2013年9月22日日曜日

タイムトラベルもの私的ベスト10




 最近はツタヤのレンタルビデオを借りる時、一本はタイムトラベルものを借りることにしています。タイムトラベルものは子供の時から好きで、テレビドラマ「タイムトンネル」にははまりました。当時、NHKで放送していましたが、その構成と手間には驚いたものです。さすがアメリカのテレビドラマは金がかかっていると感心した記憶があります。

 タイムトラベルものは、大別して「戦国自衛隊」、「ファイナルカウントダウン」のような歴史に対する「if」ものと、「ある日どこかで」、「時をかける少女」のような恋愛ものに大別されます。「if」ものもおもしろいが、やはりせつないのは恋愛もので、愛し合う二人と隔てる時はせつない。

 ブログなどを参考に色々なタイムトラベルものを見てきましたが、個人的なベスト10を挙げてみます。

. 「ある日どこかで」 これはエンドレスのせつなさ。何回みても余韻に浸れます。
2. 「言えない秘密」 台湾映画で、配役には多少、年齢的な違和感はありますが、これもはかない。是非、みてほしい作品です。
3.  「オーロラの彼方」 親子の愛情がせつない。名作です。
4.  「時をかける少女」(原田知世主演) 日本映画としては最高でしょう。
5. 「バタフライエフェクト」これは1と3が定評があるが、どちらかというとミステリー系です。構成が凝っています。
6.  「きみがぼくを見つけた日」 純愛ものですが、最後はもう少しハッピーエンドに終わってほしかった。
7. 「ジェニーの肖像」 白黒の古い映画ですが、最初に見たタイムトラベルもので、強い印象に残っている作品です。
8.  「ミッドナイト・イン・パリ」 ウッディアレン監督のタイムスリップものですが、おしゃれです。
9.  「リメンバー・ミー」 韓国映画からひとつ。これもはかない恋の物語です。「イル・マーレ」もタイムスリップものとしてもいいでしょうが、これよりはいいと思います。
10. 「クレヨンしんちゃん嵐を呼ぶモーレツ、オトナ帝国の逆襲」タイムスリップものでは「嵐を呼ぶアッパレ、戦国大合戦」の方がふさわしいのですが、こちらの方が泣けます。

1から3まで、もし見ていないひとがいましたら是非、見て下さい。せつない気持ちになります。他には未見のもの(英語版しかない)として、「トムは真夜中庭で Tom’s Midnight Garden」(アン・フィリッパ・ピアス著)は児童文学としては最高に美しい物語で、映画も期待されます。ただyou-tubeを見ると(英語がわかりませんが)、一番美しい、川をスケートでくだるシーンが少ししか描かれておらず、残念です。

 もし10分だけ過去に行けたら、あなたはどこに行きたいですか。わたしは1973年の7時10分、阪急塚口駅の神戸方面ホームの後方に行ってみたいと思います。当時、好きだった背の高くてかわいい甲南女子(中学一年生)の女の子の姿を一目でも見られればうれしいことです。もう40年経つので、最近は顔がどうしても思い出さなくなりました。さみしいことです。大学6年生(歯学部は6年です)の時に、大学生になった彼女を一度だけ、梅田行きの特急車両の隣の隣に座っているのを見ましたが、それが最後です。

2013年9月21日土曜日

安部首相、南京



 日中関係が1972年の国交回復以来、最悪の状況となっている。尖閣問題、それに続く反日デモが尾を引いている。安部首相と習主席との首脳会議いまだに開かれず、アジアのトップ2同士の関係がぎくしゃくしている。

 日中間の戦争を叫ぶ一部マスコミ、政治家もいるが、私も含め、日中の国民が本気で戦争をしようとは思っていない。先の大戦でもそうだが、真っ先に戦争を仕掛けたのは、マスコミ、学者、扇動者であり、こういった連中は、戦争に負けると、真っ先に逃げ出し、180度言うことを変える。日中、日米戦争でも簡単に戦争になった訳ではなく、多くの戦争回避の努力がなされたにもかかわらず、戦争を煽り立てたのは、朝日新聞はじめマスコミによるところが大きい。

