2018年2月16日金曜日

弘前の忍者屋敷と早道ノ者 2

森町小路 棟方嘉吉

長坂町 棟方滝根(晴吉貞敬の長男、忠一)


 棟方姓は弘前藩でも比較的多く、明治二年弘前絵図でも、棟方郡三(冨田足軽町)、棟方勇八(代官町)、棟方忠司(代官町)、棟方雄之助(緑町)、棟方角弥(笹森町)、棟方滝根(長坂町)、棟方角馬(蔵主町)、棟方常二郎(小人町)、棟方嘉吉(森町小路)の名がいる。これだけ棟方姓がいると、姓が同じだからといって森町小路の棟方嘉吉が晴吉の近親者とは言えない。棟方晴吉は、十代藩主、津軽信順の重臣で家禄1000石。藩主の跡継ぎ問題で、天保十四年(1843)に自宅にて蟄居され、安政二年(1855)になってようやく蟄居がとけて在府町の自宅に帰ったという(晴吉については青森県人名大辞典に詳しい)。棟方家は家老、用人を勤める名家であり、早道ノ者の物頭といっても、あくまで上司である家老であり、早道ノ道チームの長を兼業していたに過ぎない。当然、蟄居後、関係はない。棟方晴吉(貞敬)の長男、忠一(秀一貞正)は通称、滝根といい、安政四年に百俵で召し帰され、後に百石、二百石となった(「続つがるの夜明け 下巻」)。明治二年絵図では棟方滝根の屋敷が長坂町の本田(多)軍蔵の隣にある。

 森町小路の棟方嘉吉の隣の佐藤万太郎については、人名録に“氏は師役の号外にして藩製政治の内、世世町目付町同心の役位と唱うるをあり。其役は犯罪者の町町に捕縛する役目故、族(言偏に矢)役に属ずる者、佐藤氏の業庭に▲▲を期して寄合▲▲の内、十手、早縄、棒、千本刀等の職務に営する業を習練する所なりしか、廃藩置県のため役位を廃止。ために業場を▲す”一部不明な箇所があるが、どうやら佐藤万太郎屋敷には稽古道場があり、同心などにここで十手や縄などの捕縛技術を教えたのであろう(ウィキペディアの“森町”の説明では森町から覚仙町にかけて町同心稽古所があったとしているが、本町にかけてが正しいようだ)。今でいう警察学校のようなところで、幕府には伊賀同心、甲賀同心などもいて、忍者を同心の中に入れたことから、弘前藩の早道ノ物チームも家老直轄とはいえ、直接的な差配は同心扱いで、佐藤万太郎が上司だった可能性もある。

 棟方嘉吉の左隣の原子文弥については不明であるが、こうした行き止まりの小路の奥にある家は何やら秘密めいて、なるほど“早道の者”の家と言ってもいい雰囲気がある。ただ棟方嘉吉が早道ノ者の小頭であれば家禄は少なく(六十俵、四人扶持であれば、額面で21石に相当し、きびしい家計である、四十俵三人扶持との記述もある。また「弘藩明治一統誌 勤仕録」には早道ノ者 おそらく並みの者では三十俵二人扶持とあり、十石でさらに厳しい)、そうした者が住むには中級士族の住む森町はふさわしくないし、建坪も大きいように思える。例外も多いが、森町は五十石から百石の家禄の中級士族の住む町であり、隣の佐藤万太郎もそうである。内部の調査では隠れ部屋のようなものもあるようだが、知人によれば和徳町の稲荷神社の神官宅(明治二年弘前絵図では山辺織衛宅)にもそうした部屋があるようだ。棟方嘉吉の屋敷を忍者屋敷と決めるにはまだまだ資料が足らないが、それでも幕末の家屋として保存の価値は十分にある。ただこうした歴史的の古民家であっても残念だが、弘前市による買取はできず、土地売買時に家屋のみを分解して保存し、市が保有する土地に復元する。あるいは土地ごとすべて寄贈しても、市が必要性を認めなければ受け取らない。
 忍者屋敷として観光客に売り出すのもよかろうが、青森の民芸運動を主導した相馬貞三さんが最後まで愛した家としては、青森県立郷土館や弘前市立博物館とタイアップして津軽民芸館として公開した方がいいかもしれない。民芸品は博物館でみるよりはこうした古民家で鑑賞したり、こぎん刺しなどのワークショップも楽しい。保存については色々な方策があるので、弘前市の保存協会や関連部署とも是非相談してほしい。

