2012年10月28日日曜日

昔の記憶を探して 古井戸と西坂




 先日、明治二年絵図の記載されている弘前城内の井戸を探しました。雨が降っている中、まず確認しようと思ったのは、現在の植物園、三の丸にある2つの井戸です。植物園は有料のため、先に入り口にある観光ボランティアガイドの詰め所に行きました。「植物園の中に古井戸ありますか」と聞いたところ、係の方があちこちに連絡いただきましたが、誰も知らないようです。明治以降、陸軍がここの施設を作り、かなり厚いコンクリートで基礎を作ったということでした。おそらく跡形もないと判断し、ここは諦めました。本丸、天守閣横の井戸跡と、緑の相談所横の井戸跡は昔、調査し、確認していましたので、この日は、西の郭のものを調査に行きました。観光名所で、皆さんが天守閣を背景に写真をとるところの逆の方の入り口を西堀の方に降りていく坂道の途中にあります。城の西側にある池の横を本丸に行く道で、あまり皆さん行かれないところかと思います。

思ったより短い坂ですが、けっこう急斜面です。とてもこんな所に井戸があるとは思えなかったのですが、よく観察すると、一部平地になっています。何かそのあたりに井戸跡を思わせるものはないかと探しましたが、何もありませんでした。おそらく専門家が調査すれば、もっとはっきりすると思います。さらに地質調査や発掘調査をすれば、確実にわかるでしょう。弘前市で調査していただければ助かります。

ついでに西坂についても、雨の中調べてきました。明治二年ころ、馬屋町あるいは鷹匠町から城内に入る主要な道は、この西坂でした。その後、新坂の方がよく使われ、いつの間にか、この西坂は使われなくなりました。場所は、今の市民会館裏です。

雨の中、市民会館の裏を探してみると、北側の方に右に降りていく道らしきものがあります。おそらくここが西坂でしょう。まったく荒れはてています。坂道は弘前工業高校の方に続いていますので、ついでに弘前工業高校の方からも確認しようと思いました。

工業高校は授業中でしたが、そっと校舎の裏の方、部室のあるあたりの斜面を探していると、大きな木の切り株と、丸い石で両端を示した道の入り口らしきところがあります。雑草に覆われ、はっきりしませんが、左の方に緩い坂が続いています。おそらくはここが西坂の入り口で、ここから左に道が続き、今度は右に折れて、市民会館の裏に続くのでしょう。これもほとんど痕跡しかないものですので、一度専門家の調査が必要でしょうし、300年以上は経つ古道が完全に痕跡がなくなる前に、整備しておくことが大事です。

さらに新坂も行ってきました。今は陸橋となり、藤田庭園から鷹匠町に大きな道となっていますが、旧道は藤田庭園のすぐ横に狭い坂道があります。ここが本来の新坂です。近所の方でないと、あまりお気づきにならないところでしょう。

明治二年といえば、今から約150年前、それでも風景はどんどん風化しています。せっかく絵図があるのですから、できれば一度きちんとした調査をして、必要なら保存する必要があるのではないでしょうか。今保存できれば、将来もまた残るでしょう。そこに住む人々が何代も利用したところは、ある意味、心の風景と呼ばれるものですので、完全に忘れられるのは寂しいことです。長勝寺のい松前志摩守の墓跡のように、このブログでは以前から指摘されていたことが、発掘で確認されましたが、同じように、釜萢堰や古井戸、坂も確認が必要と思います。

写真2番目は、本丸南入り口の坂です。左の平地がありますが、ここに古井戸があったのでしょう。写真3番目は、弘前工業高校側より撮った写真です。木株と石でで坂道の入り口が示されているようで、左に続く坂となっています。写真4番目は、古い新坂です。藤田記念庭園の横にあります。


2012年10月25日木曜日

昔の記憶を探して 釜萢堰





 本日は、休診日のため、以前から気になっていた明治二年弘前絵図の場所を探した。まず釜萢堰(かまやちぜき あるいは かまやつぜき)。その名前から、弘前藩士、釜萢家の先祖の誰かが作ったことは間違いない。明治二年当時、釜萢姓は4人おり、庄之助(茶畑新割町)、多門(長坂町)、是太郎(小人町)、字一(鷹匠町小路)である。住居地より本家は多門あるいは是太郎であろう。勝海舟の長崎伝習所に入学して海軍技術を学び、新規召し出しとなったのは、茶畑新割町の庄之助で、釜萢是太郎の弟となる。

