2010年12月30日木曜日

若党町の士族の変遷




 明治2年地図と4年地図(士族引越之際図)は、内容は基本的にはほぼ同じであるが、若干記載事項は違い、2年地図に比べて4年地図では弘前城内施設や本丸御殿についての省略が多く、当然であるが鉄砲射撃場や米配給所など明治2、3年になくなった施設も記載されていない。一方、4年地図には2年地図にはなかった郵便局、魚市場や銭湯、町家についての記載があり、維新後の新たな施設が追加されている。4年地図が作られた、そもそもの理由は、おそらく廃藩置県後の士族の転居状態を正確に把握するためのものと思われ、「士族引越之際図」とされている通り、帰田法で郊外に転住し、引越した家については△印をつけて示している。そのため△印の数を数えることで明治2年から4年に引越した士族数を、文面ではなく、地図上で確認することができる。ただ印刷が不鮮明で、△印がついているか判別できないこともあるため、数値には幾分間違いがあるかもしれないがご了承いただきたい。

 弘前城北の若党町の一画を見てみる。この一画には明治2年当時、26軒の名が見えるが、明治4年地図ではすでに古川源左衛門の名前がなく、違う名前になっている。さらに26軒中、△印のない家は小田桐友平、横嶋彦八、工藤勝之丞、小館仙之助、梨田左源司、今井善作、今常左衛門、芹川得一の8人を数えるだけで、残りの17軒には△印、すなわち引っ越したことになる。26軒中、じつに18軒、69.2%がこの期間に引っ越した。若党町には禄高200から300石の中級武士が住んでいたが、明治維新により先祖代々の家屋敷を手放し、結局ここに戻ることはなかった。明治4年の帰田法、これは職をなくした士族に郊外の土地を与え、そこで自活させようとした政策だが、中級以上の士族に積極的に実施させた結果かもしれない。さらに65年たった昭和10年の「弘前市案内圖」(弘前市立図書館蔵)の若党町の同じところを見ると、住民は大幅に入れ替わり、明治4年にかろうじて留まった8軒のうち、昭和10年当時で存在するのは今井家と芹川家の2軒だけとなっており、空地も依然として多い。明治初期の士族の大量移住を何とかくぐり抜けても、その後の生活がきびしく、次々と故郷を離れたのであろう。

 ちなみに瓦ヶ町や、若党町の隣の春日町のような下級武士の住むところでは、これほど転居率は高くはない。中級以上武士では、中間や小者などの奉公人も多いため、明治維新による家禄の削減、停止は家の財政的な維持を不可能にしたであろうし、また藩での立場上、帰田法に従わざるを得なかった。帰田法自体、当初想定したほど地主からの土地提供がなく、実際の士族への田地支給に当たっては、家禄に応じての優先順位のようなものがあったかもしれない。

写真は上から明治2年、明治4年、昭和10年の地図の中から、若党町西側の一区画を示す。

2010年12月24日金曜日

佐藤弥六



 佐藤弥六(1842-1923)は、長男清明(農商務省馬政局長)、二男蜜蔵(大阪毎日新聞経済部長、「エコノミスト」)の父親というより三男洽六(ペンネーム紅緑、小説家、俳人)の父として有名で、佐藤ハチロウ、愛子の祖父となる。この人のエピソードは非常に面白く、明治期では弘前の文化的な先導者であったと同時に名物男でもあった。

 弥六は佐藤平兵衞と初代とする佐藤家の10代目に当たり、祖父新蔵は代官町に住み、表右筆や大間越町奉行などを務めた。幼児から秀才の誉れ高く、藩校の稽古館に学んだ後、選ばれて海軍術修行のため江戸に上った。弘前に帰ってからはオランダ語の本でナポレオン戦史を講義したが、これが弘前藩最初の西洋史の講義であった。その後、再び福沢諭吉の塾にて英学を学んだが、もっとも古い門下生のひとりとして福沢に愛され、慶応義塾の会計係などをしていた。しかし郷里の兄綱五郎の突然の死によって明治維新後に勉学の途中で帰郷し、兄の妻しなと結婚した。亡くなった兄の子、清明と操和を育てるため、士族の籍をおりて商人となり、親方町に唐物屋(和洋雑貨)を開いた。そのかたわら英学を教えたり、郷土史を執筆したりした。この頃のエピソードとして店先であれこれ商品を選ぶ客がいると「お前ばかり選ぶと、あとの客は困る。選ばずさっさと買ったらいいだろう」などと平気で客を叱りつけたという。頑固一徹で正義心の強い弥六は、生活に困る士族のために養蚕を導入したり、ぶとう、リンゴの栽培にも率先して実行した。明治22年には推されて青森県会議員に選ばれ、同時に恩師である福沢諭吉を通じてオランダ公使を打電されたが、老母の孝養のためにこれを断った。県会議員をやめた後は一切の公職に就くことなく、貧困のまま大正12年に亡くなった。

 佐藤紅緑は、弥六の二男として明治7年7月に弘前市親方町28番地で生まれた。一家はほどなく元大工町33番地に引っ越した。母しなは妹操美を生んで間もなく亡くなったので、紅緑は生みの母の愛情を受けることなく、主として面倒をみたのは、姉の操和と祖母であった。紅緑の子供のころのわんぱくぶりは、佐藤愛子著「血族」に描かれる佐藤ハチロウを上回るほどひどかった。

 ここで佐藤弥六の住所について考える。慶応義塾に行っていたのは義塾となる前、明治元年前のことと思われ、英学塾となった1863年から1867年の間くらいであろう。兄の死によって、維新後に弘前に帰郷したのであろう。佐藤紅緑の生まれた親方町28番地は弥六の開業した唐物屋の番地で同じであることから、この親方町の家は住居兼商店であった。その後、元大工町に移るが、その住所は32番地とも33番地とも言われ、はっきりしない。大正4年に発行された弥六の本の奥付の住所は茂森町33番地となっており、元大工町からこの頃には引っ越したようだ。
また祖父新蔵の家が代官町の土手町近く、代官町9番地あたりとされるので、家の所在地は先祖とあまり変わらないと推測し、明治2年地図で周囲を探したが、佐藤姓はあるが一致するものはいない。商人になって親方町に住んだとすると、明治2年地図は士族のみ記載されているため、わからない。

 それでも諦めず、さらに数日かけ、地図をくまなく調べたところ、何と上袋町に佐藤弥六の名が見える。少なくと、江戸から帰省し、親方町で商売をする前、明治2年10月には弥六は上袋町にいたことがわかる。

 明治2年というと東奥義塾の創立者の菊池九郎が藩主に従って上京し、慶応義塾に入塾する年である。当時の慶応義塾は英語を学ぼうとする希望者が多かったにも関わらず、菊池九郎を含むわずが3名のみが入塾を許された。おそらく佐藤弥六の働きがけもあったと思われるし、東奥義塾に開設においても慶應義塾から数名の先生が派遣されたが、弥六が陰で尽力した可能性もある。

 弥六のすごいところというか、へそ曲がりなところは、明治維新前は蘭学、英学という当時の最先端の知識を持ちながら、維新後は商店を始めたり、リンゴ栽培を行ったり、本は何冊か書いたが、藩史、地方史、あるいはリンゴの種類や仕立て法を書いた「林檎図解」など、それまで学んだものとは関係ない著作をした。その才能を地方に眠らせるのはおしいと福沢諭吉がオランダ公使という大きなポストを用意してくれても、固辞する。こういった天の邪鬼な性格は息子紅緑、孫のハチロウ、愛子にも連綿と繋がっているように思える。

 *地図では上袋町の真ん中当たりに佐藤弥六となっているのがわかるであろうか。また五十石町の右から4軒目に明石永吉の名があるが、日本商工会議所初代会頭藤田謙一の実家である。

2010年12月19日日曜日

ノルウェーの森


 ノルウェーの森、見てきました。最近は映画館に行くことも少なくなり、前回「崖の上のポニョ」をたった一人の観客として見て以来です(映画館には私以外誰ひとりもいませんでした)。

 目的は、我が母校、六甲学院がロケーションに使われたと聞いたからですが、わずか10秒くらい映像だけでした。がっかりです。村上春樹さんの作品は好きで、ほとんどの作品は読んでいますし、「ノルウェーの森」も好きで二度ほど読んでいます。村上さんの作品は映画化が難しく、本作品も作者自身なかなか許可しなかったようです。

 舞台は1960年後半から1970年代で、私もかろうじてこの時代の雰囲気は知っています。まず、映画の服装に違和感があります。時代考証をきちんとしているようですが、あまりにも服が新品ばかりで、貧乏学生にしてはきれいすぎます。当時の貧乏学生はほとんど着た切り雀で、服装には無頓着です。きれいな映画ということで、しょうがない面もありますが、最後まで奇妙な感じがつきまといます。

 また主人公の二人、松山ケンイチは体がもろ体育会系で、それでいて田舎ぽく、とても文学青年には見えませんし、菊池凛子も20歳になりたくない少女というより、魔女めいた場末のホステスの方が似合っている感じです。むしろ準主役の水原希子の方がちょっと小生意気で、つっぱった感じで、いい雰囲気でした。映画は内容のさることながら、主演女優、男優で映画の価値はだいぶ変わってきますが、特に今回は菊池凛子さんがミスキャストと思えます。

 映像的には確かにきれいで、ヘリコプターを使って風を作ったシーンは髪の毛が乱れて本当に美しい表情が撮れましたし、また草原を二人で早歩きしながら語るシーンは長いレールを使ったワンショットのいい映像です。

 木曜日の午前中だったせいでしょうか、映画館には50,60歳のおばさまが10名ほどいました。私も含めて、中年というよりはむしろ老年にさしかかった年代です。ただよく考えると、この人たちも1968年ごろというとちょうど20歳くらいで、今見ている映画の主人公や登場人物とぴったり年齢は重なります。何だか、あのおばさん達も40年前はあんな格好をして、あんな会話をしていたと思うと、不思議な感じがします。若い世代からすれば、自分たちの親あるいはじいさん、ばあさんがビートルズ世代で長髪、ベルボトム、ピース、フリーセックスなど文化の洗礼を受けているとは想像もできないでしょうが、事実です。私の親、祖父、祖母の世代は明治、大正で、圧倒的な世代差がありました。戦争の話をされても実感としては全く想像もできませんし、テレビどころか電気もなかったという話はまるで江戸時代くらい離れた感じです。それに比べて今の50,60歳代と10歳代の世代差は非常に小さいと思います。むしろ同世代間の差の方が大きいかもしれません。若いひとでも、ロックやコンピューターについて全く知らないひとも結構います。そういった意味では今はジェネレーションギャップより個人差の方が大きくなった時代なのでしょう。

 「ノルウェーの森」を映画化する際、時代性を無視する、舞台を現代にするのか、あるいは小説に忠実に、1968年ころにするのか、迷ったと思います。最終的には小説に忠実にしましたが、却って村上さんの現代性がなくなったように思えます。小説自体、著者の実体験がかなり含まれていますが、それを時代も含めて映像化すると内容がぼけてしまった感があります。むしろ何時代がわからない方がよかったし、うがった考えをすれば、この映画の服装の違和感はそれを狙ってわざと変な格好をさせたかもしれません。もともとこの小説の発表当時から、こんな女の子にもてて、すぐに寝るようなことはありえない、ただの若者の妄想であると言われていました。それを映像にするとますますリアル感がありません。三島由紀夫の「午後の曳航」の映画化は舞台を外国にしましたが、ノルウェーの森の舞台も海外、時代も現代にした方がより主題がはっきりしたかもしれません。

2010年12月16日木曜日

矯正歯科医院の継承



 一般歯科医院の継承についてはそれほど考える必要がなく、うちの場合も兄とわたしの二人が歯科医になったが、どちらも親の歯科医院を継ぐことなく、全く別のところで開業しているし、それで特に大きな問題はない。ところが矯正歯科では一人の患者さんの治療には最低で2年間、長いと10年以上になること、費用が請負制度であることなどから、治療の途中で診療所がなくなってしまうと患者さんにとって大変迷惑をかけるため、早くから医院の継承について検討しておかないといけない。日本臨床矯正医会でもそういった問題がよく議論される。

