2008年8月30日土曜日

小坂奇石3







張玄墓誌は北魏(531)のものとされているが、この墓誌の原石はいつ、どこからの出土されたのかはわかっていない。何紹基が1825年に歴城の市上でその拓本を入手したものと言われている。当初から果たして北魏のものかという疑問があり、技法や書風も魏のものとは思われないほどさまざまな手法がとられている。

小坂先生の字をアップしたものを、拓本と比較すると、見ての通りかなり違うことがわかる。一方、「自」の字のように内側の横画を縦線につなげない手法などは張玄墓誌に似ている。当然、拓本と書では、ものがそもそも違うが、張玄墓誌の特徴は書法がさまざまで、それがこの墓誌の特異な味わいがあるようだ(墓誌集(下)解説)。小坂先生の書はそういった書法の乱れはなく、力強く、荘厳なものとなっており、その意味でも臨書ではなく、オリジナルなものといえよう。

2006年1月に上野の国立博物館で、「書の至宝 日本ー中国」が開催され、王羲之、欧陽詢、蘇軾、空海、小野道風、本阿弥光悦、良寛などの国宝を含む大掛かりな展覧会があった。たまたま東京出張で見に行ったが、書道愛好家は意外に多く、入場までに1時間、入ってもみんな展示から離れない、書体を指でなぞるなどするため、一向に進まない展示会であった。さすがに書には無関心でわからない私でも、これだけ名品を集められるとすごいと思った。特に空海の「風信帖」などは実物は華麗かつ奔放で空海の人なりがわかる書であった。

現在、江戸東京博物館で「北京故宮 書の名宝展」が開催され、王羲之「蘭亭序」が目玉として展示されているが、実は王羲之などの名品は日本に多く、存在する。現存する王羲之の忠実な複製はわずか8~9例しかないが、そのうち「喪乱帖」(宮内庁三の丸尚蔵館蔵)、「孔侍中帖」(国宝、前田育徳会蔵)、「妹至帖」(個人蔵)はきわめて王羲之の自筆に近い作品として知られている。「喪乱帖」と「孔侍中帖」には、桓武天皇の「延歴(暦)勅定」印が押され、奈良時代に唐よりもたらされたもので、日本では古くから中国の書は珍重され、それが中国以上に日本に名品が残った理由でしょう。つい日中戦争のどさくさにまぎれてもたらされたもののように誤解されるが、遣隋使、遣唐使の時代から集められたコレクションで、戦火の折りにも守られた貴重なもので、むしろ中国にあったならなくなっていた可能性が高い。

2008年8月24日日曜日

小坂奇石2




 この前の続きです。張黒女墓誌(張玄墓誌銘)の全文は367字ですが、小坂先生は巻のページ数の関係から途中9字省略し、全文のほぼ半分で終了しています。墓誌銘集<下>(中国法書ガイド)に新井北風先生の「張玄墓誌の書法」という論文が載っていますが、小坂先生のこの書はとくに古書をまねた臨書ではなく、雰囲気を残しながら、自分流にアレンジしたものとなっています。個人的には題字がいい感じです。


 もう一巻、ありますが、これは行書?で書かれたもので、出典は不明です。というより何字かは読めないのです。おそらく楷書をある程度マスターしたあと、行書に挑戦するように父に与えたのでしょう。明治期の漢籍に親しんだ知識人なら容易に読めたでしょうし、出典もわかるでしょうが、書道、漢文の素養はほとんどなく現代人にはこの程度のくずしも読めません。なさけないことです。

 弘前は城下町だったせいか、書道も盛んで上田流という流派が江戸期盛んで、その後も昭和6年には書家の高橋閑鶴ら7人が参集して「北門書道会」を結成して、今に続いています。またNHK大河ドラマ「篤姫」のタイトルも弘前市在住の菊池錦子さんが書いています。ロータリーの奨学生の中国人の学生で日本に書の研究で来ているひとがいましたが、彼によれば書の研究では日本は中国より進んでおり、書の名品も中国より日本の方が多いとのことでした。文化革命直後に中国に旅行しましたが、文化革命で破壊された文化財、書画が痛ましい姿で展示されていました。おそらくは日本でいう名品と呼ばれている作品も紅衛兵などにより破られ、公民館みたいなところでほとんど
修復もされずに展示されていました。こういったことが何百年も続き、書画は紛失、破壊されていったのでしょう。

