2025年7月14日月曜日

サッカーで食っていけるか

 



最近のサッカー日本代表はひと昔に比べて圧倒的に強くなっており、ひょっとしたらW杯の目標、ベスト8に入るのも可能と思わせるほどである。選手のほとんどが海外の、それも有名クラブに所属して活躍している。三笘、久保のような海外のビッグクラブからも注目されるような選手が複数いて本当に楽しみである。ひとえにサッカー人口の増加と裾野の広がりのよるものだろう。

 

ところがスポーツ人口そのものは、少子化に伴い減少しており、サッカー以外のスポーツ、例えば野球では、もはや各小学校、中学校にあった野球部が9名集めることができず、何校か集まって合同チームを作るという有様である。一方、サッカーについては、小学生から地域のスポーツ団でサッカーを始め、優秀な子はJリーグの下部組織の入団を狙う。これに入れない場合は、地域でサッカーが強い中学校に越境入学する。さらに高校生になると、県下でも強豪校に入ろうと頑張る。ただ青森県の場合は青森山田高校が圧倒的に強いために、青森の子供達はほとんど全国大会に出場する機会は少ない。

 

そしてJリーグの選手の半分は下部組織出身者で、残りが全国高校大会で注目される選手からスカウトされる。最近では大学出身の選手も多くはなっているが、それでもまずJリーグの下部組織や大学からスカウトがなければ、プロは無理ということになる。ただ野球と違い、Jリーグは1、2、3の3つのリーグがあり、J1192名、J2335名、J3334名の58チーム、計1833名が一応、プロである。野球の2倍の選手数であるが、J3くらいになると収入は300万円程度である。さらにJ3の下のなるとJFL(日本フットボールリーグ)16チームで320人くらい、さらに地域リーグ、都道府県リーグがある。地域リーグは北海道、東北など9ブロックで、さらに都道府県リーグがあり、全部で130チームが参加している。1チームが20名の選手がいるとしても2600名、これらのチームは競争して、上位リーグに昇進する可能性がある。以上が本格的にサッカーをしている選手でおよそ5000人となる。他のスポーツに比べて桁違いに多い人数である。

 

私がサッカーをしていたのは50年以上前だが、その頃はプロサッカーがなく、あくまでアマチュアの競技であった。アマチュア競技の極みが実業団で、普通は高校卒業で部活動は終了となる。私がいた頃は六甲高校も兵庫県ではサッカー強豪校で、高校総体の兵庫県代表、近畿大会も優勝した。それでも練習は週に3回、学校の方針でスポーツより勉強を優先させた。近畿大会の優勝メンバー、私の学年7名の卒業後の進路を見ても、東京大学が1名、京都大学が1名、大阪大学が1名、神戸大学が2名、早稲田大政経が1名、東北大が1名であった。またゴールキーパー仲間の一級上の先輩は神戸大学医学部、一級下の後輩は京都大学工学部建築学科と偏差値の高い大学に現役で合格している。早稲田大政経学部に進学した同級生は、元、日本代表監督、岡田武史さんと同じサッカー同好会で親しかったという。岡田さんは大阪選抜、ユース代表となり、アジアユースにも出場したが、早稲田大に一浪して一般入試で合格した。もう本格的にサッカーはしない、同好会くらいで楽しむと言っていたという。友人も同様だったが、結局、岡田さんはユース代表にも選ばれたため、日本サッカー協会から本部のサッカー部に行けと命じられ、今に至る。さすがにユース代表くらいになるとサッカーから逃げられないが、県の選抜くらいであれば、高校でサッカーは卒業となる。東北大学歯学部のサッカー同好会でも、国体県代表が5名いた。サッカーでは食っていけないとリアルな考えによる。

 

