2019年2月26日火曜日

母と絵

脇亀太郎先生の絵

河野太郎先生が母をモデルにして描いた絵

 うちの母親は今年で96歳になる。まだまだ元気で絵を描いている。徳島県脇町高等女学校の四年生の頃、昭和14年頃から同級生、数名で同校の美術の先生から油絵を習っていた。その後、脇町中学校で美術の先生をしていた東京美術学校卒業で、かの黒田清輝先生にも習ったという脇町出身の脇亀太郎先生についた。脇先生は優しい先生で、絵もうまかったが、展覧会に出すわけでなく、中学校の先生として一生を過ごした。リンゴを描いた小品が我が家にあるが、なかなかみずみずしいリンゴが描かれ、うまい。息子がいて、うちの嫁と考えていたのか、この絵を母にくれた。戦後になるが、徳島県の洋画界の大御所の河野太郎先生が和服の似合う女性のモデルを募集していると人づてに聞き、母がモデルになったことは大分前のブログで述べた。60年ぶりの絵との再会ということで、徳島の新聞にも取り上げられた。その後、徳島市に住む河野先生のところへ、脇町から絵を習いに行き、結婚後は尼崎から船に乗り徳島市まで習いに行っていたが、さすがに子供ができると通うのは無理となり、そのまま絵を描くのを諦めた。

 母は、もともと絵が好きだったので、子供が大きくなり世話がかからなくなった40年ほど前からに日本墨相展を主催している武井泰道(むい たいどう)先生に師事して絵を習うようになった。それまでは油彩画を習っていたが、墨画は手早く描けるためにすぐに上達したようだ。かなり大きな作品も描いて、展覧会なども開いたり、NHK教室などで生徒にも教えたりしていたが、所詮アマチュアの絵である。この会が主催する展覧会などにもよく行ったが、どれもアマチュアの絵で、プロの画家には比すべき技量はないし、それを求めるようなものではない。絵を描いて楽しめれば良いし、それを人にあげて喜ばれ、もらった人も応接間に飾って気持ちがよければ良い。

 昔、ある知人から青森の有名なプロの作家の絵をいらないかと打診された。何でも亡くなったので家族が家にある作品を整理しているという。地蔵さん、仏像を描いた数点の作品であったが、どれも陰気で、数名に声をかけても誰も引き取らない。結局、葬儀会社が引き取った。まず絵でも人気のないのが、ヌード、仏像画、人物画などで、逆に人気のあるのが風景画、静物画、花鳥画などである。抽象画もあまり人気はない。いくら有名な絵でも地蔵の絵よりはアマチュアの花の絵の方がみんな欲しがる。

 絵を描くことは楽しいし、ボケ防止にもあるに、何より歳をとってからの生きがいになる。ただ個展を開いたり、先生と呼ばれるようになると、思いあがるようになる。そうならないように母にもずっと言ってきた。というのは本職の画家、つまり人に教えたりもせず、純粋に絵だけで生活している人は本当に少ない。多くの場合、教室を開き、その収入、あるいは生徒に自分の絵を売って生活している。田中一村のような絵だけで売り極貧な生活をしている画家に対して、ちょっと習っただけで先生気取りするアマチュアは大変失礼である。さらに幕末、明治の大画家、森寛斎の作品がネット上で1、2万円で売られているのに、アマチュアの下手な作品が銀座の画廊で数十万円で売買されているのもおかしい。ネットオークションというのは厳しい世界で、おそらく現役のほとんどの画家の作品を出しても数千円でも売れないであろう。絵というのは価格があってないようなものであり、数百万円と言われればそうだし、数千円と言われればそうなる。

 母はこうしたこともよく知っているので、作品の多くを人にあげたり、画題も人にあげて喜ばれる風景画や花の絵がほとんどである。アマチュア、プロでも画家というのはつい奇抜な作品を描こうとするが、こうした作品は描いた人の自己満足がほとんどで、人にあげてもあまり喜ばれないし、ましてやネットオークションに出せは数千円でも落札されないであろう。

