2007年8月3日金曜日

伝説の阪口塾



昭和40年のはじめころ、関西では中学受験の阪口塾と高校受験の入江塾というスパルタ教育の2つの伝説的な塾がありました。まんがのドラゴン櫻に出てくるような一風変わった情熱的な先生が受験指導をしていました。私も小学5年生の時に、親が急に受験に目覚め、この阪口塾に行くはめになりました。通常4年生からみんな行っていましたので、大分遅れての入塾でした。
先生は阪口辰夫というひとで、その頃(昭和42年当時)は大阪の出来島というところに塾がありました。阪神尼崎から西九条線に乗り、出来島の駅から歩いて5分くらいのところにありました。その当時でも出来島周辺は戦後の大阪を色濃く残した街でした。塾は元牛小屋を改良したもので、キリストはこんなところで生まれたのかといった感じがしたものでした。授業が始まるとすぐにテストがあり、すばやく阪口先生が採点して、成績順に並びかえが行われます。成績がよい生徒は畳敷きの部屋の一番後ろで、そこには座布団もありました。通称、灘組よ呼ばれていました。その前には甲陽組が、その後はその他組が並んでいきます。成績が悪いと、板間に座らされます。ここは冬は風が入り寒いばかりか、外のトイレの臭気もただよってきます。私の場合は、畳敷きと板間のところを行ったり来たりでした。
阪口先生は、ものすごい迫力と熱情で授業をするのはいいのですが、畳敷きの一番前に座ると(ここが多かったのですが)、つばは飛び、うるさくてかなわない思いをしました。生徒の後ろには父兄席があり、熱心な父兄が授業のメモをとっていました。自分の子どもが寝ていると急に生徒のところに来てどつく親もいて、笑いをさそいました。
壁には模擬試験の成績が名前入りで掲示されていいます。参考書は忘れましたが、自由自在、応用自在、5000題?などを使った記憶があります。全部積み重ねると1mくらいになったでしょうか、それを何度もすり切れるまで勉強します。毎晩2時ころまではやったと思います。そのため日本放送のオールナイトニッポンなどは小学5年生ころから聞いていました。いまだにこれほど勉強した記憶はありません。ただこれだけスパルタであっても生徒はその当時そんなに深刻とは感じていなかったのが不思議です。この頃国語の課題で読んだイギリスの児童文学「トムは真夜中の庭で」は今でも愛読書です。
阪口先生はその後、西宮の方に塾を移し、さらに規模を拡大したようですが、後に卒業生の進路を調査したところ、高校の成績が悪かったり、中退したりする卒業生がいてショックを受けたようです。スパルタ教育、詰め込み教育の弊害というべきものかもしれません。私も中学入学後は、阪口先生ほど熱心に教えてくれる先生の出会わなかったせいか、また自主的に勉強をする習慣が身につかなかったせいか、あまり勉強はできませんでした。同じ小学校から灘中学に行った同級生もその後、東大を中退したという噂を聞きました。
受験指導で有名な医者の和田秀樹さんもこの塾の出身者ですが、同じようなことを書いていました。
中学受験のはしりのころの話です。

9 件のコメント:

後輩 さんのコメント...

阪口塾、なつかしくて投稿いたします。
おそらく、院長は私の大先輩であろうと思います。
僕も阪口塾に所属していましたが、
西宮に移ってからのことです。
おそらく20年ぐらい後輩になると思います。

僕の頃は、全盛期は去ったものの、
依然として、あの有名な灘中学にも10名前後
入学者を出していました。

たしかに言われてみれば、卒業生の学歴を
すごく阪口先生は気にされていて、
ちょうど院長世代の人が警視総監になった、
とか、わりと政府系の要職に就いている
人のことを自慢されていました。
そういうことがすごく気になっていたのかも
しれません。

ただ、少なくともわれわれの代を見る限り、
かなり高率に、立派に社会人となり
世に貢献していると思います。

思い出を書くなら、故人のよかったところも
書いて欲しかったです・・・。

2年近く前のページに書き込みで
恐縮ですが、故人の名誉のため
投稿させていただきました。

匿名 さんのコメント...

