2009年9月21日月曜日

山田兄弟21


 残念なこととうれしいこと。来年2月18日は山田純三郎の没後50年にあたる。そのため、昨年から弘前市の関係者に「山田純三郎没後50年企画展」を企画、提唱してきたが、どうも実現は難しいようである。

 山田兄弟の資料の多くは、現在愛知大学に保存されている。昨年、愛知大学主催で山田兄弟企画展が弘前で行われたが、展示場の関係からその資料の一部を紹介したにすぎず、私個人としては他の資料も見たいと考えていた。その折、愛知大学の同窓会、霞山会の方や愛知大学の先生にお会いして、50年企画展の構想を話すと、大変協力的で、いい感触をもった。さらに幸運なことに、愛知大学の新学長は弘前の出身で、家内の親類でもある。

 ある人にこの企画展のことを話すと、どうしても企画展をしたいなら個人でやればと言われたが、山田兄弟と孫文の資料は中国や台湾では貴重な国宝級の資料であり、それを個人で借りることはできない。やはり責任をもって保管できる施設、市ないし県が正式に依頼しない限り、大学としてもおいそれと貸し出す訳にはいかない。

 台湾では馬総統により、従来の中国との関係が見直され、どちらかというと国民党寄りの山田兄弟についても、台湾—中国政府としては重要な存在になってきている。事実、今年は孫文を描いた映画(孫文 百年先を見た男)も上映中で、日本—中国—台湾をつなぐ孫文と山田兄弟の存在にも今後脚光があてられてくるであろう。そのため企画展において中国、台湾政府の協力を得ることは十分に可能であり、中国、台湾の博物館にあるにある山田兄弟の資料の貸し出しも可能かもしれない(台湾には戦後、山田純三郎が寄付した孫文関係の資料がある)。

 さらに没後50年というのは生前の純三郎を知っているひとがぎりぎり生存している可能性があり、この企画展を通じて新たな資料の発見も期待できる。

 どうも市の関係者には、戦前の中国革命の協力者=満州=軍国主義といった発想があるのか、できるだけ戦前の歴史にはふれたくないといった気配がある。太宰や石坂洋次郎などの小説家はいいのだが、政治運動に関わった、特に戦前の軍部に関わった人はだめだということのようである。

 2000年は山田良政の没後100年に当たり、霞山会が主体となりシンポジウムを開催し、立派な本も出版された。この時も、地元弘前では何のイベントもなく、唯一東京在住の有志が企画して貞昌寺でしのぶ会が開催され、台湾政府からも大使にあたるひとがやってきた。今回の50周年を逃すと、節目の年は後何十年先になるが、このまま何もないのは弘前市民としては恥ずかしいことである。

 うれしいこととして、今年8月に保阪正康さんの「孫文の辛亥革命を助けた日本人」(ちくま文庫、2009)が筑摩書房から出版された。これまで、山田兄弟について書かれた本はすべて絶版になっており、古本やなどで探さないと読めない状況であった。これではなかなか世間の関心を引くことはできない。そんなこともあり、保阪さんが1992年に出版した「仁あり義あり、心は天下にあり 孫文の辛亥革命を助けた日本人」(朝日ソノラマ)の文庫化、新書化をお願いするため、版権を持っているであろう朝日新聞の書籍部に昨年メールした(くわしくは山田兄弟14を参照にしてください)。一市民からの要望に、朝日新聞からの反応は当然なく、何の連絡もなかったが、この度偶然であろうが、この本の文庫化が筑摩書房でなされた。没後50年を迎える時に保阪さんの著書がこういったかたちで出版されたのは本当にうれしいし、山田兄弟の供養になった。感謝するとともに、多くの方が読まれるのを期待する。できれば地元、弘前の紀伊国屋書店の月刊売り上げベスト10くらいに入るように、読者の方も買っていただき、一人でも多くの方が郷土の先人の生き方に触れていただきたい。。

2009年9月13日日曜日

珍田捨巳 9



 昭和天皇の評伝としては、ハーバート ビックス著「昭和天皇」などがあるが、日本人には昭和天皇はあまりみじかすぎてこれまでまとまった日本人による評伝はなかった。福田和也著の「昭和天皇」は現在3巻まで発刊されているが、これまでの評伝の中では最も傑出したものである。当たり前のことであるが、昭和という時代を最も体現したのが、昭和天皇であり、その人生はそのまま昭和日本を写している。この本の第二巻は主として、摂政時代の昭和天皇とヨーロッパ外遊のことがくわしく述べられており、興味深い。ただこの本の難点として、あるいは一般的な評伝についても当てはまるが、写真が少ないのが残念である。著作権などの問題が多いのだろうが、写真のリアリティーをもっと活用してほしい。

