2015年10月31日土曜日

昭和天皇と珍田捨巳 2


昭和天皇実録 ”珍田”の名称のある箇所
 「昭和天皇実録 第三」を買った。主として欧州御巡遊および摂政時代を扱ったパートであるため、珍田捨巳のことがどれだけ書かれているか、興味を持って読んだ。といってもひたすら珍田の名を探しただけだが。結果としては、167カ所に珍田の名が見えた。

 旅行の責任者である訪欧供奉長、摂政時代では東宮大夫であれば、登場する回数は多いと思っていたが、想像以上に多い。この数値は、名詞として“珍田”が現れた数をカウントしたもので、供奏長、東宮大夫で現されたものを含むとさらに多い。おそらくは第三巻だけに限れば一番登場回数の多い人物であろう。

 この訪欧旅行で、昭和天皇に最も影響を与えた出来事として、保坂正康の「昭和天皇」、福田和也の「昭和天皇」でも大正十年五月十日の夕方、バッキンガム宮殿で休息していた昭和天皇の元にジョージ五世が一人でふらっと現れた事があった。その時のジョージ五世の態度に自分の天皇としてのあり方を知ったのだろう。これについて、保坂はこの事件の当事者として昭和天皇と英国大使林権助を挙げ(後に修正)、外崎克久(「ポトマックの桜」)は当時、バッキンガム宮殿に滞在していたのは昭和天皇(皇太子)、閑院宮、珍田、山本信次郎海軍大佐の4名とし、大正十年五月九日の昭和天皇実録をみると「皇太子は英国皇室の賓客として、載仁親王と共にこの日よりバッキンガム宮殿に三泊される。珍田供奉長、山本御用掛のみ同宮殿に宿泊」と4名のみが宿泊していたようで、さらに十日では「御帰還後(ウィンザー城など見学)、宮殿内御用室に御滞在中、突如皇帝が御来室になり暫時御歓談になる。皇帝より、英国の現状、大戦中における同国の努力、その他万般につきお聞きになる。またベルギー訪問の際には、英国の戦時の努力の真相を雄弁に物語るイーブルの戦場を視察することを勧められる。午後八時三十分、略 カーゾン夫妻主催の晩餐に臨まれる。供奉員より珍田供奉長一名、」とあり、山本大佐はフランス語が堪能で、後にフランスを訪ねて時には通訳をしていたことから、この場面、昭和天皇とジョージ五世の通訳は珍田がしていたことは間違いない(昭和天皇はフランス語が少しできたようで、フランスではフランス語で珍田を紹介している)。

 あと、この実録で気になっていたのは、昭和天皇とバチカンでの法王との対面の場面である。「法王ベネディクトゥス十五世は親ら室を出て奉迎し、皇太子の前に進む。略 皇太子は法王と御握手され、山本御用掛のフランス語の通訳にて御挨拶を交換される。略 次に法王の御希望により供奉長珍田捨巳が法王侍従長の先導により参入、法王に謁見し談話を交換する。法王は、日本駐?法王使節が転任したため、近い将来新しい使節を任命すべきことを述べ、また朝鮮総督斎藤実が最近京城においてカトリック教会の二司教の叙階式に招かれて卓上演説を行い、カトリック教徒が朝鮮で起こった独立運動に全く関係しなかった態度に賛辞を述べたことを引用し、カトリックの教理は確立した国体、政体の変更を許さないことによりこの結果を見たのであり、従って教徒の国家観念に対しては何ら懸念の必要はないことを述べ、」、「供奉長御用掛伯爵珍田捨巳がピオ九世台綬章を授けられたほか」との記載があった。珍田の信じるキリスト教はプロテスタンであったが、法王との対面は大きな名誉であったろう。皇太子と法王の会談の席に、信徒である山本と珍田を呼んだことは、法王庁の戦略であり、両者を通じて、皇太子のキリスト教の理解を進めた。

 またイギリス訪問時の馬車によるパレードについては、「御乗車の際、英国皇帝より最上位の席を勧められる。これを再三御辞退されると、英国皇帝がまず第二位席を占められたため、皇太子はやむをえず、皇帝右側の第一位席に御着座になる。ここにおいてエドワード親王は皇帝の御前の第三位席に着座され、珍田供奉長は皇太子の御前第四位席に陪乗する」とある。本来は皇族の閑院宮載仁親王が珍田の席に座るべきだが、通訳として、あるいは英国皇帝とも懇意な珍田を敢えて座らせたかもしれない。


