2011年5月29日日曜日

2枚の明治4年弘前城下絵図




 今日は、弘前博物館で開催されている「近衛家陽明文庫名宝展」を見に行って来た。弘前と近衛家とは関連が深く、こういった催事も津軽家と近衞家との古くからの関係によるものだろう。因みに山田純三郎が日中和平に動いた時の協力者の中心には近衞文磨首相の長男文隆であったし、山田純三郎と兄良政が入学した東亜同文書院の創設者は近衞文磨の父、篤磨であった。

 帰りに弘前市立観光館を訪れると、ちょうど弘前城築城400年祭記念事業の一環として「絵図と航空写真でたどる城下町弘前の変遷」をやっていた。江戸から明治までの城下絵図と航空写真が展示されていた。こういった絵図は大きなもののため、なかなか実際に見る機会は少なく、個人的には大変うれしかった。

 とりわけ、「明治4年士族在籍引越之際地図並官社学商現在図」が展示されており、偶然とはいえ、こうして実際にみることができて、本当にラッキーであった。ところがカメラを家においてきたため、すぐに家まで帰り、カメラを取りにいった。受付の博物館の人に許可を得て、何枚か写真撮影したが、保存のためビニールの覆いがしてあり、うまく撮影できなかった。

 当日、展示されていた明治4年士族引越之際地図は、弘前市立図書館のものであった。この地図については、弘前市立博物館蔵となっていたり、弘前市立図書館蔵となっていたり、所属がはっきししておらず、以前からどうなっているのか疑問であった。その点を受付にいた係員に聞くと、どうも図書館蔵と博物館蔵の2枚あるとのことであった、初めて聞くことである。

 さらに弘前博物館蔵の地図の写真を博物館の係員が持っていたので、それと展示されている図書館の地図を比較すると、木の描き方が全く違い、両者は全く同じものでないことがはっきりした。全体的な印象としては、軸装されているが書かれている紙が薄い感じがした。明治2年絵図は何枚もの和紙を重ねたかなり重いものであるが、この明治4年地図は紙質自体が薄い。さらに書体は全く違い、作成者も異なるし、全体的には省略や、何と言うか気合いに欠ける。書体もいかにも写しという感じで、時代も明治4年というよりはもう少し後の作成のような気がする。実物は見ていないが、もうひとつの博物館にある明治4年地図の方が力が入っているような印象をもつ。

 つまり最初明治2年絵図が製作され、明治4年までに引っ越した士族の数を調べるために弘前博物館の明治4年が明治2年絵図を元に作られ、それを写したものが今回展示された図書館所蔵の明治4年地図のように思える。地図というのは実用性から作成され、不必要な装飾は必要ないが、今回見た図書館蔵のものは寺などの木を薄墨で表現しようとしているが、稚拙であり、それがかえって写しの証明であろう。

 それでも今回初めて明治4年の城下絵図の現物を見れたことは、大変勉強になった。射撃訓練所など幕末にできた弘前藩の施設は一切記載されておらず、その点でのわずか2年間であるが、この間の違いを明瞭に示す資料であろう。明治2年絵図と明治4年絵図をもっと詳しく比較することで、幕末期から明治初期の町の変遷を調べることができそうである。

 展示されているその他の地図もそうであるが、地図を研究する場合は、確かに現物の雰囲気を知ることは重要ではあるが、細かい比較、重ね合わせをする際にはデジタル化して、コンピュータ上で拡大して比較することが不可欠で、できればすべての絵図はデジタル化してほしいものである。費用は専門業者に頼めば莫大な費用がかかるが、今回私がしたような地元の印刷業者に頼めば、数万円程度であり、博物館、図書館とも財政難であるが、市あるいは弘前大学で多少費用はかかっても是非デジタル化してほしい。最近では多くの古地図がインターネット上で見ることができる。