 継承の方法としては、医院の閉鎖と医院を誰かの継承する方法がある。医院の閉鎖はかなり長期の計画が必要で、私の尊敬するある年配の矯正医は、子供の患者は見ても最後まで見られない可能性があるため、治療をお願いしますと来ても取らないようにしている。また別の先生は70歳で引退したが、引退前の5年間は一切新患を取らないで、ほとんど収入のない状態で今いる患者だけを治療していた。どうしても医院を急に閉鎖する場合は、患者さんへの費用の返却と転医先を決めなくてはいけない。これは転居に伴う転医と全く同じやり方で、これをすべての患者にするのは大変難しく、例えば費用の点だけでも、すべての患者に治療の進行に沿った費用の返却をするとなると、年の売り上げの1.5〜2倍の費用を要する。それ以上に問題なのは、患者さんからすれば違うところには通いたくはないわけで、こういった転医にはかなり不満が噴出する。さらには近所に信頼がおける矯正医がいればよいが、遠方にしかいない場合は、そこに行ってもらうか、近くの一般歯科医にみてもらうことになる。いずれもかなり不満がでよう。急な医院の閉鎖は院長の急死以外は非常に難しい。

 一番いい継承のパターンは、子供に継承するパターンでこの例が多い。ただ矯正歯科の場合、子供が矯正歯科をマスターするまでに6年間の歯学部教育、1年間の研修医、その後少なくとも6,7年は矯正科の医局に残る必要があり、計13,14年かかる。うちのような娘ばかりの家ではこれも難しいし、子供の進路を歯学部の、さらに矯正歯科というように狭めるのも、本人が希望すればよいが、そうでなければかわいそうである。

 アメリカで一番多いのは、開業希望の若手の矯正医に、年配の先生が、診療所、患者付きで売る。アメリカ矯正学会雑誌の後ろにページには毎号、セールの広告が並ぶ。
「アーリントン、テキサス 非常に定評のある矯正診療所(25年以上)の割には手頃な価格です。周辺地域は広く、診療所は3000平方フィートあります。最新の歯科用椅子3つと一つの椅子があり、必要があれば自由に調整できます。潜在需要の増加が見込まれるところです。3マイル以内に患者を紹介してくれる歯科医院が25軒以上あります。不動産も含めた購入オプションもあります。至急連絡ください。年売り上げ247000ドル」、「セーラム、オレゴン 診療所はオレゴンの州都近くのダウンタウンにあります。1か月に15人の新患がきます。潜在的にはさらに飛躍できる可能性を持ち、そう希望するドクターにはこの診療所はいい物件と思います。チェーアは4台、年売り上げは550000ドル」

多くのアメリカの矯正専門医は60-70歳ころには引退し、フロリダやアリゾナで老後を過ごす。子供に継承するケースは少なく、仲介業者を利用して自分の診療所を患者、スタッフ付きで売る。値段についてはわからないが、新規開業をめざす若手矯正歯科医にとっては手頃な価格であろうし、開業早々から売り上げが見込まれる。一方、売る側からすれば、今見ている患者さんを引き続き見てもらえ、また老後資金の一部も確保できる。ただ、いい先生が引き継いでくれればいいが、そうでない場合は患者さんが困る。これがアメリカでも一番の問題のようで、理想的には5年間、一緒にパートナーを組み、最初の年は売り上げの10%を渡し、次の年は売り上げの30%を、3年目には50%、4年目に70%、5年目に100%と徐々に新しい先生に経営を移行するやり方が勧められている。あまり患者の評判の悪いドクターは1,2年で解雇する。

日本でもこういった継承方法が検討されているが、まず市場が小さいのの仲買業者がないこと、若手の先生がこういった継承をいやがることが指摘されている。ある先生が全国の歯科大学の矯正科を訪れ、若手医局員にこういった継承物件を買うかと質問したところ、ただでもいらないというのはほとんどだったようだ。この話を聞いて相当ショックを受けた。何となれば、うちの診療所も誰かいい先生がいれば、ただで譲渡しようと考えていたからだ。なぜ若手は譲渡を嫌うかというと、スタッフを含めて経営的な責任を負いたくない、前の先生と比較されたくない、隠れた問題が発生しそうで怖いなど、いきなり医院経営をすべて引き受けるのはいやなようだ。そうかといって自分で新しい医院を開業するのも資金もないし、患者さんがくるかわからないので怖いという。もっとチャレンジ精神をもってほしい。

2010年12月12日日曜日

弘前の古い店




 待ちに待った新幹線もようやく青森まで来ることになり、地元では大変盛り上がっています。私も開業日は、わくわくし、どれだけ観光客が来るかと期待していましたが、町の様子はいつもと全く変わりません。

 何でも一番列車で来た観光客をお迎えしようと弘前駅に観光協会や市の職員ら200人近いひとが集まったようですが、実際に来た観光客は数人で、人数の割には大変な歓待です。
 もともと12月からの冬のシーズンは一年の内でも最も観光客の少ない時期で、だからこそ敢えて、この時期に開業いたとも言われます。もう少しすれば少しずつ観光客も増えることでしょう。

 弘前観光コンベンション協会でも、観光ガイドによる弘前の街歩きコースを作っていますが、今のところほとんど利用者がない状況です。これは大変もったいないことです。地元民が見ても、おもしろいコースがたくさんありますし、値段も安いと思います。昔の海軍の将校クラブの偕行社、松蔭堂、教会などコースの中には一般客としては行けないところもあり、時間があれば大変お得で、思い出になるコースですから、もっと多くのひとが利用されたらよいと思います。

 このコースを見ていると、私の診療所の入っている大家さんのところ、代官町の甘栄堂が載っていて、創業110年間となっていてびっくりしました。古いお菓子屋とは思っていましたが、これほど古いとは思いませんでした。弘前のお菓子屋は古いところが多く、一番古い大阪屋は340年くらい前、開雲堂は120年前、前に紹介した小判焼きの川越の黄金焼も121年と、軒並み100年以上たっています。さらに診療所のすぐ近くの石田パン店が大正14年の創業で、青森県で最も古いパン屋だそうです。私の好きなマタニのケーキー屋、パン屋さんも昭和6年創業ですから、すでに79年たちます。また長尾牛乳は創業が明治17年(1884)ですから、126年になります。こういった古いお店が弘前には本当にたくさんあります。新寺町にあるみそ、しょうゆ販売の加藤醸造も明治4年創業ですから139年になります。食べ物以外でも土手町の万年筆を売っている平山萬年堂は大正2年創業なので今年で97年、津軽塗の田中屋は創業明治30年で113年、江戸時代から兜や刀などの武具を作っていた明珍鉄工所、二唐刃物鍛造所にいたっては、おそらく300年はたっていると思います(二唐刃物の吉澤さんがパリに持っていった新作は、和風と縄文風のミックスですばらしい。文鎮はしゃれています
http://www.nigara.jp/work/hamono2010.html)。また代官町の矢川写真館も開業は明治14年(1881)で、今年で129年になりますし、同じく代官町の自転車屋さんタケウチサイクルも80年以上はたっています。

 これが東京などですと、創業明治何年とか、それなりの老舗の風を作るでしょうが、弘前の古い店は全くそんなことを気にかけません。弘前の地元民でも、土手町にある黄金焼の店が創業121年とは誰もわかりませんし、まったく普通の店で、伝統的な黄金焼を一個50円でひたすら売っています。伝統で商売するのでなく、味と安さで現在のマクドナルドのハンバーガーと競争しています。これはすごいことです。

 なぜこういった古い店があるかというと、けっしてもうかっているわけではなく、何となく続けているだけのことでしょうか。今の経営者は大体50歳以上で、高校、大学を卒業したのが、1970年代くらいでしょう。ちょうど高度成長の時代で都会の多くの若者は親の仕事を継がず、この時期で老舗の店は後継者がいなくて廃業になりました。ましてその当時でも経営がきびしい店を継ぐ子供は少なかったと思います。ところが津軽では都会と違い20年遅れており、この時代に親の跡を継いだ子供が今店を経営しているのでしょう。それでも次の後継者はきついかもしれません。市内の繁華街である土手町でもここ数年の間に創業100年以上の店が何軒もなくなりました。

 一方、古い店が多い反面、全く新しい店も多く、今後の伝統を担う店も増えています。例えばフランス料理、イタリア料理、ケーキ店などは最新の東京にけっして負けないところが増えています。先日も診療所の忘年会でイタリア料理の「ダ・サスィーノ」に行ってきましたが、この店などは完全に東京のミシェランの一つ、二つ星のレベルです。値段は弘前では高いですが、それでも東京の半分ないし、1/3で味、サービスの点では決して高くはありません。またTree Bridgeというパン屋さんは午前中にはすべて売り切れというおいしいパン屋さんもあります。

 こちらに観光で来る皆さんも是非、弘前の新旧のお店を楽しんでください。

2010年12月9日木曜日

NTTタウンページ



 この時期になると、NTTからファックスにて電話帳広告申込書が送られてくる。それに署名、捺印してファックスで送り返せという何とも味気ない契約である。本当にこれで契約になるのかとも思ってしまう。以前は担当者が診療所まで来て、カラー広告にすればとか、色々とセールスをした上で契約したものだが、ここ数年はファックスだけの契約である。

 あまりに顧客をばかにしたやり方なので、今年度は申込書の余白に、「一声 毎年23万円の契約に対してファックスのみで済ませようとする企業体制には以前から不思議に思っています。無料の宣伝媒体(インターネット)がある状況下で、こういった高姿勢の企業態度に対して、経営者は何とも思わないのでしょうか」と書き込んだ。しばらくすると担当者の女の人から電話が来て、その旨は上司に伝えましたとのことであった。当然、上司からの電話は一切ない。
私のところでも、常に患者からどういったことでこの医院のことを知ったか、聞いている。知人紹介などの口コミと最近ではインターネットを媒介としたものが多い。一方、タウンページを見てという患者さんは開業以来、数名しかいないので、一刻も早く広告は止めたいと考えていたが、同業者の大きな広告を目にすると、中々止められず今日に至っている。毎月18900円、年額で226800円、安い広告費ではない。HPによる広告費は実質的には無料であることを考えるとなおさらである(東京の友人に聞くと、こんなものでなく、べろぼうに高いらしい)。

 ちなみにテレビ、ラジオ、新聞、インターネットなどの広告媒体の費用をまとめたものがある(http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20100222/1266830020)。それによれば、電話帳の広告費は2007年度が1014億円、2008年度が892億円、2009年度が764億円とここ3年間で24.7%の減少している。さらに2001年度と比べると1652億円であったものが764億円と53.4%の減少である。インターネット広告が735億円から7069億円の964.8%増に比べると、電話帳による広告自体がすでに消滅傾向にあると言ってもよさそうだ。毎年100億ずつ減っているようで、あと8年で消滅する計算になる。

 NTT東北電話帳の創立20周年を期して、5年後のイメージを平成17年に宣言している。それによれば「電話帳への愛、お客様への愛、社員への愛の三つの愛を形にすることを経営理念として掲げ、信頼され、愛される会社を目指そう」となっている。実際は全国10社ある電話帳会社の大方の社長は、NTT本体からの天下りで、顧客大事、売上げ確保など自分たちが経験したこともないようなことを声高に叫ぶが、実際は単に経費削減のみが先攻し、その挙げ句がファックスによる契約申込書である。顧客に対して、一度も訪れることなく、唯一の伝達手段がファックスと電話だけというやり方は、サービス業ではあり得ない。郵送することもなく、ファックスだけよこしていいと考える発想は、経営者として相当感覚がずれている。ましては今時電話帳に載せるような顧客はアナログ派で、こういった顧客こそドライなやり方が向いていない。

 一方、これとは逆の経験をした。私のコレステロール値が高いため、家内がサンスターから「緑でサラナ」というジュースを購入している。ところが生産に何か問題があったのか、サンスターからしばらく供給できない旨の手紙が速達で配達された。その後、しばらくすると今度は供給が可能になった旨が再び速達で配達され、お詫びの品として歯みが剤や歯ブラシなどの詰め合わせが送られてきた。非常に丁寧な対応である。おそらく購入者の多くは、メタボに悩む中高年の人々であり、これだけ丁寧な対応をされると、仮に一時発送が遅れても、今後とも継続することであろうし、何よりも企業イメージがアップした。昔、パナソニックで石油ファンストーブが事故を起こすとのことで、それこそ飽きるほど,何度も、長期間回収のCMを流していたが、途中からこれはパナソニックの戦略と気づいた。実際、あれだけ宣伝しているから、仮に事故があっても、パナソニックの責任になることはないが、それ以上のパナソニックのブランド、絶対の信頼を守った意味が大きい。

 こうしてみると、最近のNTTはイメージ戦略が最低であり、よく夕飯時にNTTの子会社と思われるNTT何とかという会社から電話接続を変えませんかとか、光通信にしませんかといった電話が来る。夕飯時に寛いでいる時に誠に腹立たしい。夕飯時は遠慮するのが普通であるが、デリカシーが足りない。家にいるのを狙って電話しているようだが、最近ではNTT何とかと聞くだけで、押し売り電話と勘違いする。よほどイメージをダウンさせている。こういった子会社のやり方に対して、NTT本体は一切関知していないかもしれないが、NTT 何とかと社名につける限りは責任がある。