2019年2月24日日曜日

アメリカからのお客さん



 昨日と今日は、アメリカのシンシナティーからのお客さんを弘前と青森に案内した。以前にも弘前に来たシンシナティー美術館のホウメイさんと、彼女の親友で美術館のボランティアをしているナンシーさんが弘前に来た。現在、東京の森アーツセンターギャラリーで開催している新北斎展にシンシナティー美術館の所蔵する作品を展示するために来日した。先日のNHKの日曜美術館でも一部取り上げられていたが、今回の展示会の見どころの一つに北斎の肉筆の“円窓の美人図”と最晩年の“向日葵図”がある。これらの作品はシンシナティー美術館からのもので、本邦ではあまり公開されていない作品で、北斎の技量を余すことなく伝える貴重な作品である。

 弘前に来た目的は。シンシナティー美術館が所蔵する“芳園輝”の作品について話し合うためである。大英博物館にある作品や他の博物館の”芳園輝”の作品は、従来、幕末の著名な画家、西山芳園作となっていたが、彼とは別の芳園の作品であることは間違いない。署名、落款、描き方が全く違うからである。それでは誰かというと明治に画家をしていた香川芳園という人物がいる。1830年頃に生まれ、少なくとも明治40年には死んでいるので、幕末から明治にかけての画家と言ってよい。京都にできた書画学校にも出仕した。出仕というのは先生ということでなく、学校主催の展覧会などがあれば出品することを指す。内国絵画共進会出品略譜では“香川芳園 蟾麿と号し、京都府上京区西大路町に寄留す宇野助順の男にして香川行徳の養子となる。天保11317日生まれなり。望月および川越前守岸岱に学び、近江、家、尾張、紀伊、摂津などを遊歴し、明治16年兵庫県の名により、同県下の明により同県下川海漁師海鼠漁具および産魚の写真200枚を製作す”となっており、全く無名の画家ではなかった。

 香川方園の師匠は、望月玉川で名を輝といい、望月派の祖、望月玉仙の号に蟾があり、その師あるいは租の名前にちなんで香川芳園も輝あるいは蟾の名を使ったと考えた。ただホウメイさんからは香川芳園作と確定されている作品はあまりに下手で、芳園輝の署名がある作品とはあまりに力量が違うと言われた。これには反論できないが、同じ画家でも年齢が上がるにつれ、あるいは病気などで作品が酷くなることもあり、私はその口かと思っている。何れにしても結論は出ず。これまで芳園平輝あるいは芳園輝の署名のあるものだけを探していたが、もう少し範囲を広げて“芳園”の署名の中にも芳園輝と同一人物がいると考えて、検討したい。

 ナンシーさんは日本文化に詳しく、雪の最勝院の五重塔を訪れた時に川瀬巴水の“最勝院五重塔”のプリントを持っていったところ、巴水の作品をよく知っているようで、同じ場所で写真を撮れ、大変感激していた。その後、長勝寺、藤田記念庭園、弘前城、津軽ねぶた村に行ってから自宅に招いて、ホウメイさんとディスカッションした。その折、私の土屋嶺雪のコレクションも11点になったので、和室の周りに全て吊り下げ、彼女らに見せた。大変、興味を持たれ、その値段のあまりの安さに驚いたようである。ヤフーオークションはアメリカでもできるかと思ったが、調べると日本と最近では台湾からの入札できるが、アメリカでは無理なようである。掛け軸を中心とした日本の昔の絵の評価の低さに驚いていた。

 今日は、絶好の天気に中、青森に向かい、県立美術館、らラッセ、八甲田丸などを見学し、新幹線で東京に向かった。かなりあちこちを歩かせて、疲れさせたのを反省している。台湾出身のホウメイさんが喋る英語はよく理解できたし、私の下手な英語もよく理解してくれた。ただ純粋のオハイオ人であるナンシーさんはジャパニーズ英語に慣れていないのか、私の英語がしばしば通用できず、ホウメイさんが訳してくれた。もう少しネイティブなアメリカ人にわかる英語を喋らなくてはと反省している。

