2012年4月29日日曜日

明治3年弘前絵図?






























 今日は連休初日、天気もよく、家内と一緒に弘前公園に桜祭り見学に出かけた。遅咲きと聞いていたが、外堀の桜もほぼ満開、城内も五分咲きくらいであった。旅行会社によれば、個人客の多くは、遅咲きの情報を聞き、ホテルの予約をキャンセルし、連休後半に移したが、団体客については東北の復興にお手伝いしたいとのことで、お客さんのキャンセルは少なかったようだ。天気もよく、弘前の桜祭りを楽しんでもらえてうれしい。

 西堀の端にある紺屋町派出所(消防屯所)がリニューアルされ、一般にも公開されていると聞き、桜祭りのついでに見てきた。以前は放置されたままになっており、かなり破損しており、大変心配していたが、きれいに修復されている。ちょっとした資料館となり、新たな観光コースとしては十分に活用できよう。弘前警察署の派出所が併設された火の見櫓のある珍しい建物で、三沢の寺山修司記念館の最初のHPではここが寺山修司の生誕地として紹介されていた。その後の調査でこことは少し離れたところの生まれであることがわかり、「旧紺屋町消防屯所」館内にも寺山修司の生誕地が地図とともに紹介されている。生誕地の決め手の一つに、2軒隣に住んでいた弘前歯科医会の川村志郎先生の証言も大きい(子供のころ、2軒となりにいた警察官のところで男の子が生まれた)。

 館内には他にも紺屋町の紹介のために2つの古地図の写真が展示されていた。私自身、びっくりしたのは、その一つが明治3年8月現在となっている弘前城下絵図であった。このブログで何度も紹介した明治二年弘前絵図は明治2年10月現在図となっていることから、この10か月後に作成された地図といえよう。八木橋文庫所蔵となっているため、帰宅後調べると歴史家八木橋武實氏が弘前市立図書館に寄贈した膨大な量の書籍のひとつであることがわかった。すでに紹介したように弘前市立博物館には明治4年士族在籍引越之際地図があり、これは明治4年7月現在図となっている。他には弘前市立図書館にはこのさらに写し、おそらく明治ももう少したった時期のものがある。

 とすれば、まず私が弘前市立図書館に寄贈した明治2年弘前絵図(10月)の後に、八木橋文庫の明治3年8月、その後、弘前博物館の明治4年7月の、さらに弘前市立図書館のその写しの計4枚の明治初期の弘前地図があることになる。残念ながら、今回見た明治3年のものはかなり不鮮明なもので(掲載した撮影した写真が不鮮明ではない)、細部について明治2年のものと比較することはできない。元の地図がカラーなのか、細部はどうかなど全くこの写真ではうかがいしれないが、それでも弘前城周辺を比較すると、明治2年のものに比較して明治3年のものでは省略、手抜きがあるようだ。コピー機のない時代、オリジナルを必要性に迫られ、手早く写したと思われる。実物を見た訳ではないので断定はできないが。

 何度もこのブログで言っているが、こうした地図は色々なところで使われ、現にこの旧弘前消防屯所でもパネルで紹介されている。それがこんなに不鮮明なものでは意味をなさない。少なくとも地図類に関しては図書館、弘前市でデジタル化してほしいものである。そうしないと万一であるが、火事などで資料が喪失した場合、大変なことになる。オリジナルの資料の保存は当然であろうが、貴重資料に関しては、是非ともデジタル化してバックアップを作ってほしいものである。費用に関しては、弘前の印刷屋に頼めば6-7万円くらいでしてもらえる。図書館も予算が厳しいであろうが、是非弘前市の方でも予算をつけてほしいものである。おそらくこういった貴重書類、図のデジタル化事業に関しては、うまく研究計画書を作成すれば文科省の科研費からこれくらいの費用は捻出出来るであろう。日本の役所というのはおもしろいところで、予算は年度末には完全に使う仕組みになっているため、1月ころになると各大学、研究機関に研究計画書の提出を求められる。予算の応じた何種類かの研究計画書を作成しておき、すぐに予算案を提出すれば、科研費とは別の予算がつくことも多い。図書館ではどういう制度かは知らないが。

 ある研究者が弘前市立図書館にある私の寄贈した明治二年弘前絵図の閲覧を希望したところ閲覧不可と断られたと聞いた。最終的にはねばって何とか閲覧はできたようだ。この理由として、図書館側は明治二年絵図には人権上の問題があるので閲覧不可としている。「絵図学入門」(杉本史子ら編、東京大学出版)にも少し記載されているが、古地図の展示システムと人権にかかわる問題は複雑であり、一般公開についてよりよい解決法を期待したい。一方、こういった大型の絵図、特に折り畳む式のものは、閲覧時に破損する可能性があるため、一部の研究者のみにだけにしか実物は閲覧させないことが望ましいが、この規制もあまり厳しいと我々のようなアマチュアは全く見ることができなくなる。

2012年4月28日土曜日

ムシ歯は減った







 地元のミニコミ紙に2か月に一回広告を出し、250字程度のコラムをここ10年ほど書いている。さすがにネタもつき、来月号には以下のような文章を載せる。

ムシ歯は減っている

 最近、学校歯科検診に行くと、30年前に比べると随分ムシ歯が減ったような印象を持つ。調べると12歳児(中学一年生)では1984年のムシ歯の数(治した歯も含めて)が4.75本だったのが、2010年では1.29本とほぼ1/3になっている。同様に3歳児でムシ歯のある子供の割合は1989年では66.7%であったのが、2009年では23.0%とこれもまた1/3になっている。ほぼ先進国並みの状態に急激に改善し、その減少はさらに続いている。地域差などまだ問題があるにしろ、大きな医療・予防成果と言えよう。

