2007年8月28日火曜日

宇宙大作戦



「宇宙大作戦」が現在、NHKのBS2で放送されている。若い人にはスタートレックといった方がなじみがあるかもしれないが、僕らの世代ではやはり宇宙大作戦である。放送時間が土曜日の1時半ということで、ソニーのスゴ録に入れて見たいところであるが、娘が同時間他の番組を録画しているので、しかたなく深夜一人で見ている。
中学生ころに確か放送されていたが、僕が最もよく見たのは、高校3年生の時(1974)で、再々放送くらいで深夜、毎日放送していた。高校3年生ともなると受験勉強でこんなテレビを見る暇もないはずだが、どうした訳がこのころはこの番組にはまり、おやじとコーヒーを飲みながらみるのが日課となっていた。クラスでもう一人はまっていた友人がいたので翌朝は決まって前の回の批評をお互いにしていた。
宇宙大作戦は後年、映画化されよりスケールの大きなものになっていくが、やはり初期のシリーズがおもしろい。カーク船長の女好きも初期シリーズではあからさまで、笑いをさそう。先週の「危険な過去の旅」でもタイムスリップした1930年代の慈善家の女のひとにすぐにメロメロになり恋に陥ってしまう。とても船長らしからぬ行為である。それでいてその女のひとが交通事故で死なないと歴史が変わると知るとすんなりと状況を受け入れてしまう。非常に軽いのである。他のシリーズでもカーク船長の女好きのため何度エンタープライズ号が危機に陥ったことか。普通、こんな経験をすれば少しは反省するのだが、カーク船長は全くめげない。腹も出て、それほどかっこいいとは思わないが、どうしたことか結構もてる(むしろひとりよがりの気もしないではないが)。
高度の知能をもつ宇宙生命体に人間のむきだしの欲望、本能が勝つというパターンはSFではよく見られるが、「宇宙大作戦」は欲望強い人間性をカーク船長に代表させ、MRスポックや他の登場人物とからませて物語を作っている。「2001年宇宙の旅」が硬派のSFを代表するなら、宇宙大作戦は軟派のSFとして見ごたえがあり、今でも高い人気をもつのであろう。
NHKのBSでは「コンバット」、「ララミー牧場」、「奥様が魔女」、「逃亡者」、「ルーシーショー」などの古いドラマを放送しているが、今見るとそれほどおもしろくない。今見てもおもしろいと思うのは、宇宙大作戦以外では「ヒッチコック劇場」、「タイムトンネル」、「アウターリミッツ」くらいか。

