2019年9月20日金曜日

懐かしのロードショー







 若い人は、映画解説者の淀川長治さんを知らない。亡くなってすでに20年、おなじみの“さいなら!さいなら!”というキャッチフレーズも懐かしい。彼の話し方には、微妙に神戸訛りがあり、長く東京で、中央で活躍していたため、ほぼ標準語であるが、時々、生まれ故郷の神戸のアクセントが出て、それが味のある語りとなっていた。

 1966(昭和41年)、日本で初めて映画の本格的なテレビ公開が始まった。それまで映画は映画館で見るものであったのが、タダでテレビで見られるのに驚いた。ただ子供の頃ではっきりしなかったが、平日の3時頃にお茶の間映画といった感じで、地味に名作映画を放送していた記憶がある。これが最初のテレに放送であったが、かなり昔の映画を流していただけであった。土曜映画劇場の放送の日、土曜日の9時頃だったか、家族揃ってテレビの前に座り見た。日本で最初に放送された映画は、「裸足の伯爵夫人」、ハンフリーボガードとエヴァガードナーの共演の1954年の映画で、その主題曲は今でも覚えている。内容は10歳の子供には難しくすぎたが、映画が終わると淀川さんが登場し、放送された映画の解説をして、土曜映画劇場のエンド曲が流れておしまいとなる。今では考えられないが、放送が完全に終了するまでじっと見ていた記憶がある。またこの映画はおそらく日本で最初に日本語吹き替えの映画だと思う。それまで映画というと、字幕が中心で、子供向けのディズニー映画などは日本語の吹き替えがあったし、テレビでもララミー牧場などのアメリカドラマは日本語の吹き替えであった。日本で初めて映画をテレビで放送するにあたり、字幕ではまずいと思い。吹き替えにしたのだろう。これ以降、映画俳優と専用の声優が出てきた。

 その後、だいぶ遅れて萩昌弘の月曜ロードショー、水野晴郎の水曜ロードショーなどほぼ毎日のように映画がテレビで放送されるようになった。最近では、“関ジャム 完全燃SHOW”のような音楽番組が登場し、専門家がミュージシアンの作品を詳しく解説し大変面白い。映画においても、こうした解説はより深く作品を鑑賞するためには必要で、漫然と見ていてはわからないことが多い。こうした解説、批評は、ネット上ではたくさんあるのだが、できれば昔のような映画評論家がポイントを話してほしいところである。
 そもそも、今日においては、毎週決まって映画を放送する番組は、地上波ではなく、BSシネマとシBSテレ東京のネマLINEUPくらいしかない。いずれもかなり古い名作を放送していて、新しい映画を見るのは、DVDかネットしかない。もちろん映画専門チャンネルもあるが、あまり一般的ではない。雑誌、ブルータスでも時々、映画特集があり、例えば“いまさら観ていないとは言えない映画”などの特集があったり、有名人のお勧め映画などが紹介される。もちろん解説もあるので、DVDをレンタルするときの参考にしているが、こうした試みはテレビでもできるだろう。BSシネマでは以前、映画監督山田洋次が勧める映画特集があり、面白かったが、こうした試みをもっとしてほしいし、さらに言えば、紹介者の解説も含めてほしいところである。

 全く話が変わるが、弘前レンガ倉庫美術館がいよいよ開館する。とても楽しみにしているが、このブログでも何度も取り上げたが、是非とも夏の野外シネマをしてほしいところである。調べると大型のスクリーン、プロジェクター、映画のレンタルなど上映の一式は、ダスキンなども手がけていて、金さえ出せばそれほど面倒ではない。おそらく野外用のスクリーンと映画上映権くらい借りれば、他のプロジェクター、アンプ、スピーカー、電源、テントなどは文化センターなどの他の市の設備を活用できよう。キッチンカーや移動店舗などを会場の周辺に集め、入場は自由にすべきである。希望としては、美術館にふさわしいフランス映画。弘前の恋人たちが美術館前の芝生に座って映画をみる。
1.     ロシュフォールの恋人たち
2.     シェルブールの雨傘
3.     男と女

