2013年7月30日火曜日

青森で最初に地番のついた地図























 地租改正について、調べているが、明治新政府の税制の根本的な政策であり、ある意味、日本の税制では革命的なものである。明治以前、いわゆる税金とは、主として年貢をさし、農民から藩が年貢を取り立てていた(物納制)。商人、士族からの税金はない。農民から税と取り立て、それで士族が生活するというのが基本で、商人からは運上金や、藩が財政難に陥ると御用金を徴収したが、すべての商人から税を徴収することはなかった。

 明治新政府は、すべての土地から税を徴収する地租改正を明治6年に制定し、農民、士族、商人に関わらず、所有する土地に対して課税する制度をとった。これは土地そのものに価値があり、他人に売買できる土地私的所有もセットになることを意味する。それまで、商人、士族の宅地は境界が漠然とはあっても、他人に売るという行為は原則的にはできなかったため、自分のものという意識は少なく、まして私の土地は200坪という概念そのものが、薄かった。

 それが土地に価値があり、それに対して課税されることになると、自分の土地の境界や、さらにその土地の所有者は誰かということをはっきりさせる必要がでる。明治新政府は、地租を国の財政の中心と考え、この地租改正を信じられない早さで押し進めた。最終的には明治13年に完全に終了した。7年という短時間で日本のすべての土地の境界と所有者が決まった。特に明治6年から9年くらいは急ピッチで作業が進められた。

 土地の境界と所有者が決まると、地券が発行されたが、その順序として、1。宅地の丈量、地坪の調査を行い、帳簿作成の基本となる「字」や「番地」の境界を正しく整理した。2。番地をつけた土地については、その面積を調査し、野取図および丈量帳を2部作成し、地方庁と町村役場に備えた。3。土地の脱落や重複を防ぐため、実地に地坪調査を行い図面と各土地を確認した。田畑については土地の収穫高から課税基準となる地価が定められた。

 こうした方法で地券が土地所有者に与えられた。ちなみに青森では市街宅地の税率は2.5%であったが、具体的にどの程度の地価で、年間どのくらいの税金を払っていたかを調べていない。

 弘前市立図書館から資料をいただいたが、弘前でも明治7年ころから本格的な地租改正事業を行われ、矢継ぎ早に通達がきている。それによると「地租改正につき地価帖調製」は明治8年12月3日に出されている。地租改正の作業工程の2あるいは3がすでに終わっていたことを意味し、今回発見された絵図もその過程で作られたものと推定できる。となると当初、明治十年前後としていた製作年度はもう少し早くなり、明治8年ころと言ってもよかろう。

 下町南側の各宅地に番号がふってあるが、青森県で最も古い戸番あるいは地番が書かれた地図である。私の家は弘前市大字坂本町41番地であるが、この時、弘前の歴史上初めてすべての宅地に戸番、地番が付けられた。この地図はその最初のものであり、戸籍を具体的な示す歴史上貴重な資料と考えていいのではないかと考えている。

 現在、デジタル化を進めているが、下町南側だけでなく、他の区域についても同様な地籍図があると思われ、これを契機に発見できれば、地租改正時における状況をより把握することができると思われる。期待したい。

2013年7月27日土曜日

お買い得品



今週は、お買い得品を二つ購入でき、大阪人としてはうれしい。まず年に数回行われるLLビーンのセール、これは50-70%OFFと驚くほど安くなる。といっても欲しくないものであれば、安くなっても買わないが、今回は最近気に入っている、イヤー・ラウンド・ウール・トラウザー12000円が5000円、さらにモンヒーガン・ハンドソーンというワークーシューズ、15000円が6500円、ビーンズタイ4900円が2900円と半額以下で安い。カタログが来たと同時に即刻ファックスを送り、購入した。以前、何度も買おうとしたが、大抵は売り切れで買うことができなかった。今回は、サイズも含めて、すべて購入でき、ズボンを2着、靴を一足、ネクタイ一本の計43900円が半額以下の19400円で購入できた。大阪人はこういうことがあると自慢したくなる。

 イヤーラウンドウールトラウザーは、かなりゆったりしたタイプのズボンで、特にヒドウィン・コンフォートというタイプは、両サイドに伸びるゴムが入っており、食い過ぎで、お腹が大きくなっても、ウェストが伸びてくれるので、楽である。まるで、ジャージのような快適さで、今はやりの細身でないスタイルだが、私のように歳をとると、ゆったりしたズボンは誠に心地よい。このズボンと紺ブレが最近の定番となっている。

