2013年1月24日木曜日

私のフリース




 弘前は寒いところなので、冬の防寒着は大切です。歳ととるにつれ、だんだんとセーターが重く感じられ、肩こりにも悩まされますので、ここ数年はもっぱらフリースを愛用しています。

 安いのは色々と買ったのですが、それほど暖かくなく、6年ほど前に東京、上野のアメ横で買ったのが、KAVUのフリースジャケットです。もこもこタイプのもので、非常の暖かく、軽いので、偏愛しました。冬の間中、ずっと使っていましたので、今では、あちこちがフェルト状態になっています。胴のところがリブ編みになっているので、便利です。

 家内が同じものばかり着ていると汚いということで、3年前のクリスマスプレゼントで買ってもらったのが、Marmot のフリースです。アウターに着るのか、インナーで着るのかでサイズが違うのですが、これはサイズがXLで、インナーに着るのは少し大きいようです。ただこの商品は、胴部分のストレッチがきかず、動きにくいため、やや不満があり、あまり着ていません。もう少し小さなサイズにすればよかったと思います。

 そこで昨年、買ったのが、パタゴニアのフリースパーカーです。袖のところはストレッチの生地を使ったもので、最初は気に入って、使っていましたが、最近は着る機会も減りました。どうもフードがついているのが、部屋で着ている時に気になります。部屋の中では全くセーターと同じ使い方をしますので、フードは必要なく、むしろ邪魔になります。

 一番、最近買ったのがパタゴニアのR2というタイプです。評判はいいのですが、あまりに高く、これまで買うのをためらっていました。ユニクロのものなら10枚は買えます。30%引きで売っていましたので、思い切って買ってしまいました。結論から言いますと、これは最高のフリースです。細部にわたってよく工夫されていて、非常に動きやすいものです。洋服一般に言えることですが、着ていて軽く感じる服は、服そのものの重さというよりは、体の動きにどれだけ、フィットするかということになります。その点、このパタゴニアのR2は部分部分にストレッチ素材を使っていて、また襟のところは、肌にやさしい素材を使うなど、色々と工夫されており、着ていて非常に軽く感じます。また薄い割には保温能力も高いと思います。店でR1R2、R3を試着しましたが、インナーとして着るならR2が最高でしょう。今はヒートテックの下着、タートルネックの上にこのR2を着て、そしてごついダウンジャケットを着ます。ほぼ厳寒期でも十分です。家に帰ると、ダウンを脱いで、後はR2のみとなります。色が赤しかなかったので、この歳では少し派手かと思ってしまいますが、まあ早めの還暦かと思い、KAVUのフリースと交代で着ています。

 いつも思うのですが、こういった軽くて、動きやすい衣料は、年配の方ほど便利なもので、以前おふくろにモンペルのナイロンのダウンベストを送ってところ非常に気に入ってもらいました。その後、ダウンジャケット、フリースジャケットも送りましたが、今度はパタゴニアにしようかと思っています。ただ年寄りの場合、調理中に火が服に燃え移る心配もあり、出来れば不燃性のフリースがあったらと思います。

2013年1月21日月曜日

鳩山由紀夫、国賊?




 鳩山由紀夫元首相が中国を訪問し、尖閣諸島を係争地と言ってみたり、南京大虐殺記念館を訪問したことについて批判の声が強く、小野寺防衛相は「国賊という言葉が一瞬、頭をよぎった」と発言している。

 鳩山氏は今では議員でもなく、民主党との関連も薄いので、訪中しても中国政府としては元首相という以外、興味のない人物であるが、今回の訪中に際しては中国政府要人との面談始め、現地マスコミの取り上げも大きい。これに対して日本の新聞、マスコミでは中国政府の宣伝にうまく使われた、またおかしな行動を行ったと99%非難されている。

 この周りから非難が集中している状況が、やや気になる。元首相で、その影響は大きいのだから、言動には注意してほしいということだろうが、本人は確信犯的に行動しており、これは彼自身のポリシーなのであろう。いわば大アジア主義の復活である。日本の右翼は、戦前は反米であったが、戦後はいつのまにか親米となり、かってのアジア主義は右翼からも左翼からも相手にされない状況になっている。アジア主義とは、簡単に言えば、欧米を中心とした白人至上主義を拒否し、アジア人で団結し、白人と決別する思想である。実際は、日中が協力して、欧米、とくにアメリカと対抗したアジアの連帯を作ることをさす。大川周明、北一輝など戦前の右翼思想の流れである。どうして人種が近い、アジア人同士が喧嘩し、差別する白人の奴隷となるのか。日本人は白人並みと扱われているが、白人は裏ではばかにしている。日中、日韓の軋轢は、アメリカの思惑通りである。ECのようなアジア共同体を作ろう。こういった考えは、中国が共産主義国家ということを除けば別におかしな考えでもないし、対米協調外交とは逆の立場であるが、議論すべき内容でもある。