 今の状況で日中友好を唱えるのは、許されない雰囲気であるが、それでも敢えて日中友好のレールに戻ってほしいと希望する。尖閣列島にしても、その象徴的な存在を除くと、少しの漁業、誇張された石油資源がある小さな無人島であり、この島の攻防に日本全国民を犠牲にしても守る意思があるかということだ。日中双方ともその意思はないであろう。であれば、台湾と結んだ漁業協定を中国とも行い、所有権は日本にあるが、漁業については台湾と同様な協定を結ぶ手はある。日本の尖閣列島には人を常駐しない無人島のままにしておくが、中国政府も島には一切タッチしない。もし石油資源を開発する場合は共同ですればよい。いわゆる棚置き論である。プラス漁業権を緩めるのである。

 日中歴史問題については、安部首相と胡錦濤主席の会合で、日中の歴史家が集まり、歴史問題を協議することになった。その報告書もすでに出ている(日中歴史研究会報告書)。南京事件については、虐殺者数は日中の学者で相違はあったものの、多くの中国人が殺された事実は共通の認識として報告されている。このことはきちんと謝罪し、未来思考に向かうべきであろう。

 「毛沢東 大躍進秘録」(楊継縄著)はジャーナリストの覚悟を示した大著で内容は濃い。原題は「墓碑」といい、死を覚悟して書いたものである。そこに描かれる人間関係は、まるで戦国時代、「史記」の世界である。とんでもない悪い奴(毛沢東含む)がいる反面、義の人もいる。例えば、党支部書記の崖日堅という人物は、民衆がばたばた餓死するのを見て、倉庫を開けて食料を飢えた民に配った。義人である。それがどうなったかというと、党籍を剥奪され、一切の職務を解くと、県や村を引きずり回され、餓死した。同様に大躍進政策、大規模な飢餓を非難した安徽省副省長の張懐帆は51日間の批判闘争、200日の監禁を経て、鉱山に送られた。厳しい政治環境の中でも、こういった義の人がいるのも中国である。

 ここで提案である。安部首相が義の人であれば、まず東京の谷中にある義の人、山田良政の碑にお参りすることである。それとは別に南京、中山陵にあった山田良政の碑(かってそこにあった。南京、楓林、棲霞山か?)を再建するように中国政府に根回しし、その除幕のために安部首相が南京に行く。その際に、南京では中山陵とともに、南京大虐殺紀念館を訪れるたらどうであろうか(すでに昭恵夫人は行っている)。この館自体は展示内容については問題があり、首相の訪問はその歴史事実を認めたと負の意味で政治的に利用されうるが、逆に中国革命に協力した日本人を知らせることで正の認識を与える契機ともなる。先に述べた日中歴史共同研究は安部首相の発案でもあり、それを認めた上、南京で南京事件、日中戦争をおわびする場所としては最もふさわしい。これは日中関係を劇的に修復する可能性をもつ。是非とも東京オリンピックに前には中国との関係を修復し、正常な経済状況に戻しておきたいものである。

2013年9月17日火曜日

紀伊国屋書店弘前店30周年記念講演会


 紀伊国屋書店弘前店も今年で開店30周年になるようです。それを記念した事業をやろうということになり、私の方に「新編明治二年弘前絵図」を題材とした講演会をしてほしいという依頼がきました。

 私が弘前に来たのは、1994年ですから、今年で19年となります。その数年前から弘前にはちょこちょこ来ていますが、そういえば当時から土手町には、今泉書店と紀伊国屋書店があり、ここは文化の高い街だなあと思った記憶があります。修学旅行で弘前に来たのが、40年前ですから、その時はなかったようです。

 大阪人にとって、紀伊国屋書店はそれほど馴染みなく、最初に阪急梅田駅そばにできた梅田店ができた時にはその規模の大きさには驚いたものです。それまでは大阪の大型本屋といえば東梅田の旭屋書店で、学生時代はここに行くことが多かったのですが、ワンフロアーでこれほど大規模な店は初めてでした。東京に行く時は紀伊国屋書店の新宿本店、最近はタカシマヤ近くの新宿南店を訪れるのが楽しみですが、どちらかというと今でも東京の本屋というイメージが強い感じがします。30年前というと、紀伊国屋書店は東北でも分店はほとんどなかったと思います。それだけ、どうして県庁所在地の青森市ではなく、地方の小都市、弘前に紀伊国屋書店があるのか不思議に思っていました。これは、紀伊国屋の社長と今の弘前店が入っているビルのオーナーがロータリクラブを通じて交流があり、弘前大学もあるのだから、是非出店してほしいということで弘前店ができたようです。いずれにしても私にとっては、診療所から歩いて5分の距離のところに紀伊国屋書店があるのは、大変うれしいことだし、便利です。ここ10年以上、週に3回は通っています。