 もう一つのお買い得品は、丸山直文の直筆アクリル画。以前から丸山さんのやさしい絵が好きで、オークションに作品がでないか、2007年ころからアラームをかけていたが、先日、2005-2007年ころの作品がオークションに出た。オークションでも数件の入礼者もいたが、35000円が即決価格だったので、すぐに落札、さらに好意で2000円まけてもらって購入価格は33000 円だった。

 丸山直文さんの作品は、初期は抽象画であまり面白くないが、2000年ころからアクリル絵具を滲ましたホンワリした作品を発表し、注目を浴び、多くの美術館所蔵となっている。私も一時、アクリル画に興味があったので、「絵のある暮らし」(BT美術手帖2006年4月号増刊)を購入し、丸山さんの手法を研究したことがあるので、オークションの画像を見て、すぐに丸山さんの作品と直感した。ただ値段があまりに安く、現代作家ではあまりないことだが、偽物の可能性もあると考えた。幸い、同書の丸山さん掲載のページに当時のサインが載っていたので、大きく拡大してオークションのサインと比べると完全に一致し、本物と確信し、すぐに購入した。本日、商品が到着したが、取扱画廊の箱付きで、おそらく画廊での販売価格は購入価格の数倍はしたであろう。コンデションも良好で、早速診療室に飾ることにする。

 丸山さんは大きな作品を書く前に、小さなドローイングを何枚も書き、構想する。といっても簡単なドローイングではなく、紙を湿らし、色々な色は重ねていきながらステイニングという技法で下地を作り、その上にモチーフを描いていく。結構、小さなものでも手間がかかっている。今回、購入した作品はこういった小さなドローイングの一枚で、小さな作品であるが、絵としては完成している。そのため、作者のサインも入っており、正式な画廊の箱にも入っている。

 いつも思うのは、絵の価格についてである。うちの母もアマチュアながら何度か銀座で個展をしたが、銀座では小さな作品でも十万円以下の値段は付けないようである。画家は大きな絵を展覧会や個展でも客引きとして描くが、30号を越えるような大きな絵は、日本の狭い住宅事情では買い手が限られてくる。そのため、小さな作品も併せて展示する。実際に売れるのは、こういった商品が多い。うちの母親の場合でも同様で、画廊に払う金を考えると、大きな作品はその場で売るよりは個人で売った方がもうけがよい。そういったことをすると他の作品まで値が下がるため、画廊としては、抱えている作家が個人で売るのを禁じる。ただ今回の作品のような、コレクターからの放出品では、価格維持は難しく、こういった常識外れの価格設定となったのであろう。

といっても好きな画家の作品がこんなに安く買え、ラッキーであった。


2013年7月24日水曜日

歯科医師研修医制度なんかやめてしまえ




 歯科医師研修医制度が始まったのは平成18年なので、かれこれ7年になる。私の診療所も弘前大学医学部附属病院歯科口腔外科の研修医機関として、当初から研修医を受け入れているが、そろそろ研修医制度そのものの是非を議論してほしいものである。

 日本の歯科国家試験の歴史を見ると、50年くらい前までは知識をみるペーパー試験とともに、技術をみる臨床試験を課せられていた。実際の患者を連れて来て、指定された治療を行い、試験官が採点する。こういった方法は世界的には今でも多く採用されている方法で、アメリカでは全国統一の国家試験はペーパー試験だが、開業する時に州のライセンスが必要で、その時はペーパー試験とともに実際の患者への治療を採点する。ヨーロッパ、インドネシア、タイなどの東南アジアもそうだし、確か、韓国、中国でも実技試験はあったように思える。医師と違い、歯科医師は知識だけでなく、技術が重要な職業であるため、日本を除く各国では、知識だけではなく、歯科医師としての技術を評価して、資格を与える。当たり前のことである。ただ指定された治療を行う患者を試験日に合わせて連れてくるのは難しく、私が大学にいた頃は、模型や人形を使った実技試験に行われていた。また大学でも6年生には患者が配当され、インレーが何ケース、クラウンは何ケース、全部床、部分床は何ケースと決められ、それをクリアするように症例をこなす。指導教官は厳しく、毎日深夜まで技工に明け暮れたし、国家試験前になると缶詰で実技試験の訓練を行った。卒業後は、医局や開業医のところで勤務し、技術的にはまだまだであるが、それなりに臨床はできた記憶がある。

