2008年3月30日日曜日

山田兄弟 8




 平成22年(2010)が山田純三郎の没後50年に当たることから、東京在住のある人にメールで何らかのアクションをすべきではと相談したところ、山田兄弟の事跡は日本ー台湾ー中国を結ぶ共通応答と日本のセキュリティーにとって重要な意味をもち、弘前ー台北ー南京の三角軸にアジアの意思の象徴をみるとのコメントをいただいた。私自身、山田兄弟の知名度の低さを嘆き、多くのひとにその事跡を知ってもらいたい、とくに地元弘前の人々に知ってもらいたいと単純に考えていた。非常に興味ある指摘である。

 先の台湾の総統選挙では久しぶりの国民党が勝利し、国父である孫文の評価も高まるであろう。同時に中国においても天安門に毛沢東の肖像画とならび革命の父としての孫文の肖像画が春節、五一、国慶節に飾られるようになった。中国と台湾が孫文を起点にして交流を深めていく戦略である。先の太平洋戦争では、日本は中国を侵略したことは間違いない。19世紀的な乗り遅れた帝国主義に感化され、大陸への領土を求めた結果である。強国を目指すが、国土が狭く、資源もないこの国ではしかたがなかった点もあろうが、侵略は侵略である。この点について、日本と中国は合い通じることは難しい。ただその前の辛亥革命に関して言えば、日本人でありながら、この革命に参加し、協力した山田兄弟の存在が着目される。中国、台湾にとっても山田兄弟の事跡に感謝せざるを得ないし、その日中親善にかける情熱は今後の日本ー中国関係の範となれよう。

 日本の外交的な対中国戦略は、日本に友好的な国になってもらうことであろう。台湾と日本のような関係であれば、現在日本と中国を取り巻く多くの問題点も解決できよう。その言った意味から孫文を軸として、山田兄弟をキイとして日本ー台湾ー中国の新たな関係を作ることは、日本の安全保障上にも必要なことかもしれない。同時に台湾でも日本語の話せる世代は次第に減ってきており、従来のような親日的な国ではなくなることも危惧される。残念なことには日本ー韓国には、山田兄弟に相当する人物を知らない。

 辛亥革命のために、孫文ー山田兄弟は何度も、日本に対して、軍事的な援助を求め続けた。その都度、日本政府は煮え切らない態度をとり、失望させ続けた。最後には、アメリカが国民党を、ソビエトが中国共産党を支援し、その結果、中国と台湾の成立をみた。親米、親露国の樹立を目指したアメリカ、ソビエトのやり方が20世紀的な考え方で、あくまで領土的支配を目指した日本は19世紀的な考えであったのであろう。もしあの時、朝鮮、中国に孫文のいうような政策をとっていれば、不幸な太平洋戦争の起きなかったし、隣国に親日国家が存在することはアジアの平和、安全保障上でも重要な意味をもつ。そういった意味で、賢者の指摘通り、山田兄弟の事跡は今日的な意味をもつ。

 山田純三郎の没後50年に対して、何らかの記念行事をこの弘前で行うことはそういった意味でも重要である。中日、台日の友好のシンボルとして、中国政府あるいは台湾の協賛を得ることも不可能ではない。また孫文と山田兄弟の交流を知る多くの資料が愛知大学にあることから、山田兄弟の意思を継ぐ手段として貸し出しも可能であろう。「仁あり義あり、心は天下にあり」(1992)の著者で、今や売れっ子の保阪正康氏も、未だに山田兄弟への愛着は強く、講演者として適任であろうし、前出の本にしても文庫化が望まれる。山田兄弟の事跡を評価し、研究する人は存外に県外に多く、協力もいただけるであろうし、日本政府としてもこういったアクションを後押しすることは日中間の関係修復を図る上でも、有効な方法と思われる。

旧藤田家住宅(太宰治まなびの家)