 本によれば、釜萢堰が作られたのは、三代藩主津軽信義の時代であり、信義の在職期間は寛永8年(1631)から明暦元年(1655)までであったことから、この釜萢堰の出来たのも、350年以上前になる。ずいぶん古い堰(水路)である。

 絵図から私の診療所近くから、調査を進めた。代官町の石田パン屋の前のところ、建物と建物の間に水路がある。これが釜萢堰である。幅は50cmくらいの狭い水路である。そのまま石田パン屋の横の道に沿って進み、赤石歯科医院の手前で右に折れる。みちのく銀行弘前営業所と三上駐車場の間を進み、そこから中央通りの下を抜けて、植田町に繋がる。

 植田町沿いの右側をずっと進み、かなり進んで、一戸美容院のところで左に曲がる。ここまですべてコンクリートのもので、一部は完全に蓋がされている。和徳通りを横切り、瓜田飴店の横に再び姿を見せる。ここは昔ながらの石組みが残っている。さらに民家の間を抜けて、コープ青森の駐車場に出てくる。その後は民家の間を通って、蛇行しながら茶畑町の道と平行して進む。ずっとと進むと、野田団地市営住宅の裏の水路に繋がる。ここから水路は西に進むが、野田団地裏は一部石組みの古い作りとなっている。北大通りを横切り、総合保健センター横を抜け、さらに南横町に向かう。ここも一部石組のものが残っている。弘前第一中学校の横を抜け、土淵川と平行してさらに抜けて、そして土淵川と繋がる。

 以上が今回調査した釜萢堰である。ほとんどの場所は、周囲をコンクリートで固められ、350年以上の歴史のある堰の雰囲気は全くない。ただの融雪溝である。おそらく付近の住民も誰も釜萢堰という名前も知らないであろう。唯一、古い雰囲気を残すのは、和徳通り、瓜田飴店隣から、コープ青森までの10メートルくらいのみである。これも専門家の鑑定が必要だが、江戸期まで遡れるものではなさそうで、せいぜい明治、大正というくらいか。こういった水路は、現在のコンクリート製になるように、その都度、改修されていったのであろう。ただあくまでこれは推測であるが、江戸時代の堰自体は石組で作られていたのは間違いないであろう。幅は数十センチで周囲は丸い石を積み上げて組み、道と交差するところ、つまり道を横切るところは、板あるいは平たい石、例えば兼平石などで覆われていたであろう。幅が数十センチあるため、そのまま道を横切ることは、ありえない。飛び越えないと、歩けないからである。冬の雪を考えると、石で覆いたいところであるが、これだけ大きな石となると費用もかかり、やはり板による覆いと考えた方がよさそうか。

 350年前の水路というのは、弘前にとっても貴重なものである。それがそのまま現在でも水路として活用されているのは、すごいことであるが、ただ残念なことにほとんどがコンクリート製となり往時の雰囲気はない。少なくとも唯一残された部分については一度調査をして、残す必要があれば、整備すべきだと思う。つい最近までこういった堰は、昔の雰囲気を残していたが、その由来も知らないまま、安易にただの水路、融雪溝に変えていった。これはある意味、歴史と文化の町、弘前と提唱するには、恐ろしいことである。

 写真上は、代官町の石田パン屋前、二番目と三番目は和徳通り、瓜田飴店横、一番下は南横町の釜萢堰。

2012年10月24日水曜日

矯正治療のグローバリゼーション


 最近は、このブログでも本業の矯正歯科について取り上げることが少なくなりました。別にさぼっている訳ではないのですが、これといった新しい治療法もあまりないからです。矯正歯科の本場は、やはりアメリカ。これは矯正治療をする人口と治療する矯正専門医が圧倒的に多いことによりますし、アングルから始まる矯正歯科の歴史的な重みがあります。

 大学にいた当時は、どうもアメリカ人の考えについていけず、ちょっとした下顎前突、下あごの出ている患者さんに対して、すぐに手術をするといった考えに疑問を持ったものです。こんな症例、何も手術する必要はないでしょう、ということです。ただ20年前ほどから、上下のあごがずれていれば、無理して歯を移動して治すということは必ずしもよくないという考えになってきました。少なくともボーダラインケースでは歯の移動で治す治療法と手術を併用した治療法の2案を患者さんに提示し、選択してもらうようにしています。割合、手術を選ぶ患者さんも多く、だんだんアメリカ的になっているのかもしれません。

