2014年4月29日火曜日

満月の道 宮本輝


 宮本輝の新作、「満月の道」は「流転の海」の第七部である。確か全九部だったと思うので、終章まで近い。時代は昭和36年。東京オリンピックが昭和39年だから、まだ新幹線はないし、高速道路もない。それでも戦後16年経ち、日本は高度経済成長に突入し、人々はようやく食うに困る状況から、贅沢を楽しむ時代の端緒についた。

 一時元気のなかった熊吾も持ち前の馬力を発揮し、中古自動車売買が軌道に乗り、事業を拡張していく。それでも色んなもめ事は相変わらず疫病神のように付きまとい、商売が順調であれば、それを邪魔するかのような厄介ごとが次々とおこり、気を抜く間がない。伸仁は少しずつであるが、たくましく育っていき、習っている柔道が功を表したのか、熊吾をこてんぱんにやっつけるようになる。息子の成長に喜ぶと同時に、隙あれば何とかぎゃふんとしてやろうとする熊吾は元気である。それでも糖尿病の影は忍び足でやってくるが、商売に活気がでるにつれ、酒の量は増えていく。同様に妻の房江も精神的な平衡がとれず、「わかっちゃいるけど、やめられない」状態で、酒量は増えており、先行きが心配である。

 昭和36年というと、私は5歳。この頃になるとどの家にもテレビがあるようになり、子供達は近所の駄菓子屋兼、本屋に行って、少年マガジンやサンデーを買う。すでに貸本屋はほとんど姿を消し、大人達もキャバレーやマージャン、競馬、競輪などのギャンブルに行くようになる。大衆車パプリカが発売されたのもこの頃で、ここから一気に車社会に突入していくのだから、熊吾の中古車販売という仕事は先見の明がある。庭付きの一戸建ての家、週末には自家用車でドライブ、こんな夢のような生活が、目の前にごちそうとしてぶらさがっている。遥か彼方の夢というよりは、家にはテレビもあるし、冷蔵庫、洗濯機もある、金を蓄えて今度はやれステレオがほしい、そして車がほしいとなる。子供だって、お年玉を蓄えれば、ラジオが買える。ポータブルレコードプレーヤーが出るのはもう少し後か。歌謡曲のレコードを買って、家で聞くようになるのもこの頃からである。みんなが物欲の固まりのような時代だった。

 あの当時の大人はみな戦争経験者で、生死の境を経験しているし、友人、親類で戦死したものも多かった。こんな楽しい時代が来たのかと夢心地で、夢中になったのだろう。考えてみれば、ついこの前まで、ジャングルの中で飢え死にしそうになったり、空襲で逃げ回っていたのであるから、大阪の阪急デパートに子供を連れ、食堂でお子様ランチを食べる、こういった一瞬を奇跡のように感じるだろう。夢を覚めてくれるなと、金を稼いで、もっともっといい生活をしようと懸命に働いた。

 流転の海は、熊吾が主人公なのでいたしかたないのかもしれないが、伸仁の心情が今回の「満月の道」ではあまり描かれていない。高校1年生にしては、素直で幼い。そろそろ性に目覚める頃だし、熊吾のような父親は相当嫌いになってもよさそうだが、そういった素振りはあまりみえない。時代が違うが、私などは母が購入していた「主婦の友」などに載っている悩み相談などの性的な記事を見て、興奮したものである。平凡パンチが出たのが昭和39年だから、昭和36年ころの中高生はいったいどうしていたのであろうか。私の高校生の頃は輸入されたPlay Boyのマジックで消された部分をバターで擦って、何とか見ようと努力したが、宮本さんの世代、私より9歳上、は、全く性的な表現が締め出された中高校生時代だったのであろうか。

 それにしても宮本輝さんの時代の描写力はすごい。いくら自伝的な作品といっても、大方は忘れているもので、昭和36年という時代を小説という形で再現するためには、多くの資料をあたったものと推測する。子供のころの細かな記憶を再現する旅であると同時に、何をやっているかわからなかった親の仕事を十分に調査して、咀嚼して、追体験する過程は大変だったろう。ただその過程を通して、当時の親の気持ちを理解することは、存外楽しいものかもしれない。

2014年4月25日金曜日

坂巻銃三郎、駿三


 ノートルダム清心女子大学の横山学教授から「ハワイ日系二世坂巻駿三と津軽藩江戸詰坂巻家」という論文をいただいた。すばらしい論文である。当初、坂巻家と山鹿家との関係についてメールにてご質問いただいたが、坂巻という名は弘前では全くおらず、青森県人名事典や、こちらの手持ち資料でも坂巻の名はなく、関係ないといった返事をした。素人のお恥ずかしい次第である。

