2018年12月9日日曜日

顎関節症と矯正治療



 昨日も、口腔外科の先生から顎関節症の治療のためということで患者が紹介されてきた。なんでも下の奥歯を虫歯で抜いたところ、頭痛がして口があまり開かなくなったという。近所の歯科医院を受診したところ、口腔外科に紹介され、そこでは投薬と開口訓練を受けた。これ以上は治らない、歯並びが悪いので、矯正歯科で診てもらったらということで当院を紹介された。

 上顎前突の開咬症例で、単純に歯並びだけを直すなら、上下左右第一小臼歯の抜歯とマルチブラケット装置による治療が必要となる。ただ不正咬合を矯正
治療で直しても、顎関節症は治る保証はない。これまでの経験からすれば、変化ないという場合がほとんどで、劇的によくなった症例も経験したが、この症例では、数歯がぶつかってアゴの運動が極端に阻害され、矯正治療で歯の干渉がなくなって、顎が自由に動けるようになったので、顎への負担が減り、顎関節症の軽減に繋がった。こうしたケースは稀にあるが、多くの場合は、何もしなくてもよくなるし、逆に色々としてもなかなか治らない症例は、矯正治療をしても変化はない。

 ここ10年の研究では、顎関節症の原因としては、ストレス、打撲、習癖、姿勢などが挙げられる、咬合との関連はあまりないとされている。一部の先生は、咬合を顎関節症の原因とすると補綴、矯正など、咬合を大きく変化させる歯科の訴訟が増えるため、そうした関連性を否定する研究が多いとしている。30年ほど前、アメリカで矯正治療が顎関節症の原因だとする訴訟があった。具体的にいうと小臼歯を抜歯してマルチブラケット装置による治療を受けた患者が、治療後に顎関節症になり、そのために訴訟を起こした。今でも標準的な治療法である。それに対してアメリカでも非常に特殊な取り外しができる矯正装置をメインに使う先生が患者側の弁護にたち、非抜歯でマルチブラケット装置を使わなければ、顎関節症にならないとした。結果は確か、負けて賠償金を払ったと思う。その後、アメリカ矯正歯科学会が猛烈に反対し、しばらく学会誌は関係がないという研究結果を多く載せた。そのせいもあり、現在では、顎関節症学会のガイドラインでも不正咬合と顎関節症との間には因果関係はないということになっている。

 最近では流石に少なくなったが、それでも咬合を変えると、顎関節症のみならず、体の調子も良くなるという歯科医がいる。肩こり、頭痛、腰痛などの深刻な症状を持つ患者は藁をすがる思いで来院し、噛み合わせを治すとこうした症状が消えると言われれば、高額な治療費を払っても受けるだろう。ただ良くなることは少なく、文句を言うと“他の患者さんは良くなるのですが、どうしたことでしょう”と逃げる。医療の不確実性、治らないこともあるという論理で、訴訟を起こしても厳しい。

 私の診療所では、不正咬合を持つが、顎関節症だけを主訴とする患者さんは断っている。なぜなら不正咬合を治療しても顎関節症が治る可能性は低いからである。不正咬合の形態を治すことはかなりの確率で可能であるが、顎関節症のような機能を直すことは、実際に難しいし、“治るかどうかわかりませんが、やってみましょう”と言うこともダメである。なぜなら矯正治療の場合は、高額な治療費がかかるだけでなく、治療期間も長く(2年)、さらに後戻りのできない不可逆的な治療であるからである。あくまで“治るかどうかやってみましょう”治療は、可逆的でリスクの少ないものに限られる、そうでなければ、やってはいけない。医学には不確実性という事実はあるが、それでも成功率の高低はあり、出来るだけ成功率の高いものを提供する義務があるし、顎関節症の治療としての矯正治療は許されるものではないと考える。

2018年12月5日水曜日

中国人の青森観光


藤田健一と孫文

 弘前市でも中国からの観光客を本当に多く見かけるようになった。天津からの定期便が青森空港に来るようになったのも一つの要因かもしれないが、今や中国からの観光客もリピーターが多くなり、最初は東京、京都などを巡るが、二度目からはあまり中国人の来ないようなところを選ぶ。例えば、北海道で自然を楽しみ、その後に弘前市、さらには温泉に来るツアーもある。また青森県内でゴルフやスキーなどを楽しむ人もいる。