 噛み合わせが逆の反対咬合で、手術というのは、ありうる話ですが、これまで噛み合わせが正常で、手術を併用したケースも数例あります。上下のあごがずれていて、下あごが出ているのですが、上の前歯が前に、下の前歯が中に入って、噛み合わせが正常のケースです。主訴はあごが出ているということで、矯正装置をつけて一旦逆にしてから手術であごを下げます。下あごが下がり、女性の方では男っぽくなくなったと大変喜ばれました。こういった症例では、美容的な要素が多いのですが、仮に歯が1本もなくなり入れ歯になった時でもあごの関係が良くなることは、重要なことになります。

 経済、文化の面でのグローバル化ということ急速に普及しています。矯正歯科の分野でも、新しい治療法はあっという間に広がります。10年ほど前に、韓国を中心としてインプラント矯正が開発されましたが、今やほとんどの矯正医が全世界で用いています。逆に専門誌で色々な新しい治療法が発表されても、まがいものは駆逐されていきます。

 矯正材料の多くは、アメリカの企業のものが中心となり、日米で多少のタイムラグがありますが、ほぼ同じものを使っています。昔、三沢米軍基地に勤務するアメリカの矯正医と話す機会がありましたが、治療器材、治療方法について双方、全く会話にずれはなく、アメリカの矯正医と話しているようだと言っていました。一方、隣で聞いていた一般歯科のアメリカ人歯科医は、おまえらの言っていることはちんぷんかんぷんだとぼやいていました。

 こういった中、日本だけで隆盛を誇っているものが二つあります。ひとつは床矯正歯科、これは1900年代からヨーロッパを中心に発達したものですが、近年、機能的矯正装置と呼ばれるもの以外、アメリカはもちろん、ヨーロッパでもあまり使われていません。もともと、ドイツ、イギリスなど、健康保険で治療していた国で、マルチブラケット装置による治療が高額なため、安価な治療として普及したものです。現在は、どの国も、ほぼマルチブラケット装置が主流で、これが標準となっています。ところがどうも日本と、アジアの一部、中国ですが、未だに床矯正が残っています。多少は1930年代もものとは違いますが、ほぼ原理は同じです。現在のような優れた治療法があっという間に世界で使われるようになる時代に、逆行したものです。

 もう一つの治療法は、見えない矯正治療と呼ばれる舌側矯正です。これは高度な技術を要するため、不器用なアメリカ人にはできないようです。1970年代に開発された治療法ですから、すでに時間も経過していますが、どうもアメリカでは普及しておらず、従ってアメリカのメーカーもあまり力を入れていません。私は、舌側矯正は基本的にしていませんが、日本の先生方の臨床レベルはおそらく世界のトップでしょう。アメリカ人は基本的には面倒くさがり屋で、舌側矯正のような手間のかかることはあまりしたくないことと、患者さんも別に矯正治療を隠す必要もないと考えているからでしょう。

 何もアメリカの治療法がすべていいとは言えませんが、日本だけという独自治療法はもっと危険なことのように思えます。人種や習慣も違いますが、医療分野では対象は人間ですから、国が変わっても、最善の治療法はそう変わらないと思います。先週、ベトナムで矯正治療していたという患者さんが来ましたが、オームコ社のデーモンブラケットが入っていました。随分、高価はものと説明されたとのことでしたが、メタルのもので、一個1000円くらいで、全部で材料材は3万円くらいと言うと驚いていました。これも矯正装置が高いという、一種の間違ったグローバリゼーションなのでしょう。ついでに言うと、デーモンブラケットもようやく、Damon Clearという透明なものが登場し、完成したと思いました。治療期間が早いので、メタルでもしょうがないという言い訳をしないですみます。ちなみに新商品で高いのですが、それでも一個2000円程度でしょう。


2012年10月21日日曜日

ロロス社のブランケット




 長女の誕生祝い何にしようかと悩んでいた。若い子なので、選択が難しい。服や装飾品は好みがあるため、手袋やマフラーなどありきたりなものになってしまうし、それも以前贈ったので今回はダメ。

 前に買ったKnirpsの折り畳み傘が、丈夫で、個人的にはたいへん気に入っていたので、これがいいと最初考えたが、家内がそんなものはだめという。特に理由はないようで、プレゼントとしてはふさわしくないということか。確かにクニルプスの傘は、よくできた折り畳み傘であるが、若干重く、かさばる。軽量の国産のちゃちな傘を買い、壊れたら新しいのを買った方がよいのかもしれないし、若い人の考えはそうであろう。