 この論文によれば坂巻家は元禄十二年というから、西暦で1699年から江戸詰めの藩士として明治維新まで六代にわたり、弘前藩に仕えた家だった。六代目の坂巻久雄は世子の津軽武之助の「御相手」を務め、その後、近習番、御側役を務めた。津軽武之助は承祐のことで、武之助が初帰国の際に急死したことから同じ近習番の大津谷茂正、舘山源右衛門は責任をとって自刃した。さらにはその後の世子血統争いでは、兼松石居、珍田祐之丞(珍田捨巳父)はじめ、多くの藩士が処分された。坂巻久雄は江戸藩邸に留まり、帰国しなかったので、処分はされていないが、当然、世子血統派の主張を支持していたのであろう。

 こういった代々江戸詰めの藩士は、津軽弁もできず、弘前には知己は少なく、また家もなかった。それが廃藩置県にともない、江戸藩邸は閉鎖され、帰国させられる。坂巻家も明治元年3月18日に江戸を出立し、おそらくは山鹿の家にしばらくいたと思われる。

 横山先生の論文から、坂巻久雄の弟の三千雄は天保三年(1834)生まれで、元治二、三年ころに山鹿家の養子となっている。不幸なことに函館戦争で負傷し、その傷がもとで、明治三年に亡くなっている。息子はキリスト教伝道者の山鹿旗之進で、明治二年弘前絵図では戸主として山鹿旗之進の名が冨田新割町に見えることから、死ぬ前に三千雄は家督を息子に譲ったのであろう。従兄弟の山鹿元次郎の家もすぐ側にある。戸主は山鹿次郎作となっていて、元次郎の祖父の次郎作高久のことか。両家はすぐに茶畑町に移る。坂巻家は従兄弟の息子の山鹿旗之進の家で暮らし、病気療養している弟の三千雄の看病をしていたとみたい。元禄のころから260年以上江戸にいたため、弘前の生活は慣れなかった。坂巻久雄は明治三年には再び上京し、商売をしていたが、明治六年に死ぬ。久雄の三男の銃三郎は明治二年弘前生まれとなっており、冨田新割町かその後の茶畑町の山鹿家で生まれたのであろう。銃三郎は、明治16年、わずか15歳で有志を抱いてアメリカ本土に密航する。貧乏でもアメリカなら皿洗いや家事手伝いをしながら大学へ行けばよいと考えた。しかしながら渡米したものの、仕事しながら大学で勉強するのはなかなか難しく、母の病気を知るや、9年ぶりの帰国を決意した。帰国途中のハワイで母の死を知るや、そこで製糖会社で通訳兼マネージャーとして務めることになった。。ハワイで広島出身の山中ハルと結婚し、七男二女をもうける。三男、坂巻駿三は苦学し、ハワイ大学、同志社、コロンビア大学で学び、1939年にはハワイ大学日本史の教授として、1955年からはハワイ大学の夏期大学学長をつとめた。また琉球沖縄の基礎的資料、宝玲文庫をハワイ大学にもたらし、今日、琉球研究の拠点となっている(弘前出身の笹森儀助、加藤三吾といい、北国の人にとって沖縄、琉球はあこがれである)。弘前から、明治10年には珍田捨巳ら5人がアメリカへ、さらに明治17年には笹森卯一郎ら3人が同様に留学し、また従兄弟である山鹿旗之進も明治22年(1890)にアメリカに留学する。当時、津軽から多くの日本人が渡米している。

写真上はハワイの製糖会社での坂巻銃三郎(左から二番目)、写真下はハワイ大学の坂巻駿三である。

坂巻久雄の弟、三千雄は山鹿家に養子に、次の弟、有成は山本弥十郎有龍の養子となり、名古屋外国語学校、東京医科大学を卒業後、宮城医学校教諭兼病院の医者となると横山先生の論文にある。松木明知著「津軽の文化誌 IV」には、明治十九年六月、宮城医学附属病院での写真が掲載されている。山本有成は明治17年、7月に東京大学医学部別科を卒業し、10月から宮城病院に勤務。明治32年9月にニューヨーク市医科大学に入学し、明治35年に卒業し、ヨーロッパの諸病院を見学して帰国。その後、仙台の元荒町に外科病院を開業したとある。
明治二年絵図では山鹿本家、分家は隣同士、山本家(山本弥十郎)は斜め前の近所である。