他には
1.     ある日どこかで
2.     フェリニーのアマルコルド
-->
3.     パリの恋人



2019年9月18日水曜日

弘前の地図は西を上




 地図といえば、上が北になっているのが常識で、それ以外の地図はほとんど見かけない。欧米の地図が北が上むきになったのは16世紀頃からで、北極星、あるいはそれを表すコンパスの北を上むきにした地図がわかりやすいという理由である。それまで、必ずしも北が上とは限らず、古代エジプトではナイル川の上流を上にしていたので南が上となり、中世のヨーロッパの地図は東を上とした。日本でも明治時代以降、西洋の測量技術を学び、地図もそれに倣って北を上にするようになった。

 明治以前の日本地図(絵図)を見ると、日本全図、藩領絵図など、縮尺の小さいものはほぼ北が上になっているが、城下絵図など、縮尺の大きなものになると必ずしも北が上というルールが守られていない。

秋月御城下絵図(文政2年)     東が上
高松城御城下絵図(文化年間)   南が上
宇和島御城下絵図(元禄16年) 南東が上
萩御城下絵図(慶応元年)     北が上
奥州仙台城絵図(生保二年)   北が上
徳島御城下絵図(享保12年)  西が上
福岡御城下絵図(安永6年)   北が上
若松城御絵図(安政元年)    西が上
桑名城下絵図          南が上
郡山城之城下絵図        西が上
正保城絵図
南部領盛岡平城絵図           西が上
出羽国秋田郡久保田城絵図    西が上
出羽国米沢城絵図        東が上
相模国小田原城絵図       西が上
播磨国明石城絵図        南が上
備前国岡山城絵図        北が上
美作国津山城絵図        南が上
安芸国広島城          北が上
出雲国松江城絵図         南が上
豊後国日出城絵図          北が上

ざっと調べても、城下絵図の方位はまちまちで、同じところでも時代により違うこともある。江戸時代の絵図製作者には北が上という観念はなさそうである。

 弘前藩でいえば、大体の絵図は西が上となっている。これは城下に住む人々にとって、どこからでも見える岩木山が西にあるからで、ここを上にするのが感覚的に合っている。また西方向に弘前城があり、町割りも東西のラインを基軸に、南北に分割している。通常の弘前市街地の地図では弘前城が左にあるが、どうも体感と合っていない。むしろ弘前市の観光案内マップやパンフレットは、独自に西を上、弘前城を上にした地図で統一したら面白い。何も北を上にする必然性はなく、体感にあった地図といては弘前の場合は西が良い。

 江戸時代の絵図では、基本的には山が上、海が下になるため、江戸の絵図では弘前と同じように西が上となっていて、富士山、江戸城が上で、江戸湾が下となる。この西が上という感覚は、東京に行くとなるほどと思うが、江戸時代は今と違って、富士山がもっと見えたはずで、富士山の方向が概ね西と感じ、また街の作りもそうなっていた。

2019年9月15日日曜日

弘前忍者屋敷 隠れ部屋について

旧伊東家 床の間 この裏に納戸がある
旧伊東家、平面図 床の間の裏の納戸(縁側から入る)

対馬家の前に住んでいた佐藤家の平面図、床の間の裏に納戸がある

旧岩田家、ここの床の間の裏にも納戸

 うちの家内が、ニュースで弘前の忍者屋敷の写真を見て、これと同じような小部屋が実家にもあったと言っていた。私が弘前に来た当時、この家に23年住んだが、古い家で、おそらく家内の曽祖父が作ったようで、明治初期から中期頃に建てられたものである。昭和になって、増築されたが、母屋は8畳の部屋が3つ並んでいて、土間から出入りするようなっていた。残念なことに十数年前には壊された。

 この家の一番奥が仏間になっていて、大きな仏壇と床の間が並んでいた。そして仏間の横には庭に通じる縁側があるが、そこに“ふろ”と呼ばれる長持(衣装ケース)を入れる納戸があった。仏壇と床の間の裏に当たる。幅70cm、奥行き180cmくらいの長持がそこに置かれて着物などが入っていた。家内に言わせると、暗い空間で、長持が棺桶のように見えて気持ちが悪かったようだ。この隠れ物置の幅は80cmくらいで高さは2m、奥行きも2mくらいの幅の狭い小部屋で、あくまで長持を入れるためのスペースだった。

