2017年10月16日月曜日

英語の吉崎豊作

吉崎豊作の英語の師匠、名村五八郎


 弘前藩で最初に英語を学んだ人物の一人に吉崎豊作がいるが、全く資料がなく、どういった人物かわからない。

 このブログでも度々登場する兼松石居は、弘前藩より蘭学修業を命じられたのは、嘉永三年(1850)のことで、杉田玄白、前野良澤らにより解体新書の翻訳が安永三年(1774)であるから、かなり後発である。兼松は江戸在府のころ、蘭学者、杉田成卿らの知己であり、早くから西洋事情について知識があり、蘭学の必要性は十分に認識していた。その後、兼松の弟子にあたる佐々木元俊が杉田蘭学塾に入り、正式に蘭学を学んだ。佐々木は弘前に帰ると安政六年(1859)に弘前城内にある稽古館に蘭学堂を設けて、正式に藩士に蘭学を教えた。ただこの頃になると、すでにオランダ語より英語の方に関心が移った。一方、北海道の箱館では開港に伴い英語をしゃべれる通訳(通司)を養成するために、派遣米使節の通訳であった名村五八郎が先生となり万延元年に箱館の英語稽古所(通司稽古所)ができた。早速、弘前藩からも、神辰太郎、吉崎豊作、佐山利三郎の三人が派遣され、そこで学び、神は箱館で通訳として働いた。さらに弘前藩は英学修養の目的で、有能な若者を福沢塾に入社することになり、木村滝弥(文久元年1861)、工藤浅次郎(文久二年)、吉崎豊作(元治二年、1865)、佐藤弥六(慶応元年)などを江戸に送った。

 吉崎がいつまで福澤塾にいたかは不明であるが、明治元年には函館にいたようで、弘前に戻ると将来、英学が重要であることを藩に献策し、それが認められ、明治三年に給費制の英学寮を津軽直紀邸に設けて本格的な英語教育が始まった。吉崎はここの監督に任命された。ただこの英学寮も翌年四年一月には青森市の蓮心寺に移り、さらに七月には閉鎖されてしまう。その後、明治六年に東奥義塾が創立され、開設時のメンバーとして、計算掛に吉崎豊作の名が見える。英語を直接教える教師からは外されている。吉崎豊作は明治九年八月の函館に商船学校ができるが(函館商船学校)、ここに招かれ教えた。

 ここで、もう一人の吉崎姓の人がいる。吉崎源蔵といい、住まいは明治二年弘前絵図では大浦小路、須藤新吉郎の前に家にその名が見える。英学寮は廃藩置県とともに明治四年七月に消滅し、それを惜しいと考えた儒学者の葛西音弥が明治四年の九月に青森市に作ったのが青森学校四教塾である。青森市の寺町の正覚寺に塾舎をあて、葛西音弥、佐々木俊蔵、吉崎源蔵が皇漢学、英語を教えたとある。一年後には財政上の理由で廃止されたが、この佐々木俊蔵は、おそらく幕末に紙漉町で製紙業をしていた佐々木新蔵(紙漉座取扱)である可能性が高い。佐々木新蔵は旧名を今井屋俊蔵といい、兄は最初に述べた洋学を学んだ佐々木元俊で、弟は町人の今井家の養子に行き、再び戻ったのであろう。問題は、この吉崎源蔵が吉崎豊作と同一人物かということである。箱館の英語稽古所、慶応義塾で学び、弘前藩の英語寮で英語を教えた吉崎豊作が、青森市の四教塾で英語を教えるには一番適している。明治四年七月には吉崎豊作が英語寮にいて、明治四年九月には英語寮の後を継いだ四教塾に吉崎源蔵がいたというのは、吉崎という弘前ではそれほど多くないことから(明治二年弘前絵図では、吉崎源十郎、奥左衛門、源蔵、勇八の四軒)、どうやら吉崎豊作=源蔵の可能性が高いと考える。その後、吉崎は東奥義塾、函館の水産学校と職を変えた。