御幸町の弘前厚生学院の前にある旧藤田家住宅です。保存会に入っていたため、出来た時に(平成18年)にも一度行きましたので、二度目です。この家の保存に運動された故小野正文先生はじめ、関係者のご尽力には頭が下がります。当時の青森県の木村知事は、箱もの知事と呼ばれ、批判も多かったようですが、即断でこの住宅を保存していただき、最後の置き土産となりました。今の知事では無駄使いはしないため、おそらく保存できなかったでしょう。
 太宰治は、今でも大変人気があり、この家は太宰が弘前高校に通っていた1927年から1930年まで過ごしたところです。親類の藤田豊三郎の妻が津島家(太宰の里)の分家筋であったことから、通学に便利ということでこの家に住むようになったようです。御幸町は第八師団が近いことから、将校の官舎や下宿が多くあったところで、当時の写真を見ると比較的小さな家が並んでいたようです。その点からみると、この家は当時付近でも、モダンで豪奢な建物だったのでしょう。写真下の六畳の間に太宰は下宿していたようで、その隣の部屋には藤田家の長男の本太郎がいました。弘前高校の生徒の中でも太宰はずば抜けたお金持ちだったようで、高校生(今の大学生)にしては料亭などにも行き、はでに遊んでいたみたいです。
この家の一階には吹き抜けの部屋があり、また窓も多く、昭和初期の建物にしては非常に明るい感じがします。一階は中廊下と呼ばれる通路が玄関から奥の台所まで続いています。家内の実家(すでに壊されましたが)も明治のころのもので、同じように玄関から土間が続き、井戸、便所、風呂、台所などの水間に連なります。この通路を挟んで左が客間、右が家にものの部屋に分けれていましたが、藤田家では左が家のものの部屋で、ここから二階の太宰の部屋に続き、右は立派な床の間、欄間をもつ、お客様用の部屋になっています。昭和期になっても、この土間のある空間が必要だったのでしょうが、今住むとこれが本当に不便です。いちいち草履をはくのは実に面倒です。
前回行った時もそうでしたが、観光コースから離れているため、見学者もほとんどいません。まあ見るといっても太宰のファン以外にはそれほど面白いものでもありません。いっそ民間のNPO法人に委託して、もっとお茶、お花、町内会のサークルに解放したらどうでしょうか。また観光地にしても芸がありません。前回、お話した小金井の江戸東京たてもの園では民間のボランティアが江戸時代の民家に何名が陣取り、観光客に地元の歴史などを語っていました。寒い時期だったのでいろりに火をおこし、観光客にお茶をごちそうしてくれたりしていました。ボランティアの人たちも古い民家の掃除をしたり、あるいはいろり端で年配の仲間で話したりして楽しそうでした。こいった民家を残すことは大変重要で、一度壊すとどうしようもありません。ただ残すだけではなく、折角の税金を使っているならもう少し有効な活用が求められます。百石町展示館のように低料金で各種グループに貸し出すとか、団塊の世代をボランティアに活用する方法など、アイデアはあるように思えます。

2008年3月28日金曜日

弘前偕行社




先週の日曜日、散歩がてらに松森町のあたりに行くと、新しい道が出来ていました。道に沿って歩いていると上の写真のような旧偕行社の門が目につきました。偕行社といえば第八師団の将校クラブで、今は弘前厚生学院記念館になっています。これまで厚生学院の施設の奥の方にあったのは知っていましたが、入り口がここにあるのは知りませんでした。さすがに師団の将校クラブ、門から見るとさらに立派なものです。弘前の生んだ名工堀江佐吉の作で1907年に完成され、今年で101年になります。現在、国の重要文化財に指定されているようです。こういった旧軍の施設は戦後とりつぶされることが多く、今でも残っているのは旭川、金沢、豊橋、岡山、善通寺と弘前の6カ所だけのようです。とりわけ弘前の偕行社は規模あるいは庭園も含めた施設としては全国有数のものと思います。戦後、色々とあったと思いますが、こうした形で残っていることはすばらしいことと思います。
 私自身中に入ったことはありませんが、現在も施設として使われ、観光客は外から垣間みるというのもいいように思えます。何でも公開して観光地にするより、こうしたひっそりと置いておかれる方が、手あかがつかず、かえって時代空間が残されるように感じます。映画「八甲田山」の撮影にもここが使われていたようですが、まさにうってつけの舞台です。
 偕行社の裏にも古い建物が二軒ほどあります。三角屋根の建物で、昭和初期ころの軍関係者のものかと思います。今でも誰かが住んでいるようなので写真は公開しませんが、実をいうとこういった民家の保存がより困難です。近くの「太宰治まなびの家」には昭和初期の建物が保存されています。いつ行ってもがらがらですが、残す価値のある建物と思います。以前、東京の小金井に江戸東京たてもの園という施設に行ったことがあります。江戸から昭和初期の建物が展示されています。ここもがらがらですが、結構おもしろく、高橋是清が二・二・六事件で暗殺された部屋と思うと歴史のリアリティーを実感できます。太宰の下宿についてはいずれ紹介します。