あまりの懐かしさにコメントしています。
私は約40年前に門戸厄神教室で1年未満お世話になりました。
なんせ小学校6年になってから神戸女学院を受験することを決めたので「ここ以外では無理!」と薦められたからです(笑)
出来島教室にはたまーに行きました。女の子だけは社会科を受けなくてはならないので共同授業があったからです。
そんなわけですから多分初めから終わりまで坂口先生の唾と汗を浴びつつ(爆)板の間で苦労いたしました。いまだに正座は得意です。
親の会社を継ぐことになったので今西宮北口に住んでいます。たまに門戸厄神に行くことがあるのですが、前には小さく「阪口塾」とあったプレートが外されていて、とても悲しいです。
実は私も女学院に入ったものの、反動でまったく勉強する気力が無くなり、悲惨な中高時代を過ごしました。それでも何とか大学まで行ってごく普通の結婚をして、なんとか人の道からは外れないように生きてきました。
中学受験についてはその是非が問われることが多いですが、この歳になるともう息子たちも大学生ですし「ただただ懐かしい」というのが実感です。
本当に阪口先生ありがとうございました、と言いたい。お亡くなりになる前にお目にかかれなかったことが残念です。
それはそうと、広瀬先生。阪口塾の友人だった男子が前から岩手・青森で活躍中なのですが・・・カメラマンなのですがご存知でしょうか?
彼もまたある意味大変な受験でした。
世間的な範疇ではエリートでは無いかもしれませんが、素晴らしい写真を撮っています。
どんな環境を生きても、老後にはその人の「ありのまま」で生きなくてはなりません。
私もようやくそういうことが言える歳になりました。

広瀬寿秀 さんのコメント...

コメント最近のものしか見ていませんでしたので、失礼しました。私自身も阪口先生には今でも大変感謝しておりますので、誤解を招いたのであればお詫びします。私もひとに教える経験をしてみると阪口先生のような情熱的に全力で教育するというのは余人には不可能なことだと痛感しますし、中学、高校,大学でもあのような先生はいません。
 お尋ねのカメラマンについては、残念ですが、名前をお教えしてくれないとわかりかねます。申し訳ございません。50年たっても、阪口先生のようににはっきり覚えられているひとは少ないと思います。僕たちも後輩に対して何らかの影響を与えられる存在になりたいものです。

とろまおパパ さんのコメント...

昔の投稿ですが、私も懐かしくてコメントさせていただきます。私も阪口塾OBです。
と言っても、塾の最期の方の生徒ですが。
(ちなみに私は40歳手前です)
蝋燭の消えかけの時の一番明るい光を放っていた頃でしょうか。
私達の学年が卒業して2~3年後に先生が引退されて、今は、先生の教え子の先生が塾名を変えて引き継ぎされて、やはり門戸厄神でやっています。
その頃私は西淀川区に住んでおり、祖父と先生が昔から懇意にしていた関係だけで、
通塾させていただくことになったので、「伝説」とは知らなかった私は周りの生徒との学力の差にかなり苦労し、
常にクラスの下位3番以内をウロウロする落ちこぼれでした。
さすがに灘甲には手が届かなかったものの、大阪ではトップの大阪星光学院中学に合格し、合格・入学後、たまたま用事で祖父の家に来られていた先生に、
制服姿を見ていただき、大変喜んでいただいたのが懐かしく思い出されます。
先生は確か阪神淡路大震災のあたりでお亡くなりになったかと思うのですが、
その直前に(私が大学院生の時)お会いする機会があり、ご自宅にお邪魔したことがありました。
お話した内容はあまり覚えていないのですが、病気を患っていらっしゃったこともあって、あの威厳は無くなり、
すっかり好々爺になっていたのが、もの足りなかった印象があります。
自分が親になり、子どもがそろそろ塾に通う年齢になり、いろいろ塾を見てみても、
あんな強烈な塾はありませんし、まぁ通わせたいかというと疑問符がつきます。
あのときの強烈なスパルタ教育についていけなかったことが算数・数学の苦手意識につながり、
トップアップで驀進されていた先生は、不得手な生徒へのフォローはあまり無かったので、トラウマになっていたことは事実です。
そういう意味では結構あの教育でつぶれてしまった子ども達も多かったのかもしれません。(私の学校に進学した卒塾生も中退した先輩も多くいたようです)
でもあそこまで熱心な先生も、今はなかなかいらっしゃらないし、平気で平手打ちを生徒に食らわせていたものの、
あれは今の親達にははやらないし、もはや絶滅種なんだろうと思います。

匿名 さんのコメント...

 阪口塾。本当に懐かしいです。
 私も弟(2歳年下)も、当時は、西宮市門戸厄神の近くの先生のご自宅で、スパルタ式の、主に算数の授業を小学校4年生から受けていました。
 線分図を用いての特殊算の解法や新傾向問題の解き方を丁寧に教わった記憶が鮮明です。
 席順は、前に座れる人ほど成績が良かったと思います。
 おかげさまで、私も弟も灘中に合格し入学できました。当時は20数名が灘に合格していました。

匿名 さんのコメント...