 その後、実技試験が面倒なので廃止され、ペーパー試験のみとなってきた。それでも患者をみる学生実習は従来通りであったが、ここで無資格の歯科学生に患者を見させるのはおかしいという意見が出て来た。患者自身も学生に見てほしくないということか。それにより、5、6年生の実習は見学主体となり、最近では6年生の授業は、国家試験対策に多くの時間を割かれるようになった。大学卒業の段階では、ほとんど臨床ができない状態である。そこで研修医療機関で、臨床技術を学んでほしいということとなった。

 それでは、かっての6年生と今の研修医研修のどちらが、臨床技術の向上に繋がったのか。これはいろんな意見があると思うが、私見を述べると、今の研修医では決められたケースのクリアなど十分な基礎的技術の修得にいたっていない。ひどいとこころでは、研修医になっても見学のみというところもある。昔の6年に比べて、6年プラス研修医1年の7年の方が、臨床技術の修得という点では劣っているというのが実感である。

 先に海外の歯科医師教育を述べたが、どこの国も、大学を卒業した時点で、知識的にも技術的にも一人前の歯科医を育てることを目標にしている。もともと歯科大学は歯科専門学校から発達したものであるので、当たり前のことである。それが、知識だけの修得、もっと言えば、国家試験の合格を目指したものとなっている。実におかしな状況である。世界的にもこれほど異常な教育機関はない。歯科大学が歯科医養成の義務を放棄しているのである。

 歯科医師研修医制度は、これを受けないと、開業できないことになっていて、すべての国家試験合格者はマッチングをしてどこかの研修医となる。ところがその評価はどうなっているかと言えば、最後に研修施設の責任者が集まり、おざなりに各研修医の合否を判定する。一度、担当官に落ちる人はいるのかと聞くと、精神的な問題があるごく一部の研修医を除いて基本的には落ちる人はいないという。

 歯科医師の臨床能力の低下を危惧する意見は歯科医師会でも大学でもほとんどないし、問題にもなっていない。研修医制度を廃止して以前のペーパー試験と実技試験のやり方に戻るか、研修医制度を継続するなら、終了時に第三者のよる臨床診断面接と実技試験を課す必要があろう。

このままでは、理容学校を卒業しても、知識だけあって散髪もできない理容師を作るようなもので、患者だけでなく、学生、研修医にとっても不幸なことである。もう一度、原点に返り、専門学校に戻るべきだと思われる。世界中の歯科大学の最終学年は、患者の治療の明け暮れ、臨床技術の修得にやっきになっている中、唯一、日本の歯科学生は国家試験テキストを見ている。

2013年7月21日日曜日

明治十年地籍図

 荒町付近の古絵図の製作年代について、人名から検討している。明治二年絵図が士族を中心とした絵図である対して、この絵図は平民を主体とした地籍図となっている。

 荒町のはずれに、兼松郎の名がある。明治二年弘前絵図では、兼松艮と変わっている。弘前藩の儒学者、兼松石居の長男が艮で、郎は三男である。10歳の時、万延元年に兼松本家の穀の養子となった。穀は明治5年に亡くなり、兼松本家を継いだ。その子、七一は朝陽小学校の明治11年〜20年入学者の中にその名が見え、その当時の住所は塩分町となっている。兼松七一は、同校入学のキリスト教指導者の中田重治(1870-1939)と席次が近いので、明治十一、十二年ころには兼松郎は荒町から塩分町に移ったものと思われる。となると兼松郎が荒町にいたのは明治五年から十一年ころ思われる。

 鷹匠町小路に阿保良助の名がある。北海道、山鼻に明治9年5月に入植した屯田兵の記録の中に、名に阿保良助(青森県)がいて、同一人物であろう。自宅を弘前に残したまま入植した可能性もあるが、一家をあげて北海道に移住したとなると、この絵図は明治9年5月以前となる。

 明治二年では馬屋町の白取数馬の名が、この絵図では白取良之助所持地となっている。白取数馬は、文政六年生まれ、明治三十一年没のため、子供の良之助に家督を譲ったのだろうが、その年は不明である。