2019年2月22日金曜日

インビザライン

インビザラインに白いアタッチメントをつけている


 アメリカでは、インビザラインあるいはSmile Direct Clubのようなマウスピースを用いた矯正治療が流行っている。これにはアメリカの民間保険会社も加担しており、歯科の医療保険に入っていると、例えばSmile Direct Clibの例で言えば、1850ドルの治療費のうち保険会社が1100ドル負担するため、実質の負担額は750ドルとなる。詳しくは知らないが、保険会社の負担額1100ドルは他の治療法を選択しても同じあると思われ、アメリカでの平均矯正治療費は6000-8000ドルくらいなので、実際の負担は4900-6900ドルとなる。それを考えれば、Smile Directはかなり安いし、それにつられて元祖のインビザラインも少し安くなっている。

 こうしたマウスピースによる矯正治療の適用は、わずかな叢生、でこぼこであったが、その後、抜歯ケースにも歯に突起物をつけて直すことができるようになったし、大臼歯の遠心異動による難しい治療ケースなども専門誌で見るようになった。かなり適用範囲が広がったようである。それでも歯にブラケットをつけてワイヤーやゴムの力で歯を動かす従来型の治療法に比べて、かなり不利な点がある。まずマウスピース型のものはソフトプラスティックから加わる力を矯正力としているが、有効に力がかかっているとは思えず、かなりロスがある。特に抜歯ケースでは歯ごと動かす歯体移動が必要なため、歯に有効な力を与えるためには歯に突起物(アッタチメント)をつける必要があり、これではブラケットと同じになる。さらに歯の移動には、終日、ゆっくりした力を歯にかけ続けなくてはいけないので、基本的にはインビザランでも終日使用が原則となる。また可撤式矯正装置なので、使ってくれないと効果はない。一番大きな問題点は、実際の患者さんの治療では計画通り治療が進まないことがある。経過よく、きちんと治療が進む場合もあれば、同じ治療をしてもなかなか歯が動いてくれない場合がある。そうした場合は他の治療法を変えることも多いが、インビザラインでは治療変更は可能ではあるが、難しい。

 数年前、近医でインビザラインによる治療を受けている患者がセカンドオピニオンで来院したことがある。骨格性反対咬合で、オトガイの偏位や叢生もある。場合によっては外科的症例と考えたが、抜歯して歯の移動による代償的な治療でもかなり難しい。おそらくインビザライン社に発注すると自動的に最後までの装置が作られるが、それはただ今の状態から最終状態までを分割しただけのもので、とても治りそうにない。患者へのセカンドオピニオンとして、自分はインビザラインをしていないが、この症例は難しいのではないかと言った。インビザラインだけで完全に直せば学会報告ものだが、単純にマウスピースを交換するだけでは難しく、アタッチメントをつけたり、部分的にブラケットをつけたり、ゴムも使わなくてはいけないだろう。
 
 ただこのケースで救われるのは、担当医が一応、認定医の先生なので最悪の場合は、通常の矯正治療に変更すれば何とかなる。一方、こうしたマウスピースによる矯正治療は一般歯科で行われることがある。その場合、うまく治療できない場合は、それで終了となる。これ以上は無理ですと言われて。あるいは患者が装置を使わない場合は、あなたの責任ですと言われ、これで終了となる。マウスピース矯正を行う場合は、少なくとも、治療がうまくいかず、他の治療法に変更になった場合の費用、あるいは何らかの理由で装置を使わなくなった場合のこともきちんと聞いておいた方が良い。治療終了後の後戻りの再治療についても、費用も含めて聞いておくように。また見えない矯正装置とはいえ、プラスティックのピカピカ感はあるし、異物感、発音障害も多少はあるので、見えないという点では舌側矯正の方が良いし、適用もはるかに広いし、期間も短いと思う。

2019年2月17日日曜日

冬の津軽 観光?