 天皇自身も後に語っているが、その人生で最も楽しかった思い出は、このヨーロッパ外遊であった。それまで宮中という籠の中で育った天皇にとって、この旅行ほど自由で、のびのびとした体験はなかったのであろう。この外遊を統括してすべての段取りをしたのが珍田捨己であった。老齢にさしかかった珍田にすれば、天皇は自分の孫ほどの関係であるが、初の国際舞台へのデビューをつつがなく行うのが、珍田の責務であり、また珍田や原敬、牧野ら西洋的な立憲君主制を目指す人たちにとっては、天皇教育の集大成でもあった。正直失敗し、天皇の恥となるようなことがあれば、それこそ切腹を覚悟したであろう。

 この任にふさわしい人物として原敬や山県有朋ら、政府重臣が一致して推挙したのが珍田であった。その語学力や海外での豊富な経験が理由であったろうが、言うべきことはいい、それでいて人を明るくさせる珍田の性格が愛されたのであろう。ヨーロッパに行く船中で珍田が天皇に西洋流の礼儀作法を教える場面を福田は  「貴婦人役の二荒芳徳の前に立ち、微笑みつつ頭を下げ、その手をとり、腕をくんで、胸のあたりに手がくるように姿勢をただす。「こうでございます、殿下、試してきてくださいましぇ」とズーズ弁で云う」と描く。ユーモラスなシーンである。それまで国際マナーなど全く知らない天皇にすれば、スピーチの仕方から立ち振る舞いまで、こまごまとしたことを覚えなくてはいけなく、若い天皇にとっては閉口したことであろうが、珍田のおかしさに救われたことであろう。
 
 イギリス国王はじめ、各国の首脳と天皇との会談は、機密事項が多く、ほとんど珍田が通訳したと思うが、ジョージ五世が語り、それを珍田が津軽弁でぼそぼそと天皇に通訳し、天皇がしゃべり、それをまた国王に通訳する、こんなやり取りがあったのだろう。天皇の宿泊所のウンザー城にジョージ五世が一人で突然現れ、珍田、天皇、国王の3人で話しあったことがあった。後に天皇は「ここでイギリスの立憲政治のあり方を話しあい、それ以降、立憲君主制の君主はどうなくちゃならないかを始終考えていたのであります」と語っている。珍田自身演説はうまくはなかったが、アメリカ領事であった時はウイルソン大統領やブライアン国務長官とは私生活でも本当に懇意であり、国籍を問わず珍田の人柄が誰からも愛された。そういった意味で昭和天皇のヨーロッパ外遊の通訳としてこれほど適した人物もいなかった。

 後年、昭和天皇が生涯で最も楽しい記憶を思い出す時、珍田のぼそぼそした津軽弁も脳裏によぎったにちがいない。戦後、自分の子ども秩父宮と津軽家の華子妃殿下の婚儀に際しても、存外珍田の縁が関係しているのかもしれない。

 写真上、イギリスのロイド・ジョージ首相と歓談中の昭和天皇、右端に珍田の姿が見られる。写真下はエディンバラ訪問中の昭和天皇、右隣に珍田がいる。ひげの人物は閑院宮載仁で、当時陸軍大将として随行した。いくら天皇の叔父とはいえ、主役を差し置きややしゃしゃりですぎであろう。

2009年9月6日日曜日

顎顔面矯正治療


 鹿児島市で開業しているくろえ矯正歯科の黒江和斗先生の「顎顔面矯正治療のすすめ」の講義を8月2日(日曜日)に青森県歯科医師会館(青森市)で受けてきました。

 ちょうどねぶたの時期で、大阪から母親が来ていたため、講演後の黒江先生の懇親会に出られず残念でした。

 黒江先生は、私が鹿児島大学歯学部矯正歯科学講座にいた時の指導教官で、私にとってはいわばお師匠様になるわけで、何でも言うことを聞かないといけません。黒江先生とはそれ以外にもねずみの実験、十島村歯科巡回診療、ヨットなどでもお世話になり大変感謝しています。典型的な薩摩勇人で、小さいことにはくよくよせず、誠実な性格で、歯科医より戦国の武将の方がよかったかもしれません。ご自身も飛行機が好きで、ライセンスを持ち、友人の飛行機であちこち行っていました。一度、アメリカから来たウイリアムソンという矯正医を飛行機に乗せて、大学病院を周回したことがあります。医局員は診療中でしたが、それに気づき、診療をやめ、窓から手を振ると、それに答えて黒江先生の飛行機も病院前の空でウイングを振ってくれました。確か、お父様も戦時中は輸送機のパイロットで、あの有名な陸軍トップエースの黒江保少佐も親類だと聞きました。血が空を飛ぶのが好きなのでしょう。また素潜りも得意で、海中をそれこそ20、30M、2分間くらい潜ります。すごいものです。

 今回の講演会では、主として急速拡大装置による上あごの拡大による治療方法の説明でした。大変きれいな症例で、よく非抜歯でなおったなあという症例が何症例かありました。改めて人間の適用能力に驚きます。