2007年8月26日日曜日

健康保険の適用できる不正咬合 唇顎口蓋裂


25年ほど前、東北大学の小児歯科にいたころ、口蓋裂チームに所属していました。手術は口腔外科が、矯正治療は矯正科が、う蝕処置は小児歯科が、言語治療は言語治療室がチームを組んで、唇顎口蓋裂児の治療を行っていました。といっても顎口腔機能治療部というところに行き、幸地先生の指導のもとに矯正治療を主としてやっていました。小児歯科からは私が、口腔外科、矯正科からもそれぞれ先生が来て治療をしていました。その頃は、青森や岩手から来る患者も多く、忙しくて大変勉強になりました。ここで矯正治療に興味を持ったため、その後幸地先生に紹介してもらい鹿児島大学の矯正科に行くことになりました。唇顎口蓋裂の矯正治療を私の矯正治療の原点です。
唇顎口蓋裂とは、唇裂(唇のみ)、唇顎裂(唇と歯が生えているところの骨)、唇顎口蓋裂(のどちんこまですべて)、口蓋裂(のどちんこだけ)に分かれます。口蓋裂はさらに軟口蓋裂(のどちんこのみ)と硬口蓋裂(その前に硬い部分も)に分かれます。また片側性と両側性に分かれます。唇の手術はだいたい生後6か月で、口蓋の手術は生後1歳6ヶ月ごろに行われます。施設によっては出生後すぐからホッツのプレートと呼ばれるプラスチックでできたマウスピースのようなものを入れ、ほ乳の手助けと手術をしやすくすることもあります。
唇顎口蓋裂の矯正治療の難しい点は、裂隙のタイプが差があるだけでなく、手術法や術者によって上あごの成長にかなり差が出る点です。通常の矯正治療においても個人差があるのは当然ですが、唇顎口蓋裂では手術による差も出てきます。強引な手術、とくに口蓋裂の閉鎖手術では、傷あとによる上あごのかなりの成長抑制がおこるため、ひどい反対咬合(かみ合せが逆)になります。唇顎口蓋裂や口蓋裂ではいずれも口蓋閉鎖術が必要なため、多くの症例で反対咬合となります。また唇顎裂や唇裂でも前歯に限局した不正咬合がおこるため、その矯正治療には健康保険が適用されますし、自立支援法も使えます。
弘前大学の形成外科からはだいたい2歳ころに私のところに紹介されてきます。この頃は主として歯磨きの仕方(母親)やフッ素塗布などの予防処置をしています。通常は永久歯が萌出するころから、治療を行います。反対咬合のところで紹介した上顎骨前方牽引装置や、リンガルアーチあるい前歯にブラケットをつけて、反対咬合の治療を行います。8歳から10歳ころには裂隙部の骨のないところに腰から骨を移植します(骨移植術)。東北大学が日本でも最初にやった施設だと思いますが、25年ほど前では十分な骨移植ができず、そこに歯を移動するのは難しかったのですが、現在は手術法の改良で十分な量の骨を入れることができるようになりました。糸切り歯が生えるころを目安にしますが、もう少し早くすることもあります。上あごは横にも狭いため骨移植術の前後に上顎骨側方拡大装置を使うこともあります。永久歯列の完成する中学生から高校生ころに全部の歯にブラケットをつけて仕上げの治療を行います。上下のあごのずれが大きい場合は手術を併用して治療します。
開業してこれまで100例以上の症例を見てきました。多くは大学病院で治療されるためこれでも個人の開業医としては多い方だと思います。手術法の進歩により最近では傷あともほとんどなく、ぱっとみてそれほどわからなくなってきていますし、骨移植術や初回の口蓋形成術もマイルドな方法がとられるようになり、ほぼ健常児と同等の仕上げを行えるようにもなってきました。ただ依然として旧来のやり方で手術されている症例もあり、初回の手術による上あごの成長抑制が強いとなかなか矯正治療単独ではうまくいかないのも事実です。いずれにしても2歳から20歳まで見ていく訳ですので、責任も重く、常に最新の情報を仕入れてよりよき治療を受けられるように努めています。親御さんたちも長い通院期間で本当に大変で、頭が下がります。

2007年8月21日火曜日

陸羯南4


昨日の弘前ロータリークラブの外部卓話で、陸羯南記念事業実行委員会の事務局長の舘田勝弘さんのお話を聞いた。羯南と正岡子規の交流についてのお話をいただいたが、内容が濃く、30分の時間では足りないくらいであった。当時新聞「日本」の給料は他の新聞社の半分くらいしかなかったのに、多くの記者が羯南を慕って集まったようだ。それほど新聞社としては困窮した状況であったし、羯南自体生活費にも困り、袴も一張羅しかなかった。その袴も佐藤紅緑の求めに応じてあげていたようだ。このような状況下でも、羯南は病魔に侵され、新聞人としての仕事もできない子規をかわいがり、客員社員として給料を与えていた。実の徳の厚い人である。
保坂正康著「昭和とは何だったのか」(講談社文庫)で、日露戦争と太平洋戦争のナショナリズムの違いについて検討している。その中で、日露戦争に行きつくまでのプロセスと太平洋戦争へのプロセスの類似点を指摘し、陸羯南の「近時政論考」(ttp://www.aozora.gr.jp/cards/000253/files/1401_24296.html)を引用し、伊藤、山形ら明治指導者を国権論派とし、対外政策では穏健派に立ち、国内体制拡充のためには対外政策を二義的に考える欧米的な立場をとったとしている。一方、開戦賛成派の参謀本部の軍人らを国富論はとして位置づけ、国富の公益を優先して考える。日露戦争と太平洋戦争の分岐点はこの指導者のナショナリズムの違いとしている。陸羯南のような明治の知識人は、欧米の言語、文化、思想に通じていて、彼らの主張するナショナリズムは昭和十年代の偏狭なナショナリズムとは本質的に違う。国権論からのナショナリズムと国富論からのナショナリズムは競合しながらも、日露戦争の勝利に伴う国民感情の傲慢さからしだいに大衆ナショナリズムに変遷していき、太平洋戦争に向かった。
舘田先生のお話を聞きながら、羯南は50歳で死んだが、あと30年生きていればどうだったろうかと考えた。おそらく山田兄弟との関係からも孫文の中国革命にも肩入れしたであろうし、その後の日中戦争にも反対したであろう。