秋田の乳頭温泉、 手入れが簡単な灯篭、綺麗である

家の前の道、道路は半分になる

冬の真夜中、これくらいの明るさの不思議な夜がある

 今年は雪が少ないかと思っていたが、ここにきて毎日、雪が降っている。庭道の両脇には雪が積み上げられ、すでに1m以上になってきた。2月もまだ半分、この時期が春へのかすかな期待が裏切られる嫌な時期である。12月、1月はまだまだ雪、寒さへの覚悟もあるが、さすがに2月になると厳しい冬に腹が立ってくる。

 こうした雪に海外の人は興味があるようで、最近は雪と温泉が海外観光客の人気となっているようだ。雪=雨ということで寒くても雨が少ないところは雪も少ない。まず寒いところというと、アジアでは中国東北部、朝鮮、ロシア・シベリアなどが思いつくが、どこも雨が少ない。逆にタイ、台湾、ベトナムなど亜熱帯の地域は雨はまずまず降るが、寒くない。雨が降って、寒いとことというとアジアでも日本くらいとなる、世界で雪の多い都市ランキングでは5位はカナダ・ケベック、4位はカナダ・セントジョーンズ、そして3位は富山市、2位は札幌市、1位は青森市となる。年間降雪量は2位の札幌が485cmに対して、青森市は792cmでダントツの世界一です。ということは青森市の冬の雪まみれの光景は世界中、どこにも見られない光景ということです。これはある意味、自慢できることであり、観光資源にもなりうるものです。特に、アジア圏内でも、全く雪がない、見たことがないという国が多くある。台湾、ベトナム、タイ、マレーシアなどもそうであるし、雪が降る韓国や中国でも青森のような多くの雪はスキー場以外見たことがないであろう。

 ただ地元民からすれば、雪は憎悪の対象であり、こんな雪を誰が楽しいかと思う。それもあってこれまで雪を観光資源に考えることはスキー場以外なかった。それでも最近、新青森県総合公園内、スノースポーツパークを作り、そこでバナナボートやスノービルで楽しめるようになっている。また数年前から五所川原では地吹雪体験ツアーという厳寒の中、田んぼで地吹雪を体験するツアーと開いており、ハワイなどの観光客から脚光を浴びている。それでも青森市内、弘前市内においても冬の雪を観光地として体験できるところは少ない。

 弘前市で言えば、駅前から主要歩道を融雪化しているが、これはすばらしい試みである。観光客だけでなく、地元住民、特にお年寄りは冬場、転倒して骨折することが多く、歩道を雪にない状態にすることは予防にもつながる。今の所、弘前駅から百石町くらいまで融雪されているが早く弘前城まで融雪化を進めてほしい。さらに冬場のフェスティバルとして弘前市は28日から11日まで雪灯篭まつりをしている。これはすばらしいことだが、ただ会期が短く、もう少し、規模を縮小しても1ヶ月くらいは見れるものにしてほしい。そのためには、例えば、灯篭となると雪が降ると次第に原型が崩れてしまうが、山のように積み上げ、そこに穴を掘ってろうそくをつけるのであれば、かなり長い期間展示できる。また弘前城内にあるリクレーション広場も、大きな雪の滑り台を作っておき、ソリも貸し出せば良いと思う。以前、土手町でも歩道に小さな灯篭を作り、そこにろうそくを灯すことが行われていたが、いつのまにかやめてしまった。こうした街の人々の協力も必要なのかもしれない。

若い人に知恵を集めて、冬の津軽、雪の津軽を桜の津軽同様に世界に発信するようなチャレンジをしてほしい。世界一の雪国であることを嫌がるのではなく、今度は活用するような機運が盛り上がってほしいものだ。