 吉崎豊作は、せめて青森県の人名事典に載せてもよい人物と思う。

2017年10月12日木曜日

十和田現代美術館


 ロータリークラブの地区大会が十和田市であったので、初めて十和田市を訪ねた。弘前から車で2時間、かなり遠い。前から、十和田現代美術館は是非とも見たい場所だったので、地区大会の途中を抜け出し、大会会場近くの美術館に行った。

 体験型の展示物を主体に各部屋に一個ずつの作品が置かれ、鑑賞される仕組みになっている。また屋外にも沢山の作品があり、季節の変化により楽しめる仕組みとなっていて、面白い。ただ内容がモダンアート中心であり、年配の私には少し難解で、あまり楽しめなかった。モダンアートは現代性を強く主張しているため、陳腐化、あるいは興奮と退屈の紙一重である。抽象画自体は嫌いではなく、日常空間、例えばリビングなどに小さな作品を置くことはインテリのひとつとして落ち着く。ただ作品として美術館に展示された場合、私の感覚が鈍いのか、今まで一度として感動したことはないし、作品そのものに引き込まれたこともない。唯一の経験としては、弘前で行われた奈良美智さんの“A to Z”の作品のひとつ、大海原に人形の形をした島が表現された大掛かりな作品があった。ここには月明かりに照らされた空想の国を実感できたし、松本市美術館にある草間彌生の鏡を使った作品は、作者の精神状況を一瞬垣間みることができ、ぎょっとした経験がある。

 一方、作品そのものに引き込まれたのは、圧倒的に具象作品多い。昭和48年に京都国立博物館で行われた富岡鉄斎の初めての大規模展覧会は忘れられない。この展覧会は鉄斎の代表作を集めたもので、その迫力と表現力の多様さにはうちのめされた。凄いの一言しかない。同様に、倉敷の大原美術館、上野西洋美術館も建物を美しさとともにその収蔵作品に感動を覚える。あるいは信州の穂高の碌山美術館の清々しい佇まいにもいやされる。神戸の白鶴美術館の落ち着いた雰囲気も所蔵作品とマッチしている。

 本来、大型の展示型の作品は、作者にとっても、ブロンズ像のような永久的なものを目指しているのではなく、一過性の、現代性のあるものを目指しており、ある程度すれば、壊してほしいものだ。つまり作者にとって、今の気持ちを作品を通じて表現したもので、イサム・ノグチのような作家は別として、例えば、ビデオを使った作品などは、何十年も展示するようなものではない。こうしたことから現代美術館とは、常にその時代を現した作品を展示する、あるいはアップデートするところであり、前衛的でなくてはいけない。理想的には数年で全作品を入れ替える必要があろう。

 以前のブログでは、弘前現代美術館(仮称)は、体験型の作品を中心とすべきと書いたが、十和田現代美術館を見る限り、体験型のみの展示あるいは、現代アートのみの展示は、どうも厭きられ、リピーターを増やせない。むしろ過去にレンガ倉庫で開催された3回の奈良美智さんの“A to Z”を含む展覧会を参考に、毎年、更新するくらいの常に変化する美術館を目標にしてはどうだろうか。そしてボランティア、資金の協力など、市民の幅広い支えを主体とし、あたかも劇場の演目のように、毎年、体験型作品の内容を変えるような試みを期待したい。

 今回、初めて十和田市を訪れた。ここはアートにより成功した町として、よく紹介されていて、全国的にも有名である。確かに美術館周辺は観光客もいるが、実際、日曜日の町を歩いてみても、商店街はほとんど閉まっており、通行人もいない。隅研吾設計によるモダンな市民交流プラザも、数人の若者がいるだけで、ほとんど活用されていない。平成25年の統計によれば、十和田現代美術館の入場者数は約14万人、一日、500人くらいであろうか。青森県立美術館は45万人、一日1500人くらいか。ちなみに2006年の”A to Z”75日の会期期間で8万人、一日千人の入場者数で、そのうち県外客が70%を占めた。一方、私の好きな三沢航空博物館は20万人と現代美術館より多いし、同じ十和田市と言っても、奥入瀬、十和田湖は約百万人と観光の主役はこことなる。アートによる町づくりと言えば、何だかかっこよく聞こえるが、実際はそんなことは極めて難しく、むしろ漫画、アニメの方が集客率は高く、鳥取県境港市の水木しげる記念館の入場者数は200万人を越えている。アートと言えば、イコール文化と解釈し、高尚なものを考えがちだが、実際はアート、特に現代アートに興味を持つ人はかなり限られていて、それによる町おこしは期待すべきものではない。むしろ美術館のような媒体を通じて市民が色々と参画し、活動することが、町の活性化を呼ぶと思うし、子供達がアートを見る、触れる機会が増えることは教育上も望ましい。観光地、町おこし、集客を純粋にアートによってのみ得ようとするのは、幻想である。