今年の近畿大会に優勝した京都橘高校サッカー部のメンバーの進学先を調べると、J1の選手になる生徒はいないが、ほとんどは大学に入ってもサッカーをやるようで、京都橘大学、京都産業大学などの大学サッカーで進学している。そして彼らは大学卒業後も地域リーグと、サッカー生活は続く。なまじサッカーの裾野が広くて下部リーグもあるため、諦められず、ずるずるとサッカーに引きずられことになる。本人、家族、コーチのこうしたサッカーの蟻地獄生活をよく知るべきで、残酷な言い方であるが、サッカー日本代表のU-12U-15U-18など年齢別のカテゴリーに選ばれなかった時点で、J1のプロサッカー選手は諦めるべきであろう。さらに京都橘高校のような強豪高校の部員でもプロになる選手は少なく、それでもレギュラー選手のほとんどは中学校時代にはJ1チームの下部チームに属している。つまり強豪高校のレギュラーにもなれない、あるいはその前の段階、J1下部組織の試験に落ちた時点で、すでにプロのサッカー選手は無理である。

 

結論を言うと、サッカーが好きでやる分には全く問題ないが、サッカーをやるのはせいぜい中学生までで、子供にはこの段階で目が出ないのであればサッカーで食っていくのは難しく、もし高校生になってもサッカーを続けるなら文武両道で勉強も頑張るように説得すべきであろう。東大に入学するよりサッカーのプロになる方がよほど難しいが、普通の成績の中学生が“東大に入りたい”といえば親は笑うが、“プロのサッカー選手になりたい”といえば、親は本気になり遠く離れた強豪高校に入れたりする。親も子も現実を知るべきであろう。他のスポーツはそう考えるのだが。東大、京大、早稲田などの難関大学の入学者数はほぼ10万人、対してサッカーJ1,2,3に毎年入る選手は150名、1:600の比率で、どちらが簡単かははっきりしている。

2025年7月11日金曜日

一番いい時代は?

 



私が生まれたのは昭和31年(1956年)で、今は令和7年(2025年)だから、このほぼ七十年の間で一番いい時代と言われると、おそらく1975 年くらいから1985年くらいの10年間だと思う

 

子供の頃は、まだまだ戦争の影響を引きずっており、阪神梅田駅にも傷痍軍人が座っていた時代で、自家用車もほとんどなく、スーパーやコンビニもなかった。既製服もなく、服を作ろうとすると仕立て屋に注文した時代で、服も靴もよほど高価なもので、親父は歯医者をしていて、決して貧乏ではなかったが、それでも革靴や2足、スーツも2つしかなかった。子供は年がら年中同じ服を着ていたし、家に風呂がなかったので近所の銭湯に行った。夏場は2日に一回くらいだが、冬場は3、4日に一回くらいのものであった。決して日本も裕福な国ではなく、欧米諸国に比べてとむしろ貧乏な国であった。

 

日本が豊かな国と実感したのは、昭和55年(1970)の大阪万博で、当時の雰囲気は山田洋次郎監督の「家族」という映画によく表されている。日本中がいわばお登り状況で、沸き立っていた。私など初めてここで外国人を見て、今考えるとアホで、サインをもらったりした。さぞかしびっくりしたことであろう。景気もこの頃から良くなり、周囲にも大学生が多くなり、グループサウンドやフォークをする若者も少しずつ増え、また長髪の若者も多くなった。ただ1970年の初めはまだ一部の若者で、学生帽を被った大学生がまだいた。中学三年生の時に初めて東京に行き、新宿にフーテンと呼ばれる若者集団を見て、さすがに東京都だとえらく感激した。

 

月刊ポパイが創刊されたのが1976年、そこにはアメリカ西海岸の空気が満載され、夢中になった。この頃からジーンズに、Tシャツなど今につながる若者ファッションが定着し、ディスコもあり、音楽は1978年にはサザンオールスターズの勝手にシンドバット、ユーミンの飛行機雲が1973年。ユーミンは天才で、とりわけ70年代の曲は際立っている。

 

私が一浪して仙台の大学に来たのが1975年で、最高に楽しい時代であった。仕送りは他の学生より多くもらっていたので(10万円)、バイトもせずに、アパート代や食費を払ってもまだまだ遊べる金があった。映画も名画座であれば1000円くらい、学生向けの飲み屋やディスコも2000円くらいで楽しめた。また友人の家で飲めば、もっと安く酔えた。個人的には全くモテなかったが、東北大学歯学部は仙台の女子大には人気があり、かなり合コンをした。小遣いを貯めては、ポパイで紹介された靴や洋服を買い、仙台の一番町の喫茶店モーツアルトに行くのが何よりの楽しみであった。よく休日にはロードレーサタイプの自転車に乗り松島に行った。また軽音楽部の友人が多かったので、ロックからジャズ、ゴズペルなどいろんなジャンルを聞いたが、当時の日本のヒット曲はあまり知らない。インドと中国に行ったのもこの時代だった。結局、1983年まで仙台にいて、その後、1994年までは鹿児島にいた。もちろん鹿児島にいた時も楽しかったが、バブル崩壊後は、昔ほどの活気もなくなり、私自身も1984年に結婚し、子供もできたため、そんなに遊んでいるわけにもいかなくなった。