 先日、中国から来た留学生と話すチャンスがあった。どこから来たかと聞くと、安徽省からと答えてくれた。安徽省といっても漠然として大きな都市も思いつかないが、ウエキペディアで調べると、中国の東部で、省の人口は6250万人、合肥市は人口745万人、阜陽市が760万人六安市が560万人、他には300万人以上の都市が6つもある。日本の大阪市が269万人、名古屋市が229万人、横浜市が372万人と考えると、安徽省だけで大阪、名古屋、横浜市以上の都市が9つもあることになる。合肥市を含めて安徽省の都市名を知っている日本人はどれだけいるだろうか。私も中国は詳しい方だが、ほとんど初めて聞く都市名である。他の中国人に聞いても安徽省はあまり有名な都市がないと言う。

 現在、青森空港と中国の天津市との間に定期便がある。天津市というと人口は1557万人で、東京を上回る大都市であり、人口30万人足らずの青森市の50倍の規模となる。旅行ツアーを調べると1週間くらいのツアーで大体5000元、日本円で80000円くらいとなる。2016年度の天津の平均月収は5250元であり、日本へのツアー料金はほぼ月収に匹敵する。青森県の平均月収が23.5万円であることから、この金額程度のツアーと考えて良い。多分、青森の人がハワイに行くくらいの感覚で、もはや決して贅沢な旅行ではなくなっている。それでも天津市だけでも1500万人以上いて、まだまだ海外旅行に行った人は少なく、一度は海外旅行したいという人は多い。さらに中国の賃金は上がるにつれ、また為替で元高になれば、ますます海外旅行は気安くなるだろう。

 青森県には中国人の喜ぶものがたくさんある。まずお城。中国にも歴史的建造物は多いが、日本の歴史的なものも好きである。次に桜。弘前の桜は日本一であり、日本=桜のイメージを持つ中国人も多く、有名である。さらに雪、魚(マグロ)、リンゴ、温泉、神社(岩木神社、岩木山)、自然(十和田湖、奥入瀬渓流)、紅葉など、これらは中国にはないものである。さらに言うと、東京などの大都会に比べて物価が安く、旅館、ホテル料金も安い。家の近くにある、メガという大規模ドラッグストアには、中国人ツアーの団体客バスが横付けされ、皆さん店内で買い物をしている。今でも日本人が台湾ツアーにいくと免税ショップなどに案内され、高い買い物をさせられるが、メガのように他で買うより明らかに安いディスカウントショップに案内されるのだから、ぼったくりもなく満足するだろう。

 中国人観光客の多くはスマホ片手に熱心に観光しており、よくこんな店を知っているなあと思われるようなところに出現しているが、それでもまだまだ中国語による発信は少ない。以前、弘前コンベンション協会を通じて、藤田庭園にある洋館に藤田健一さんと孫文が写っている写真を展示するように求めた。管理している弘前市緑地課で協議することになったが、すでに1年以上経過し、ボツになったのだろう。中国人観光客にすれば、藤田と建国の父、孫文との写真があるのは非常に興味を持つものである。逆の場合も考えれば、日本人が中国に行って、田舎の街の博物館に西郷隆盛と一緒に写った中国人の写真があればびっくりするだろう。同じことである。この集合写真は、撮影場所である田中邸について、その子孫から確認しているし、写真の版権についても神戸の孫文記念館から許可を得ているが、おそらく専門家の確認がなければ、展示できないのだろう。写真は中国の中山大学にも送っており、神戸の孫文記念館でも確認されており、他にどこに確認をするのだろうか。まあ単純にたかが歯科医の持ち込む資料には関心がないのであろう。

 話が逸れたが、こうした中国人からの観光の流れは、もはや引き戻ものではなく、ますます重要なものとなってくるだろう。東北でも青森県は中国観光客にとって、最も魅力的なところであり、弘前市でも官民一体となって様々な戦略を立てる必要があろう。

2018年12月1日土曜日

日本の人気画家(現代絵画)





 オークションでの売れ行き=作家の人気ではないが、一つの目安として世界のオークションでどれだけ高値で取引されたかを知ることで作家の人気がわかります。2017年の現代絵画のオークション売上高のベスト500が発表されていて、その中にある日本人作家を書き出してみます。

