2009年12月25日金曜日

もうひとつの「坂の上の雲」



 有坂成章(ありさか なりあき)という人を知っているだろうか。日本陸軍の主要な歩兵銃として有名な38年式歩兵銃を作ったと言えばわかる人もいよう。元々は村田銃の後継として明治30年に開発された30年式歩兵銃の部品数を少なくして改良したのが、38年式歩兵銃で、太平洋戦争でも日本陸軍の主要歩兵銃として活躍した。

 うちの親父も、38年式歩兵銃を評して、アメリカ軍が機関銃でがんがん打ってくるのに、日本の銃は一発ずつしか撃てない、これではアメリカには勝てないよと言っていた。司馬遼太郎も同様なことを言っており、日本陸軍は明治に使われた銃で近代化されたアメリカ軍と戦うはめになった、何と不幸かと。

 兵藤二十八著「有坂銃」(光人社NF文庫)を読むと、こういった批判が的外れであるばかりでなく、日露戦争の真の勝因はこの30年式歩兵銃であり、これを開発した有坂成章に栄誉が与えられるとしている。

 日本では、30年式、38年式歩兵銃とされるが、世界ではArisaka rifleと言われ、いまでも命中率が高いのでハンティング用に使われており、人気も高い。銃の特性とは、基本的には火縄銃から変わることはなく、発射速度が速いほど、遠くまで、まっすぐに飛ぶ。撃ちだされた弾丸は、ゆるやかな弧を描いて飛ぶが、その最も高い点が「最高弾道点」と呼ばれ、その弾道点が低いほどまっすぐに飛び、命中率の高い銃だといえる。これを達成するためには火薬量を増やせばよいが、そうすると銃本体がよほど頑丈な構造でなくてはいけず、重い銃となる。もうひとつの方法は弾丸の口径を小さくすることで、有坂銃は後者の方法をとった。というのは、日本人は体格が小さく、重い銃を持てないこと、反射時の反動に耐えられないこと、必要な携帯弾丸重量を軽くさせることなどが理由にあげられる。また弾丸が小さいとそれに使う金属、火薬の節約となるからである。こうして30年式歩兵銃の口径は、日露戦争当時でも小さい、6.5mmとなった。最高弾道点は射程距離500mで1.20m、ロシアの1891年式歩兵銃が1.45m、ドイツの最新式1898年式ライフルが1.5mと同時代の銃に比べて最も命中率が高い。

 日露戦争当時、日本陸軍の野砲の性能はロシアに負けていたし、常に砲弾も不足していたが、こと小銃に関してはロシアに性能的に勝っていたし、弾丸製作も簡単なため十分量の予備があった。彼我の野戦軍が3000m以上離れた時はロシア軍が大砲性能で有利であったが、逆に距離400m以内になると俄然有坂銃の性能により日本軍が有利になった。そしてこれが日本軍の勝利をもたらした。余談だが最新のアメリカのM16においても5.56mmという小口径銃弾が使わている。

 なおボルトアクション式(一発ずつレバーを引いて玉ごめする)有坂銃は太平洋戦争まで使われたが、このタイプの銃は何も日本だけではなく、アメリカ、イギリス、ドイツ、ソ連でも使われており、完全に自動小銃化できたのは太平洋戦争中期以降のアメリカ軍のみであった。全歩兵の自動小銃化をするためには、銃製造、銃弾製造ともに大規模な生産体制が必要であり、当時これが可能であったのがアメリカだけであり、日本ではとても無理であった。また数撃ちゃ当たるという発想も日本軍にはなじめず、命中率からすれば自動小銃化は不必要と判断されたし、当時の主要作戦地は中国、ソビエトの平地部を想定しており、まさか南国のジャングルで戦うとは想定していなかった。

 日露戦争の銃および砲のほとんどの開発を天才有坂ただ一人に任せられた点でも明治の近代化と日露戦争の勝利がじつに綱渡り的なものであったことがわかる。若くても優秀なやつに仕事をバンと任せる明治の指導者の太っ腹さと、その責務を全うした有坂の姿もひとつの坂の上の雲でなかろうか。