 

1975-1985年の10年間は、ちょうど私にとって大学および卒業後の独身時代に一致し、そのこともあってこの時代が一番いい時代と思っているのかもしれない。任天堂のファミコンが登場したのが1983年だが、これは子供向けで、私たちの世代は、2000年に登場したソニーのプレイステーションもあまり夢中になっていない。またインターネットが普及したのは1995年頃からで、今のようなスマホが登場したのが2007年なので、完全に別の時代のものだ。ただ感覚としてはゲーム、インターネットやスマホのなかった1970-1980年代の方が実感としてよほど面白かったのは私だけであろうか。シティーポップが世界的に流行っているというが、今の若者にもこの時代への憧れがあるのかもしれない。


2025年7月6日日曜日

来年度NHK朝ドラ 風、薫る 鈴木雅について

 







来年度、NHKの朝ドラは日本の看護師の創始者の大関和と鈴木雅のダブルキャストの物語です。内容については現時点では不明ですが、大関和役には見上愛さんが鈴木雅さん役には上坂樹里さんがキャストに選ばれました。

 

原作は、田中ひかるさんの「明治のナイチンゲール 大関和物語」、脚本は吉澤智子さんということです。鈴木雅さんについては以前、私のブログでも取りあげましたが、今回、もう一度、検索して調べると、横浜フェリス卒業となっています。横浜フェリスは、明治3年、日本で最初にできた女子学校で、当初はフェリス・セミナリーと呼ばれ、明治22年から横浜フェリス和英学校となりました。ただ私が調べる限り鈴木雅さんは横浜共立女学校の最初の入学生であることは間違いなく、最近発刊された「横浜共立学園150年史」でも以下のようになっています。

 

鈴木雅(加藤まさ)

1857(安政四)年生まれ。1872(明治五)年ごろ入学、1876(明治九)年バラより受洗、1881(明治十四)年ごろ修了か、その後、陸軍中佐鈴木良光と結婚するが死別し、看護の知識があったらと痛感して1886(明治十九)年、桜井女学校の看護婦養成所の一期生として入所し、1888(明治二十一)年卒業。東京帝国大学医科大学付属病院の内科看護婦長となった。1891(明治二十四)年慈恵看護婦会を設立して派遣看護事業を始め、1896(明治二十九)年東京看護婦講習所を開き、後進の指導に努めた。1940(昭和十五)6月11日に逝去。83歳、

 

また横浜共立学園六十年史」の中で、卒業生の寄稿文のひとつに小島清子(北川)さんの「思い出を語る」という文が収められています。少し引用すると

 

 「私は姉の北川晴子と弟の北川才太と三人で、ミッションホームが山手四十八番に開設された最初の生徒として入学したものでした。私たちの外に第一回の生徒として入学した人たちには福澤先生のお嬢さ達が三人、又福澤先生のお姪御さんで福澤おきよさん、井上馨(後の侯爵)さんのお嬢さんが二人、木脇お園さん。この人のことを伯爵夫人と渾名していました。中尾さん、名は何と言ったか覚えていませんが何でも芸者をしていたかということでした。苗字は忘れましたがお米さんという三十歳位の人もいました。菱川お安さん、この人は後医者となった。更木お梅さん、更木お金さん、おひささんなどでした。間もなく二百十二番に移りましたが、移ってから入学した者のうちには毛色の変わった人たちがいました。 略 おりょうさん(後栗岡氏に嫁す)、加藤おまきさん(後東京帝大の看護婦長となった)桜井おちかさん(桜井女塾を開いた)井深おせき(井深梶之助博士夫人)おとりさん、お角さん(後医者になった)お貞さん、おりやうさんなどであった。この二人は明治の初年最初の女子海外留学生として米国に往った上田てい子、吉松(益)りょう子さんたちで渡米後間もなく帰朝して共立に入ったのでした。これらは開校当時の事で明治四、五年頃の話ですが、それでも当時の社会においては相当の身分のある人たちの子供が入学したのです。」