2019年2月11日月曜日

国歌が否定される国 韓国




 シンシアリーのブログという、韓国人の歯医者さんが書いたブログをよく見ます。最近のブログの中に、「31運動100周年記念行事推進委員会」が韓国国歌、愛國歌の作曲家が親日であるから、式典で国歌を流すのはふさわしくないと言っているようです。呆れはてます。愛国歌の作曲はアン・イテク(安益泰)、作詞はユン・チホ(尹 致昊)で、アンはウイーンでリヒャルト・シュトラウスに学んだ朝鮮を代表する偉大な作曲家であり、多くの交響曲を作っています。愛国歌は留学中に作曲され、大韓民国成立後の1948年に国歌となりました。ところがアンは2008年に民族問題研究所で親日派と認定されてしまいます。親日人名辞典にも日本の植民地支配に協力したとされています。また作詞家のユンは朝鮮を代表する政治家、教育者であり、本当の愛国者でしたが、親日派とされ、終戦後は売国奴、親日派として石を投げられたといいます。彼の31運動に対する評価も厳しく、“独立運動家に対して”自分たちは死ぬ勇気もないにも関わらず、他の純真な人々を死の谷間に押しやる呪われるべき悪魔のような存在“と手厳しい評価をしています。愛国歌の作曲家、作詞家はいずれも親日であり、韓国左翼に従えば早々に国歌を変更する必要があります。

 それでは肝心の3・1運動はどうかと言うと、これは191931日にソウル中心のパゴダ公園にて宗教指導者を中心とする33名が独立宣言を読み上げたものです。現在の文政権では最も重要な出来事とされ、今年は100周年を記念して大掛かりな式典が行われます。この独立宣言は、崔南善(チェ・ナムソン)によって書かれたものです。このチェも韓国の近代文学の開拓者ですが、朝鮮総督府に勤務し、満州の建国大学の教官もしていました。戦後は反民族行為処罰法にて処罰を受けました。現在でも親日派リストに入っています。さらに言うと、この運動に参加した33名のうち、親日リストに載るようになったのは、鄭春沫、崔麟、また後に独立運動に貢献したと言われる人でも戦前になくなったのは韓龍雲、劉如大、申洪植、朴東完、吉善宙、李弼柱、李昇薫、李種一鍾勳、梁漢黙、朴準承、孫秉熙純粋に抵抗したのは呉世昌、東鎮くらいで、金乗詐、申錫九は北朝鮮により処刑されています。呉、権のように純粋に抵抗しものでも、いわゆる独立運動に参加して日本軍と戦ったものはいません。親日リストに載る人以外は、ほとんど韓国政府から建国勲章をもらっていますが、この人たちも長生きしてなら親日リストに載ったかもしれませんし、逆に親日リストに載った人たちも早く亡くなったら建国勲章をもらったことでしょう。

 中国にあった大韓民国臨時政府の少数の朝鮮人以外の国にとどまった優秀な人たちは、日本政府と協力して朝鮮人の立場の向上に努め、その結果として日本からの自治権獲得を目指しました。非常に現実的な行動であり、多くの特攻隊志願の朝鮮人も自分たちの死によって少しでも朝鮮人の地位が上がればと考えました。いずれも非常な高尚な考えです。逆に朝鮮においても全く沈黙する、隠遁する、あるいは重慶において実態のない臨時政府を作り、何ら戦いもしなかった人々が建国の英雄となりました。

 大学で言えば、現在のソウル大学の前身、京城帝国大学の関係者はほとんど親日派であり、またそこを卒業して役人になったものも親日派となります。さらに名門校、高麗大学の創立者、金性洙も親日派リストに含まれ、梨花女子大学の初代学長の金活蘭もまたリストに入っています。日本統治下で活躍した朝鮮人はほとんど親日派ということになり、これは論理的には非常にまずいことであり、日本統治時代(1910-1945)に活躍した朝鮮人を全て否定することになります。朝鮮の近代化が進んだ時代でしたので、そうした近代化に関わる人々は親日派となりました。もちろん大統領でも朴正熙は満州軍の将校であり、また陸軍のトップ、参謀総長も1970年頃までほとんど日本の士官学校出身者で占められ、のちに親日リストに載ることになります。

 1910-1945の全ての歴史、人物を否定する韓国はおかしな国で、まさに細かな原理原則に固執する小中華、朝鮮そのものです。常識的な国であれば、戦後間もなくならいざ知らず、数十年も経って親日リストを作ったり、親日派の子孫の財産の没収などはしません。グレイゾーンがあってもこうした極端なことはしません。まして尹致昊のような偉大な人物が罵倒され、従軍慰安婦のおばさんが英雄視されるのは狂っており、それが韓国という国家です。