 尖閣諸島を係争地でなく、何ら話し合う必要もないのであれば、どうして戦闘になる可能性を騒ぎ立てるのであろうか。問題がないと主張し続ける限り、双方の話し合いはない。話し合いのないまま、中国空軍、これは過去の事例からすれば、パイロットの命令違反があることから、挑発行為、自衛隊機との交戦の可能性はある。もともと大同小異のために、尖閣諸島は棚上げされてきたが、それを再び、問題化したのは石原元都知事で、日中間の騒ぎを起こした張本人としての責任は鳩山元首相より大きい。

 孫文の神戸での有名な講演で、「貴方がた、日本民族は既に一面欧米の覇道の文化を取入れると共に、他面アジアの王道文化の本質をも持って居るのであります。今後日本が世界文化の前途に対 し、西洋覇道の鷹犬となるか、或は東洋王道の干城となるか、それは日本国民の詳密な考慮と慎重な採択にかかるものであります。」の言葉の意味は大きい。

 安部首相がベトナム、タイ、インドネシアを訪問したが、アジア外交を重視する姿勢は評価される。ただ中国包囲網としてこれらの国を考えるのはおかしい。先の太平洋戦争に至った原因についても、何度も和平のチャンスがあったが、国民感情に流されて対米戦争に踏み切った。最後の日米交渉、ハルノートにおいても、アメリカ側の主張は満州、朝鮮の日本の権益は認める、中国からの撤退、三国同盟からの離脱であり、元々中国との戦争は陸軍も望んでいないことであり、三国同盟を離脱しても日本の損益には全く関係のないことであり、十分に飲める話であった。ただ国民が何よりも戦争を望んでいた。その結果があれだ。国民の好戦的感情を煽った朝日新聞、はじめ大新聞の責任は大きい。また珍田捨巳のようなアメリカを知る優秀な外交官がいなかったことも大きい。これは現在、北京大学を卒業し、実際に中国で長年生活したきた外交官がいないのと同じである。

 尖閣列島問題についても、あの島のために、すべてを犠牲にして開戦をする覚悟がなければ、これ以上こじらせるのは日中双方とも無意味であろう。日本の外交的な方向は、現在の中国を台湾のような親日、民主国家になってもらうことで、そのためには環境問題、福祉、医療問題など日本が協力できる役割は大きく、一方では民主化を支持する立場をとってほしい。
  
 安部首相は、在野にいた時に、台湾の忠烈祠を訪問し、係員から日本人で唯一祭られている山田良政の説明を受けた。日中、日台を結ぶ人物として山田良政の存在は大きく、対中国、台湾へのアクションとして谷中にある山田良政の墓参を行ってほしい。菅直人元首相が諸般の事情で中止した行事である。こういったアクションを行い、中国側の対応を見るのもまた外交的手法であると考える。

2013年1月19日土曜日

棟方月海、毛内靖胤、效兄弟


 現在、「新明治二年弘前絵図」については、出版社も決まり、原稿を渡し、校正を待っているところである。ただ待っているうちにも、新たな情報が入り、きりがない。おもしろいエピソードがあれば、是非本の中にもいれたいのだが、それをするときりがないため、最近は歴史関係の本は読まないようにしている。それでも古本屋にいけば、つい本を買ってしまうので、そうはうまくいかない。

 「津軽の絵師」(弘前市立博物館 1982)は、弘前藩の絵師、画家を総括的に扱った本である。今日的な観点からみると、青森の画家もそれなりにはうまいのだが、新たな評価を受けるような画家は少ない。京都、江戸から離れた場所では、もっと個性的な絵師がいてもよさそうだが、江戸という時代を考えると、模倣、類似的な表現形態で、あまり面白みはない。唯一、幕末期から明治初期に活躍した画人、国学者、津軽の平賀源内、平尾魯仙の絵は面白い。風景画から人物、仏画と対象は幅広いが、どれもユニークであり、一生郷里の弘前を離れることがなかったせいか、中央では全く無名である。画家としてもう少し評価されてもよい人物である。