 工藤主膳の名があるが、これは漢学者の工藤他山のことである。工藤他山は文政元年生まれ(1818)、明治二十二年没(1889)で、この図で、他山の私塾、思斎堂の位置は、馬術師範、有海家の敷地というよりは、馬場に入ったところで、幅十間(18m)、奥行き二十間(36m)の敷地であったことがわかる。これまで思斎堂は有海登邸とされていたが、さらに絞り込め、明治二年絵図の馬庭からさらに馬場に入ったとところになる。ちょうど「そば かふく亭」の前あたりになろう。

 この絵図は、下町の南半分で、地籍図であれば、他の地区のものもあるかと思い、今日、図書館に行って来た。弘前市立図書館には、津軽家文庫、岩見文庫、成田文庫、八木橋文庫など、多くの重要な書籍があり、そうした書籍の蔵書目録を調べた。ただこの目録には題名、出版社、時代などは書かれているものの、それ以上の情報はない。図書館受付で聞いても、コンピューターで検索できるのはそれだけのようである。それ以上、知るためには、現物を奥の倉庫から運んでくる必要がある。ある程度、絞りこんでから現物をみたいものであるし、効率的である。蔵書、主として古文書については、将来的にはデジタル化していくべきであるが、膨大な予算と時間がかかり、今のような市の財政難では実現は難しいであろう(ほんの一部については公開されている。http://school.nijl.ac.jp/kindai/kindaiDB.html)。できれば、書籍なら表紙、文章、図ならその一部を写真にとり、寸法とともにデータベース化くらいはできるであろう。バイトでもいいので、一日に50冊くらい撮影すれば、年間250日で12500冊、これくらいは何とかなるのではないだろうか。図書館のHP上で公開してもらえば、利用者にとっては大きなプラスとなる。同様なことは、まだ未見で一度は覗いてみようと思うのは、東奥義塾高校の図書館で、ここには藩校以来の貴重な書籍があり、在校生というよりは研究者に活用されるべき資料である。できればこういった書類もせめて表紙だけでもデータベース化して公開してほしいものである。

2013年7月20日土曜日

弘南電車大鰐線廃止




 中央弘前駅と大鰐駅を結ぶ弘南鉄道の大鰐線が3年後には廃止するという報道があり、近隣住民、弘前市、大鰐町が大騒ぎになっている、朝、夕の通学時間は沿線に東奥義塾、聖愛学院などがあるため利用者も多いが、それ以外の時間は一部の鉄道マニアを除いてガラガラの状態が続いている。一度、大鰐に飲み会があり、最終便で弘前に帰ったことがあるが、大鰐から3名乗車し、途中で2人降りて、結局弘前まで乗っていたのは私だけだったということもあった。

 サイクルトレインや、大鰐にあるワニカムという温泉への入浴料付きの乗車券など色々な試みがなされているが、乗車数の減少に歯止めがきかない。これでは経営的には存続が非常に難しい。全国的の私有鉄道の中では、赤字幅の少ない路線ではあるが、これ以上の運営は税金の投入が必要で、逼迫した弘前市、大鰐町の財政から無理と経営陣が判断した結果であろう。これはこれで市民に迷惑をかけない、いい考えであろう。確かに弘前市や大鰐町、あるいは近辺住民、学生にとっては大きな問題で、存続を希望するであろうが、現実は一向に乗車数の向上が望めず、減少の一途をたどっている。

 言うはやすく、行うは難しいもので、廃止には反対するが、そうかと言って大鰐線を利用するかというとそうではない。車の方が便利であるというのが圧倒的である。車をやめて電車に乗るという流れは今のところはない。実家のある大阪では、例えば、西宮から梅田まで電車で行くのに20分くらいだが、車で行くと渋滞のため1時間以上かかる。こうなれば車より電車を選ぶであろう。こういった金銭的、時間的なメリットが弘南鉄道にはないからであろう。ただの愛着だけでは無理なのである。

 同じことは昔住んでいた鹿児島市の谷山線でも鹿児島市内に行くのに車では、渋滞で時間がかかり、また定時に到着できないので、市電を使う住民も多かった。車に比べて何らかの時間的、経済的なメリットがなければ、単にエコにいいからというハイソな理念から乗車増は望めない。弘前から大鰐まで30分かかり、JRよりは遅いが、これはそれほど大きな問題とはならない。一番、大きな問題は料金とアクセスであろう。