2014年4月20日日曜日

韓国のフェリー


 韓国フェリー船の沈没事故の話題でもちきりです。一報をテレビで見た時は、半分傾いていましたが、沿岸部から近く、救助活動も容易で、犠牲者は少ないと思っていました。その後の報道で、次第に不明者数が増加してきました。状況はかなり厳しいのですが、親御さんの気持ちを考えるとつらいものです。

 私の船の経験というと、子供のころは毎年夏になると、神戸から小松島、徳島へ関西汽船や共同汽船の船に乗りました。当時は今と違い、定員があってないようで、お盆の時期は、甲板にも多くの人が乗っていました。外の星を見ながら、毛布にくるまれ甲板で寝た記憶があります。大抵は二等客船で、大きな広間の外周に人が寝るだけのスペースを確保し、真ん中の空間にはお茶、タバコ盆があり、親子丼などの出前ができました。中には花札などの賭博をしている人相の悪い人たちもいました。5、6時間くらいだったでしょうか。神戸から小松島までですから、距離は近いですし、内海のためそれほど揺れもなく、快適な船旅でした。小松島からは電車に乗り、徳島で乗り換え、穴吹に行き、そこからバスで脇町に行きます。船は朝に着くのですが、最終目的地の脇町に着くのは夕方頃になります。ただこれも水中翼船ができ、あっという間に徳島まで着くようになり、今は明石大橋ができバスで2時間半ほどです。ずいぶん四国も近くなりました。

 これに比べて鹿児島から十島村への巡回診療では、十島村役場の小さな船と村営の「十島丸」を使っての診療でした、慣れるまでは大変で、島に着いても、ずっとフラフラしていました。これも2年、7、8回ほど続けると、慣れてきて、横でゲエゲエしている人も尻目に村の職員と酒を飲むようになりました。

 話は変わりますが、自衛隊では先の東日本大震災の教訓から、高速の輸送船を民間から買い上げることになりました。私が昔、このブログで提唱した、双胴船「ナッチャン」については、どうやら買い上げることになりそうですが、まだはっきりしていません。ただ新日本海フェリーの高速フェリー「すずらん」はすでに日本政府が買い上げ、船名も「はくおう」となっています。29ノットの高速を誇るもので、旅客定員507名、トラック122台、乗用車80台が積めます。総トン数は17345トンですが、全長は199.5mでそれほど大きくはありません。韓国のフェリーもそうですが、日本の船舶は中古でも人気があり、新日本フェリーが所有していた船は、このすずらん以外でも「フェリーらべんだあ」は現在、HTBクルーズで長崎上海間を、「ニューあかしあ」はギリシャで、「ニューしらゆり」は上海下関フェリーとして下関蘇州、「ニューはまなす」はオリエントフェリーとして下関青島、「フェリーらいらっく」はフィリッピンに売却され、地元で運行されていたが、転覆、沈没、「ニューゆうかり」はギリシャへ、「フェリーすずらん」はフィリッピンに売買されました。


 今回、韓国で沈没したフェリーは、日本のマルエーフェリーで、那覇と鹿児島を結ぶ航路に使われていました(フェリーなみのうえ)。この会社の船も中古船としてフィリッピン、中国、韓国に売買されています。東日本フェリーもそうですが、日本の船舶会社は新造船のみを使い、中古船を使うことはほとんどありません。船主自身もそうですが、日本人の感覚からすれば、いくら経営的な利点があったとしても、敢えてリスクのある中古船を使おうとは思わないのでしょう。造船量でみると、中国は3900万トン、韓国は3100万トン、日本は1700万トンと(2012)、中国、韓国の半分くらいなのに、どうして韓国、中国で中古の船舶がいまだに多く使われるのかという疑問がわきます。タンカーや貨物船などの輸送船が造船の主体で、客船造船のノウハーが案外ないのかもしれません。国内の造船会社に新造船を依頼しないで、できるだけ金がかからない中古船を買い、それを豪華に改造することで、乗客の安全性より経営的な安全性を選ぶような体質が中国や韓国にはまだまだあるようです。軍艦でもそうですが、韓国の軍艦はあれもこれも詰め込むため、艦橋が高く、どれもトップヘビーで外洋にでると転覆するのではと危惧されています。

*軍の病院船などに中古船を使うことは、人命軽視ではなく、使用頻度を考えると理にかなっています。アメリカ海軍のマーシー型の病院船は何とタンカーを改造したもので、年に一週間ほど、機器のチェックのため、航海するだけで、あとは係留されたままです。日本の「はくおう」も29ノットあり「いずも型」、「ひょうが型」と随走でき、東南アジアで発生する災害に対しては、大きな威力を発揮すると思います。医療モジュールを組み合わせることで病院船としても活躍できそうです(できればヘリポートは追加してほしいところです)。

