2019年3月19日火曜日

藤田(山田)とし 2

結婚当時の山田良政とトシ

片山なりさん 子沢山で大変だったろう。美人である。

 藤田奚疑の唯一の長男、知足は明治20528日生まれで、大正7105日に外務省書記生試験に合格し、スラバヤや広東などの領事館に勤務したが、昭和14年、病を得て東京にて52歳で亡くなった。父、奚疑は明治176月に佐藤勝三郎とともに弘前メソジスト教会にて受洗した。当初、藤崎にて開業していたが、その後、東津軽郡東田澤村(現:平内町)に転じ、開業し、夫人に先立たれてからは、医業をやめ、大正2年から三女、みほが嫁いだ對馬衞任方、弘前市下白銀町23番地に寄寓した。大正12年に77 歳で亡くなった。

 藤田としは、大正2年からは函館から弘前に戻り、弘前市蔵主町12番地の山田浩蔵宅に住んでいたが、大正7年の除籍後は、父と一緒に妹のところにいたかは不明である。一方、としの一歳違いの妹、なりは、片山清吉と結婚し、四男六女の子沢山となる。清吉は船舶用機関学の専門家で、多数の専門書を著わす。函館から大阪に住まいを移し、そこで暮らすことになる。子供の一人、次女の静子は、ピアニストとして活躍し、大阪音楽大学出身のチェリストの永井直と結婚する。静子は関西でもトップクラスのピアニストで、のちに大阪音楽大学の教授となって、多くの弟子を育てる。家事とピアニストとの両立が難しく、その手伝いとして昭和5年(1930)に青森から藤田としが大阪に来た。後に大阪音楽大学学長となる永井譲は祖母の片山なりと藤田としによって育てられた。

 小説家、文化庁長官であった今日出海の本に次のような記述がある。今日出海が神戸にいたのは明治44(1911)から大正7年(1917)であるので、藤田としも昭和5年に大阪に住むようになる前も何度か、妹に会いに、大阪に来ていたことがわかる。


孫逸仙を見た  「隻眼法楽帖」中央公論社 昭和56

 母の子供時代の学校友だちで、片山おなりさんという人があった。明治2年生まれの母の子供時代にはまだ小学校はなかったから、寺子屋やみたいなものだっただろうか。それとも、母は家出してアメリカ人(若い女性二人)が函館で日本の女子教育をしようと、親の遺産を持ち、はるばる日本に来て女学校を経営するという噂を伝え聞いて、雪の夜、橇に乗り、青森から舟で海峡を渡る冒険を冒して遺愛女学校へ入学したのだ。その時の少ない同級生かも知れない。
 この片山のおばさんは結婚して大阪に住んでいたから、時々神戸の私の家に遊びに来て、時には泊まって昔話をして行くことがあった。男みたいにさばさばして、元気のいいひとだった。また極く稀におなりさんの妹という人も来て一緒に泊まって行ったことがあった。
 この人を山田先生と家では呼んでいた。姉さんとは異なり、山田先生はひどく若く、美しく、口数は少ないが、優しく、いつもにこにこし、私は大好きだった。何故山田先生というのか、これは函館で、遺愛女学校の付属幼稚園だったと思うが、そこの先生をしていたし、兄(今東光)がその幼稚園に通い、山田先生が担任の先生だったからだ。
 山田先生は一度お嫁に行ったことがあるのだが、それは津軽藩士で山田良政というひとだ。この人は血の気の多い青年だったらしく、既にシナに行っていたことがあり、将来はシナで暮らすという話しだった。それを承知で、結婚したのだから、山田先生は優しい人のみ思っていたのに、内心はなかなか情熱を秘めていた当時にしては珍しい女性だったと思われる。
 略
 半年間ながら山田先生は正式の妻として夫にかしずき、その後は幼稚園の先生をして生涯を終えた。早熟な兄の東光は自分の初恋は幼稚園の時だったとよく書いているが、このはかない子供の心に美しい山田先生のことが焼き付いていたと思う。母も山田先生のことを立派な人として、妹のように可愛がったいたから、その人の夫だった山田良政の師匠孫逸仙に路上で拝むようにお辞儀をしたのも、いろいろ感慨があってのことだったろう。