 となると、私の専門、北欧雑貨ということになる。私ならスウェーデンのリサ・ラーソンの動物人形、できれば1950年代ものが好きで、こういったものをいただくとうれしい。ただ、これもまた万人に喜ばれるものではなく、難しい。

 ここで好きな雑誌のひとつ、「北欧スタイル」をパラパラと見ていると、2008年冬号に北欧のブランケット(毛布)の特集があった。とりわけ気に入ったのは、デンマーク、Roros社のもので、デンマーク、オスロの北、人口5000人の小さな町ロロスで作られたブランケットである。ロロスはノルウェーで最も寒いところで、過去にー52度という最低気温を記録した。ノルウェーの自国産のウールを昔ながらの技法で作ったもので、会社の創立は、1939年、従業員22名の小さな会社である。白クマのデザインがかわいい。

 大きなサイズものは高いし、やや実用に欠くため、スモールサイズ、135×110cmのものがよさそうである。他にブラケットというとアメリカのペンドルトンのものが有名であるが、やや薄くて、どちらかというとアウトドア向きである。北欧ものとしては、Klippan(クリッパン)、Ostergotlands(オステルヨートランド)のブランケットが知られているが、オステルヨートランドのものは78×90cmと小さく、クリッパンはやや薄手な感じがして、結局は、ロロス社のものを注文した。色は北欧ぽいというとブルーであるが、家内がシナモンという薄い茶色のものがいいというので、それにした。

 今日、受け取ったが、メリルウールに比べるとやや固めで、ごつごつしている。今時日本のブランケットにはこういった感触はない。最初から柔らかく、肌触りもよい。目の詰まった、厚手のブランケットで、おそらく使いこなすうちに、柔らかくなり、いい案配になろう。一生もので、赤ちゃんができても、使えるそうである。EVRICAという会社から購入した。かわいいペーパーバックに入っている。喜んでもらえば、うれしい。

2012年10月20日土曜日

絵図□印


 明治二年弘前絵図の再販を出すべき、原稿を書いている。前回は300冊印刷したが、4ヶ月ほどで売り切れたため、再販を考えた。どうせならその後、調べたことも追加して「新明治二年弘前絵図」として発行することにした。今のところ400字原稿用紙で200枚、8万語くらいになったので、そろそろ仕上げに入ろうと思っている。

 明治二年絵図に載っているすべての人名について調べるというばかげた考えは、実現しそうにはないが、それでもかなり人名がわかってきた。それらを加えて、考察したいと考えているが、これだけは出版と同時に新しい情報が入るのでキリがない。例えば、先祖が弘前藩士であった方から手紙、メールがくると、かなり詳しい家系図を教えてくれることがある。そうすると当時の結婚は、概して同じ階層の中から選ぶことや、養子縁組みが多かったことから、思わぬ人物に繋がることがある。以前、紹介した在府町の弘前藩士、神彦三郎の場合、父親は神熊吉で、その長男となる。そして神彦三郎の姉、長女いく(幾子)は珍田有孚の妻で、有孚といくの間にできた子供が珍田捨巳となる。つまり珍田捨巳にとって、神彦三郎は伯父さんになるわけだ。

 さらに近所に神藤太郎という人物がいる。近所の同じ姓というのは親類関係の可能性は強いが、ふと弘前藩記事一を見ていると、幕末期活躍した神東太郎という人物が非常に多く記載されているが、ある箇所に神藤太郎(神東太郎の間違い)という箇所が一カ所あった。つまり神東太郎(とうたろう)と神藤太郎(とうたろう)は同一人物の可能性が強くなる。(確定:図書館で調べたところ 弘前藩明治一統誌 人名録に 神盛苗 氏ハ藤太郎ト訓ス  とある。盛苗とは神東太郎盛苗のことである)

 さらに作家今東光の曾祖父、今儀右衛門盛方は、今家5代の弥五左衛門盛徳に神忠之丞二男兵太が養子としてきたものである。今東光の祖父、文之助は子供の頃、神藤太郎(東太郎)で養われたと、さらに神藤三郎という人物が、これは神藤太郎の弟か、この文之助に嫁を世話している。
 
 また神熊吉の二女?が近所の船水新五郎に嫁ぐが、新五郎の二男、武五郎は後にドイツに留学し、日本の近代製紙業の発展に寄与した。つまり船水武五郎と珍田捨巳は従兄弟同士になる。