2008年3月27日木曜日

再治療


 この時期になりますと、治療終了して何年もになる患者さんから連絡がくることがあります。先日も、7年前に矯正治療を終了した患者さんから、「下の前歯がでこぼこしてきた」という連絡が来ました。矯正医としては、ちょっと緊張する同時にどうなっているか気になるものです。実際、みてみると保定装置を撤去して7年なるにしては、下の前歯が少しでこぼこしているだけでした。ほっとしたところです。当時中学生であった患者さんもすでに社会人になっており、ずいぶんきれいになったので、最初誰だがわかりませんでした。この程度のでこぼこでしたら、前歯部にブラケットとつけて3、4か月、あるいは時間がかかりますがインビザラインのような装置でも十分なおります。その旨を説明して検討してもらうことにしました。
 再治療の費用は基本治療費に含まれますので、装置の費用などはかかりません。ただ毎回の調整料は必要です。この患者さんの場合、県外にお住まいでしたので、再治療する場合もこちらでは遠方のため治療できず、近医の矯正医に紹介することになります。その場合は無料ということにはなりません。
 以前は再治療希望する患者さんはすべて無料(調整料除く)で治療していましたが、最近はこれも考えないといけないと感じています。矯正治療を終了した後は、必ず保定装置をつけていただき、1か月、3か月、6か月、1年、1年半、2年後に来院していただきます。保定装置の調整、歯のクリーニングをやり、その後は一応卒業ということにして、何かあれば来院してもらうことにしています。ところが治療終了後、こちらから何度も連絡しても来院せず、1、2年後に後戻りしたといって再治療を希望される患者さんがいます。当然、保定装置は全く使っていません。こういった患者に対しても以前は無料で再治療していましたが、今後はあまりひどいケースでは再治療費を請求しなくてはいけないのではと考えています。自己責任という部分があると思えます。
 保定装置についても、壊れたり、なくしたりした場合、もう一度作り直すことがあります。この場合も保定装置料に含まれますので、原則的には無料です。ただこれも、1、2か月おきになくす患者さんもいて、この場合はあまりですので、費用をとることにしています。そうしないとただだと思い、大事にしないからです。3、4回作りなおし、今度なくしたら有料になりますよと言うと、なくしてはこなくなります。
 矯正治療では後戻りはつきもので、とくに下の前歯の後戻りは避けられません。この理由として、矯正治療直後に起こる、単純な後戻りと、あごの発育、咬む力によるものがあります。後者はきれいな歯並びで矯正治療していないひとでも起こるものです。下の前歯は上の前歯に包まれるように覆われています。そのため下あごが成長すると下の前歯が中に入るような力がかかり、結果的にでこぼこになってきます。成長というと若いひとのみと思われるかもしれませんが、ミシガン大学の研究では20−40歳といった年齢でも筋力の変化によりあごの位置関係が変化します。あたかも成長したかのように下あごが前に出ます。そのためにゆっくりですが、とくに下の前歯がでこぼこしてきます。また上下の歯で咬む力も、ベクトル的には垂直力と水平力に分かれます。この水平力が奥歯を前に動かす力となります。結果的に奥歯が前に少しずつ動き、前歯がでこぼこになるというものです。
 後戻りと再治療、この課題はこれからも一生つきまとう問題です。やれる範囲で対応させてもらいます。矯正治療は高額ですが、実をいうとこの問題があるからです。ある著名なアメリカの矯正医が「後戻りのことを考えなくてもいいのであれば治療費は半分でもよい」と言っていました。床矯正装置などであごを広げて歯を抜かないで治療する先生もいますが、治療費の安さで決めてほしくありません。非抜歯治療で口元が出て、外見が気になる時、抜歯してもう一度治療する場合や、後戻りが出た時の再治療費はいらないのか、よく相談されたらよいと思います。それもすべて治療費に入っているならきちんとした歯医者さんなのでいいと思います。