2007年8月9日木曜日

「花の回廊」と東難波町


驚いた。宮本輝の新作「花の回廊」は私の生まれ育った尼崎市東難波町が舞台です。この作品は「流転の海」の第五部にあたり、宮本さんのライフワークと呼べるもので、大変好きなシリーズです。今回の作品では主人公の松坂熊吾の1人息子伸仁が、困窮のため両親と離れておばのいる尼崎の東難波町の一風変わったアパートに住み、そこの住人との壮絶な関係を描いたものです。
あまりにリアルなため、宮本さんのHPの履歴を調べると、宮本さん自身小学5年生から卒業まで尼崎市東難波町に住み、難波小学校に通っていたようです。主要な舞台である蘭月ビルというアパートは阪神バスの東難波の停留所前、映画館の隣にあったようです。この映画館は確か大映の映画館で、子どもたちは若大将シリーズやゴジラなどの東宝系の映画館に行っていたため、あまりなじみはありません。阪神尼崎から三和商店街をまっすぐに行き、次の道を右に折れていき、国道を渡ったところです。この道沿いにはパチンコ屋やいかがわしいキャバレーなどがいっぱいあり、お世辞にもいい環境とはいえません。はてこの映画館の横にこんなビルがあったかとなると記憶がはっきりしません。確かに映画館の隣に秋月ビルというビルがあり、裏にはお好み屋があったような気がしますが、普通のビルだったようです。宮本さんと私では年齢差が9歳ほどあるため、私の知っている頃にはだいぶ変わっていたのかもしれません。
難波小学校についても、校門の前に文具屋があり、記念切手などが売っていたという記述があります。3、4坪ほどの小さな文具店で私のころは、プラモデルブームで表のショーケースには完成品のプラモデルが展示されていて子どもたちは食い入るように眺めていました。店内に入ると左手に切手売り場、右手にはプラモデル、奥には文具が並べられていて、いつも店内は子どもたちで足の踏み場もないほど混雑していました。学校の東隣には難波公園があり、そこから東に3つの道がありました。私の家は左と真ん中の道をまっすぐに行ったところでしたが、右の道はたいへんぶっそうなところでした。花の回廊で描かれているような在日朝鮮、韓国人や労働者、クスリをやっているひとがたくさんいて、一杯飲み屋、ホルモン屋やなにかわからないような店やアパートが密集していました。またこの道からひと二人が歩けるくらいの狭い横町がたくさんあって、夕方になると七輪で魚を焼いたりする光景があちこちでありました。小学校4年生ころだったでしょうか、6年生くらいの上級生に脅され、ここらのアパートにつれていかれ、宿題を手伝わされたりしたこともありました。4畳半の部屋に一家5人が生活していました。この界隈はタバコ屋と理髪店がある交差点が入り口で公園までの一帯でした。昔は青線もあったようですし、殺人やけんかもよくあったようです。近くの銭湯にいくと何人かのひとは必ずいれずみをしていました。伸仁くんはこの道のさらに右の道を通ってアパートに帰っていったようです。
小説には甲田という鉄工所を経営する人物も登場しますが、これも一字違いで実際にいたひとで、小説とはいいながらかなり実体験も入っていると思います。私のいた当時でもどぶに流れている米粒をスプーンですくって食べている浮浪者をみて、絶対にこんな生活はしたくないと思ったり、遠足に行くときの弁当がなくて先生がだまって作ってやったりするほど貧しい人たちが集まっていた地区で、宮本さんのいた時にはおそらく小説に出てくるようなことも本当にあったのでしょう。
それにしても作家というのはすごい。子どものころもわずか2年間の生活をこれほど鮮明に覚えている才能と感受性はすごいと思います。主人公の熊吾やその妻房江も1人息子の伸仁をこんな環境にいたら、とんでもない人生を歩むと考え、中学は絶対に私立に行かそうと強く思うのですが、まさしく私の母もそうでした。ところが当の本人はこんな親の思惑とは別にすぐにこんな環境にも慣れて、楽しんでいたと思います。友人の家での楽しみは部屋の中でのプロレスで、そこのお父さんは昼間から酒浸りで、いつも赤い顔をしていましたが、プロレスで部屋の中のものを壊しても、もっと壊してしまえと声援を送るひとでした。べったん、ベーゴマ、銀玉鉄砲、ケンパなど毎日よくも遊んでいたものと思いますが、そんな子どもが悪い子と付き合うのは歯医者であった親を心配したのでしょう。しょっちゅうあの子と遊ぶなとか、あんな所にいくなと言われていました。全く房江から伸仁への小言と同じです。ただ花の回廊では在日朝鮮人、韓国人の扱いが大きいようですが、当時はほとんどの人が日本名を名乗っていましたので、子どもには区別がつかず、ちょっとうちとは違うなあと感じてもとくに意識したことはなかったと思います。
こんな所で育つとどんな高級な料理を食べたり、ホテルに泊まっても、「しょせん尼の子、かっこつけるな」という声が心の中でリフレインします。

