2018年8月12日日曜日

明治の女子力 アメリカに渡り女医となった四人の明治女性

岡見京

阿部ハナと須藤カク



テレビ番組の企画案 
1.概要
<シーン1> 医学部で学ぶ現代の女性、萩野吟子写真、医籍登録原本写真

 現在、日本の医師のうち、女性医師の占める割合は約20%、さらにその数は増えています。パイオニアは、荻野吟子(嘉永四年大正二年、1851-1893)で、幾多の苦難を克服して、明治十八年(1885)に医術開業試験に合格しました。今年で133年になります。医籍登録者の第二号は明治二十年三月に登録した生澤クノ、第三号は高橋瑞、第四号は本多センと、すべて済生学舎などの医術予備校で男性にまじって学び、その後、医術開業試験に合格して医者となりました。
 ところがその後の医籍登録者をみていくと、第五号の岡見京はペンシルベニア女子医科大学、第八号の菱川ヤスは外国医学校(シカゴ女子医科大学)、さらに調べると明治三十一年四月に医師登録した須藤カク、阿部ハナもまた外国医学校卒業(ローラメモリアル女子医科大学)とあります。これだけ女性医師が増えた現在でも、わざわざ外国に留学し、そこの医科大学を卒業する学生はかなり少ないと思いますし、困難だったでしょう。彼女らはどうして外国に行ったのでしょうか。四人の明治の女性の物語です。

<シーン2> 岡見京のこと
岡見写真(クラス写真)、岡見写真(3人の留学生)、アメリカ、フィラデルフィア ドレクセル大学医学部

 1888年のクラス写真には、その中心に横を向いた端正な東洋人女性がいます。岡見京(安政六年昭和十六年、1859-1941)です。青森県下北郡大畑出身で、横浜で貿易商をしていた西田耕平の長女として生まれました。父は幕末、日本と上海の貿易を行うなど先駆的な考えをもつ人物で、娘には西洋的な教育をさせようと明治六年に横浜共立女学校に入学させました。卒業後、英語教師などをしていましたが、明治十七年(1884)に岡見千吉郎と結婚します。夫が渡米する機会があり、かねてから念願であった医師になるために岡見京は単身、ペンシルベニア女子医科大学に入学します。ここで三年、苦学し、優秀な成績で卒業します。帰国後、海外の医科大学を卒業すると医術開業試験は免除されるので、医籍登録を行い、明治二十二年からは高木兼寛の慈恵病院の婦人科主任として働きます。

<シーン3> 菱川ヤスのこと
未調査資料、横浜婦人慈恵会病院写真、横浜取材

 菱川ヤスについては名古屋出身、父は政府の官僚であったとされますが、はっきりしません。明治四年にできた横浜共立女学校の最初の入学者の一人です。宣教女性医師アデリン・ケルシーは日本人の女性医師を育てることは重要と考え、女学校の卒業生の中に相応しい人物を探します。そして選ばれたのが菱川ヤスで、明治十八年(1885)に渡米し、シカゴ女子医科大学に入学します。卒業後、さらにインターンとして勤務して帰国したため、医籍登録は岡見京より一年遅れました。その後、根岸にできた横浜婦人慈恵会病院に勤務し、貧しい人々の治療を行っていましたが、病を得て、若くして亡くなりました。

<シーン4> 須藤カク、阿部ハナ
須藤、阿部の写真、ローラメモリアル女子医科大学の現在の場所、弘前市の生誕地

 須藤カクは、弘前藩士、須藤新吉郎の娘として文久元年(1861)に弘前市で生まれた。父は幕末、函館で洋式土木を学び、維新後も政府の土木関係の仕事をしていた。好奇心旺盛のカクは、東京に英語を教える学校があると聞くと、上京する兄と一緒に明治四年に東京に向かいます。女子の学校がなく、男装して授業を受けたりしましたが、横浜に外国人の経営する女子の学校があると聞き、明治五年に横浜共立女学校に入学します。菱川ヤスの一級下、岡見京の一級上と思います。一方、阿部ハナについては、はっきりしませんが、明治五年に相模原の農家の娘として生まれます。二人とも卒業後、伝道活動をしていましたが、菱川同様にアメリカの医科大学に入学して医師になるべき、明治24(1891)にアデリン・ケルシーと一緒に渡米し、翌年、シンシナティーのローラメモリアル女子医科大学に入学し、卒業後、1898年に横浜の婦人慈恵会病院で働き始めます。