 私が歯医者になってすでに30年になるが、感覚的には当時とあまり変らず、学校歯科検診で、だんだんムシ歯が減ったなあと感じてはいたが、これほど急速に減少しているとは全く考えていなかった。他の同年輩の先生方も同様であろう。

 これはある意味、二重に驚くべきことである。あらゆる疾患でここ30年これほど激減したものはあるであろうか。子供の最もポピュラーの疾患としては近視とムシ歯と決まっていたが、近視の比率が下がったという情報はない。鼻炎、アトピー性皮膚炎などのアレルギーにいたってはかえって増加しているくらいで、ガンや脳疾患、心臓疾患などについてもこれほどの減少はない。そういった意味では、ここ30年における医療分野での、最も成功した事例のひとつと評価されてもよかろう。

 ところが、歯科医師会では、この成果に対しては、案外冷静で、まだまだ地域差がある、子供によっては多い子がいるなど、各論的な評価しかしない。以前は欧米の状況に比して、日本のムシ歯の状況はひどい、まだまだで、早く改善しなくてはと声高に叫ばれていたが、あっさり目標を達成し、現況ではほぼ欧米の状況に近くなっている。さらにこのムシ歯の減少傾向は平坦化している訳ではなく、まだ直線的に減少していることから、DMFT(治療済みも含めたすべてのムシ歯の数)1.0本以下になるのは確実であろう。ほぼムシ歯はないといった状況となる。

 一方、もう一つの驚くべきことは、30歳以下の歯科疾患の90%がムシ歯であることを考えると歯科医院に行く患者数、治療すべき歯の数が30年前に比べて1/3になったことを意味する。歯科治療は、小さなムシ歯があるとそこを少し削り詰め物をする(充填)、詰め物からムシ歯になるとさらに大きな充填や金属のものを入れる(インレー)、そしてムシ歯がさらにでき、神経まで行くと神経の治療と今度は金属の被せ物となる(クラウン)、そしてこれもダメになり歯を抜くようになると差し歯、入れ歯となる(ブリッジ、部分床義歯)となり、最後的にはすべての歯がなくなり入れ歯(総義歯)となる。こういった負の連鎖によって口の中の状況は悪化していく。ところがムシ歯がなければ、こういった負の連鎖からは外れるため、歯科医院での患者数は急速に減少することを意味する。

 歯周疾患(歯槽膿漏)についてはこれほど急激に減少しないため、患者数がゼロになることはないとしても、歯科医院の経営はこれでは相当厳しいし、今後ますますムシ歯を持たない患者さん世代が増加するにつれ、当然来院頻度も減ってくるであろう。今春の保険点数の改訂で、歯科の重点が老人に向けられてきたのは、こういった若者のムシ歯の減少を背景にしている。

 今年の小児歯科学会の抄録集をみていると、小児の数が減っているにもかかわらず、小児歯科専門医に来る患者さんの数は増加しているという。ただほとんどの患者さんはムシ歯がなく、予防のために来ているようだ。20年前に東京の小児歯科の先生に聞くと乳歯の神経の治療(歯髄処置)は年に数件しかないといっていたが、こういった傾向がさらに加速度されているのであろう。当然、患者数が増えても、処置数が減れば、現行の保険制度ではそれほど収入は増えない。

 それでは不正咬合は減っていないのだから矯正歯科はもうかっているだろうと言われるかもしれないが、全国どこの矯正歯科医に聞いても患者数は減少しているという。一般歯科に来る患者さんのムシ歯が減れば、矯正治療にも手を出す歯科医も増え、結果的に子供の矯正患者は矯正専門医に紹介しないことになるためだ。実際、東京では子供も患者はほとんどいないという矯正専門医も多い。地方の私のところでも子供の患者さんは多い時に半分くらいになっている。

 通常の産業形態では、これは崩壊に近いことであり、消費者の減った呉服屋、帽子屋、下駄屋、ギャンブル産業同様、倒産、閉鎖などの数の淘汰となるはずであり、歯科大学数の整理、イギリス、ドイツのように地域、人口に対する歯科医師数の制限、海外での開業など思い切った政策をしなければ、本当の崩壊となろう。

2012年4月23日月曜日

矯正専門医の抜歯・非抜歯2

 前回のブログで、日本の矯正歯科専門医の抜歯率は大体50-60%くらいだと述べた。私が鹿児島大学にいた30年前は多分90%近かったが、ずいぶん非抜歯の症例も増えた。
 私のところでも以前は抜歯していたケースでも何とか非抜歯にできるようになり、抜歯率は減少した。ひとつはマルチループ法、あるいはそれに準拠したゴムメタル法により反対咬合、開咬は非抜歯を選択することが多い。上記の方法によって、ゴムにより下顎歯列をかなり量、遠心に移動することができる。また上顎前突では、機能的矯正装置による下顎の成長促進やペンデユラム装置による上顎大臼歯の遠心移動で、非抜歯にできる。同様に叢生でも大臼歯の遠心移動による上顎切歯をあまり唇側に傾斜させることなく、非抜歯で改善することもできる。さらに矯正用インプラントを積極的に使用することで、非抜歯の治療を広げることも可能である。