 この本の中に、棟方月海のことが出ている。棟方月海(1836-1904,5)は、通称熊太郎、後に角馬と称し、禄200石の上級武士で、その名は蔵主町に見える。おもしろいエピソードがある。版画家の棟方志功家には、昔から棟方月海の絵があった。棟方志功はこの絵をみて自分の先祖は、偉い侍で、有名な画家だったと思い込み、将来は絵描きになろうとした。棟方志功の父親は鍛冶屋で棟方月海とは全く関係はなく、ただ名前が同じであるだけである。完全に棟方志功の思い違いであるが、絵描きになってからも棟方月海を誇りに思い、画業に精を出したという。棟方角馬という人は、戊辰、函館戦争では、仙台の九条総督への使者になったり、軍監として兵を率いたり、維新後も会議局の副長などをしたが、その後は「悠々自適楽酒、明治37,8年ノ頃70余ニシテ終ル」と、書画に親しむ晩年を送ったようだ。

棟方角馬を「青森県人名大辞典」(東奥日報 1969)を調べていると、毛内靖胤(1880-1936)のことが出ている。陸軍航空の草創期に活躍した軍人で、弘前中学校卒業後、陸軍士官学校、大学校、所沢飛行学校、明野飛行学校校長、陸軍航空本部総務部長を努め、最終的には陸軍中将で退官した。毛内の弟の毛内效(1884-1936)は、弘前中学校卒業後、海軍士官学校、大学校に進み、その後は砕氷艦大泊、特務艦武蔵、巡洋艦天龍、那珂、戦艦陸奥の艦長を歴任し、航海術の権威と称せられた。海軍少将に昇進し、昭和7年に退官した。兄弟で陸軍と海軍の将官になるのは秋山兄弟と同じく、珍しい。

 この毛内靖胤、效の父親の名前は、毛内嘉胤という。調べると、弘前藩で用人などを努めた毛内家に繋がる。明治二年絵図では、元寺町に毛内有人の名がある。正式には毛内有人茂胤、この長男が嘉胤となるから、毛内兄弟は名家毛内家の直系となる。さらに言えば、毛内有人の義母、毛内滝子は、歌人として名高く、二男毛内監物良胤は脱藩して、新撰組に加わった変わり種で、後に新撰組の内紛により京都七条油小路で惨殺される。義母の教育により、新撰組隊士の中では珍しく諸芸に優れていた。祖父の毛内有右衛門茂幹も、谷文晁などと親交があり、画家毛内雲林として有名で、毛内家は諸芸の才があるひとが多かった。

 棟方、毛内(もうない)という姓は、青森ではそれほど珍しくないが、全国的には少ない姓であろう。


2013年1月15日火曜日

日本の部活



 大阪のバスケットボール部主将の自殺問題が話題になっている。体罰の是非については、いろんな意見があるが、元巨人の桑田選手のコメントが最も説得力があった。桑田選手は、体罰は先生と生徒という一方的な上下関係の中で起こるものであり、監督が采配に失敗したからといって、生徒から殴られるかと厳しい意見をしていた。そして昔は練習中に水を飲むことが禁止されていたため、のどの乾きに耐えきれず、便所の水を飲んだ話を紹介し、今のように熱中症を防ぐためにこまめに水を飲むようになったように、体罰でもってチーム、選手を引っぱるやり方は現代流に変えていかなくてはいけないとしている。

 うちの二人の娘、一人はバスケットボール部、もう一人はバレー部に入っていたが、学校の部活動を見ていると、あまりに練習が多く、なんでこんな練習するかと疑問に思うことが多々あった。練習しなくては勝てないということだが、こんなに練習していても一回戦で負ける。確かに生徒のレベルもあるが、これは指導法の下手さに起因するのであるから、負けたからと生徒をしかるというよりは、桑田選手の意見によれば、その責任の多くは監督にあり、生徒から殴られるべきであろう。