 としは、片山家の多くの子どもたちから、大叔母として大変慕われ、昭和36年(1961)に片山なりの三女の京都での宅で85歳の生涯を終えた。幸せな晩年だったと言えよう。夫、山田良政との関係から孫文との面識を持つようになり、また今東光の母との関係から、彼と彼の弟の本に名前が出てくるという、何だか不可思議な人生である。わずか1週間の良政との結婚生活であったため、嫁ぎ先の山田家でも良政の死がほぼ確定した頃からとしに再婚を勧めただろう。それでも頑なにそれを拒み、義理の父母に最後まで孝行を尽くした、本当に心の強い、優しい人だったのだろう。そのため、山田の家を離れても山田家からは感謝され、そして同じように藤田家の兄弟からも愛された。

2019年3月18日月曜日

藤田(山田)とし 1

藤田とし 


 藤田とし(敏子)については、以前、このブログでも何度か取り上げたが、最近、その子孫の方よりご連絡いただき、新たな情報を得たので、その一部を紹介したい。

 藤田としは明治949日に、藤崎町で医師をしている藤田系疑の長女として生まれた。父、奚疑は中津軽郡大川村(現在の弘前市大川、弘前藩領絵図では板柳と岩木川を挟んだ対岸に大川村がある。隣村は青女子と三世寺)の藤田豊三郎の三男として嘉永225日(1848)に生まれた。日本杏林要覧(明治42年)には青森平民、明治175(1884)医籍取得とあり、36歳で医者になったことになるが、それ以前から医師として働いていたかは不明である。母は南津軽郡追子野木村(現:黒石市追子野木)野呂成定の次女しゅんで嘉永6310日生まれである。次女、なり(明治1093日)、三女、さた、四女、みほ、そして待望の長男、知足、五女、しげ、六女、すなの一男六女の多所帯であった。
 
 父、系疑は医師であり、漢学においても今和次郎の叔父で、北海道帝国大学総長、今裕の父、今幹斎につき、師匠の没後には“幹斎遺稿”という本の編集に参加している。同時に藤崎教会の初期からの熱心な信者であり、早くから本多庸一や長谷川誠三らと知己を結び、洋学に触れていた。そのため、女子にも高い教育を受けさせようと、明治20年、藤田とし、11歳の時に函館、遺愛女学校に入学させた。遺愛女学校ができたのは明治14年なので入学時でいえば6回生となる。明治19年には弘前にも来徳女学校(現:弘前学院)ができたが、より設備の整った函館の学校に進学させた。としはここで9年間学び、卒業後もさらに英語を、学ぶために2年間、宣教師の子息の家庭教師をしていた。ちなみに小説家、今東光の母親のあや(綾)は、明治2年生まれで、朝陽小学校卒業後、遺愛女学校に入学する。おそらく3回生で、同期には鎮西学院の中興の祖、笹森卯一郎の妻、三上としや野田こうがいた。また高谷トク、大和田シナら一、二回生のほとんどは弘前出身の子女であった。生徒は全て寄宿生活であり、その後、地元の弘前女学校に行く生徒も増えたため、初期の遺愛女学校の弘前出身の生徒は学年にかかわらず、ことのほか仲がよかった。

 才色兼備のとくは、山田良政の伴侶として山田家、菊地家から選ばれ、厳格なして同居することになった。この時点では夫である良政とはまだ会っておらず、翌年明治3211月に、中国にいた良政が寸暇を惜しみ、弘前に帰郷し、そこで結婚式を挙げたものの、一週間ほどで妻を残して中国に行ってしまう。これがとしにとって、夫と暮らした生活の全てであった。良政は明治33年に南京にできた南京同文書院の教授となったが、そこを辞職して、同年1011日に恵州起義に参戦して戦死する。結婚式を挙げて一年も経っていない。良政の死ははっきりせず、としは弘前女学校や遺愛女学校で先生をしながら夫の帰りを待った。大正2年、としは遺愛女学校を辞して、弘前に移り、老齢の山田家の両親のもとで孝行を尽くし、大正7年に良政の父、浩蔵が亡くなるのを待って、離籍して藤田姓に戻った。わずか、1週間の夫との生活であったが、21年間にわたり山田家に尽くした。