2008年8月21日木曜日

小坂奇石1



 日本芸術院恩賜賞をとった日本の近代書家を代表する小坂奇石の書である。うちの父が書道が好きだったため、同じ郷里、徳島県の出身ということで一時、小坂先生に師事した。それまでとくに書道の教室に通った訳ではなく、単に書道が好きで、老後の手慰みのひとつとして通いだしたものの、他の生徒は一流の書家ばかりで、実力差がありすぎたのだろう。1年ほど通った後、丈に合ったNHKの書道教室に通い始めた。通い出して最初の与えられたのが写真の「張黒女墓誌」である。中国南北朝時代、北魏の官僚であった張玄の墓誌で、六朝時代の北朝独特の「六朝楷書」の書蹟として知られる。高校生の書道部でもよく使われる題材で、初心者の父のことを慮って小坂先生が与えたものであろう。小坂先生のやさしい気持ちが伝わる。古跡をまねして書くことを臨書と呼ばれるが、小坂先生のこの書をみると、もとの拓本の書体の流れは汲んでいるものの、小坂先生独特の力強いタッチが感じられる。全部広げると、一巻で5mを超えるため、何とか撮影しようとしたが、無理なので部分に分けて撮影した。

 一弟子、それも同じ郷里の素人に対して、このような書をくださったことは大変感謝しているし、亡き父の思い出深い遺品である。小坂先生にしても晩年の作品で、90歳近くになっても200字近い書を最初から最後まで全く乱れず、書ききる精神力には感服する。こういった楷書は素人にはわからないが、一字一句きちんと気力を充実させて書くと思うが、最初から最後まで全く力が衰えていない。すごいと思う。どんな弟子でも全力で教える気迫を感じさせる。小坂先生の作品は郷土の徳島県の美術館などにも展示されているようだが、こういった初学者に教えるテキストとして書かれた作品が表にでることはあまりないと思われるため、公開した。日本芸術院恩賜賞をとり、書家としての頂点を極めたひとが、年をとってもこのような真摯な姿勢でひとつひとつの仕事をおろそかにせず、対峙する姿には敬服する。

暇をみては練習したいと思う。次回に残りの書を掲載する。




2008年8月19日火曜日

平和祈念像のモデル2



 前回、長崎の平和祈念像のモデルは、顔はおじの長谷川茂雄、体は「せんとうはん」こと吉田廣一さんではないかという仮説を書きました。その後、徳島県の脇町高校のラグビー部OBの方からメールでご連絡いただき、脇町の人たちの間ではみんなモデルはせんとうはんと長谷川先生だということになっているとのことでした。

 日体スワローというHPでせんとうはんの写真が出ているので拝借しました(http://www.nittaiswallow.com/zaidan20060627/tokushima.html)。この写真をみても本当に体の大きな人で、戦前のひとの感覚からすれば、それこそ大男、今でいう2mくらいのひとだったのでしょう。こんなひとは当時ほとんどいなかったようでしょう。せんとうはんの奥さんは小柄のひとで、何かあるとせんとうはんが奥さんの足首をつかみ、ポイと持ち上げたといった逸話もあり、脇町では未だにその人柄と運動能力の高さが伝説となっています。ただ顔は精悍ではありますが、長崎の平和祈念像の顔とは明らかに違います。特に髪型は当時の日本人の平均的な髪型の短髪でイメージが異なります。そのため平和祈念像のモデルといわれてても確かに体つきはそうだが、似ていないという風に見られると思います。

 長谷川のおじさんの写真を帰省の折りに探して見ましたが、1950年ころのものが一枚も実家にはありません。上の写真は30年ほど前のもので、おじさんも60歳は超えていたと思います。何かの記念写真で親類一同が集まっている写真から切り抜いてきたものです。散髪にいったのでしょうか、この写真より普段はもっと髪の毛を延ばしていたと思います。この顔からさらに20年前の顔を想像してみてください。髪型は戦前からウエーブのかかった髪を長髪にのばしていました。この顔と写真下のせんとうはんの体を合成すると、かなり平和祈念像のイメージに近いことがわかると思います。当然、制作者の北村さんからすればそのままモデルにしたのではなく、あくまで参考にしたにすぎないことと思います。平和のシンボルをどう表現するか悩んだとき、西洋的でありながら、東洋人、日本人的なイメージとしてせんとうはんとおじさんのイメージを参考にした可能性はあると思います。