 ヨーロッパからの帰国後も、侍従長にあたる摂政の東宮大夫に任命され、ほとんど天皇の代行として北海道、台湾への行幸、さらには来日したエドワード英国皇太子の世話、あるいは虎ノ門事件など重要事項の天皇、皇后への報告などはすべて珍田に任せており、信頼は厚い。また外国人要人との晩餐会への出席も非常に多く、親密な関係が伺え、皇太子、摂政時代の若い昭和天皇に珍田は精神に大きな影響を与えた。昭和になり、軍部が牛耳るような社会になっても、唯一、英米協調を信じた昭和天皇の原点は、この欧州御巡遊と珍田の存在が大きい。

2015年10月26日月曜日

ロレックス人気


 もうすぐ60歳。何か心機一転しようと思い、まず時計の新調を考えた。

 最初の時計は、セイコー5(ファイブ)で中学の入学祝いに買ってもらった。高校になると、親の知人からスイスの名は忘れたが、42石という中古の時計をもらい、気に入っていたが、どういう訳か、自宅で泥棒に盗まれた。そして20歳になった記念にロレックスの時計を親が知人に頼み、香港で買ってきてもらった。確か10万円くらいであった。その後、一度だけ日本ロレックスでオーバーホールしただけで、ほぼ35年、ほとんど狂うこともなく、毎日、肌身離さず、使ってきた。ところが8年ほど前に急に動かなくなり、弘前市の小さな時計屋で修理とオーバーホールをしてもらった。その後、5年前にはバンドが壊れ、修理。昨年は落としてガラス部分にひびが入り、リューズが閉まらなくなり、一日数分も狂うようになった。そこで二度目の修理とオーバーホールをしてもらったが、リューズの部品がなく汎用のものに変えた。何だか自分の体のようで、さすがに長年のくるいが出たのか、最近は故障が多い。それでも直すと一日に1秒くらいしかくるわないので、このまま使おうと思ったが、この際、新しい時計に変えて心機一転しようと考えた。

 調べてみると、私のロレックスは1976年製のオイスターパーペチュアルで、1002という形番号である。この時計のムーブメントは、ロレックスのムーブメントで最高傑作と言われるCal.1570であり、高精度、最もタフなものである。道理で40年間も毎日使って狂わないはずである。最新式のムーブメントの素晴らしいといわれているが、こうした履歴がないため、今後40年使えるかわからない。少なくともCal.1570について40年は十分に動くことが立証された。

 そこで改めてロレックスの値段を調べてみた。20年ほど前から狙っていたサブマリーナという機種がある。昔は40万円くらいで高いなあと思っていたが、驚いたことに今では80万円以上する。さらに人気があるため、定価より実売価格が高い。80万円と言えば、軽自動車が買える値段である。さすがに高いと他の機種を探すと、入門機であったエクスプローラーもプレミア価格となっており、さらに驚いたことに中古品も高い。私の時計はボロボロで値段はつかないが、コンデションがよければ40年前のものでも20万円以上で売っている。ロレックス自体が、知らぬ間にえらい人気になっていて、新品どころか中古も異常人気なのである。確かに5年前は1ドル80円だったのが今は120円で1.5倍になっているので、値が上がるのはわかるが、他の輸入高級時計、フランクミューラーなどはかなり値引きされているので、異常人気はどうもロレックスだけということになろう。そう見ると、家庭画報などのセフレ向けの雑誌にもロレックスの広告は少なく、広告しなくても売れるのだろう。

 先月、大阪の高島屋デパートで、時計を見ていると次から次へとお客さんが来て、見るだけでなく、買って行く。中国人の観光客も多い。店員にスマホの写真を見せながら聞いており、どうも買う気まんまんである。おそらく一日数台は売れるとすると、月で100台、年間で1000台売れれば、70万円×1000台の7億の売り上げとなる。