 アクセスについては、北九州市のモノレールのように弘前駅に乗り入れれば、便がよくなる。現在の中央弘前駅手前から東北女子短大、郵便局前の大きな道に抜け、中央通りを曲がり、弘前駅に乗り入れることは可能かもしれない。相当な費用がかかる上、現行の電車では乗り入れない。ライトレールにしても市電に近い、小型のものになろう。
 料金についてはJRとあまりに値段が違う(大鰐線420円、JR230円)。100円バスに見られるように値段が安くなると利用者数は、増える。通勤、通学時間以外の時間帯については、ヨーロッパでよくやっている、信用乗車方式、それも1年間、1万円くらいで、家族の誰が使っても、また子供2名、大人1名くらいなら同乗できるようなパス(定期)を使う手もあるだろう。

 全く現実的ではないが、理想論から言えば、次世代型路面電鉄(LRT)のような車両で、一家にパス一枚あれば、どこで乗り、降りてもOKといった方式で、さらに15分間隔の運行であれば、利用者は増えるだろう。

 利用者側の利便性、運賃、そして経営者側からの損益、こういった関係について、さらなる専門家による検討が必要であろう。当然、存続させるなら、県あるいは市による財政上の補助は必要となろうが。

上は札幌市電、下は名古屋の豊橋の新型車両である。
  

2013年7月15日月曜日

弘前藩の数学者

 数学というと私にとっては、名前を聞くだけで躊躇してしまう分野である。中学受験くらいまではそれほど、苦手意識はなかったが、中高になるとずば抜けた数学の才能を持つ級友を見るにつけ、自分の才能のなさを痛感させられた。

 江戸時代、弘前の藩校稽古館でも儒教の科目だけでなく、算術の科目もあり、数学学頭、傍学頭(副)がいた。藩の財務に数学が必要だっただけでなく、暦の製作あるいは測量に数学の知識が必要だったからである。特に測量は、土木工事、検地にも必要な技術であるため、信政時代には、わざわざ金沢藩お抱えの測量術師範、金沢勘右衛門を150石で召し抱えた。数学の才能は世襲できないのか、その後、測量術師範は、石郷岡八九郎、外崎十郎右衛門、外崎三太郎と続いた。

 稽古館の初代の数学学頭は、中田勇蔵(−1834)という人物で、稽古館暦の弘前分間図の製作にたずさわり、幕末期には笹森町に家があった。さらに幕末期の稽古館の数学学頭は福士助太郎武孝、添学頭は相馬吉之助孝恭、新屋源次郎由高がいる。相馬吉之助孝恭は、幕末期に全40巻にも及ぶ「算法活機」、「算法求積活機」などの和算および洋算の本を執筆し、維新後は東奥義塾の数学教師をしていたという。また新屋源次郎は、新谷源二郎の名で山道町にその名が見られるが、同一人物で、その孫の新屋茂樹(1886-)は青森縣第一中学校、早稲田大学、東京日々新聞社、大阪毎日新聞の記者を経て、近衛文麿の秘書となる。また佐藤正行(1817-1883)という人物は、江戸軍艦操練所で測量、洋算を学び、帰郷して家塾「六合館」を開き、維新後にはこれも東奥義塾の数学教授頭をしていた。

 さらに奈良茂智という数学者もいて、東京の攻玉社陸地測量習練所の教官などを勤めた。人物履歴については不明であるが、おそらく攻玉社設立者近藤眞琴の友人で、攻玉社に勤めていた山澄直清(吉蔵)に誘われたものと思う。さらに中舘広之進という、おそらく白狐寺門前に住む中舘喜十郎の息子が、明治13年に上京して、測量学校開設と同時に入学している。授業はなかなか難しく、結局卒業したのは15名で、卒業生は陸軍参謀本部、鉄道局などに勤務したが、中舘広之助は故郷に帰り、東奥義塾の数学教師となった。ちなみに広之助の長男、中舘久平(1898-1963)は県立弘前中学校、慶応大学医学部に進学し、法医学の権威として下山事件などの検死を行った。