 

一期生には他に青森出身でペンシルベニア女子医学校行った西田圭(岡見京)がいます、文中の菱川お安とは、シカゴ女子医学校に進学した菱川安、お角さんはシンシナティー女子医大に進学した須藤かく、そして桜井おちかとは桜井ちかのことで桜井看護婦養成所の開設者です。また宣教医として明治18年に共立女学校に派遣されたアデリン・ケルシーは学校医として働く一方、医療伝道として校外の患者の治療にもあたり、その時の同行したのが須藤かくと阿部はなです。その後、この医療助手に正式な医療を学んでほしいと思い、自分の故郷のアメリカに連れて行き、シンシナティ女子医学校に入れます。

 

鈴木雅は同級生が開設した桜井女学校で、イギリス出身のナイチンゲール看護学校を卒業したアグネス・ビッチの通訳をしたことから看護婦養成所に入所して看護師となります。鈴木雅が入所したのは明治19年で、すでに桜井女学校は矢島楫子が校長になっていましたが、母校である共立女学校のケルシーとは面識があり、同級生の須藤かくから医療助手、看護師のことを聞いていたに違いないと思います。また岡見京がペンシルベニア女子医学校を卒業して帰国したのが明治22年(1889,菱川安がシカゴ女子医学校を卒業し、帰国したのが明治22(1889),須藤かくがシンシナティー女子医学校を卒業して帰国したのが、明治30年(1897)で、それぞれ看護師になった鈴木雅とは交流があったと思います。

 

NHKの朝ドラでは、もちろんフィクションで構成されますが、鈴木雅についてはフェリス卒業というのは間違いで、横浜共立女学校の修了が合っていると思います。それなら同級生のうち3人が海外留学して医者になったというすごい状況を考えると、鈴木雅が通訳、看護師への道が無理なく説明できると思います。できれば番組でも須藤かく、岡見京、菱川やす、ケルシーなどの登場してくれると嬉しいことです。






2025年7月3日木曜日

朝ドラ、あんぱんを見て

 

親父の写真 階級章から少尉時代


朝ドラのあんぱんでは、主人公の柳井が軍隊に入隊するが、毎日の上官からのしごきに先は思いやられると思っていたが、幹部候補生試験に合格して立場は変わった。戦争中、旧制の中学校卒業の若者は、上官の推薦があれば、幹部候補生試験を受けることができる。試験は甲と乙の2種類があり、甲の試験に通ると士官学校に入学して、将校となる。乙の試験合格者は下士官になるため、主人公の柳井も軍曹の階級となる。この昇進スピードが速い。

 

うちの父親の場合、東京歯科専門学校(現:東京歯科大学)を卒業し、昭和1721日に入隊する。41日に幹部候補生試験を受け、一等兵に、そして420日に上等兵に進み、同日、甲種幹部候補生に、その後、豊橋の陸軍教導学校に進み、61日は伍長、91日に軍曹になり、1017日に曹長、見習い士官となる。その後、1027日に少尉となり、満州の輸送、測量部に所属した。昭和18年の1130日に現役満期となり、121日に予備役となるが、同日に招集されて関東軍の測量部に所属する。そのまま勤務して、終戦後に、新京の収容所に入り、昭和2012月にモスクワ南部のマルシャンスク収容所に入る。少尉から中尉になるのは通常2、3年かかるので、もう少しすれば中尉になったであろう。結局はポツダム昇進で、軍人年金などでは中尉扱いとなっている。収容所から日本に着いたのが昭和236月で、収容所は戦地扱いになるため、軍隊生活は昭和172月から昭和236月の6年4ヶ月なので、軍人恩給は結構多かった。

 

ただ日本では長男の存在は特別で、長男が戦死すると一家が消滅するため、激戦地には次男、三男などから配属された。親父の場合も長男ということで、輸送部隊、測量部隊と全く実際の戦闘に加わらない部隊にいた。徳島から招集された兵士の多くは、中国大陸から南方戦線に転出されたが、親父だけは中国に残った。こうした配慮は旧軍でも確かにあった。