2008年3月23日日曜日

葛西善蔵2




葛西善蔵は弘前市松森町141番地に生まれる。実家は代々続いた商家で、味噌、塩、米などを扱うほか、運送業を行っていたが、長男の善蔵が生まれて間もなく、破産し、一家は北海道にわたることになった。実家跡は、阿部誠也「あおもり文学の旅」によれば左写真の駐車場付近となっている。弘前市立郷土文学館で開催されている葛西善蔵没後80年展では実家の絵図が展示されていたが、相当広い敷地に手広く商売をやっていたのがわかる(同時に展示されていた地図をみると生誕地は阿部さんの指摘した所の反対側であった気もするが?)。その後、青森、五所川原などを点々として、最後には母の実家である碇ヶ関に落ち着くことになる。碇ヶ関小学校卒業後に勤めた質店の蔵の中で見つけた「里見八犬伝」がおもしろく、それが小説家になるきっかけになったようだ。
 左下の写真は、私が最も好きな善蔵の写真だ。小説とは違い、かなりきちんとした服装をして、長男亮三とやけにまじめに写っている。きびしい長男の表情に比べて善蔵の表情は晴れやかで、当時住んでいた鎌倉建長寺宝珠院で撮ったせいか、まるで高僧のような気高い印象をもつ。善蔵の小説は私小説とはいえ、かなり誇張されたもので、当時からかなりひんしゅくを買ったようだ。放蕩無頼で酒ばかり飲む、家族のことも考えず、自分中心のわがままな人物であるかのように小説の中では表現しているが、郷土文学館にある自筆の手紙を読むと非常に几帳面な性格であることがわかる。原稿用紙の一行の間に小さな字で二行びっしりと、きれいな楷書で書かれている。自堕落なひとであればこんな几帳面な手紙は書けないであろう。長男との写真にしても、貧乏でありながらもそれなりにしっかりした教育をしているように思える(母親の教育かもしれないが)。
 善蔵を信奉する小説家として、石坂洋次郎と太宰治がいる。破滅型の華やかな後継者である太宰は石坂に向かって、「果ては、みな一。混とんとして海である。肉体の死亡である。きみの仕事のこるや。われの仕事のこるや」と言い放った。これを言っちゃおしまいである。大衆小説家として金をもうけ、東京田園調布に住む成功者の石坂にとっても、金持ちの太宰からは言われたくなかっただろう。同時に善蔵の言葉とも聞こえ、内心忸怩たる思いもあったろうし、今日の太宰と石坂の評価も予感し得たのであろう。
 善蔵が弘前に帰省したおり、石坂と一緒に弘前城に散歩に出かけた。岩木山をみると、善蔵は急に四股を踏み、「おい君たち、ぼくはこれから岩木山と相撲をとるからな。あんな奴、一と突きで土俵の外に吹っ飛ばしてやる。岩木山、岩木山って土地の人は騒いでいるが、あんな山が一つもないから高くみえるだけで、あんな山、物の数ではない。あんなもの、山とは言わないよ。津軽衆もまたかくのごときか。喝」と一喝したそうである。それでいて東奥日報の記者として善蔵を訪ねた竹内俊吉(後の知事)が東京の雲雀の話をすると、「東京の雲雀なんてものは駄目だよ。雲雀はネ、津軽さ。津軽の田圃で鳴くのがほんとうの雲雀の歌だよ、まだ畦の草もほんの少し緑をつけたばかりのひろびろとした早春の田圃、陽炎がどこまでも果てしなくもえたつ津軽のあの田圃の雲雀がほんとうの雲雀だよ。」と話した。郷土に対する深い愛情と恨みは、太宰治や棟方志功、寺山修司などの青森の芸術家に見られる特徴であろう。また小説のためには自己の生活をすべて犠牲にするという善蔵の熱情は、キリスト教への伝道に力を注ぐ本多庸一、中国革命に一生を捧げた山田良政、純三郎兄弟、離島住民ら弱者の生活向上を訴えた笹森儀助、ジャーナリストの使命を貫いた陸羯南のそれと相通じるものがある。
 「酸素より酒のほうがいい」と死ぬまで酒を愛した善蔵も、最後は「一時ごろの汽車に乗っていくことにして、切符を買っておいてほしい」、「切符を落さないように、ちゃんとしまっておいたほうがよい」、「この野原で、ちょっと小便をしますから」とうわごとを言って亡くなった。その霊魂は希望通り故郷に帰ったのであろう。

葛西善蔵の作品の一部は、青空文庫でも見れますので参考にしてください。
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person984.html
また弘前出身のルポライター鎌田彗著「椎の若葉に光あれ」(岩波現代文庫)は、善蔵への愛情あふれる好著です。
弘前市立郷土文学館では平成20年1月12日から12月28日まで「葛西善蔵没後80年展」が行われています。自筆の手紙や多くの写真が展示されています。結構男前で今でももてそうです。

2008年3月20日木曜日

葛西善蔵1














葛西善蔵ほど偉人という名とは縁遠いひとはいないであろう。偉人がひとのために何かをなすひととすれば、善蔵は死ぬまで自己中心で周りのひとに迷惑ばかりかけてきた。極端の両極はある意味でつながるもので、そういった意味で津軽らしい人物として紹介したい。