 戦前、戦後すぐの脇町の話をおふくろとおばさんから色々と聞きました。母方の家は6女1男で上から6人は女、最後が男子という家族構成で、祖母が「ええかっこし」のひとだったせいか、長女の夫として長谷川のおじさんが来たときには本当に鼻高々だったようです。当時は、道を歩いていて、いい娘がいると家に帰り、「あの娘を嫁にもらいたい」と告げると親はそれを生業にしている仲人さんに相談し、家柄などが含めていいと判断すると、仲人が相手の娘さんの家に行き、話をつけるという風習だったようです。おばさんもうちの母親もずいぶんもてたようです。とくに母の下の妹、早死にしましたが、大変な美人で、岸恵子に間違えられたり、会う男男がみんな嫁にくれと言われ困ったようです。長谷川のおじさんの妹も大変な美人で、おばさんと一緒に大阪の淀屋橋を歩くとみんな振り返ったそうです。

 あの娘がいいなと思えば、一度仲人に相談して話を進めるといったやり方は、なかなか好きだと告白できない男の人にはいい制度だったかもしれません。今でも自分からどんどん声をかけ、彼女や彼氏を作るひともいますが、なかなか知り合うチャンスがない、声をかけれないといっと人も多く、それが晩婚化や結婚しない人の増加につながっているのかもしれません。

2008年8月8日金曜日

奇跡のリンゴ


 今評判の「奇跡のリンゴ」(石川 拓治著 幻冬舎)を読みました。絶対に不可能とされたリンゴの無肥料、無農薬による栽培を達成した記録です。弘前はリンゴ栽培では日本一のところですが、リンゴは害虫や病気が多いため、無農薬でやろうとするひともいませんし、また絶対に不可能とされていました。アダムとイブの時代のリンゴは無農薬だったのではと言われるかもしれませんが、当時のリンゴはほんとに小さく、食べてもそれほどおいしいものではなかったようです。現在の大型で甘いリンゴは、もとから肥料、農薬を使うことを前提としたもので、それなしで栽培することは不可能とされていました。

 8年間、リンゴの収穫はなく、無収入で、家族も貧乏のどんどこに。キャバレーの客引きをしたり、山谷にホームレスの生活をしながらも、無農薬、無肥料による栽培を目指すも、もう駄目だと思い、岩木山に死に場所を探した。そこに幻影と思えるリンゴの木をみつけ、それをきっかけに自然農法による栽培に活路を見いだす。

 中身は読んでのお楽しみですが、こういった不可能なことに挑戦するひとは、科学、医学あるいは工業品の分野でも、どこか狂気じみたところがないと難しいようです。たかがリンゴと、ひとはいうけれど、この本を読むと木村秋則の挑戦は、ノーベル賞をとる発明過程とそれほど変わりません。むしろ生活がかかっているだけ、よけいにきついものだったと思います。

 気候によるのか、人種がちょっと違うのか、津軽には時たまこのような人が現れます。つい最近、「情熱大陸」に出たイタリア料理の笹森さんも同様で、自分のところで出す料理の素材、野菜からチーズ、ハムまで手作りで、さらにワイン作りも試みるという強者です。木村さんも歯の抜けた普通のおじさんですが、どこにそんな情熱が出てくるか不思議です。何か風土によるものがあるのでしょう。

 この本にしても、木村さんは文を書く力もありませんので石川さんが代筆したようなもので、元となったNHKの「プロフェッショナル仕事の流儀」にしても、ディレクターの柴田周平さんが弘前出身だった縁で取り上げられたようです。地元ではほとんど知られていませんので、このまま誰も取り上げられなければただの変人で終わったでしょう。このように全国的に取り上げられることで注目されるようになりました。こういった事例がこれまた津軽では多くあり、むしろ東京や大阪、あるいは海外から評価されることが多いようです。画家の
奈良美智さんも今や世界でも有名な現代絵画の旗手ですが、地元の中学、高校の同級生に聞いてもあまり存在感はなかったようです。こういった地元で評価されない風土こそかえって、なにくそ、「えふりこぎ」(かっこつける)の精神で反逆的な行動にでるのかもしれません。

 自殺を考える若いひとからの相談に対して、木村さんは「バカになればいいんだと言いました。バカになるって、やってみればわかると思うけれど、そんなに簡単なことではないんだよ。だけどさ、死ぬくらいなら、その前に一回はバカになってきたらいい。ひとつのものに狂えば、いつかは必ず答えに巡り合うことができるのだよ」

