2023年6月23日金曜日

矯正歯科(保険)のレセプトオンライン化を考える

 





矯正歯科といえば、ほとんど自費患者と思うだろうが、実際は口蓋裂、顎変形症などの保険適用の患者も多い。私のところで言うと、月レセプトの件数で80-90件くらいあり、毎日4、5人の保険患者が来院する。そのほぼ半分が口蓋裂患者で、残りが顎変形症患者となる。口蓋裂患者のほとんどは、近くに弘前大学医学部附属病院形成外科があるので、そこからの紹介患者で、年間数名、それでも延べで300名以上の患者となる。最近は紹介してもらう年齢を小学校入学以降にしてもらっているが、前は3歳くらいで紹介されていたので、そうした子供の場合は、15年以上の通院となり、徐々に患者数は蓄積されていく。一方、顎変形症患者については、当初は下顎前突の患者が主体であったが、最近では顔面非対称、上顎前突(下顎骨後退)の患者も増加し、また口蓋裂以外の先天性疾患、例えば、ダウン症、第一第二鰓弓症候群、6歯以上の先天性欠如を伴う部分無歯症の患者も増えてきた。こうしたことは私のところの診療所だけでなく、全国的にもそうであろう。

 

先日、東北の矯正歯科の先生とオンラインで会議があった。来年度からレセプトのオンライン化が始まり、それへの対処について少し議論した。結論からすると私のところともう一人の先生を除くほとんどの先生がすでにレセコンを導入して、レセプトオンライン化をしているとのことであった。驚いた。唯一、まだレセコン導入していない先生は月のレセプト数が100枚を超えると言っていたので、これも結構多い方である。この先生はエクセルで簡単なレセコンを自作し、それをプリントして紙出しで請求していたようだ。私のところでも20年前にファイルメーカープロで自作の患者データーベースとそれに連動した簡易の保険請求ツールを作り、それでずっと請求してきた。逆にソフトを自作する手間が面倒という先生は早い時期から、ソフト会社の矯正歯科用レセプトソフトを購入したため、このような結果となったのであろう。ちなみにレセコン導入した全ての先生は、Mediaの矯正歯科用レセコン、エポックというソフトを使っていた。初期投資が数十万円、月々の使用量が4,5万円ということだった。ただ例えば、保険患者が10人、月のレセプト数が5枚、大部分が自費患者という状況で、保険診療専用のレセコンを導入は相当厳しいと思うのだが。

 

私のところでも、早急にレセコンを導入するか、あと3年ほどで引退予定なので、紙出し請求で逃げ切るのか、難しいところである。ただ新規開業の先生については、来年度以降はオンライン化を義務付けられ、紙出し請求はできなくなる。そのため、新規開業する先生は必ずレセコンの導入とマイナンバー資格確認が必要となる。結局は二つのシステムが必要となり、合算すると結構大きな金額となる。もちろん新規開業する一般歯科医院でも、この費用は大きな負担となるが、それ以上に新規開業する矯正歯科医院では、はなから保険診療をやめるところも出てくるだろう。結局、導入しても保険患者が数名しかいない場合、レセコンの月々の使用料は高すぎる。

 

ただ最初に述べたように近年、顎変形症の適用はかなり広がっており、これまで矯正治療のみで対応してきた上顎前突や顔面非対称(交叉咬合)なども積極的に外科矯正として扱う場合が増え、保険医療機関でないと、かなり治療法が限定されてしまう。これは矯正歯科専門でやるには不安材料となり、できるだけ多くの治療法を患者に提示して、その中から最良のものを選択するという姿勢に反する。また一期治療で治療をしてきて、顎の成長のために外科矯正となった場合、その時点で、保険医療機関でないと、他院に紹介することになり、これも専門医としては恥ずかしい。

 

東京、大阪などの都市部では、仮に口蓋裂や顎変形症の患者がきても、歯科大学附属病院を紹介すれば、いいかもしれないが、例えば私の住む青森県でいえば、一番近い歯科大学は盛岡の岩手医科大学歯学部附属病院となり、患者さんにとってかなり通院は大変である。地域的な特性を考えれば、地方で新たな矯正歯科医院を開業する場合は、費用はかかるがレセコン、マイナンバーカード読み取りなどを最初から設置せざるを得ないと思う。もうすぐスタートする矯正歯科専門医制度でも、実施要領で、口蓋裂、顎変形症を取り扱う施設要件を満たすことが望まれるとしているし、課題症例でも外科矯正を入れられれば、かなり症例の選択は容易となる。

 

今回、私の場合、矯正歯科医院でもこんなにレセコンが普及しているのか驚いたが、私の知ること限り、これまで日本矯正歯科学会、日本臨床矯正歯科医会などで、矯正歯科専門医院での、1。月平均レセプト枚数、 2。レセプト導入率などを調べたことはない。学会としてもこうした情報を把握して、今後の指針を示して欲しいところである。


2023年6月22日木曜日

父の写真

 







