2016年12月24日土曜日

パシュミナ インドのお土産

上はコーカサスのアンティーク絨毯、下はローリ族(イラン)のオールドキリム

ボーダーには伝統的なペイズリー柄


刺繍をした人の名が入っています。


 昔、といっても40年前になりますが、インドに行ったことがあります。大学一年生のころで、高校の時に家庭教師をしてもらっていた先生が一緒に行こうということで、始めての海外旅行でした。インドのイメージと言えば、“汚い”に尽き、最初はあまり乗り気でなかったのですが、高級ホテルを中心に泊まるということで行くことにしました。団体旅行で、日本からデリー空港に着くと、そこで解散。1か月後に集合といういいかげんなツアーで、その代わり飛行機代は団体なので半額となります。

 デリーからまず、タージマハールのあるアグラへ、その後、旅行の目玉ですが、ウダイプールのレイクパレスホテル、それもエリザベス女王の泊まった特別室に泊まりました(といっても三人割すれば、当時5000円くらいでしたが.トイレだけで6畳くらありました)。その後、ジャイプールのラージパレスというマハラジャの宮殿でした。バナナシで一泊500円の宿、さらにネパールのカトマンズに飛び、そこからさらにエベレスト近くの世界で最も高い所にあるホテル、エベレストビューホテルに泊まり、その後、ベースキャンプ近くまで行きました。デリーに戻り、今度はコルビジェ建築で有名なチャンディガールに行き、そこからスリナガーの湖上ホテルに泊まる計画でしたが、紛争が起こり中止になりました。 

 どこのホテルで買ったのか、確かジャイプールがチャンディガールと思いますが、家にカシミアのテーブルクロスがあります。ホテルの中庭でおじさんが沢山の刺繍の入ったテーブルクロスを売っていました。あまり金がなかったのですが、一つくらいは良いものをというので買ったのが写真のテーブルクロスです。大きさは190cm×90cmくらいのもので、ボーダー部にペイズリーの模様が刺繍されています。おじさん曰く「カシミアの最高級品で、この刺繍には3か月はかかる」。なるほど素人目にもそれくらいはかかると思い、値段を聞くと5万円くらいでした。物価の安いインド(レイクパレスホテルのスイートで15000円くらいです)で、この値段はないので「一万円なら買う」と言うと、「そりゃあんまりだ、せめて4万円」。ここから1時間、他に全面に刺繍の入ったもっとすごいものを見せてもらいながら、ゆっくりと交渉して、何とか2万円くらいで購入しました。この旅行で最も高価なお土産でした。

 帰国後、数回、テーブルクロスで使ってみましたが、幅が90cmという中途半端な長さなのでそのうち使わなくなりました。先日、ふと何でテーブルクロスには、汚れるので綿でもいいのに、カシミアを使う必要があるのかと疑問に思い、ネットで検索すると、パシュミナというショールだということが判明しました。あのおっさん、女ものを私に売るためにテーブルクロスと偽ったようです。インドでも地方によっては寒いところもあり、そうしたところで暖かいショールとしてカシミアが愛用されているようです。刺繍は多い程、高価のもののようですが、私のものは、あまり刺繍がうまくなく、ボーダーだけなので、まあ中級品以下のものでしょう。それでもこれだけ刺繍するのは、おじさんのいうように3か月くらいはかかったかもしれません。“HI PAP”?という刺繍をした人のサインも入っていて、2万円なら騙されたとは言えないでしょう。ただこれがパシュミナという高級カシミアかというと、これも疑わしく、インドでは本物は何もないことを痛感していますので。アグラで、古い細密画の店に入ると、店主は次から次へと細密画を見せます。2時間ほど100枚以上の絵を見ているうちに、次第に古いものと新しいものが見分けられるようになり、最初は200年前のものだと言っていたものを、”これは新しい“と指摘すると、”お客さん、目が高い。これは新しい“と全く、悪びれる様子もありません。2枚だけ、明らかによいものがありましたが、値段交渉の時間がなくあきらめました。インド商人とはこんなものですが、値段交渉をする買い物は楽しいものでした。

 ただこんな派手なショールをはおる日本人はいるでしょうか。婦人用ショールなら絶対に買わなかったものが、今、弘前にあるのも不思議な縁です。

2016年12月23日金曜日

明治の女医 菱川やす 3

菱川やすを援助したEarle先生





Chicago Daily Tribune Sat  Nov.22.1890

「日本人女医

Charles W. Earle先生の家で行われた斬新なレセプション ー社交記事

ワシントン大通り、535にあるCharles W. Earle先生の家は、菱川ヤスのために行われた送別会に集まった人々で、昨夜はごったがやした。彼女はシカゴ女子医科大学を卒業し、もうすぐ日本に宣教医として日本に帰国する。大学関係者を含む著名な医師や同級生が出席し、楽しい夜を過ごした。
 菱川先生は28歳で、10歳の時に母国で信徒となった。彼女は日本の南にある名古屋で生まれ、彼女の父は政府の官僚であった。彼女は医学を学びたいと真剣に望んでいたが、日本ではそうしたことは許されず,アメリカ人の助けを得るまで、どうしようもなかったが、ようやくこのシカゴで教育を受けることができるようになった。彼女は医学教育を受けた最初の日本人女性である。
 LaSalleクラブのメンバーが、彼等の妻とわずかな招待客に案内して送別会が開かれた。300人から400人の客がいた。」