7 奈良美智 35878411ドル
25  村上隆   8059701 ドル
81  杉山博司   2213086ドル
91  千住博   1778587ドル
131 名和晃平    1111765ドル
146 タカノ綾  958185 ドル
149 石田徹也    9411494 ドル
199 Iwamoto Masakazu  666094ドル
223 サイトウマコト 578242ドル
357 大岳伸朗 317528ドル
368 有元利夫 307660ドル
371 ロッカクアヤコ304378ドル
387 加藤泉    290032ドル
409 五木田智央 270038ドル
457中島千波 236292ドル
469 塚本智也 231487ドル
498 智内兄助211066ドル

 弘前市出身の奈良美智さんが7位に入っているのはすごいことです。現代アート作家として世界的な評価を得ていると言ってもいいでしょう。意外なのは、146位のタカノ綾さんで、10年前くらい前までは、日本で最も個展で早く売れる作家として話題になりました。個展をオープンすると、若い女性が殺到してわずか数分で展示作品がソールドアウトという状態でした。それでも価格は20-30万円くらいだったでしょう。今は多分10倍はしますので、ラッシュして買った方はいい買い物をしました。実は私も6、7年前にタカノ綾さんのリトグラフを2枚、それぞれ1万円ほどでオークションにて買いました。今は数倍するでしょう。彼女も世界的な評価を得ていることになります。

 2020年にオープンする弘前芸術文化施設、設計は現代若手建築家の中では最も期待されている田根剛さん。そこに奈良美智さんの常設の大きな展示があれば、世界中から観光客が来るかもしれません。各地に美術館が建てられ、多くは現代美術館という名称を用いていますが、あそこに行けばこれが見られるというウリが少ないようです。松本市美術館は草間彌生ファンにとっては重要な場所ですし、洋画家の松本竣介の絵は子供時代いた盛岡市の岩手県立美術館に多くあります。是非とも弘前の美術館に来たら奈良美智さんの作品を堪能できたと言われるようになってほしいものです。同時に、小中学校の美術コンクールや養護学校の作品展など身近な行事も、工夫して展示してほしいものである。あまり話題になっていませんが、東京の銀座ナインでも青森県立美術館でもそうですが、最近は雑貨ショップで作家の一点ものの作品が売られています。高くても数万円くらいのものですが、作家にとっては自分の作品がどれだけ売れるかを試すいい機会となります。これまで画廊などでした販売ルートがなかった中、こうした別の販売ルートがあることは作家さんにとってもいいことだと思います。例えば自分の作った農産品を道の駅で売るような、若手の作品を持ち込めるようなショップが弘前の新美術館にあったらいいと思います。

 美術館の別棟には、アップルシードルを主体としたレストランが併設されるようです。これも期待大で、夏には野外映画も是非とも開催してほしいところです。フェデリコ・フェリーニもいいのですが、ここは明るく“ロシュフォールの恋人たち”はどうでしょう。ビール、ワインを飲みながら、最高です。また田根さんが、あのレンガ倉庫にどう改築して、建物と市民が持つ過去の歴史をどう記憶させるか、本当に楽しみです。まったく新築でないため、難しい挑戦ですが、これまで日本に大きな作品がないだけに、田根さんの日本での代表作になるような建物になってほしいものです。

2018年11月23日金曜日

珍田捨巳手紙(21,2歳の頃)











 弘前出身の明治の外交官、珍田捨巳の手紙がヤフーオークションに出ていたので落札した。何人かの競合者がいたが、何とか買うことができた。これまで珍田の手紙がオークションに出ることはなかったので、貴重である。かなり達筆なくずし字なので、内容はほとんどわからず、解読中である。珍田が書いた外交文書は、現在、外務省のデジタル外交資料にあり、閲覧することができる。それを調べると、この手紙とは署名や文体も違う。ただ外務省の公式文書では、こうした私的な手紙とは書体も違って当然である。一方、封筒には“東京商業学校 川田徳二郎殿 永山ギ(義)紹介  裏には珍田捨巳”となっている。調べると、川田徳二郎は現在の東京学園高等学校、昔の東京商業学校の先生をしており、18888月に濱田健次郎らが東京商業学校を設立し、その創立メンバーの一人に当時、内閣官官報局局員であった川田徳二郎がいる。