 

戦争というのは残酷で、家族構成が時代に合ってしまうと、多くの犠牲者を出す。昭和10年くらいから20から40歳の世代が戦争に駆り出された。明治40年から大正10年、もう少し幅をとって昭和元年生まれくらいまでが参戦した世代である。親が明治10年から20年生まれの家では、5人の男の子がいれば、全て戦争で戦死したということが起こり得るし、少なくとも子供の一人くらいが戦死したであろう。一方、家内の父親の場合、7人兄弟で、男が4人、女が3人だが、一番上が昭和5年生まれなので、兄弟誰一人として参戦していない。また祖父が明治38年より前の生まれであれば、招集は免れた。5年か10年の年齢差で男の子全て戦士という家もあるし、出征しなくても良い家もいた。

 

また戦地によって扱いはひどく違い。ロータリークラブにいた時、お世話になった方は、召集されてからずっとタイ、バンコクに勤務して、ナイトクラブに行ったり、映画をみたりと結構楽しかったと懐かしんでいた。戦後も早い時期に日本に輸送され、日本の食生活に驚いたとようだ。逆に知人のご主人は、東京大学工学部を卒業後、第36師団として学徒出陣でニューギニアに派遣された。ニューギニア戦線はひどく、戦闘と飢餓で全兵の80%が戦死した。南方戦線は兵の消耗がひどく、中国戦線の方がまだマシだが、戦後、親父のように最初に捕虜になった兵士は、モスクワ南方、ドイツ軍捕虜などの一緒の捕虜収容所だったので生活はそれほど厳しくなかった。一方、中国大陸で捕虜になった兵士の多くはシベリアの収容所に入れられ、厳しい寒さのために多くの日本人が亡くなった。また南方戦線でアメリカ軍の捕虜になった兵士は捕虜生活もそれほど大変でなく、捕虜になるのもソ連、アメリカで違うし、ソ連でもどこの捕虜収容所に行くかでも違った。

 

実際のやなせたかしさんは、戦争中、病気になったり、食糧がなく苦しんだが、暗号係で、実戦経験はなく、捕虜生活もしていない。同じ漫画家の水木しげるの戦争経験とは雲泥の差がある。


2025年7月2日水曜日

矯正治療が高いのは技術料

amazonで売っているブラケット、メタル製で1症例用
6.99ドル、約1000円、もちろんこれでも普通に治せる。技術とはそういうものである。



矯正治療費は高いというのは皆知っているが、なぜ高いということになるとよくわかっていない。歯科医院によっては金属のブラケットと白いブラケットで値段が違うことがあるが、私にいわせれば、差をつけるほど大きなちがいはない。例えば金属製のブラケットが一つ250円くらい、強化ブラスティックの白いブラケットが500円くらい、さらにセラミックのブラケットで1200円くらい、一番高いもので2500円くらいである。抜歯症例でいうと第一、第二大臼歯、第二小臼歯の計12本でメタルのチューブは一個500円×126千円、犬歯、切歯の12本を一番高いセラミックでも2500円×123万円となり、ブラケット代だけなら、せいぜい4万円以下である。さらにワイヤー代もピンキリだが、一般的によく使うステンレススチールのもので200円くらい、超弾性ワイヤーなど使っても2年間の治療期間で3万円以下となる。つまりマルチブラケット装置に材料費はどんなにがんばっても8万円以下、私の診療所でいうならブラケットとチューブで1症例が14200円、ワイヤーはよく交換する方だが、それでも2年間で30回交換したとしてもおおよそ15000円、他のゴムや結紮線、フックなどが5000円くらいで、34200円くらいとなる。もちろんこれ以外にも、人件費、テナント料、光熱費さまざまな費用はかかったが、これは保険診療でも同じである。

 

一方、私のところの基本治療費は40万円なので、40万円マイナス34200円が材料費を除くもうけとなる。また調整料の3000円のうち、ワイヤーや結紮線、ゴムの費用など600円くらいが材料費となり、残りがもうけとなる。材料費はうちの場合、基本治療費で8.6%、調整料で20%となる。もうけはそれぞれ91.4%80%となる。これが基本治療、80万円の場合、もうけは95.3%、調整料が5000円の場合、88%となる。