 上あごについては、正中口蓋縫合が癒合していなければ、かなり拡大は可能です。急速に拡大することでこの縫合部が開き、その状態で置くと、同部の骨化が起こるため、安定しています。問題は下あごの拡大です。黒江先生も下あごの拡大は直立といっていましたが、拡大されることであくまで歯が直立するわけで、歯槽骨は拡大しません。ウイルソンカーブという正面から見て、左右の奥歯の咬む面を結んだカーブはあごが狭い人では急で、あごの広いひとでは緩くなっています。ゴリラなどではほぼ平行になっているようです。つまり下あごの拡大は最高で下の奥歯を平行にするのが限界だということです。それ以上に拡大して奥歯の咬む面が外を向くような状態はあり得ません。また骨による拡大でないため、頬からの圧力、舌の圧力などの平衡関係によって安定性が決定してきます。広げても頬の圧が強いと再び狭くなります。上あごはかなり拡大するし、安定もするが、下あごの拡大には限界があり、不安定だと言えると思います。

 拡大するのか、歯を抜くのか、この判断は相当難しく、一種のひらめきで決めてしまいます。黒江先生なら拡大を、私なら抜歯という選択の分かれが出るかもしれませんが、矯正専門医ではこの診断の幅、治療の仕上がりなどはある程度の範囲に収まっています。ある程度拡げても戻ってしまうようなら、抜歯にすればよいだけですが、あまり非抜歯にこだわるととんでもない噛み合わせになってしまいます。

 講義の中で、離乳期の発達過程として、離乳初期(5〜6か月)の舌の動きは前後的であるのに対して、離乳中期(7〜8か月)では舌を上下に運動させて食物を押しつぶすことが可能になり、哺乳期、離乳期の舌機能の発達不良が後の舌の突出癖や運動異常につながるようです。育児書を見ると、生後5,6,7か月用の離乳食はそれぞれ、これとほんとにきめ細かく離乳食のメニューが載っています。またベビーフードの種類も本当に多く、これほど手をかけないと赤ちゃんが育たないのかと考えさせられます。逆にあまり手がかけすぎることが舌機能の発達を阻害するのかもしれません。

2009年9月2日水曜日

忠霊塔



 禅林街にある長勝寺に母と家内と一緒に行ってきました。20年ほど前に一度行ったことがありますが、本堂が改築されていて前の印象とは違うようです。以前はもっと雑然とした印象でしたが、今回はすっきりした、いかにも禅寺といった感じになっていました。

 団体さんに紛れ込んで、ガイドさんの説明を聞いていましたが、あまりに熱心に色々なところを案内してもらい、無料で案内してもらうのもばつが悪く、途中拝観料を払ってきました。

 出口の山門の右手に高い塔が立っています。忠霊塔といって太平洋戦争で亡くなった人々を慰霊するためのものです。戦前、多くの県で忠霊塔や忠魂碑が作られましたが、戦後GHQの命令でこういった戦争を思い出す施設はほとんど取り壊され、日本でもこれだけ立派な忠霊塔が残っているところは少ないと思います。何でも仏舎利塔ということにして、GHQの命令を無視したようです。せっかく浄財を集めて作ったのに壊すのをおしかったのか、あるいはなんで戦争に負けたからといってすぐに壊さなくてはいけないのかと思ったのかもしれません。いかにも反骨の津軽らしいところです。

 案内板は大分さびが出て、読みにくいのですが、ノモンハンやニューギニアなどの激戦地の土や石を持ち帰り、それを壁の材料に使ったようです。一階はかぎがかかって公開されていませんが、以前行ったことのある人によれば部屋になっていて、写真などを展示しているようです。

 弘前城内の護国神社内にも多くの碑が立っており、英霊の御霊を重んじるつがるの人々のけなげな気持ちが偲ばれます。母親の兄、私のおじは下士官で、インパール戦で戦死しました。二等兵からの叩き上げで、中国戦線の後、インパールに転戦して、そこで亡くなりました。出征にあたり祖母はおじに「これでチャンコロを切ってはいけませんよ。チャンコロでもおとうさんもおかあさんもいるのだから」と言って、軍刀を渡したようです。また戦中、おじの戦友が祖母のところに来て、おじが戦死したと一旦報告したようですが、途中人違いに気づいて、再び祖母にさっき言ったのは間違いだったと訂正したようです。祖母は喜びのあまり、近所の八幡神社に飛んで行って、お礼に行ったようですが、帰るとうなだれて、戦死したひともいるのに私だけ、こんなに喜び、本当に恥ずかしい、とぽつりともらしたようです。結局は戦死し、ぬか喜びだったわけですが。

 私の父も東京歯科専門学校(現東京歯科大学)から学徒で出陣し、昭和16年に中国戦線、敗戦時は黒龍江のソ連国境付近におり、そのまま捕虜になり、モスクワ南方の捕虜収容所に2年間いました。都合6年間出征したことになります。戦争経験者の多くは口がかたく、この当時のことはめったに語りませんが、酔ったときなどに昔の話しがでてきます。本当に濃い記憶があるようで、細部にわたって記憶しています。戦争という生死がかかった状況は、何十年たっても鮮明な記憶としてあるのでしょう。

 忠霊塔の奥には、岩木山を眺める絶好のスポットがあるようです。今回は行きませんでしたが、天気のいい日に一度行ってみようと思います。