2019年2月7日木曜日

迷宮グルメ異郷の駅前食堂 韓国編




 ヒロシさんの迷宮グルメ異郷の駅前食堂については以前、書かせてもらいましたが、最初の回から欠かさず見ています。以前は1時間の番組で、前半は新作、後半は再放送分となっていましたが、最近は人気が出たのか2本とも新作になっています。これまでトルコ、ベルギー、オランダ、クロアチア、スロベニア、台湾、韓国、マレーシア、フィリッピンなどを旅しています。あまり観光地には行っていないので、NHKの世界ふれあい街歩きとは全く趣は違います。世界ふれあい町歩きは観光地を綺麗に撮った番組ですが、迷宮グルメの方がよりその国のありのままの姿を伝えてくれているように思えます。

 例えば、フィリッピンの人には申し訳ありませんが、ヒロシが行くフィリピンは、恐い。街が汚いのはわかるが、歩いている人の人相が悪く、また刺青をしている人も多いようです。欧米に比べてフィリッピンの犯罪率が高いわけではありませんが、日中でも、とても裏通りを行こうとは思えません。これは番組の中でのフィリッピンの姿ですが、実態はこれに近いでしょう。一方、日本に出稼ぎに来た人も多いようで、番組でもそうした人からヒロシさんもよく声をかけられます。みんな明るくて人懐っこい感じがします。それでも私には汚いことと、恐い感じがしてフィリッピンには行こうとは思えません。

 韓国編は、笑い転げます。うちの家内は韓国ドラマが好きで一日中見ていますが、そうした華やかな世界はドラマの中、あるいはソウルの一部だけなのでしょう。数年前、韓ドラの好きなうちの母親と姉が韓国旅行しました。地方を回るとおばさんは見事なほど、チリチリパーマをしていて綺麗な人はほとんどいないと言っていました。まあそうかなあとは思っていましたが、ヒロシの迷宮グルメでもこれまで二回、ソウルから離れた街を探索しましたが、全くその通りで、見事にチリチリパーマに紫の服を着た無愛想なおばさんが出てきます。どの店のメニューには日本のような料理の写真が載ることは一切なく、ハングルで書かれたものだけです。全くサービス精神が欠けていますし、愛想は決して良くありません

 昔、と言っても数十年前、1960年頃。尼崎の私のいたところは、在日韓国人が多くいた地帯でした。そうした場所ではよくつかみ合いの夫婦ゲンカがありましたし、アル中や薬中の人が暴れていました。女の人は、できるだけパーマが持つように、オバQの小池さんのようなきつめのパーマをかけていました。上は柄物のブラウスに下はどういう訳が原色のモンペのようなズボンでした。女同士でガヤガヤと大声で喋っていた記憶があります。これと全く同じような光景がヒロシの行ったと韓国にあります。尼崎にも同じような食堂、一杯飲み屋がありました。店の中にはカウンターがあり、そこで酔っ払いがたむろしていますし、外でも天気の良い日は椅子を持ち出し、昼間から飲んでいます。かなり安いのでしょう。ホルモンなどの何が入っているかわからないごった煮もあります。懐かしい感じですが、一方、あまり行きたくないところです。なんか、変に人懐こいのですが、深入りしたくないところです。私は在日韓国、朝鮮人の友人も多くいますが、口を揃えてもう韓国では生活できないといいます。在日も二世、三世さらには四世になると精神的にも文化的にも日本人で、こうしたいかにも韓国ぽいところは我慢できないようです。韓国も町は汚いし、周りはハングル文字だらけで、愛想もないので、あまり行く気が起こらないところです。またヒロシの番組でもそうですが、予想以上に英語が通じないようです。私の英語の先生も、韓国の大学に行き、そこの受付で、英語で聞いても全く理解できず、入り口にある案内図もハングル語だけで、歩いている学生、10名以上に聞いても皆んな逃げるだけだと怒っていまいした。

 ヒロシの番組で逆に行きたいなあと思ったのはベトナムと台湾で、ここは良さそうです(台湾はもう一度行きたい)。迷宮グルメは食番組ですが、いい観光案内番組になっています。