<シーン5> インタビュー
横浜共立学園関係者
岡見京の孫
須藤カクの妹の孫(ナッシュビル在)
日系アメリカ人女医

<シーン6> プロローグ
 岡見京、須藤カク、阿部ハナのその後を追います。
 岡見京は、衛生園などを経営しますが、医業はやめ、晩年は教会活動に従事します。須藤、阿部らは、経営方針の対立から慈恵病院をやめ、失意のまま恩師ケルシーの故郷、ニューヨーク州、カムデンに向かいます。農園をしながら、穏やかな信仰生活を送りました。阿部は42歳でここで亡くなりますが、須藤はフロリダ州、セントクラウドに移り住み、アメリカ国籍を得て、102歳まで長生きします。
 今でもアメリカの医科大学を卒業するのは、知識、語学の点でも非常に難しいものですが、100年以上前の日本女性がチャレンジして優秀な成績で卒業したことは、すごいことです。彼女らは日本で活躍するチャンスは少なかったため、ほとんどの日本人は知りませんが、明治百五十年を迎える今年、もう一度、明治の女性達の女子力を発見したいと思います。

2. 取り上げてほしい番組
NHKスペシャル
歴史秘話ヒストリア
ドキュランドへようこそ
歴史鑑定(BS-TBS
The 歴史列伝(BS-TBS
世界不思議発見(TBS

3. 参考文献
     「ディスカバー岡見京」(堀田国元著、2016
          「須藤かく−日系アメリカ人最初の女医」(広瀬寿秀、2017
     「明治女医の基礎資料(三﨑裕子著、2008

2018年8月11日土曜日

歯科医院を変える前に


オートクローム法で撮られた野口英世のカラー写真


 歯科医というものは、自分の治療が一番だと思っている。これは多くの職人に共通するもので、例えば植木屋さんにしても、自分の仕事に自信を持っていて、いいかげんな仕事には腹が立つ。そのため、新規の患者さんが来ると、これまでの治療を批判的にみるようで、自分の治療スタイルで直そうとする。結果、1本の歯が痛いと、歯科医院に行っても、この歯にも、この歯にも問題があると指摘され、再治療することになる。そうして他の歯科医院を訪れると、また同じようなことが起こる。これが他の医療と歯科が違う点である。

 昔、東北大学の小児歯科にいたころの話であるが、来院した子供さんの治療は基本的にはすべてやり直した。当時の小児歯科の感覚からすれば、開業医での治療は、自分たち専門医が求める一定のレベルに達していないと判断され、症状がなくても、再治療した。

 患者数の多い時代は、症状のない歯を治療している暇がないため、患者が直してほしいと希望する治療のみで十分にやっていけたし、他の歯を治療する暇もなかった。ところが昨今のように、患者数が減ってくると、勢い症状のない歯の治療を行うことになる。

 最初は、充填物の着色、二次カリエスの再治療。歯につめたプラスティックの材料は年月が経つにつれ、辺縁部にむし歯が発生する。“昔、つめたところに小さな虫歯がありますので、直しましょう”と言われれば、直すであろう。ところがこうした小さな虫歯も慢性化してあまり進行しないことも多く、C0と呼ばれる初期う蝕同様に経過観察しても問題はない。それでも虫歯は虫歯なので、正当性はある。あるいはレントゲン写真を撮ると、“根っこの先に膿みを持っています。根っこの治療をした方がよいです”と言われる、これも痛くなる前にと思い、治療を承諾するであろう。ただこうした根尖病巣の治療はなかなか難しく、再治療しても逆に症状がでたり、病巣の縮小が見られることは少ない。まあここまでは疾患治療として保険でも正当性は認められる。

 最近では、こうした治療に該当する患者も少なくなり、今度は金属のインレー、クラウンを白いものに替えるように勧める歯科医が多くなった。当然、保険では認められないので自費の治療となる。アメリカでは白いインレー、クラウンが当たり前であるという理由を言う。アメリカでは金属もセラミックもすべて自費であり、価格差が少ないので白いのを選ぶだけなのであるが。ひどいケースになるとゴールドの適合のよいインレーをセラミックに替える場合もある。セラミックにも欠点も多く、破折しやすので歯の削る量が大きくなること、自然の咬耗がないことが挙げられるし、必ずしも予後がいいとは言えない。むしろインレーについて言えば、ゴールドの方が辺縁封鎖性が高く、予後がよい。

 根っこの治療においても、最近では顕微鏡を使った保存治療を自費で勧めるようだが、これも又、予後がはっきりしない。保存治療の大家、森克栄先生の講義を何度か聞いたが、20年、30年の予後を見た素晴らしいケースを提示していた。もちろん森先生は顕微鏡などを使っていない。若い先生には、そうした長期の観察症例はないため、当然、自分の経験としての顕微鏡治療の根拠はない。確かにこうした新たな器材の発達は、臨床が上手になったという錯覚を与えるが、もっと基本的な技術が確立した後のことであろう。

 歯科医より“歯科治療を勧められた場合は”、長年、通っている歯科医の場合は、経過観察を見て治療を勧めるのであるから、それに従う方がよい。一方、新しい歯科医院に行き、主訴である歯の治療以外の他の歯の治療を勧める場合はその根拠を十分に聞くべきである。納得できない場合は、経過観察(様子をみる)して、進行が確認できてから検討しても遅くない。がんとは違い、歯の疾患は数ヶ月待っても問題となることは極めて少ない。ましてやインプラントや矯正治療などについて、治療、契約をせかす歯科医院は、やめた方がよい。

2018年8月9日木曜日

大型カメラフィルムからのデジタル化




幼稚園の記念写真(1961年ころ)
上の写真の拡大図、一人横を見ている。もう少しで名札が読める


祖父の葬式(昭和2年頃、1926?)