先週から「哀しき父 椎の若葉」(葛西善蔵 講談社文芸文庫)と「椎の若葉に光あれ 葛西善蔵の生涯」(鎌田彗 岩波現代文庫)を同時に並行して読んだ。率直な感想として、現在の目から見ると善蔵の小説はそれほど面白くない。内容は限りなく暗く、悲惨であるが、それでいておかしい。それは鎌田さんの本を読むと、もっと鮮明になってくる。小説以上に葛西の生き方自体が哀しく、おかしい。太宰、寺山、棟方志功などと相通じる津軽人の特徴をもつ。几帳面でいながら、深刻に考えない、悲惨な状況にありながら、それを客観的にみて自虐的に楽しむ、照れ屋のくせに見栄っ張り、都会にコンプレックスを持ちながら反発する、相矛盾した性格を併せ持つ。「信じて倒れる者に悔いなし」という聖書の一節を愛し、妻子の生活のために一切働こうとはせず、友人から金を借りては飲み、42歳の生涯を閉じた。ここまでくると単なる怠け者という枠を超え、求道者の領域に達し、その精神はあくまでピュアである。善蔵の性格を知るエピソードとして友人の宇野浩二のものが好きだ、長文であるが引用する。

「葛西は私が行ったのを喜んだ。それは彼が訪問記者でもいいから何か職を、訪問記者は経験がある大丈夫出来る、というので、私が高須芳次郎が訪問記者が入るといふ口を知らせに行ったのだ。彼は喜びながら、右手の何も入っていない押入から古新聞紙を出して、左隣の部屋の襖を開けて入って行った。その瞬間、四畳半の何一つない茶の間らしい部屋の隅に、二人の子供が雀のようにくつ附いて、きちんと行儀よく膝に手を置いて、座っているのを私は見た。やがて、「哀しき父」の葛西は赤色の七輪に、先の古新聞紙とその上に炭を載せたのを持って出てきた。それからもう一度引返して、アルミの茶瓶を持って来て、後ろの襖を閉め、先の七輪の中の古新聞紙にマッチで火をつけた。それを団扇で煽ぎながら火のおこった頃を見計らって、茶瓶をかけた。それから部屋の隅にあった茶碗を出した。彼は僕に白湯を振舞ってくれたのである。そして真先に、「どうも作の方が出来ないので困る」といった。」(宇野浩二「葛西善蔵」)
こんなことがあっても善蔵は1ヶ月も高須ところには行かず、訪問記者も3日でやめた。

2008年3月15日土曜日

史上最高のゴールキーパ



史上最高のGKと言えば、ソ連のレフ・ヤシン選手が挙げられよう。現代では審判のユニフォームと混同するため禁止されているが、ヤシンといえば全身黒のユニフォームである。異常に長い手足とその守備範囲の広さから、ヤシンからゴールを奪うことは名誉なことと言われるほど、長年に渡り、ソビエトの代表ゴールキーパーをつとめた。現在でもワールドカップの最優秀GKに与えられる賞は「ヤシン賞」と呼ばれる。私がサッカーをしていた1968年ころにはすでに引退していたが、その頃から伝説のGKとなっていた。ヤシンのすごいところは横にくるボールを横っ飛びで捕るセービングという技術と、横からの高い球をキャッチ、パンチングするなどゴール前を離れて広い範囲を守る近代ゴールキーパーを完成させた点である。それまでのGKといえばゴールに張り付き、また女子サッカーのGKのようなしょぼいセービングであった。ヤシン以降今のGKができた。





 イギリスのゴードン・バンクスもイングランド最高のゴールキーパーとして、今でも人気がある。名前の通り、イングランド銀行とあだ名されるほど、鉄壁の守備を誇った。とくにメキシコワールドカップのペレのヘディングを防いだセービングはすごかった。当時ワールドカップといってもNHKで何試合か放送するだけだった。この試合はたまたま放送され、中学生だった私にとって、このシーンで一気にバンクスのファンになった。その後交通事故で右目を失明するというニュースを聞いて本当に悲しかった。
 通常のシュートはある程度軸足の方向で球筋を読めるが、ヘディングは全く球筋が読めず、本当に0.何秒という瞬発力が要求される。極端に言えば、ゴール前のヘディングシュートは正面以外防ぐことはできない。このペレのシュートは地面に叩き付ける最高のものであるが、これをバンクスはゴールから掻きだしている。ヘディングの瞬間に右足をふんばり、セービング動作に入らないと間に合わない。右からのクロスボールに対してペレがあそこの角度にヘディングするという予想がなければ無理だろう。



ゴールキーパーの理想像としてヤシンやバンクスのように大きく、手足が長く、がっちりした安定型というイメージは、ヨーロッパのチームや監督にはいまだに根強い。それ故、日本代表の川口のような小柄なGKはどうしてもイメージにそぐわないのだろう。川口のイギリス行きはその点でもきつかっただろう。