 昨今の新技術を活用することで、以前に比べて非抜歯の頻度は増加したように思える。ただし、それでも非抜歯率は40-50%であり、半数以上は抜歯をしなくては直らない。さらに言うなら、口唇の突出感の完全に改善するとなると抜歯率はさらに上がるであろう。
先日、春の歯科検診で某中学校に行ってきた。以前に比べてう蝕は確実に減っており、昔はう蝕のない生徒はクラスで1人いるかどうかであったが、今や1/3くらいはう蝕がない。これでは歯科もきびしいなあと感じるが、郡部の中学校でも矯正装置が入っている生徒を何人か見かける。矯正治療が普及してきていてうれしいことである。ただ内容は実にお粗末で、これでは直らない。

 こういった多くの症例をみると、非抜歯でマルチブラケット装置が入っている。それもただワイヤーを入れて並べたとしか思えないもので、根本的な診断が間違っている。先に述べたように、現在の非抜歯治療を最新の矯正技術によるもので、そういった技術を使わなければ、非抜歯率は10-20%ということになろう。日本矯正歯科学会の専門医試験も主として抜歯症例を審査しているが、要は抜歯症例をきちんと治療できなければ、非抜歯症例も治療できないということである。ワイヤーを入れ、並べただけで直る症例などほとんどないと言えよう。

 それでは何故一般歯科医ではあれほど非抜歯治療を行うかというと、ひとつは抜歯治療ができないこと、あるいは抜歯してしまうと不可逆的なものになってしまうこと、あるいは単純に歯を抜きたくないという想いによるものであろう。ただこれだけは強調したいが、これらの先生は何も金儲けのために矯正治療しているわけではなく、口腔管理している患者さんからどうしても矯正治療をしてくれと頼まれると、矯正専門医に紹介すると高いため、出来るだけ患者さんの負担を減らそうと格安の治療費で治療を行っているケースがほとんどである。昔、ブラケット1100円でやっていた先生がいたが、どう考えても材料費にも及ばず、なかなか治らないと大学病院に来た患者さんの両親ともこれでは前医を責められないねと苦笑いした記憶がある。

 こういった患者さんがセカンドオピニオンを求めて来院されることがあるが、よほどのことがない限りは、元の歯科医院での継続治療を勧める。治療をする場合は、必ず前医の承諾を得て転医する。これが原則である。それ故、先の100円ブラケットのケースも患者さんから前医に連絡し、前医から大学病院に紹介が来た時点から治療を開始した。矯正治療の場合は、さらに料金の清算がこれに入るため、複雑となる。矯正治療の料金体系は請負制のため、本来なら治療の進行度合いによって料金を清算し、転医先も治療の進行程度から料金を減額する。ただ一般歯科では、請負制をとるところは少なく、装置ごとの料金をとっているため、清算は望めないし、こういった治療上に問題のあるケースでは転医先でも治療の進行はないと見なされ、料金の減額もない。それ故、検査費、治療費をすでに支払ったケースでは、返金の可能性も少ないため、治療の継続を勧めることもある。

 どこで治療するかは患者の勝手と考えかもしれないが、前医に無断で治療すると患者さんを奪ったと怒られることもあり、私のところでは面倒であるが患者さんから前医の承諾を得て初めて治療を開始する。ただこれはあくまで治療中の患者であり、昔治療を受けたが、もう何年も行っていないという場合は、完全に新患扱いで問題ない。治療中、とくにマルチブラケット装置による治療の場合が問題となるため、本格矯正を行う場合はどこで治療するかは、じっくりと検討した方がよい。不満があっても治療途中で先生を換えるのは難しく、治らなくても結局は最後まで治療し続けるしかない。

2012年4月19日木曜日

三浦才助(清俊)












































ブログをみている方から三浦才助のことで問い合わせがあった。こういった問い合わせは本当に有り難い。幕末、弘前藩は海軍を作るために藩下の優秀な若者を江戸に留学させていて、その一人に三浦才助の名前がある。最初、測量学を勉学するため、相馬吉之進、長谷川健吉、成田五十穂らとともに江戸に行くが、途中から英学の勉学のために三浦才助は福沢塾に入塾する。慶應義塾の慶應3年7月、入塾者の中に弘前藩の三浦清俊という人物がいるが、おそらく三浦才助が改名したのであろう(同時期に弘前藩出身の二人の三浦が義塾に入学する可能性は低いし、後述するが三浦清俊は測量士になった。江戸に測量の勉強に来た才助と一致する)。

 弘前藩記事の中に次のような記載がある。
弘前藩賞典四十五  明治3年6月   「御賞典 金五拾両 予備銃隊源次郎三男 成田五十穂  筆生次席忠太郎弟 三浦才助
右両人奥羽騒擾形勢不測之時ニ当リ、醍醐殿ヘ属各所奔走、尽力之段、其力之段、其功不少、(にんべんに乃)而為其頭書之通ツツ被下候事」

 戊辰戦争では、醍醐少将のところに属して活躍したようだ。同僚の成田五十穂は三浦才助と同様に、慶応義塾で学び、後に弘前の東奥義塾の創立者のひとりとなる。

上記賞典から三浦才助は三浦忠太郎の弟で、忠太郎の名は明治2年当時、弘前の緑町に住んでいた(図参照、ちなみに私の家はこの三浦家から30mくらいの近さです)。

 三浦才助が具体的にどう戊辰戦争に関わったかというと、江戸を占領した明治政府軍は、続いて東北地方の攻略に向かった。まず奥羽鎮撫総督府を組織し、東北各藩の説得に乗り出した。仙台藩は東北地方の列藩会議を主宰し、奥羽鎮撫総督府に対して会津藩の赦免を懇願したが、それが政府軍の参謀・長州藩の世良修蔵によって握りつぶされると、その傲慢な態度もあって、仙台藩士・姉歯武之進らによって殺害されてしまう。さらに総督九条道隆や参謀醍醐忠敬らの身柄を確保して、仙台城下に移した。この醍醐の従者であったのが、三浦才助である。殺気立つ仙台藩士により醍醐、三浦らもかなり危険な状況であったが、福島藩の取りなしで、事なきを得た。上記賞典録から成田五十穂も行動を一緒にしたと思われるが、記載はない。