父、叔父の唯一の子供のころの写真

 “150年前の幕末・明治初期日本”を買ってから、昔のフィルム写真を最新デジタルカメラで撮り直すということをやっている。といっても三脚などを使った正式のデュープ(複製)という大掛かりなものではなく、日中明るい部屋に写真を置いて、それをデジタルカメラで手持ちで撮影するのだ。

 まず娘が結婚し、子供の頃の写真を送れというので、娘のアルバム自体をコピーしようと考えた。一枚、一枚、撮影するのは面倒なので、一ページごと高解像度のカメラ(シグマSD Quttro)で撮影した。結果としてはまずまずであるが、元の写真のピンが甘いのか、デジタル撮影したものをコンピューター上で拡大するとぼやっとしている。昔の写真は、ほとんどミノルタCLEで撮影し、手動によるピント合わせであるが、ピントにはかなり自信があった。当時、スライド(ポジフィルム)で撮影することも多かったので、スライドを映写してピントを確認してからプリントをしていた。ほぼ90%くらいの割合で焼き付けの際に、ピントが甘くなっていた。そのため、ひどい時には3回ほどプリントをし直しをさせたが、だんだんピントが良くなってくる。ただ面倒なこともあるし、ネガフィルムではこうしたこともできないため、機械現像でプリントしてもらっていた。

 これは35mmフィルムの場合、現像所あるいは現像機械の問題によりピントが甘くなることを意味し、それをいくらデジタルカメラで撮影しても、それ以上に鮮明な画像は見られない。そこでもっと古い写真ではと、撮影してみたのが幼稚園の頃の集合写真である。おそらく60年程前の写真である。当時、こうした集合写真には町の写真館の人が来て、大型カメラで撮影した。一枚、一枚、フィルムを木箱から取り出し、それをカメラの背部にセットして撮影した。おそらく8×10インチフィルムあるいはその半分の4×5インチフィルムと思われる。200×250mmあるいは100×125mmに相当する。このサイズになると、プリントにする場合、拡大する必要もなく、ベタ焼き、すなわち直接フィルムからプリントする方法が取られる。そのため焼き付け処置の際の解像度の低下を防げる。

 実際、デジタルカメラで撮影すれば、胸元の名札が読めるほど解像度はよい。さらにもっと前の写真、これは祖父が亡くなった時の葬式の写真であるが、おそらく昭和初期、90年ほど前の写真である。この写真には多くの人物が写っているが、一部、顔が動いている人がいるので、かなり絞りを大きくして撮っているのだろう。かなり手前から奥まではっきり写っている。この写真も非常に解像度は高い。もちろん60-90年前のカメラというと露出はマニュアル、ピントも手動であったし、レンズ性能も今のレンズに劣るのだろう。それでも写真家という高度の技能をもつ職人にかかれば、非常に解像度の高い写真が撮れた。

 このことは35mmフィルムが普及した戦後の写真は数こそ多いが、解像度は低く、大型写真機でプロが撮った写真は解像度が高く、こちらの方がデジタル化の恩恵がより大きいことを意味する。さらにデジタル化することで、最近のIT技術の発展により着色や解像度のアップも図れるようで、歴史的な作品を中心に解像度の高いデジタルカメラでの複写が必要と思われる。個人的に期待するのは、昔の飛行機、船(主として軍用機、軍艦)や風景写真(城、歴史的建造物)などである。今回の“150年前の幕末——”の写真集でも、明治初期の横浜の風景写真から開業当時の横浜駅、蒸気機関車の画像が見つかった。風景写真から拡大した画像からの初めての発見である。同じようなことは他の写真にもあると思われ、早急に国の事業として写真原板あるいはオリジナルフィルムのデジタル化が望まれる。多くの古写真はオリジナルを35mmで複写したり、印刷画面からの複写であり、もともの大型写真フィルムのディテールが失われている。

PS:写真フィルムはプリントすることで解像度は低下するので、ネガフィルムがあれば、それから直接デジタル化する方が理論上、解像度は高い。場合によっては昔、撮ったフィルム写真よりネガフィルムからデジタル化することでよりよくなる可能性がある。