 ちなみに手元に2010年版のデイリータウンページ(青森県津軽版)があるが、掲載広告で目立つのは、医者と歯医者だけで、これでほぼ半分くらいになる(全部で670件くらい)。旅館、ホテル、レストランなども広告が多そうだが、実際旅館、ホテルで7件、グルメ(レストラン、食堂)で8件だけである。それに対して歯科は48件、医科は175件で、掲載広告の大きさもどれもかなり大きい。いかにも歯科医、医師がだまされやすいかがわかるとともに、世間の会社では無駄なものにはコストをかけないという姿勢が急速に広がっている。

2010年12月5日日曜日

函館「佐藤安之助の墓」2




 前回のブログで、函館にある「佐藤安之助の墓」について、弘前藩譜代の藩士の墓ではないかとしたが、本日図書館で調べると、どうやら私の間違いのようである。たまたま同姓同名で、函館二設口の墓の主は駒越村の安之助のようである。間違った記述をして申し訳ない。

 「津軽近世資料7 弘前藩記事五 」(坂本寿夫編、 北方新社 1994)の弘前藩記事61 戦死履歴其二に「佐藤安之助  陸奥国津軽郡弘前駒越村の平民なり。文政9年8月18日、同所に生る。祖父は佐藤伝右エ門、父は藤助と称す。母は同郷平民田代村田沢孫右エ門の長女なり。明治元年10月、松前の役、元鹿児島藩士伊集院宗次郎の軍夫となり。従て航す。同二年4月、二股の戦、銃丸に中て死す。其屍を同所中に埋む。同年12月(津軽)承昭死を憫み、毎年米五苞を其親族に与えて祭資に供せしむ。其書に曰く、駒越村安之助 当夏松前渡海。二股の役、銃丸に中て相果候段、不憫の事に候、仍為祭資毎年五俵づつ永世被下候事 明治二年12月 民事局」とくわしく書かれている。また明治3年9月に常盤坂の大星場の西側に落成した招魂社で戊辰戦争、函館戦争で亡くなった津軽藩兵の招魂祭が行われた。その時の「招魂祭調」には「安男霊 駒越村安之助 薩州人数へ御貸郷夫」となっている。名字は後日加えたとなっており、従軍時は駒越村の安之助であったが明治4年の姓尸不称令により名字を名乗ることができるようになった。また明治二年の松前戦争届には、函館戦争当時の弘前藩従軍の詳しい報告が載っており、藩士、軍夫の討死、深手、浅手など死傷者の名前が記載されているが、安之助の名前は見えない。おそらく薩摩軍に所属していたためであろう。

 函館戦争では弘前藩からも多くの戦死者がでた。例えば若党町からも「高杉尚良 左膳と称す。弘前市若党町に居り、世世禄200石を食む藩士たり。天保6年馬屋町に生まる。死する時35 家督は静太郎」と高杉左膳という足軽頭が函館桔梗野で戦死した。2010.11.24のブログに出した若党町の地図に、高杉静太郎の名が見える。また同じく若党町の葛西清生という人も戦死している。24歳であった。父の名前は次郎兵衛(文弥)で、同じく地図上で葛西次郎兵エの名が見える。

 昭和3年発行「青森縣総覧」(東奥日報)に記述されている明治33年以降(昭和3年まで)の青森県からアメリカへの留学者115名について名前を載せる。別に移住者の項目があるが、ここでの留学者の中にも移住目的のものを多数いるようだ。山田良政、純三郎兄弟の二男晴彦、四男四郎の名前が見える。二人ともアメリカに行ったきりのようである。メソジスト宣教師の名前が数名見られるが、ほとんどのひとは無名であり、二男、三男、四男の名前が多いことからも、一旗揚げようとアメリカに渡ったひともここに含まれる。

留学者(米国)
川村武三郎、小笠原直三、成田とみ、木村千代太郎、山田四郎(山田兄弟四男)、佐々木章之助、対馬良二、水木音弥、長谷川浩、中里常人、木村むめ、西村近應、宮田雄二郎、大溝啓二、山田清彦(山田兄弟二男)、宮川栄七、坂田善吉、上田彗範、松本たき、桜田三次郎、後藤小三郎、三上庄吉、鎌田通、松森敬三、三上善五郎、菊池辰男、島本盛、小平みつ、石沢藤次郎、新井田四郎、廣田順吾、藤田元三郎、柴田徳次郎、工藤まき、高杉栄次郎、工藤敏雄、楠美久次郎、田戸関繁太郎、新岡喜代志、伊東久蔵、菊池武次郎、佐藤豊三郎、中畑四郎、藤田浅吉、高橋ます、大和田良三、櫛引淳太郎、境八百四郎、村元元清、工藤要、棟方武次、立藤鉄三郎、鳴海要助、島中大和、工藤盛勝、大阪力次郎、鈴木陸奥夫、長尾大介、藤田徳蔵、川原政憲、吉田善五郎、湊稲雄、小木勇蔵、長谷川久太郎、杉山金太郎、須郷健太郎、安田清、棟方八郎、栗村仁、白沢甚助、佐々木徳一、長尾民三郎、柴谷興三右衞門、小平三郎浩、小野藤右衞門、鎌田健吉、小島忠郷、宮城逸、大和田四郎、杉山純一、福井善祐、斉藤豊次郎、斉藤冽泉、倉岡藤吉、熊井田次郎、小原良吉、宮本留助、吉田健四郎、阿部友一、藤川正詮、武林清一、蝦名健四郎、野呂久蔵、森真四郎、佐藤栄四、鈴木貞見、栗村直衞、白鳥基正、七戸賛三、藤田正之助、小島忠郷、杉山瀧次郎、斉藤清三、葛西孝雄、兼田秀雄、磯部唯浩、磯部わさ、三浦嘉八郎、須貝止、島川勉、斉藤庫次郎 (明治33年以降、昭和3年までのアメリカ留学者)

2010年12月1日水曜日

函館「佐藤安之助の墓」




 暇なときは、明治2年弘前地図に記述されている名前をかたっぱしからインターネットで検索しています。2000名くらいはいると思うので、全部検索するのはさすがに無理ですが、ランダムに名前を打ち込み、検索します。当然ほとんどの人名は検索されないか、一行くらい載っているだけです。
 例えば、馬屋町、今の弘前工業高校隣あたりに白取数馬という名が見えます。20件検索されますが、実質的には1件だけで、それには「1823-1898幕末—明治時代の武士、戊辰戦争のさい藩論に抗して勤王を主張、後庄征討軍の大隊長をつとめた」とあります。

 それでは白取家の隣の貴田稲城はと検索すると、865件ヒットするが、関係するのは10件くらいである。資料を高照神社に寄付したようで、その解説に「貴田家は藩の山鹿流兵学師範を勤めた家柄で、先祖の貴田元親は山鹿素行と同門、その子一学が四代藩主信政に抱えられ、孫の親邦にいたって弘前に移り住んだ。本資料は、廃藩後の明治32年に子孫の貴田稲城が高照神社に奉納したものである。」とある。

 さらに貴田家の隣、佐藤安之助を検索すると、東京出身の軍人で、後に衆議院議員となった人がいるようです。中国通で孫文にも関係があったようです。もうひとりは、函館戦争で戦死した佐藤安之助というひとです。函館の二設口台場山の新政府軍陣地跡近くに「佐藤安之助の墓」があり、横にある大野町教育委員会の掲示板には「 墓に は「佐藤安之助鹿児島藩従者・明治2年4月24日」と刻まれているが、「弘前藩記事・戦死履歴」には「文政10年8月18日生・鹿児島藩伊集院宗次郎軍夫」、開拓使編「戦死人墳墓明細履歴書」に「42歳陸奥国津軽郡駒越村」とあるように、その履歴はほぼ明かされている。」と書かれています。また函館護国神社にも墓があるようで、その解説には「弘前藩領駒越村の農。薩摩軍伊集院宗次郎隊軍夫。明治二(1869)年4月24日蝦夷二股で戦死。享年42歳。」と、同じ内容ですが、ここでは農民になっています。また大野町文化財保護研究所ではさらに「中山に祀つられている佐藤安之助もその一人である。安之助は、青森県岩木川のほとりにある駒越村の農家に生れた。農民・安之助は、新政府軍側の薩摩小荷駄 隊に所属して箱館戦争に加わり、四月二十四日、台場山付近の激戦で命を落としたとなっている。土方歳三率いる榎本軍三百人が、乙部に上陸した新政府軍六百 人を迎え撃った「二股口の戦い」である。この戦いでどんな活躍をし、どのような最後を遂げたかは分からないが、中山峠のほかに二つの墓をもつことからも、 多くの人の胸に名を刻み込む働きをしたことと思われる。」としている。

 二設口の戦いは激しく、政府、榎本軍も多くの死者を出したが、どうして一介の農夫、従者の墓がここにあるのかは、「その履歴はほぼ明らかにされている」という説明では理解できません。

 明治2年地図中の佐藤安之助の家は、今の弘前県立工業高校横あたりになり、かなり大きな敷地、おそらく300坪以上の敷地と思われます。馬屋町小路には幕末混乱する藩論を勤王の方向に持っていった西舘孤清の家があります。西舘の家は、代々家老職を務めた家柄ですが、この家と佐藤安之助の家の大きさがほぼ同じです。

 弘前藩では、禄高により住居の大きさは決められており、200石では50坪、150石では40坪、100石では30坪、50石では25坪、50石以下では25坪以下とされ、敷地もそれに合ったものだったでしょう。例えば、現在保存されている「旧岩田家住宅」は住居が34坪、敷地が200坪です。200-500石の中流武士の屋敷です。佐藤安之助の家はこれよりは大きいものと推測されます。となると、幕末には無役だったかもしれませんが、佐藤安之助の家は弘前藩譜代の名門の家であったと思われます。

 それではなぜ佐藤安之助は薩摩藩伊集院宗次郎隊軍夫という低い身分で函館戦争に参加したのか。それはわかりませんが、42歳という年齢、あるいは家庭の事情で、藩から兵士としての参加を認められず、個人的に軍夫として参加し、戦死したのかもしれません。その死を悼み、この激戦地にお墓が作られた可能性があります。

 二設口の墓の主が、駒越村の農夫の佐藤安之助か、弘前藩の譜代武士佐藤安之助かは、地図一枚で簡単に決定できるようなものではなく、さらに資料を揃えて確証しなくてはいけません。大野文化財保護研究会にこの旨をメールにて送付したところ、早速会員の方から再考するという返事をいただき、すばやい対応に感謝しています。明治と言えば、ついこの間まで周りに明治生まれの人がいたような想いがしますが、わずか100年前とはいえ、歴史は誰かが語らなければすぐに忘却されてしまいます。

 ちなみに馬場の下に、馬役有海登という名が見えるが、荒井清明著「続々弘前今昔」では、明治4年地図では「元有海登、古川冨太郎」となっており、ここが工藤他山(古川冨太郎)の思斉塾であったところだとしています。明治4年士族引越之際の図で確認するとそう書いていました。生徒数200名という思斉塾はここにあったのでしょう。多くの書では五十石となっていますが、明治2年地図には載せず、明治4年に載せることからも、明治2,3年頃に馬屋町で塾を開いたのでしょう。

*追加:12/2 本日、馬屋町に行ってきました。町の大半は弘前工業高校になっていました。今の新坂は地図でもわかるようにあまり使われていない道だったのでしょう。むしろ馬屋丁に続く、お城からの道がもっぱら使えわれたと思います。市民会館の裏を探すと、この古道跡が確認できました。弘前工業に続いているようです。

2010年11月28日日曜日

藤岡紫朗



 藤岡紫郎は、明治時代にアメリカ、ロサンジェルスで活躍したジャーナリストで、その生涯をみると、先にTBSで放送された橋田壽賀子原作「99年の愛 Japanese americans」のモデルと似ている。

 明治12年(1879)に弘前市徒町川端町に生まれ(明治2年地図では確認できず)、弘前中学校を卒業後は、犬養毅の書生となり、早稲田大学に進む。海外への雄飛やみがたく、明治30年(1897)に渡米した。17歳であった。渡米後、記者になろうと決意し、テンプルカレッジ、コロンビア大学で学び、日露講和会議に際しては「日本新聞」の特派員として記事を送っている。おそらく郷土の先輩陸羯南からの依頼もあったのであろう。その後は、シアトルの日刊紙「北米時事」の主筆となる。藤岡の妻千代子(旧姓 袴田)は弘前女子高等師範(弘前高等女学校の間違いか 現弘前中央高校)卒業後、同校で教鞭をとり、「本校よりは袴田千代子のごとき秀才を生めりとて後進の学生に誇った」と言われるほど優秀な才女であった。