2008年3月13日木曜日

カラチョフの絨毯




コーカサスの絨毯を紹介します。絨毯と言えばペルシャ(イラン)のことをまず真っ先に思い出すでしょうが、欧米では現在のアゼルバイジャン、アルメニアなどの地域で作られたコーカサス絨毯も人気があります。"star" kazakと呼ばれるものは1990年のオークションでは何と286000ドルの価格がつきました。今でもアメリカ、イギリス、ドイツなどではコーカサス専門の絨毯屋もあり、オークションでも活発な取引がされています。

この理由として、デザインが直線的で色使いもはっきりしていて、ペルシャとは違う男性的なデザインが好まれていると思います。ファンも女性より男性が多いようです。さらにこれはこの地域の歴史の悲劇とも関連しますが、1920年以降のものがないということです。ロシアとイランに接するこの地域は常に両者の支配が繰り返されました。ロシア革命勃発とともに、この地域の人々はロシアの圧政に抵抗を繰り返したあげく、その支配下になりますが、その報復として強制移住や伝統的産業、文化の破壊などが行われました。そのため村落中心で作られていた絨毯も国営に組み込まれ、伝統的なデザインを捨てることになったのです。その結果、1920年以降の絨毯はあるのですが、現在人気のあるそれ以前のものは品薄で希少価値が出ています。欧米への流失は早い時期から行われていましたが、家庭に残されていた先祖伝来の絨毯もアゼルバイジャン戦争による生活苦のためトルコ経由で欧米に流れていきました。現在では、ようやく混乱も落ち着き、リプロダクションの絨毯も生産されるようになりました。

写真の絨毯は、西宮にあるアートコアで購入したカザック カラチョフのもので、おそらく19世紀後半から20世紀初頭のものと思われます。緑のグランドに複数のメダリオンが配置されていおり、上下の四角、四隅の四角の白のメダリオンや赤のメダリオンはカラチョフの特徴的なモチーフですが、真ん中のものはファチラロ(Fachralo)のものとなっています。ボーダーはブドウ蔓とグラスデザンインのもので典型的なカラチョフデザインです。コーカサス絨毯の特徴は小さな村それぞれでデザインが異なり、分類できることです。そのためカザックという小さなエリアの中にも、Lori-panbak, Fachiralo, Sevan, Aketafaなどの色々なデザイン絨毯があります。

この絨毯も作られて100年以上たつため、パイルもかなり短くなり、一部は欠けています。またよく見るとボーダ部を中心にかなり修復しており、コンディションはいいとは言えません(修復は非常に丁寧に行われています)。ただ色合いもよく、非常に気に入っています。100年前にコーカサスという何千キロも離れたところで作られたものが、この雪国の弘前にくるとは絨毯も考えていなかったでしょう。大切にしたいと思います。

なおカラチョフとはどこかというと、実はいまだにはっきりしておらず、アルメニアの北部にあるという説や、いやもっとアゼルバイジャン側にあるという説もあり、今や住む人や地名も全く変わってしまったのでしょう。たかが100年前の記憶も無くなるというのは日本の常識からは考えられないことで、それだけこの地域の近代の変遷を垣間みます。

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2008年3月11日火曜日

日本臨床矯正歯科医会





3月5、6日と、日本臨床矯正歯科医会の3月例会に参加してきました。2年ほど症例発表していませんでしたので、久しぶりに症例展示をしました。アンコール賞というのをいただき、秋の静岡大会で20分ほど講演することになりましたが、ちょっと心配です。

日本臨床矯正歯科医会というのは1972年に創立された矯正専門医の集まりで、私も10年ほど前に入会しました。現在、会員数は約500名で、日本で開業しているベテランの矯正専門医の多くはこの会に入会しています。一時はやや閉鎖的な集まりでしたが、ここ10年ほど矯正臨床の普及を目的に積極的な活動を行っています。

ひとつはムック本の出版で、これまで4冊の本を出版しています。主婦と友社や小学館が発行しているため、非常にわかりやすく、おもしろいムックになっています。当院でも初診患者に差し上げていますが、好評です。写真上が一番新しいムックです。値段の割に内容が充実しており、いい本です。近くの本屋で売っていると思います。また3年ほど前からブレーススマイルコンテストというものもしています。矯正治療は恥ずかしくない、もっと堂々としようというコンセプトで矯正治療を受けている患者さんのスマイル写真を募集するものです。みんな明るい表情をしています。また各地で市民セミナー(広報キャラバン)というものをしており、矯正知識の普及に努めています。