阪口塾の疾風怒濤の時代

阪口塾のこと懐かしく拝読させていただき、投稿させていただきます。
私の入塾は、昭和39年の7月下旬です。尼崎の小学校に在校し、6年生の夏休み前に入塾しました。尼崎の零細企業主である父は、同業者の息子たちが私立に進学する様を見て、是非私立に行けと突然進学熱に取りつかれたのでした。当時は出来島のご自宅に阪口塾があり、既に他界した父に連れられ、ご自宅を訪問したことを覚えています。先生開口一番に曰く、夏休みの宿題は7月28日までの3日で終ることが入塾の条件でした。宿題を必死に3日で終わり、入塾を果たしました。ともかく、いろいろのことが今思えば「はめちゃめちゃ」で、時代の鷹揚さとエネルギーを感じます。
まず、今は絶対にあり得ないはめちゃめさとして、当然先生は現職で尼崎の公立小学校の教諭をされていましたが、いつも職員会議は欠席で、午後4時には帰宅されていました。あるときには、先生の同僚の先生までも連れてきて、当時エイトマンという漫画で聞いたばかりのレザー光線の話をされたのでしたが、この同僚の先生も、職員会議を休まれて参加されたのでした。因みに、この授業に衝撃を受け電気好きになった友人は、私と同じ学校に入学しましたが、学業成績はともかく、天才的な電気回路屋となりその後多くの特許をものにしました。夭逝したのが残念です。
また、講義の内容にも驚かされました。夏休みの講義の第一回目は、ステテコ姿での連立一次方程式でした。先生曰く、これをマスターすれば鶴亀算、和差算すべて解けるとのことでした。授業の初めには必ず1,2題の連立方程式を解くのでした。そこで、中学生の教科書を買って勉強したところ、夏休みの終わり頃には、なんと超難関校の問題が一次方程式で解けるところまで上達し、一気に成績も上がり算数は盤石となりました。
この様にしてあたふたと勉強しながら、秋口になり、冬となりましたが、1月の半ばから追い込みに入りました。また驚愕したことに、阪口先生自ら学校を休もうと提案され、生徒も学校の休みをとり、朝から集中して勉強するのでした。今思えばこのような学習形態自体信じがたいことです。さらに、この集中授業の折に、阪口先生は、志望校の理科の試験問題の「予想」をされるのでした。これが不思議なことにことごとくあたりました。これももう時効だから言ってしまいますが、教員につてがありなんとなく入学試験問題を呟かれるのを聞かれ、伝えていただいたのです。
この様なはめちゃめさは、おそらく阪口先生がまだ本腰を入れて塾経営をされておらず、いろいろな教育手法の試行段階にあったためだと思います。無事私も希望の中学に入学できましたが、阪口塾から3名が入学し、私を含めた2名は成績が悪く、ことあるごとに自宅に電話を頂き追跡の対象となっていました。その後、阪口塾―福村塾の教育方針を見ますと、一次方程式はご法度となっており、私の事例と友人の例が失敗と判断されたせいか、知恵で文章題を解く方向に転向されたのだと思います。
今思えば、当時は高度経済成長期で、尼崎や出来島の中小零細企業は活気づき、ようやく経済的な余裕もでき、戦後の混乱から次の時代への確かな保障として教育の重要さが庶民に認識され始めた時代でした。その中で、阪口先生は、自身も生徒や親とともに自分の人生をかけ塾への転身を計られる過程でした。
このブログの主である広瀬先生は、医学史もかなり造形深いと拝察しております。この阪口塾のエネルギーは、大げさに言えば、江戸末期の蘭学塾に共通するもではないでしょうか?士農工商の出自にはあまり拘らず、自由闊達にみんなが野心と野望を持ち、最先端の医学を学び時代を乗り切ろうとする思いを感じます。江戸の箕作阮甫塾、京都の日野鼎哉の塾、新宮凉庭の順正書院、大阪の緒方洪庵の適塾など最先端のドイツ医学(蘭学塾でありながらその原本はドイツ語で、オランダ語への翻訳書を利用)を学びながら師匠ともども次の時代を目指すエネルギー、これに共通したものを阪口塾に感じます。

広瀬寿秀 さんのコメント...