 グランドセイコーには、スプリングドライブというクオーツと自動巻のハイブリットの最新の時計がある。性能的にはすばらしく、クオーツと違い、電池も必要ない。ただこの先、あと一本の時計で済ますとすると、ロレックスにはかなわないように思われる。といってロレックスは価格的には異常に高く、もう少し値が落ち着くのを待とうと思う。あまりに異常な値動きで、もはや投機物となっており、実体価格とはかけ離れたものである。それにしてもスイスの時計メーカーはがんばったものである。セイコーがクオーツを出したのは1969年。70年代になると安価な時計でも、性能からみればロレックスを凌駕することになり、当時、売れ行きは急速に減少し、80年代も一部のファンを除いて、人気はなく、このままつぶれると思われた。ところが高級機械式腕時計という別のジャンルを作り、若者を中心とした流行を作り出した。こうした活動は、次第に大きな流れとなり、現在はおそらくピークであろう。何しろ、私の持っている40年前のオイスターパーペチュアル(1002)と最新型を比べると、サイズ、重量とも大きくなり、精度はそれほど差がなく、値段は5倍になっている。さらに数年に一度のオーバーホールには数万円がかかる。通常の商品では絶対に売れないもので、これは完全な趣味の世界であろう。

2015年10月24日土曜日

ブラタモリ 弘前?


 ブラタモリという番組は好きで、よく見ている。番組は、ほとんど打ち合わせなしでやっており、タモリさんのオタク的知識が随所に出て、笑える。長崎、函館、金沢、鎌倉、福岡、仙台、奈良、松江、富士山などを、これまでとは違った切り口で扱っていて、どれも面白い。

 いつか弘前にも来てほしいと思い、勝手に企画する。切り口としては、弘前のユニークな点、これは地元民にもわかっていないことを取り上げたい。

1.      弘前はハイカラ
 函館、神戸、横浜などは幕末、開港地として、多くの外国人が来て、国際都市としての歴史を持つ。全国的にもハイカラな街としてよく知られている。弘前もハイカラな街と言われると、地元民も多分、知らないであろう。
まず案内するのは、大手門広場の旧東奥義塾外国人教師館、そこで幕末に弘前藩士が水腫病に効果があるとして飲んだ“藩士の珈琲”を飲みながら、弘前からアメリカに留学したもの20人以上、逆にアメリカから日本に来た教師が20名以上など、主として東奥義塾とアメリカとの関連を説明する。続いて、在府町の弘前こぎん研究所に案内し、著名な建築家、フランスのコルビジェと前川國男の関係を説明する。昭和7年の建物だと知り、驚く。さらに弘前教会弘前昇天教会最勝寺のキリスト教徒墓地に向かい、キリスト教が早くから町にとけ込んだ状況を説明する。お寺に墓地にキリスト教徒の墓があることは珍しい。さらに新寺町の貞昌寺の孫文、蒋介石の碑を案内する。なぜこんなところに、こうした碑があるかを、山田兄弟、菊池良一、櫛引武四郎と中国の関係から説明する。リンゴの季節なら、リンゴ公園に行き、明治二年弘前絵図から、すり鉢山の言われを説明する。またリンゴシードルの発祥地として吉井レンガ倉庫を紹介してもよい。

2.      城だけではない、町が敵を防ぐ
 敵からの侵略に対して、城としても守りは、どこの城でも見受けられ、珍しくはない。ただ街自体の守りとなると、空襲、火事、都市計画で街そのものが変わっているので、その痕跡を探すのは難しい。弘前は空襲、大きな都市計画がなく、江戸時代の区画がそのまま残っているので、江戸時代の防御のための町づくりを知ることができる。
枡形と呼ばれる四角の広場に道が一方にあり、敵からの侵入を遅らせるところが、冨田と紺屋町にある。明治二年弘前絵図を見ながら、その痕跡を調べる。また道が直進しなくて折れ曲がっている箇所なども合わせて紹介する。禅林街については、その構造が第二の城郭となっていることを土塁に登って紹介する。同時に弘前で一番高い地点である。森町の時鐘堂にあった場所に案内する。また弘前工業高校からかっての西坂跡を確認する。さらに新寺構南溜池についても、その地形から説明していく。