 記事中のEarle先生は、大学の教授で、今でもその名を関したCharles W. Earle小学校がシカゴにある。LaSalleクラブはシカゴにあった共和党支持者の社交クラブであり、こうした団体の支援もあって菱川は医学校で学べたのだろう。Newspaper.comというアメリカの新聞検索サイトをみても、“菱川やす”についての情報は、これ以上ない。さらに尾張藩の士族名を“尾張藩分限帳”と“藩士名寄”で調べたが、菱川という姓は見当たらなかった。

 Adelin Kelsey 宣教医の手紙には、自分の医療を手伝っていた横浜共立女学校の卒業生5、6人を将来、アメリカに留学させて医学を学ばせたいとあるが、おそらく須藤かく、阿部はな、菱川やすも、その中に入っており、菱川は須藤、阿部に先だって留学したのだろう。ただアメリカの医学校の学費は、現代もそうであるが、高く、費用の当てもなく渡米したところ、たまたま親切なアメリカ人達が学費を援助することになったのかもしれない。一方、阿部、須藤らは、経済的なバックボーンが少ない外国伝道教会など女性団体の援助を期待したため、こうした大口の援助者がいなかった。もともとキリスト系の婦人団体では、参加者は多いが、募金は1、2ドルといった小口のものが多く、常に財政的な問題をあった。シカゴ大学で最初に博士号をとった日本人、浅田栄次が渡米したのが1888年で、卒業が1893年であるから、菱川のシカゴ留学は女性としてもきわめて早い時期のもので、シカゴで学んだ最初の日本人女性留学者だったかもしれない。

 なお”Northwestern University :history: 1855-1905"(P387)には(1905年発行)
「日本について言えば、日本人の菱川やすは長老会委員会によってアメリカの学校で医学教育を受けるために送られた。彼女は日本に宣教に行ったことのある同窓の一人によって(アメリカに)送られた。二人は帰国後に亡くなった。」とあり、この中の同窓生はDr. Sarah Cummings-Porterのことであり、帰国後に亡くなったとの記載から、菱川は横浜婦人慈善会病院勤務の早い時期(この本が出版された1905年前に)に亡くなったようだ。


2016年12月21日水曜日

明治の女医 菱川やす 2

横浜婦人慈善会病院(1905年ころ)



 The inter ocean Sat 1122日(1890)に菱川やすのことが出ていたので紹介する。

 “彼女の成功を祝って
Charles Warrington Earle先生により昨晩、菱川やすの送迎会が行われた。菱川安は若い女性で、数日後には母国に帰ることになっている。そこでは宣教医として働くことになっており、そのこともあって送迎会が開かれ、女子医科大学の同級生の多くの友人がお別れを述べようと集まった。
菱川先生のケースは多くの点で興味深い。彼女は日本で最初に医学専門知識を学んだ女性であり、優秀な成績を収めて母国に行く。彼女は本当にかわいい28歳の女性で、日本南側にある名古屋で生まれた。彼女の父親は政府官僚で、国の勅任官(appointee of the Tycoon)であった。しかし天皇を巡る政争に巻き込まれて失脚した。
菱川先生は10年前にキリスト教徒となり、その時にミッションスクール(横浜共立女学校)で英語を習った。5年前にアメリカに来て、Shipman先生と出会った。彼は彼女に関心を持ち、説得して女子医科大学に学生として入学するように勧めた。彼女は非常に理解が早く、物覚えもよいため、ここでの履歴も素晴らしいものであった。彼女の洗練されたマナーと知性的な会話力はすぐに皆から好意をもたれ、優秀な成績で卒業した。彼女の信仰は長老会派であるが、何らかの宗派の命令で母国に帰るのではなく、むしろそれとは独立して彼女のしたい仕事のために帰国する。“

 教授も含めた30名くらいの名が記されている。他の新聞では出席者は300名を越える大規模な送別会であったようで、菱川は人気があり、期待されていたのだろう。この記事では、菱川は名古屋の出身であることはわかる。医籍登録者では、女医では8番目として「菱川ヤス 本籍:神奈川、出身校:外国医学校、登録年月:1891M24.04」の記載しかない。本籍は横浜共立女学校があった場所にしているのだろう。愛知県最初の女医は登録番号3の高橋瑞で「高橋瑞 本籍:愛知、出身校:済生、登録年月: 1887M20.03,明治年間:東京都日本橋区(開)」とある。高橋瑞は嘉永五年(1852)、西尾藩の武士の家に生まれ、一度が結婚するが、離婚し、30歳で産婆となった。その後、産婦人科の女医になろうとしたが、学費が続かず、断念した。ところが萩野吟子が日本で始めて女性で医術開業試験に合格したと聞くと、再び猛勉強を始め、明治20年に合格した。

 菱川はシカゴ女子医科大学の4年間の正式なコースを優秀な成績で修了し、その後も1年間のインターンをしてから、横浜婦人慈善会病院で勤務した。当時の女子としては、岡見京と並んで、最も高い医学教育を受けた女性であろう。シカゴ女子医大のカリキュラムが残っているが、入学試験もあり、授業が始まると毎日のように試験がある。英語を母国語とする学生でも無事に卒業できるのが難しい中、単独で日本からやってきて、優秀な成績で卒業することは驚くべきことである。

 上記の新聞によると、菱川の父は、政府の官僚(a government official, an appointee of the Tycoon)とあるが、the Tycoon “大君”を江戸幕府、尾張藩とするか、“日本”の総称とみるか、わからない。菱川は横浜共立女学校の一期生で明治四年入学である。上記1890年の新聞で28歳ということは1861,62年生まれで、9歳か10歳で共立女学校に入学したことになる。歳をごまかしている可能性もあるが。尾張藩に菱川という人物がいたかもわからない。もし名古屋市出身であれば、最初の女医に当たるので、名古屋の研究者の意見を待ちたい。