 今東光の妻、きよ夫人は、「東光の曾祖父の奥さんが珍田家から来たのだと思う。」、珍田家から輿入れした夫人の甥が珍田だと語ったという。これを信じれば、曾祖父今盛方の夫人は、珍田有孚の父、有敬の娘であることになる。珍田有敬には男子がなく、娘はいたと思うが、婿として野呂家より野呂粂四郎を養子とした。ところがその娘は早く亡くなり、その後妻として神熊吉の長女いくと結婚したようだ。もし有敬にもうひとり娘がいて、その娘が今盛方に嫁いだなら、今東光夫人の言っていることは正しい。(ここまですべて今東光研究家、矢野隆司さん論文からの引用)

 さらに範囲を広げると、神熊吉に、珍田家、船水家に嫁いだ娘以外にさらに娘がいて、それが今盛方に嫁いだ可能性もある。また野呂家の子孫からも以前メールをいただいたが、今家とも関係があるとのことで、珍田有孚こと野呂粂四郎の妹が今家に嫁いだ可能性もある。何がなんだかわからない。

 話題を変えよう。絵図を見ていると、地図記号のようなものがある。前回紹介した坂を表すーーー印もそうだが、□印が、水路と路の交差するところ約40カ所に記入されている。おそらくむき出しにされた水路の開渠ではなく、地中に埋設されたか、上に蓋をした暗渠と呼ばれるものであろうが、これがわからない。道は荷車や馬も通るため、道に交差する水路は何らかの蓋をしていたと思うが、板でしたのか、石で作ったのか、それとも木組み、石組で作り、上から土で埋設したの、わからない。若党町付近の大久保堰沿いの□印はすべて現在、小さな橋になっているが、江戸時代の水路はそんなに深くなく、今のような立派な橋にする必要はない。また市内いたるところに走る、こういった水路は灌漑用ではなく、糞尿以外の下水に使われたのか、不明である。



2012年10月17日水曜日

私の読書




 私の場合、年間の読書量は200冊くらいになります。週に2、3回、近所の紀伊国屋書店に寄って、数冊ずつ買ってきます。ちょっとした本中毒に近いでしょう。

 子供のころは本が好きで、小学校の図書館では伝記ものやルパンやシャーロックホームズの探偵ものが好きで、夢中になって読みました。ただ高学年になると中学受験で忙しくなり、その後、中学、高校はサッカーばかりしていましたので、読書は年に数冊といったところでしょうか。

 ところが現在、龍谷大学で心理学の先生をしている松谷徳八先生と出会うことで、再び読書熱が再燃しました。兄が歯科大学入試のために、松谷さんに家庭教師を頼んだのがきっかけでうちの家に出入りするようになり、私もそれならついでにということで高校2年生から卒業まで家庭教師をしてもらいました。主として英語を教えてもらっていましたが、まず英字新聞のコラムを読み、その感想を述べるという形式でした。確か朝日イブニングニュースだったと思いますが、その新聞の社評の欄をまず辞書なしで読ませ、その後辞書を使って訳すのですが、もっぱら授業内容はその内容についてのディスカッションでした。しばらくするとディスカッションのやり方がわかり、最初に社評の内容を全面的に否定し、そこから議論していきます。こういったことを2年間毎週しましたが、はっきりいって入試には全く役に立たず、あえなく撃沈した。その後、大阪YMCAで正式な受験勉強をして大学に入りました。

大学入学後は、松谷さんから100冊以上の必読書を推薦され、1年かけて読みました。経済学、経営、心理学、小説、歴史あらゆるジャンルの本で、それを英字新聞と同じく、線を引いて読み、批評しました。今考えると、碩学の著者が時間をかけて書いた本を、批評するという浅はかな行為でしたが、本を読む習慣はできた気がします。さらに映画も出来るだけ見るように言われたので年に100本以上見ましたが、今でも思い出の映画はこの当時見た映画が多いと思います。さらに大学2年生の夏休みには松谷さんからインドに一緒に行こうと誘われ、1か月ほどインド、ネパールを廻りました。この旅行はインドの物価安を利用した大名旅行で、ウダイプールのレイクパレスホテルのエリザベス女王の泊まった部屋、ジャイプールのマハラジャホテルのジャイマハールパレス、世界一高いところにあるエベレストビューホテルに泊まったかと思うと、20ルピーの安ホテルに泊まったりしたため、ジェットコースターのような旅行でした。最高級のフランス料理のフルコースで2000円くらいだったので、よく食べましたが、その後、日本の高級レストランでもびびることはなくなりました。翌年には外国人に初めて解放された中国にも行ってきました。