2007年8月6日月曜日

山田兄弟7


これも「津軽を拓いた人々」からの引用である。山田良政の妻とし子の話をする。

山田良政の伴侶として菊池、山田家が選んだのは、医師藤田奚疑の長女藤田とし子(明治9年ー昭和36年)だった。藤田奚疑は非常に進歩的な人で早くからキリスト教徒となった。自分の娘たちも幼児からキリスト教教育をさせようと、11歳になったとし子を函館の遣愛女学校に入学させ、米婦人宣教師から英語とキリスト教を徹底的に教育された。高等科卒業後も学校に残り、足掛け10年以上も学んだため英語はぺらぺらだったという。
厳格な士族の生活になじませるため明治31年6月に山田家に入籍して同居することになった。夫の良政とはまだ会っていない。良政は革命運動に明け暮れるがその寸暇を惜しんで弘前に帰郷して、とりあえず結婚式はあげたのもつかの間、一週間ほどで中国に行ってしまった。これが良政ととし子があった唯一の時間である。その後も中国からは何の連絡もないまま、ひたすら良政の帰りをとし子は待ち続けた。実際は9月には良政は戦死したのであるが、はっきりしないまま、弘前女学校や遣愛女学校で英語などを教えていた。
一応中国革命を成功させた孫文は、大正元年に純三郎とともに日本にやってきた。とし子は良政の父晧蔵と孫文の通訳を英語でしたという。この時、孫文は良政の遺徳をしのび東京谷中に記念碑を建てた。これらのこともあり、大正2年にとし子もようやく遣愛女学校を辞して、老齢の山田家の両親のもとにあって孝養を尽くした。大正5年には孫文の分身というべき戴天仇が晧蔵の病気見舞に来弘し、また大正7年には純三郎が良政の死んだ現場を訪れ、一塊の土を持ち帰り、郷里に埋葬した。同年11月に晧蔵が死んだ。なすべきことをすべてし終えたとし子は離籍を申し出て、藤田姓にもどった。とし子の晩年は穏やかだったという。

2007年8月5日日曜日

山田兄弟6




近くの紀伊国屋書店で「津軽を拓いた人々ー津軽の近代化とキリスト教」相澤文蔵著、北方新社を購入した。明治期の津軽の主としてメソジスト派のキリスト教の活動を調べた力作で、山田兄弟についても一部述べられているので、引用する(このブログでは色々な本から勝手に写真や文を引用していて、著作権からすれば非常に問題がありますが、あくまで弘前の生んだ偉人を紹介する目的で行っていますのでご了承ください。)

