2008年1月31日木曜日

北欧の陶器




2年ほど前から、北欧のインテリア好きが高じて陶器にも興味を持ち始めました。日本の陶器にも通じるデザインと色で割と気に入っています。主としてオークションで購入しますが、結構この手の北欧陶器は一部のマニアに人気があり、欲しいものがいつも同じひとと競合してしまいます。このひとが値を上げなければといつも思うひとがいます(逆にわたしもそう思われているのでしょうが)。連絡できれば談合もできそうですが。

最初に買ったのは、写真下右のRorstrand、GunnarNylund(1904-1989)の茶色のボウルです。Rorstrandは日本ではそれほど有名ではありませんが、スウェーデンの誇る窯元で、1726年創業という由緒ある会社です。Nylundは1931年からロールストランドの所属して活躍しました。このボウルは1950年ころのものと思いますが、非常に渋いもので茶器としても使えそうです。

写真上右の水色のベースと真ん中の茶色のベースは、二つともRorstrand,Carl-Harry Stalhane(1920-1990)のもので、釉薬の色がおもしろいと思います。茶色のベースはとっくりにも使えます。Stalhaneは1939年からロールストランドの合流してNylundと二人で黄金時代を築きました。Stalhaneの作品にはモデル名があり、水色のものはSYMのサインが、茶色のものはSDSのサインが入っています。

写真上左の茶色のベースは、少し変わっていてSaxbo、Eva Staehr-Nielsen(1911-1976)の作品です。SaxboはNathalie Krebs(1895-1978)が1930年に作ったデンマークの製陶窯で、Nyulundもロールトランドに入る前までこの窯元に所属していました。EvaもNathalieのもとで腕を磨きながら、作陶していたのでしょう。シンプルな作りの作品を多く発表しており、欧米では人気があり、作品も高いようです。E.STNのサインとモデル名67が底に記されています。

写真下真ん中のねこと手をつないでいる人形は、スウェーデンのLisa Lareson(1931-)の作品です。男の子のシリーズで、これはMalinと呼ばれるものです。非常にかわいい作品です。男の子のシリーズは3つあるのですが、彼女の作品は日本では非常に人気はあり、
オークションに出ても高くて手がでません。私の欲しいのは、お尻の大きな女性のシリーズで、ABC-Flickorと呼ばれる作品で、極端に下半身が大きく、がっしりしていて、ブックエンドを兼ねているようです。服装に違いがあり、かなり細かい装飾がなされたものは男の子シリーズより、さらに高く5万円以上します。Elle Deco(2005.12月号)にリサ・ラーソンのインタビューと別荘の取材がありましたが、やさしそなおばさんで、フリーマーケットにいくたびに色々ながらくたを買ってくるそうです。なかなか住みやすそうな別荘でスローライフを送っているようです。

写真下左の水差しは、デンマークのPalshusのものです。パー・リネマン・シュミットと妻アネリアが1948年に立ち上げたスタジオで、釉薬の使い方が非常に美しく、縁になるにつれ薄くなっていく独特のグラディエーションが特徴です。最近とくに人気が出てきて、価格も急上昇しています。この水差しは非常に大きなもので、黒っぽい汚れもあり、コンデションはよくありません。そのため5000円くらいで買った記憶があります。底にはA.PLS 1187のサインがあり、アネリアのものかもしれません。

北欧の陶器は、日本の陶器の影響を受けたものが非常に多く、そのため日本人にも抵抗なく受け入れられます。とくにシンプルなデザインのものが好まれるようです。その中でも究極のものは、Berndt Friberg(1899-1981)の作品で、これは陶器の宝石と言われています。ミニチュアの作品も多く作られていますが、本当にびっくりするほどきれいで、5cmたらずの作品にも手抜きは全くなく、宇宙を表現しています。これは完全にコレクター向きのもので、たった5cmくらいのものでも10万円以上します。値段的にも宝石なみです。

ベースなどはどちらかというと棚に飾って楽しむものですが、お皿やカップはプロダクトものの方が値段も安く、普段の実用に使うにはいいと思います。北欧の陶器には、毎朝の朝食に使うと楽しくなるようなものがいっぱいあります。

2008年1月24日木曜日

笹森儀助4



 笹森儀助には、妻いくとの間に三男四女の子供がいた。生涯夢を追いかけた彼には、家を顧みることもなく、全く財産らしきものはなかった。貧窮のため四人の娘のうち三人までが独身のまま世をさったという。その子、笹森修一(明治19年ー昭和19年 1887-1944)は、当時住んでいた家が長坂町にあり、弘前教会にも近いことから、早くからキリスト教会に通っていた。東奥義塾に入学してからはいっそう熱心な活動を行い、義塾在学中の明治34年に受洗した。