 その紀伊国屋書店弘前店から、おめでたい話の依頼が来たので、これは断るわけにはいけません。「ハイ」とは返答しましたが、私でいいのかという思いが、じわじわと湧いてきます。昨年11月に東北大学の13期の同窓会に招かれ講演した原稿がありますので、それを基にと簡単に考えていましたが、よく考えれば、わざわざ聞きにくる方は、すでに拙書を読んだ方です。かなり厳しい質問もくるかもしれませんし、本に書いていないこともしゃべらなくてはいけない、とか色々と悩みます。

 日時は、平成25年9月29日(日曜日)の午後からで、会場は弘前店の上のパークホテルでやることなりました。ただ会場のキャパの関係で、50名制限ということで、予約制にするようです。これはありがたく、このくらいの人数の方が緊張せずに楽です。弘前店のカウンターで受付をしているようです。

 これからまだ日数がありますので、もう少し検討いてみたいと思いますが、「明治6年弘前地引絵図」についても、すべての人名も打ち込み、町別の戸数、間口、奥行き、面積などの集計も終了しましたので、その結果も少し話せるかもしれません。この絵図ではっきりわかったことは、明治初年、おそらく幕末期の弘前と今の弘前市は基本的にはほとんど変わらないということです。道が同じ、道幅も同じ、町名も同じ、さらに敷地もそれほど変わりません。確かにビルができ、大きな道もできましたが、近所の道を見ると江戸時代と同じ場所、大きさで、目をつぶり、平屋の木造の古い家をそこにイメージすることは、それほど難しくはありません。そこには江戸の町並みが現れます。これはすごいことです。グーグル眼鏡のようなもので、江戸時代の町並みを完全に再現した像を作ることは可能でしょう。町を歩くと、そこにはグーグル眼鏡を通じて、江戸の弘前の町が再現されます。将来は、こんなバーチャルな試みが可能になるかもしれません。

最近、吉永小百合さんのCMで有名な、懐かしいジャニス・イアン”At seventeen"の57歳(私と同じ歳)の時の歌です。


2013年9月9日月曜日

弘前地租改正絵図 2


 弘前地租改正地引絵図の解読に取りかかっている。すべての人名と地所の幅、奥行き、面積を打ち込んでいる。絵図では間、尺で表記されているため、番地、所有者、幅については間、尺を打ち込み、メートルに換算して、平均値と標準偏差をだす。面積については、地所が長方形になっておらず、台形の地所が多いので、道に面した幅と、奥行きは左右の平均値をだして、両者を掛けて面積とした、さらに坪でも表記した。こういった計算はエクセルが得意なので、デジタル化した絵図を拡大し、新町から打ち込んでいった。新町、馬屋町、鷹匠町と打ち込み、あとは駒越、西大工町などを残すのみとなったので、中間報告をする。

 新町(荒町)は252番地まであるが、誓願寺も含むため、それを除いた251件の間口の平均が8.9m(SD5.8)、奥行きは38.1m(SD7.2)で、面積は344m2(SD265m2)となる。坪で言えば104坪となる。幅が狭く、奥行きが長い典型的な町家の地所である。幅が平均で4間5尺、奥行きが20間5尺となる。

 侍町の馬屋町は、35軒で、間口は29.6m(SD19.3)、奥行きは40.9m(SD15.7),
面積は1239m2(SD994)、坪では373坪(SD301)となる。馬屋町は馬場に沿った馬師範や馬の厩舎や役所もあったため、大きな地所がある。そのため平均坪数も大きい。さらに藩の重臣の家もここにあるため、間口の広い士族屋敷が並ぶ。幅が16間2尺、奥行きが22間3尺となる。

