入の観点から見れば、違う。例えば平成26年度の生活保護負担金は約3兆8000億円、明治20年に戻すと人口が半分としても、6300万円相当、歳入の75%となる。明治の時代に今と同じような生活保護を行えば、国家は破綻する。 

  最近では、マルクス主義的な歴史解釈をする学者も少なくなってきたが、それでも、こうした財政的なことを全く無視した議論、あるいは過去の歴史を否定することは、気をつけた方が良い。歯科でも、患者さんの中には、ネット情報をそのまま鵜呑みにして、歯科医院でそうした治療を要求する人がいる。そこには自費という観点は全くなく、通常の健康保険治療でもそうした治療ができると思い、憤慨する。また一部のマスコミでも日本の医療制度をアメリカと比較して論じる向きもあるが、これも費用を全く無視した議論である。例えば日本では健康保険、高額医療制度を活用すれば、7万円くらいできる治療があるとしよう。それをマスコミではアメリカの治療に比べてサービスや治療の質が劣っていると論じる。アメリカの医療費が1000万円以上ということに、一言も触れない。  

 こうした税制と歳入、歳出の観点から日本の歴史を論じた文庫本レベルの本を知らない。アメリカでも1910年頃、最高税率は70%を超え、一時25%くらいまで低下したが、その後、1940年代には90%を超える最高税率となり、1981年まで70%を超える高い税率となっていた。その後、レーガン大統領時代に28%くらいまで下げられ、民主党政権では上がり、共和党政権では下げるを繰り返しているものの、オバマ政権の39.6%が最高である。こうした税制の変化は政策とも大きな関連を持つはずだが、あまり論点になっていない。不思議なことである。 

  ついてに言うと、明治時代、300以上の収入があって所得税を払う人は人口の0.3%くらいしかおらず、大部分の国民は主として住まい、田畑にかかる地租が税金のほとんどであり、今の固定資産税より多少多いくらいで、そうした意味では大部分の国民はあまり税金を払っていない社会であった。一方、医療費、学校などの費用は自腹であり、今で言う小さな国家が基本であった。