 その後は、現在でもまだあるアメリカ最大の日系新聞「羅府新報」の主筆をしていた。妻千代子との間には、12人の子供に恵まれたが、愛情深い家庭だったという。アメリカにいても日本人として生きてほしいという願いを持つ藤岡は子供の教育は日本でと考えた。アメリカ留学時代に親しくなった郷土の笹森順造に相談して、長男の俊朗を弘前の東奥義塾に留学させた。当時、同じような日系二世4名もアメリカからやってきて、東奥義塾に入った。昭和4年のことである。当時、東奥義塾はアメリカに留学していた先生も多く、こういった日系二世を受け入れる環境に恵まれていた。そのため遠山則之、茅野恒司、島野好平などカリフォルニア州を中心とした日系による東奥義塾「維持会」が組織され、変わったところでは俳優の早川雪州など50名ほどのメンバーがいた。ちなみに笹森はアメリカ在住時に、南加中央日本人会会長をしていた藤岡に請われ、その書記長をしていただけでなく、青年会剣道部の師範をしていた。郷土が同じだけでなく、早稲田の同窓という点でも二人は親しかった。

 昭和3年発行「青森縣総覧」(東奥日報)には、海外在留縣人状況として、「藤岡紫朗氏 新聞主幹弘前出身 ロスアンゼルスに在って羅府新報の主幹をしている。かっては北米時事新報の主筆をしていたこともある。在留同胞間に人望高く、南加州の日本人会長をしている。また以前農作物種子会社の社長をしていたこともある。在留邦人の便宜を図ることに努力している。現在、東奥義塾と連絡をとり、学生の留学に関して尽力している。在米同胞事情の著述もある。官界すなわち領事館においても藤岡氏の意見を尊重し、種々の外交上のこと等に関して相談をうけている。東奥義塾より早大出身。十人の子福者である。」となっている。出身学校は弘前中学の間違いか。「剣道塾長 笹森順造と東奥義塾」(山本甲一 島津出版 2005)では藤岡の父は明治19年ころに青森県議会議員になったとしているが、「青森縣総覧」に該当する名前はない。明治25年第二回弘前市市会議員選挙で三級当選者に徒町藤岡知言の名前が見られ、おそらく紫朗の父のことであろう。明治2年地図では、徒町には藤岡の名前はなく、富田足軽町に藤岡八十八、茶畑新割町に藤岡鋳吉、上鞘師町に藤岡増三郎の3家しかない。「日系ジャーナリスト物語 海外における明治の日本人群像」(林かおり 信山社)には藤岡紫朗をくわしく取り上げているが、その中で「彼は士族(正確には郷士)の出身であることを誰にも明かさなかった」としていることから、郡部の豪農の出身で維新後に御徒町に住んだのかもしれない。

 昭和16年の太平洋戦争においては、日本人会の有力者であった藤岡はその日のうちにFBIに捕らえられ、敵国外人収容所に入れられる。昭和17年7月には胆石が再発、悪化したため、家族のいる強制収容所に移される。四男の光夫は人種差別の不条理に対して、自らアメリカに忠誠を尽くすことで払拭しようとして二世部隊442部隊に入隊し、1944年のヴォスゲヤの戦いで戦死する(テキサス歩兵大隊救出)。収容所での「忠誠登録」のやり取りなど、このあたりがTBSドラマのシーンと非常に似ている。

「義において米国を愛す。情において日本を愛する」という言葉を愛した。最後までアメリカ国籍を取らず、昭和32年に日本人としてアメリカで亡くなった。
*弘前市立図書館にある「青森縣総覧」を見ると、明治33年以降(昭和3年まで)のアメリカ留学生115名の名前が記載されている。山田良政、純三郎の兄弟の二男の晴彦、四男四郎の名前もあり、アメリカに留学したことがわかる。渡米した順番に記載されているようで、四郎に続いて、晴彦が渡米したようだ。二人の兄弟がその後、どうなったか調べているが、全くわからない。

2010年11月24日水曜日

笹森卯一郎



 笹森記念体育館というと、弘前のひとは追手門広場内の体育館を思い出すだろうが、実はもう一つ長崎にもある。長崎の私立鎮西学院高校にある笹森記念体育館で、平成元年にできた。
弘前の笹森記念体育館は、東奥義塾を再興し、戦後は国務大臣などを歴任した笹森順造を記念したものであるが、鎮西学院のそれは笹森順造の兄、笹森卯一郎を記念したものである。笹森卯一郎はつぶれかけていた長崎鎮西学院の再興を、弟順造は廃校になっていた東奥義塾を再興し、兄弟で同じようなことを日本の東西で行った。

 笹森卯一郎(宇一郎 1867-1911)は、弘前市若党町93番地の笹森要蔵の長男として生まれた(写真右下に笹森要蔵の名がある)。父要蔵は、宝蔵院流の十文字槍の使い手で、弘前藩の御武庫奉行を務めていた。明治維新後は困窮したが、5人の子供の教育には熱心であった。5軒隣には卜伝流の小山儀三郎道場(導場)の名前が見えるが、本来ならこの道場に通わせるはずだが、明治の早い時期にこの道場は閉められたようだ。そのため岡兵一らとともに、要蔵は稽古場、北辰堂を明治16年に長坂町に作り、そこに自分の子供を通わせた。

 卯一郎は自宅近くの亀甲小学校を卒業後、明治13年に県立の弘前中学へ進んだが、海外への飛躍を望み、翌14年には東奥義塾に転校する。ここで本多庸一らの影響を受け、明治16年にキリスト教徒となった。明治18年には東奥義塾を卒業し、念願だったアメリカ留学も外国人宣教師や後の外務次官となる珍田捨己の尽力でアメリカ、デポー大学に行くことになった。同行する学生は、高杉栄次郎、益子恵之助、長谷川哲治の四名であった。この内、高杉栄次郎は卯一郎に住むそばの小人町の出身である。座頭ノ頭支配所の前に高杉英三の名前が見えるが父親である。長男高杉栄次郎は、デポー大学卒業後は、母校東奥義塾に戻り、青山学院、ハーバート大学、東北大学で教鞭に立ち、最後は長らく北海道大学の教授をしていた。次弟の滝蔵は同じく、デポー大学に留学後、早稲田大学で西洋哲学を教えた。また早稲田大学では長らく野球部長を務めた。末弟の良弘はインディアナ大学、コロンビア大学で哲学、法学博士の学位を得て、その後は実業界で活躍した。いずれも熱心なキリスト教徒であった。3人揃って、東奥義塾からアメリカ留学し、博士号を取得した優秀な兄弟だった。

 ついでに言うと。笹森卯一郎とは幼なじみでアメリカ留学も一緒だった高杉栄次郎は、長崎の鎮西学院に教授として就任に、卯一郎とともに学生教育に励んだ。さらに明治34年には、同じく弘前市山下町出身の吉崎彦一(1870-1925)が教授として鎮西学院に赴任してきた。吉崎は東奥義塾を卒業後、カリフォルニア州立大学、ノースウェスタン大学、シカゴ大学で計12年間学んだ後、帰国した。調べると、山下町の今東光の父の実家の3軒隣に吉崎奥左エ門の名が見える。父親か。他には東奥義塾卒業後に、アメリカのパデュー大学、ミシガン農学校で10余年間神学と農学を学んだ海老名昌一も明治36年から鎮西学院で勤務する。こうして4名の弘前の人が同時期、鎮西学院に勤務した。

 明治期、東奥義塾からアメリカの大学に留学したものは40名、逆にアメリカから弘前にやってきた宣教師は34名、東奥義塾以外にも弘前中学校、早稲田大学卒業後にアメリカの大学で学び、日系ジャーナリストとなった御徒町川端町生まれの藤岡紫朗のような人物もいて、明治期の弘前の若者は東京大学を頂点とした学閥官僚システムに乗るよりは、いきなりアメリカを目指した。少なくとも若党町、小人町のような小さな町内からも笹森兄弟、高木兄弟の5人のアメリカ留学生がいて、かの地で博士号をとった。明治期という時代を考えると、辺境の弘前の地でのこういった現象は特異なことと思える。例えると、田舎のある高校で、卒業後、毎年数名、アメリカのアイビーリーグの大学に留学し、一年目からアメリカの学生を押しのけて優秀な成績をとり、博士号をとってくる、そういった教育が高校の間に行われていた。授業はすべてアメリカの教科書を使って行われていたようで、今はやりの大学の国際学部の内容である。

 笹森卯一郎については,鎮西学院創立125周年を記念した出版された「火焔の人 教育者にして伝道者 笹森卯一郎の生涯」(松本汎人著 鎮西学院)という大著があり、鎮西学院時代の笹森の事柄をくわしく説明されている。その緒言に「長崎の史家・福田忠昭が1918年に編んだ「長崎県人物伝」には太古から現今まで長崎に生まれ、あるいは渡来して各分野で活躍した人物千数百人が網羅されている。その中で、遠く陸奥に生まれた笹森卯一郎の経歴が約一頁にわたって紹介されている。わずか18年にも足りない長崎での生活であったが、その優れた人物と事績とによって、立派に「長崎人」と認知された証左である」と最大級の賛辞が書かれている。弘前出身者が遠く離れた地で、こういった書物により、その偉業を紹介されるのは、うれしいことだ。笹森自身は45歳というこれからという時期で亡くなり、妻敏子には五男一女が残された。敏子は保母と英語塾をしながら立派に子供達を育てた。笹森敏子は、弘前市山道町の三上昌治、みね夫妻の長女として明治4年に生まれた。高等小学校卒業後の明治17年に函館の遺愛女学校に進み、同校卒業後は弘前女学校の英語の教師をしていた。女子としては相当高等教育を受けたひとりである。明治2年地図には山道町には三上の家はなく、すぐそばの住吉町に三上観吉の名前が見えるが、ここが実家か。また卯一郎の父要蔵がなかなか信徒にならなかった理由として長年親しんだ酒をやめるのがいやだったとの記述がある。息子、娘、妻までが熱心な信徒で、メソジスト派では禁酒、禁煙、歌舞謡曲、カルタ遊びなども一切禁止していた。もちろん賭博、買春などはとんでもないことであった。長いこと要蔵も悩んだが、ある日こつ然と徳利と盃を庭でたたき壊し、禁酒を誓い、受洗した。ちょっとかわいそうな気もする。

長崎の鎮西学院と弘前の東奥義塾はよく似た経歴の学校であり、その両方の再興に笹森兄弟が関係したのは偶然とはいえ、興味深い。

2010年11月18日木曜日

明治4年地図の△マークのなぞ






 昨日、弘前観光会館で行われた、弘前観光ボランティアガイド養成講座で話をしてきた。以前にも山田良政、純三郎兄弟について話をしたが、今回は明治2年地図の実物を是非ともボランティアガイドの皆さんにも見せようと思い、一條敦子代表にお願いしてこちらから提案させてもらった。こういった地図は一旦、図書館や博物館に入ると一般人がなかなか見ることはできないので、私のところにあるうちはできるだけ、皆さんに見てもらおうと思っている。先週は、弘前ロータリークラブの会員に、今週はボランティアガイドの皆さんに見てもらったことになる。今後も何かの機会があれば出かけていって色々なひとに見てもらおうと思っている。

 ボランティアガイドの皆さんも実物の地図をみて大変興味を示されていた。やはりこういったものは写真ではなく実物をみるとイメージは随分違う。その折に、弘前観光コンベンション協会の今井さんから、大変貴重なお話を聞けた。今井さんの家は代々若党町にあり、明治2年地図にもご先祖の名前がある。家にも古い地図があり、明治初期にはここ若党町は空地が多く、空地の部分を明治2年以降に追加記入されたものではないかということであった。明治初期には、隣から4、5軒は確か空地であったはずと、あたかも数年前のことのように話されていた。それについて、明治4年7月の士族在籍引越際之地図(弘前市史の付録をコピーしたもの)を見ると、不鮮明であるが、名前の上に△マークがある。よく見ると、若党町だけでなく、白銀町などかなり多くの家に△マークがある。これは何であろうか。