 当時のキリスト教は、神の前での人間の平等をとくため、社会主義と紙一重の存在で、片山潜などの初期社会主義者の多くはキリスト教と深く関係していた。笹森修一も近所に住む竹内兼七(明治19年ー昭和32)と同じ年齢であったことから、義塾在学中から彼と一緒に社会主義活動にのめり込んでいった。竹内とともに社会主義団体の「弘前労働協会」を作ったり、片山潜の「社会新聞」に津軽塗職工の賃上げストを指導した記事を投稿したりしていた。一方、竹内は実家が資産家であったため、境利彦、幸徳秋水や片山潜などの初期社会主義者を資金面で支えた(大正5年の地図をみても、百石町と長坂町の辻にある竹内質店は相当大きい質店であったようだ)。明治40年に上京して青山学院に入った笹森は、中央の社会主義者と一緒に活動するようになり、スラム街でビラまきなどを行ううちに警察にも警戒されるようになり、青山学院を中退して、神戸神学校に転校した。賀川豊彦(1888-1960)は、笹森とほぼ同年齢で同じくキリスト教社会主義に共感し、明治39年に新設された神戸神学校に入学した。おそらくここで笹森は賀川とつながりができ、一緒にスラム街での伝道活動を行ったのであろう。賀川はその後は農民運動、社会運動や労働運動に指導者となり、有名になったが、一方笹森は明治44年には伝道師の資格をとり各地に伝道した。最後は出雲今市教会(写真)で伝道活動を行い、そこで死んだが、その子笹森修が跡を継いだ。

 笹森儀助の目は、常に弱者の視点から社会の矛盾を見ていた。息子修一が社会主義、キリスト教に共感していったのは当然の流れであろう。離ればなれで、おそらくは家を顧みない父には反発もあったであろうが、同じ弱者の視点は親子に共通していた。賀川と違い、修一はキリスト教牧師としての生涯を貫いたが、これは明治43年の大逆事件が影響していると思われる。尊王の志の篤い父の影響から、おそらくは天皇制も含めた社会転覆までついていけなかったのであろう。そして純粋に困っているひとの中に入り、キリスト教徒として活動することにしたのであろう。

 なお弘前出身のプロレタリア詩人として、菊岡久利(1909-1970)、杉沼秀七(1903-1992), 工藤正一(1907-1929)などがいる。
 

2008年1月11日金曜日

日本で一番派手な戦闘機




 日本で一番派手な塗装をした戦闘機は、陸軍特別攻撃隊第57振武隊の4式戦闘機「疾風」であろう。この攻撃隊については世界の傑作機「陸軍4式戦闘機疾風」(文林堂 平成4年)にくわしく書かれている。昭和20年5月25日に沖縄周辺海上の米軍艦艇に突入して散華する。とくに派手なのは高埜徳伍長機(写真上)で、飛行第246戦隊梶並進伍長の97式戦闘機(写真下)と双璧をなす派手なマーキングである。特攻隊員は、特別許可により機体に文字や図案を自由に描くことが認められていたため、ドクロマークやいなずちマークなどが機体に描かれていた。写真を見る限りかなり稚拙で即席の塗装で、整備員が死にいく隊員のために突貫工事で色を塗ったのであろう。レーサーのような派手なマーキングにもかかわらず悲壮な感じがしてならない。ただ搭乗員にとっては最新の戦闘機に死に装束をして突入できたことはせめての慰みであったろう。中には練習機である「白菊」や赤とんぼとして親しまれた複葉機の「93式中間練習機」で突入を強いられた特攻隊員はさらに悲惨であった。航続距離が足らず、何度も中間基地で給油しながらの特攻であった。隊員の中にはせめてまともな機材にしてくれとの嘆願もあったのだが。中でも93式中間練習機で奇跡的な戦果をあげた第三龍虎隊は、戦史の陰に隠れた特筆すべき活躍と思われる。
 戦争末期になると未熟な搭乗員にはまともな機材で特攻させるのはもったいない、練習機でも何でも使える機材で特攻させよという上層部の精神状態は異常としか言いようがない。ドイツのユングマン練習機を国産化した四式基本練習機、これは全幅7.35m, 全長6.62mという小型の複葉機で、重さもわずか630kgで、100馬力のエンジンで最大速度は180kmである。こうした第一次世界大戦並みの性能の練習機にも100kgの爆弾を一発搭載して特攻機にしようという計画もあった。美濃部正少佐が軍の上層部の研究会の席上で「劣速の練習機が何千機進撃しようと、敵グラマンにかかってはバッタのごとく落とされます」、「赤トンボまで出して成算があるとういうのなら、ここにいらっしゃる方々が、それに乗って攻撃してみるといい。私が零戦一機で全部、射ち落として見せます」と発言したが、こういったまともな考えもおかしいと思われるほど末期の上層部は狂っていた。

世界の傑作機「93式中間練習機」、「陸軍4式戦闘機疾風」、「陸軍97式戦闘機」(以上 1994,1989,1991 文林堂)および日本軍用機航空戦全史(第三巻 秋本実著 グリーンアロー出版社 1995)を参考にした。

2008年1月6日日曜日

Q&A 保定とは何なのでしょうか。




 矯正治療をして歯を動かした後は、必ず保定装置を入れなければいけません。1,2年かけて歯を動かし、きれいな歯並びになっても、そのままにしておくと、後戻り(できぼこ)がおきます。それを防ぐために保定装置を使ってもらいます。