2019年2月2日土曜日

揚州周延の明治浮世絵




 来月、アメリカから友人が二人、弘前に来る。また米山奨学生として世話している中国人の学生も3月で卒業となる。外国の方に何かいいお土産、記念品はないか、できればあまり高価なものは相手も気を使うので、できれば1万円以下のものが望ましい。今の時期は、ひな祭りの人形がデパートで売っていて、小さなものなら予算範囲内で買える。また最近、若者にも人気のあるこけしも、可愛くていいのかと思った。ただちょっとありきたりで、面白みに欠ける。もっと日本的で、できれば将来価値があるものはと思って見つけたのが、浮世絵である。

 浮世絵といえば、日本を代表する美術であり、外国人にもよく知られたものである。江戸時代の広重や北斎の浮世絵は高価でとても1万円以下では手に入らないが、近代のものであれば、買えるかと思い、ヤフーオークションで“明治 浮世絵”で検索すると、月岡芳年、小林清規、歌川国貞などの作品が出てくる。スタート価格は1000円くらいで、うまくやれれば安く手に入ると考え、その中から女性を多く扱った揚州周延(ようしゅう ちかのぶ)を検討した。大型浮世絵が3240円くらいから始まっている。版画は刷りのエディション、早い刷りが高く、後の刷りが安く、またコンディションの違いが値段の差となる。まず本物の値段がいくらくらいするか、“周延 値段”で調べると、“東風俗福つくし”シリーズで15000円から25000円くらいであった。これまでの経験から業者の買取価格はこの1/10、インターネットオークション価格はこの半分から1/3と推測した。すなわちオークションの価格は5000円から10000円くらいとなる。さらにエディションについては、このシリーズの版画が近代デジタルライブラリーに収蔵されているので、これを最高のものとして比較できる。

 最初に落札したのは“馥郁”という作品で、梅の香りを楽しむ人々が描かれている。非常に綺麗な作品であるが、この段階ではライブラリーとの比較は思いつかなかったので、後で比較すると、左の女性の打掛の柄が不鮮明であり、また制作年月日が入っていないことから、後刷りの可能性が高い。それでも4600円で買えた。次に買ったのが、“福寿草”というもので、明治時代には福寿草を売る夜店があったのだろうか、これは十分にライブラリーの絵と比較したし、コンディションも良さそうである。落札価格は7750円であった。届いた作品を見ると黒の外套が本当に美しく、キラキラ光っている。線も細くて綺麗で、美しい。これは買ってよかった。この二つはアメリカから来るお客さんにそのままあげよう。ボール紙に挟むか、円筒のボール紙に入れればかさばらず、スーツケースに入れられる。中国の学生は若いので、もう少し明るいものを探した。“ふくりん”という作品は色の対比が美しいのでこれを買うことにした。あまり競う人もおらず、4600円で購入し、いつもよく利用する額縁のタカハシでそれにあう大きさの額と額装マットを購入した。2682円となった。二つで7282円となる。まあ予算範囲内におさまった。喜んでくれるといいのだが。

 今回、始めて明治期の浮世絵版画を買った。これまで浮世絵といえば江戸時代、明治のものなど大したことはないと考えていたが、その作品を見ると版画そのものの技術は非常に高い。明治期の木版画が、日本版画史上、最高の到達点と評する人もいる。明治になると西洋から新しい色、顔料が入り、一方、これまでの浮世絵は廃れたため、より細かい、多色で精巧な作品が作り出され、そのレベルは驚くほど高い。一方、浮世絵コレクターからすれば、赤、ピンクなど原色は派手すぎて嫌いという人も多いだろう。ただ“Chikanobu”と検索すると驚くほどたくさんヒットする、とりわけ”Toyohara Chikanobu”Wikipediaはたくさんの画像があって詳しい。

 欧米ではこうした明治の浮世絵も人気が高く、これまでもかなり流出しているのだろう。ある意味、日本美術の海外への流出は、明治初期、戦後にピークがあったが、床の間、和室のなくなった現代もまた一つの流出ピークなのかもしれない。私も揚州周延の3つの作品を海外に出すのだから。周延の作品は多く刷られ、残っている作品も多いのだろう。それにしてもこうした優れた作品が5000円程度で買えるのは信じられない。作品内容を考えると将来的にはもっと高くなってもよい。