 通常、床の間は奥行き45cmくらいであまり奥行きが広いものではない。うちの家の和室も床の間、物置と並んでいるが、物置は布団を入れるために奥行きが90cmは必要で、床の間との奥行きの差は、床の間を二段にすることで解決している。それでも床の間の幅が180cmあるので何とかバランスが保たれているが、床の間の幅が90cmしかないと掛け軸などが奥まって見えなくなり、床の間の意味がなくなる。

 こうして考えると、弘前の忍者屋敷の謎の空間、床の間後ろの空間は、何かを入れるための物置、納戸だった可能性がある。発表によると、この隠れ部屋は幅0.6m、奥行き1m、高さ2.1mとなっている。床の間の幅は狭く30cmくらいであり、物置(奥行き90cm)に、床の間を合わせるために後ろに部屋を作ったのだろう。家内の実家では縁側に通じた同じような納戸に長持を置いたが、忍者屋敷の隠れ部屋には幅が狭く、長持ちは置けない。他の何かを置いたのだろう。行李や箱膳、刀箪笥などは置けたであろうし、記事にあるような薬を作っていたのであれば、そうした材料を入れておいた可能性もある。

 縁側に面した床の間の裏のスペースについては、若党町にある旧伊東家にもあるし、対馬家にも同様な納戸がある(旧伊東家住宅、対馬家保存修理工事報告書、昭和58年)。もっと大きなスペースで扉も付いているが、長持や武具などを納めた納戸で、江戸時代の津軽の伝統的な配置なのかもしれない。

 家内の曽祖父は岩木神社などの建築にも参加した大工で、明治に自分の家を作るにあたって、津軽の伝統的な設計に準じていたであろう。幕末に建てられた弘前の忍者屋敷もこの流れに沿う、床の間、物置の配置であろう。この隠れ部屋に忍者が隠れて、来客者の会話を聞いていたという話はロマンスがあるが、幕末期に建物に、こうした空間をわざわざ作る必要性はない。隠れ部屋というのは、そもそも誰かが来て、それから隠れるための部屋であり、縁側に開放しているのでは、意味がないし、来客も少ないような家にわざわざ盗聴用の部屋を作る必要もない。

 縁側に向いた床の間の裏の部屋が、忍者屋敷の証拠であれば、家内の家もそうだと言える。こうした類型は、家内に指摘されなくても、津軽の古民家の専門家や、文化財保存の専門家は知っているだろうし、あるいは歴史学者からすれば忍者屋敷でない根拠も挙げられるだろう。マスコミにすれば、こうした興味深いテーマは注目するが、きちんと専門家にも取材して、その真偽を確かめる必要があろう。

 津軽の忍者屋敷?については所有者が、維持できず、取り壊しの可能性もあるという。幕末頃の建物と推定され、改修の程度がどの程度なのか、不明であるが、忍者屋敷ということを外して、家そのものが保存に値するかは、微妙である。若党町にあった笹森家、笹森順造、笹森卯一郎の実家、笹森要蔵の家は、東奥義塾、長崎鎮西学院にとっても重要な家であり、江戸後期くらいの家であるが、今は完全に取り壊されている(保存されているか不明)。保存、移築には大変な金がかかる。古い建物を残すというは大事であるが、観光資源、あるいは歴史的価値があるかという観点から十分に検討すべきであろう。

若党町 笹森要蔵、卯一郎、順造の実家 今はもうない

2019年9月12日木曜日

フィルムカメラのブーム

F4 ボディーだけだと7000円くらいで買える


 スマホのカメラ機能が発達し、もはやカメラそのものの存在が危機に瀕している。私もシグマのDP1SDクアトロ、ソニーのRX100、フジのX10の4機種を持っているが、普段はアップルのi-Phone XRを一番多用するし、写りも悪くない。写真をそれほど好きでなければ、スマホで十分であり、あえてカメラを持っていく必要は全くない。それでもシグマのSDクアトロの圧倒的な描写力をスマホに求めることは容積的にも難しい。