 この暗殺事件が、奥羽列藩同盟の成立、会津への悲惨な戦いに繋がっていくのであるが、この事件は慶應4年4月であり、当時まだ弘前藩は政府側につくか、奥羽列藩同盟につくか帰順が揺れていた時期であった。どうして弘前藩士の三浦がひょっこりと醍醐のところにいたのであろうか。時期としては慶応義塾に入学して9か月目で、ある意味まだ学生であった。脱藩して参加した訳ではなく、おそらく藩の密命を帯びて、同僚の成田五十穂と一緒に政府側の一員として参加したのであろう。多分にこういった暗殺事件が起こるとは夢にも思わなかったであろう。

 この次に三浦の名前が登場するのは、名を変え、三浦清俊で明治8年の内務省地理寮による「関八州大三角測量」に参加した。どうやら明治維新による士分喪失により、東京に出て内務省で測量の仕事をしたのであろう。この「関八州大三角測量」とは、近代地図の草分けというべきもので、お雇い外人のイギリス人マクヴィンが指導にあたり、那須野ヶ原に正確に図られた三角形の一辺、那須基準を作った。「一辺とこれに接する二角がわかれば、他の二辺が求められる」という三角形の定義を利用した測定法で、それだけ最初の基準線は正確に測る必要があり、アメリカから購入したヒルガード式基線尺というわずか4mのものさしを使い測定した。那須基準の場合、全長を知るだけで、2500回の測定、5回繰り返すと12500回の測定が必要となる(「地図を楽しもう」山岡光治著 岩波ジュニア新書)。その後、三浦は明治10年には改称された内務省地理局に在籍し、明治15年には小笠原の測量を行い、「小笠原島誌(附録図)」を著し、さらに日本経緯度原点となるチットマン点の経度測定に従事した。

 三浦才助(清俊)は明治初期の日本測量史における過度期の恩人であり、以後は正式な大学教育を受けた人々により学問が発達していったのであろう。危うく仙台藩士による斬殺されかかった前半生と測量に打ち込んだ後半生のギャップがいかにも明治の時代を感じさせる。





2012年4月18日水曜日

矯正専門医の抜歯・非抜歯


Q&Aでわかる「いい歯科医院」(週刊朝日MOOK)から、アンケートがきた。2009年から始まった企画で、私も一応学会の編集委員を長年やってきたのでわかるが、結構おいしい仕事である。というのは本の半分以上は広告で、その広告収入だけでほぼ経費はまかなえ、おつりがくるのではと考えられる。さらに広告主が患者への配布などの利用するため、大量購入するため、大体の売れ数は確保できる。そのため541ページという厚い本の割に安く、一冊800円となっている。

前回、今回のアンケートでも、各医院の抜歯率が記載するようになっているため、平成23年度の動的治療終了して、保定に入った患者数を調べると、マルチブラケット装置をつけて治療が終了したのが43件、そのうち第三大臼歯以外の抜歯を行った症例は29件(67.4%)、非抜歯の症例が14件(22.6%)であった。ちなみに顎変形症、辰顎口蓋裂の患者さんはこれに含まれない。

2011年度のムックから抜歯率の記載のある286件の矯正専門医院(専門医の資格をもつ)について、その平均をだすと53.4%、標準偏差は21.8%となった。当院の抜歯率は全国平均よりはやや高い。上記の図に示されるように一番多いのは60-70%、次に多いのが50-60%であるが、標準偏差の値も大きく、最小のところは4%、最大のところは95%であった。

この値をどう見るかというと、まずこの雑誌の性格は集客を狙ったものであり、どこの歯科医院もできるだけ抜歯率を低めに記載する傾向をもつ。というのは複数の矯正歯科医院がある場合、患者はどうしても歯を抜きたくないため、抜歯率の高い医院は敬遠する傾向がある。そのため実態よりは抜歯率は低くでた可能性がある。というのは、あまりこういった傾向と無関係な大学病院では、8つの大学歯学部附属病院の平均は63.9%、標準偏差は16.0%となっており、開業医の数値より高い。さらに東京、大阪などの都市部では、矯正歯科の普及率が高く、より軽度の患者が治療を受けるため非抜歯の患者がいきおい多くなるのかもしれない。ちなみに北海道、東北の28件でみると、平均は56.9%、標準偏差は16.2%となる。

以前クインテセンスの別冊に投稿した論文、「非抜歯、抜歯矯正治療の選択基準をどこにおくか」(臨床家のための矯正YEAR BOOK ’99)では全体の20-30%は明らかに抜歯、非抜歯となり、残り40-60%のボーダラインをどうするかによって抜歯率は変わると書いた。その当時に比べて矯正用インプラントの出現により確実に非抜歯治療を増えたと思われるが、それでも20%以下にすることはかなり難しい。