 弘前市の初代の市長は、菊池九郎であるが、もともと菊池家は長坂町にあったが、明治4年に蔵主町に居住し(現在の県合同庁舎の向かい側)、弘前基督教会も初めはここが集会場だったようだ(弘前今昔4、蔵主町、荒井清明著)。すなわち、菊池九郎は明治2年には長坂町35番あたりにあったが、明治4年には蔵主町3番あたりに引っ越したことになる。するとこの△マークは明治2年から4年に引っ越した家を表すマークとも考えられる。士族在籍引越際之図というタイトルがつけられているが、これは明治2年から4年、とくに明治3年10月に施行された帰田法、これは領内の地主から土地を取り上げ、職を失った武士にこれを与え、在方に置くことで、士族を自作農家にさせるものであった。結局失敗に終わるが、多くの武士が元々の土地を離れ、郊外に移り住んだ。さらに禄を断たれた士族の中には故郷を離れ、上京するものもいて、明治2年から4年にかけてかなりの変動があったと推測できる。同様に明治2年地図では、鷹匠町小路にあった儒学者櫛引儀三郎の家も明治4年地図には△マークがつく。儀三郎は明治4年に羽野木沢村(五所川原)に隠棲し、農業に従事した(弘前今昔5、錯斎櫛引儀三郎、荒井清明著)。

 再び、若党町に話をもどそう。若党町の西の一区画を見てみると、ここには明治2年地図では16軒の家があった。明治4年地図ではそのうち10軒に△マークがついており、引っ越したのであろうか。とくに北側の8軒については横嶋家と小田桐家を除き、すべて△マークがついている。一時期、ここらはほとんど空き家、空き地ばかりになったのであろう。ついでに言うと、東奥義塾を再興した笹森順造の生家は若党町49番地となっていたため、別の場所を生家と以前のブログで紹介したが、よく見ると若党町93番地、春日町側に笹森要蔵の名前が見える。笹森順造の父親である。ここが生家で、以前のブログでは間違った場所を紹介して申し訳ない。

 △マークを探していくと、城近くの下白銀町の家老などの大きな家はほとんど△マークがついている。また若党町では△マークが多いのに、隣の春日町では比較的少なく、△マークの密度が町により異なる。それでもも△マークが引っ越した武家を表すとすれば、この2年間に移住した士族の数は相当なものである。

 さらに明治4年地図と2年地図を比べると、最勝院と大円寺の書き方は両者で違う。明治3年に移転したので、当然である。また明治2年地図にあれほど書かれていた鉄砲訓練場はほとんどなくなり、田町の火薬工場も姿を消している。軍隊も中央主権に移ったため藩独自の軍備が必要なくなったからである。また和徳、亀甲などの各所にあった武士への扶持米の支給所もすべて姿を消し、明治4年地図では和徳町の倉庫は魚市場となっている。このように2年の違いを両方の地図では割合正確に示している(前回の最勝院のところで、八幡神社の説明がひとつ抜けていたので、追加する。八幡神社の奥の森について「高林昔し天狗住し」の説明が明治2年地図にある。天狗伝説があったのか。明治4年地図には地主堂の記載もない)。

 こういった見方をすると明治2年と4年では、わずか2年しか違わないが、それまでの江戸の体制がこの2年間に急速に明治の体制に変化した時期であった。両方の地図をざっと見ただけでも、統治者だった武士層がこれだけ急激に舞台から姿を消すという状況は、明治という時代が、いわゆる革命であることがわかる。今後、両方の地図をさらに研究することで、こういった明治の革命性を地図からも読み解くことができると思われ、研究者による解明が期待される。

2010年11月13日土曜日

矯正歯科専門医



 日本矯正歯科学会は、1926年の創立された矯正歯科分野では最も大きな学会で、現在会員数は6000名を越えます。大学教官、専門医のほとんどがこの学会に所属しているといっても間違いありません。
 1980年ころからでしょうか、医科の各科でアメリカの専門医制度倣った制度を日本でも作ろうとした動きがあり、そういった学会が集まって協議会のようなものができました。もちろん日本矯正歯科学会も、歯科の専門医制度協議会に参加して論議していました。一応、1990年から認定医制度というものができ、歯科大学の矯正歯科講座に5年以上、常勤で所属し、規定の症例数と臨床論文があれば、認定医の資格がとれることになりました。私は一回目の試験を受験しましたが、当時は配当患者数も多く、5年以上毎日、外来で仕事していれば、規定症例数は十分ありましたので、その症例名を書いて送ると書類審査で認定医になれました。簡単だった記憶があります。その後も5年おきに学会に出て出席ポイントと研究発表があれば、更新できました。
 当時の歯科学会では、小児歯科、口腔外科や補綴学会でも大体こんな感じでしたので、必ずしも日本矯正歯科学会の認定医制度が簡単であったということはありません。ただ当時から、こんな試験じゃ、臨床の良し悪しはわからんだろうという声は確かにありました。それでも5年以上矯正科に残って、相当数の患者を見たであろうし、主任教授がその能力を保証するのであれば、一般歯科医に比べて矯正歯科の臨床能力ははるかに高く、学会認定医としても十分認められると考えられていました。ところが、ある先生が、この認定医制度をくわしく見てみると、提出症例に重複がある、常勤でない先生でも認定医になっているという不正が見つかりました。患者数の少ない病院では、配当患者数が少なく、規定症例数を集められなかったこと、週に一回、月に一回、研修のため大学に来ている先生に頼まれて、書類上で常勤としたことなどによります。名前は伏せますが、ある大学では相当数のこういった不正が見つかりました。その後、抜本的な制度の改革がなされ、重複症例のチェックや症例を実際に提出し、審査するような試験方法になり、近年では相当難しくなっています。とくに大学病院では患者数も少なくなり、規定患者数を集めるのが大変むずかしくなり、そのため認定医を取るのに7,8年以上かかることもまれではなくなりました。
 一方、医科の方からも従来の認定医制度はペーパー試験が主体で臨床能力がわからないという声が増え、少しずつ臨床能力を見る試験に転換していき、名称も認定医から専門医に変わってきました。ただその場合、多くの学会では認定医制度がすでに動いていましたので、これまでの認定医は自動的に専門医に昇格する手段をとりました。日本矯正歯科学会では、認定医自体がさまざまな批判があったので、さらに抜本的な制度を作ろうと、認定医試験とは全く別の、より高度な専門医試験制度を作ることにしました。
 第一回の日本矯正歯科学会の専門医試験は2006年に行われました。私は第一回の試験を受けました。アメリカ、ヨーロッパの専門医試験に準じた10のカテゴリーの症例を持っていき、審査を受けるものです。一回目は矯正専門開業20年以上の日本中のベテランが集まり、合格率が60%程度でしたのでかなり難しい試験でした。150名くらいがこの試験で専門医になったと思います。二回目、三回目、四回目の試験は私も試験補助員として試験のお手伝いをしましたが、10症例のうち1症例でも規定の得点に達しないと不合格になります。症例の選定も重要な要件になります。ただ9症例が非常にうまく治療され、1症例のみ悪くて不合格というよりは、全体的にあまりよくない場合に不合格にする傾向があるようです。二回目以降の受験者数は少なくなり、合格率もさらに下がり、最近では40%くらいと思います。また5年おきに更新をしますが、これも5年の間に治療した3症例を提出して合否を決定します。
 試験自体は、完全にブラインド、受験者の名前が隠されますので、かなり公平な審査が行われており、過去には何人もの教授もこの試験に落ちています。さらに大学病院では、患者数も少なく、少ない患者は新人研修にまわされるため、准教授、講師、助手などの中堅の先生は臨床にタッチすることは少なく、専門医試験を受けにくい状況です。全国の歯科大学附属病院の矯正歯科で、専門医がいないところも多くあります。北大に1名、東京歯科大に6名、日大歯学部に3名、日本歯科大に1名、東京医科歯科大に1名、昭和大歯学部に2名、松本歯科大に3名、これ以外の歯科大学には専門医がいません。医科大学ではあり得ない状況だと思います。一次、二次医療機関に専門医がいて、高次医療機関に専門医がいない状況は、そもそもの専門医制度からしてあり得ないことです。ただ、歯科大学では口腔外科を除き、こういった高次医療というスタイルがなく、臨床的には大学より臨床医の一部の方が内容は高度です。
 このように日本矯正歯科学会の専門医試験は、一部の人たちの批判に答えるようにかなり難しいものとなり、アメリカ矯正学会やヨーロッパ矯正学会のそれとそれほど遜色ないものと思われますし、それに合格した先生は十分に矯正臨床能力があると判断できます。また審査法自体に対しても、もう少し、簡単にしろという声はあっても、簡単すぎるという声はないように思えます。ただ心配なのは、あまりにも試験が難しすぎるため、年々受験者が少なくなり、また合格率も下がっていることです。患者数の多いところでは、症例を吟味して、うまく仕上がった症例を提出することができます。実際、私の場合でも、1000症例くらいのなかから、吟味し、資料の完全に揃ったもの、さらに患者に同意書をもらわないといけないので、その脱落分を考慮するとこれでも足りないくらいでした。患者数の少ないところではかなりきびしいと思います。一方、大学での基礎教育が低下しているのか、資料がきちんと採れていなかったり、分析が間違っていたりするケースも多く、こういった症例では治療の良し悪しの前に不合格となります。
 2010年現在の専門医数は全国で258名ですが、2008年度の合格者は18名、2009年度は16名と少なく、おそらく最終的な数も400名は越えることはないと思います。当然この数で、全国の口蓋裂、顎変形症、一般矯正患者をカバーすることはできません。少なくとも従来の認定医2900名くらいいないとカバーできないと思います。
 本年度から、歯科矯正診断に関わる施設基準が変わりました。従来は育成医療機関のみが口蓋裂患者の矯正治療ができましたが、規則がかわり月に1回でも矯正歯科医がアルバイトで来ているところは施設基準をとることができるようになりました。それにより青森県でも施設数は倍以上になり、20以上になったと思います。患者にとっては見てもらえる医院が近くにできたのでいいことなのでしょう。ところが青森県の口蓋裂患者の出生数は年に10−15名ですが、これを20以上の医院で分散することになります。うちのところで年7,8名は来るので、おそらくほとんどの施設では患者はいない状態で、たまにきても数年に一名くらいの状況でしょう。心臓外科、脳外科でもそうですが、やたらに施設を作るのが、日本の悪いところで、欧米では処点病院を決めて、そこでまとめて治療する制度が取られています。たくさんの患者をみることで臨床的技術の向上を図る方法です。日本では患者受けのよい施策がなされますが、必ずしも臨床技術の良し悪しは関係しません。どちらがいいのでしょうか。

2010年11月11日木曜日

青森の資源



 青森県はその三方を、日本海、津軽海峡(陸奥湾)、太平洋に囲まれた海の幸にめぐまれた県である。漁獲量は北海道、長崎に次ぐ全国3位で、あらゆる魚がとれる。まぐろは有名だが、鯛やいかはほぼ年中捕れ、またズワイガニの漁獲量も一位は境漁港(鳥取)、二位は香住漁港(兵庫県)、三位に青森県の岩崎漁港となっている。越前ガニとして有名な福井県の越前漁港が五位だから、漁獲量だけからみれば青森県の方が多い。ところが青森県の旅館、ホテル、料亭でカニをメインでだすところはひとつもない。他の高級魚である本マグロやひらめと同様、青森県の日本海側の岩崎漁港でとれたカニは、トラックで築地か、あるいは福井にもっていき、そこで越前ガニとして売られる。なぜこういうことがおこるかと言えば単純で、そちらに持って行った方が高値がつくからである。定期的に確実に高値で買ってくれれば地元に卸した方が交通費などを考えればよいとわかっているが、青森県にはそういったところはない。大阪などでは冬になるとわざわざカニを食べるだけのために山陰に行く。旅館が多少汚くても、カニをたらふく食えれば高くても十分満足する。ところが岩崎漁港のある深浦町でもこういった旅館や料亭もないし、近くの鯵ヶ沢や弘前にも一切ない。もったいない。

 また農業生産量も高く、自給率が100%を越えている県は、北海道、青森、岩手、秋田の4県だけで、青森県のカロリー自給率で121となっている。以前は農産物と言えば米が主体であったが、現在では青森県でもほとんどすべての農産物が作られ、豚、牛、鶏などの畜産も盛んで、青森県一県で魚、肉、野菜、米すべての食料が自給できる。また川や山にもめぐまれ、いわなやあゆがあちこちの川でとれ、また秋になると山では色々な種類のきのこがとれる。これは本当の話であるが、食料に関しては実際に自給しているところもある。農家では米、野菜を作り、山できのこを、川であゆをとり、車で海にいって魚をとる、こういった家は結構あり、10人家族で、食費が月3万円以下という話を聞いた。