2017年10月4日水曜日

弘前博物館と美術館

シンシナティ美術館の"dressed ton kill" 右から2つの鎧がケルシーの鎧

パンフレット

鎧の人形

 シンシナティ美術館のホウメイさんに、新著「須藤かく」を送ったところ、今年の2月から5月まで美術館での企画展「Dressed to kill」のパンフレットと人形を送ってくれた。1890年代に宣教医アデリン・ケルシーが美術館に売った鎧と日本刀を主として展示し、その説明をわかりやすく紹介している。何でも以前から展示しようと思っていたが、展示方法がなかったところ、鎧を展示するボディーを作る費用を寄贈してくれた方がいたので、こうした展示会を開いたとのことであった。パンフレットには、サムライの説明、漢字“侍”の紹介、俳句、戦闘の仕方、鎧の名称、ダクベーダーや忍者タートルの兜、家紋、Fierce faceの切り抜きなどの内容となっていて、面白い。作品の説明だけでなく、美術品を通じて日本の歴史、文化を説明している。

 アメリカの美術館は、町の文化のシンボルとして、多くの人々に支えられており、また子供達の教育の場となっている。弘前でも、再来年にはどうやら美術館ができそうだが、弘前市の方で勝手に動いているようで、市民の方からの動きがあまりない。現代美術家の奈良美智の展覧会”A to Z”の時は、多くの市民が財政的にも展示そのものにも参加し、多いに盛り上がり、その年に開かれた全国の美術展でも高い評価を受けた。実際、三回の展覧会は本当に楽しく、今まで見た展覧会の中でもベスト3に入る。この展覧会の面白さは、当然、奈良さんの作品そのものによるが、楽しさの半分は市民に参加による手作り感と吉井レンガ倉庫そのものの魅力によった。

 新美術館では、こうした弘前市民参加型の運営にはなっておらず、東京の美術館専門の方に丸投げ状態となっており、その骨子が全く見えない。最初述べたシンシナティ美術館は1881年の市民の寄付によってできた全米でも最古の美術館のひとつである。頻繁に美術館でパーティーを開いて寄付を募り、新たな作品購入や運営費に当てている。今でも市民が美術館を支えている。そのため美術品の寄贈者には大変配慮してくれる。私もオークションで、1万円で買った“芳園輝”の署名のある作品を送ったところ、可哀想に思われ、コピー品として所蔵してもらうことになった。それでも作品を展示する際の署名方法や展示法、さらには館長から丁寧なお礼の手紙をいただき、さらには展覧会のパーティーの参加カードをもらった。例のタキシードを着て、セレブがシャンペンなどを飲むようなパーティーである。

 今後、弘前市も美術館と博物館の棲み分けが必要となってくる。博物館は元々、殿様の博物館、弘前藩のお宝を展示するものであったし、今後も弘前のお宝を中心に展示、活用するものとなろう。そうなると郷土史との絡みが重要となり、市民、子供にもっとわかりやすく説明する工夫が求められていく。近くにある郷土文学館も含めて、静かに見る博物館から説明が聞ける参加型のものに変わっていくべきであろうし、ボランティアも含めてもっと市民の参加があってもいいだろう。企業や市民からの寄贈、博物館グッズの販売、ボランティアによる展示解説、小学校への出張授業など、さらには収蔵場所がなく、現在は中止しているが、市民からの寄贈、寄託なども積極的に求めていくべきであろう。確かにガラクタも多いだろうが、収蔵場所がないから受付ないというのも寂しい。長谷川前館長から博物館で公開歴史講座するなど、これまで以上に市民に開かれたものになってきたが、小中学生の参観もまだまだ少なく、展示方法や説明、パンフレットの工夫が必要であろう。