この会の一番の特徴は、患者さんの転医制度が確立している点です。春のこの時期になると多くのひとが転住します。矯正治療は長くかかるため、場合によっては治療継続のため転医が必要になってきます。この会では専用の用紙も完備しており、治療費の清算もきちんとしていますし、何より経験豊富な先生が多いため、転医しても治療レベルが落ちることはありません。また会員の先生も非常に優秀で、フランクな先生も多く、勉強になります。矯正歯科というのは独特なもので、私たちは自分のことをDentisitとはいわず、Orthodontistと言います。以前三沢の米軍基地を訪れたとき、歯科診療所には5名ほどの歯科医がいました。一般歯科の先生が3名、口腔外科の先生が1名、矯正歯科の先生が1名です。矯正歯科の先生と雑談しても、一般歯科の先生は全く内容がわからないようでした。新発売の製品や治療法については、日米ほぼ同時に発表されるため、話題もついそのような内容になっているからなのでしょう。

学会の途中に友人と浅草演芸ホールに行って落語を聞いてきました。初めてです。夕方の5時頃から9時頃まで聞いていましたが、あれで2500円は安いと思いました。ただ落語家というのはかわいそそうで、20名ほどの芸人がつぎつぎ高座に立つ訳ですが、実力が一目でわかります。二つ目、真打ちとは関係なく、落語家自身の実力が比較されます。おもしろくないと誰も笑わないし、席を立ち、たばこを吸いにいってしまいます。

この中で 柳家さん喬 というひとが群を抜いていました。「そば清」というそばの大食いの演目でしたが、いきいきと場面がイメージされます。また高座の姿勢や態度もきちんとしており、本格的な落語の技量をみた思いです。テレビなどではあまり見たことがないのですが?、将来必ず名人になるひとだと思いました。HPをみると、人情ものも得意のようで、なるほどと思いました。人情ものは本当にむずかしく、普通はあまり挑戦しません。古今亭志ん生の「しじみ売り」という人情ものを聞くと、話芸のすごさがわかります。柳家さん喬さんの今後を期待します。

2008年3月4日火曜日

英雄時代





最近は家内と一緒に韓流ドラマを見ることが多くなりました。最初は「ごめん愛してる」、「ガラスの靴」、「悲しき恋歌」など恋愛ものを見ていましたが、さすがにワンパターンで飽きてきました。それに比べて日本でいうところの大河ドラマに当たる歴史ものは飽きません。何より韓国の歴史や文化を学べる点が勉強になります。(「チュモン」などはあまりに史実とかけ離れたものですが。日本のNHKの大河ドラマもそういった点では同じです。)

ここで紹介する「英雄時代」は、現代韓国を代表するサムスングループの創始者イ・ビョンチョルとヒュンダイグループの創始者チョン・ジュヨンを描いた現代史のドラマです。日本統治時代から朴大統領の時代までの第一部では、この二人のサクセスストーリーと時代の混乱が描かれています。現代史を彩る人物がほぼ実名で出てくる上、なおかつ俳優にはできるだけ似せるように演技させているとのことです(とくに後半では)。現代韓国史は興味がある分野ですが、本ではあまりに複雑でなかなか理解できませんが、このドラマをみてはじめて概略的に理解することができました。同時に日本への憧れと敵対の心情がわかるような気がします。日本統治、終戦後の混乱、共産主義者の弾圧、学生デモ、朴大統領による独裁政治など、よくもこれだけ次々に混乱が続くものと考えさせられます。確かに日本も戦後、大変な時期を経験しましたが、隣国の韓国の歴史の比ではありません。ようやくここ20年ほどでやっと落ち着いたという感じです。

日本人=悪人といったステレオタイプな見方もドラマのあちこちで見受けられますが、それでもいい日本人も出てきて、以前に比べてだいぶ変化していると思いました。朴大統領も近年の評価に基づき、韓国の近代化を押し進めた清貧な大統領として描かれています。また今年大統領になった李明博も、ドラマの後半では準主役として登場しますが、これほど影響力のある広告もないかと思うほど、行動力と実行力のある人物として描かれ、ちょっと卑怯な感じもします。ただかっこいいテソン(ヒュンダイ創始者、写真下左)が、いきなり怖くて、下品なおじさん(写真下左2番目上)に変わるには驚きました。そのうちに慣れましたが。

テソン(ヒュンダイ創始者)の恋人としてソソンというパンソリの歌手が出てきます。キム・ジスという女優さんが演じていますがチマチゴリが本当に似合い、美人です。パンソリについては少し知っていましたが、このドラマではパンソリを歌うシーンも多く、楽しめます。独特な節回しや声で、韓国を代表する伝統的音楽ですが、一方パンソリに代表される庶民の民芸やそれを歌う歌手、芸人の社会上の地位や立場もわかります。