 写真は品川町の明治2年と明治4年絵図で、明治4年絵図の富田新町のある区画は△印がつき、ほぼ一帯全体が転居しているが、それ以外は割合移動は少ない。また明治4年絵図では警察見張り所や浴室(銭湯)、半鐘の記載が付け加えられている。カラーで見ると、明治2年と4年のわずか2年の違いにしては、両者の雰囲気があまりに違い、単に写しという以上に、明治4年絵図の製作はもう少し時代が新しい感じ、明治10年以降とするのは私だけであろうか。字の違いだけでなく、そこに込められている手間、気合いの差を感じさせる。

2011年5月22日日曜日

「新・弘前人物志」の市販


 このブログでもよく引用している「中学生のための弘前人物志」が再刊され、新たに「新・弘前人物志」として弘前市内の中学生にこの春、無料で配布された。実にうれしいことである。というのは財政上の理由で2004年を最後に発行が中止され、関係者からその発行を熱望されていたからである。たまりかね、2年ほど前には、やまと印刷が会社創立50周年記念事業の一環として発刊し、弘前市に寄付したのは一企業の社会貢献事業としての快挙であった。

 最初に刊行されたのが、昭和57年(1982)で、その後、内容を改訂し、昭和60年(1985)には「続弘前人物志」、さらに平成5年(1993)には「弘前人物志 第3集」が、平成10年(1998)には再び「弘前人物志」として2004年まで発行続けられた。実に22年の歴史がある、ある意味弘前を代表する本といってもよかろう。昭和55年生まれ以下、31歳以下の弘前市民には一応すべて配布されていることになる。ただ実際、中学の授業で取り上げられることは少なく、学校からもらってすぐにどこかにしまいぱなしになっているのであろう。

 内容としては、中学生にはいくぶん難しいが、高校生、大学生、一般向けと考えると、エピソードを中心にまとめられ、評伝などより、よほど人物像を把握しやすく、わかりやすい。千葉寿雄はじめ執筆者が、短く、わかりやすくという編集方針がはっきりしていて、それが冗長にならず、かえって優れた本となっている。私には故千葉先生の語り、想いが本にも反映しているように思える。

 これまで64名の人物が取り上げられ、その選択も山田兄弟が入っていないのは残念だが、幅広い分野から選ばれ、弘前の通史としての性格も含む。そういうことで、この本は、郷土史に興味をもつ、大学生、一般市民以外にも県外の方々にも是非読んでほしいものであるが、教材のため一般書店では一切扱っておらず、買うことはできない。どうしてもほしい場合は、古本屋で探すしかないが、売り切れの場合も多い。

 これまでにも、市販してほしいという要望もあったと聞く。商工会議所青年部でも以前市販しようとしたようだが、教育委員会の壁が厚く、許可されなかったようだ。「新・弘前人物志」の印刷の入札はインターネット上で公開されており、ササヌマ産業という会社が1880部を116万円という安い価格で入札している。300ページを越える本で、一冊600円くらいというのは、ほとんど利益はないであろう。教材としての価格かもしれず、市販する場合はこういった問題もでよう。また版権は市が持っているが、直接企画、執筆したのは教育関係者であり、あくまで教育に使う、市販は許せないし、これまでもその方向でしてきたという意見もあり、民間企業による市販は難しい。ただ「弘前市史」のように市から発行している本もあるので、全く前例がないわけではなく、やろうと思えば、「新・弘前人物志」も弘前観光コンベンション協会などで市販は可能であろう。

 郷土史に興味をもつのは偶然であり、うちの娘も大学のレポート提出で弘前のことを調べる際に興味をもったし、会社の退職後の趣味として郷土史を勉強するひとも多い。芸術家の奈良美智さんは、故郷を離れ、海外で活動するようになり、初めて出身地の歴史、人物に興味を持ったとも語っていた。他にも先祖が弘前出身で、県外、海外にいて弘前のこと、先祖のことを調べているひとも意外に多い。また東京の大学を卒業後、弘前に帰り、勤めたり、起業をしている若者の中にも、新しい観点で地元を愛そう、知ろうという動きもあり、こういった人たちにも「弘前人物志」は推薦できる本である。弘前検定の受験者の数からすれば、こういった人物史に興味がある人の数は多く、割合需要はあると思える。