 大変興味深いお話をお聞かせいただきありがとうございます。阪口先生が小学校の教師をしていたのは初めて知りました。文中の連立方程式については、私の時代では御法度になっていましたが、それでもどうしても解けない時の奥の手として、最後の方に授業で習いました。また中学入学後の事も心配され、入試結果がわかった後に英語の補修授業を西宮で受けたことを思い出します。当時、昭和43年ころ、西宮の塾はできたばかりで、出来島との違いに驚きましたし、阪口先生以外の先生もいました。

 昭和40年ころの尼崎の状況は、宮本輝「花の回廊」で描かれていますが、私立の中学校に行くのは、こういった環境からの脱出手段であったかもしれません。私のクラスも大部分は公立の昭和中学に進学しましたが、そのコースから今の進路に進むのはかなり難しかったでしょう。

 阪口先生のあの情熱は、教育レベルの低い尼崎での教員生活の中から、才能のある子供を何とかさせてやりたいという理由もあったかもしれません。逆に言えば、その後、塾は西宮に移り、生徒も教育熱心な親の多い、西宮、芦屋の子供が多くなり、灘中への進学も格段に多くなったようですが、一番、先生自体もやりがいがあったのは出来島の塾だったかもしれません。

 

匿名 さんのコメント...

コメントありがとうございます。宮本輝の小説は確かに当時の尼崎をよく描写してますね。当時の阪口塾のことをもう少しだけ追加させてください。
阪口塾の座敷には、先祖伝来の槍が欄間にかけられており、阪口家はもともと武士あるいは苗字帯刀ごめんの家柄だと思っております。あるとき理科の授業で鉄の錆の話をされるとき槍のさやを抜かれ「油で幕を作るので酸化防止となり、さびが防げるのや」と誇らしく槍の刃先を見せていただいたことを覚えています。
阪口辰夫先生は大阪外国語学校 (大阪外国語大学を経て、現大阪大学外国語学部)のご卒業だった記憶しています。先生は、外大の出身ということで、師範出の教員よりも一ランク上でした。先生は、関西の私立進学校の外大出身の語学教員と親交があり、「予想問題」につながるのです。本来ならば小学校の先生になるはずではなく、多くの先輩がそうであったように、世界をまたにかけたエリート商社マンになるはずだったと思います。敗戦に起因する蹉跌があったと拝察しています。 
昭和39年頃には先生は、出屋敷に近い場末の尼崎市立竹谷小学校で教鞭をとられておりました。当時学校近くには三和ミュジーックというストリップ劇場もあり、暴力団の組事務所もあり、パチンコ屋、葬儀屋、露天商、コンドルという模型屋など雑然としており、車谷長吉の小説の「赤目四十八瀧心中未遂」の様に、場末感が充満するところでした。このころの尼崎市の教職員は、レッドパージの余韻ものこり、個人主義への回帰が進んだ時代でした。理想を追い求めた教員が、組合活動に疲れ、一転して家庭教師をすることは珍しいながらもあったのだと思います。私は北難波小学校ですが、6年生になると担任の教員からも自分の塾に来るように誘われました。
当時は、大阪市内や尼崎市内には「勉強学校」があり、阪口塾もこれが原点です。近隣のわんぱくを対象に先生御自身の何か満たされない思いを塾として立ち上げ、エネルギーを注入されたのだと思います。「勉強学校」を経営するなかで、収益をあげつつ人材育成にも行という事業展開がひらめき、一度はあきらめたビジネスマンの夢に再び火が付いたのではないでしょうか? 先生の非凡さは、他の教員の様に漫然と副業をされるのではなく、阪神間の「灘・甲陽・六甲・関学」への進学に特化した「阪神間私立進学校向け勉強学校」という人材育成のビジネスモデルの確立とその展開にあります。昭和41、2年頃でしょうか小学校を辞め(定年でしょうか?)、本格的に進学塾経営に乗り出されました。「勉強学校」の場所も出来島から、阪神間ホワイトカラーの住む瀟洒な住宅のある西宮の阪急沿線に移られ、塾経営者としての阪口辰夫先生の第2の人生が始まったのです。

広瀬寿秀 さんのコメント...

阪口先生は竹谷小学校の教師だったのですか。コンドル模型店の名、久々に聞きました。出屋敷辺りは、尼崎でも、最も怖いところで、三和ミュージックはじめ、あまり教育には向いていないところです。といっても私の住んでいた東難波町もラブホテルと組がたくさんあって、似たようなものでしたが。前にドラマで女弁護士が、調査のため出屋敷に行き、「おねいさん、危ないから行くのはよした方がいい」という忠告を無視して行くと、いきなり乱暴されるシーンがありました。ちょうど尼崎の実家にいた時で、みんなで大笑いしました。
最初に六甲学院に入学した時、周りが芦屋や神戸のおぼっちゃんで、ちょっとカルチャショックを受けました。