父が亡くなって10年以上経つ。子供にとって父親の経歴は、わかっているようでわからないことが多い。私の父も、徳島県板野郡一条で生まれ、大阪市で育ったというのはわかっている。東京歯科専門学校(現:東京歯科大学)を卒業後、学徒出陣で中国の東北部に行き、戦後はモスクワ南部の捕虜収容所で3年ほど抑留された後、大阪、神戸で勤務し、尼崎市東難波町で開業し、85歳で引退し、88歳で亡くなった。ただ小中学生の頃のことはほとんど分からず、母親に聞いても知らない。父の生前に聞いていれば、わかっただろうが、生前、特にそうしたことを聞くチャンスもないし、聞く理由もないため、そのまま分からずじまいである。

 

その後、アルバムから父の古い写真が出てきて、スマホで撮影し、そのデジタル写真を拡大して調査している。最初の写真(1)は、どこかの神社前で撮られた修学旅行の集合写真である。男女100名くらい、女子が多い、男子は制帽に、上下の学生服、女子はコートを着ているので分からないが、これも制帽に制服で、かなり裕福な感じがする。写真2は、祖父の葬式のようである。かなり大きさ葬儀で3人の僧侶がいる。写真3は寺の稚児行列の記念写真である。写真4は結婚式の記念写真で、大きな家の前で撮られている。

 

これらの写真の中で手がかりとなるのは、まず写真1で、父は大正8年生まれなので、小学6年生の修学旅行とすると昭和5年となる。昭和5年で、小学生、男女とも制服を着ているとなると、まず考えられるのは、私立小学校である。昭和5年頃の大阪の私立小学校は、追手門学院小学校と帝塚山学院小学校である。前者は偕行社の学校で男子校なので、合致しない。そこで帝塚山学院にこの写真を送付して確認したところ、男子の人数が多すぎること、卒業者名簿に父の名がないことから、ここではなさそうである。次に大阪の制服といえば、現在の大阪教育大学附属小学校、天王寺、平野小学校が考えられる。父は子供時代、祖父を早くに亡くしたが、祖母に経営才覚があり、大阪で遊郭を経営していて裕福であった。正月になると、広間の上座に芸妓衆を集めて正月の挨拶を行なっていたと言っていた。となると、戦前の大阪で有名な遊郭となると、飛田遊郭、堀江遊郭、南地五花街、松島遊郭、今里新地などである。写真4を見ると後ろの幕を見ると「榮樓」の名が見える。国会図書館デジタルコレクションで「榮樓」で調べると、北堀江町の住所となる。そうなると堀江遊廓が候補となる。堀江遊郭は心斎橋近くで、少し遠いが天王寺附属小学校に通えるかもしれない。そこで天王寺小学校に連絡して卒業者名簿に父の名がないか、調べてもらったが当該者はいないとの返事であった。

 

そこで戦前の堀江町の姿をまとめた「なつかしの昭和 堀江戦前住宅地図」を注文した。届いた地図を見てみると、北堀江上通二丁目に榮楼の名が見えるが、家主は山下ヨネとなっている。ただこうした商売は、オーナーと家主は違う場合もある。さらに調べると北堀江上通一丁目に二軒の広瀬の名が見えるが、どうも長屋のような並びで、オーナーの家とは考えにくい。堀江地域は太平洋戦争中の空襲でほとんどが焼き払われた地域で、昔の記録は乏しく、ネット上でもあまり写真などの情報が出てこない。仮に父が堀江地区で育ったとなると、写真1の学校は堀江尋常小学校、写真2は阿弥陀池和光寺、写真3は同じく和光寺、写真4は北堀江上通の榮楼前となる。昭和5年頃の小学校の卒業写真を見ると、東京、大阪などの都市部では男女とも制服というところはあるが、さすがに女子の制帽は私立学校以外にないように思える。また戦前の阿弥陀池和光寺の写真を見ると、葬式の該当するような建物は見つからなかったが、一方、よく見ると、葬式にもかかわらず数名、水商売風の女性がいて、遊廓町を想像できる。

 

こうした昔の写真から、どこで撮られたかを調べることは、一種の謎解きにも似ており、ネットもなかった昔であれば、現地に言って、年配の方にインタビューして聞いて回ったであろうが、今であれば、国会図書館デジタルアーカイブ始め、多くの資料があり、驚いたことに大正11年から昭和41年までの大阪の市内電話帳を全て開示しているサイトもある。アメリカ人の友人に聞くと、彼の父親の記録、子供の頃の成績表、大学の卒業証書、軍人の記録、写真などは全て揃っており、さらには保険、通帳、株などの資産管理も同様に書類として残っているという。さらに地域の記録センターに行けば、故人であれば、あまり個人情報保護とは関係なく、かなりのことがここでわかるようである。転職が当たり前のアメリカでは、こうした履歴、レジュメを用意しておくことが必須であるが、日本では60歳以上の世代であれば、その親あるいは祖母、祖父の履歴を知らない人も多いと思う。それは自分の履歴やレジメを準備するような習慣がないためで、それもあってNHKのファミリーヒストリーという番組が成立する。アメリカではああした事実を知るのは割合簡単なのかもしれない。