 攻玉社測量習練所の教官を見ると、先に述べた山澄直清、奈良茂智の他、笹森清定という人物がいる。幕末期に弘前藩から測量術取得にため上京した青年の中に山澄吉蔵(直清)の他に笹森銀蔵という人物がいる。どうもこの笹森銀蔵=笹森清定という気がしてならない。となると5名の教官の内、3名が弘前藩出身ということになり、攻玉社と弘前の結びつきは強い。さらにいうと地理局測量課の弘前藩出身の三浦清俊(才助)、山澄直清、そしてこの笹森清定は、“清”という字が共通する。三浦、山澄は明治後にそれぞれ才助、吉蔵から改名しているが、何か共通点があるのかもしれない。

 こうして見ると、東奥義塾の教師は英語教師のみならず、数学教師も当時では少ない西洋数学を知る人物が教師であり、レベルはかなり高かったと思われる。

 夢枕獏著「大江戸釣客伝」(講談社文庫)を読んだが、主人公として黒石藩主の津軽采女と釣りに誘い込む付き人として兼松伴太夫が登場する。兼松家の2代目の兼松伴太夫久融のことと思われるが、小説の土台となっている日本初の釣りの本、「河羨録」について原本は残っておらず、写本末尾に「享保十七年 兼松七郎右衛門殿より」借りたとのことを記載があり、兼松伴太夫を七郎右衛門と同一人物としている。兼松家の家系を見ると、四代目に兼松七郎右衛門久容という人物がいるが、時代からすれば伴太夫久融でいいであろう。ちなみに兼松石居の兄の名前も兼松伴太夫久通という。



2013年7月14日日曜日

明治十年ころの弘前荒町の古地図



 偶然とはこんなことを言うのであろうか。ブログを通じて知り合った海外にお住まい方より、弘前の妻の実家に古い絵図が最近発見されたとのメールがあり、本日、その方の自宅を訪ねて、絵図を見る機会があった。

 驚いた。絵図は薄い和紙に書かれた160cm×160cmくらいのもので、荒町(現在の新町)、鷹匠町、駒越の、いわゆる下町の南部分を中心に書かれた手書きの地図である。すべて楷書で丁寧に書かれた地図は、明治二年絵図とは違い、士族だけではなく、町民の氏名もすべて記載されている。さらに地所の広さ、幅、奥行き、さらには番地も記載されている。縮尺は明治二年絵図の8倍くらいであるので、1/300程度であろうか。現在の住宅地図よりも細かい。

 時代は後で述べるが、明治10年ころかと推測されるが、明治二年絵図同様に、明治初期の弘前の状況を描いた第一級の一次資料であることは間違いない。ただ裏打ちは薄く、一部反古紙などが使われ、内容に比べて装丁はややおそまつである。さらに畳んで保存されているため、折り目に亀裂が入り、コンデションは十分ではないが、日焼けなどはない。家の新築に際して、旧家の納戸から発見されたとのことで、未発見の資料である。

 明治二年絵図で比較すると、兼松石居の長男、郎のあるところに長尾又右衛門の名がある。長尾介一郎の父、周庸のことである。明治二年絵図では介一郎の名で記載されていたが、介一郎はその後、岩木山麓の開墾に向かい、明治の早い時期にこの場所を去った。実際に長尾又右衛門が亡くなったのは明治19年、正式に家督を介一郎に譲ったのは明治9年である。少なくとも明治19年より前のものであろう。

 馬屋町に一戸徳三郎の名がある。明治31年に南部地獄沢で猛吹雪に遭い亡くなった一戸徳三郎巡査長(当時30歳)のことであろう。明治二年弘前絵図では一戸徳治となっており、徳三郎はその息子であろう。鷹匠町小路の名前もかなり変化している。大豪商の今村九左衛門の名もあるが、明治四年、弘前藩の数万両の金を流用したとして家業、家財、一切を没収されている。一方、明治11年に東京の裁判所で訴訟をおこしている。他の名前を拾っていくと製作年代はもっと特定できると思われるが、明治十年前後のものかと思われる。