*youtubeで「arisaka」で検索すると、アメリカでは普通に子供が銃をおもちゃがわりに撃っている。これを見るともともと好戦的な人種かと思ってしまう。弘前市在住の漫画家 山井教雄さんの近著「まんが現代史 アメリカが戦争をやめない理由」(講談社現代新書)も、狂ったアメリカ社会を痛烈に風刺している。

2009年12月24日木曜日

Q&A 矯正歯科治療はいつから始めるのがいいでしょうか?





 こちらに来院される、あるいは講演などでお父さんやお母さんから、「矯正治療はいつから始めるのがいいでしょうか」とよく質問されます。これに対しては、師匠である鹿児島大学名誉教授の伊藤学而先生はよく「始めたいと思った時期が一番いい時期です」と答えていました。私のこれに倣って「いいタイミングとは今です。子供に治療をさせた方がよい、子供が治療したいと思う時が一番いい時期です。」と答えています。

 現代の矯正治療では、手術も選択肢に入れるなら、成人になっても治療は遅いということはありません。下あごが上あごより大きく、噛み合わせが逆の反対咬合では、手術で下あごを後ろに下げることで治療は可能ですし、逆の上顎前突でも同様です。また治療期間や治療の大変さも、子供の時にするのとそう変わりません。

 子供のころから治療する場合は、一般的には二期の治療を必要とします。永久歯がすべてはえそろい、あごの発育が終了する中学2,3年までの時期を一期治療、その後の治療を二期治療と言います。あごに問題がある反対咬合では、あごの発育が完全に終了してから二期治療を始めるので上記時期よりは遅くなり、大体高校生ころから始めることになります。またでこぼこの症例では(叢生)、一期治療は経過観察し、二期治療から治療を開始する場合もあります。

 あごに問題がある反対咬合、上あごが小さい場合(下あごが大きい場合も)では、主として上顎骨前方牽引装置と呼ばれる、上あごの成長を促進させ、下あごの成長を抑制させる装置を用います。6-9歳ころがよく上あごが発育するため、この時期を中心に使います。また上あごが横にも狭い場合は、上あごを横に広げる上顎骨急速拡大装置というものを併用することもあります。またかみ合せが逆だと、上あごが大きくなろうとしても下の歯がじゃまする、逆に下あごが自由に大きくなるため、早めに前歯のかみ合せは治します。上顎前突では、下あごが小さい場合も多いのですが、機能的矯正装置と呼ばれるプラスティックでできた装置で下あごの発育を促進させます。成長期を通じて使用できます。軽度のでこぼこの症例では、上下のあごを多少拡大して、歯が生える場所を作ることも可能です。
 一期治療では、こういった主としてあごの問題も治すことに主眼が置かれます。また指しゃぶりやつばの飲み込み方の問題がある場合も、一期治療でこれを解消したいと思っています。

 二期治療では、マルチブラケット装置と呼ばれる装置が主として用いられ、歯の移動により治療を行います。この装置はそう何度の使用できないため、仕上げの治療としてこの装置を用います。一番自由度の高い治療法ですので、中学生以降の矯正治療と言えば、この装置をさします。

 簡単にいうと、一期治療は成長期に行われ、成長誘導という、成長を正常化することで正しい歯並びにするという考えに基づいています。小児歯科にいた私には、この成長誘導という考え方は馴染み深いものですが、実を言うと学問的にはコンセンサスは得られていません。あごに問題がある骨格性反対咬合については、上顎骨前方牽引装置にしても、あごの発育を押さえるチンキャップと呼ばれる装置にしても、その人のもつ遺伝的な骨格は変えられないというデータも数多くあり、その理論に基づく先生はいっさい使用しません。同様に上顎前突に使われる機能的矯正装置についても最近の研究では効果が少ないとされています。そうは言っても、これまでの私の25年間の矯正治療の経験からは、あごの発育をある程度はコントロールすることは可能ですし、一期治療をすることで、二期治療をしないですむケースや、手術をしないですむケースを数多く経験しています。私個人として、一期治療は重要と思っています。