2014年4月17日木曜日

弘前藩の私塾

 明治時代、多くの優秀な人物が青森から輩出している。この理由を考えると、津軽特有の厳しい風土、生活と関連するのは間違いないが、幕末の若者に対する教育のもつ意味は大きい。

 弘前藩では、1730 年に藩校である稽古館を作った。今の弘前市立図書館当たりに、立派な建物を建て、優秀な教師を招き、教育を行った。ただ、財政難もあり、早い時期に縮小され、城内に小さい規模の学校を作り、明治までほそぼそと継続されていたのが実体である。初期の稽古館こそ、地図、測量、暦、津軽一統誌の編集など活発な活動を行っていたが、その後は大きな業績はないし、人物も現れていない。

 こういった官学の現状に対して、幕末には危機感から多くの私塾が弘前にできた。これらの私塾から多くの優秀な人物が出て来て、最終的には東奥義塾という私立学校に収斂していく。

1.      工藤他山と思斎堂
 弘前城の西、馬屋町にあった工藤他山の塾である。工藤他山(1818-1889)は、弘前藩士、古川儒伯の二男として生まれ、幼少から学力が秀でていて、藩校の稽古館に入学した。その後、若くして助教となり、江戸、大阪で修学し、稽古館の助教をするかたわら、私塾、思斎堂を開校した。幕末期、最も多くの子弟を集めた塾であった。場所は馬屋町の馬術指南、有海家の地所であったとされていたが、明治初期の地籍図から、使われなかった馬場にはみ出た形で、有海家の横に塾があったことが判明した。地所の大きさは横20間、縦10間の長方形の敷地である。坪数でいうと200坪になるが、すべて建物があったわけではない。笹森儀助や陸羯南を育てた。笹森儀助が郡長であった時に他山に教えを請うたところ、他山は「官大小高下の異ありといえども、同じく是れ天工に代わりて、天職を奉ずるものなれば、決して卑職細務を以て之れを軽忽(けいこつ、軽視する)に附すべけんや。蓋し天下の大政重事も亦小吏細務の積累より成れるものなれば吏務といえども亦大政中の一分子なり。故に荀(いやしく)も吏務の職を奉するもの此心を失う事ならんば事必ず成らん。」長男は工藤隼太、二男は外崎覚。

2.      兼松石居と麗沢堂
 儒学者の兼松石居の私塾、麗沢堂は茶畑町にあった。住居兼、塾で、家の片隅の四畳の間に机と硯、いつも読書と著述、唯一の楽しみは一合の酒と豆腐という生き方だった。若い時から神童と呼ばれ、当時の最高教育機である昌平坂学問所で学び、塾長までしたが、驕ることなく、藩主に対しても諌言し、その最盛期に蟄居された。幕末になり、許されて開校したのが麗沢堂である。工藤他山の思斉堂の子弟には下級士族、町人が多かったが、石居の麗沢堂は上、中級の士族が多い。本多庸一、珍田捨巳、菊地九郎などが子弟である。石居は津軽の士には珍しく、江戸で育ち、昌平坂学問所などを通じて、多くの交友関係があった。自分の立場をよくわきまえ、こういった交遊関係を利用した。以前、師事していた教授は、「教授なんか大したことないが、教授という名を出すと解決することがある。そういった場合に利用したらよい」と言っていた。大事なことである。

3.   櫛引儀三郎
 櫛引儀三郎は文政三年(1820)に21日に櫛引左門の三男として代官町に生まれた。儀三郎二歳の時に父母を失い、祖母に養育された。三十俵五人扶持で、祖母が病床に臥してからは貧困を窮め、鷹匠町小路に転居した。家計は苦しかったが、儀三郎は山で薪をとり、米をついて家事を手伝いながら、学問をした。やがて藩校の稽古館の典句に採用され、その後学問が認められ、十二代藩主津軽承昭の時代の慶応三年(1867)に稽古館学士・碇ヶ関町奉行格となり、藩主の侍講ともなった。儀三郎の兄、櫛引礼次郎は長尾家に養子に行き(長尾周庸)、その子が長尾介一郎で、兼松石居の高弟となり、石居の次女、りかと結婚する。櫛引儀三郎と兼松石居は、長尾介一郎を介して親戚となる。儀三郎は維新後、五所川原の羽野木澤に半ば隠遁のような形で、農家をしながら私塾を開き、近所の子弟に教えた。政治家、工藤行幹は、儀三郎の二男、長男の英八は県会議員となり、その四男の武四郎は孫文の中国革命に参加したことは前のブログで述べた。