 さらにインターネット上で情報を公開あるいは電子書籍化することで、カラー写真、地図、動画など複合メディアを連動したものを安価で作ることも可能であろう。また市販することで、インターネット上での露出は増え、検索件数は飛躍的に伸びる。それに伴いこれまで弘前に興味のなかった人々も、この本の存在を知り、読まれることで、弘前への関心も高まる効果があろう。

 是非とも、関係者のご理解をいただき、「新・弘前人物志」の市販を望みます。

2011年5月19日木曜日

余は如何にして矯正歯科医となりし乎



 どうして私が矯正歯科の道に入ったかを話したい。

 歯学部の6年生になると、卒業後の進路を決めなくてはいけない。実家が歯科医院をしており、兄もすでに歯科大学を卒業し、地元歯科医院に勤務医として働いていたため、私はもう少し大学に残って勉強しようと思った。歯学部に入る経緯も、当時新設された大阪大学の人間科学という学部にいき、将来はジャーナリスト、といっても雑誌の記者になりたいなあとは漠然と思っていたが、苦労しそうなので、身近な歯学部を選んだくらいで、どういった歯科医になりたいという望みも全くなかった。ただ東北大学では5年生になると、基礎講座で1年間研究を行うシステムがあり、私は山田正先生のいる生化学を選んだ。そこでは唾液の緩衝能を調べる簡単な研究を行ったが、それでもここで研究の醍醐味を知り、できたらこういった研究を今後もしたいと考えるようになった。

 当時、歯科といえば補綴、保存、口腔外科がメインであり、小児歯科はあまり人気がなく、とくに男子の入局者が少なかった。そのため医局でもだれか男子の学生を入局させよという命令が出たのか、7月ころから小児歯科のS先生から小児歯科に来い、生化学の研究もしているし、いいところだと熱心に口説かれ、早い時期に入局が決まってしまった。ちなみに私の学年では私ともう一人の男子学生と一人の女子学生が入局した。

 幸い、医員というポジションをいただき、日給4000円くらいで、月に10万円くらいもらえることができた。ようやく親の仕送りの世話にならなくなったわけである。当時の教授は神山先生で、まじめでやさしい先生で、1年目は教授自ら臨床の手ほどきを受けた。今と違い、隣接面カリエスの処置はレジン充填ではなく、インレーで処置していたが、乳歯の場合、窩洞形成を深くできないため、脱落が多く、形成が難しかった。すべて自分で技工もしていたので、2年間毎日形成しているうちに、結局はきれいな形成をすることが脱落予防に繋がることがわかり、この時期ずいぶん形成の修練を受けた。また当時は咬合誘導という概念があり、乳歯の早期脱落の場合はクラウンループ、ディスタルシュー、保隙床など今ではほとんどしないような処置を数多くやった。それでも乳歯冠やエンド処置なども含めて小児歯科の処置自体はそれほど難しくはなく、3年間である程度は臨床的には自信がついた。ただ障害者の治療は経験と知識が必要で、これは難しかった。

 3年目になると、マルチブラケット装置による矯正治療を小児歯科で習ったが、矯正科に隠れてこっそりやるようで居心地が悪かった。同級生とモイヤースの教科書を用いて矯正歯科の勉強会を行ったりもした。咬合誘導というのは、日大の深田先生を提唱した概念で、本来の子供の成長から逸脱した方向性を正し、きれいなかみ合せを作るというもので、先に述べた保隙という概念がメインであった。すなわち下の前歯がでこぼこしている場合は、乳犬歯を削り(ディスキング)し、リンガルアーチという装置を保隙として用いて、リーウェースペース(乳臼歯と永久歯の大きさの差)を利用して並べる。あるいは乳歯が早く抜けた場合はその隙間を確保するというものであった。永久歯が完成した時点でマルチブラケット装置による治療で仕上げるが、よほどのことがなければ永久歯の抜歯をすることは禁忌であった。一方で、歯の保存を唱えながら、健全な永久歯を抜くという発想は小児歯科ではできないことであった。今の非抜歯治療を行う先生方も同様な感覚であろう。