 

今度は、堀江小学校に連絡して確認してみたい。













2023年6月15日木曜日

方言




人気タレントの王林さんのおかげで、津軽弁の認知度も高まりました。津軽弁は、3つの特徴があり、一つは言葉そのものが標準語と違うことです。例えば、私のことを「わ」、あなたのことを「な」のようなものです。これは略した言葉と言えるかもしれませんが、友達のことを「けやぐ」、赤ちゃんのことを「びっき」、おでこのことを「なずき」と言いますが、これなど標準語とは全く違う言葉です。実際、こうした言い方がかなり多く、それが津軽弁をわかりにくくしている点です。二番目はイントネーション、アクセントが違います。これは王林さんの喋りを聞けばわかりますが、言葉自体は標準語ですが、イントネーションとアクセントが違います。大阪弁などは典型的です。3つ目は、母音が違うことです。硬くて噛みきれないことを「シネ、シナイ」と言いますが、これは「死ね」、「竹刀」とは発音が違い、「シ」の発音は「スウィ」、あるいはシとスの間の音です。それも喋る人によって違い、昔、弘前検定試験の勉強をしていた時に、「しね」と発音していると、ロータリークラブの人からかなり発音の修正をされましたが、結局できませんでした。歯科医の友人に話すと、「シナイ」の発音は「竹刀」と全く同じだと言っていたので、それは違うだろうと言うと「津軽生まれの俺が言うのだから間違いない」と怒られました。この母音については「弘前」を「フィロサキ」と発音する人を見たことはありませんが、詩人の福士幸次郎はそう書いています。家内に言わせると「ヒドサギ」と発音する人もいるようで、要は口をあまり大きく開けないで、ぼそっと発音するためでしょう。ただ一般的な母音、あいうえおとは異なる発音が存在するのは間違いありません。

 

一方、アメリカ人の先生に聞くと、アメリカでも方言があるが、あくまでアクセント、イントネーションの違いがあるだけで、地域により言葉そのものが違うということはないと言います。確かにイギリス英語とアメリカ英語では発音だけなく、単語も違うが、それでも津軽弁と標準語ほどの差はありません。ヨーロッパでは、たとえばイタリアで大きく分けて3つの地域別の方言があり、ナポリ語とシチリア語では発音だけでなく、単語もかなり違うといいます。フランスでは、ブルトン語というブルターニュ地方独特のケルト系の言葉があったり、オック語というカタローニャ語に近い方言もあるようです。同様にスペインのバスク語は方言というよりは、一つの民族とみた方が良いかもしれません。

 

中国では、標準北京語以外にも広東語、上海語など多種多様な方言があるし、タイでも北部と南部では言葉がかなり違うし、フィリッピンでは170以上の言語があり、これがタガログ語と英語を共通語として教育されていったようです。たた隣国の朝鮮では北朝鮮と韓国では発音などの違いはあるようですが、お互いわからないほどの違いはなく、同様に台湾も原住民語がありましたが、最近ではそうした言葉の消滅しつつあり、台湾語と標準北京語が一般的になっています。

 

こうしてみると、しゃべっている内容がほとんどわからないほどの方言は、むしろ独立した言語で、沖縄弁あるいは津軽弁ではなく、沖縄語、あるいは津軽語と呼んでもいいのかもしれません。朝鮮では、李氏朝鮮が600年以上に渡り統一王朝を築き、地域によりそれほど独立性が高くなかったことが、言語の標準化となったのでしょう。一方、日本では江戸時代の大名制度が、藩単位の独自性を構築することになり、近年になるまで独自の方言が狭い日本でも存在したのでしょう。特に他藩からの人の往来を極度に嫌った薩摩藩、弘前藩、あるいは琉球には、独特な方言が残っているのでしょう。

 

最近ではバスク地方をはじめ、独自の言葉を守ろうとする動きがあり、北海道でもアイヌ語を公用語に、義務教育でも習おうという運動がありますが、津軽でも祖母祖父の言っている言葉がわからない孫が多くなり、このままでは津軽弁が少しずつなくなるかもしれません。新しい知事になりました。家内の時代では高校で標準語をしゃべりましょうという授業があったそうですが、これからは授業で津軽弁を習う時代が来るかもしれません。方言というのはよそ者を嫌う、排他的な要素を持ちますが、他方、お国自慢、郷土愛につながります。どちらがこれからの時代に即しているか、一概に言えることではありません。もちろん、私のようなよそ者でも嫌われることなく、なんとかやっていけています。ただ弘前市内で言えば、昭和30年代まであった武家言葉、たとえば「ゴギンギョウ」や「オシズカニ」(さようなら)のような美しい言葉は完全になくなっています。どこかに記録は残っていると思いますので、曽祖母や祖母の会話など昔の津軽弁のテープがあれば、Youyubeにでも挙げてほしいと思います。