 一期治療をすることで、二期治療を簡単にすることもできますし、6歳や7歳でその後の成長を完全に読み切ることはできないので、何もしないよりはやれることはやろうと考えています。ただあまり子供さんにとって負担が大きいと、肝心の二期治療の時にやる気がなくなりますので、できるだけ簡単な治療で、短期でするように考えていますし、明らかに骨格的な問題が大きい判断したときは早い時期から手術と決定して何もしません。

 個々の不正咬合の治療タイミングについては、仙台で開業している菅原先生の解説がまとまっています(http://shika1.com/orthodontic/02/index.html)。アメリカ矯正学会で早期治療の適用とされているものを紹介していますが、一般のひとには適用を判断するのは少し難しいと思います。子供さんの歯並びをみて、これは治療した方がよいと思ったなら、一度近くの歯科医院か矯正専門医院で相談してください。また患者さんが中学生以降であれば、是非本人ともよく相談してください。矯正治療するのは本人であり、その意見を無視して治療することはできませんので、本人が治療を始めたいと思った時期からでもよいと思います。ただ矯正治療は少なくとも2年以上はかかることは伝えていただき、高校卒業までに終了したければ、少なくとも高校1年生には治療を開始しないといけません。

 治療というと、すぐに装置をつけて歯を動かすことを想像すると思いますが、経過をみることも立派な治療であると考えています。乳歯を適切な時期で抜歯することで永久歯の正常な萌出を促すこともありますし、咀嚼指導や舌機能訓練などの習癖除去も重要です。早くから初めても、遅くから初めても、全体の費用としてそれほど違いはありません(一期の治療で終了するなら安くなることもあります)。乳歯列の反対咬合を除き、不正咬合は自然に治ることはありませんので、治したいと思うなら、自分でいいタイミングを判断する必要はなく、来院して相談していただければと思います。

 上記のビデオは、お金がなくて矯正治療受けられない子供達にボランティアで治療しようというsmiles change livesの活動を紹介したものです。残念ながら、日本ではこういった行為は難しいと思います。無料で治療しても、それ相応の収入があったと見なし、申告しなければいけないという税法上の問題があるからです。

2009年12月17日木曜日

冬の防寒着




 私が大学生の頃に、ちょうど「ポパイ」という雑誌が創刊されました。創刊号から夢中になり、この雑誌のポリシーにずいぶん感化されました。当初は、ロス、サーフィンといったアメリカ西海岸のファッション、文化の紹介が多かったのですが、次第にヨセミテ、ショイナード(パタゴニア)といったアウトドアの内容(当時はヘビーデューティーと言っていました)が多くなってきました。

 当時の冬のファッションというと、シャツはカンタベリーのラガーシャツ、ズボンはリーバイスの501、シェラデザインのダウンベストとマウンテンパーカ、靴はレッドウィングのワークシューズ、あるいはトニーラマのウェスタンシューズというのが理想的なファッションアイテムでした。ただ学生には高くて、とても手が出ませんでした。

 私の学生当時の冬の格好というと、カンタベリーのラグビーシャツと501は何とか買えましたが、ダウンベストはフェニックのナイロンシェルのもの、ワークシューズは無名のものと、貯金をはたいて買ったノースフェースのマウンテンパーカという格好です。ノースフェースのマウテンパーカ(写真上)は確か1978年ころ仙台のサイカワというスポーツ店で買った記憶があります。すでに30年以上たちボロボロです。綿、ナイロンの60/40という素材で作られ、緑、青、オレンジの3色があったと思います。その後、青森にくるまでは何とかこれでいけたのですが、さすがに青森の冬にはちょっときつく次に買ったのが、LLビーンのメインワーデンダウンジャケットです。素材はゴアテックスという空気は通すが、水は通さないという新素材になっています。確か、買ったのは1994年で、これもすでに15年以上たちますが、まだまだ現役で使っています。12月からの3ヶ月ほとんど毎日使用しており、冬の防寒着としてはなくてはならない存在です。多少、ダウンが抜け、またベンクロの部分もへたってきていますが、さすがにアウトドア製品のいいところで、頑丈にできています。