 これでは不正咬合のうちの一部しか治療できなのは自分ではよくわかっていたし、不満であった。その後、幸地先生の合同外来、これは矯正科、小児歯科、口腔外科がチームとなって口蓋裂の子供の治療を行うところであるが、ここに2か月くらい行き、幸地先生から矯正臨床の基礎を学ばさせてもらった。ここでは当たり前だが、抜歯も普通にやっているし、マルチブラケット装置も特別なものではなかった。ここでの体験から矯正治療に強く引かれた。

 4年目を迎える際には、医員の枠が全体的にしぼられるため、助手になるか、やめるかの決断をしなくてはならず、私自身、小児歯科の臨床は大体習得したと思っていたので、この際だから矯正歯科で本格的に学び直そうと考えた。同じ大学で、科を変えることは難しく、そこで幸地先生に相談したところ、前の東北大学矯正科の助教授で、鹿児島大学に赴任した伊藤学而先生に頼んでみるとのことであった。その際、助手に採用してくれないかと無謀な条件を出した。幸い、伊藤先生から、その条件ですぐに来いという返事をいただき、年末に鹿児島に赴いたところ、すぐに助手の手続きをしていただき、4月から採用となった。こうして小児歯科から矯正歯科に進路を変えた。

2011年5月15日日曜日

佐々木五三郎3


 工藤睦男先生の論文「佐々木五三郎と東北育児院」はインターネットでも見れるが、佐々木五三郎についてのすばらしい研究である。その中で、明治38年、収容孤児の増加に伴い、新寺町円明寺裏の600坪の桑畑に新たな建物を建てた際の詳細が載せられている。その費用は500円という。

 明治31年の大卒の初任給が35円、明治10年の白米10kgの値段が51銭、明治26年の天丼の値段が3銭であった。今の大卒初任給は20万円、白米10kgの値段は3000円、天丼が1000円くらいとすれば、5700倍、5800倍、3300倍くらいとなる。明治30年ころの1円は今の6000円くらいに相当する。

 これから換算すると、明治38年に移転した新しい育児所の費用は500円で今の価値からすれば約300万円となる。今と違い家の建設費は物価と比較してもかなり安かった。ただ同時期、メソジスト派の弘前宣教師館の建設費が3000円、1800万円相当と比較しても、決して贅沢なものではなく、安普請の建物であったろう。また弘前の大口寄付者には10円が6名、5円が34名となっているが、今の物価に換算するとそれぞれ6万円、3万円となり、大口と呼ばれるほどの額ではない。例えば石井十次の岡山孤児院に大原孫三郎が注ぎ込んだ寄付の総額は一人で10万円以上、今の貨幣価値で6億円以上とされ、孤児院の規模が全く違うが、石井十次は大原らによる大口の寄付により院の経営が成り立っていたが、佐々木五三郎はそれこそ今の価値で60円(一銭)、多くて6万円くらいの少額の寄付金により運営していたことがわかる。

 工藤先生は、5円以上の大口寄付者の顔ぶれは、当時の弘前の著名は知識人、財界人であったとしており、確かにそうではあるが、それにしてもその中には相当資産家もいて、寄付額としては全力で支援したとは言えまい。大原孫三郎のようにパトロンというよりは、一市民として五三郎の善意に感動してあくまで自分のポケットマネーから寄付したようだ。また石井十次は熱心なキリスト教徒で、孤児院開設当時から信者あるいは教団からの支援を受けていたが、五三郎は東奥義塾で多少はキリスト教の影響を受けたにしろ、あれだけプロテスタンの盛んであった弘前で、特に信者や教団からの支援は目立たない。インテリ階層、士族の多かった信徒からは、五三郎のなりふり構わない寄付を集めるやり方に抵抗があったのかもしれない。キリスト教徒や旧士族からすれば、年端もいかない孤児にへんてこな衣装を着せ、遠くまで押し売りまがいの行商をやらせることに反発したのであろう。