 

2023年6月14日水曜日

矯正歯科専門医 2

 



私は大学を卒業後、3年ほど小児歯科講座に残ってから、鹿児島大学歯学部矯正歯科学講座に移った。1985年のことである。当時の矯正歯科の状況を見ると、ようやく矯正歯科の認知度も高まり、各地に矯正歯科専門歯科医院ができた頃である。

 

当時の教授であった伊藤学而に話を聞くと、教授が東京医科歯科大学の矯正科に入ったころ、昭和40年代は矯正歯科専門で開業している医院は日本でもほとんどなく、矯正歯科で開業はできないと言われていた。そのため、他大学の教授も含めて、当時の教授は、変わった人が多く、実家がお金持ちの先生が多かった。要するに矯正歯科では食っていけないが、好きで趣味でしている感じであった。一度、鹿児島大学歯学部で全国の矯正科の教授が集まり会議することがあり、その折、教授たちの世話係に指名されたことがある。一番驚いたのは、会議の最中、先生同士、互いにちゃんづけするのである。伊藤先生はガクちゃん、日歯の本橋先生はポンちゃんなどである。本橋先生に至っては、朝、ホテルに車で迎えに行くと、ホテルのロビーでそこにあるミニチュアのウイスキー全てをかき集めて飲んでいた。何でも、新宿の大きな土地を持っていて、高島屋にも土地を貸していたし、土地の一部を売って、日本の長者番付の2、3位になったこともある。豪傑で、鹿児島の林先生を用心棒がわりに新宿の店子のお店で毎晩飲んでいたという。大阪大学の作田教授もおかしな先生で、鹿児島の観光名所、磯庭園の集成館に案内した。1時間経ってもでてこない。薩摩藩主、島津成彬の頃に行われてガラス工場、反射炉など近代産業の遺産を展示しているところで、前もって見学したが、それほど広くなく、せいぜい30分では十分に回れる。館内に入ると、もう一人の先生と共に、展示一つ一つの解説を読み、デスカッションをしていた。

 

この当時、仙台でも確か1、2軒しか矯正専門医院はなく、また鹿児島は駅前に田中矯正歯科医院だけであった。もちろん青森県には矯正歯科医院はなかった。口蓋裂の患者さんの矯正歯科が保険適用となったのは1982年、その後、学校歯科検診でも不正咬合の項目ができ、標榜科目名には矯正が加えられた。長い間、矯正治療は美容であり、医療ではないと言われていて、こうした動きは矯正歯科学会の悲願であった。どちらかというと歯科では補綴と口腔外科がメインで、矯正歯科は継子扱いされていただけで、医療扱いされるようになったのは嬉しいことであった。その後、外科的矯正やダウン症による不正咬合も保険適用となり、現在では60以上の先天性疾患に起因する不正咬合の治療は保険適用となっている。

 

口蓋裂患者の矯正治療を主として大学病院で行われることが多く、私の場合も東北大学の幸地省子先生が恩師であるが、最近では開業医の中に熱心に治療され、優れた臨床結果を示

先生が多くなった。府川俊彦先生、平川崇先生や石渡靖夫先生など神奈川県の先生が頑張っている。こうした先生は、医療としての矯正治療を強く意識しており、実際の症例も見ても、ほぼ健常児と変わらない仕上げとなっており、不利を覚悟して、専門医試験にもこうした症例を出してきた。確か石渡先生は3例出したと思うが、私も一例だけ出したが、限界であった。口蓋裂は500600人の一人の頻度であり、最近の少子化に伴い、青森県でも年間10名程度、南部の八戸などは岩手医大に行くことも多いので、私のところに来る患者は年間56名程度となる。それでもこれまでで300人以上は見ているので、開業医としては多い方であろう。

 

口蓋裂患者の矯正治療をこれといって特殊なものではなく、何といってもプライマリーの手術が全てを決める。これは完全の術者の技能に依存し、できるだけ綺麗に目立たなく、顎の成長を抑制せず、そして言語成績も良いという条件を満たす手術が望ましい。特に口蓋部の裂隙をあまり左右の粘膜を引っ張ると、上顎骨の横、前への成長が抑えられ、矯正治療も難しくなる。逆にプライマリーの手術が良ければ、骨移植術などによりほぼ通常の矯正治療と同様な経過で治療することができる。ただ矯正歯科医としては、どのような症例についても、それなりに仕上げていく能力が必要であり、特に地方では歯科大学病院がないため、同じような役割が開業医に求められ、それが一つのやりがいにもなっている。


2023年6月10日土曜日

矯正歯科専門医 1

 







