2009年9月13日日曜日

珍田捨巳 9



 昭和天皇の評伝としては、ハーバート ビックス著「昭和天皇」などがあるが、日本人には昭和天皇はあまりみじかすぎてこれまでまとまった日本人による評伝はなかった。福田和也著の「昭和天皇」は現在3巻まで発刊されているが、これまでの評伝の中では最も傑出したものである。当たり前のことであるが、昭和という時代を最も体現したのが、昭和天皇であり、その人生はそのまま昭和日本を写している。この本の第二巻は主として、摂政時代の昭和天皇とヨーロッパ外遊のことがくわしく述べられており、興味深い。ただこの本の難点として、あるいは一般的な評伝についても当てはまるが、写真が少ないのが残念である。著作権などの問題が多いのだろうが、写真のリアリティーをもっと活用してほしい。

 天皇自身も後に語っているが、その人生で最も楽しかった思い出は、このヨーロッパ外遊であった。それまで宮中という籠の中で育った天皇にとって、この旅行ほど自由で、のびのびとした体験はなかったのであろう。この外遊を統括してすべての段取りをしたのが珍田捨己であった。老齢にさしかかった珍田にすれば、天皇は自分の孫ほどの関係であるが、初の国際舞台へのデビューをつつがなく行うのが、珍田の責務であり、また珍田や原敬、牧野ら西洋的な立憲君主制を目指す人たちにとっては、天皇教育の集大成でもあった。正直失敗し、天皇の恥となるようなことがあれば、それこそ切腹を覚悟したであろう。

 この任にふさわしい人物として原敬や山県有朋ら、政府重臣が一致して推挙したのが珍田であった。その語学力や海外での豊富な経験が理由であったろうが、言うべきことはいい、それでいて人を明るくさせる珍田の性格が愛されたのであろう。ヨーロッパに行く船中で珍田が天皇に西洋流の礼儀作法を教える場面を福田は  「貴婦人役の二荒芳徳の前に立ち、微笑みつつ頭を下げ、その手をとり、腕をくんで、胸のあたりに手がくるように姿勢をただす。「こうでございます、殿下、試してきてくださいましぇ」とズーズ弁で云う」と描く。ユーモラスなシーンである。それまで国際マナーなど全く知らない天皇にすれば、スピーチの仕方から立ち振る舞いまで、こまごまとしたことを覚えなくてはいけなく、若い天皇にとっては閉口したことであろうが、珍田のおかしさに救われたことであろう。
 
 イギリス国王はじめ、各国の首脳と天皇との会談は、機密事項が多く、ほとんど珍田が通訳したと思うが、ジョージ五世が語り、それを珍田が津軽弁でぼそぼそと天皇に通訳し、天皇がしゃべり、それをまた国王に通訳する、こんなやり取りがあったのだろう。天皇の宿泊所のウンザー城にジョージ五世が一人で突然現れ、珍田、天皇、国王の3人で話しあったことがあった。後に天皇は「ここでイギリスの立憲政治のあり方を話しあい、それ以降、立憲君主制の君主はどうなくちゃならないかを始終考えていたのであります」と語っている。珍田自身演説はうまくはなかったが、アメリカ領事であった時はウイルソン大統領やブライアン国務長官とは私生活でも本当に懇意であり、国籍を問わず珍田の人柄が誰からも愛された。そういった意味で昭和天皇のヨーロッパ外遊の通訳としてこれほど適した人物もいなかった。

 後年、昭和天皇が生涯で最も楽しい記憶を思い出す時、珍田のぼそぼそした津軽弁も脳裏によぎったにちがいない。戦後、自分の子ども秩父宮と津軽家の華子妃殿下の婚儀に際しても、存外珍田の縁が関係しているのかもしれない。

 写真上、イギリスのロイド・ジョージ首相と歓談中の昭和天皇、右端に珍田の姿が見られる。写真下はエディンバラ訪問中の昭和天皇、右隣に珍田がいる。ひげの人物は閑院宮載仁で、当時陸軍大将として随行した。いくら天皇の叔父とはいえ、主役を差し置きややしゃしゃりですぎであろう。

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