 ただこの手紙が偽物かというと、その可能性は少ないと考える。もともと手紙については、書や絵画に比べて骨董価値は少なく、せいぜい小説家や偉人の手紙について、フアンが買い求める程度である。すなわち西郷隆盛や坂本龍馬の手紙などは欲しい人も多く、値も高く、偽物も出よう。ただ珍田捨巳はそれほどの有名人ではなく、地元津軽でも知る人は少ない。そうした人物の手紙をわざわざ作ることもないように思える。封筒にはこの手紙の説明文があり、それには「英国駐在大使より東宮大夫に転じ、?登極後、侍従長に任ぜられ前年薨去せる伯爵珍田氏が明治二十五、六年頃、外務省電信課長たりし時、私立東京商業学校夜学科に英語を稽古せる当時の書状」とあるが、明治256年、珍田はサンフランシスコ領事で、内地にはいない。また外務省電信課長であったのは明治20から21年頃である。さらに珍田はアメリカ留学し、青山学院や東京英学校で英語を教えており、東京商業学校で英語を教えることがあっても教わることはない。

 この解説文は全く信用置けないが、この手紙を明治21から22年頃のものとすると、つじつまが合う。Wikipediaによると現在の東京学園高等学校の沿革では、明治21年に設立者、濱田健次郎として東京都に私立学校設立の願いが出て、創立メンバーには内閣官報局翻訳課長、濱田健次郎とともに同局員川田徳二郎の名がある。明治22年には日本初の私立夜間商業学校、私立東京商学校が設立された。珍田はアメリカから帰国後、青山学院で教鞭をとり、明治18年に外務省入局後も東京英学校の夜間で英語を教えており、その手腕を買われて、東京商学校の開校にあたり、誘われたのかもしれない。文書を読めばもう少しはっきりする。となるとこの手紙は明治21,22年の39日のもので、手紙の末尾の濱田君、川田君はそれぞれ創立者の濱田健次郎と川田徳次郎となる。珍田は、アメリカから帰国後、その語学を生かして英語教師になるか、従兄弟の佐藤愛麿の勧めでたまたま入った外務省で働くか悩んでいた時期であった。当時の心情を知る貴重な資料かもしれない。

 先ほどから写真の一字一字を切り取り、東京大学の木簡崩し字ガイドシステムに画像をクリックして解析結果から文書を読んでいる。30分かかり、最初は“拝啓被被一昨夜川田君とは面識申上げ一??して早速永山君と面会し、遂幸目前少生代として出校し保佑”まで読めたが疲れた。難しい。いずれ珍田の手紙と確定すれば、図書館か博物館に寄贈したいと思っている。






2018年11月20日火曜日

I PhoneXR



   先日、家内から「あなた。携帯電話、ほとんど使っていないのに、毎月8000円以上払っているのよ」と言われ、ぎょっとした。7年ほど前に、知人が経営するAuショップに行き、Ipone5を購入した。その時のプラニングではごく標準的なものを選んだつもりだった。機種は買取で、毎月の支払いは確か5000円くらいだったと思うが、2年間半額などの特典がなくなり、正規の料金となったのであろう。もちろん今の若者のように毎日、何時間も使うなら毎月8000円以上の支払いは高くないであろう。ところが私の場合、仕事、趣味、あるいはメールはほとんどコンピューターを使うので、Iphoneを使うのは電話か旅行する時くらいであった。旅行中は便利であったが、それも最近はWiFiフリーの場所も多くなり、そうなるとより画面の大きなIPadを旅行先でも使うことが多くなった。ますますIphoneの出番はない。

 電話は1日に1、2回、それも5分くらい。またインターネットも一日5分くらいしか使わない。これで8000円は確かに家内に言われるまでもなく、高い。早速、先日、Auショップに行ってきた。調べてもらうと、過去、1年間の使用量は毎月0.1G0.4Gという驚くほどの少なさである。携帯電話ばかり使ううちの衛生士に聞くと、2、3日分の使用量だそうだ。もっと容量の少ないプランに変更した方が良いと言われ、一番安い、月1G以下のプランを勧められた。すぐに同意し、さらにIphoneXに機種変更するのはいくらかかるかと聞きと、48回払いで月2000円くらい、他にアップルケアーなどをつけても、月6000円くらいになった。今まで7年間、特に最近の5年間はかなり無駄な金を払ったことになる。

 早速、新しいIphoneXRを使ってみたが、正直、画面は大きくなったし、どうしたことかインターネット接続が早くなったが、それだけでIphone5からの7年間の進歩はそれほど大きくない。多分、OS自体は旧式も最新式も変わらないせいであろう。以前のコンピューターの感覚で言えば、7年の機種の差は非常に大きく、性能的にも全く違っていて当たり前であるが、このIphoneXについて言えば、7年の差を感じさせない。ニュースによれば、このIphoneXの売れ行きが思わしくないらしい。新しく出るたびに買い換える知人がいるが、この彼ですら、IphoneXは性能の割には高すぎると言っていた。コンピューターの性能がほぼプラトーになっているが、そろそろスマホも同じ傾向になってきたのであろう。