厚労省から、日本の歯科学会の会員数と専門医数が発表されている。それによると最も会員数の多い学会は、日本口腔インプラント学会で会員数は14003人で、専門医と専修医合わせて1756名、12.5%となる。設立は1986年で大学にインプラント講座がほとんどない現状を考えると人気のある学会である。次に大きな学会は、日本口腔外科学会で、会員数は10203名で、認定医、専門医、指導医合わせて3694人、会員数の36.2%となる。設立は1933年で、昔から最も会員数の大きな学会で、第一、第二口腔外科などのように2つの講座をもつ歯科大学が多かった。三番目は日本顎顔面補綴学会で、会員数は8490名、認定医と指導医合わせて3367名、39.7%で、会員数の割には認定医数が多い。この学会も創立は1984年で新しい。

 

日本矯正歯科学会は、会員数6373人で、認定医数は2884名、専門医は297名で、専門医は認定医でもあるので、45.3%となる。1926年に創立され、もうすぐ100周年となる。歯科の専門学会では一番古い。ちなみにアメリカ矯正歯科学会は創立が1900年で、 会員数は19000名で、会員の多くは矯正歯科専門医で、日本の認定医に匹敵するメンバーであり、日本の3倍から6倍くらいの規模となる。

 

アメリカでは、矯正歯科医は収入が多いため、3年間の大学での研修コースは人気が高く、なかなか入学できず、授業料も年間1000万円くらいかかる。3年間の大学院コースを終了すると、矯正歯科専門医院で勤務し、数をこなしてから、引退した先生の医院を格安で手に入れて、できるだけ早く借金を返し、その後は貯蓄に励み、60歳から遅くて70歳には引退する。こうした循環はかなり早くからできていて、鹿児島大学にいた頃だから1980年代のアメリカ矯正歯科学会雑誌の最後のページには医院売りたしの広告が多く載っていた。少し変則的な方法としては、世界各国に散らばる軍関係の施設に勤務して、学生の頃の借金を返す先生もいて、青森県の三沢米軍基地の先生の多くはそうであった。基地勤務の兵士はただで矯正治療を受けられるため、数多くの患者を見ることができ、臨床技術が上がるというわけである。

 

現状、日本矯正歯科学会の問題は、ズバリ専門医のことである。最初に述べたように日本矯正歯科学会の認定医は2884名いるが、専門医(臨床指導医)は297名しかいない。現在、途中で止まったままになっている日本歯科専門医機構の矯正歯科専門医は、日本矯正歯科学会の専門医と他学会の認定医から受験できるようにしたため、第一回の合格者は300名程度と予想される。一旦、専門医機構の制度が施行されると、これまで日本矯正歯科学会認定医とネット上で広告できていたことが禁止となり、新たな専門医機構認定の矯正歯科専門医のみが表示できる。受験者を見ると平均年齢で60歳を超えており、引退する先生と新たに受験する先生を考えると、目標とする1000名以上の専門医数になるのは10年以上かかるであろう。例えば、青森県の場合、認定医を持つ先生は10名、そのうち臨床指導医は1名で、新しい専門医になるのはこの一人で、なおかつ65歳以上の先生が4名で高齢化が進んでいる。宮城県が、認定医が90名、そのうち臨床指導医が7名、岩手県が、認定医が38名に、臨床指導医が2名、秋田県は認定医が9名、臨床指導医が3名、山形県は認定医が15名、そのうち臨床指導医は3名、福島県は認定医が27名、臨床指導医は0名となっている。新しい専門医制度が施行されると、広告できる矯正歯科専門医の数は、知っている限り青森県は1名、宮城県は7名、秋田県は3名、岩手県が2名、山形県が3名、福島県が1名となり、東北で17名しかいないことになる。少なすぎて、増加する患者をこの数でカバーすることはできない。ただ認定医、臨床指導医の割合は、東京、都市部に偏っており、東京都の認定医は750名、臨床指導医は85名、神奈川が307名と42名、千葉、埼玉も合わせると、認定は1392名、臨床指導医は159名とそれぞれ全国に半分近くを占める。認定医で言えば、愛知県が186名、京都府が64名、大阪府が228名、兵庫県が135名、福岡県が182名で、計695名、関東と合わせて2077名で、全国の70%以上が都市部となる。

 


2023年6月7日水曜日

アジアの中の日本

 



先日、東京都美術館にアンリー・マティス展を見に行った。ポンピドーセンターなどフランスの美術館の収蔵品を集めたものである。日本にも26のマティスの作品があるが、不思議なことにあれほど近年、経済成長をしている韓国、中国などアジア諸国にはマティスの作品はない。それどころか、ゴッホ、ルノアール、ゴーギャン、あるいはピカソなどの作品も日本には多くあるが、マティスと同じく韓国や中国の美術館にはない。もちろん、中国の大金持ちは一種の投機として有名作品を購入し、個人蔵としているが、それを博物館に寄付する段階までは行っていない。欧米のほとんど作品は、美術館自体が購入したものもあるが、多くは個人の寄付によるもので、日本を除く、韓国、中国では、こうした西洋絵画の収蔵、展示についてはかなり遅れている。