 とくに中学校がひどい。多くの運動部の監督は、教職員がしているため、大部分の顧問はいわば、アマチュアで正式な指導法をほとんど習っていない。それなのに練習は毎日、時間をかける。まあ無給、ボランティアでやっていることなので、こちらも文句はいえない面もあるが、家内ともそこそこ、適当にやればいいのにとよく話していた。家内も中高校とバトミントン、私は中高大学と12年間サッカーをやっていたので、まるっきり素人ではないが、どうも効率が悪いのである。ダラダラ練習するくらいなら、週に3、4日でもいいので集中して練習すべきで、先輩が練習する横で後輩が大きな声を出して応援するといった練習は全く無意味である。

 こういった運動部の中ではサッカーが最も練習法が確立されている。ことに地域のクラブチームの練習は、年齢、世代、あるいはポジションに合わせた練習メニューが作られ、個人の才能を伸ばす方法がとられている。ただ中学、高校のサッカー部では未だに前近代的なスパルタ練習法がとられているところもあるが、サッカーは頭が良くないと優秀なプレーヤーになれないので、上から押しつけの練習メニューでは優れたプレーヤーは生まれない。

 学校の先生、とくに中学校の先生ほど大変な仕事はないと思う反面、世間知らずの先生が多い。いつも自分より年齢の低い生徒と接触しているせいか、大人との対応ができない、人間的に未成熟の先生が多い。昔と違い、教員になるのは非常に難しい試験があるため、大学でも真面目に勉強し、そのまま教員試験に合格して教師となる。社会との接点が全くない状態で先生となるので、非常に打たれ弱く、人間的に魅力のあるひとは少ない。ことに体育の先生は、日体大のような体育専門の教育、それもスパルタ式の教育法を受けてきたため、その指導法が一番だと信じきっており、それを生徒に望む。

 六甲中学、高校の時の運動部の部活は週に3日と決められ、それも7時くらいまでだったので、練習時間は実質2時間くらいであった。それでもサッカー部は県大会や近畿大会に優勝したし、他のクラブもそれほど弱くはなかった。うちにくる患者さんの中にも、月1回の診療を部活が忙しくて、来れないという患者さんが多い。オリンピックの選手でもないだろう。よく聞くと、顧問の先生が、練習を一日でも休むとレギュラーをはずす、矯正治療をする暇があれば練習しろというようだ。全く理解に苦しむ。体育会系のみ、こんなことが許されて、父兄にも支持されるのであれば、「勉強部」があって、毎日夜遅くまで、スパルタでしごいても全く問題ないばかりか、有名高校や大学に行けるのなら、子供にとってもよさそうであろう。ただこの場合は、世間の批判となろう。おかしなことである。

2013年1月11日金曜日

六甲学院・修学旅行


 六甲学院のブログは相変わらず、見ている方が多い。それだけ懐かしいということか。私など青森県という日本の僻地に住んでいるため、周りに六甲学院卒業という人は全くいない環境で、それだけで懐かしい。そういったこともあり、娘二人は是非、関西、それも阪神間に住まわせたいと思い、また娘も関西になじみがあることから、現在、ふたりとも西宮に住んでいる。うれしいことだ。

 修学旅行の話をしよう。私の学年、32期は、それまで九州方面が修学旅行先であったが、初めて東北方面に変えた年であった。古い話で忘れたが、確か、新幹線と国鉄で、最初に仙台に行った記憶がある。東北大学を受験希望する学生は、その時に大学キャンパスに見学に行ったと思う。私は行っていない。そのためか、32期から東北大学に行ったのが4名くらいいて、例年になく多かった。松島の旅館に泊まった記憶がある。海辺の新しい旅館で、何でも前日に神戸女学院が泊まったという噂があり、この布団で神戸女学院の学生が泊まったのかと、みんな興奮していた。不良グループの我々は、各自、ウィスキーなどの酒を持ち込んでいたが、初日ということもあり、この日は控えた。夜になると現代国語の平井先生が見回りに来たが、特に異常もなく、セーフ。その後、スナックに行こうと数人でホテルを抜け出して、松島の街に出て薄汚いスナックでコークハイを飲んだ記憶がある。

 その後、岩手の浄土ヶ浜、盛岡での椀子蕎麦、八幡平と北上した。八幡平では山上の池で人気者の上田くんを、みんなで煽てて、11月という寒い最中に泳がせ、観光客からも拍手喝采された。ここでは制服が似ていることから、学習院の修学旅行ということにした。毎日、夜になると酒盛りで、朝起きると二日酔い、バスの一番後部で熟睡という旅行であった。酒臭かったであろうが、先生も見逃してくれ、とくに怒られもしなかった。その後、青森の十和田湖、奥入瀬などを見て、最終地の弘前に入った。