 ある日、家族、松谷さんとテレビを見ていると、インドから帰国した旅行者が天然痘の疑いで隔離され、現在、その同行した旅行者の行方を探していると報じられていました。その時、松谷さんが「俺のことや。まるで殺人犯の指名手配のようやな」とこそっと言った時には、さすがに引きました。飲んだコーヒー茶碗は誰もさわらない。大阪まで私も買い物があり、一緒に電車に乗った際もその話をしていると、隣の一人が席を立ち、さらに隣も、前のひとも次々に席を立ち、廻りに誰もいなくなった思い出があります。

 大学時代は、もっぱらサッカーと読書、映画の毎日で、サッカー、映画は引退しましたが、読書は金に不自由しなくなると、ますます買う量が増えてきます。基本的には読んだ本はすぐに捨てる方針ですので、最近は記憶力の低下とともに、一度読んだ本をもう一度買ってしまうことも度々です。前は1ページで気づいたものでしたが、最近は半分以上読んで気づくようで、症状は進行しています。

 今日買った本は、「百年前の日本語 書きことばが揺れた時代」(今野真二著、岩波新書)、「別冊正論 日中国交40年汚辱と背信の系譜」(産經新聞社)、「医療が日本の主力商品となる」(真野俊樹著、ディスカバー携書)、「舟と編む」(三浦じゅん、光文社)。全くランダムです。最近、一番お勧めできるのは、漫画「砂の栄冠」1−5(三田紀房、講談社)。これは甲子園野球をへえーと思わせる好著です。

2012年10月13日土曜日

名匠の里紀行ー弘前ー


 女優檀れいさんのBS日テレ「名匠の里紀行手わざ恋恋和美巡り」、楽しみに見ています。この番組では日本各地に残っている手業の伝統工芸品を檀さんが訪ねて紹介するというものです。

 弘前についてはこれまで、3回紹介されています。一回目は津軽塗を取り扱っ田「青森・津軽塗と絶品旬の味~悠久の時を生き続ける漆と食の饗宴~」、二回目は津軽の女性の悲しく、美しい歴史をもつ「青森 こぎん刺し ~雪国の女性たちが伝え続ける刺繍の愛~」、そして三回目は先日放送された「青森・弘前 竹籠(かご)と蔓(つる)細工 ~りんごの里で愛され続ける籠の物語~」です。他には五所川原を取材した「青森・津軽半島 ねぷたの技と太宰治 ~風鈴列車で巨大ねぷたが彩る小説の故郷へ~」があります。

 1時間の番組ですが、ちょとした観光案内にもなっていて、地元の人も案外知らない場所が登場します。先日放送された竹籠についても、地元の人でも最近はあまり見る機会がなく、りんご屋に行くたびに昔のような竹籠入りのりんごを販売するように勧めますが、どうも売れないと取り扱ってもらえませんし、番組に取り上げられたような美しい竹籠は、特に観光客がいくようなところ、例えば津軽ねぷたの里や観光館にも置いていないように思います。

 うちの近所にも、宮本工芸というあけび細工の店や、リンゴ農作業用のはしご(脚立)を作っているところや、りんご剪定用のこぎりを扱っているお店があります。結構、しぶい店ですが、観光客には全く無縁の店です。こういったお店は弘前には多く、もっとうまく見せることができないかといつも思います。最近の流れとして、現代的なデザイナーと伝統工芸のコラボ、そして販路も日本国内に留まらず、海外へ進出というものがあります。例えば、西陣織を家具に使ったり、南部鉄瓶のカラー番を作ったりするもので、和、伝統的な要素を取り入れた家具、雑貨が若い人にも人気があります。弘前でもブナコという商品は、こういった流れに沿って、最近は人気が高くなってきました。ただデザイン的にはもう一歩で、まだまだ海外のデザイナーと組むことで斬新なものができると思いますし、可能性は高いように思えます。自由な曲面を極めてエコに作れるという大きな利点をもっており、今後もっと海外に紹介し、その特徴を宣伝し、コラボする作家を探してはどうでしょか。