 そして最近買ったのが、エディバウアーのカラコラマパーカの復刻ものです。1970年代のものの復刻で、60/40素材を使っており、全体的なシルエットは昔のままです。もっこりとしたダウンパーカで丈の長いものです。タグまで昔のもので、凝った作りになっていますが、残念なことはジッパーまでTALON社製のダブルジッパを使用している点です。やはり耐久性の点からは日本の誇るYKKものを使用してほしかった。あと20シーズン何とか使っていきたいと思います。家内からはちょっとは違った色にすればと言われるのですが、どうもダウンパーカというと緑のイメージがあり、変化がありません。エディバウアーというとスカイライナーが有名ですが、私には丈が短く、復刻ものを見ても、昔に比べて薄くなった気がします。昔のはダウンをぎゅうぎゅうにつめ、パンパンになっていました。

 冬の防寒着としては、クールネックのシャツにフリースのジャケット、その上に上記のダウンパーカを着込みます。当然、下着は防寒用の長いやつ、さらにチノのズボンもフランネルの裏地付きのもの、靴はビーンブーツ、場合によってはソレルのカリブと、ほとんどエヴェレストか南極に行くような格好です。南極観測隊、エベレスト登山隊御用達といった文句にすぐに反応します。手袋も南極探検隊が使ったノルウェーのウールのものを使っています。体が寒さに慣れるどころか、鹿児島にいる時より弱くなりました。

 最近では、ナイロンシェルの軽いタイプのダウンが若者には、はやっているようですが、ナイロンシェルは破れやすく、水に弱いのが欠点です。ただ軽さと小さくできる点は非常にすぐれており、一昨年は母親にモンペルのダウンベストを買ったところ冬の室内着としてはセーターなどよりよほど軽く、暖かいと喜ばれました。昨年はダウンパーカを買ったところ、旅行に行くのに暖かいし、小さくできるのが重宝がられました。年寄りへのプレゼントとしてモンペルの軽量ダウンはとても勧められます。そういえば、昔作家の開高健さんも室内着としてこういった軽量ダウンを愛用していました。

2009年12月14日月曜日

土足厳禁文化



 つい先日オープンしたフランス、パリのユニクロは大盛況のようで、欧米では寿司、日本食なども含めて日本文化がクールと呼ばれて脚光を浴びているようです。とくにフランスでは若い子を中心にアニメがブームとなり、カワイイという言葉は世界語になり、ロリータファッションなどもブームになっており、東京原宿は彼らにとっては聖地のようです。

 私自身、北欧の陶磁器やインテリアが好きで、そういった雑誌はよく買います。スウェーデン、デンマーク、フィンランドの人々の家の紹介を見ていますと、ほとんどの家庭では家では土足ではないようです。大人はスリッパや室内靴、子供は靴下のままのようです。こういった屋内でも土足厳禁の文化は、私の知る限り、日本、韓国、タイ、イラン、トルコなどではありますが、欧米ではもともとなかった習慣ではないでしょうか。ここ10年ほどで急速に広まった習慣のように思えます。Leeという雑誌ではよくフランスの特集をしていますが、フランスでも土足のままの家は少ないようですが、そうかといってスリッパではなく、踵のない室内靴やサンダルを履いているひとが多いようです。一方、アメリカでは、これは留学生に聞いたことですが、屋内で土足厳禁のところはあることはあるが、非常に珍しいとのことでした。こういった家に行くと、そこのお母さんから靴を脱いで上がるように言われるようです。外国人が日本の家にくると、靴を脱ぐようにと言わないとそのまま上がると言われていましたが、今ではそういうことはありません。

