2011年5月8日日曜日

佐々木五三郎 1



 佐々木五三郎というひとを知る人は、地元弘前を除いて少ない。是非とも紹介すべき人物であるが、これまで取り上げなかった。その人物像が破天荒で、なかなか掴みきれないのが実情であるし、いわゆる偉人という範疇には入りきれない人物であるからだ。一方、彼ほど津軽らしさを体現した人物はなく、その生涯をかけた児童福祉活動でも誤解を招くようなことが数多くあった。

 佐々木五三郎は、慶應4年年6月に佐々木新蔵の三男として弘前市紙漉町に生まれた。父新蔵は製紙、製糸業、製陶業を営む実業家で、多くの職人を雇い、幅広い事業を行っていた。もともと佐々木家は医業を生業にしていた家であり、五三郎の兄長男の元俊は、幕末蘭学を江戸で治め、津軽ではじめて種痘を実施したほか、化学など西洋の学問をいち早く津軽に伝えた人物で、その功績は大きい。また五三郎の弟五男の精三は兄元俊と同じく、蘭学を学び、西洋式帆船を弘前藩として初めて製作したほか、石炭によるタール製造なども行った。ちなみに新聞日本を創刊した陸羯南(旧姓中田実)は、親類筋にあたる。父佐々木秀庵は7人兄弟であったが、その長男で藩医の佐々木元龍の三男中田謙斎の子が陸羯南となる。他にも親類には医者が多く、佐々木家は医者一家と言えよう。

 母は五三郎を産むと数日で死去し、その後、母の実家である成田家の養子となった。不幸はさらに続き、7歳の頃に父新蔵が亡くなると、実家の事業は急速に傾いた。水車小屋で働きながら明治17年に東奥義塾を卒業した。その後、精米業をやっていたが、26歳の頃に兄の死により実家の佐々木家を継ぐことになり、佐々木姓に復名し、「赤格子」という屋号の薬種商をやることになった。この薬種商は叔父の事業失敗のせいで一旦は人手に渡るも、懸命な努力の末、取り戻した。33歳のころである。通常はここで、自分の事業の発展、継続を願うのであるが、ここからが五三郎の真骨頂である。ちなみに五三郎の生年は中国革命に協力した山田良政と同じで、東奥義塾では同窓であった可能性もある。

 明治35年、冷害のよる大凶作が東北地方を襲った。この大凶作による青森県の被害は大きく、上北郡ではほとんど米は採れず、貧窮した児童は食を求めて町を徘徊していたようで、この状況をみて、五三郎は社会的な緊急の救済処置が必要と感じ、それをすぐに実践し、ここに東北でもおそらく初めての育児院が誕生した。

 親のない子供を育てる児童養護施設の日本での嚆矢は、岡山孤児院を設立した石井十次であり、明治20年に岡山孤児院を設立した。石井は孤児院の経営のため孤児の青年9名による音楽隊を組み、各地を回り、同時に講演会を行い、明治33年には弘前にやってきた。この講演会を聞き、感銘したのが五三郎であった。実際はこの講演を聞く前から、母親が行方不明で祖母に育てられていた子供を祖母の死後預かっていたようだが、その後、石井の講演を聞いたことをきっかけに、また遊女屋の飯炊きをしていた女から太田寅次郎を預かることになったことから、明治35年11月の東北育児院を開設した。といっても意気は高いが、まったくの無鉄砲な思いつきで、自宅を育児院として開設したが、それでなくても貧しい家で、家計は火の車であった。次第に収容する子供は増え、3年後には20名の子供を預かるようになった。

 国や市からの援助は全くなかったため、孤児の生活のために、五三郎は子供たちに石けんやマッチ、ろうそくなどの実用品を売りに行商させ、生活費を稼がせた。大きな籠には「東北育児院」と黒字の布に白地で書かれ、家を訪問しては「拝 ご機嫌よろしゅう ハイ、ゴキギョウ」と挨拶してから家に入り、立ち去るときには「復 ありがとうございました マンダ、アリガトウゴシタ」と言わせた。こういった行いは、生活費の稼ぎのためとはいえ、子供に押し売りまがいのことはさせると一部の人からはヒンシュクをかったが、五三郎はそんなことには全く無頓着であった。何しろ、物が売れなければ食べる物がない貧乏で、子供たちからは親方と呼ばれていた。それでも篤志家もいて、それらの人々の寄付により待望の育児院の建物は建ったが、依然として生活は苦しく、その頃のエピソードに「高杉なんかまで子供らにちり紙やマッチを持たせて売らせる。ところがある日、何も商いがないので家に帰っても食う物がない。そしたらちょうど道端に松の木の下に台石があった。「ちょっと小便するからお前たちは一足先に帰れ」と言ってその辺を探したら、縄きれがあったので、それを松の木に下げて首かかりをしようと思った。そうしたらちょうど下に犬の骨カラがあった。「さてもさても、我もこうなるんだベガナ」」と思ったら、子供たちが不憫になって目がさめた」というものがある。

 明治期の孤児院の多くは、キリスト教会に関連していたもので、信者らの寄付や教会本部の支援もあったが、五三郎のそれは、まったくの私人によるもので、なおかつ五四郎自身も貧乏であったので大変であった。金銭的に豊かな人が、こういった活動を行うことはわかるが、自分自身が貧乏なのに情熱だけでこういった活動をするところがすごいし、いかにも津軽人らしい。ことに妻たかの援助が大きい。
 

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