 

おそらく明治から大正の頃に、ヨーロッパを訪問した日本の金持ちが、当時、人気のあった印象派、キュビズムの作品を購入して、日本に持ち帰ったのだろう。こうした作品は今では市場価格が途方もなく上昇して美術館では購入できない金額になっている。明治、大正、すなわち19世紀後半から20世紀初頭にかけて、西洋絵画に関心のあるアジアの国は日本以外にはない。中国は辛亥革命などの混乱、韓国に至っては日本の植民地となっており、もちろんタイ、ベトナム、インドネシアでは、それどころではない。アジアでは最も早く、西洋化し、産業革命に伴うブロジョア階級が出現した国であった。ようやく中国の近代化、あるいは西洋化が始まったのは、1980年以降、韓国でも朝鮮戦争の終結した1953年以降であり、金持ちが西洋絵画をコレクションし、私設美術館を建てるようなことはできなかった。

 

これは一例であるが、音楽でも、ビートルズは、フィリッピンや香港などアジア公演をしているが、多くのロックバンドは日本以外の国には演奏しておらず、同様にクラシックにおいても名指揮者、名ピアニストの多くは日本で公演したが、韓国、中国では公演していない。音楽分野でも西洋化という面では日本はアジア圏では歴史が古く、圧倒的に強い。こうしたこともあり、最近でこそ韓国出身の音楽家やエンタテイナーが活躍しているが、その歴史は新しい。またスポーツにおいても、サッカー、野球、ラグビー、陸上、水泳、それこそあらゆるスポーツのアジアでの嚆矢は日本である。日本が最初にオリンピックに参加したのは1912年のストックホルム大会からであるが、韓国が参加したのは1948年のロンドンオリンピックから、中国は1984年のロサンジェルス大会からで、アジア初の陸上、水泳のメダルも日本が取ったと思う。さすがに文学では、インドのダコール、中国の魯迅という偉大な文学者がいるが、それでもノーベル文学賞という観点では日本には川端、大江の二人がいる。

 

日本はアジアの近代化、西洋化の最先端を走っていたのは間違いなく、その範囲は、あらゆる領域に含まれ、逆に言えば、日本以外のアジアの諸外国が初めてというものはほとんどないと言ってもよい。現在、日本のGDBは世界で3位、中国は世界で2位、韓国は13位、インドネシアが16位、台湾が21位、タイが27位、シンガポールが34位、マレーシアが36位、ベトナムが37位となっている。フィリッピンを除くと日本に近い国、戦前、日本が占領した国のGDBが高い。ちなみにアフリカでトップのGDBはアラブ首長国連邦で30位、南米のトップはメキシコの14位、コロンビアの44位となる。

 

さらに考えると、中国の近代化の始まり、辛亥革命などにも日本は影響力を示しており、同様に韓国、朝鮮王朝の崩壊については直接、日本が関与した。中国、韓国側からすれば、日本が両国の近代化を阻害したとするが、もし日本という国がなければ、東アジアあるいはアジアはどうなっていただろうか。おそらくアフリカまではいかないが、南米、中南米くらいだったのかもしれない。中国の清王朝は、領土のあちこちを欧米に植民地化され、朝鮮李王朝は、ロシアの領土となったであろう。さすがに第二次世界大戦後の民族運動の高まりに伴い、中国でも朝鮮でも独立運動が起こり、独立国となろう。ただ欧米人にとっては、白人の住まないアフリカ、アジアはあくまで搾取する場所であり、自分たちと経済的に競合するような国にはしないと思われ、今日のような中国、韓国の発展になったかは疑問である。

 

模倣するのは創作するよりよほど簡単で、この百年間、全て日本を模倣してきたアジア諸国は、ある意味、経済的には日本と肩を並べるようになったが、創作の難しさに直面する。すでに家電業界ではサムソンが松下など日本家電企業を追い越した時点から、ほとんど画期的な新製品を作れないまま、中国のハイアールに抜かれ、ここも既存製品の改良にとどまっている。これまで日本のコピーで成長してきたアジア諸国が、画期的なもの、シャネルのようなブランドを作るにはまだまだ難しい。


2023年6月2日金曜日

堆雪帯を利用した自転車専用レーン 2

 



新潟県の長岡市は、弘前同様に雪の多いところである。平成27年から長岡市の都市部整備部が中心となって、自転車ネットワーク計画を策定し、実施している。高校生など学生を中心に自転車を通学、通勤に使う割合が多いことから、市内の中心部を中心に自転車ネットワークの整備計画を策定した。

1.     自転車ネットワーク路線の抽出

まず利用者のニーズや通学、通勤、買い物あるいは病院、公共施設あるいは観光資源を活用したネットワーク形成を行い、基幹ネットワーク、幹線ネットワーク、広域ネットワーク(将来)を設定した。