 日本で生活し、土足厳禁の生活をした外国人は母国に帰っても、その習慣を続けるということも聞きました。ひとつに土足厳禁にすることで屋内が非常にきれいな状態に保たれることが、とくに主婦から喜ばれ、こういった習慣が広まったのでしょう。欧米では、ベッド以外では土足という従来型以外にも、部屋の中では履き替える、2階は土足厳禁という土足—土足厳禁混在型も多くあるようです。

 逆に日本では、昔スリッパはお客様用でしたが、今では靴を脱ぎ、スリッパに履き替えることが多くなりました。デイパックやダウンウエアなど、1970年代は若者のファッションについても、今や実用性の高さから年配の方にも愛用者が多いように思えます。グローバルーな時代になり、人々にとって便利なものは国を超え、急速に広がるようです。靴を脱いで生活する快適さ、部屋をきれいな状態でキープできる便利さから、屋内土足厳禁の生活習慣はますます広がるかもしれません。

 あと外人が見てびっくりするのは、クロネコヤマトのような宅急便で、自宅まで荷物を取りにきてくれたり、時間指定ができることに感激するようです。また日本のレンタルビデオの安さと便利さにはびっくりするようです。これらは欧米でも必ず成功すると太鼓判を押していました。個人的には、日本のカレーライス(インドのとは違います)は万国共通で人気があり、手軽な家庭料理としてルーが欧米でも普及すれば人気がでると思いますし、家庭用のホットプレートも野外のバーベキュー以外はみんなでテーブルの上で肉を焼いて食べる習慣がない欧米人からすれば、おもしろい調理器具だと思います。

2009年12月9日水曜日

六甲学院校舎


 六甲学院関係のブログは、関係者以外は全くおもいしろくないと思うが、意外にアクセス解析するとドイツ、アメリカなど海外から見ている人もいて、卒業生が多方面で活躍していることがわかる。卒業生で青森にいるのは我一人というしがらみのなさか、好き放題勝手に色々書けるのも楽しい。

 Youtubeを六甲学院で検索すると、70期生という私からすれば、子供の年齢より若い人たちが作った映画があった。タイトルは「バナナのちから」というもので、文化祭で上映されたようだ。B級映画というよりは、C級に近く、けっこう笑える。主人公のちょっと小太りの生徒、微妙にブニョブニョした体型で、70,80年代の台湾コメディーの主人公のような容貌で、といって見たわけではないのだが、この主人公の仕草がおもしろい。

 ほとんど校内で撮った映画だが、40年前とさほど教室もかわらず、ヒルケルさんが昔作った重い木製の机、椅子も健在である。体操服、夏服は昔よりおしゃれになっているが、生徒の気質はそうかわらず、男ばっかりの社会で暇をもてまし、山の中のオアシスで過ごしている。

 以前のブログでも述べたが、映画監督の黒沢清さんは私の一級上で、文化祭で彼の初監督映画を見たことがある。内容は前衛的で、出演者に女の子が出ているのがむしろ驚きで、そんなにかわいくなかった記憶もあるが、映画自体はいわゆる映画好きが自己満足で撮ったようなものだった。それに比べて「バナナのちから」は中学3年生ながら、観客を意識した作りになっており、商業映画としては完成しており?、巨匠黒沢監督に勝っているのではと思ってしまう。

 同級生の古澤くんは宝塚で「エリザベート」などのプロデューサなどをし、現在でも商業演劇の場で活躍しており、また大谷くんはお兄ちゃんの大谷亮介さんを手伝い、演劇のプロデューサをしたりしている。4期下には尾崎将也という脚本家もいて、結構演劇、映画関係者が六甲学院のOBにはいる。