 この思想は吉田松陰の好きな「狂」の思想、「道を興すには狂者に非ざれば興すこと能わず」と全く同じ発想であるのは面白いと思います。木村が無農薬によるリンゴ栽培を目指したのは1978年ころで、世間ではバブル期前とはいえ、私だってディスコにも行っていた時代である。よく家族もついてきたと思うし、それを許される土地柄でもあったのでしょう。

 高校生の娘の夏休みの指定図書には、「海と毒薬」、「博士の愛した数式」、「人間失格」などがありますが、せっかく地元にもこんなひとがいるのですから、若いひとには是非とも読んでほしい本です。

2008年8月3日日曜日

レニャーノの自転車






 12年ほど前に買ったLegnano(レニャーノ)の自転車です。最近はさすがに尻が痛くてほとんど乗っていません。家内の実家近くにある自転車屋で、最初はビアンキのロードを買う予定でしたが、レニャーノのカタログを見て、即刻変更しました。スポルティフと呼ばれる形式で、1,2日の長距離ツーリングを目指したものです。ロードバイクと違い、タイヤもやや太い、700/28というものが使われ、また雨よけのマッドガードも付いています。さらにブレーキは肩持ちではなく、カンチのものが使われ、変速機もバーエンドと呼ばれる変わったものが使われています。最近の変速機はすべてブレーキレバーのところにあり、それをひねるようになっていますが、このバーエンドは名前の通り、ハンドルの先にあります。写真のように部品はそれほど高いものは使われていませんが、ランドナーと違い、軽量に作られ、ちなみにこの自転車の重量は10.0kgでロードなみです。かなり高速に走れます。

 このレニャーノという自転車メーカは歴史が古く、1902年に創立され、ビアンキと並ぶ、イタリアを代表するメーカでした。今ではビアンキ傘下でシティーバイクなどを作っているようですが、その過去は栄光に包まれています。戦前、戦後のイタリアの英雄としてファースト・コッピとジーノ・バルタリという自転車界のスーパースターが現れました。最初はともにレニャーノチームでしたが、その後コッピはビアンキチームに移籍し、コッピとバルタリのすさまじい戦いが繰り広げられました。大鵬、柏戸といったところでしょうか(ちょっと古いか)。日本と違い、ヨーロッパ、特にフランスとイタリアは自転車に熱い人が多く、イタリア人なんか、戦後すぐというのに、かたやコッピ派、かたやバルタリ派に分かれて応援していたようです。当然、今でもコッピ、バルタリは有名ですし、その選手が乗ったビアンキ、レニャーノも伝説となっています。

 この自転車は、そんなレニャーノがほんの一時期、少量生産したもので、フレームは今風のアルミですが、溶接部の処理も丁寧で、またチューブもそれほど太くなく、いい感じです。とくにこのフレームの色はLegnanoグリーンと呼ばれ、ビアンキのチェレスタグリーンとともにメーカのシンボルカラーとして有名です。とにかくかっこいいです。クリスチャンディオールのデザイナーとして有名なジャンフランク・フェレの生家はレニャーノの自転車メーカーで大変な金持ちだったと聞いたことがあります。もしかしてこのレニャーノの会社だったかもしれません。


 最近、また若者に間で自転車がブームのようで、新しい自転車雑誌もたくさん創刊されました。大学生頃に私も自転車にはまり、5万円くらいの安いロードで、ロードウエアー、シューズに身を包み、よく仙台から松島くらいまで行っていましたが、今はとても無理です。その当時、サイクルマガジン?でよく憧れたのが、エベレストというメーカのフレームでその金色色のフレームとラグの美しさに将来こんな自転車を持ちたいという夢をみていました。30年前でカンパのフル装備で確か30万円くらいしたと思います。ところが知らぬまに、会社をなくなり、フェラーリの販売するといったことをしていたようです。幻のフレームです。このレニャーノもちょっとした幻のメーカでしょうか?一時はマウンテンバイク全盛でしたが、ようやくロードバイクも人気が出てきたようで、よく街中でも若者は乗っているのを目にします。昔のくせがでてどんなバイクかと見てしまいます。雪国は、冬の間、自転車は乗れません。どっちみち道の両側は冬の間、排雪がたまっています。少し道幅を広くして幅1.5mくらいでいいでしょうから、自転車専用道路にしてくれませんか。白線を引くだけで結構ですから。