2019年3月14日木曜日

矯正治療費は安くならないのか

次世代のデジタル印象 

 矯正治療は安くならないのかとよく質問される。歯科は美容院などと同じく、技術料が価格の基本となっているが、保険診療が中心であるため、収入は患者数である程度、決まってしまう。例えば、1日の患者数が10名であれば、1ヶ月の診療報酬は大体10万点、すなわち100万円と言われている。つまり一人の患者の平均点数が500点として10名で5000点、そして1ヶ月の20日働いて100000点となる。20名であれば20万点、50名であれば50万点となる。もちろん、患者数が多くなると、歯科医師、衛生士、受付などの従業員数も増えるし、技工料、光熱費などの固定費も増える。歯科の場合は、内科とは違い、歯科医師自身が実際に処置することが多いため、一人の歯科医師で100人もの患者を診ることはできない。せいぜい50名くらいが限界であろう。平均患者数は17人くらいと言われており、実質7時間働くとして、1時間に2〜3名の診療となる。一人30分見当の診療時間が見込まれ、そうした意味ではもはや診療時間が少なくて満足な治療ができないという状況ではない。ただ実際は、患者が集中する時期、時間があるので、十分な診療時間が取れないことがあるが、それでも17名程度で多すぎるという歯科医院は少ないだろう。今は歯科医師数が過剰で、そのため患者数が少ないのであろうが、おそらく自費診療も含めて一人の歯科医院での適正患者数は20-30人程度であろう。1日の患者数がこれくらいだと、診療時間に余裕があり、経営的にもいいのだろう。

 この発想から、矯正歯科単独でも1日の患者数が20名くらいになれば、仮に矯正治療が保険適用あるいは保険基準価格でも十分にやっていけることになる。おそらく現行の矯正治療の保険点数は一般歯科の点数よる高くなっているので、患者数がこれ以下でも大丈夫である。ただ問題点としては、矯正患者の多くは、小学生、中高生、あるいは成人でも若い世代が多く、一般歯科より患者年齢は低い。そのため土曜日、日曜日を除き、平日の来院は4時以降が多い。実際、矯正治療の保険適用がなされている英国では、保険患者は午前中、午後も夕方前、学校が休んで治療する時間しか予約できない。逆に日本とは違い、自費診療も可能で、自費の患者さんは学校が終了した時間以降に予約できる。矯正器具だけでなく、予約時間の便宜も自費患者に有利になるようにしている。ちなみに日本では保険医療機関では、こうした差別は禁じられている。
 こうした問題があるにしろ、矯正治療を保険適用にすることは国民にとって大きなメリットであり、保険適用による医療費についても老人医療などに比べるとわずかなものである。近年、若年者を中心にう蝕自体は急激に減っている。これは歯科医療費、そのものが減少することを意味する。その減少分の補填する意味でも学童の矯正治療の保険適用は理にかなっている。さらに若い世代では、健康保険料の不公平感を感じている人が多い。自分たちの保険料が老人医療ばかりに使われ、自分たちの世代へのメリットは少ない。こうした観点からすれば、自分の子供が不正咬合で、矯正治療が必要だとした場合、その費用が保険で賄われることは嬉しい。

 ただ日本矯正歯科学会はじめ矯正歯科の関係者は、今のままの自費診療を中心としたシステムを守りたいと考えており、保険適用に対する議論はほとんどない。一番大きな理由は、治療レベルが落ちるということだが、これは自分の診療所を考えれば、絶対にそうしたことはあり得ない。現在でも顎変形症や口蓋裂患者は保険適用であるが、自費の矯正患者と治療レベルが異なることはない。それに関係して、一般歯科の先生も今以上に矯正治療をするようになり、矯正専門医が崩壊するという声もある。ただこれについても、患者数のパイが増えれば、勢いより専門性の高いところに患者は行くもので、一般歯科での治療が増え、専門医での治療が減ることはないと思う。
 
 ドイツ、フランス、イギリス、北欧などのシステムを参考に、そろそろ日本でも学童期の重度の不正咬合の保険適用について議論していく時期に来ていると思う。

2019年3月8日金曜日

八戸鯖 サバ缶

八戸鯖

今年の弘前桜祭りのポスターです。おしゃれです。海外にも拡散してほしい写真です


 最近の健康食ブームのせいか、鯖の水煮の缶詰がすごく売れている。確かに缶詰だと、身だけでなく、骨ごと食べられるため、魚の栄養を丸ごと食べられる。また以前は缶詰といえば、生魚より鮮度が劣るとされたが、今はとれたてをすぐに缶詰にするため生魚より鮮度が良いかもしれない。さらに値段も安く、一年中食べられるため、人気が出ている。
とりわけ、私が今まで食べた鯖缶の中でも最も美味かったのは、八戸の味の加久の屋の“八戸鯖”という缶詰で、600g以上の大型の脂ののった秋鯖を缶詰にし、それを一年以上熟成したものだ。一缶、600円くらいしてかなり高いのだが、これは本当に美味しい。一番美味しい食べ方は、そのまま器に盛って、電子レンジで少し温めてネギをたっぷりのせて、ポン酢でいただく。これだけでメインの料理となる。ただ数年前までは青森空港やアスパムでも売っていたが、一時生産中止したり、流通量が極めて少なく、最近では全く手に入らず、幻の缶詰となってしまった。二年ほど前に買った3缶があって、これが最後となる。大阪に住む料理通の方に、かなり躊躇したが、この缶詰をお土産の持っていくと、後日、大変美味しかったという感想をいただいた。通常の鯖缶とは全く違うもので、確かに原材料の調達が難しいのはわかるが、もう少し手に入ればと思う。