 私の学んだ校舎ももうすぐ新校舎に建て替えられる。そういった点ではこの映画は古い校舎の雰囲気を残す記録になるかもしれない。来年公開の映画「ノルウェーの森」のロケにもこの校舎が使われるようなので、フランス人映画監督トラン・アン・ユンと六甲中学3年生、youtube再生回数22回の山川慎二司くん、両方の撮影による六甲学院の校舎が楽しめる。
*現在、上記動画は削除されています。結構おもしろいのに残念です。

2009年12月5日土曜日

漢名憲和と弘前



 「昭和天皇の艦長 沖縄出身提督 漢那憲和の生涯」(恵龍隆之介著 産経新聞出版)を読む。著者は先に「海の武士道」(産經新聞出版)という駆逐艦「雷」艦長、工藤俊作の感動的なドラマを著したが、本書は昭和60年に自費出版したもので、昭和天皇が台覧し、愛読していたとの話が伝わり、産經新聞から再販されたという経緯をもつ。

 沖縄という辺境の地に赴任した明治の教育者の気概とそれに呼応する生徒の話として、沖縄中学校長排斥ストライキ事件を伝える。当時秋田生まれの熱血教師下国良之助がいて、後に「沖縄の吉田松陰」と謳われるほど、生徒から慕われていた。この下国教頭の突然の免職辞令に対して、漢那らは退校願を出し、決死の覚悟で全校生をまとめあげ、ついには張本人の児玉校長の解任を引き出した。当然、漢那らは中学校中退で、高等学校への進学の道は断たれた。それが後日、海軍士官になる転機となったのであるが。今時、自分の将来をかけてまで先生の仇をうとうとする生徒がいるであろうか。またそうまでさせるような教師がいるであろうか。当時の沖縄の教育を含めて興味深い。

 弘前と沖縄は、距離は離れているが、関連は深い。琉球探検の笹森儀助、琉球学の加藤三吾はいずれも弘前の出身者である。本書にも二人の弘前出身者が登場する。ひとりは海軍兵学校時代の友人の中村良三と、もう一人は昭和天皇の渡欧随員である珍田捨巳である。漢那は海軍兵学校の入学時の成績が123名中の4位、卒業時は3位と非常に優秀であった。一方、中村は弘前中学始まって以来の秀才で、兵学校入学から卒業まで常にトップであったが、薩長出身者の多い海軍の中で自然に南北の辺境出身の両者は友人となったのであろう。

 当初、漢那が艦長を務めた御召艦「香取」の沖縄寄港の計画はなかったが、珍田が漢那の心情を慮った沖縄への寄港を決定した。結局、晩年まで昭和天皇は沖縄への行幸を希望していたが、これが最初で最後の沖縄訪問となった。宮古沖南下中に御召艦香取に飛魚が甲板にあがってきた事件があった。昭和42年の歌会で昭和天皇はこの事件を思い出し、 わが船に飛びあがりこし飛魚を さきはひとしき海を航きつつ と詠み、その思い出を後年まで鮮明に覚えていたようである。

 昭和60年の沖縄国体へのご臨席を要請された昭和天皇は「沖縄といえばすぐに漢那を思い出す。漢那のお陰で大正10年の沖縄にいくことができた」と発言し、国体出席への強い意思を示したが、結局は病気のため沖縄にいくことができなかった。また病床にあった天皇が、沖縄県民会議から送られた平癒祈願の署名簿の中に、漢那という名前があるのを見つけ、「これは漢和艦長の身内の者ではないか」と侍従に尋ねられたとの記述を紹介している。病床にありながら、こういった署名簿にもいちいちお目を通されていたかと思うと、感嘆する。それと同時に、昭和天皇にとって、皇太子時代のヨーロッパ訪問が最も楽しかった思い出であることが、このエピソードからも確認できる。漢那とともに珍田の津軽弁もその楽しい思い出のひとつであろうと推察される。

 後半は、漢那の政治家としての活動を紹介しているが、その中で著者は現代沖縄の政治状況に対して痛烈に批判している。本書を紹介したビデオでもその舌鋒はするどく、沖縄県人以外にはこんなことはとても言えないといった内容なので紹介する。