 現在でも学習塾という私塾があり、大部分は大学、高校、中学入学を目指した受験塾となっているが、幕末のように若者に対して人間の生き方を教える人間塾のようなものがあってもよさそうである。

2014年4月6日日曜日

キリムはおしまい


 17年前から平織りの敷物、キリムに興味を持ち、イランのものを中心に5点ほど、西宮のあったアートコアーというお店から購入しました。当時は、キリムについて書かれた洋書も含めてかなり勉強し、アートコアーのオーナーである竹原伸爾さんからも色々な助言を受けました。何より、勉強になったのは西宮のお店を訪れ、キリム、絨毯の優品をたくさんお見せいただいたことでした。竹原さんは日本で最も充実した西洋絨毯のコレクション、白鶴美術館のキュレーターのようなお仕事をしていた方で、イラン、トルコ、コーカサスの絨毯、キリムの第一人者だと思います。そのお店には今では考えられないような優れたキリム、絨毯が展示、販売していました。

 数年前に、お店を畳んでしまい、その後、私もキリム、絨毯への情熱は一気に冷めてしまいました。当時ですら、質のよいキリムはイラン、トルコにはほとんどない状態で、竹原さんもヨーロッパで買い付けしていたようで、あまりにキリムの値が張るため、もうこの商売はきついと言っていました。私の方も、キリムから絨毯に対象を替え、アンティークのコーカサスものを2点購入したところで、閉店となりました。一点は閉店ということでかなり安くお売りいただきました。

 その後、弘前でも時折、キリムの展示販売会が開催され、暇を見つけては、会場に足を向けますが、どうも質のいいものに出くわしません。今日も、知人の息子さんが経営するお店で展示会があるとのことで、早速見に行ってきました。残念ながら、まともなものはひとつもありません。1960-70年代の化学染料をたっぷり使ったものを、10年くらい前の数倍の価格で売っていました。当然、私のほしい、1950年以前の良品はありません。シャルキョイのコチニールという虫(赤色になる)を使ったアンティークを見せてもらいましたが、あの引き込まれるような赤ではありません。キリムの世界では1950年前後がひとつの境で、それ以前は主として天然染料が使われていましたが、その後は発色がきれいな化学染料が使われています。特に195060年ころは天然染料ではでないきれいなピンク色などが珍しいのか、キリムの一部にこういった色が用いられ、台無しになっています。絨毯の世界ではもっと早くから化学染料が使われ、おそらく100年以上前にアンティークでないと完全は天然染料のものの敷物はないと思います。

 もはやトルコ、イランに行っても、まともなキリム、絨毯はないと思いますし、あったとしてもとんでもない価格でしょう。キリムが脚光を浴びたのは1970年ころからで、その頃から欧米のバイヤーがいっせいにトルコ、イランに行ってめぼしい良品をすべてかっさらっていきました。絨毯については1980年代後半にコーカサス地方で戦争が起こり、この時、難民が先祖伝来の絨毯を市場に持って行き、金に替えました。多くの良品がトルコに集まり、この時も多くの欧米のバイヤーが一斉に買い付けにまわっています。

 キリムは平織りのため、破損しやすく、もともとは絨毯や家具を包む布として生産されているため、世界のコレクターのほしいものは数が少なく、今はほとんど、これらのコレクターの元にあるのでしょう。絨毯はキリムより寿命が長く、数はあるのですが、人気のコーカサスものはもはやトルコ、イランにはなく、欧米の絨毯屋で売買されているます。絨毯は、なかなか売れる商品ではないので、商売するには、元価格から相当利益を含まないとやっていけず、自然と高くなるのでしょう。それでもキリムより数はあります。

 キリムについては、古いものはあまりに高すぎるため、むしろ気に入った新作を買った方がいいのでしょう。あるいは古いものは欧米の古い絨毯屋で購入した方が、イラン、トルコで購入するよりいいかもしれません。イギリス、ドイツやスイスなどには古い、いい絨毯屋があるようで、旅行される方はお土産にキリムや絨毯を買われたどうでしょうか。トルコのお土産と言えば、絨毯、キリムですが、地元だから安いわけではなく、高い値段で騙されるケースもあります。欧米の老舗の絨毯屋さんの方がトルコより騙されることも少ないかもしれません。「KILM  The complete guide」の巻末に各国のお勧めの絨毯屋さんを紹介しています。残念ながら日本のお店は載っていません。
わたしについては、本日できっぱりとキリム、絨毯はやめました。

写真は古いキリムをパッチワークにしたものです。