 飛躍的に伸びていた技術がピタッと止まる時点がある。飛行機で言えば、ライト兄弟が飛んだのは1903年、その後、11年、第一次大戦が始まると飛躍的に飛行機技術が進み、第二次世界大戦では頂点に達し、その後の発達は少ない。ジェット機になり、また性能は伸びたが、それも1960年頃、例えばボーイング707のように、それ以降のジェット旅客機の原形が登場すると、大幅な進歩は止まった。船や自動車も同じ経路を示している。固定電話から携帯電話からの進歩は大きく、またガラケーからスマホ(Iphone)の進歩も大きいが、すでに新しい何らかの登場が必要だろう。そこにはやはりスティーブ・ジョブスのような天才を必要とするのだろう。

2018年11月15日木曜日

英語ボランティアガイド



 ここ10年間、毎週、知人の歯科医師4名、アメリカ人教師がレストランに集まり、ワインを飲みながら英語の勉強をしている。10年というとかなり長い期間であり、本気で勉強するならもはや英語はペラペラなはずであるが、これが一向に進歩していない。振り返ってみると、10年前の英語力が100とすると今は105くらいか。あまり向上していない。他のメンバーも同じである。一番大きな理由は、勉強する気がないせいであろう。英語レッスンといっても、レッスン日以外は全く英語を喋るわけでもないし、英文を読むわけでもない。もちろん英語レッスン書など一切読んだことはない。ただ英語レッスンの内容は結構、高度であり、先週の集まりでは、アメリカ下院選挙とトランプ大統領のことで、1時間半のレッスンの大半を占めた。普段、アメリカの動向などあまり関心はないが、こうした英語レッスンで必ず取り上げられるので、語学の勉強はしないが、時事問題については一応予習しておく。

 ただこうした英語レッスンを10年間もしていると、少し外国人と喋りたいという欲求がわくもので、先月も弘前図書館に行くために家の近くを歩いていると、中年の白人夫婦が歩いていた。雨が降っていたので、傘を貸してあげようとすると遠慮していたが、奥さんにかけてもあげると喜び、どこから来たかと聞くと、イタリアのトリノから2日前に来日し、弘前に一泊して北海道に行くとのことで、さらにどこに行くかというと、小堀旅館という。小堀旅館は本町の大学病院近くにある日本旅館で、渋い選択である。それじゃ旅館まで案内しようと、一緒に10分ほど歩いた。トリノ冬季オリンピックやピエモンテワインの話などをした。個人的にバローロワインが好きなので、そうした話をしたところ、よくそんなことを知っているなと感心された。わずか10分であったが両者にとっていい思い出になったろう。それにしてもイタリア人の英語は私の英語同様にひどい。

 他には、数年前、東京駅のすぐ横のホテルに泊まった時、夜の十時頃だったかフロント横の喫煙ルームでタバコをすっていると、外国人が入ってきた。話しかけると、スイス出身の技術者とのことで、タバコを吸うのは難しい世の中になったなあと、お互いの国に禁煙政策のことを少し話した。わずか10分程度のことであるは、未だに覚えている。彼の英語もどうもドイツ語の匂いがした。

 今年の弘前城の桜祭りでは、外国人観光客の写真を撮ってやろうと意気込んで家をでた。まず大手門入り口では、多くの観光客が掘に映る桜の写真を撮っている。“Would you like to take photos”と言うと、最初は警戒されるが、私はでかい望遠レンズをつけたSIGMASD クアトロを肩から吊るしているので、かなりのカメラマンと思われたのだろう。彼らのIphoneを借りて二、三枚写真を撮るとかなり喜ばれた。その会話を聞いていた他の数名の中国人観光客にも頼まれて、写真を撮った。さらに城内に入り、数組の外国人観光客客にも声掛けして写真を撮り、最後は日本人の若い女の子のグルプーの写真を撮ってあげると、確認後、”最高ね“とみんな奇声をあげて喜んでくれた。結局、10組くらいの主として外国人観光客を中心に写真を撮ってあげたが、白人のグループの方がこうしたことに慣れているのか、大げさに喜んでくれた。