 料理はほとんど家内に任せているが、ひじきの煮物だけが何とか作れるようになった。以前、上沼恵美子のおしゃべりクッキングで“サバ缶とひじきのうま煮”が紹介されていた。美味しそうなので、家内に作りかたを教えてもらって作ったところ、サバを入れたことで、味に深みが出て、本当に美味しい。その後、味をしめて、何度か作ったが、少し多めに作れば、2、3日冷蔵庫で保つため、それだけで十分にご飯のおかずになる。是非、試してほしい料理である。作り方はhttps://www.asahi.co.jp/oshaberi/recipe/20170109.htmlに載っているので、参考にしてほしいが、このレシピでは水分がかなり残るので、出汁の分量は少なくした方が良い。先日、実家に帰った時には、これを大量に作り、小さな容器に分けて冷凍した。解凍して食べれば、野菜だけだけでなく、魚丸ごと食べられるので老人の料理としては理想的ではないだろうか。かなり喜んでくれた。

 昔はサバといえば、秋の魚のように思っていたが、最近では年がら年中、とれているような気がして、こんなところにも温暖化現象が出ているのかと思ったりする。ただ鯖は魚の中でも鮮度が落ちやすい魚で、缶詰にする場合でも生魚の場合はすぐに加工しないといけないので、八戸港沖のものでないといけない。大型で、近くのもので時期が限定されているとなると、今後も八戸鯖缶詰はレアものになるだろう。おそらくノルウェイの鯖は大型で脂ものっているので、現地での加工処置を高めれば、同じ品質の鯖缶がノルウェイでもできるかもしれない。できれば、誰かノルウェイに指導に行ってほしいところである。ヨーロッパではあまり脂ののったサバは好まれないようだが、日本料理がこれだけ普及していけば、脂ののったサバの美味しさもきっと理解されるだろうし、それを使った鯖缶も売れるのではないだろうか。

2019年3月7日木曜日

土屋嶺雪コレクション

美人図(地獄大夫)

白衣観音菩薩像図

鮎と川蝉

 土屋嶺雪の作品もすでに13点となった。先日、アメリカのシンシナティー美術館の方が家にきた折に、このコレクションを見てもらった。お世辞とは思うが、素直に褒めてくれた。作品の制作年代は不明であるが、それでも1920年頃から1950年頃のものと思われ、画風と賛、署名から作品年代がある程度、推測される。大正期から昭和初期の作品は、富岡鉄斎に触発されているのか、賛が長くて、絵も大胆なタッチであるが、次第にそうした傾向は少なくなり、繊細で控えめな画風となっていく。
 
 画題については、親友あるいは師匠である橋本関雪に近く、様々なジャンルに挑戦している。特に動物画はうまく、魚、鳥、あるいはリスなの小動物の表現も巧みである。また人物画でも、浮世絵風、あるいは写実的に表現され、これもなかなかのものである。ただ山水画については、やや硬さが目立ち、伸びやかさに欠ける。これも13点、集めることで、理解できたことであり、一点、一点で見れば、こうしたこともわからない。

 土屋嶺雪については、資料がほとんどなく、おそらくどこの美術団体にも属さず、また展覧会などにも作品を出していないと思われる。大きな展覧会などに出していれば、入選などなくても記録に残るので、こうした記録がないということは、出していないことになる。作品を見る限り、速描きの作者ではなく、一点、一点、きちんと構図を練り、ある程度、下書きをして、作品を仕上げていると思われ、作品数もそれほど多くなく、また展覧会に出さないというとことは、大型の屏風などの作品は少ないと思われる。

 今の画家は画廊という中間業者がいて、そこを通じて作品を売買するが、昔は、直接、画家に依頼して描いてもらったケースも多かった。ある作家のことが好きであれば、子の誕生、家の新築を記念して、依頼し、作品を描いてもらう。それを見た違う人が、また作品を依頼するといったあんばいで画家は生活していたのだろう。土屋嶺雪もこうした生活をしていたと思われ、逆に展覧会などに作品を出さなくても、口コミの依頼だけで何とか生活ができたのだろう。