 鷹匠町は、下級士族の住まいであるが、間口は18.9m(SD7.1)、奥行きは35.6m(SD8.7)、面積は639m2(SD157)、坪では184坪(SD47)で、SDが比較的に小さく、同じ大きさの地所が続く。幅が10間2尺、奥行きが19間3尺となる。

 現在の土地と比べると、間口はそれほど変わらないが、奥行きが長く、家を建てるのは不向きな土地割りである。江戸時代、道沿いに門、そして小庭、家が並び、家の奥は畑となっていた。侍家は町家(新町)に比べると、鷹匠町では間口が約2倍、馬屋町では約3倍であるが、奥行きは侍家、町家ともそれほど違いはなく、間口の違いが敷地面積の差となる。新町では平均100坪、下級士族町の鷹匠町では200坪、中上級の士族の住む馬屋町では300坪となる。今の感覚からすれば地所は広い。広い家は間のみ、狭い家は、間、尺、寸まで測られ、地引役人への付け届けによるものかもしれない。

 さらに道についても、道幅の記載が一部、見られる。新町通りは6間3尺、12メートル、誓願寺通りは6間5尺から5間3尺、13メートルから10メートル、西大工町では4間から3間4尺、6から7メートルと、今の道幅とあまり変わらない。これまで自動車が通れるように後年になって道幅を広げたと考えていたが、少なくも幕末の道幅は現在とさほど変わらないことが確認された。当時、これほど広い道は、馬車の通行を考えても広すぎ、防火(延焼)目的あるいは、排雪用に作られたのかもしれない。

 馬屋町には馬場があり、その大きさは約20間(36m)、長さは140間(255m)と広い。馬を走らせるために馬場は3間2尺の2つの土居で3つのレーンにわかれ、それぞれが幅6間2尺、5間2尺となっている。まるで競馬場のようなコースとなっている。馬場の中に工藤主膳の名があるが、これは工藤他山の思斉堂という私塾で、幕末、馬の稽古もなかろうとと、馬場内に作られたのであろう。

2013年9月7日土曜日

母の本、「夕映え」


母親の本がようやくできた。98ページの薄い本だが、これが戦前の徳島県脇町の姿がよく描かれていて、面白い。9月の始めに大阪に帰省していたが、ちょうど本を送った友人から次々電話やはがき、手紙が母の元に来て、てんてこまいであった。なかなか評判はいいようである。久々に同級生と昔の話を長いことしゃべっていた。

母は大正13年生まれで、描かれている時代は昭和の10年前後のことであろう。日支事変などもあり、社会は次第にどんよりした景色になっていたが、田舎ではみんな明るく、のんびりとすごしていたようである。本を作って最も喜んでくれたのが、母であった。これは経験者しかわからないことだが、自分の文が本という実体をもつものになることは、本当にうれしいものである。母は一応、アマチュア画家としてはそこそこ有名であるが、絵を展覧会に出品し、賞をもらっても、本を出版する喜びとは比較できないと言っている。まして本を読んだ感想が色々な人から聞けるのであるから、これはうれしい。こういった私家本の出版物の多くは、詩集、俳句集、自分史などであるが、これはもらってもあまりうれしくないし、第一に読まない。母は画家なので、一般的には画集を出すものであるが、費用ばかりかかり、これも何だか自慢話で面白くない。そこで内容を昔の脇町、それも戦前の脇町について、書いてもらうことにした。思い出すことを短くていいから、まとめるように指示し、それをあとで編集するようにした。また文だけでは、飽きるので、写真や簡単なイラストをいれるようにしてもらった。

本にすることで、あと何十年しても思い出が形として残る。郷土史研究を通じて、いつも思うのは、どうして文として残してくれないのかということある。昔話の中には、本当におもしろい事実があるが、それを文あるいは本として残してくれないとあっという間に記憶から消える。そういった意味では、母のこの本も戦前の脇町を伝える記録のひとつとなろう。