 まだまだ弘前には工芸品があります。りんご剪定用のはさみ、江戸時代から続く刃物、藍染め、さらには裂き織り、下河原焼きの人形、こけし、錦石などがあります。また明治二年絵図の弘前城北の丸、作業方には、苫縄、すだれ、鼠尾、網藁(あみわら)や兼平石などの作業所があります。これらは江戸時代の特産品であったのでしょうが、今ではその存在するわからなくなっています。苫縄はおそらく菅や茅などの草を編んだ縄でしょう。すだれはそのまま。網藁は藁(わら)で編んだ網で、今でもホタルイカの漁などの使っているようです。問題は、鼠尾というものです。これが一向にわかりません。そびと発音するのでしょうか。おそらく筆のことでしょうが、津軽特産の筆というものを知りません。津軽塗りをあしらった筆なのでしょうか、それともイタチやテンなどのちょっと特殊な動物の毛を用いたものかわかりません。また金平石は輝石安山岩の板状節理で、石を平にする手間が省かれるため、墓石、碑、家の土台、敷石に使われていたようですが、昭和になってコンクリートの普及で一気に廃れました。こういった昔の特産品も、今の技術で違う使い方ができるかもしれません。

 さらにこれは特産品、工芸品とは言えませんが、「ボロ」と呼ばれる。継ぎはぎの衣料です。津軽では木綿が寒冷のため生産できなかったので、庶民は明治の中頃まで、衣服といえば麻が中心でした。非常に薄く、破れやすく、防寒にもなりませんでしたので、小切れを継ぎはぎして作った衣服が「ボロ」と呼ばれるもので、発想はこぎん刺しと同じです。これは完全にレプリカを作るべきで、東京のアミューズ ミュージアムに多くの作品がありますので、それを参考にして作ったらどうでしょうか。絨毯などはアンティークがいいのですが、さすがに着るものとなれば、新しく作らないと、売れないと思います。どなたかチャレンジしませんか。

下は兼平石で作った碑です。


2012年10月8日月曜日

宮本輝 「水のかたち」


 宮本輝さんの新著「水のかたち」を読了した。久々の長編である。いつも期待を裏切らない作家である。

 毎日のように多くの情報が流れ、去っていく。デジタル時代になってこの流れは加速度的となり、たった1年前のことでも、随分昔のことになってしまう。

 小説家という商売も、こうした時代の流れの速さの中では、あたかも消耗品のようになってしまった。石坂洋次郎という小説家がいる。昭和40年代くらいまで、日本人でこの人の名を知らぬ人がいないほど、有名な作家であったが、今は文庫本の中に、この作家の作品はひとつもない。若い人たちからすれば、全く知らない、読んだこともない作家の一人であろう。あんなに有名であっても、である。

 宮本輝さんの作品は、好きで、発刊すれば、すぐに読んでしまうが、現代日本を代表するこの作家でも亡くなって30年もすれば、人々の記憶からは消えてしまう。かっての井上靖、石坂洋次郎のように。もちろん、こうした現実を最もよく知っているのは、作家自身であろうが、逆に永遠に存在が記憶されるということ自体が、奇跡であり、まさか樋口一葉が自分が将来、紙幣にその肖像が載るとは思っていなかったであろう。50年後、古本屋の片隅に置かれた本を、偶然に手に入れ、それを読み、感動するということもありうる話で、電子媒体によらない本という一種の形となる存在が、奇跡を呼ぶ。たった一人の読者かもしれないが、現在と繋がる糸口が本にはあるし、作家の喜びでもあろう。未来に繋がる。

 本書も、最近の宮本さんの作品の定番、いい人、いいことしかでない。あんないい人いないよ。あんなラッキーなことなんておこらないよ。あんな個性的な生き方をしている人なんて少ないし、それが次々に出会うなんてありえないよ。と思うかもしれない。でもこれは小説という別の惑星に住む人々の話で、いうなれば宮本さんの空想、妄想の世界のことで、読者はその世界に入り込めばよい。そしてそれに癒されるひとがひとりでもいればよい。この世は捨てたものでないと。

 内容は詳しくは語れないが、主人公の更年期を迎えた志乃子という色白で肌のきれいな50歳の女性とそれを取り巻く、家族、友人の話である。キイワードは
「心は巧みなる画師の如し」(心に描いた通りになっていく)と骨董。20歳代では骨董などに全く興味がなかった私でも、この歳になると、古いものに惹かれるし、その歴史に惹かれる。コーカサス地方の絨毯が2枚、我が家にある。いずれも110年以上前のものである。コーカサス地方の小さな村で編まれた絨毯がどういった経路で青森の我が家にあるかと思うと、すごくロマンティクな気分がする。骨董とはそういった魅力をもつ。

 最近、知人の医者からちょっと面白い話を聞いた。親類に霊感が強いひとがいて、死後の世界を幼いころからはっきりわかっていたという。真面目な先生で、変な宗教家ではない。死後の社会はピラミッド構造で、会社に例えれば、社長から平社員までいて、その人の人生の生き方で、階層が上下するというのである。良い行いをすれば、階層がひとつ上がり、逆の場合は、ひとつ下がる。自殺はよほど悪いことか3、4段階下がる。そしてこの死後の世界で何十年間いた後に、完全に記憶がリセットされて生まれ変わる。死ぬのは全く怖くない。次にどんな人生になるか楽しみだと言っていた。