 もはやこの歳になると、英語を学んだからといって、仕事や生活にそれほど役には立たないが、それでも少しでも弘前に来る外国人観光客に喜んでほしいと思う。将来的にはできるかわからないが、外国人向けのボランティアガイドになれればと、これからの英語の勉強をしていくつもりだ。

2018年11月12日月曜日

笹森順造5

前列ヒゲの人物が笹森順造



 笹森順造については、これと言った評伝はないが、最近、近所の古本屋で「参議院議員 マスター・オブ・アーツドクター・オブ・フィロソフィー 笹森順造」という小册があった。著者名はないが、45ページーの小册で、「唐変木」の別冊とある。調べると富本岩雄著、1961年に国際平和産業で発行された本であることがわかる。

 本書では、東奥義塾の塾長になるまでの笹森の弘前、早稲田、留学中のことがくわしく書かれている。おもしろかったのは、笹森が米国に留学したころ、ほとんど英語ができなかったことである。長男の笹森卯一郎は、東奥義塾を卒業後すぐに、インディアナ州のデポー大学に留学するが、8年間の勉学で博士号を得て、長崎の鎮西学院に勤務する。兄の影響もあり、笹森順造も早稲田大学にいるころから留学の希望があったが、兄に相談するといきなり留学するより、社会に一度でてからの方がよいとアドバイスされ、新聞社に勤務する。

 アメリカ、シアトルに着くと、弘前出身で、当時、北米時事主筆をしていた藤岡紫郎の世話になり、デンバーの教会に勤める同じく弘前出身の白戸八郎牧師のところに行き、今後の進路について相談する白戸の妻てるは、笹森順造の姉てるとは函館遺愛女学校の同窓であり、同校でも勉強のよくできる同じ名前の校友が三人いて、“さんてる”と呼ばれていた。そうしたこともあり、笹森の世話をした。ただ英語がわからない。本では

 「日本の学校で高等小学校から英語を十七年間も教わったのだが、米国に来て見ると一向役に立たない。そこで基礎から英語を習い直したいと思ってグランマスタースクールの一年生を志望したが、年が二十五にもなっているので許してくれない。そこでイーストデンバーハイスクールの校長スマイル氏に頼んで聴講生に入れて貰った。入ってみると語学がむずかしいのに教科目の内容が子供臭くてピンとこない。それでもスクールボーイをし、たたみ弁当にサンドウィッチとフルーツを入れ、一週二ドル五十セントを貰って通った」

 スクールボーイといっても、召使いのようなもので、こうした生活をして少しずつ英語も学び、2年後にようやくデンバー大学の大学院に進学するが、最初の3、4か月は全く授業についていけず、1年ほどしてようやくついていけるようになり、最終的にはAプラスの優秀な成績で卒業して、哲学博士号を取得した。

 現代の日本人同様に、語学の面では笹森順造はかなり苦労したことが、こうした文によってもわかる。逆にもっと初期の留学者、珍田捨巳、佐藤愛麿、川村敬三や兄の笹森卯一郎もそれほど語学の苦労をしていない。この差は、日本での学校教育に起因し、珍田、佐藤や卯一郎はすべて東奥義塾の卒業生であるのに対して、笹森順造は青森県立第一中学校、早稲田大学の卒業である。東奥義塾はほとんどの授業を英語で行い、外国人教師がいたのに対して、県立中学ではそうした教育はない。このブログで何度か紹介した須藤かく、菱川やすら横浜共立女学校の授業も英語で行われており、米国に留学後も語学的な苦労はない。

 明治中期から日本の教育は、海外の学問を翻訳して教えるやり方をしてきた。私の領域の矯正歯科学でも、海外で有名な教科書はすぐに翻訳本がでて、学生は日本語で学ぶ。こうした翻訳文化は、アジア圏内でも日本は際立ち、シンガポール、インドネシア、韓国でも高等教育機関の教科書は英語の場合が多い。すなわち大学卒業者はイコール英語ができることになる。こうした翻訳文化は内容をよく理解して、それをさらに深める点では優れているが、海外からの留学生、あるいは海外への留学には向いておらず、どうしても内向きの学問になりやすい。そのため翻訳文化が行き渡っていない明治中期までは、特にミッション系の学校では外国人教師から直接、生徒は英文の教科書、講義で授業を受けていたため、留学しても語学面での苦労は少なかった。