矯正のための抜歯は、便宜抜去と呼ばれ、何らかの理由によりやむにやまれず抜くと解釈されている。一番の理由は歯とあごの大きさのずれ、すなわちあごの大きさに比べて歯が大きくて、でこぼこしている場合。当然重度になると抜歯比率は高くなり、逆に軽度の場合は歯を抜かなくても歯列の拡大、歯のディスキングで解消できる。また上下顎、上下切歯のズレ、例えば、上顎前突では上の歯を中に入れなくてはいけないが、大臼歯を遠心移動できれば解決できるケースがある。従来の方法では無理だったケースも矯正用インプラントで治すことができるようになった。また反対咬合では、代償的な改善のためには上の切歯を前に出すため、下の歯列全体を後方に移動できれば非抜歯で治療できる。また機能的矯正装置などを早期に使うことで下顎の成長促進がうまくいけば、これも非抜歯の可能性が高まる。こういった風に最近では色々な方法により非抜歯による治療の可能性は増加したが、それでも非抜歯と抜歯を分ける最大の要因は、口元の突出に対する考えの違いである。先ほどのムックを見ても、口元をすっきりさせたい、後退させたと考える先生は、どうしても抜歯率は高い。日本人の場合は元々、下あごが後退し、口元が突出しったケースが多いため、歯並びだけでなく、口元の突出も完全に治したいとなると小臼歯を抜歯して口元を入れるケースが多くなる。

アジア人、黒人の典型的な顔は、やや口唇が突出した状態で、これが正常である。ただ韓国や台湾の先生に聞くと、矯正治療の目的の多くに口唇を引っ込めたいという要望があり、抜歯ケースは割合多いと言っていた。逆に欧米人では元々口唇が引っ込んでいるケースが割合あり、また歯列も横に狭いケースが多い。こういったケースでは前方、側方への拡大で相当スペースを稼げるため非抜歯となる場合も多い。

私の場合、まず口唇を閉じてみて、オトガイ部に筋緊張が起こる場合は、ウメボシの種のようなしわ、まず抜歯ケースとなる。さらに非抜歯でするよりは抜歯の方が簡単なケースでは抜歯ケースとなる。つまり6mm遠心移動するのは大変で、上下とも大臼歯をこれくらい移動させるのであれば、臼歯部の後方のスペースを考えると、抜歯ケースとなる。

2012年4月17日火曜日

Google Map詐欺

















 本日、診療中にGoogle Mapから電話がきた。丁寧な女のひとの声で、Google Mapに登録するための案内をしているという。10分くらいお時間をいただき説明したいという。どういったことかと聞くと、Google Mapに診療所の詳しい案内を載せたいので、その手続きをしていただきたいとのことであった。10分も診療を中断してコンピューターの前に座っていられない、こちらから登録できないかというと、それも可能であるが、非常に難しいので一度説明をしたいとしつこく話してくる。ここで怪しいと感じ、そんなに面倒ならやめますと答えて電話を切った。

 その後、コンピューターで確認するとすでにGoogle Mapで当院の所在地は掲示されている。ところが以前の掲示にはなかったコメントというところに、患者さんの評価としてujsliuという方から「名医と聞き治療をお願いしたが、治療の際歯茎から2箇所の出血、口角が裂けてしまい出血など、 とてもじゃないが丁寧とは言い難い。」との悪評が載っている。当院は矯正専門で、一般歯科は一切していないので、こういったことはありえない。

 先ほど友人としゃべっていると、これは新手の詐欺で、まず電話でコンピューター上のGoogle Mapを開けさせ、そこに載っている悪評を先生に示す。その後、こういったコメントの削除を引き受けるとして、契約をせまるというものである。 
 
 最近は患者さんの口コミサイトが増えてきたが、こういった詐欺まがいのところが増えると、全く口コミが信頼おけないばかりでなく、新手の詐欺に利用されていることになる。これは悪質である。こういった口コミサイトの多くは匿名でコメントされるため、大方は全く信頼おけない。歯科ではデンターネットという口コミサイトがあるが、上位の診療所はすべてそうだとは言えないにしても、あまり患者さんの評判がよくないところ、患者さんが少ないところが並んでいる。自作あるいは業者による書き込みによるものだろう。

 こういったサービスは本来、病院選びの参考にするための便利なツールであるはずであるが、かえって混乱を助長するものとなっており、あれだけ個人情報についてうるさいのであれば、こういったサービスはもはや何の利益もないし、さらにこういった犯罪にも使われるのであれば、即刻廃止することを提案したい。むしろ患者さんを混乱されるだけのものとなっている。 

 正しい情報はやはり友人、知人などからの本当の口コミに頼った方がよさそうである。

2012年4月12日木曜日

佐藤愛麿、工藤勝彦 暗号解読




 佐藤愛麿(1857-1943)は、津軽藩の重臣山中兵部の二男として、大浦町で生まれた。今の弘前中央高校があるところである。幼名を次郎といい、藩校で漢学と英学を学んだ後、新しくできた東奥義塾に入学した。珍田捨己より1歳年下だが、義塾では同級生で、明治9年(1867)には明治天皇が青森に来られた折の天覧授業では珍田らとともに、「愛」と題する文章を暗誦した。明治8年にはキリスト教の洗礼を受け、明治9年には佐藤清衞の養子となり、佐藤姓となった。

 明治9年(1876)に、佐藤、珍田、川村、那須らとアメリカのアズベリー大学に入学し、明治14年に優秀な成績で卒業し、帰国した。すぐに佐藤は外務省書記官の仕事につき、その後ワシントン公使館、ロンドン公使館の書記官などを務めた後、明治26年には外務省電信課長ならびに翻訳課長となった。

 ここまでは「中学生のために弘前人物志」からの抜粋であるが、実はこの電信課長というのは暗号解読セクションのトップであり、ここでの活躍が佐藤の功績の中でも群を抜いている。今でもそうであるが、海外大使館、公使館から母国への連絡はすべて電信で行われ、中央の指示を受けていた。これがすべてばれてしまうと大きな外交の不利益を被るため、暗号電信で連絡を行っていたが、同時に他国の電信情報を解読できれば、大きな国益となる。このセクションで佐藤は、清国の暗号解読に成功し、明治28年の下関での日清戦争後の講和会議では清国側全権李鴻章の暗号電信を知り得たため、下関条約は日本側にとって非常に有利なものとなった。この功績により佐藤愛麿は勲四等旭日小綬章を貰った。