 さらに東通、大間などの下北半島には原子力発電所があり、110万KWの東通原発以外にも大間原発、第二東通原発などが建設中で合わせて出力は530万KWとなる。当然、エネルギーは完全に自給している。さらに水力発電や風力発電など自然エネルギー自給率でも10.64%で、大分、富山、秋田、長野に次ぐ、高い自給率である。大分の高い自然エネルギー率は主として地熱発電によるものだが、青森県は温泉も多く、地熱エネルギーは十分に開発できる。食料、自然エネルギー双方の自給率が100%である状態を永続地帯と呼ばれるが、これに最も近いのが実は秋田と青森なのである。もともと青森県では少量ではあるが石油も産出していた。近年、冬期の暖房に地中熱源ヒートポンプ方式が取られている。地下50-100mの穴を掘るとそこの温度は年中15°くらいになる。熱交換システムでこの温度を冬は暖め、夏は冷やして空調として利用する。将来的には設置費用が安くなれば、CO2の排出削減や冷暖房費の削減につながる。すでにこの方法は歩道の融雪にはかなり使われており、非常に有効である。
 青森県は資源に恵まれており、雪が多く、水資源にも事欠かないし、ブナを始め、木材生産量も多い。このように青森県は水産資源、農業資源、水資源、木材資源などに恵まれている。

 ほかにも青森県の特徴としては、陸海空の3軍の基地が県内にある。海上自衛隊は大湊と八戸に、陸上自衛隊の第9師団が青森に、航空自衛隊が三沢にある。またミサイル防衛については車力に早期警戒レーダー「Xバンドレーダー」とパトリオットミサイルが、むつ市の釜臥山山頂には超巨大なガメラレーダが設置され、ミサイル防衛に活躍している。またアメリカ空軍の三沢ベースもあり、陸海空軍がこれだけそろった県は他にないであろう。

 俺ら東京さ行ぐだ(吉幾三)では、青森県に何にもないとして、テレビ、ラジオ、自動車、ピアノ、バー、電話、ガス、バス、新聞、雑誌、信号、電気がないと歌っているが、今や資源の面では東京よりはるかに恵まれている。それでも若年者を中心とした都市部への人口流出は止まらない。この原因としては地元に仕事がないためで、仕方なく、東京に出て行く。青森の最低賃金645円は東京の821円の79%であるが、有効求人倍率が0.29倍と低い青森県では、賃金実態がこの最低賃金に近いため、東京との賃金格差はもっと大きい。厚労省の勤労労働調査の現金給与比較によれば、製造業では賃金は東京の48.6%となっているが、これが実態に近く、ほぼ半分である。これだけ安い賃金でも青森県では自宅通勤のため、生活が可能であり、若くて優秀な人材を集めることができる。介護ヘルパーの人材確保は難しいとされているが、青森県ではそれほど難しくなく、離職率低い。それだけ仕事がないせいであり、エネルギー資源、食料資源以上に青森の大きな資源が人的資源であろう。中国でも賃金が上昇してきており、勤労意欲や労務管理などを考えるとそろそろ日本への製造業のリターンを視野に入れる必要があり、その場合青森県は人的資源の上でも魅力的である。

2010年11月8日月曜日

チンキャップ



 上あごに比べて下あごが大きく、かみ合わせが逆になっている骨格性反対咬合の治療法のひとつとしてチンキャップ治療があります。頭に帽子のようなものを被り、オトガイ部にキャップをつけ、帽子のようなものからゴムをこのキャップにつけて下あごの成長を抑えるものです。

 私のところでは開業当初はこのチンキャップを使っていましたが、今ではほとんど使っていません。以前、矯正学会のセミナーで5つくらいの大学にチンキャップを使っているかと質問したところ、5大学ともチンキャップはほとんど使っていないとのことでした。中の一校は、チンキャップの研究で有名なところでしたので、おそらくは全国の大学のほとんどで今やチンキャップは使われていないのでしょう。

 日本は欧米に比べて反対咬合の症例は多く、その治療法についての研究も古くからありました。東北大学の坂本教授のころが、最も研究が盛んで多くのチンキャップの研究が発表されました。大体1970-85年ころの話です。そのため多くの大学でもチンキャップによる治療が行われていました。私がいた東北大学、鹿児島大学でもほとんどの反対咬合の症例でチンキャップによる治療を行っていました。来院患者5人のうち3人がチンキャップの患者さんという状態です。来る度に「がんばって使っていますか」、「もっと使う時間を増やしなさい」、「使わないと良くならないよ」と言い続け、10年以上、ほぼ3か月ごとに来てもらいます。子どもは親からも先生からも叱られ、多くの場合、途中で挫折します。中には10年以上もがんばってきた挙げ句、結局は手術という症例もいました。術者にしても患者、その親にしても効果がはっきりしませんが、他にあごに対する治療法がないため、この方法が長く使われてきました。

 1985年ころから、東北大学の教授が三谷教授に変わったことから、もう一度チンキャップ治療の見直しが行われ、それに伴うクラスIIIシンポジウムというものが1995年ころから毎年開催されました。そこではチンキャップの効果が疑問視され、一時的に効果があっても最終的には抑制された成長は後でその分がキャッチアップされる、あまり確実性のない治療法とされました。同時期に欧米から上顎骨前方牽引装置、これはフレームのようなものを顔につけ主として上あごの成長を促進させる装置、の関する研究が多くなってきました。こういうことから2000年を境に、早期治療では上顎骨前方牽引装置による1,2年間の治療、その後は経過観察を行い、成長終了時に手術も含めた治療方針を決めるというガイダンスが一般化してきました。さらには上顎骨前方牽引装置による治療も確実性は低いので早期治療では前歯の改善のみ行い、その後は経過観察だけするというのが、今や主流かもしれません。この頃からチンキャップ治療は全国的に使われなくなったと思います。

 ただ大阪歯科大学は割と長くチンキャップの研究をしていたようですし、臨床家としては徳島の黒田先生、松本歯科大の出口先生、仙台の糠塚先生はすばらしい症例を発表していました。昔、山形の沓沢先生という方がおられ、チンキャップの終日使用、食事、歯みがき以外はすべての時間、学校に行っている時も使わせていました。そして完全に成長が終了するまでチンキャップの終日使用を続けさせていました。沓沢先生の症例をみると、よくこのひどい骨格性の反対咬合が治ったなあというものが多く、本当にびっくりした記憶があります。30年前の話ですが。先生はもう亡くなりましたが、それにしても患者も先生もよく続けたと思います。

 一方、チンキャップを長期に続けた患者の声も出始めました。当然お子さんの性格にもよるのですが、使っていないと先生、親に怒られ、青春期に相当心理的な負担が大きかったようです。私も長女、次女の上顎骨前方牽引装置による治療を行いましたが、1,2年が治療感覚としては限度のように思えます。10年を超える治療は、患者、ドクターともくたびれていまます。途中、休みながら治療していかないと、疲れてしまいます。

 こういったことから、ここ数年学会誌からもチンキャップの研究はほとんど見なくなり、たまにチンキャップをしている子どもにどこで治療しているのと聞くと、年配の一般歯科の先生にところで治療しているようです。学会、シンポジウムに参加しないと新たな情報が入らないからです。今や矯正治療もグロバルスタンダード化しており、日本独自の治療法というものが少なくなりました。チンキャップはそういった治療法でしたが、成長をコントロールすること、とくに成長を抑制することは不可能であり、骨格性反対咬合の治療法は歯の移動による代償的な改善と手術を併用した治療法しかないという方向になっています。すなわち反対咬合の患者さんは、取りあえず前歯のかみ合せを治し、成長終了後に歯の移動で治すか、手術を併用するのかを決定するということです。これが世界共通の考えのようです。

 こうしたことを書いているところに、本日、アメリカ矯正歯科学会雑誌の最新号(138巻4号2010)が届きました。その中に久しぶりにチンキャップの研究が載っていました。ミシガン大学のBarettという人の「Treatment effects of the light-force chincup」という研究です。顎関節にできるだけ負担をかけないように弱い力を用いる方法で、日本でもなおチンキャップを積極的に使っている先生もこの方法です。結果は、チンキャップによる治療は歯の移動を行うが、骨格的な影響はなかった、あごのに対する整形力はなかったというものでした。最近の考えに近い結論です。

2010年11月3日水曜日

最勝院および大円寺



 現在、弘前高校のあるところには、かって慈雲院という黄壁宗の寺があった。明治2年地図では、寺内に本堂のほか、六角堂や松尾芭蕉の句碑である「翁塚」があったようだ。天神という記載もあるが、字句通り学問の神、菅原道真を祀ったものか。また兼松石居(三郎)の墓とわざわざ記載されており、明治2年当時、兼松石居は著名人であったのであろう。いずれにしても学問の神、天神と、儒学者兼松石居の墓があった慈雲院に、1893年に青森県尋常中学校(弘前高校)が移転してきたのは、ふさわしい。比較的、地所の割に建物などが少なかったからであろうか。また寺内には「名誉櫻」という記載がある。何かいわれがある桜のようだが、詳細はわからない。当時は弘前城には桜が少なく、ここの桜の方が有名であった。

 以前のブログでは新寺町には禅宗以外の寺が集まっていると書いたが、この慈雲院は黄壁宗という禅宗であり、座敷、庫裡、方丈などの座禅をくむ建物も附属している。日本でも珍しい宗派であることと、禅林街はすべて曹洞宗であることから、弘前ではどちらかというとマイナーな宗派で、明治初期にはさびれ、学校誘致のために簡単に廃寺されたのだろう。

 すぐ横の大円寺もかわいそうな寺である。田町にあった最勝院が神仏分離令のため明治3年に銅屋町、大円寺のあるところに移った。そのため大円寺は押し出されるように大鰐の方に移された。この地図はその前年のものであるため、田町にあった最後の最勝院の姿を残している。

 最勝院は、二代津軽藩主信枚により弘前城の鬼門にあたる北東の地、田町に1611年に移された。本丸を中心にした完全な北東、鬼門のおさえとして歴代の城主から厚い保護を受け、寺禄は三百石という。敷地も今の石鳥居のあるあたりから八幡神社までのすべての土地で、東覺院、 正覺院 、大善院、 教王院 、觀喜院 、寶成院 、西善院 、徳恩院 、普門院 、龍蔵院 、神徳院 、吉祥院などの12の塔頭寺院が附属していた。現在の地図で見ると、南は鳥居のある熊野神社から北は八幡神社の奥の方まで、東は市営住宅の裏にある大久保堰まで、西は交通公園の向こうくらいまで、敷地があったようで、今の市営住宅当たりに本堂や学寮などの寺の施設があった。かなり大規模な建物だったであろう。また最勝院西の、今の時敏小学校あたりに会田熊吉砲術射的場があったようで、江戸末期にはここで鉄砲の訓練をおこなったのであろう。

 今も現存する弘前八幡宮には御吉兆場というものがあるが、ここでうずらを飼っていたようだ。また地主堂というものが本堂の左にあり、実際には確かこのあたりに稲荷神社があったような気がするが、一度確かめたい。

 先週の弘前ロータリークラブの卓話で、この明治2年弘前地図を持って話をしてきた。会員の皆様からは好評を得たが、実際の現物を見ると、写真とは全然違うとの感想をもらった。ブログにあげているような拡大した写真の方が字がよく読めて何かを探すのにはいいが、全体の雰囲気を知ることはできない。これだけ緻密な手書きの地図となると、あたかもインドの細密画を見ているような感じがする。学生の頃にインドに行った折も興味があり、インドミニチュアールの博物館やお店を訪れ、多くの作品を見て来た。あまりに細かい描写にまず感動し、細部、全体、細部を繰り返しながら作品を鑑賞する。それを繰り返すうちに作品の世界に入っていく、これが細密画の鑑賞法であろう。明治2年地図でも、単に地図という枠を超え、手書きの墨の文字があたかも模様のように感じられ、ひとつの芸術作品と呼べるものである。ロータリーの会員の感想にも、そういったものが多く、保存状態のよさに一様に驚きをもっていた。明治初期の弘前を知るという点では地図のデジタル化も重要ではあるが、芸術作品としても地図そのものが弘前市民にとっては大事であると感じた次第である。

 印刷会社も経営している会員のひとりに、地図のデジタル化について相談したところ、4分割くらいすれば何とかスキャンしてデジタル化できるとのことであった。またあるひとには、製作当時のままで状態がいいが、できれば早めに裏打ちした方が傷まなくてよいとの指摘を受けた。大きな地図では、通常折りたたみ保存しがちだが、そういった保存法では折ったところがだめになり破れてくる。この地図は紙の筒に巻いて保存していたため、痛みが少ないが、それでも長期の保存を考えると早めに裏打ちして頑丈にした方がよいであろう。長い製図筒のようなものがあればいいのだが、適当な大きさのものがない。