弘前の忍者屋敷と早道ノ者 1



 ブログを見ていただいている方から弘前の忍者屋敷についての問い合わせがあった。弘前城の南にある青森県民芸協会会長、会田さん所有の古民家は、青森大学の清川教授の調査によれば江戸時代の忍者屋敷の可能性があり、保存を希望しているとの話であった。全国新聞でも報道されたようだが、うっかりしていて記憶にない。そして清川教授によれば、この古民家のもともとの持ち主は棟方嘉吉という人物で、弘前藩の忍者集団“早道の者”の頭領、棟方晴吉(貞敬)の近親者でないかとしている。その民家には隠し部屋や鳴る床板などの工夫があり、忍者屋敷ではないかというのだ。

 “早道の者”は、延宝元年(1673)に江戸で召し抱えられた忍者、中川小隼人から始まり(ちなみに明治二年絵図には、中川姓は中川弥五郎(冨田新割町)、中川寛蔵(教育者、若党町)、中川孝三郎(五十石町小路)の三名がいる)、その後、定員は十四名で、物頭は家老、大目付が兼ね、小頭二名に、その他、並みの者という構成であった。小頭で六十俵四人扶持の下級武士であるから、並みの者はさらに低い禄であった。天保(1830年代)の頃の早道ノ者に佐藤文弥、佐藤惣右衛門の名があるが(弘藩明治一統誌 人名録)、どのような人物が早道ノ者であったか、あるいは世襲したのかは、わかっていない。初期の“早道の者”は、いわゆる黒装束で活動する忍者というイメージもあったが、その後は、情報集団(隠密)、例えば幕末期でいえば、各地に派遣されて情報収集を主に行っていたようで、薩摩、長州、京都の動きを的確に捉え、それに藩に報告していた。独立した藩としては、こうした情報活動は当然であり、何も忍者というような範疇に入れる仕事ではない。さらに弘前藩では、何度も御家騒動があったので、上層部が藩士の動向を知るには隠密として早道ノ者は役立ったであろう。また隣接する南部藩とは境界を巡る問題が度々発生し、隣藩の動向を知る必要もあった。とりわけ本州の北の端である弘前藩は、中央とは隔絶しがちで、それ故、他国以上に情報収集に力を注いだ。

 棟方嘉吉は、明治二年弘前絵図では塩分町に近い、森町小路というところにその名が見える。この小路は不思議な道で、森町の道から南に折れ、途中で止まっている。通常、小路は他の道に繋がるものだが、この森町小路だけが行き止まりの道となっている。小路の奥にある原子文弥、棟方嘉吉、佐藤万太郎の家に用事がなければ、この小路を通ることはない。さらに佐藤万太郎家の玄関は本町に向いており(名前の最初の向きが玄関となる)、本町の方から入ったのであろうか。森町小路は非常に特殊な通路で、棟方家と原子家のための道と考えて良い。

 そうしたこともあって、先週、雪の中を実際に訪ねてみた。森町の道は何度も通ったが、この小路については全く気づかなかった。消防署から50mくらい進んだところに幅3mほどの道があり、私道のようで、立ち入るのは躊躇われたが、思い切って入っていくと、そこには平屋の古民家があった。住む人がいないせいか、雪に囲まれているが、比較的保存状態はよい。新聞によると幕末ころの建物とされているが、これまであまり報告されていない家である。弘前市では昭和60年頃に江戸時代の民家を調べ、数冊の調査報告書を作成し、平面図などの調査結果を載せているが、どうもこの森町小路の家は抜けている。奥まっているため発見できなかったのかもしれない。現在は空き家であるが、所有者の会田さんの尽力で何とか保持できているのであろう。