 これは一種の悟りかもしれないが、宮本輝の作品に出る人物は、こうした考えからすれば、みな死後は一段回、上がったところに行けるのだろう。50歳以上の方は是非、読んでいただきたい作品で、元気になるし、前向きに生きようと勇気づけられる。

 今回の作品にも、「とし坊」という人が出てくる。前の作品では、広瀬という人物が、その前の作品には広瀬という寿司屋が、登場する。全くの偶然ではあるが、私の名前は寿秀(としひで)で、親類、兄弟、親からは今でも、お恥しながら、「とし坊」、「とし坊ちゃん」と呼ばれている。こういった偶然がうれしい。

2012年10月7日日曜日

兼松しほ 3



 兼松しほの写真はない。おそらくは子孫の方が写真をもっているのであろうが、有名な人でなければ、いつの間にかなくしてしまいものであろう。さらに昔の人にとっては、写真撮影は滅多にないことであり、幕末期に生まれた人では、せいぜい数枚、場合によっては一枚も写真を撮ったことがないというのが一般的であったのであろう。

 兼松しほについても、おそらくは兼松家には何枚かの写真はあったと思われるが、兼松家は絶えたので、それに伴い写真もなくなった。

 ここに1枚の写真がある。長谷川成一弘前大学教授の編集した「写真で見る青森県のあゆみとくらし」(青森県男女共同参画センター)に載っている「東奥義塾小学科女子部 後列左から4人目が脇山つや」とのキャプションがある。そして明治10年にアメリカの新聞「グリーンキャッスルバンナー」を紹介している。説明はないが、明治10年ころの写真としている。

 明治11年という時の女子部の女性教師は、中田仲、菊池きく、兼松しほ、脇山つやの4名、明治11年10月には笹森ひさ、佐藤そわが加わっている。明治12年5月にさらに工藤さた、明治13年になるとさらに大和田しなと伊藤みねが加わる。

 こういった集合写真は卒業時に撮られたと思われるので、最初に東奥義塾の女子部ができたのが明治8年4月であるので、卒業生がでるのは明治12年以降となり、女性教師は最大で9人程度となる。写真は間違いなく弘前で撮ったものであるが、弘前で最初に写真館を開いたのは田井写真館で明治四年と早い。その後、田井写真館で勉強した矢川姉妹が写真館を開業したのが明治14年である。脇山つやが夫の脇山義保と一緒に函館に行ったのは明治12年の暮であることから、写真に脇山つやが写っているとなると、明治12年以前の写真となり、田井写真館で撮ったことになる。

 可能性としては明治1112年の撮影と思われる。当時の女性教師は中田仲、菊池きく、兼松しほ、脇山つや、笹森ひさ、佐藤そわの6名となる。このうち、写真が残っているが、晩年の菊池きくのもので、上記写真の後列右から2番目の年配の女性が菊池きくであるのは間違いない。北原かな子先生に聞くと、写真キャプションは間違いで、上列一番右の若い夫人が脇山つやだということであった(写真の切取りに失敗しました。写真右の人物のさらに右に脇山つやが写っていましたが、カットしています)。後列は先生が並んだことになろう。菊池きくの左右の女性も兼松しほ、中田仲、笹森ひさ、佐藤そわのいずれかであろう。明治1112年というと兼松しはは3435歳となる。

 下図の父親、兼松石居の写真を見ると、目元、顔の輪郭から菊池きくの左の女性が兼松しほのように思える。父親に似ているとの保証はないが、当時の3435歳というと今と違い、老けている。後列、菊池きくの次に年配ということになると、やはり左の人物は兼松しほのように思えてならない。

 本日、弘前教会で北原かな子教授の本多庸一の講演聞きました。本多庸一、珍田捨巳、兼松石居の子孫の前で、それも本多ゆかりの弘前教会での講演、これはきついと思いました。講演内容は、エキサイティングでひさびさに楽しい思いをしました。講演の中で、東奥義塾のイング先生など故人の霊が乗り移って文章を書かせたとの表現がありましたが、同様なことは須藤かくをこのブログで書いた折、同じような経験をしました。資料が湯水のごとく集まって来て、わずか1ヶ月くらいでゼロの資料からある程度の資料が集まりました。