2019年2月1日金曜日

小児歯科



 青森県の矯正歯科の認定医は10名、口腔外科の専門医は16名、歯周病専門医は3名、補綴専門医は9名、小児歯科専門医は2名となっている。医学部でみると整形外科専門医は青森県だけでも158名、日本消化器内視鏡学会専門医が124名、リューマチ専門医は21名、さすがにマイナーとなる日本婦人科腫瘍専門医は3名しかいない。全国の専門医数で見ると一番多いのは外科専門医で21275名、続いて整形外科専門医が17280名、小児科専門医14940名となる。一番少ないのは肝胆膵外科高度技能専門医が61名である。概して医科では、専門医の種類も多く、また専門医の数も多いのに対して、歯科はそれ自体が医科の専門と見做すことができ、専門医の種類の少ないし、専門医の数も少ない。一つは、医科、歯科とも大学は六年であるが、研修医は歯科が一年、医科は二年となる。その後、大学に残る場合は外科や内科の大学院に進むことになる。最近は医科では博士号より専門医の取得を目指す学生が多いため、大学院に進まずに臨床研修機関で臨床を学ぶことも多い。その後、4年間の大学院あるいは五年の専門教育で博士あるいは専門医の資格を得て、大学の助教などを経て、病院勤務あるいは開業となる。早くて開業するのは40歳以降となる。それに対して、歯科では大学の医局に残る学生は少なく、開業医での勤務を経て30歳頃には開業することが多い。そのため最初に見たように医局に残らないために専門医の数が非常に少ない。

 例えば、小児歯科の専門医は青森県では2名、一人は青森市、もう一人は三沢市で、弘前、五所川原市などには1名もいない。一般の方からすれば、一般歯科と小児歯科専門医の区別はつかないと思うが、私は、今は小児歯科をしてないが、小児歯科の医局に三年いた経験からすれば、まず治療の内容が違う。虫歯があって、治療する場合も小児歯科では必ず、麻酔、ラバーダム防湿をして例えレジン充填でもまず二次カリエスになることはない。なぜなら充填も確実にやるだけでなく、その後も定期的に歯磨きの指導、フッ素塗布などをしていくのからである。さらに虫歯が神経までいった場合では、その後、予後が悪く、歯根に膿を持つ場合があるが、それでも一般歯科医より予後は良いという自負はすべての小児歯科専門医が持つであろう。さらにいうと子供治療に特化しているため、治療スピードも早く、これは障害児の治療では重要である。東北大学の小児歯科にいた時も何度か全身麻酔下での治療を経験したが、1時間くらいで8本の生活歯髄切断と乳歯冠を行う。これはかなり慣れが必要となる。最近、青森県でも障害児に対する歯科治療をする施設ができ、そこには大学から口腔外科の先生が出向するようだが、おそらくは若手の先生が派遣され、抜歯はできるかもしれないが、他の小児歯科治療ができるとは思えない。むしろ岩手医科大学か東北大学から小児歯科の先生を派遣してもらった方が良いだろう。

 ただ小児歯科専門医もなかなか大変で、専門開業をしている友人によれば、ほとんど子供の虫歯がなくなり、来院する患者の7割は虫歯がないし、虫歯のある子供にしても虫歯の軽度である。歯髄処置、乳歯冠などの処置は年に数度くらいしかないと言っていた。昔は来る患者、来る患者、ほとんどの歯が虫歯だった。東北大学では、乳前歯はレジン充填、臼歯部はインレーか乳歯冠だったが、鹿児島大学では、ほぼすべての症例でラバーダムを乳犬歯、第一、第二乳臼歯のかけ、麻酔をして1/4ブロックで治療していた。どんな症例も4回で直すようなシステムで、レジン充填か乳歯冠で処置し、乳前歯はサフォランド塗布で終了だった。もはやこうした大掛かりな治療をする症例はほとんどなくなったのだろう。