 日露戦争においては、逆にロシアにより日本の暗号が解読されていたようだったが、情報がうまく生かせられず、日本の勝利となった。当然、ポーツマス会議には英語が得意で、暗号解読のスペシャリストの佐藤を随行員として連れていった。外務省本省には親友で義理の弟となる珍田がいるため、意志の疎通が欠くことはなく、少なくとも外交情報の遺漏はなかった。この功績により勲二等旭日重光章を授与された。ポーツマス会議後は、オランダ特命大使、オーストリア特命大使などを歴任し、外務省を退官した。その息子の佐藤尚武は後に外務大臣となった。

 弘前出身のもう一人の情報機関畑の人物として、工藤勝彦がいる。日露戦争中にロシアの暗号解読、スパイ活動のため、着目したのが、ロシアの隣国で長くロシア研究の歴史のあるポーランドである。そこで1926年のポーランド軍参謀本部のソ連の暗号解読の第一人者のコヴァレフスキーを招聘し、日本での本格的な暗号解読の科学的な方法が伝授された。それを受けて1926年に百武晴吉が1年間、さらに工藤勝彦大尉が9か月ポーランドに留学し、訓練を受けた。これにより日本陸軍の暗号解読技術は飛躍的に発達し、中国国民党、共産党の暗号はほぼ解読できたという。工藤勝彦は太平洋戦争中に亡くなったようで、最終階級は工藤勝彦陸軍少将、南方軍特種情報部長となっている(一階級特進、おそらく大佐)。満州事変においては支那派遣軍特情班長として中国国民党軍のほぼ70%の暗号を解読し、その後の日本軍の作戦に抜群の功があったとして情報部としては初めての金鵄勲章を授与された。英米は同盟国の中国国民党の暗号は日本陸軍により解読され(1941年ころには80-90%の暗号が解読できた)、筒抜けになっていると認識したため、結局重要な情報は教えなかった。一方、共産党の暗号形態はソ連に準じていたため、なかなか解読できなかったし、解読できてもしばしば暗号を変えたが、国民党ほどではないにしても、それでもかなりの暗号は解読していた。さすがにアメリカ軍の暗号の解読は、大学の優秀な数学者を動員してもなかなか難しかった。

弘前の生んだ二人のインテリジェンスを紹介した。上の写真真ん中にいるのが珍田捨己、下の写真は佐藤愛麿である。

2012年4月6日金曜日

安済丸



 幕末期弘前藩が建造、保有していた西洋式帆船は二隻あり、青森丸と安済丸である。1854年(安政元年)11月に下田に停泊していたロシア船ディアナ号が安政東海地震による津波のため損傷を受け、修理のため回航中に沈没した。ロシア使節プチャーチンの乗船だったため、幕府はこの時始めて西洋式帆船建造の許可を与え、戸田村の船大工より西洋式の二本マストのスクーナを建造した。これが「君沢型」と呼ばれる船で、その後我が国でもこの型の西洋船が各藩で作られた。

 蝦夷警護も任されていた弘前藩でも、1860年に青森にて最初の西洋式帆船青森丸が建造され、1861年(文久元年)正月青森から函館までの試運転に成功した。ただ寿命は短く、1864年(文久3年)の3月には七里長浜に乗り上げ、焼却処分されてしまう。

 そこで1866年(慶應二年)正月に完成したのが安済丸である。試運転も終わり、乗員55名を載せて6月21日に青森を出航し、7月30日には品川に入港した。
安済丸は長さ21間4尺、幅5間2尺の660石でキャノン砲二門と小銃12挺を積んでいたという(弘前今昔 第四 荒井清明著)。21間というと約38メートルくらいで、排水量でいえば300トン程度の小型船であるが、君沢型を主体とした当時の国産船としては20間を越える船は大きい方である。英文本(Military industries of japan :Norimoto Masuda 1922)ではAnsai-maruはStyle and material としてBark wooden(バーク型)となっている。幕府以外の藩によって作られた国産船14隻のうち12 隻はSchooner wooden(スクーナ型)となっており、スクーナ型とは2本以上のマストに張られた縦帆帆装のもので、バーク型とは3本以上のマストがあり、最後尾のマストに縦帆が、他のマストには横帆があるものである。具体的に言えばスクーナ型はほとんど君沢型の2本マストで、安済丸は3本マストのやや大型の外航用の船であったのあろう。他藩の国産西洋式帆船でバーク型となっているのは他に松山藩の弘済丸のみである。当時、外国から買った同級の中古のバーク型船が1−2万両したから、藩としても造船には随分金を使ったのだろう。安済丸の絵は残っていないが、おそらく形式からすれば、下の三本マストの松山藩弘済丸(紀州新宮藩が1859年に丹鶴丸として建造、その後松山藩が買った)に近いと思われる。

 安済丸の建造に関わった人物として、石郷岡鼎がいる。安政6年に砲術と蘭学を学ぶため江戸に派遣され、砲術を下曽根金三郎に、蘭学を村田蔵六(大村益次郎)に学んだ後、勝海舟塾に入っている。安済丸の処女航海の初代船将は勘定奉行織田虎五郎で、石郷岡は上締役として乗船している。また同じ勝塾門下の神連之助、葛西金之丞も運用方を務めた。なお安済丸の造船主管は工藤厳治(勝弥)という人で、1862年に勝塾に入門し、「彼理日本紀行」を訳した。明治二年絵図にて屋敷がわかるのは葛西金之丞が植田町片山町、織田姓は二軒しかなく、織田虎五郎は在府町織田寅五郎家であろう。