山田兄弟の父晧蔵の妹久満子は、政治家菊池九郎に嫁ぎ、また九郎の姉きせ子は晧蔵に嫁いでおり、山田家と菊池家は2重の親類関係であった。山田晧蔵ときせ子との間に生まれたのが、山田良政(明治元年−33)、純三郎(明治9-昭和35)である。また菊池九郎と久満子の間に生まれたのが菊池良一である。菊池九郎は親友の本多庸一の影響もあり、早くからキリスト教の信者となり、その兄弟三郎、軍之助も熱心な信者で、布教活動なども行っていた。子どもたちの信仰に応じてしまいには、母親の菊池幾久子(1819-1893)も、59歳になって洗礼を受け、信者となった。九郎の母親の幾久子は気丈な女性で、幼少のころから苦労しながら菊池家に嫁ぎ、36歳で夫と死別したが、九郎など三男二女を育て上げた。それ故、この女性の存在は菊池、山田家では中心的なものであり、幾久子がキリスト教の信者になったため、九郎の妻久満子も三郎の妻なか子も信者となり、後に禁酒運動などの婦人矯風会の活動の中心人物となる。
写真下の女性が九郎の妻で山田晧蔵の妹、久満子である。きびしい性格が見て取れる。熱心な信者で弘前教会婦人会や愛国婦人会などを結成した。ちなみに夫の九郎はこの妻はにがてだったようで、ずいぶん愚痴をこぼしていたようだ。
このような環境下で、山田兄弟も教会に通うようになるのは自然なことであった。山田良政もその後上海では在留邦人の青年たちの間にキリスト教青年会を組織したりして布教活動を行った。また現地から弘前の両親あての手紙に弟の純三郎を教会に通わせるようにという文面もある。そのために純三郎も東奥義塾にいたころの明治26年に受洗した。純三郎は後年子息たちに「わしが悪の道に曲がらなかったのは、若いころ教会に通ったせいだろう」と言っていたという。
孫文は医師であると同時にキリスト教徒で、その革命運動もキリスト教的ヒューマニズムとは無関係ではなく、同じキリスト教徒として山田兄弟も孫文の人格、革命運動に共鳴したのかもしれない。キリスト教は神の下の人々の平等を説くため、明治期にキリスト教徒となった人々には社会主義、社会運動に共鳴する素因があった。キリスト教徒であるおばや親類などが貧民救済、部落問題、禁酒運動、子守り学校などの活動をしているのを子どものころに見聞した山田兄弟にとって、中国の窮状は見ていられなかったのだろう。

2007年8月3日金曜日

伝説の阪口塾



昭和40年のはじめころ、関西では中学受験の阪口塾と高校受験の入江塾というスパルタ教育の2つの伝説的な塾がありました。まんがのドラゴン櫻に出てくるような一風変わった情熱的な先生が受験指導をしていました。私も小学5年生の時に、親が急に受験に目覚め、この阪口塾に行くはめになりました。通常4年生からみんな行っていましたので、大分遅れての入塾でした。
先生は阪口辰夫というひとで、その頃(昭和42年当時)は大阪の出来島というところに塾がありました。阪神尼崎から西九条線に乗り、出来島の駅から歩いて5分くらいのところにありました。その当時でも出来島周辺は戦後の大阪を色濃く残した街でした。塾は元牛小屋を改良したもので、キリストはこんなところで生まれたのかといった感じがしたものでした。授業が始まるとすぐにテストがあり、すばやく阪口先生が採点して、成績順に並びかえが行われます。成績がよい生徒は畳敷きの部屋の一番後ろで、そこには座布団もありました。通称、灘組よ呼ばれていました。その前には甲陽組が、その後はその他組が並んでいきます。成績が悪いと、板間に座らされます。ここは冬は風が入り寒いばかりか、外のトイレの臭気もただよってきます。私の場合は、畳敷きと板間のところを行ったり来たりでした。
阪口先生は、ものすごい迫力と熱情で授業をするのはいいのですが、畳敷きの一番前に座ると(ここが多かったのですが)、つばは飛び、うるさくてかなわない思いをしました。生徒の後ろには父兄席があり、熱心な父兄が授業のメモをとっていました。自分の子どもが寝ていると急に生徒のところに来てどつく親もいて、笑いをさそいました。
壁には模擬試験の成績が名前入りで掲示されていいます。参考書は忘れましたが、自由自在、応用自在、5000題?などを使った記憶があります。全部積み重ねると1mくらいになったでしょうか、それを何度もすり切れるまで勉強します。毎晩2時ころまではやったと思います。そのため日本放送のオールナイトニッポンなどは小学5年生ころから聞いていました。いまだにこれほど勉強した記憶はありません。ただこれだけスパルタであっても生徒はその当時そんなに深刻とは感じていなかったのが不思議です。この頃国語の課題で読んだイギリスの児童文学「トムは真夜中の庭で」は今でも愛読書です。
阪口先生はその後、西宮の方に塾を移し、さらに規模を拡大したようですが、後に卒業生の進路を調査したところ、高校の成績が悪かったり、中退したりする卒業生がいてショックを受けたようです。スパルタ教育、詰め込み教育の弊害というべきものかもしれません。私も中学入学後は、阪口先生ほど熱心に教えてくれる先生の出会わなかったせいか、また自主的に勉強をする習慣が身につかなかったせいか、あまり勉強はできませんでした。同じ小学校から灘中学に行った同級生もその後、東大を中退したという噂を聞きました。
受験指導で有名な医者の和田秀樹さんもこの塾の出身者ですが、同じようなことを書いていました。
中学受験のはしりのころの話です。