 個人的には、非常に特殊なものであるが、シグマのカメラに惹かれる。この会社のカメラは独特な色合いを持ち、その描写はもはや現実の風景、人物を写すというものではなく、自分の目で見えない、違った世界を切り取っているような感覚を思える。通常であれば、実際に見た景色が写真に再現されるが、シグマのカメラは、デジタル現像してみて初めて全く見たこともないような景色が出てくるので驚く。最近では、このカメラの癖を知り、何もない水面や落ち葉、石、枝など現像後の画面を計算して写真を撮ることがある。今度は、シグマfpという小型のカメラが発売されるようで、動画向けのカメラなので期待している。

 もう一つ、驚いたカメラがある。ソニーのRXシリーズで、このうち最もベーシックなのがRX100である。私は確か35000円くらいで購入したが、2012年に販売されたとは思えないほど、性能は良い。最新のもの、RX100M14万円以上するので、それに比べてRX100はかなり安く、お勧めである。大きさも小さいので、旅行などスマホ以上に美しく撮りたいと思う人にはお勧めカメラである。

 前までフィルムカメラとして、ミノルタの名器、CLEを持っていたが、三年ほど前にシグマのSDクアトロを買うときに下取りに出した。確かロッコール40mmレンズ、フラシュ付きで21000円くらいで引き取ってくれた。最初の査定では18000円なので少しは高くしてもらった。そのころは、フィルムカメラはほぼ全滅状態で、店員さんにもミノルタCLEなので下取りしたが、他のものはライカ以外、値段がつかないと言われた。街のカメラ屋さんも次々と廃業し、フイルムカメラを現像してくれるところがなくなった。暇のときに中古カメラ屋さんのウインドーを眺めていたが、ライカも含めて驚くほど値段が安かった。それでも流石にフィルムはもう使いようがないと買うのは躊躇われた。

 病院では、開業以来、25年近く、患者さんの顔面写真と口腔内写真をポジフィルムで撮ってきた。最近では、ポジフィルムの価格も上がり、現像料も高く、さらに弘前から頼むと現像に1週間以上かかる。それでもデジタルカメラと併用して使っていたが、ついにカメラが故障して、デジタルに切り替えた。かなり頑張った方である。ところが36枚のポジフィルムを10本単位で買っていたのが、5本ほど余っている。メルカリで売ろうかと思ったが、やり方がわからず、安いフィルムカメラを買って使ってやろうと考えた。

 となると昔、欲しかった小型のフィルムカメラ、コンタックスのTシリーズ、ミノルタTC-1、ニコン35Tiなどが候補となる。三年前の感覚で言えば、2、3万円くらいで買えそうだと思ったが、これがネットで調べると意外に高い。コンタックスの名機T278万円する。ミノルタCLEも含めて主として小型フィルムカメラがかなり高くなっている。ここ1、2年に若者を中心に自分たちの全く知らないものとしてフィルムカメラが人気を集めているようだ。20歳の若者にすれば、フィルムカメラなど全く触ったこともないものであり、レトロ感満載である。ネットでフィルムを送れば、現像とデジタル画像を作ってくれるようなサービスも増えており、便利になっている。

 ここでフォルムカメラ最高のものと言えば、おそらくNikonFのシングルナンバーであろう。ニコンのフラッグシップとしてF3は有名だが、さらにF4F5と続き、デジタルカメラに移行した。F4からのオートフォーカスになり、F5からはダイヤル式からボタン式になった。ニコンのFシングルは耐久性も高く、今でも十分に撮影できるだろう。このFシングルが重くて、操作しにくいために、若者に人気がなく価格は暴落している。ボディーのみだとF3F41万円以下である。発売当時、20万円以上したカメラが今では数千円になっており、これは完全の暴落で、せっかくフィルムカメラを買うなら、小型フィルムカメラをやめて、憧れのニコンのFシングルにしようと思っている。