 記載は非常に丁寧にされており、個人が趣味のために作ったものとは思えない。おそらく地租改正に伴い、住民の現住所、敷地などを調べる必要から、県あるいは弘前の役所が作ったものと思われる。いわゆる一軒、一軒の番地が入った青森では最も古い地図、いわゆる字限図、あるいは野取絵図と呼ばれるものではないかと推測される。各家ごどに簡単な測量を行い、敷地を調べ、番地をつけていったのであろう。地租改正は明治6年(1873)に布告され、各県に字限図の製作を命じた。明治14年ころに終了したとされたことから、推定したように明治十年ころの製作はこういった流れにも沿う。ただ今回発見された地図は、主として荒町周辺のものであるが、おそらく他の町についても同様な番地の入った詳細な字限図が作られたと思われるが、これ以外の絵図については寡聞ながら知らない。

 こうした手書きの地図は、大型で、何度も広げたり、畳むことで折り目が容易に破損する。そのため、早めに所有者の許可を得て、デジタル化し、今後の研究、調査の資料にしたいと考えている。

 これまで明治初期の絵図としては明治二年、三年、四年のものがあったが、さらにこの明治十年ころの絵図の発見により、町および士族の変遷についてより詳細な比較ができると思われる。研究者の今後の調査に期待したい。

2013年7月6日土曜日

韓国の悲劇4

 中国にとって韓国という反共国家は、陸続きの大陸としては、のど仏に刺さった刺のようなものだった。ここに強力な米軍基地があることは、有事の際に、直接首都北京の攻撃も可能であり、とりあえず北朝鮮という共産主義傀儡国家が干渉地帯とあっても安心できない。
 ところが盧 武鉉という反日、反米の大統領が登場することで、反共のパワーが反日、反米に移り、駐韓米軍の縮小、将来的な撤退につながった。さらに日本との関連もマスコミも含めた徹底した反日主義となり、敵対した。その結果、次の大統領李明博さらには現大統領朴槿惠も、その考えとは別に親日的な態度はとれない状況になっている。

 すでにアメリカは韓国を捨て、軍事防衛ラインを沖縄、日本に連なる第一ラインに移している。将来的にはグアムまで後退した第二ラインまで後退する可能性もあるが、中国海軍、ことに潜水艦のことを考えると、東シナ海においた方がよく(大陸棚で深く潜航できず、発見しやすい)、当分このラインが防衛ラインとなる。尖閣列島および沖縄の問題も、中国政府としては是非突破したいところで、第二ラインまで防衛ラインを下げれば、前方に広大な太平洋が視野に入る。

 一方、韓国においては、駐米軍の脅威がなくなったことで、次の段階として、経済的に韓国を友好国化させ、そして済州島に海軍基地を設け、属国化していった上で、親中的な統一朝鮮を樹立させる。この段階になると、日露戦争開戦前のロシアが中国に置きかわった状況となり、中国の脅威がすぐそこに現出する。そして核兵器を持つ親中国家、統一朝鮮が誕生する。もともとこの国の宿命として、長い歴史の朝鮮王朝の全く不毛な派閥闘争がある。朝鮮併合により韓国人が被った実際的な被害より、中国の介入で統一ができなかった朝鮮戦争の方がはるかに死者数は多い。ところが、実際の被害より、日本に併合された事実の方が恥で、優先される。ましてや隣国に狂った北朝鮮という国と隣接する状況で、政治、思想が異なる中国と組む危険性を全く把握していない。すでに日本と組むという普通の考えが政治闘争で出せない状況となっており、うっかり友好をしゃべると土下座して謝罪させられる。政治、議論が国の方向を完全にゆがめている。