 弘前で、友人と駅前の喫茶店に入り、コーヒーを注文したところ、何と砂糖壜に塩が入っていた。私は記憶していないが、友人によれば、ここで私が「弘前というところはコーヒーには砂糖の代わりに塩を使うんだ」と言ったという。もちろんそんなことはない。駅から弘前城に行く道、中央通というが、そこに「珍萬」という中華料理屋があり、大笑いしたことや、「ソニープラザ」があり、当時、三宮「さんちか」にあり神戸っ子には親しまれていたが、その同じ店がこんな田舎にもあると驚いた記憶がある。夜、弘前駅に到着し、確か、お城近くの小堀旅館に泊まった記憶がある。弘前駅から夜行で大阪に戻ったが、それ以降、修学旅行先に東北が選ばれたことはないのであろう。まさか、修学旅行先に永住しようとは当時は全く思わなかったが、不思議な縁である。こちらでは会う人ごとに高校の修学旅行に弘前に来たというと驚かれる。

 話が変わるが、六甲学院にも学園闘争の影響があったことはあまり知られていない。中学2年生、昭和44年(1969)ころの話である。当時の高校2年生(27期?)が頭髪問題で騒いだ。兵庫県でもほとんどの高校では長髪が許されていたが、六甲高校のみは丸刈りであった。高校生となるとおしゃれ心もあり、坊主頭はさすがにかっこわるく、1cmくらい伸ばしたりもしていたが、これをシュワイツエル校長が校門の前でチェックして、検閲に引っかかると、帰させられた。当時、東大紛争など学園闘争が活発で、高校生にもその影響があり、灘高校や神戸高校など名門高校にもセクトができて学園闘争が行われていた。作家の中島らもさんも灘高校でがんばっていたようだ。ちなみの私の実家の歯科医院は中島らもさんのお父さんから借りていた。六甲学院にもそういった動き、気配は山の上にも伝わり、なんぼなんでも今時坊主頭はないだろうと騒いだのが、この頃であった。私は中学2年生くらいだったので、詳細は知らないが、集会などが行われ、教師、校長とも何度か話し合いがあったようだ。面白いのは、生徒間にも坊主頭賛成派もいて、訓育生のメンバーは最後まで坊主頭を貫き通した。また長髪は許されるようになったが、耳が隠れるような長髪まではダメと生徒が自主的に制限を作った。これが私たちが高校生になった時に、効いてきて、ちょっと散髪に行き忘れると先生から注意された。古いOBからは昔はもっと厳しかったと言われるが、この当時から徐々に六甲も世俗化していったのだろう。それもまたいいではないか。


2013年1月9日水曜日

弘前の冬の楽しみ


 かれこれ10年以上、英語の勉強会をしている。といってもただの飲み会のため、ほとんど英語力の進歩はないが。今日は今年初めての集まりで、年末年始、どこに行ったかを報告しあった。

 私は、ブログでも述べたように年末、浅虫温泉の割烹旅館「さつき」に行ってきたが、友人の一人も偶然ではあるが、昨年の夏にここを訪れたようで、旅館で飼っている猫に興味を持ったようだ。料理がうまい点では意見が一致した。

 他の先生は、嶽温泉の「山のホテル」で泊まった。年末でひどい吹雪で行くのが大変だったようだが、料理はまあまあと言っていた。もう一人の先生は、平賀の「南田温泉アップルランド」に家族で行ってきたようで、一人1万円で料理もうまく、部屋もきれいで、非常に満足したようだ。ここは二度ほど泊まったことがあるが、泉質の若干違う二つの温泉があり、気軽な温泉である。名前は野暮ったいが、それでもいい温泉である。さらにもう一人の先生は、大鰐温泉の「不二やホテル」に行ってきたようだ。温泉、料理ともまあまとのことであった。