2.整備手法の選定

ネットワーク路線の自転車走行空間の設定方法としては、1。車道に自転車走行空間を設定する、それができなければ、 2. 自転車が通行可能な歩道においては歩行者、自転車双方が安全に通行できる空間を確保する、3. どちらも無理な場合は代替路の活用を検討する。

 1については、自動車の規制速度が50kmを超える道は、幅2m以上で分離工作物を設置して自転車レーンと車道を分離する。規制速度が40kmあるいは自動車交通量が4000/日を超える道は、幅1mの自転車専用通行帯を整備して視覚的分離を図る、そして規制速度が40km以下、通行量が4000/日以下は路肩のカラー化で対応し、さらに歩道を利用する場合は、歩道の車道寄りを利用する。

3.整備の基本的な考え

自転車レーンは幅員を道路交通法に従い1m以上とし、路面についても自転車の安全性確保のために平坦性の確保、走行の妨げになる段差や溝の解消を図る。

4.推進体制

自転車走行空間の整備には、計画は長岡市の交通政策課、道路管理課、土木政策調整課、長岡国道事務所、長岡地域振興局、そして実施は、道路管理課、長岡国道事務所、長岡地域振興局、そして協力は新潟県警、交通事業者、商店街、自治会などとなっている。

 

国土交通省が提唱した自転車ネットワーク計画については、平成24年の段階で計画策定を予定しているところは全国で229市町村、3割足らず、残り7割は今後とも計画を検討していないとなっている。青森県に至っては1件、10%しか計画策定を予定しておらず、残り90%は計画を検討していない。ただ実は、この1件は何と弘前市で、青森市、八戸市、五所川原市など他の市町村は今後とも計画を検討することを考えていないと回答している。青森県、秋田県、山形県など積雪地帯では、秋田県では9市全てが検討しないと回答し、山形県では15市町全て検討しないとしている。そして検討する必要がないとした理由は、青森市、八戸市、五所川原市は、積雪寒冷地で自転車利用ができる期間が短いためとしている。秋田県では、検討する必要がない理由は、自転車に関連する事故が少ない、今後必要に応じて検討となっているが、雪を理由に整備する必要はないと回答した市町村は、青森市、八戸市、五所川原市、以外には北海道の音皿村、黒石市、福島県の喜多方市、新潟県の十日町市、魚沼市しかない。雪が多いと言っても自転車が乗れない期間は12月から3月までのせいぜい4ヶ月で、残り8ヶ月は完全に無視したバカな回答である。この論理で言えば、冬場は雪にために使えない野球場やテニスコートは必要ないし、逆に夏場のみ利用の公営プールや八戸のスケート場も必要ないことになる。要するに自動車依存県では、車以外の乗り物には興味がないのである。この国土交通省の事案について青森県で弘前市が唯一、今後、計画したいと回答したのは、たまたま当時の市長が建設畑で、こういう話に乗り気であっただけで、今の市長は関心がない。ただ逆の言い方をすると、青森県の場合、雪対策の一つとして道路の幅員の拡張し続けてきた。結果として、雪にない県より道幅が広くなり、自転車ネットワークのために道路拡張をする必要もないし、片側二車線の道に自転車専用レーンを造るために一車線にする必要もなく、あまり費用、手間をかけずにネットワークを形成できそうである。こうした利点を有効に活用すれば、一気に全国的にも優れたネットワークを作れる可能性がある。ちなみに弘前市の自転車ネットワークについては弘前市議の伏見さんが平成28年に進捗状況を質問しているが、録画が見れないため、担当者の回答はわからないが、令和5年現在、その残滓はない。


2023年6月1日木曜日

堆雪帯を利用した自転車専用レーン 1

 




これくらいスペースがあれば安全、



先日(5/31)の東奥日報の明鏡欄に「堆雪幅を自転車レーンに」を載せていただいた。わずか480字のコメントなので、もう少し詳しくここで説明したい。

 

最近の自転車ブームを反映して、かっこいいロードバイクに乗る若者を見ることが多くなった。高そうな自転車に、ヘルメット、バイクウエアに身を固め、颯爽と走っている。爽快な気分で、楽しいであろう。ただ車を運転する人からすれば、こうしたスピードのでるロードバイクは大変危険な代物で、接触事故はそのまま大事故に発展するため、自転車に乗っている人、自動車に乗っている人、双方とも緊張する。道路交通法によれば、自転車は原則的には車道を走ることになっており、歩道を走る場合は、歩行者に気をつけて徐行速度で走ることになっているが、これも通学通勤の自転車、特に中高生の運転は荒く、近年、自転車と歩行者の接触事故で歩いている老人が亡くなるケースも出ている。さらに歩道は必ずしも自転車走行には向いておらず、車道と歩道の境に大きな段差があると、細いタイヤのロードバイクではタイヤのパンクや転倒にもつながる。

 