 

それではこの80-90%のもうけは何の値段かというと、多くは技術料といえる。もちろん銀座で開業すれば、テナント料、人件費、あるいは広告費もかなり高いが、処置としては技術料が大きいと考えて良い。手術を例にすればよくわかるが、ブラックジャックはそのすぐれた手術技術で高い手術料を請求している。日本は極めて特殊な国で、ブラックジャックに手術してもらっても新卒のペイペイに手術しても手術点数は同じであるが、本来技術料というのは、経験、知識、技術の差によって異なるものである。であるなら若手の先生で経験、知識、技術がなければ、ベテランの専門医で同じ技術料を取るのはおかしなことになるし、本来ならそういうことはありえない。若手の外科医がブラックジャックの料金をとっても誰も手術を受けないからである。

なのに患者はどうして一般歯科医で矯正治療を受けるのだろうか。不思議なことである。私自身、それほど器用な方ではないとしても、年間100-150症例、30年間では3000-4500症例、大学で治療したケースも含めれば、優に5000症例は治療した。ところが一般歯科医であれば、普通年間に多くて10症例、30年間で300症例、このうち、マルチブラケット装置での治療と2年間の保定という症例はもっと少なく、さすがに技術的な違いがあろう。ましてやインビザラインしかしない先生など論外であり、さしずめ外科治療もしたことないのに、内視鏡手術をいきなりするようなもので、危険この上もない。

 

矯正治療の値段は、ほとんど技術代ということを述べたが、それでは何をみて判断するかである。まず日本矯正歯科学会の認定医以上の資格を持つ先生のいる歯科医院がよい。さらにいうならその上の資格、臨床矯正指導医、あるいは昨今できた日本歯科専門医機構、矯正歯科専門医の資格を持つ先生がさらによい。また先生の履歴をみて、大学病院矯正歯科、あるいは矯正歯科専門医に勤務したことはない先生はまずマルチブラケット装置による治療はできないとみた方がよい。最近は、暇なのでYouTubeをよくみるが、私がよく知っているあるいは学会でも有名な先生は誰一人でていない。まず認定医の資格すら持っていない先生がほとんどで、少し情けない気もする。美容外科のチャンネルも多いが、少なくとも彼らは正式な形成外科の医局で勉強した先生が多い。それに対してYouTubeで歯科矯正を発信している先生は、私からいわせればほとんど素人で、本当に恥ずかしい。優秀な矯正歯科医のところは、患者が多くて、YouTubeなどしている暇もないし、これ以上患者が来られるときちんとした治療ができないとそもそもホームページすら作っていない先生もいる。


 

2025年6月26日木曜日

素直な性格は生まれつき?

 



私には二人の娘がいて、同じような教育をしてきたが、性格が全く違う。顔形(かおかたち)は遺伝的な影響を受けるのはわかるが、性格が遺伝するのはどうも信じられないが、生まれつきの性格はあるのだと考えたくなる。ただ性格については、遺伝的な要素はあったとしても、環境的な影響はそれ以上に大きく、どのような時代、あるいは家族で育ったかは性格に影響する。

 

ある調査によると「素直でまっすぐな人と一緒に過ごしたいですか」という問いに、「とても魅力を感じる」が65.3%、「どちらかというと魅力を感じる」が25.3%と合わせて90%以上が素直な人に好意を持つようだ。こうした性格は、社会において得をすることがわかる。

 

であるなら自分の子供が素直な性格に育って欲しいというのは、多くの親の希望であるが、残念ながら自分の子供のことを含めて私の家は該当せず、難しいものだ。ただ素直な性格の人を見ていて共通のことがあるように思われるので、あくまで個人的な感想であるが、述べたい。

 

1.お金に困らない家庭で育つ

確かに家が貧乏でも素直に育つ子供もいるが、どうしても金のことで家族がギクシャクして、ひねくれた性格になることがある。また親、特に母親も生活に追われて子供に愛情を注ぐ余裕がなく、愛情を知らないで育った子供の場合、素直になりにくいだろう。一方、お金持ちというと韓ドラでは性格の悪い人物が登場するが、実際のお金持ちの子弟は、いわゆるお坊ちゃん、お嬢ちゃん育ちでのんびりした素直な子も多い。率としては貧乏な家庭より金持ちの家庭の方は素直な性格の子がいる割合が高い感じがする。