 こうして見ると、4人の先生、みんなが年末年始、どこかの温泉に行ったことになる。青森の暮らしてみると、温泉が近くにあるため、本当に手軽に温泉旅行に行ける。上で紹介した温泉でも、浅虫温泉は遠くて弘前から1時間半かかるが、嶽温泉は車で30分くらい、大鰐温泉、南田温泉も20分くらいで行ける。費用も大体1万円から2万円で2食付きと考えるとそれほど高いものではない。また温泉の泉質自体も場所により違い、色々なタイプの温泉を楽しめる。もっと安い温泉を探せば、それこそ2食付きで6000円くらいのところもあり、2、3か月に一度、温泉の泊まりに行くことは庶民にとっても決して贅沢ではない。

 さらに日帰りの温泉として好きなのは、大鰐温泉の鰐カムという町営の温泉で、施設も充実している。弘南電鉄のさっパスという券を使えば、往復運賃に入浴料、さらに200円のお買い物券がついて1000円という安さ。家から歩いて10分のところに中央弘前駅があるので、そこから30分電車に乗って大鰐駅に、歩いて5分で鰐カム到着となる。温泉に浸かり、休憩室で少し昼寝して、ビールとラーメンを食って、買い物券で買い物をする。2000円くらいで半日は過ごすことはでき、楽しい。休みの木曜日に行くが、いつも空いている。

 こういう贅沢は東京ではなかなかできないことであろう。アメリカ人の英語講師は、温泉は2泊すべきで、最初の日の3時ころにチェックインし、風呂、夕食、風呂と進み、翌日は風呂、朝食後に近所を散策したり、部屋で本を読んだりし、そして風呂、夕食と進むと非常にリラックスできると言っていた。確かに近場でももう一日余分におれば、よりリラックスできるであろう。例えば、大鰐など何もなさそうだが、それでも何度か行くと、面白いところが発見でき、昭和30年代で時間が止まった町として魅力がある。今度は十和田など近場も一度2泊して行ってこよう。ただ冬だけは外に出るのが厳しく、それ以外の季節となろう。

2013年1月6日日曜日

尼崎、昭和30年代


 私が生まれたのは、昭和31年。もはや戦後ではないが、まだみんな貧しい時代であった。一日一日を一生懸命働き、そして生きる時代であった。それでも食うに困る時期は過ぎ、少しずつではあるが、金を稼ぎ、何か楽しいことを夢見る時代でもあった。

 私の家は尼崎、東難波町にあり、建坪、10坪の狭い家で、一階は待合室と診療所、そこには2台の歯科用ユニットがあり、その奥に6畳くらいの台所があった。ここで親父、お袋、兄弟3人と、不思議なことに住み込みのお手伝いさんがいた。記憶にはないが、さらに祖母もいたので、都合7人が暮らしていたことになる。

 円卓を囲んで、親父以外の家族はここで食事をするのだが、毎日、煮物、魚、小松みどりが歌っていたが、コロッケがごちそうであった。親父は朝9時から働き、患者さんが少なくなった時を見計らって昼食、夕食をとっていた。5分くらいで食べていただろうか。すぐに待たせていた患者さんの治療を再開する。その後、夜の10時ころまで仕事をし、1時間ほど技工をしてから、尼崎の繁華街に消えていく。毎晩、帰りは3、4時で、また働いて、飲む、これの繰り返しであった。

 歯医者といえば、金持ちのように思われるかもしれないが、昭和30年代、子供心にサラリーマンはいいなあといつも思っていた。これだけ働いても収入はそれほど多くなかった。お袋も受付をしていたので、子供たちは夕食が終わると、2階に行く。6畳二間で、テレビもなかったので、よく隣のクリーニング屋に見に行ったものだ。テレビが我が家に入ったのは、5歳くらいの時で、2階の一番いい場所に置かれ、普段はカーテンでスクリーンが覆われていた。よほどテレビが珍しかったのか、朝から晩までテレビを見ていた記憶があり、未だにその習慣は続いている。

 近所には家の前には、お菓子屋さんがあり、右半分はすべてガラスケースにお菓子が入り、それをハカリで量って売っていた。他の場所にはキャラメル、ドロップ、チューンガムなどが置かれ、店の左側には関東煮のコーナがあり、クジラのベーコンなどを売っていた。隣はクリーニング屋、他には牛乳屋、餅屋、味噌屋、酒屋などがあった。酒屋の奥にはカウンターがあって、スルメや関東煮などをつまみに、労働者が仕事帰りに酒を飲んでいた。いまと違い、人通りも多かったし、店も多かった。未だに残っているのは、散髪屋(ホープ)、薬屋、牧病院(もうすぐ廃院)、朝日新聞集配所くらいで、他の店はすべてない。50年の歳月は長い。