道路交通法では自転車は車道を走れと言いながら、実際に走るのは車道の側面に引かれた白線の内側ということになる。最近、電動アシスト自転車を買ったので、弘前市内のあちこちを走っているが、横に側溝がある場合、これも危険で、この溝にタイヤが挟まれると、即転倒、けがにつながるので、まずよほど太いタイヤをはいていなければ、側溝を自転車で走ることは避ける。そうすると、実際走れる幅は、車道の横に引かれた白線内で、側溝を除く部分となる。この幅が1mあれば余裕で走行できるが、道によっては10cmくらいしかないところもある。こうした道では、自転車は幅10cmくらいの白線上を綱渡りのように走行することを余儀なくされる。これは難しい。

 

青森県のような雪に多いところでは、雪が多く降った場合は、除雪車でその雪を道の横に移す。積まれた雪がどんどん溜まると、道幅が狭くなり、最悪の場合は通行できなくなる。こうしたこともあり、道を造る時にあらかじめ、雪を置くスペース、これを堆雪帯と呼ぶが、を計画する。弘前市で言えば、ここ20年くらいで作られた道はほぼ、この堆雪帯を有する。ただこうした計画を立てるときに、自動車と歩行者の観点はあっても、自転車の観点はほとんどなく、新たに作られた道でも自転車専用レーンを有するところはない。それではこうした堆雪帯はどこに作られたかというと、ひたすら歩道を広げることにした。今時、歩道を歩く人は東京と違ってほとんどおらず、1時間に歩行者数は10名もないところに幅5mの歩道を作る意味は全くない。むしろ堆雪帯を作るなら歩道の幅を広げるのではなく、自転車専用レーンを作るべきである。この例で言えば、5m幅の歩道を作るなら、1mの自転車専用レーンと4mの歩道を作るべきであった。計画の段階でこうした発想が全くなく、銀座の歩道のようなイメージで幅広い歩道を作ったわけであるが、全く役に立っていない。ただ役所の発想にも同情すべき点があり、昔は、自転車は歩道を走るものとされていて、今のように自転車は車道を走るという認識が定着したのは最近のことである。

 

それでは現状の道路で、自転車専用レーンは作れないかというと、それほど予算がかからず、作ることができる。まず、道路横の白線内に自転車マークを入れるだけで専用レーンとなる。幅が1m以上であれば、問題ないのであるが、1m以内であれば、その対策を考える。右折車用に二車線の道を三車線にしているところがある。二車線のところではこの白線内の幅が1mあっても、この3車線のところでは急速に狭くなり30cmを切るところがある。確かに右折レーンがあれば、朝夕のラッシュ時では車はスムーズに進むが、一方、それほど右折車がいないのに、直進レーンの道路幅が狭くなり、自転車と接触するリスクが高くなる。さらにいうと、冬になると道の両脇に雪が積もり、どっちみち、右折レーンはさらに厳しくなる。無理に右折レーンを作る必要はなく、二車線で両脇に1mの自転車専用レーンと歩道で解決する。また二車線だが、道幅は狭く、逆に歩道が広い場合は、歩道の車道側に1mの自転車専用レーンを設け、できれば、交差点での車道とこの歩道の自転車レーン段差をなくしてほしい。さらにいうと、歩道と車道の交差点の段差がたとえ1cmでも高齢者にとってはつまずきの原因となるため、歩道も車道と同じ高さにしても良さそうだが。

 

こうした自転車専用レーンについては、すでに新潟県長岡市では積極的に行政が主導して整備しているし、国土省も自転車利用環境の整備を本格化しており、何らかの整備助成費なども出ていると思う。できれば、こうした制度を利用し、青森県でも堆雪帯を利用した自転車専用レーンの整備をお願いしたい。

 

近年のエコブーム、温暖化対策に伴い、欧米、特にヨーロッパでは、脱クルマ社会が叫ばれ、市内への車の侵入禁止などにより自転車、鉄道、路面電車の利用が活発化している。それに伴い急速に自転車専用レーンが普及している。自転車先進国では、アシスト自転車が物資の移動手段として活用され、100kg以上の荷物の運搬にも使われている。こうした中、どこに行くにも車を使う、一人一台車がある、車がないと病院、買い物などができない、などある意味、車依存社会となっている青森県では、常に車が優先されてきた。一方、歩行者、自転車についてはほとんど省みられることもなく、放置されてきた。一方、冬場のクルマ利用の障害となる雪を除雪するために弘前市でも毎年10億円以上の予算を使っていて、文字通りこの予算は水と消えるものである。また除雪以外にも道路拡張の工事費や毎年の路面整備など、莫大な予算を投下している。こうした雪対策はせいぜい雪が降る1月から3月ころの3ヶ月のことであり、逆に言えば、これ以外の9ヶ月は、無意味なものとなる。せめて冬場の予算の一部がそれ以外の季節にも活用できる方法として、堆雪帯を利用した自転車利用の整備、専用レーンの設置を検討してほしい。








白線内を自転車での走行は無理、右折車線を廃止すれば、自転車専用レーンは可能