2019年9月8日日曜日

韓国の徴用工問題を考える



 韓国の徴用工裁判の判決では、三菱重工など日本企業に一人当たり1億ウオン(約一千万円)の支払いを命じる最高裁判決が出ている。これは当事者のみ出なく、その子供にも当てはまる。また慰安婦問題では、平成十四年にはアジア女性基金から一人当たり韓国では500万円、さらに平成28年の慰安婦財団から一人当たり約一千万円が支給されている。これらは生者とその子供への支給額であり、いずれも一千万円以上の支給となっている。交通事故などの保険金は一億円以上になるのを考えると決して多い額ではないが、それでも慰安婦、徴用工とも従事した時には、一応、給料は払われ、未払金は1965年の日韓基本条約で解決しており、この一千万円はあくまで慰謝料ということである。額としては安くはない。

 一方、韓国はその開国から、多くの国民の命を政府の弾圧で奪ってきた。例えば、朝鮮戦争中に起こった韓国国内の共産党シンパに対する虐殺、保導連盟事件では60万人から120万人が虐殺されている。また済州島四・三事件では島民の6万人が虐殺されている。これは韓国政府も認める韓国人、韓国政府による韓国国民への虐殺である。もちろんその全責任は韓国政府にあり、盧大統領、文大統領もその事実を知り、陳謝している。ただ寡聞にして、これらの犠牲者に対して、韓国政府がそれなりの賠償金を払ったということは聞かない。おそらく慰安婦や徴用工などの生者に対する賠償金は一千万円を超えることを加味すると、虐殺され、一家の主柱である父、兄を亡くした家族への賠償はそれの数倍になるだろう。一人3000万円とすれば、100万人で30兆円となる。さらに韓国軍はベトナムで女性を妊娠させ、その混血児の問題、いわゆるライダイハンに関しても韓国大統領による陳謝はあるものの、賠償金の支払いはない。

 2000年代始め、盧武鉉大統領は徴用工を含む太平洋戦争被害者遺族に2000万ウオン、生存者には月8万ウオンを払うことにした。当初は遺族に対しては5000万ウオンの予定であったが、大統領はこれを再戻し、2000万ウオンに下げさせた。日本円で200万円くらいであり、また年金額も月8000円、あまりに安いので被害者が今度は日本企業相手に訴訟を起こし、1億ウオンの賠償金を勝ち得た。要は賠償金の出し惜しみが今の訴訟に発展したのだ。さらに被害者に対して、韓国政府は2000万ウオンを出したからと相手にされず、日本からの資金により大会社になったボスコも2014年に日帝強制動員被害者支援財団を発足し、100億ウオンの出資をしたが、結局財団の理事に食い荒らされ、被害者の支援を行なっていない。

 1980年に起こった光州事件では軍による発泡で、170人の死者、3000人の負傷者が出たが、その補償金は総額で2297億ウオン(約230億円)であった。負傷者に500万円、死者に1000万円の補償金で、額としては多い。

 日本でも最近のハンセン病患者の家族に対する判決で、一人当たり33万円から143万円の賠償金の支払いが命じられたが、こうした判決では、賠償金の多寡よりは政府がその過失を認め、名誉を回復することに重点が置かれている。訴訟の多い、アメリカでも日系アメリカ人に対する戦時下の強制収容に対しては生存者に対する一人当たり2万ドルの賠償金で決着した。これも同様である。

 こうしてみると、現在の徴用工問題は、1965年の日韓基本条約だけでなく、その後の盧武鉉大統領の補償ですでに解決しており、国際法だけでなく、自国の政策にも矛盾している。

 戦争末期、ほとんどの日本人男性が兵隊にとられ、兵器製作などに従事する人がおらず、戦時動員として女学生などが軍需工場で働かされた。空爆により亡くなった生徒も多いが、基本的には家庭からの通勤であった。青森や鹿児島の少女が集団で2年間の契約で都市部の軍需工場に住み込みで働くようなことはなかったのでは。ところが朝鮮では、金を稼ぐという目的にしろ、500人以上の少女が朝鮮から富山の不二越工場でやってきて、働かされた。徴用工については、日韓基本条約で解決済みではあるが、個々の症例で、朝鮮人への差別に基づく日本人ではあり得ないことがなされた場合では、日本企業、韓国企業、そして韓国政府で保障すべきなのかもしれない。