2010年10月24日日曜日

山田兄弟32



 佐藤慎一郎という人は、誠の教育者であり、死後かなりたつが、教えを受けた多くのひとから未だに慕われている。山田良政、純三郎兄弟はいとこ、佐藤先生の母の兄と弟にあたり、ひょんなきっかけから中国に渡り、中国で小学校の先生や満州国大同大学教授、建国大学研究員などをし、戦後は長らく拓殖大学で教鞭をとった。その長い中国生活を通じて学んだ中国学は実学に基づくもので、教えを受けるものに深い感銘を与えた。佐藤先生の座右の銘は孟子の「冨貴不能淫、貧賤不能移、威武不能屈、此之謂臺大丈夫(地位や金で誘惑されても、心を動かされることがない、貧しい状況に追い込まれても、守っている行いは変えない、権力や武力で責められても、志が揺らぐことはない、これこそが「大丈夫」というべき人である)」で、佐藤先生はこの孟子の言葉通りに生き抜いた。

 知人からこの佐藤慎一郎(東洋史)教授の中国(支那)学の足跡という論文をいただいた(拓殖大学百年史研究4号、平成11年)。佐藤先生の教え子、関係者による対談集である。佐藤先生のことは弟子のひとり寳田さんのまほろばの泉にくわしく書かれているが、この論文には佐藤先生のおもしろいエピソードが書かれているので一部紹介したい。論文は次のところからダウンロードできるので興味を持たれる方は是非読んでほしい
(http://ci.nii.ac.jp/naid/110000037354)。

 佐藤先生が中国にいた時、何を思ったのか中国の排日デモに参加した。一度目は昭和2年の秋に、同宿の中国人学生に誘われ、日当70銭が出るからと参加し、デモ終了後には皆で飲みに行っている。2回目は昭和10年12月9日の「129」事件で、北京の学生が「打倒日本帝国主義」、「華北防共自治反対」をスローガンに排日デモをおこした。佐藤先生は持ち前の実学主義から「本当に国を愛する中国学生と心の底から語り合いたい」との情熱から日本人でありながらこの排日運動に参加した。実際に参加してみると、北京大学も東北大学らの興奮した大勢の学生もいたが、排日の排の字も、侮日の侮の字も感じられなかったそうだ。こんな中でもうどん屋では民衆がうどんをすすり、警官に叩きのめされて血を流している学生をみても、見物している民衆は誰ひとり助けようともしない。これが中国なんだ、完全に失望したと述懐している。後年この運動は激しい愛国運動と記録されているが、先生に言わせれば「歴史として書かれたものは、中国の排日運動はもの凄かったとなっているけれど、その実態はその中に入ってみないと解らない」している。同様に歴史的に名高い愛国運動「五四運動」についても、このデモに参加した石橋丑雄氏の回想では「私が傍らにいた学生に何でこんな運動をするのかと問うたのに対しては、実は自分でも何故にこんなことをするのかよく判らないが、北京大学の教授間に今日の集会をするようにとの話が決定したとのことで出て来たまでだとの返答であった」、「五四事件直後の北京の学生の中にはほとんど連日かり出されて、一日若干の日当をもらう者もあった」と証言している。

 この情景は、そのまま昨今中国各地で行われている反日デモと似ている。参加している学生達が携帯電話で競って写真をとっている状況をみると、本気で反日デモをしているようには思えない。マスコミは、大げさな報道をするが、それほど気にするほどのものでもない。一度、人権問題に関するデモを鹿児島で見たことがある。わずか10名くらいの、近所の活動家で、変人呼ばわりされている人や、趣味でそういった集会するのが好きなひとが集まっていた。こんな集会は誰一人相手にもしないようなものだが、次の新聞をみると、画面一杯に10名の写真を載せ、すごい運動をしているような記事で、あきれると同時に、マスコミがこういうことをするから彼らがつけ上がると感じた。

 お別れ会での拓殖大学椋木瑳磨太前理事長の挨拶も載っている。「広州の黄花岡の七十二烈士のお墓がございます。文化大革命の最中、山田良政先生のお墓に参じようとしまして、お墓の前まで行きましたが、治安当局の阻止によってそれが適いませんので失礼いたしました」との話がある。七十二烈士墓は1911年4月に決起され、清政府の弾圧で亡くなった革命党員72名を祈念して祀ったものであるが、どうして山田良政の墓がここにあるのか、椋木先生の全くの思い違いか、それとも少なくとも文化大革命当時まではここに山田良政の墓があったのだろうか、南京の山田良政碑と同じような新たな疑問が生じる。すでに椋木先生も亡くなり確かめようもないが、今でも残っているのであれば、おもしろい。

 南京中山陵にある山田良政の碑については、未だ不明であるが、ここで広州の山田良政の墓というのが新たに登場した。本当にあるのだろうか。誰か知っている人がいれば、教えてほしい。

 またインターネットをみると、最近は中国でも山田兄弟に関する情報が多くなり、2007年に書かれた華東師範大学教授、易惠莉の論文「关于山田良政的研究」はよく引用されている(http://history.ecnu.edu.cn/sxzlk/000312.html)。彼女は東京大学にも留学経験のある中国現代思想研究家であり、日本の2書を参考にしながら、山田良政に関するかなり詳細な論文をインターネット上で発表している。中文で書かれた最も詳しい解説と思われる。保坂正康著「孫文の辛亥革命を助けた日本人」は、最近ちくま文庫から復刊されたが、できれば結束 博治著「醇なる日本人—孫文革命と山田良政・純三郎」(プレジデント社)もどこかで文庫として再販してもらうとうれしいし、上に挙げた研究者は十分に中国語訳が可能なので中国での出版も検討してほしい。日本政府、関連団体により中国語訳への積極的な支援あるいは協力をすることは、文化交流の一環としても必要なことと思われる。

2010年10月21日木曜日

山田兄弟31



本年の6月に東奥日報の明鏡欄に投稿し、不採用になった原稿である。
 
「今年7月から上海万博が開催される。本県からも青森県ウィークと称して、青森県の観光、物産、文化などを広く世界に向けて発信する催しが行われる。美しい自然、豊かな物産、アピールするものが多い青森県だが、それ以外にも日中交流の大きな遺産がある。
 孫文の自叙伝の中に、「中国革命に尽くして終生怠らざりし者に、山田兄弟・宮崎兄弟・菊池・萱野がある」と記されている。山田兄弟とは、良政、純三郎の兄弟をさし、良政は孫文最初の革命、明治33年恵州起義にて外国人として初めて犠牲となり、弟純三郎は兄の遺志を継承し、孫文の秘書として最後まで革命に生涯をかけた。また菊池とは、菊池九郎の長男、衆議院議員の菊池良一のことで、孫文と日本政府との仲介を行った。いずれも弘前の出身である。さらには五所川原出身の櫛引武四郎は、恵州起義をからくも生き残るが、大正2年の第二革命で南京にて戦死した。これ以外にも黒石の宇野海作ら、多くの本県出身の先人たちが、中国革命に参加し、近代中国の建設に貢献した。
 中国と青森県との友好関係を語る上で、これら先人の事跡は大きな遺産である。上海万博でも中国の方々におおいにアピールしてもらいたい事柄である。」

上海万博では、すでに孫文の金銭的援助を行った梅屋庄吉さんのお孫さんの小坂文乃さんが熱心に活動され、日本館に付随する施設で、「孫文と梅屋展」を開催し、大成功をおさめた。その後、この展示会は北京、武漢でも行われ、日中合作映画まで話が進んでいるのは前回のブログで述べた。さらに今年7月には、高校の先輩でもある防衛大学校校長、五百旗頭真を代表とする辛亥革命百周年記念行事日本実行委員会が設立され、福田元首相や西原春夫元早稲田大学総長など蒼々たる顔ぶれが名を連ねている。そして長崎県が全面的にバックアップしながら北京、上海、武漢などでの展示会を、神戸、東京でのシンポジウムとフォーラムが予定されている(http://xinhai-sunwen2011.org/page3_01_03.html)。

 また梅屋庄吉の故郷の長崎県ではこれを機に、長崎県知事自身が訪中し、次期最高指導者に内定した習近平副主席と会談した。地方代表者との会談は異例なことである。熊本県荒尾市は同じく孫文を援助した宮崎滔天の故郷であるが、市を挙げて大々的な辛亥革命100周年記念事業を計画しており、また熊本県はこれをチャンスと来年行われる日中首脳会議の場所として誘致活動を行っている。

このように梅屋の故郷、長崎県でも、宮崎滔天の故郷、熊本県でも、辛亥革命100周年を前に県、市をあげて記念事業を計画しているが、それでは山田良政、純三郎の故郷、青森県、弘前市では何か計画しているだろうか。全く、それこそそんなささやきすら聞こえない状態である。辛亥革命100周年、それがどう弘前、青森と関係があるのか、山田兄弟、そんなの知らないというのが現実である。本年は山田純三郎没後50年、良政没後110年の記念すべき年で、3年前から弘前市、あるいは博物館に記念展をしてもらおうと動いたが、すべて却下され、実際は東京の有志主催による法要を貞昌寺で行っただけだ。山田兄弟の資料のほとんどを所有している愛知大学の現学長が弘前市出身、弘前高校卒業であること、愛知大学の先生方も非常に協力的であることなど、好都合な点があった。さらに中台接近に伴う中国政府および台湾政府高官の訪弘や、日本のみならず中国、台湾のマスコミによる取上げも十分に可能で、つてもあったが、地元の賛同者はなく結局、何ら記念事業はできなかった。

 上海万博でも我が三村知事も青森県ウィークに参加して青森県のリンゴや観光をアピールしたようだが、その折、誰か中国政府の要人を会ったのであろうか。長崎県知事が、言い方は悪いが梅屋をだしに、中国要人のトップと会談したのに比べると、山田兄弟の戦略的な価値も知らない青森県にはそんな外交的なしたたかさはない。同様なことは、台湾政府についても言え、台湾にリンゴを売るなら、トップの馬英九総統に直接会った方がよいし、山田兄弟を絡めればそういった段取りも不可能ではない。現に、先の身内だけの山田純三郎没後50年法要においても、わざわざ駐日大使に相当する台北駐日経済文化代表が墓前供養のためだけに東京から来られ、また中国領事も来る予定であった。こういったことは県、市職員も知らないであろう。中国、台湾政府にとっても山田兄弟への関心は今もって高い。

 一方、山田純三郎没後50年記念展を企画した折、関係者から「戦前の中国において日本軍国主義の片棒を担った人物を弘前市で紹介することはできない」と言われた。全くの誤解であり、山田兄弟ほどこういった考えと無縁の人物はおらず、梅屋と同じように一生を孫文の革命に尽くした。

 東奥日報に投稿したのがボツにされたのも、多少は腹が立つが、それ以上に長崎、熊本、東京などが上海万博あるいは辛亥革命100周年にむけて活発に活動しているに対して、山田兄弟を生んだ青森県では、その戦略的な価値を知らず、全く何の関心もないのが、もっと腹立たしいし、まどろっこしい。それでも山田兄弟のことを尋ねて遠いところから、弘前に来てくれるひともいてうれしい(http://uraji.paslog.jp/article/1620953.html)。

2010年10月17日日曜日

山田兄弟30



 来年は辛亥革命100周年で、中国各地、台湾でも大掛かりな催し物が企画されている。すでに中国、台湾では多くの孫文関連の記念館や博物館があるが、100周年を前に、設備、建物の拡張が行われたり、新たな記念館が作られている。ただ孫文関係の展示物となると本土には少なく、日本に多くあるため、関係者は展示物収集で大変であろう。

 100周年に際しては、他の記念事業として辛亥革命に協力した日本人を描いた日中台合作の映画も作られるようである。今のところ詳細は不明であるが、孫文の革命を金銭的に助けた梅屋庄吉さんのひ孫、小坂文乃さんによれば、監督菅原浩志で、タイトルも「レボルーション1911」という日中合作映画の話がだいぶ進んでいるようだ。現在、中国、香港でも上映できるためにシナリオの許可申請を行っているようだ。小坂さんのインタビューでは梅屋庄吉さんがシナリオまで書いて、生前製作したかった「大孫文」という映画を是非、上映したいと抱負を語っていた。内容的には梅屋夫婦と孫文夫婦との友情を描いたものとなろう。