2018年2月15日木曜日

歴史研究としての新聞、茶太楼新聞

東北一の規模を誇った武蔵楼

 須藤かく、阿部はな、アデリン・ケルシーの一次資料は、マウント・ホリキュール大学に残されているケルシーの自筆の手紙だけで、須藤、阿部についての一次資料は残っていない。手紙の一つでもあればいいのだが、これまでの調査では見つかっていない。

 ほとんどの資料は、当時の新聞記事に頼ったが、アメリカにはこうした古い新聞記事を扱ったサイトがあり、私がよく使っているのはNewspaper.comというもので、過去二百年分の新聞記事が公開されている。こうしたサイトの優れた点は、“Kaku Sudo”と検索すると、一致する新聞を探してくれるだけでなく、新聞の中の該当箇所も提示してくれる。古い新聞は印刷も不鮮明で、今の新聞より字が小さく、文章が多い。新聞から自分で該当箇所を見つけようとすると大変である。そのため、語句検索は本当に助かる。

 さらに友人を介してシンシナティー公立図書館に質問したところ、わずか1日くらいで関係する地元紙の記事を送ってくれた。図書館で古い新聞のデジタル化が行われているため、こんなに早く調査できた。これに対して、日本の図書館に質問すると少なくとも1週間はかかり、図書館員もいちいち本を当たって調べてくれている。ことに新聞記事に関しては。古いものについてはマイクロフィルムや製本されたものでひたすら探すしかない。

 近代史、現代史を扱う研究者は、どうも新聞記事は客観的な資料と見なしていないようだが、実際、ほとんど研究されていない人のことを調べようとすると新聞記事か、子孫の方から話を聞くしかない。今回に須藤かくについても何とか、その子孫までたどり着いたが、それでも100年以上前のこととなると、子孫もほとんど覚えていない。私の場合でも祖父、祖母のことはある程度わかっても曾祖父、祖母くらいになると全くわからない。

 以前から東奥日報のデジタル化を提唱しているし、実際に会社にはこうした検索システムがあるようである。ところが、弘前図書館には東奥日報のデジタル資料はなく、いつも何人かの人はマイクロフィルムリーダーにかじりついて調べている。アメリカのようにパソコンで簡単に調べられ、検索できるようなシステムが望ましい.新聞は、地方の情報の核であり、今後とも資料の価値はさらに高まるであろう。そうした意味から、東奥日報でも昔の新聞のデジタル情報を、自社だけでなく、青森県の主要都市の図書館に寄贈してほしい。さらに新聞はあまりいい紙を使っていないので、保存は難しく、早急なデジタル化が望まれる。

 もう一つ、どうしてもデジタル化してほしい新聞は、大正十一年に発行され、弘前の風俗を描いた「茶太楼新聞」がある。どこそこの遊郭にはどんな子がいて、どういう性格か、あるいは遊郭で起こった事件などを扱っている。古い遊郭のことは、小説や雑誌などでも取り上げられていたが、一地方の風俗を新聞という形でこれほど長く(1922-1940)続けたものはなく、大正、昭和の風俗を調べる基本的な資料となる。現在、神奈川近代文学館でその一部が保存されているが、確か弘前図書館にも資料があるはずである。現在、同新聞は蔵書資料の中にはないが、陸奥新報に昭和57年から連載された斎藤栄司著「津軽紅灯譚」には茶太楼新聞からの引用が多く、弘前図書館の資料を使ったようだ。どこかにあると思われるが、こうしたレアのものほど、早くデジタル化して公開してほしい。ちなみに「津軽紅灯譚」も明治から昭和にかけての青森の風俗を描いた長編連載で非常に面白ものだが、どうしたことか書籍化されず、新聞の切り抜きがバインダーに貼られて弘前図書館にある。著者の同意が得られたら、個人的にも書籍化したい本である。

2018年2月11日日曜日

幕末、明治初期の城下絵図

鹿児島御城下絵図(1856)