 石井十次は、岡山の四聖人、児童福祉の父と呼ばれ、また石井十次顕彰会による石井十次賞というものもあり、死後も名声に包まれた。数多くの本も出版され、映画化もされているが、一方、佐々木五三郎は、東北で最初に、それも貧乏県青森県において孤児院を開設したにも関わらず、地元弘前でもほとんど知られていない。ある意味、信仰をもつひとは、特にキリスト教ではその教えより慈善事業へ駆りたたえることはあるし、事実日本の明治期、大正期の児童福祉事業はほとんどそうであった。弘前でもキリスト教会による孤児院を作る試みはあり、大正3年にはチフス流行により親を失った孤児を収容する「健康園」を開設したが、わずか3か月で閉鎖された。五三郎の事業は、日本でも唯一そういった宗教心とは無関係の、個人の純粋な善意、義侠心により起こったもので、決してかっこいいものではないが、ひとつの日本人の美徳の現れであろう。さらに息子がいるにも関わらず、施設で預かった太田寅次郎を娘婿にし、軌道に載った育児所の経営を任せたことは、石井十次の「与は孤児の友なり、盲啞の友なり、病者の友なり、寡婦の友なり、囚人の友なり」の信念よりさらに進んだ「孤児は与の子供なり」の深い愛を感じさせる。

 当時の弘前の人々の反応はどうかというと、変わり者のおっさんというイメージが強く、とても佐々木先生、先生と呼ばれるような尊敬される対象ではなく、あくまで「孤児院のオドさ(おとうさん)」、「親方」と気安い存在で親しまれていた。津軽はむずかしいところで、こういった善行も市民が諸手を挙げて支援するわけではなかったが、それでも心あるやさしい市民はわずかな収入から寄付をよせた。ついに生涯顕彰されることもなく、死後も大きな評価をされていないが、本人はそういった名声には無関心で、純粋に孤児を救えたことで本望であっただろう。その座右銘は「子は神なり。之を愛するは人の道なり」であった。佐々木五三郎が作った弘前愛成園は、来年110年を迎える。

 写真は石井十次の岡山孤児院。大規模である。佐々木五三郎は孤児院という名称を嫌い、育児所という名称を使った。

2011年5月11日水曜日

佐々木五三郎2


 津軽では何か物事を始めようとすると、「それじゃ、誰かバカになってもらおうか」と言われる。バカが一人いないと物事が始まらない。みんなで一緒というよりは、仕事、家庭も顧みず、一生懸命邁進する人物がいて、それに圧倒されてみんながついて行くというやり方である。

 そういった意味では、佐々木五三郎は典型的な津軽のバカである。小さな薬屋を経営するだけでけっして裕福ではないし、子だくさんにも関わらず、いきなり孤児院を開設するのである。自分の生活を考えると、とてもやれるものではないが、一旦やろうと思うとめげない。ある日、いきなり孤児を家に連れてきて、今日から子供がひとり増えた、一緒に暮らすことになった。ここまでは奥さんは相当困惑するだろうが、何とかぎりぎり理解できるかもしれない。すると今度は店先に「院児希望者来来 当方只今壱人在 赤格子育児院長 佐々木五三郎拝」と書いた広告文を貼り出す。次々に孤児がやってきて、それを引き受ける。拒むことはないのであっという間に10人近い子供で家がいっぱいになる。とてもじゃないが、小さな薬屋では食わせるものがない。