 以前のブログでも紹介したが、1862年(文久2年)に弘前藩でも海軍を作るために、笹森銀蔵、(山澄吉蔵)、小寺之蔵、福士豊蔵(鷹匠町)、船具軍用学を学ばせるために神連之助、葛西宗四郎、佐藤弥六、蒸気機関学については樋口左馬之助、永野邦助(工藤菊之助と改名、若党町)の8名を江戸に派遣し、さらに蘭学、砲学、兵学、測量学、英学を学ばせるために、漢学については葛西音弥、黒滝彦助(若党町)、菊池元衞、蘭学については工藤浅次郎、小山内玄洋、百川衞之助、梶文左衞門(富田新割町)、砲術については神豊三郎、(篠崎進)(小人町)、兵学については貴田孫太夫、牧野栄太郎、横島彦太郎(若党町)、岩田平吉(小人町)、工藤峰次郎、長谷川如泡(五十石町小路)、田中小源太、さらに海軍術には石郷岡鼎、工藤勝弥、荒井安之助、吉崎源吾、測量学には三浦才助(三浦忠太郎弟、緑町)、相馬吉之進、長谷川健吉(山下町)、成田五十穂(御徒町川端町)、英学には吉崎豊作、神辰太郎、佐藤弥六、白戸雄司、三浦才助、田中小源太、木村繁四郎、国学として山田要之進が江戸に派遣されている。これらのメンバーによって、3本マストの西洋式帆船が設計され、青森で建造されたようである。上記新宮藩の丹鶴丸も進水には失敗し、横倒しになったように、自主制作は結構難しく、外国から買った方が手っ取り早い。こうした中、藩の優秀な若者を江戸に留学させ、費用のかかる蒸気機関の船は作れなかったにしても、帆船としては最新の船を自分たちで製作したのは青森県の産業史では特筆されることではなかろうか。

 前のブログでの述べた須藤かくの叔父須藤勝五郎が安済丸の船将を務めたのは織田虎五郎の後であろう。

 安済丸は建造後、1868年(慶應4年)9月からは江戸藩邸の藩士の国元引き上げに従事し、その後函館戦争では物資、人員の輸送に活躍したが、函館戦争後は弘前の豪商今村九左衞門に売却された。明治になるとあまり使用もされず、青森港に繋がれたままだったので「隠居丸」とあだ名され、最後は廃船された(須藤勝五郎の生涯 ― 弘前藩士の信仰の軌跡 安済丸船将 佐藤幸一著)。船主の今村九左衞門が明治4年に数万両を不正に流用し、藩によって家財・家業を没収されたことも原因だし、また蒸気船の発達に伴い帆船による輸送はコスト的に向いていなかったのだろう。安済丸が青森のどこで作られたかははっきりしない。また設計図面もどこかにあると思うが、今後の研究を待ちたい。

2012年4月5日木曜日

大躍進秘録






 「毛沢東 大躍進秘録」(楊継縄著 文藝春秋)をようやく読み終えた。と言っても全二段組みで591ページ、半分以上は流し読みで、一週間かかった。以前、「飢餓 秘密にされた毛沢東中国の飢餓」上下(ジェスパー・ベッカー著 中公文庫)を読んで、大躍進時代の飢餓の実態に衝撃を受けたため、思わず上記の本を紀伊国屋で買ってしまった。

 内容な衝撃的である。一個人による失策、命令により3600万人の餓死者を出した状況は、中国2000年の歴史上でも世界史上でも例がない。自然災害による餓死は我が国でも数多くあり、東北地方でも天明の大飢饉では弘前藩だけで10万人近くの人が亡くなったが、これはあくまで異常気象によるもので、人災の要素は少ない。一方、中国の大躍進による飢餓に関しては、天候は平年並みであったようで、100%人災によるものである。人類の歴史史上これだけの餓死者が人災で亡くなった例はない。

 同書は新華社の元記者によって書かれたもので、内部情報からその実態について詳細に語られており、おそらくその事件の大きさ故、今後100年以上に渡り歴史的な資料となろう。こういった大きな事件があったとしても記録者がいなければ、歴史の謎として埋没され、表には出てこない。さすがにこれだけ規模が大きいといずれ歴史的な検証が入ると思うが、すでに50年前の事件であり、同時代の当事者によるこの本の意義は大きく、著者がある意味命をかけて書いた本である。当然、同書は中国では発禁、持ち込みも不可能である。

 中国共産党の本質的な問題点、毛沢東の権力への執着、個人崇拝など色々な切り口からこの大飢餓の原因を語るのは容易であるが、さらに歴史的、哲学的な視点に立つと、人間の本質まで考えさせられる。

 この事件について簡単に説明すると、政権をとった中国共産党、毛沢東はまず人民がすべからず腹一杯食べ、国力を先進国並みに上げようとした。同時に人口が増えた都市の食をまかなうために、中国全土の食料生産を国が完全に管理する必要性が生じ、人民公社化を進めていった。言わば個人の農業を否定し、すべて国家が管理し、衣食住、さらに学校、医療も人民公社ですべてまかなうという共産主義から言えばユートピアの建設である。日本でも当時、朝日新聞が中心となり、盛んに絶賛した。エドガー・スノーはじめ、日本でも京大の竹内好教授、井上清教授などがこの大躍進、その後の文化大革命を支持し、私も含めて当時の若者に大きな影響を与えた。医療も、学校も食事も無料で、これはユートピアではないかと。当時は誰もこんなひどい飢餓があったとは知らなかったし、私自身も一時毛沢東思想にかぶれた時期もあった。