徳島御城下絵図(明治初年)

 このブログでは、これまで「明治二年弘前絵図」のことを多く取り上げたし、4年前には“明治二年弘前絵図—人物と景色を探して”という本を出版した。ところが、この絵図の製作動機については、弘前藩の資料を色々と調べているが、今もってわからない。当初は、廃藩置県に伴う士族およびその所有地の把握、あるいは地租に関係する絵図と考えていた。そもそも江戸時代、士族の土地は藩主からそれぞれの家臣に貸し与えた拝領屋敷で、藩から出て行けと言われれば素直に出て行かなくてはいけない(もちろん買得屋敷もあるが)。藩における役職、禄により住む場所や家の大きさが決まっていたため、何らかの理由で昇進した場合は、それに伴い住む家もかわったし、逆に降格した場合も同様であった。そのため、江戸期を通じて、同じ場所に住む士族はむしろ少なく、転居もかなり多かった。ところが、明治になると、土地に対する税金、いわゆる地租の概念が、米がとれる農村部だけではなく、弘前のような城下町にも広がり、それに伴い藩主は自分の所有する城下の土地をそこに住む家臣に与えることになる。それにより家臣はその土地を売る権利が発生した。そのため、明治になり、禄が廃止された士族は、次々に土地家屋を売り、明治二年から四年にかけて一気に転居者が増える。もともと、転居者も多く、今と違い表札もなかった江戸時代では、どこに誰が住むのか、はっきりしておらず、そうした意味から明治二年、弘前藩の最後の仕事の一つとしてこうした町絵図、城下絵図を作成したと考えていた。

 ところがこうした、今の住宅地図のような住む人の名を細かく記載した絵図は、幕末から明治初期にかけて全国的に多く作成された。明治国絵図とよばれる藩領を示す大型絵図は、明治新政府の名で作成されたが、町絵図、城下絵図はもっと前から製作が始まった。全国的にどれだけあるか専門外なのではっきりしないが、古いのは安政三年(1856)製作の石川県立歴史博物館所蔵 “金沢町絵図”、さらにはNHKファミリーヒストリーによく登場する鹿児島県立図書館所蔵、安政六年(1859)の大型の“御城下絵図”があり。また少し小さいサイズではあるが、山口県立図書館所蔵の“幕末山口市街図”(慶応元年から明治元年、1865-1868)や“萩御城下絵図”(慶応元年、1865年)がある。さらに明治2、3年ころのものとしては徳島藩の“徳島御城下絵図”や篠山藩の“丹波国篠山城下絵図”がある。他にも幕末から明治初期、最後の城下絵図と言ってよい地図があると思うが、未確認である。こうした城下絵図は各藩、江戸期に何度も作っており、弘前藩でも正保(1644)ころの津軽弘前城之絵図、延宝(1676)ころの弘前惣御絵図、あるいは宝暦ころにも御城下絵図(1760)が作られた。こうした絵図の作成目的は、まずは居住者と居住地の把握であろう。現在であれば、住宅地図は、郵便、宅配の配達、不動産売買に活用されているが、江戸期、藩としては何らかの理由で藩士の居住者と居住地を把握する必要があったのだろう。江戸時代は表札が今ほど普及しておらず、土地台帳に近い“御屋敷根帳”によって屋敷とその住人をおおよそ把握できたが、幕末、ぺりー来航以来、藩士を総動員する西洋軍制、人材登用など改革に対応するためには正確な居住地と居住者の把握を必要とした。幕末頃、それまでの長男が跡目を継ぐ制度から実力に応じて、それも次男、三男も任官され、新たな一家を立てることができるようになった。すると屋敷も新たに拝領することになり、あるいは職種が上がることで住むところも変わってくる。こうした藩士の移動の激しい時期が幕末期であり、それに対処するために各藩でも新たな城下絵図の作成に向かわせたのかもしれない。明治二年弘前絵図についても、絵図の計画、製作も含めて明治新政府の仕事ではなく、幕末の藩の仕事を考えると、その製作目的もかわってくる。