 地形オタクのタモリさんからすれば、2案の方がいいかもしれない。

2015年10月21日水曜日

山田兄弟 46


 集合写真の説明というのは、当事者がいれば簡単にわかることが、当事者が亡くなっていると後で調べるのが大変である。

 藤田庭園には、何かイベントがあれば、よく行くが、先日、行った折も、洋館の展示室の写真がかわりばえしないのが、どうも気になった。いつも同じ写真を飾ってあり、この庭園を作った藤田謙一の写真はたくさんあるし、業績も多いのに、もっとうまく展示して藤田のことを紹介したらどうだろうか。とりわけ、中国革命に対する藤田の支援については、山田兄弟、菊池良一などと同様に資金面の支援は大きい。孫文と一緒に東京で取った集合写真がある。

 今は便利になり、上の示した集合写真もGoogleの画像検索というもので、探せる。かなり多くの文献で引用されているが、どの説明文にも藤田謙一の名はない。中国でもこの写真はかなり紹介されているが、この写真はむしろ、孫文と藤田が主客であり、肝心の藤田の名がないのは解せない。

 この集合写真の最も、確かな説明文は、「藤田謙一」(弘前商工会議所編、小野印刷)にあるので、引用する。

 「孫文らと一緒に大正五年自宅で写した写真である。この写真に収まった人物は十六人で、もっとも若いのは満六歳の廖承志(日中友好の功労者)である。孫文が藤田に贈った額は「見義勇為 謙一先生 孫文」とあり、前列に、田中貞子(昴氏長女、田中有影夫人)、萱野長知夫人、廖仲愷夫人(何香凝女史)、孫文、孫文に抱かれているのが廖承志、孫文秘書(のちの孫文夫人宋慶齢女史)、田中とよ(昴氏夫人)、田中節子(昴氏二女、宇治慧吉夫人)、廖夢醒、後列は五庄堂の田中昴(証券印刷業)、戴天仇、藤田謙一(藤田の前に孫文が座っている)、橋爪捨三郎、胡漢民、廖仲愷、朝倉菊衛である。写真の背景に、「帝政取消一全會」の大文字の旗が立てられている。袁世凱打倒の旗印である。」

 この写真について次のようにコメントしている。『大正三年—所謂第二支那革命失敗後、孫文氏は日本へ亡命、わが同士とともに専ら再起の機を狙っていた。中華革命党が組織されたのも、孫文氏が当時の女秘書宋慶齢と結婚したのも、その頃の出来事だったと思う。ともあれ、孫文氏の支那革命に対する熱誠さはすばらしく、この藤田謙一の如きも、微力ながら後援の側に立った一人である。親日に終始せし後、日支共存共栄を説く彼、蒋介石にして彼の意志を継いだなら今次の日支事変は発生しなかったかも知れない。しかし汪兆銘氏、孫文の正流に棹して新支那を建設するという。豈に感慨無量たらざるを得んや』」となっている(p107-108)。さらに写真の説明では、「大正四年、日本亡命中の孫文を囲んで(於巣鴨、松柏軒)となっている。」

 日付については、1916322日と191649日の二つがあり、大正5年の撮影は間違いないが、不明である。また場所は東京、巣鴨の田中昴邸、あるいは松柏軒、藤田謙一邸の3つの記載がある。田中昴の夫人とよ、長女貞子、次女節子が写っていることから、これは田中昴の自宅で撮った可能性が高いと思われるが、松柏軒は駒込でも巣鴨に近く、現在、女子栄養大学駒込キャンパスにある松柏軒の可能性もある。また上記文では写真背景の旗を「帝政取消一全會」としているが、これは「帝政取消一笑会」の間違いである。


 「中華民国革命秘話」(萱野長知)によれば、東京日本橋区五庄堂主人田中昴は孫文の求めに応じて中華民国中央銀行券紙幣三百万元(軍票)の印刷を行ったが、海防の税関で没収された。革命成功後に中央銀行券を美術印刷の技術では最高の巣鴨駒込町の田中印刷工場(田中昴)に頼み、大蔵省の図案技師村山某に製作を依頼して完成した。印刷した紙幣を日本橋室町の五庄堂に運搬中に一束を道に落とし、それを拾った富士警察署がその処理に困ったとの記述がある。