2019年9月4日水曜日

未来の地球 SF「三体」から



 お盆休み、どこも行くこともなく、家で本を読んでいた。「三体」(劉慈欣著、早川書房)、大部の作品であったが、面白く一気に読めた。内容については割愛するが、中国のSF史上金字塔となるものであるのは間違いなく、作品の規模の大きさは桁違いで、さらに後2巻あるようなので、楽しみである。

 この本の中では、異星人が地球を乗っ取ろうとするが、輸送機が地球に到達するまでの450年、地球が今の流れで急速な科学発展をすると、異星人が到着する頃には、それを阻止するだけの高度な科学発展を遂げている。そのために何とかこれ以上、地球の科学発展を阻止するために、最小単位である陽子に人工頭脳を入れる奇想天外のものを発明し、前もって光速で地球に送り込む。

 科学の発展には、ブレークスルーと停滞がある。ブレークスルーとは、これまでの概念とは全く異なる新たなもの、例えば、インターネットのようなものである。インターネットの概念は1960年代からあったが、1990年から2000年頃に一気に広まった。コンピューターや携帯電話でもそうであるが、概念と初期製品が出来てから、二十年くらいはそれこそ毎年、性能は2倍、価格は半額という急速な進歩が見られるが、その後は、停滞期となり、進歩の速度は鈍ってくる。

 船でいうと、もちろん年々新たな技術は開発されているが、タイタニック号ができた1910年頃から大きな進歩はない。タイタニック号が乗客乗員3200名、23ノットに対して。2010年に建造されたクインエリザベス号は2000名の乗客を23.7ノットで運ぶ。燃費や操船方法、レーダーなどの機器は雲泥の差があるが、それでもカタログ上の基本スペックからいえば、この100年間に大きな差はない。同様に1930年代のアメリカ車は十分に今でも使えるし、1935年初飛行のダグラスDC3はまだ少数ながら現役で飛んでいる。

 家の設備見ても電化製品以外では、床、壁、窓、屋根などの基本構造はここ数千年変わっておらず、もう少し上位の生活品、椅子、ベッド、机なども千年単位で変化していない。さらに電化製品を入れたものを見ると、テレビ、冷蔵庫、洗濯機なども発明されて数十年単位は経っている。逆にここ20年で、それまで概念もなかった新しいものといえば、コンピューターとインターネットくらいのものである。携帯電話そのものは電話の概念の延長である。それ以外は、概念、製品としては停滞したものと言えよう。

 衣料に至っては、人間が服を着るという概念自体、20003000年前からあり、ある意味、それほど変わっていないし、食にしても同じである。昔のSFでは、未来の食事は宇宙食のような液体あるいはペースト食になるように描かれていたが、何の事はない、あいも変わらず肉や魚を食い、むしろ以前より食のレパートリーは多くなった。

 こうしたことを見ると、スティーブ・ジョブスや山中伸弥さんのようなブレークスルーを作る人がなくなれば、人類の進歩はかなり緩やかなものになると思われる。人間がサルとは違うことの一つに創造的存在であることであり、世界中の情報を瞬時に見たいという欲求、想像がインターネットを生み出し、鳥のように空を飛びたい夢が飛行機を作った。ただこうした夢、想像がなくなった瞬間に、文明の発達は停止すると思われ、そうした意味では、癌の撲滅など一部の叶えない夢があるが、夢そのものがなくなる停滞期にそろそろ突入してきたのかもしれない。百年後の社会、それは今とあまり変化はないかもしれない。
  