ここまでが2ちゃんねる東アジアニュースのまとめである。

 “「慰安婦」問題とは何だったのかーメディア・NGO・政府の功罪”(大沼保昭著、中公新書)は読み応えがある。何より著者の怒りの文であるため、その指摘は鋭い。著者は年配の慰安婦?、この定義には問題があるとしても、その生活保障をしようと「アジア平和基金」を設立するが、韓国では、完全にイディオロギー化、政治問題化してしまい、償い金をもらった元慰安婦は売国奴扱いされた。これにより、インドネシア、台湾、フィリッピンについてはある程度解決し、中国においてもこれを契機に対日賠償問題が問題化して、国内の不安定かを恐れた。韓国を除く、他の国では、いずれも現実的な解決法をとった。そういった意味では、尖閣諸島の問題も、棚上げ論云々ではないが、大きな利益の前には小事は無視するという現実的な選択を日中国交回復当時の両国の首脳がとった。ところが石原元都知事による東京都が所有しようというばかげた意見から、民主党の国有化に繋がってしまった。中国側から騒ぎを起こしたのは日本だという主張はある意味正しい。さらに日中首脳会議も安部首相は中国側が会談の前提として「尖閣問題」を唱っていると暴露してしまった。これは中国からすれば恥をかかされたことになる。何でも話せばいいものではない。将来的には中国も民主化され、現在の台湾のような国家になってほしいが、エジブトのように急激な民主化はかえって不安を煽るため、じっくり見守っていくべきであろう。中国はあまりに広く、人も多い。大躍進の頃の話でも、成果を達成するため、餓死者が出ても、過生産という官僚がいる一方、農民の悲惨な状況をみて、それはうそだと主張して、殺される官僚もいる。「史記」の世界は今でも続いている。


2013年7月4日木曜日

石坂洋次郎 塩分町


 「青い山脈」などで有名な小説家、石坂洋次郎は、明治33年1月に弘前市代官町八十六番地で生まれた。今の弘前バッテリー当たりとなる。その後、小学校から高校卒業までは塩分町に家にいたため、石坂洋次郎にとっての故郷、弘前の風景と言えば、この塩分町の家から見た岩木山の四季の姿であろう。雪の岩木山、紅葉の岩木山、春、夏の岩木山、毎日、自分の部屋のある二階からその姿を見ていたのであろう。
  
 「創立百二十周年記念 弘前市立朝陽小学校 同窓会名簿」がある。大正二年卒業生の中に石坂洋次郎(弘前市塩分町)とある。番地の記載はない。同級生に野村Nという人物がいて、家が隣同士で仲のよい友人であった。二つの家は柵で隔てられていたが、お互いの部屋がある二階同士を糸電話で結び、毎日、色んなことをしゃべったという。この友人の住所が、塩分町17番地、ところが昭和2年の同じく朝陽小学校を卒業したこの男の弟(四男)の住所をみると、塩分町34番地となっている。大正15年に卒業した妹の住所が、塩分町17番地となっているので、昭和になって家屋はそのままで番地名変更となったのであろう。こういったことは多い。

 「石坂洋次郎 映画と旅のふるさと」(石坂洋次郎文学散歩 渡部芳紀)によれば、塩分町の石坂の住所は、塩分町33番地となっている。ということはこの友人とは隣同士となる。

 昭和十年の弘前案内圖をみると、石坂の家は野村輿一の家の隣、赤石國雄宅となる。塩分町の最も西の四つ角の家である。上記の糸電話の話から、野村家の屋敷は敷地の前に、石坂家の屋敷は敷地の後ろにあったのだろう。Nは後に土木工学のエンジニアとなり、関門海峡トンネルの建設に携わるが、となると石坂とは小中学校(弘前中学校)とも同級生であったのだろうか。石坂自身、この塩分町の家を元家老屋敷だったとしているが、明治二年弘前絵図では、小山内滴宅となる。ただ昔々は家老、高倉家の敷地は上白銀町から塩分町まで繋がっていたため、そう呼べないことはない。明治二年絵図に載る高倉良蔵の家は、明治五年に東奥義塾の最初の外国人教師、チャールズ・ウォルフの宿舎として選ばれた。西洋式の窓ガラスがつけられ、珍しさもあって多くの弘前市民が見に来たようだ。昭和十年ころにはこの敷地には、野村家の他にも高橋鉄工所、高木染物店、工藤家などがある。

 今日は、弘前図書館に行って来た。収穫はほとんどなく、新たな情報得るのがますます難しくなっている。北大総長だった今裕の父親、今純三、和次郎の叔父になる今幹斎(1833-1892)の家を以前から探しているが、わからない。おそらく藩医は士族とは若干違う立場のため、載っていないと考えていた。昭和57年発行の「弘前の墓」を見ていると、寿昌院に今幹斎の墓があり、同一の墓として今栄八の墓があるという。明治二年絵図では山道町に今栄六という名がある。栄八と栄六が同じかは実物を確かめなくてはいけない。また同書には今栄八は日露戦争の戦没者であるとしているが、一切記載はない。

 幕末の数学者、佐藤正行(1817-1883)や相馬吉之進孝恭についても調べているが、情報がない。