2017年10月3日火曜日

矯正歯科の特殊性


 「大学病院の奈落」(高橋ゆき子著)は、群馬大学病院第二外科で患者が連続して18人亡くなった事件を詳細に検証しています。結論からすれば、事件を起こした大学助手のドクターの技量のなさと経験数の少なさ、さらに手術死が起こっても反省がなく、そのまま手術が中断されなかった、ことなどが犠牲者を大きくした原因として挙げています。さらにボスである教授が専門外で、助手の先生の手術をやめさせることができなかったことも、事件が長く続いた一因です。18件の事故死は、内視鏡手術ではなく、開腹手術も入っているようで、第三者の検証によれば、開腹手術も満足にできない状態で、内視鏡手術を行い、さらに高度な手術に挑戦していったようです。この先生は、非常に温厚で、やさしい雰囲気の方で、患者はそうした態度を信用して手術を承諾しました。さらに問題なのは、学会にはこうした事故死の患者を除いて症例報告をしていたようです。さすがに助手の手術であれば、他の大学で、このように死亡が多ければ、講師、准教授、教授などから批判があろうと思いますが、群馬大学のこの講座では全く手術結果のディスカッションはなかったようです。教授の手術ミスは、医局員からの批判は難しく、論文で教授になった先生では、こうしたミスが多発し、できるだけ教授には手術をさせないというケースもありました。

 同じようなことは矯正治療でもあり、今はやりの見えない矯正治療、舌側矯正やマウスピース矯正もそうです。腹部の開腹手術が一般的だとすれば、矯正治療でも歯の外側に矯正装置をつける唇側矯正が一般的な治療法です。この一般的な治療法が確実にできてから、特殊な治療法、内視鏡手術や舌側矯正ができるようになります。というのは内視鏡手術でできない症例があるように、舌側矯正でもできないことはあり、その場合は躊躇なく治療法を変更する必要があります。また同じことはマウスピース矯正でもそうで、歯の動きが悪かったり、患者がきちんと使わない場合は、唇側矯正治療に変更します。

 一般歯科の先生の中には、唇側矯正が満足にできないのに、舌側矯正を標榜したり、マウスピース矯正しかしないという先生がいます。これはありえません。腹部手術の例で言えば、開腹手術をしたことがない先生が内視鏡手術をするようなもので、結果は群馬大学のケースと同じものとなります。矯正治療では死ぬことはないため、それほど問題に大きな問題でないかもしれませんが、きれいな歯並びになることはありません。

 認定医、専門医の症例試験は、舌側矯正のケースでも可能ですが、多くは唇側矯正で仕上げたものです。少なくともこの試験に通るくらいの治療技術がなければ、舌側矯正、マウスピース治療は絶対にすべきでないと思います。私の場合、唇側矯正でも満足な結果を得ることはなかなか難しく、とても他の治療法をする余裕はありません。舌側あるいはマウスピース治療を希望される患者さんはすべて断っています。唇側矯正でも最近のブラケットは透明、白いのがほとんどで、あまり目立ちません。それでもこうした治療法を絶対にしたくないという患者さんは、結果に対する要求も高く、唇側矯正以上に細部の仕上げが要求されますし、そのために高額な治療費が設定されます。つまり舌側矯正やマウスピース矯正が唇側矯正より料金が高い理由は、唇側矯正と同等あるいはより優れた結果を得るには、十分な経験と技術が必要なためです。おそらく矯正専門医から判定して、そのレベルに達する矯正専門医は日本でも数十名のレベルと思われます。当然、一般歯科の先生で、そのレベルに達する人は絶対にいません。

 結論から言えば、舌側矯正、マウスピース治療は、一般歯科では絶対にすべきではありません。費用が、矯正専門医の数分の一で、多少仕上がりがまずくてもいいのであればしてもいいのですが、ほとんどの一般歯科では結構な費用を取っています。こうしたところで治療を受けるのは、それこそ群馬大学の内視鏡手術を希望するようなもので、理解に苦しみます。