 ところがこの人民公社化、それに続く大躍進は、どうなったかというと、各省、役人が自分の評価を上げようと、偽りの報告を出すようになった。1ムール当たり1007キロの小麦がとれたと報告されると、他の地方では2200キロとれた、しまいには4292キロとれたとなった。それにより政府が買い上げる食料量が決定され、実際の食生産量は1億4000万トンに過ぎないのに、4億2500万トンまで誇張され、農家が生産された食料はすべて、さらに貯蔵していたものもすべて取り上げられ、それに従わないものは拷問にかけられた。そして農民が餓死していった。

 現在でも中国の田舎に行くと、おはよう、こんにちはの挨拶の代わりに「今日もたくさんごはんをたべましたか」と聞くという。大躍進時代の苦い思い出が定着しているのであろう。現代中国ではこんなことはまずないが、それでも13億の人民すべてが腹一杯食べさせるのは本当に難しい。最後に著者は、こういった悲劇が今後起こらないようにするためには、民主制の導入を求めているが、一方、急激な民主化もかえって新たな専制制度を生み出すと警告している。冷静な分析だと思う。こういった冷静な記者と一度亡くなった佐藤慎一郎先生と会談したらおもしろかっただろう。佐藤慎一郎先生の最終講義は、ラクーンのブログというところで紹介されているので、参考にしてほしい。大躍進のような歴史の風雨に流される中国人民の姿を伝えてくれる。
http://racoon183.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/19766-3d82.html

2012年4月4日水曜日

韓国ドラマ



 うちの家内は、毎日韓国ドラマを3時間は見ているというオタクで、それにつき合って私も毎日韓ドラをみています。今、はまっているのは「ジャイアント」という復讐もの+企業もので、これはおもしろい。今週で終了となりますが、非常に残念です。どうも恋愛ものは苦手で、歴史物、今やっているNHK-BSの「トンイ」は毎週楽しみです。

 韓国ドラマの面白さは、その単純さで、ドラマの手法からすれば、日本の民放ドラマやNHKの大河ドラマの方がよほどよく出来ています。20年以上前の手法で、おそらく日本のディレクター、脚本家からすれば、恥ずかしくてあんなドラマは作れないといった案配なのでしょう。同様に欧米のテレビマンもそうでしょう。ドラマに現実を当てはめる必要はありませんが、あまりに現実離れしたものは作り手からすれば、忌避されるでしょう。韓国のドラマ、例えば上記のジャインアトでは、別れ別れになった兄弟が同一に舞台に登場しますし、悪政治家は殺人すらいとわない非情な人物です。少なくとも日本の政治家で殺人を平気でする人はいないでしょうし、韓国でもそうでしょう。ただドラマでは悪人は徹底的に悪人で、昔の時代劇の悪代官のようなものです。こういったステレオタイプの悪人を現代劇に登場させるのは、日本では相当ためらいがあると思いますが、韓国ドラマでは全く平気です。

 これは歴史ものでも全くそうで、日本の歴史物はある程度史実に忠実であろうとしますが、韓国のものは全く荒唐無稽で、かろうじて李朝の王様ものは多少とも史実には沿っていますが、その前の百済、新羅、高麗、それ以前となると98%は史実とはかけ離れています。架空史と言ってもいいでしょう。何しろあのチャングムでもわずか一行の記述からあんなドラマを生み出すのですから。まあ架空史と思えば、それなりに面白いのですが、韓国の人々はあれを真実と考えているが恐ろしいような、滑稽のような感じがします。

 私自身、2ちゃんねるの東アジアニュースが好きで、ここ数年毎日見ています。ここの投稿者は皆年期が入っており、面白い投稿があります。国別に見ると、台湾に対しては全面的に肯定、中国に対しては政権には批判的ですが、個々の中国人についてはとんでもない人もいるが、割合冷静で合理的な考えの人も多いという肯定、否定混ざったもの、韓国に関しては全面的に否定あるいはおもしろがっています。私自身、在日の友達も多いですし、韓国からの留学生も多く知っていますが、皆さん非常に紳士的で冷静、合理的な人は多いのですが、どうも韓国のニュースはエキセントリックで、笑わせます。東海問題では、世界中の図書館の地図を日本海から東海に書き直そうとがんばっている人がいます。本に落書きするという罪悪感は一切ないようです。また東海(east sea)という言葉は、中国では東シナ海を指し、あくまで韓国から東という意味しかなくても、また1990年まで何の抗議もしなかったにも関わらず、今になって大騒ぎしています。

 最近のおもしろネタは、青森のねぶた祭りを韓国起源のものとして、ユネスコの文化遺産として登録するようです。何でも仏教法会の行事で「燃灯会」というのがあり、その出し物としてねぶたのようなものを出しているようです。もちろんこんなものはごく最近始めたもので、30年ほど前に韓国にねぶたを持っていった時は、見学者はこんな祭りは初めて見たと驚いていたようです。青森ねぶたも今の形になったのはせいぜい明治以降でそんなに古くはありませんが、それでもユネスコに登録された折には、青森ねぶたは今度はコピーになってしまうことでしょう。

 またアメリカの大学で無差別大量殺人が起こりましたが、これも韓国人の火病によるもので、よくドラマで怒りが高じてそこらじゅうのものを壊すシーンがありますが、あれが火病で、2ちゃんねるではファびるといいます。ウィキベディアにちゃかして説明していますのでご参考に。

 今日から「名家」が始まります。楽しみです。