父の話

 父は農家の生まれで、母のところに養子にきた。何時も和服を着て、外出の時は、いい着物に着替え、徳島県庁に行く時には袴をつけて、戦時中でも和服をきちんと着ていたので、よくお寺さんと間違えられた。大阪へは月一回行っていたが、お膳にお銚子、尾頭付きの魚をつけて真新しい柾目の幅広い下駄、帽子をかぶり、番頭を連れて出かける。大量に仕入れるので大阪の問屋さんも、もてなしいただき、船場の店とか芦屋の本宅とかに泊まっていた。時々、時間をつくって勝太郎や市丸さんの歌を劇場で見たようだ。帰宅してよく話してくれた。仕入れして数日すると荷物が大量に入る。昭和の始め頃は舟で吉野川を渡っていた。猪木運送というのがあり、大きな大八車を二頭の大きな犬で引いていた。商品は大きな木箱に入っていた。何日かは値札つけに忙しい。店の棚の上がいっぱいになる。新品、珍しいものばかり。
 映画館オリオン座の裏のちょっと低いところに長屋があった(映画にもでた)。黒の板をはったような軒の低い小さな家がぎっしりと並んでいた。時代劇に出てくる長屋のようなもので、住民は皆貧乏で子供達が大勢いた。お正月がきてもお餅が食べられない子である(お餅は皆、家でつくから売っていない)。父は子供が可哀想と丁稚に餅を持たせて、子供のいる家に配っていた。
 父がいろいろ役員(公安委員、民生委員)をしており、役場へよく行っていた。ある日、町長とちょっと役場の奥の場所で将棋をしていた時、山から下りて来た人が子供の出生届を持って来た。字を書けないその人は何もわからない。窓口でやりとりしていると、町長が何人目かと問うと、三人目という。町長は「三男(みつお)」とつけておけと言う。これを聞いて父はひとつの命、子供の尊い命が、このように軽々しく決められ、軽んじられることに心を痛め、それより大阪に行き、姓名学の先生の門をたたき、これを修得した。「井川演山」とうい名をいただき、無料で子供の名前をつけた。一人、一人大きな奉書に「命名証」と達筆で書き、きれいな立派な落款を押して、神棚にまつり、それを親に渡していた。立派な人間、健やかに育つようにとの一念である。後年、よく小さい子から大きな子まで名前をつけていただいたといって顔を見せに来た。小さな子が来ると、半紙に包んでお小遣いを渡して、いろいろと励ましていた。
 町には不良が何人かいた。その子供について、よく相談にのっていた。心を入れかえた者を相撲部屋に紹介していた。床山にも何人かなっていた。よく場所ごとに番付を送ってきていた。
 深夜、チンチンと鈴の音がして悲しそうな牛の声。屠殺場に送られる牛馬頭である。翌朝、父は早起きして小僧さんと一緒に道路にころがるふんを片付ける。小僧がなんでこんな汚いことを旦那さんはするんですかと言うと、「汚いものは誰が見ても汚い。一人早起きして片付ければ、朝起きして来た人は皆、気持ちよく朝を迎えられる。朝は一番大事だ」と。
 四年生の時、赤い鼻緒の真新しい下駄をはいて、町の風呂屋に行った。風呂を上がって帰ろうとしたら、下駄がない。下ろしたての初めての下駄。泣きそうになって、その中の一番ましなのを履いて帰り、母に詫びると、父がそばから「仕方ない。だがお前のしたことは間違っている。次の人も次の人もお前と同じことをするだろう。そんな時は中でも一番汚い下駄を選んではいて帰えれば誰にも迷惑をかけないで、嫌な思いをせずに済む」と、父に教えられた。
 私の勉強机の前には未だ二、三年生というのに、熊沢蕃山の「成せば成る 成さねば成らぬ何事も 成らぬは人の成さぬなりけり」 これが大きくなるまで貼られていた。父の字で。
 戦局がいよいよ激しくなり、北支戦線から兄が一時帰り、再び出征した。明日、入隊という日に、父は家伝の日本刀を兄に渡し、「チャンコロ(支那兵をこう呼んでいた)にも親がおり、決してこの刀を使って人を斬ってはいけない。自分の身を守る時以外は使ってはいけない」。出征する時、兵士に贈る言葉は「お国のために立派に死んで手柄を立てよ」。これがはなむけの言葉だった時代、父の親心、精一杯の愛情の言葉だったのだろう。当時、こんな言葉は言えなかった時代である。八人兄弟の中のたった一人の息子をどのような気持ちで死の戦場に送ったことだろう。君死にたまうなかれ。そんな兄はそれっきり、ビルマ、インパール作戦に加わり、行方不明。何年かしてから戦死の報せがきた。