2009年12月3日木曜日

弘前観光ガイドプランナー養成講座





 本日、ふれーふれーファミリー ひろさきエスコートガイド(代表 一條敦子)主催による観光ガイドプランナー養成講座の講師として講演してきました。矯正歯科のお話はこれまで何十回も講演してきましたので慣れたものですが、今回は「弘前の生んだ偉人 山田良政・純三郎兄弟」というテーマの文化講演?で、いささか勝手が違い緊張しました。こういった雰囲気というのは、ふと思い出したのは、以前鹿児島で栄養士さん、養護教員を集めて食育、食習慣の講演をした時と同じで、一部観光コンベンション協会の男性を除き聴衆はすべて女性で、その熱心さには圧倒されるおもいです。

 来年度から青森にも待望の新幹線がやってきます。観光客の増加を見込んで、地元でもその受け入れ対策が立てられています。そのひとつに観光ガイド、これ自体は桜祭りの季節に地元ボランティアによるガイドが行われていましたが、これを発展させて個別観光客に合わせて地域全体のガイドをしようとするものと理解しました。お仕着せの観光案内にとどまらず、旅行客のそれぞれの要望に合わせた弘前市内のガイドをエスコートして行うもので、そのエスコートガイドにも広い知識と経験が求められます。そのため、こういった講義を聞くことにより知識を高めようとの狙いのようです。

 私も学会や純粋の旅行で、日本は熊本、大分、愛媛、山梨、群馬以外の県についてはすべて行ったことがありますが、旅行の思い出というと、名所、旧跡を見ることも大事ですが、いかに地元のひとと接することができるかが、大事だと思います。今まで一番記憶の残る思い出は、高校生の時に学校をさぼって一人で沖永良部島に行った折、地元の高校生、女の子と知り合い、そこの家に行き、すいかをごちそうになったこと、地元民しか知らないビーチで泳いだことなど、鮮明な記憶として残っています。

 ここでポイントとなるのは、普段あまりに日常化してしまい見過ごされているようなところがかえって観光客にとって面白く、青森市内でいうと今のアウガの地下の魚市場より昔の狭い魚市場の方が断然おもしろい。私の近くで言うと、まずは名曲喫茶「ひまわり」でしょう。そしてハイパーホテル横の岡野建具の「りんご脚立」、その横の情張り鋸やの「リンゴ用の鋸」、さらに行くと宮本工芸の「あけび細工」、さらに南横町の梅の湯、このあたりはしぶいところです。こういったところは観光客がふらりと来るところではないし、私自身もとくに用もないので行ったことはありませんが、エスコートガイドであれば交渉次第で見学ができるでしょう。絶対に通常の観光地廻りでは行けないところ、おまけのようなものが必要であり、それこそが地元に長らく住んでいるコネと人脈を駆使して、一般には開放していないところをガイドするのが、エスコートガイドに求められし、それを公的に支援するのが弘前市だと思います。

 さらに言うと、こういったガイドがいても、それを利用してくれるひとがいないと困ります。当然、幾ばくかのガイド料やガイドの飲食代は観光客持ちになりますが、弘前公園の入場料や他の施設への入館料は、ガイドはただ、一緒につれてきた観光客も20%オフといったサービスも必要でしょう。また旅行代理店やインターネットでの予約以外にも、ふらりとやってきた観光客のために駅あるいはホテルのフロントなどでも気軽に、前日にも予約ができることが望ましいでしょう。またゆくゆくは海外からの観光客、中国や台湾の人々にも、英語、中国語でのガイドも必要でしょうし、そういった人材なら大学にいくらでもいます。

 弘前は東北屈指の観光資源があり、これをどう活用するかが、町おこしのキーとなることでしょう。エスコートガイドの皆様の活躍が、今後弘前の活性化につながるものと信じています。是非とも若いひと達もこういった活動に興味をもってほしいと思います。

 以前ご紹介した禅林街の忠霊塔からの岩木山の風景です。ここからの眺めもいいですよ。