 みかん箱に立ち、「血も涙もある、弘前市民よ  度重なる飢饉のため、心はあれど、背に腹は替えられず、親に捨てられし幾十名の子供らが、あわれ餓死に迫られるこの現実は」と叫び、人がいても必ず最後は「誰(だ)も、いねぇでば」と独り言で笑いをさそった後、鐘を鳴らして小銭を投げ込まれるのを待つ。市民には人気があり、子供たちも「孤児院のオドさ 巨(で)ったらだ下駄コ履いで 鐘(かねこ)持って ガランガラン」とはやし立てる。こういった演説を毎日のように市内各所で行うのであるから、決して上等なひととは思われず、ちょっと変わり者といった評価が一般的であったろう。また年端のいかない子供に遠方まで押し売りまがいの行商をさせ、一部のひとからはヒンシュクを買った。それでも金がなければ孤児院の運営ができず、その日の食費がないため、必死である。「オドさの話コ 妙にむずかしきゃ。あんまる、ソキバらねえほうがいいごゼ」と中年のおばさんに冷やかされると、「喋べ事ズもの、むずかしばむずかしいはんど、ご利益があるように聞こえるんだねナ これがヨ、奇体に」と平然と答える。こうして集めた一銭、二銭の小銭が育児所の運営資金であった。また施設の裏で、ぶたやにわとりを飼い、それも資金源にしていたが、その餌を買う金がなく、あちこちから残飯をもらい、子供たちに集めさせた(じねんじょ一代 小説佐々木五三郎 有村智賀志著)。

 それでもこういった行為に、支援する人々も少しずつ増え、映画上映器材を買うことができた。最初は県内各地に巡回興行をしていたが、そのうち常設の映画館の建設を思いつき、有志の寄付によって建てられたのが、慈善館である。大正3年ことである。これによって財政的には潤ってきた。ようやくである。石井十次の岡山孤児院も財政的にはきつかったであろうが、大原財閥の支援を受け、石井本人が金策のため、一銭、二銭を集めることはなかったであろうし、そこまでしようとは思わなかったであろう。むしろ支援者、後援者を集める方に集中したであろうし、その方が効率的である。慈善事業をするひとの目的は、名を買う事である。自分がいいことをしているのを、人に褒められ、尊敬されるのを心のどこかで期待している。決して人からばかにされたり、時には嘲笑されながら慈善事業を行うようなことしない。だが五三郎はそんな名声には全く無頓着で、単純に孤児を食わせ、育て、教育させることが一番と考え、金になることは何でもやった。それが五三郎の愛であった。

 その後、東北育児所初期に入所した佐々木寅次郎を婿養子にし、慈善館の事業を任せた。寅次郎はいつもニコニコした温厚な人物で、長年に渡り、東北育児所の経営とともに、青少年の健全育成に力を注いだ。現在では五三郎の育児所は弘前愛成園として児童養護施設、養護老人ホーム、保育所や病院も含む大きなものに発展している。

2011年5月8日日曜日

佐々木五三郎 1



 佐々木五三郎というひとを知る人は、地元弘前を除いて少ない。是非とも紹介すべき人物であるが、これまで取り上げなかった。その人物像が破天荒で、なかなか掴みきれないのが実情であるし、いわゆる偉人という範疇には入りきれない人物であるからだ。一方、彼ほど津軽らしさを体現した人物はなく、その生涯をかけた児童福祉活動でも誤解を招くようなことが数多くあった。

 佐々木五三郎は、慶應4年年6月に佐々木新蔵の三男として弘前市紙漉町に生まれた。父新蔵は製紙、製糸業、製陶業を営む実業家で、多くの職人を雇い、幅広い事業を行っていた。もともと佐々木家は医業を生業にしていた家であり、五三郎の兄長男の元俊は、幕末蘭学を江戸で治め、津軽ではじめて種痘を実施したほか、化学など西洋の学問をいち早く津軽に伝えた人物で、その功績は大きい。また五三郎の弟五男の精三は兄元俊と同じく、蘭学を学び、西洋式帆船を弘前藩として初めて製作したほか、石炭によるタール製造なども行った。ちなみに新聞日本を創刊した陸羯南(旧姓中田実)は、親類筋にあたる。父佐々木秀庵は7人兄弟であったが、その長男で藩医の佐々木元龍の三男中田謙斎の子が陸羯南となる。他にも親類には医者が多く、佐々木家は医者一家と言えよう。