 弘前を代表する日本画家、野沢如洋(1865-1937)は、中央画壇に抵抗した画家であるが、ものすごく描くのが早くて、1日に千枚、絵を描くというパーフォーマンスをしたこともある。ただ現在、残されている作品を見るとあまりにラフ、あるいは走り書きに近く、また同じ画題、内容の作品が多い。おそらく求められたら、その場で、パパッと作品を仕上げたのだろう。馬の生態を巧みに描写しており、うまいのであるが、どうも物足りない。山水画には見事な作品があるが、今日的に見るとやや陳腐である。かっての人気ぶりに比べると近年の凋落は凄まじい。

 話を戻す。シンシナティーの方からこれだけのコレクションを集めるのにどれだけかかったかと聞かれた。34年と答えると驚き、すべてヤフーオークションで集めたというと呆れられた。昔であれば、こうした忘れられた画家の作品は書画骨董屋、画廊でも扱われず、作品収集は非常に困難であった。この土屋嶺雪についても、最初の作品は、姓がわからず“嶺雪”の名だけで出品されていた。その後、私のブログで姓が判明すると、少しずつ作品が出品されるようになった。主だった作品はほとんど購入しているが、骨董屋もすでに買い集めていた作品の素性がわかったために、次々と出品していったのであろう。ただ強烈な個性もない作家であるため、今後とも大きな注目を浴びる作家ではないし、値段も上がることはない。それでも自宅にいながら、展覧会を家で開ける喜びは大きい。いい時代になったものである。ネット社会では、無名の気に入った作品があればそのコレクターになるのは金銭的、時間的にもそれほど難しくはない。

2019年3月5日火曜日

メールの返事をしない人



 私の場合は、ラインやツイッターはほとんど使わず、もっぱらパソコンによるメールが通信の主体である。一応、アップルのIphoneXも持っているが、あまり使ってない。どうもiphonだと画面が小さいのと文字が打ちにくいので苦手である。一方、若い人に聞くと、メールには変なところから来るものが多く、無駄でほとんど見ないという人も多い。ツイッターやラインでほぼ充足しており、メールや電話を使うことはあまりないという。

 もちろん、迷惑メールを整理しないと毎日数十件のメールが来るため面倒であるが、ブログを見てメールしてくれる人のいるため、毎日、メールもきちんと確認する。ただどうした訳か、新しいメールが迷惑メールになっていることもあるため、たまには迷惑メールのファイルも見てみるが、せっかくメールをいただきながら、全く気づかないこともある。以前、東京の先生から私のブログを見てメールをいただいたが、迷惑メールに入っていたのか全く気づかず、1、2年してこちらかから質問したところ、昔の不義理、返事をしなかったことを怒られたことがある。本当に申し訳なかった。

 一方、こちらからメールを出してもなかなか返事をくれない方がいる。アメリカの図書館や研究者にも何度かメールすることがあるが、大抵2、3日で返事が来るし、1、2週間以上かから場合は、あらかじめその旨を記載していることが多いが、日本の研究者からの返信は結構、遅い。文献などしっかり調べて、間違いのない返事を書くからだと思う。私自身というと、とりあえずは、まわりにある資料をざっと見て、すぐに返事をするようにしている。個人的に興味がある場合は、ここから図書館などで調べ、知見があれば、二次、三次として報告していく。逆にあまり興味がない場合は、これでお終いにする。個人的には待たされるよりは、何らかの返事、例えばわからないという返事でも満足する。

 メールをしても一向に返事がない場合、メール自体が届いていない場合もあろうし、迷惑メールに入っていたため見なかった、あるいは最近では、メール自体見ないという方もいる。こうした場合、もういちど連絡した方が良いか、かなり迷ってしまう。あることをAさんにメールし、そこからBさんに転送され、Bさんからメールが来たとしよう、さらにBさんの返信メールにはCというセクションに回されたことが書かれているが、Cさんからは返事が全くない。この場合、Cさんのところで止まっている可能性が高いが、いつごろ催促するかが難しい。ある案件でCのところで一年近く止まったままのことがあった。その後、Cの関係者に連絡してあの案件はどうなっているかとメールで聞き、調べても見るとの連絡をもらったが、その後、数日しても返事はない。これなど、組織的な遅れなのだろう。