 保定装置には色々な種類があり、最も基本的なものは取り外しのできる(可撤式)ホーレーの保定装置と呼ばれるものです。前歯の部分に太いワイヤーが、奥歯には維持装置がついている入れ歯のようなタイプのものです。有名な矯正医の名前に由来するもので、すでに70年くらいはたっていると思います。これに近いタイプのベッグタイプ(オーストラリアの偉大な矯正医、写真左)が現在では主流になっています。その他には固定式と呼ばれるものもあり、これは歯の裏に細いワイヤーをのりでつけて固定するものです。上がベッグタイプ、下が固定装置のコンビネーションが最もよく使われる保定装置です。

 通常、半年くらいは終日(食事や歯磨きの時以外)使用され、その後は夜間のみの着用になります。大学にいたころは2年間使用して撤去していましたが、それでも後戻りがあり、現在では半永久的に使用するように言われています。固定式の場合は、2年たつと可撤式に変更します。当院では2年間は毎日使ってもらい、その後は2日に1回、4日に1回と、頻度を減らし、撤去するようにしています。

 最近では前歯のワイヤー部が透明の樹脂でできたものや、マウスピースのようなものをあります。昨年、宮井先生のマウスピースタイプのessixの講演は大変役に立ちました。当院でも昨年からこのEssix(写真右)を積極的に利用しています。すでに30症例くらいは使ったでしょうか。今のところ、時々紛失がありますが、経過は良好です。使用方法も含めて宮井先生には大変感謝しています。患者さんにも喜ばれています。

 保定装置を使わないため、後戻りをして、再治療をする患者さんが年に数人います。中には10年前に治療終了したひともいます。開業当初は再治療しても保定を使わないとまた後戻りするため、再治療には消極的でした。その後は、説明してもご理解しにくいので、すぐに再治療することにしています。中には2度再治療したひともいます。もちろん調整料以外の費用はかかりません。費用的な負担は少ないのですが、それでももう一度装置をつける必要があり、できれば保定装置をきっちりと使用していただきたいと思います。

 動かした歯がどうして後戻りするかのメカニズムははっきりしません。以前は歯を取り巻く歯周組織、繊維が後戻りを起こすとされ、治療後に歯の周りの組織にメスで繊維を断ち切るということもやっていましたが、最近ではあまり見かけません。咬む力が歯を前方に少しずつ動かし、下の前歯にしわ寄せがくるためとか、成人になってもあごの発育があり、そのため下の前歯がでこぼこになるといった説もあります。私自身、若い時にはきれいに揃っていた下の前歯は今では少しでこぼこしています。これも含めると、とくに下の前歯の後戻り?を防止するのは非常に困難です。

2008年1月1日火曜日

土佐光貞???掛け軸




 お正月はこの絵を床の間に飾っています。うちの祖父が戦前に買ったもので、伊勢物語の東下りの場面です。土佐派ではこのような画題は多く描かれ、構図もだいたい似ています。「業平東下りの図」として伊万里のお皿や浮世絵などにも描かれるほど有名な場面です。業平が失恋して都を追われ、東国の境とされる駿府に来て、都から遠ざかった心情を富士を仰ぎ見て、嘆くところです。

 この掛け軸のおもしろいのは、箱に入っている鑑定書?で、そこには徳川光貞の絵だと書かれています。紀州徳川家、8代将軍吉宗の父にあたるひとです。そんなことはあり得ず、落款も「画所領土佐守光貞」となっていますので、当然土佐光貞はずです。また鑑定者は「芳翠」となっていますが、これも調べると明治近代洋画家の山本芳翠に当たります。芳翠がそもそも鑑定するはずもなく、また土佐派のなかでも光貞(1738-1806)は名手と呼ばれ、人気があったようですので、土佐を徳川に間違えるわけもありません。まったくのでたらめです。したがってこの絵も贋作ということになります。手元にある落款辞典で調べても、落款は微妙に違っているようです。また箱書きもなく、表装も貧相です。

 「開運なんでも鑑定団」という番組を見ても、掛け軸は10のうち9は偽物で、昭和の初期に景気の良かった祖父が骨董屋からだまされて買ったようです。何点かの掛け軸が家に残っていますが、ほとんどは偽物と思います。おそらく素人には土佐光貞という名前より、徳川の名前の方が売れると思い、鑑定書をつけたのでしょう。

 偽物としても手が込んでおり、結構うまい絵です。従者の白と赤、業平の青の着物、馬の赤の飾り、草木の緑のコントラストがきれいです。また業平の顔もうまくかけており、高貴な表情が感じられます。土佐派の典型的な絵で、正月に飾る絵としてはふさわしいものと思います。まあ贋作とはいえ床の間のすわりはよいようです。かって富岡鉄斎の絵は「床うつりが悪い」、「床の間であばれる」と評されていたようですが、橋本雅邦の絵や土佐派の絵はきれいでもう少し評価されてもいいかもしれません。偽物の是非は金に換えるかによります。自分で気に入っていたものであれば、たとえ偽物でも部屋に飾り、楽しめばよいと思います。近くのデパートで新春掛け軸展が行われていましたが、薄っぺらい今の絵より、偽物でも祖父が愛したという点でもこの絵の方が好きです。