2019年9月3日火曜日

小児反対咬合を健康保険化へ 提案



 上下の前歯が逆である反対咬合は、不正咬合の中では、一番、機能的な問題を有する。まず自分でアゴを前に出してみてほしい。前歯が徐々に逆になっていくが、その状態でうどんを食べてみよう。箸でうどんを口に運ぶ際、前歯である程度小さくカットして喉に送る。これが前歯が逆だと、前歯で物がかみ切れず、直接、奥歯にうどんを持っていくしかない。非常に不便なものである。反対咬合の患者さんに聞くと、うどんや蕎麦を食べる時には、前歯で咬まないで直接、奥歯にうどんを運ぶようである。感覚的には正常咬合者に比べるとかなり食べる効率が悪い。昔、研究した咀嚼能力の研究では、正常咬合者に比べて反対咬合患者では咀嚼能力が10%程度低く、矯正治療して正常咬合者のレベルまで戻ることが示された。実際、前歯を主に使う咀嚼では、これ以上に大きな差があると思われる。成人の外科的矯正を行った反対咬合患者に聞くと、手術直後は顔貌の改善を一番満足するが、しばらくすると慣れてしまい、それ以上にものを咬む時の効率、つまりかみやくなったことを喜ぶ。

 反対咬合の発生頻度は、3-4%と言われ、学校の一クラスに一人か二人いることになる。まあまあの頻度であるが、下あご、下くちびるが出ているために、人から反抗的に思われたり、機嫌が悪く思われたりする。またクラスの友人からあごが出ていることをからかわれたりもする。こうしたこともあり、他の不正咬合に比べても矯正治療を受ける割合は高いが、保険がきかないためにそれだけ経済的な負担となる。一方、経済的に厳しい家庭では、自分の子供が反対咬合であっても高額な治療費が必要なために断念することも多い。実際、大人になって手術を受ける大人の反対咬合患者に聞くと、こうした家庭の経済的な問題で小児期に治療を受けられなかったという。

 白人に比べて短顔タイプのアジア人では反対咬合の頻度が高く、多くの症例を持つ日本の反対咬合の研究、治療法が世界でも最も進んでいると言える。小児期から始める反対咬合患児の早期治療については、未だ議論の分かれるところであるが、20年前に行われたシンポジウムでは、永久前歯が生えるころ、年齢で言えば、7から9歳頃からの早期治療、一期治療の必要性はコンセンサスが得られており、その時点で前歯部の咬合の改善などの治療介入が有効と考えられている。そして、成長の終了した時期、高校生頃に外科的矯正も含めた最終的な治療を行うことが勧められた。

 成人の反対咬合では、外科的矯正となる割合は高く、私のところでの結果では、10人の患者のうち9人くらいが対象となる。歯の移動だけで治すケースは少ない。逆に反対咬合にため小児から矯正治療を受けている患者で、外科的矯正になる確率は50人に一人くらいで割合は低い。つまり早期に治療することで外科的矯正を避けられる可能性がある。
 現在、骨格性反対咬合などに対する外科的矯正治療は健康保険の適用となっている。咀嚼能力、発音など障害を持つためであるが、早期の治療により、こうした治療が回避できるなら、小児期の反対咬合の矯正治療も健康保険の適用とすべきである。それにより経済的に厳しい家庭においても子供の反対咬合の治療が可能となる。

 また矯正歯科医にとっても、反対咬合が健康保険に適用されることで助かる。私は現在、63歳で、70歳くらいで引退したいなあと思っているが、そうなると67歳の反対咬合の患者さんは断っている。なぜなら反対咬合の治療には少なくとも成長終了まで見ていく必要があり、後10年以上は見なくてはいけないからである。そうしたことはできそうもないので、断っている。もし保険適用であれば、他の矯正歯科医に転医するのは費用的な点では容易となる。こうした長期の治療が必要なケースであればあるほど歯科医にとっても保険適用はプラスとなる。またすでに30年以上前から口蓋裂患児に対しては、矯正治療の保険適用されており、一般の小児反対咬合患者に対しても保険点数も含めて、システムをそのまま適用できる。

 あとは国の予算だけであるが、小児の反対咬合の治療で、外科的矯正の頻度が減るなら、結果的には小児の治療費は増えても、成人の治療費が減ることになり、大きな出費とはならない。小児の不正咬合、とりわけ反対咬合は先天性のものであり、機能的な問題(咀嚼、発音)があり、その治療にあたって矯正治療以外の代替わり治療はないことから、是非とも保険適用にしてほしい疾患である。