 昔、上司に仕事は溜め込むとどんどん溜まってどうしようもなくなるし、忘れてしまうので、できるだけ早く次に流して方が良いと言われた。それ以来,仕事はできだけ早くして溜め込まないようにしている。メールで言えば、返事をしてしまえば、溜め込まないが、返事をしないとそのまま溜め込むことになる。他のことでもそうであるが、ほとんどことは、1、2日考えれば結論が出る。1ヶ月も検討するというのは、全く考えてないのと同じだと思う。急いで結論を出すのは失敗もあるが、それでもむしろうまくいくことが多い。

2019年3月2日土曜日

菱川やす4

菱川やす、10歳、Courtesy of InterserveUSA-it's the organization that emerged from a merger between WUMS and BMMF (Bible Medical and Missionary Fellowship).

左端の女性が菱川やすと思われる、1879年(横浜共立学院より)

写真1の拡大

写真2の拡大 左右反転


 菱川やすの写真が見つかった。岡見京と同じ頃に、共立女学校からアメリカのシカゴ女子医科大学に留学して医師となった菱川やすについてはこのブログでも何度か取り上げた。他の女医、岡見京、須藤かく、阿部はなの写真は見つかったが、菱川やすの写真については、かなり探したが見つからなかった。ところが最近、“Hishikawa Yasu”で検索すると、ディスカバー・ニッケイというH Pで”Atypical Japanese  Women-The first Japanese female medical doctor and nurses in Chicago-part 1”という論文が見つかり
http://www.discovernikkei.org/ja/journal/2018/12/6/atypical-japanese-women-1/)
そこに“Yasu Hishikawain Yokohama. Courtesy of the records of the Women’s Union Missionary Society as archived at the Billy Graham Center”と説明が入った椅子の座った少女の写真があった。椅子が高いせいか、右足の草履は下に落ちてしまったが、それもへっちゃらで、前方へ強い視線を向けている。気の強そうな顔をしている。菱川やすは明治5年、横浜共立女学校が開校した最初の学生で、生まれは1861年頃で、写真は入学した当時、10歳頃のものと思われる。丸い机には洋風のカバンと洋書が置かれており、明治5年頃の写真としては写りが良い。丸い机を覆う布のデザインから一致する写真館を探しているが、まだわからない。

 この少女の視線は、どこか引っかかる。記憶を探ると、以前、横浜共立学園から送ってもらった1879年頃の学校前で撮られた写真を思い出した。九人の生徒と二人の先生が写っており、渡辺かね、木脇その、吉田まち、二宮わかが同定されているが、他の五人の生徒はわからない。以前、右端の少女を阿部はなと考えたが、その後、須藤かくと阿部はなの写真が発見され、違うことがわかった。今回、注目すべきは左端の女性である。10歳頃の菱川の写真と比べると、目元が似ており、顔の輪郭、鼻、唇の形も非常に似ている。18歳頃の写真にしては老けているが、右に写る二宮わかも18歳だから、昔はこんなものなのだろう。意思の強そうな顔は10歳の時から変わらない。まず間違いなくこの写真の右端の女性が菱川やすと見てよいと思う。

 菱川は名古屋出身で、父親は政府の官僚をしていたようで、横浜共立女学校の最初の生徒であったということは、父親も開明的な人物であり、さらに写真館で子供一人での写真を撮るのは、家が裕福だったと思われる。菱川という姓は全国的にはそれほど多くないが、名古屋に多い。さらに名古屋でも一宮市では690人おり、集中している。この辺りに菱川やすの親類がいそうであり、日本紳士録や人名録などを調べているが、該当する人物はいない。受洗しているので横浜の海岸教会の受洗簿に父親の名があるかもしれないが未調査である。

 “Atypical Japanese Women----“の著者であるTakako Dayさんとは連絡がつき、メールをして写真掲載の許可を取ったところ、オリジナルの写真を所有するところに連絡してブログ掲載への許可を取ってくださいと言われた。おかしな英語を使ってそこに掲載許可のメールを出し、ようやく今日許可が取れた。写真自体はTakako Dayさんの論文から引用している。明治初期、五年頃のものであれば、非常に早い時期の写真であり、写真史においても少女の優れた写真だと思う。画風は内田九一に近く、横浜で写真を撮っていたライムント・フォン・シュティルフリートあるいはその弟子で、須藤かくとも親しい日下部金兵衞かもしれない。

どなたか幕末、明治の写真に詳しい方のコメント待っています。