 当時、子供はどこで遊んでいたかというと、それぞれグループで縄張りのようなところがあり、多くは舗装されていない横町の小道で、ここでビー玉、ベッタン、こまなどで遊んだ。子供は学校から買えると、ランドセルをうっちゃり、母親から10円をもらい、駄菓子屋で一時遊んだ後、ビー玉、ベッタンなどをもって遊び場に行き、日が暮れるまで遊ぶ。小学校2、3年になると当時、銀玉鉄砲がはやっており、私の場合は、通常のピストルと、いわば機関銃のような大量に撃てるもの、さらには2Bとよばれる一種の火薬で、これはコンクリなどで擦ると着火できる仕組みになっており、手榴弾のような使われ方をした。2Bを相手に投げて逃げるところを銀玉鉄砲で撃つというものである。といっても別に死ぬ訳ではなく、撃った銀玉はできるだけまめに拾う。2Bには、爆発力の強力なタイプも後に販売するようになったが、牛乳瓶が破裂するほどの破壊力で、しばらくすると2Bも銀玉鉄砲も禁止になった。中学になり、神戸、芦屋、西宮の友人に聞いたが、2Bについては、どうやら尼崎、大阪ではやっていたようだ。


2013年1月1日火曜日

浅虫温泉


 年末の1230日から31日にかけて、青森県浅虫温泉に出かけた。昨年は大鰐温泉、一昨年は尾上のアップルランド、その前は鯵ヶ沢のホテルグランメールと最近は近場の温泉街を一泊で出かけている。

 今回は、浅虫温泉でも料理のうまいと定評のある割烹旅館さつきに泊まった。8部屋しかない小さな旅館だが、いきとどいたサービスと料理は、うれしかった。最近は、夕食、朝食を部屋ではなく、食堂で食べるシステムが多いが、ここでは仲居さんが夕食、朝食を部屋に運んでくれて給仕してくれる。昔はこういった旅館が多かったが、今の時代ではかえって新鮮な気がした。料理は申し分ないが、関西人の私にはやや味付けが濃かった。ただウニ、刺身、カニ、あわびなど魚介類は絶品で、本当にうまかった。さらに朝食は、夕食に負けないくらい、ボリュームがあり、うまい。久しぶりにこんなに多く食べた。

 温泉は、やや塩分のある透明な湯であるが、発汗作用が強く、入浴して1時間しても汗が次から次へと出てきてまいった。こじんまりしたいい温泉であった。部屋は少し古いが、それでも隅々まできちんとした清掃とおもてなしの工夫がされていて好感がもたれた。完全に日本旅館を堪能したいひとには、いい旅館で勧められる。料金は税、サービス、追加の酒込みで一人2万円弱であった。

 翌日は、浅虫水族館に行った。すごい風と寒さで、体が飛ばされそうになるくらいの強風であった。新しく買ったペンフィールドのダウンパーカの性能を知るにはもってこいの気象である。ジッパーを完全に上まで持ち上げ、フードをかぶり、強風に立ち向かう。ファッション性を重視したものでは、すぐにフードが飛ばされるが、このペンフィールドのダースビルジャケット(Dyersville jacket)は、フードの部分にもワイヤーにより補強され、完全に風が入らない構造になっていて、本格的である。今、Amazonでは45000円の半額で買えるので、機能を考えるとお得である。ただボタンが木製の棒でこれをポケットの孔に入れる構造となっているが、これは面倒である。通常のホックで良かったのであろう。ナイロンシェルのダウンは軽いが、こういった寒くて強風の場合は、ナイロンよりはゴアテックスや、60/4070/30の方が風を通さないないため良い。浅虫水族館の目玉はイルカショーでこれは子供向けとは馬鹿にできず、けっこう面白いし、かわいい。子供連れのお客さんが多かったが、何もデズニーランドだけが娯楽ではなく、こういったそこそこの規模の観光施設も私自身は好きで、仙台の八木山動物園、鹿児島の平川動物園、与次郎ジャングルパーク、宮崎のこどものくに、関西では阪神パークや王子動物園も好きである。何度行っても、落ち着くからであるし、子供もそうであろう。

 青森は温泉王国で、まだまだ近場にいい温泉街があるので、温泉泊まりも当分やめられそうにない。