 母は五三郎を産むと数日で死去し、その後、母の実家である成田家の養子となった。不幸はさらに続き、7歳の頃に父新蔵が亡くなると、実家の事業は急速に傾いた。水車小屋で働きながら明治17年に東奥義塾を卒業した。その後、精米業をやっていたが、26歳の頃に兄の死により実家の佐々木家を継ぐことになり、佐々木姓に復名し、「赤格子」という屋号の薬種商をやることになった。この薬種商は叔父の事業失敗のせいで一旦は人手に渡るも、懸命な努力の末、取り戻した。33歳のころである。通常はここで、自分の事業の発展、継続を願うのであるが、ここからが五三郎の真骨頂である。ちなみに五三郎の生年は中国革命に協力した山田良政と同じで、東奥義塾では同窓であった可能性もある。

 明治35年、冷害のよる大凶作が東北地方を襲った。この大凶作による青森県の被害は大きく、上北郡ではほとんど米は採れず、貧窮した児童は食を求めて町を徘徊していたようで、この状況をみて、五三郎は社会的な緊急の救済処置が必要と感じ、それをすぐに実践し、ここに東北でもおそらく初めての育児院が誕生した。

 親のない子供を育てる児童養護施設の日本での嚆矢は、岡山孤児院を設立した石井十次であり、明治20年に岡山孤児院を設立した。石井は孤児院の経営のため孤児の青年9名による音楽隊を組み、各地を回り、同時に講演会を行い、明治33年には弘前にやってきた。この講演会を聞き、感銘したのが五三郎であった。実際はこの講演を聞く前から、母親が行方不明で祖母に育てられていた子供を祖母の死後預かっていたようだが、その後、石井の講演を聞いたことをきっかけに、また遊女屋の飯炊きをしていた女から太田寅次郎を預かることになったことから、明治35年11月の東北育児院を開設した。といっても意気は高いが、まったくの無鉄砲な思いつきで、自宅を育児院として開設したが、それでなくても貧しい家で、家計は火の車であった。次第に収容する子供は増え、3年後には20名の子供を預かるようになった。

 国や市からの援助は全くなかったため、孤児の生活のために、五三郎は子供たちに石けんやマッチ、ろうそくなどの実用品を売りに行商させ、生活費を稼がせた。大きな籠には「東北育児院」と黒字の布に白地で書かれ、家を訪問しては「拝 ご機嫌よろしゅう ハイ、ゴキギョウ」と挨拶してから家に入り、立ち去るときには「復 ありがとうございました マンダ、アリガトウゴシタ」と言わせた。こういった行いは、生活費の稼ぎのためとはいえ、子供に押し売りまがいのことはさせると一部の人からはヒンシュクをかったが、五三郎はそんなことには全く無頓着であった。何しろ、物が売れなければ食べる物がない貧乏で、子供たちからは親方と呼ばれていた。それでも篤志家もいて、それらの人々の寄付により待望の育児院の建物は建ったが、依然として生活は苦しく、その頃のエピソードに「高杉なんかまで子供らにちり紙やマッチを持たせて売らせる。ところがある日、何も商いがないので家に帰っても食う物がない。そしたらちょうど道端に松の木の下に台石があった。「ちょっと小便するからお前たちは一足先に帰れ」と言ってその辺を探したら、縄きれがあったので、それを松の木に下げて首かかりをしようと思った。そうしたらちょうど下に犬の骨カラがあった。「さてもさても、我もこうなるんだベガナ」」と思ったら、子供たちが不憫になって目がさめた」というものがある。