韓流ブームのおかげて、こういった近くて遠い隣の国のドラマが見れることは、日本と韓国の相互理解の上で大変いいことだと思います。それと同時に韓国のテレビ制作者も日本の視聴者をどこか念頭においてドラマを作ることでしょうし、そのことで日本人の描き方もさらに現実的なものになってくるでしょう。韓流ドラマがだめというひと、とくに男のひとにはこの「英雄時代」と「ホジュン」をお勧めしますし、韓国とのビジネスをする人も韓国人の商売に対する考え方の理解に役立つでしょう。

2008年3月2日日曜日

ムーンシールド




昨日のテレビ番組(スマステーション)で最新の医療技術が特集され、矯正治療関連として見えない矯正治療としてクリアライナーと、あごの整形ができる治療?としてムーンシールドが取り上げられていました。

クリアライナーは以前このブログで取り上げたインビザラインのパクリで、原理はほとんど同じです。症例の適用範囲が少なく、また終日装着しなくてはいけないため、治療途中で脱落するひとが多いことを述べました。簡単な症例なら、こんな装置を使うより通常の矯正装置を使う方がよほど早くできますし、確実です。

ムーンシールドについては、これまで何度か開発者の柳澤先生の講演会や発表を見ることがありました。非常に紳士的で控えめな先生です。講演の中でもこの装置だけで治ると誤解しないようにと強調されているにもかかわらず、テレビではやはりこの装置だけで治るように伝えられていたことが残念です。当院にもこういった番組がある度に「ムーンシールドの治療していますか」といった電話がかかってきます。「していません」と答えるだけです。

ムーンシールドは、機能的矯正装置の一種です。反対咬合の患者さんの特徴として、上くちびるの中に押し込む力が強いこと、逆に下くちびるは弛緩していること、舌が通常の位置より低いことが挙げられます。上くちびるの力が強いため上の歯が中に入り、下くちびるの力が弱いため下の歯が前に出、舌の位置が低く、下あごを前に押し出すため、噛み合わせが逆になるというものです。ムーンシールドは上くちびるの力を排除し、舌を上に持ち上げ、下くちびるの力を強めることで反対咬合を治します。ドイツのフランケルというひとの開発したFRIIIという装置で概念は似ています。

当院ではこれまで800人以上の反対咬合の患者さんをみてきましたが、乳歯からの治療は積極的にはしていません。反対咬合の治療のポイントは成長が終了するまで安心できないことです。たとえ、乳歯で反対咬合が治っても、そのまま正常に発育するかという保証はありません。そうなると男子では5歳ころから18歳ころまで経過を見ていかないといけないことになります。乳歯列、混合歯列、永久歯列の三期に分けた治療計画が必要になってきます。これは患者および家族も結構飽きてくると思います。また乳歯列からの治療は、今のところ必ずしも成長が完全に終了した時点で効果があったか実証されておらず、むしろ早期に治療をしても、しなくても結果は同じだという研究の方が多いくらいです。柳澤先生の論文(インターネット上で閲覧できるもの、http://ejo.oxfordjournals.org/cgi/content/full/28/4/373#TBL1)でも症例数が少なく、今はやりのEBMに基づいた研究ではありませんし、6歳ころまでの評価しかしていません。柳澤先生もさらに長期の研究が必要としていますが、先に述べたように成長終了までのデータを集めるにはあと10年はかかるでしょうし、脱落も多いことでしょう。今後の研究を期待します。

ムーンシールドは既成品で商品単価も安く、矯正の知識がなくても使えるため今後、開業医の先生でも使うところも増えていくでしょう。ただこれだけは言っておきたいのですが、治った、治ったと喜んでいても、永久歯が生える時にはふたたび反対咬合になったり、でこぼこになったり、思春期成長を迎えるころにまた後戻りすることもあり、この装置だけで理想的な歯並びになることはかなり少ないと思えます。この装置だけで理想的な歯並びが獲得できるなら、みんな使いますし、矯正臨床で最もやっかいな問題が解決されたことになりますが、実際にそんなことはありません。まして外科症例になるような重度の反対咬合が乳歯列にこの装置で治しておけば、そうならなかったということは絶対にありません。

ムーンシールド、クリアライナーや同番組で取り上げられた3-MIX治療やオゾン治療にしても、テレビではおもしろ、おかしく報道されますが、そんな便利なものがあればみんなもう使っていると思いますし、使わないのは何らかの理由があるからでしょう。