 

2.母親が素直でいい人

今でこそ共稼ぎで、母親も働く家庭が多いが、以前は母親が家にいて、子供に接する時間は父親より母親の方が圧倒的に高かった。そのため、母親の性格が子供に反映されることが多かった。母親がいわゆるいい人で、表裏のない素直な性格であれば、子供も同じような性格の場合が多い。今は父親の存在も大きいかもしれないが。

 

3.親子の会話が多い

待合室を見ていると、本当に親子で会話が多い家族がいる。小学生だけでなく、高校生になってもずっと母親、父親としゃべっている。おそらく家でも会話の多い家族なのだろう。こうした家庭では素直な子供が多い。学校で起こったことなど何でも話せる家庭なのだろう。

 

4.進学校に行っている

私は兵庫県の私立六甲学院という中高一貫の進学校に通っていたが、素直でいい子が多かった。もちろん不良などは一人もいない。さらにいうと女子校の場合はもっとそうした傾向が強い。多分、東京聖心や学習院などのお嬢さんの学校では、いい子が多いのだろう。同じように私が住む弘前のような地方でも、学校ランク順に素直な子が割合に差がある。弘前高校に多い。素直な子は勉強ができるので、こうしたことになるのだが、逆に周りの友人による影響も大きい。

 

5.挨拶ができる

素直な子は、診療所に入ってきてもしっかり挨拶ができ、理解、返事もしっかりしている。予約時間を守り、歯磨きもきちんとし、ゴムもしっかり使う。結果的に早く治療できる。逆に素直でない子は、平気でGoogleで星一つの評価をし、ばれて親にいうと親も逆ギレする。ここまで書いてきて、素直なので、勉強ができ、態度もよく、結果、お金持ちになり、いい家庭になるのか。なら結局は遺伝なのか。

 

大谷翔平選手は、高校時代の恩師から「ゴミを拾うことは運を拾うことだ」という教えを聞いて、今でもグランドのゴミを拾っている素直な性格だ。彼ほど誰からも好かれるスポーツマンは少なくないが、人の話をきちんと聞く姿勢が素晴らしい。若い方は、どうか素直な性格になるように努力してほしい。

 


2025年6月22日日曜日

私の診療所の料金システム

 





矯正治療費は大きく分けて、1。総額制、2。基本治療費制、3。装置代別の3つに分かれ、1の総額制はすべての装置代、調整料を含めた価格で、患者はこれ以上、医院に払う必要はない、例えば、私の知人のところは70万円の総額制になっており、マルチブラケット装置、矯正用アンカースクリュー、ヘッドギア、パラタルバーなどの付加装置、調整料、保定装置料などすべての費用が入っている。そのため、受付は予約のみで会計はほとんどない。2。は日本では一番多いシステムだが、例えば基本治療費が50万円、この中にはマルチブラケット装置や付加装置などが入るが、調整料や保定装置は別料金となる。3は、大学病院などで取られているシステムだが、矯正歯科専門医院ではあまり使っていない。マルチブラケット装置が上下で20万円、パラタルバーが3万円など装置ごとに料金が決まっている。

 

私にところは、この2のシステムを使っており、基本治療費は40万円、保定装置料は4万円、調整料、観察料は3000円にしている。子供場合は、一期治療の基本治療費が20万円、二期治療に基本治療費が20万円としている。総額で見ると、税抜で検査診断料3万円+基本治療費40万円+保定装置代4万円+調整料3000円×30回の9万円、計56万円となる。治療期間の長さで多少変わるし、矯正用アンカースクリューが一本6000円かかるが、それでもだいたい税込みで60-70万円くらいだろう。以前、日本矯正歯科学会の臨床指導医の歯科医院の料金を見たが、安い方かもしれない。なぜこうした費用にしたかというと、1。青森県の県民所得は全国最下位であること、2。できるだけたくさんの人の治療を受けて欲しかったこと、3。家賃、人件費など経費も安いことなどから、この価格にした。もう一つの4番目の大きな理由は、弘前で最初の矯正歯科医院なので、少し安い料金で開業すれば、二番手、三番手が現れにくいと考えた。実際、4番目の理由の影響は大きく、それまで弘前で矯正というと100万円ということになっており、実際この値段で矯正治療をしていた一般歯科医の多くは矯正治療をしなくなったか、料金を大幅に下がった。