 明治期の孤児院の多くは、キリスト教会に関連していたもので、信者らの寄付や教会本部の支援もあったが、五三郎のそれは、まったくの私人によるもので、なおかつ五四郎自身も貧乏であったので大変であった。金銭的に豊かな人が、こういった活動を行うことはわかるが、自分自身が貧乏なのに情熱だけでこういった活動をするところがすごいし、いかにも津軽人らしい。ことに妻たかの援助が大きい。
 

2011年5月1日日曜日

ロイヤルウェディング




 昨日、イギリスのウイリアム王子とケイトさんの華麗な結婚式が行われました。二人の美しい笑顔は、最近の暗い世相を癒してくれます。

 ウイリアム王子とヘンリー王子は、共に子供のころに矯正治療を受けています。おそらく母親のダイアナ妃の勧めによるものでしょう。ウイリアム王子は、14歳ころから通常の歯の外側からつける矯正治療を始め、2年間治療して16歳ころに終了したようです。驚くことはその後、10年後に撮られた写真(2番目、3番目の写真は弟のヘンリー王子)でも、まだ下の前歯の裏側に固定式の保定装置を入れていることです。拡大してみてください。海外の報道では、10年以上矯正治療を続けているとされていますが、これは保定装置といい、矯正治療後の後戻りを防ぐためのものです。ウイリアム王子がつけているタイプは犬歯—犬歯間固定装置と呼ばれるもので、犬歯の部分が金属製の平坦なパッドになっていて、前歯は中から太いワイヤーが歯に当たるようになっています。長さが色々ある既成のものの中から、患者に合った長さのものを選び、装着します。このタイプの保定装置は後戻りをおこしやすいので、最近では細い針金を犬歯から犬歯も6本の歯に直接くっつける方法が一般的で、ウイリアム王子の場合でも下の左犬歯と隣の側切歯に後戻りが起こっています。また笑顔の写真を見ると歯を抜かない非抜歯の治療を受けていますが、歯列の幅が狭く、奥さんのケイトさんの方がはるかにグッドスマイルです。それでも保定装置を治療終了後もずっと続けている点は、王子な真面目な性格が見て取れます。

 一方、ケイトさんは、子供のころ、12歳くらいの時に通常のブラケットをつけて矯正治療をしたようです。ところが後戻りがあり、上の前歯2本に段差がでてきたため、最近、セレブ御用達の矯正歯科医のFillion先生のところで歯の裏側に装置をつける舌側矯正による治療を受け、結婚式前にもここでホワイトニングの治療を受けたようです。このFillion先生はパリとジェノバ、ロンドンに診療所があり、自分が開発した3Dブラケットによる症例ごとのオーダシステムを韓国に注文して治療しているようです(Orapix システム)。Fillion先生は日本にもよく講習会に来る先生で、多くの矯正専門医がそのコースを受講していますが(私は受けていません)、こんなに有名なセレブ御用達な先生とは知りませんでした。今回の騒ぎで、有名になってしまいました。

 それでは日本のロイヤルファミリーはどうかと言うと、紀子様は子供のころ矯正治療を受けていますし、他の皇室関係者の中にも受けている方はいます。どこでするかというと、これも大体決まっていて、皇室は東京大学系ですが、東京大学医学部には矯正科はないので、東京医科歯科大学で治療を受けます。SP付きで教授が担当するようです。ただ紀子様は皇室に入る前に治療受けたようで、確か日本歯科大学で矯正治療を受けたと思います。雅子様はどうして矯正治療しないんだと、昔新潟大学の教授が言っていました。お父様が外交官で、海外生活が長い、国際人であるのにどうして矯正治療しなかったのかとは思いますが、逆に転勤が多く、治療する時間がなかったのでしょう。あの手の不正咬合は叢生と呼ばれるもので、おそらく抜歯ケースになると思いますが、比較的簡単な治療で治ります。今からでも年齢的には治療には全く問題はありません。