 

できるだけ収益を増やすために、家賃の安いビルの3階を借り、従業員0名、家内と二人で診療した。また技工は外注せず、すべて一人でした。家内と一緒に掃除をして、診療をして、技工をした。その後、子供の世話もあり、家内は午前中のみとなり、午後からはパートの衛生士、最終的には常勤の衛生士一名と受付は午前が家内、午後はパートの受付の最小限のスタッフでやってきた。土曜日は衛生士学校の学生にも手伝ってもらった。これでも一日、平日で20-30人、土曜日は40名くらい治療した。また矯正材料は、製品を集約して、業者と価格交渉して安く購入した。こうしてできるだけ経費を減らすように常に努力してきた。

 

こうなると、普通は弘前と周辺の矯正患者を独占すると思うが、実際は一般歯科や他の矯正歯科で治療する患者も多い。こう言っては僭越であるが、一般歯科の先生に臨床技術で負けることはありえないし、他の矯正歯科専門医に対しても少なくとも劣ることはない。驚いたのは一人200万円出して東京の一般歯科のところに夫婦で通院していた人がいた。トラブルのため、私の診療所に来たのだが、それはひどい治療であった。私だったら、治療技術が同じか上で、料金が安ければ、迷わずそこで治療するが、実際はそうではないようだ。

 

この理由について、ずっと考えてきたのだが、1。まず世の中には料金が高い=良い治療という人が一定数いる。こうした人は40万円の私にところの治療よりは、200万円の東京、銀座の歯科医院を選ぶのであろう。2に一般歯科、あるいは友人から紹介されると、他のところで相談もせず、そのままそこで治療をするパターンである。こうした人は先生や歯科医院で矯正臨床技術や料金の差はないと考えている。一般歯科で矯正を勧められたら、その先生は矯正治療ができるものと信じている。3は2とも関連し、これが一番多いのだが、全く情報を入れようとしない患者である。矯正治療は保険がきかないのも知らないし、いくらくらい、専門医がいることも知らない。学校検診で歯並びを指摘され、かかりつけの歯科医院に行き、そこで矯正治療を勧められたら、そのまま治療をする。ただこれは子供の矯正治療で、大人の場合は、ネットでかなり調べてくるので、まず私のところにくる患者が多い。医療関係者、例えば歯科衛生士、看護師、医者、医学部学生などは、ほとんど私のところで治療を受ける。1994年から弘前大学医学部の非常勤講師をしているからで、相談する人が周りに多いからであろう。ただ歯科医師の子供で私のところで治療を受けたのは30年間でも5、6人で意外に少なく、これも不思議である。

 

2年前から新規患者を取らなくなったが、器材屋がいうのは新規間業する先生はセファロを設置するし、レントゲン室を拡張してセファロを入れる歯科医院が増えたという。セファロを設置し、矯正歯科医のバイトを入れても、料金的には私のところの治療費に対抗できないため、ここ30年間に新規開業をした歯科医院にはほとんどセファロは設置していない。新規患者の受け入れをやめる前、2022年は子供を一切受け入れない状況(2020年から子供は受け入れず)で、成人患者だけで240名来院した。コロナバブルのせいであるが、それでも通常、子供の矯正患者が半分くらいだったので、私のところだけ年間300-400名の矯正患者がいたことになる。弘前市内には矯正歯科認定医が3人いるが、矯正患者数がそのまま増えてはいないようで、一般歯科に流れた可能性も高く、それがセファロの設置が多くなった理由であろう。

 

結局、日本では歯科医も患者も、矯正治療の専門性を知らないようだ。歯科という小さな分野でさらに専門医制で細分化するのはどうかという声も大きく、単純に矯正歯科くらいは俺だってできると信じている先生も多いし、患者もどの歯科医で治療を受けても同じだと信じている。