 これと同じ話かもしれないが、角川映画による日中合作映画の話もある。孫文の革命を支えた日本人がいたことを記した本として『革命をプロデュースした日本人』(講談社)と、『孫文の辛亥革命を助けた日本人』(ちくま文庫)が 出版されている。これらをベースにしながら、孫文とその日本人との手紙など、新たに見つかった遺品とともに、ストーリーを構築すると見られている。前者の作品は梅屋庄吉、後者の作品は山田良政、純三郎兄弟を描いたもので、孫文とそれを支えた日本人に焦点を当てたものとなる。

 また夕刊フジ紙面では8月23日から、歴史作家、井沢元彦氏による連載小説『友情無限 孫文に1兆円を与えた男』が始まっている。これは梅屋庄吉を主人公として小説で、大手映画会社がこの小説を原作として映画を作るとの話もある。

 いずれも企画段階だが、実現する可能性は高い。ちなみに梅屋庄吉がやりたかった映画「大孫文」の内容が「革命をプロデュースした日本人」に載っているので紹介したい。

 この映画で梅屋は孫文の生涯を描きながら、日本が革命の拠点になったことや、革命を支援した日本人の存在を中国の人々に知らしめたい。それによって日中関係を改善に向かわせたいというもので、昭和5年に企画された。登場人物は、孫文、蒋介石、黄興、陳小白、宋慶齢、袁世凱、ジェームス・カントリー博士、頭山満、犬養毅、山田良政、梅屋庄吉で、オールカラー5時間に及ぶ大作だったようである。資金不足と日中関係の悪化により中止となった。

 現在、尖閣諸島問題で、日中がぎくしゃくしている。日本、中国政府双方が鎮静化に必死であるが、それに逆行するような反日、反中デモが行われ、なかなか友好関係の修復のきっかけが掴めない。この原因としては、中国における経済格差、富裕と貧困の二分化などの社会的な問題と、それに不満な若者の屈折がその背後にある。20歳の若者からすれば、70年前の日中戦争というのは全く実感のない世界であり、それを感覚として憤るいわれはない。また尖閣諸島の問題にしても、おそらくは多くの若者からすればその位置すら知らないところで、その領土うんぬんの話はデモに参加する若者の生活には全く関係はない。中国からの留学生を数多く接しているが彼らをみていると、中国人の本音と建前の使い分けは実にうまい。本音としては自分たちの暮らしが幸せで平和であればよいという素朴なもので、政府に関しても、自分たちに益するなら、支持するし、従うといったものである。反日デモくらいでガス抜きしてもらった方が政府、若者にとっても都合がよく、富裕層への反発という形でガスが噴出するのが最も怖い。昨日のテレビで、上海のクラブで踊る金持ちの若者たちを映していた。VIP席は日本円で5万円だそうで、こういった自分たちの年収にも相当するところで遊ぶ同世代の若者、職もない、貧困な若者からすればこれほど憎悪の対象はない。プロレタリアートによるブルジョアへの憎悪と反乱、これこそが革命であり、社会主義国でプロレタリアート革命が起きたのでは、それこそシャレにもならないし、国の根幹にも関わる。

 中国政府は、国民の不満のはけ口として反日、愛国教育をおこなったが、あまり効果はなく、かえって日本の反発や、韓国以外のアジア諸国の共感もなかった。酔っぱらい船長の気違いじみた行動を英雄的な行為としなければいけない世論を作ったのはこういった教育結果であり、今回の強引な中国政府の対応により、うちの家内のような普通の主婦さえも嫌中にしてしまったのは、まずかった。さらにこのことは、日本の防衛意識を喚起させ、防衛費増大に対する抵抗はなくし、日米軍事的同盟を強固にする。実際、北朝鮮のミサイル発射が問題になると、すぐに軍事衛星、ミサイル防衛が整備されてきた。現在では、ロシアの脅威は減り、北朝鮮とはいいながら、日本の仮想敵国は完全に中国となっている。今回の事件は、完全にこういった考えをプッシュするもので、両国の軍事競争につながる恐れもある。さらに軍事競争が愛国主義と連動し、ちょっとした事件が、マスコミが取り上げ、大げさになっていくのは、先の戦争での朝日新聞などに代表されるマスコミで経験済みである。

 力を背景にした強権的な態度は、各国の反発を招くだけであり、まず青少年の教育の中に、愛国主義も結構だが、日中の友好、孫文の辛亥革命を助けた日本人を取り上げることは重要と思われる。日本とトルコが友好な関係を示しているのは、エルトゥールル号遭難事件をきちんと教科書で紹介していることも要因のひとつである。日中が友好な関係になるためには、嫌いなところがあっても構わないし、嫌いなひとがあってもいいが、少なくとも、山田兄弟や梅屋庄吉のことをきちんと両国で伝えることが、長い意味では両国の得となるのではないかと思う。それ故、来年の辛亥革命100周年はいい機会である。日本、中国、台湾政府とも、三国の友好の象徴として梅屋や山田と孫文の関係を描いた映画を取り上げてほしいし、上記の2冊の本の中国語への翻訳なども期待したい。

ちょっと長いが小坂さんのインタビュー

2010年10月12日火曜日

弘前城 2




 いよいよ本丸に入る。下乗橋から入ると、左手に見張所があり、その奥に腰掛所がある。この腰掛所というのは別の所では腰掛屯所となっているが、登城する主人を待つ供侍の控所という解釈もあるが、ここでは門に伴い設けられている番所の詰所であろう。右に折れると中門があり、すぐ左にはまたもや見張があり、厳重である。というのは本丸玄関左に御金蔵があるからである。右には天守があり、堀に沿って腰掛屯所、見張所、井戸、陸尺詰所(ろくしゃく)が並んでいる。陸尺とは駕篭や輿を担ぐ人夫をさすようだが、城内の掃除、賄いなどの雑用を行う人たちがいたのであろう。

 本丸の形が実際とは全く違うのに気づくであろう。本来、本丸は北南に長い長方形だが、地図では東西に長い長方形になっている。これは本丸御殿の大奥に当たる部分が削除されているため、御殿自体が横に長い長方形になっているからである。藩主夫人が住む奥については、一般の人が知る必要がないことなのでわざと削除したものと思われ、それを省いてしまうと、何となく本丸そのものも東西に長い長方形になったのであろう。

 玄関を入ると、広間があり、その右には御従目付の部屋が、奥には祐筆の部屋、䑓子の間(茶室)、さらに奥には中之口、御目付の部屋が続く。広間左奥には大目付、御用人、御家老などの重役の部屋が、その奥には御坊主方、奥詰席などがあり、一番奥が台所となる。

 玄関から左にずっと行くと、表御座敷、同下ノ間、御小院、浪之間、山吹ノ間、さらに行くと、芙蓉の間、竹の間、菊の間、四季の間、松の間、西湖の間といった旅館のような部屋が続く。おそらく襖絵に由来した部屋名であろう。左の一番奥には御武芸所と殿様が日頃いた御常殿があった。

 西湖の間の奥は、中奥、御座敷、御広敷となり、本来はこの奥に夫人、側室、女官が住む大奥があるが、地図では砂ノ小庭があるだけで削除されている。この庭の横には御三階御物見があり、三層の物見櫓があった。通常、天守のことを御三階物見というが、ここでは天守と対角にあるこの櫓を御三階物見としており、少し大きな櫓であったのであろう。この櫓の下の二の丸に、神武遥拝所の名があるが、名前から見ても明らかに明治以降のものであろう。二の丸のここらには鉄砲場、矢場、武具、武器庫が並び、それを管理する役所があった。

 本丸に戻ると、竹の間、芙蓉の間の前庭には御舞台と楽屋があり、ここで能などが演じられたのであろう。楽屋の裏には見張所が、横には藩の文書を収めた御日記舎があった。

 本丸から北の郭へ抜ける門は、不通門となっており、普段はおそらく閉じられ、本丸への入口は中門のみに限られていたのであろうか。また二の丸、武器庫の所には埋門という変わった名が見えるが、非常口で戦の場合は文字通り埋められた。

 「津軽ひろさき・おべさま年表」(弘前観光コンベンション協会発行)の最後の見返しに「弘前舊城本丸建物之圖」という詳しい本丸御殿の図が載っている。配置は大体似通っているが、細部は異なる。西湖の間や松の間は本丸御殿の図には載っておらず、四季の間の配置も違う。また能舞台や御日記舎の配置も幾分違う。「弘前舊城本丸建物之圖」と明治2年地図では、時代が違うことで部屋の配置も違っているのかもしれないが、むしろ明治2年地図は記憶に頼って描いているうちに方向がわからなくなったのであろう。廊下も庭もなく、あの部屋の隣にはあの部屋があるといった感じで描いていったのであろう。玄関入って、右奥には便所の名が見えるが、屋内の大きな便所はここくらいなので印象に残っていたのであろう。

 前回は三の丸の亀甲門あたりを省略したので、ここで追加する。亀甲門を入った北ノ丸には、木材や縄、藁など雑多なものを扱う作業所が集中している。まっすぐに行くと左の門があり、ここが作業方で縄、材木などを扱う作業所と役所があった。面白いのは兼平石入所というところで、岩木高舘山で産出される安山岩の独特な平らな岩、兼平石を扱っていたのであろう。また鳶、消防、畳、鍛冶などの職人もここにいたようだ。さらに赤丸で角力場があり、職人達がここで相撲をとったのであろう。亀甲門からまっすぐ行くと、右手には御鷹部屋、鷹掛席、餌差席などの建物があり、鷹匠がここで訓練していたのであろう。作業方の左の城外のは、亀甲御収納とあり、ここに籾蔵2ヶ所となっており、唯一城外のここに米貯蔵倉庫があったのであろう。

*将来的には、この地図もデジタル化して、それを収めたCD付きの本をだそうかと思っている。それで先日知人の写真屋さんに聞くと、きちんとデジタル化するには大掛かりな装置がいるとのことであった。レールのようなものを組んで、カメラを上下左右に動かして撮影するようで、費用もかかりそうである。少数部出版であれば、適当に自分で撮ってもいいかと考えている。

2010年10月11日月曜日

弘前城 1



 来年2011年は、弘前城築城400年ということで、各種の催しものが企画されている。その一番の目玉として本丸御殿の復元が計画されている。ただ復元に必要な平面図や立体図がなければ、文化庁でも復元の費用を負担しないため、実現が困難な状況になっている。市関係者も懸命に資料がないかどうか市民に問い合わせているが、今のところ決定的な資料は発見されていない。弘前城の本丸御殿が完全に取り壊されたのが、明治17年だから、写真や絵図など相当残っていそうなものだが、御殿の一部が映っている写真があるくらいで、資料は非常に少ない。

 明治2年地図でも弘前城内部についての記載があるが、大まかな配置を示したもので、御殿復元の資料になるような具体的なものではない。ただ弘前博物館にある明治4年の地図に比べてこの明治2年地図の方が、お城内部の描写についてはより詳しく、当時のお城内部のことがわかって面白いので、2回に分けて説明したい。

 東門、弘前文化センターのところから入ると、まず見張り所がある、さらに東門を抜けるとまた見張り所がある。今の植物園、三の丸には大きな建物があり、その右側から廻ると、物見に挿まれた門から入ると玄関、その奥には中ノ間、御次、御広敷があり、左には御座敷、御常殿、右には役員、御台所などがある。また御座敷の左には大きな庭がある。これが三の丸屋敷である。三の丸屋敷を出て、さらに進むと、もう一つの門が見えてくる。この門の左には金銭上納方、評定所、町方役所、人別役所があり、右には郡方役所や役員用諸品渡所がある。さらに奥には勘定所、銭蔵、山方役所、掛方役所、掃除小人詰所などの建物があり、一番奥に稽古館学舎と小さな庭、図書館に相当する書冊蔵などが附属する。勘定所の右には7つの籾蔵が並ぶ。籾蔵といっても、これは非常時用の備蓄米倉庫である。

 三の丸の、三の丸御殿とは反対方向には6つの籾蔵が並び、馬場がある。ここには井戸があるが、わざわざ笹井と名前がついている。下馬橋の手前には腰掛屯所があり、橋を通ると、見張所があり、そこから右に折れ、内東門から二の丸に入る。進むと二の丸御殿があり、その横には籾舎、白米舎などがある。昔は御休憩所で、本丸、二の丸、三の丸にそれぞれ御殿があり、そこで政務が行われたが、この書き方では、二の丸御殿は江戸末期にはあまり使われていなかったのであろう。二の丸御殿の前には御馬屋掛員詰所がある。さらに進むと、北門があり、その奥には6つの籾蔵と隅矢舎などとともに弘前城の守り神、御舘神、太閤秀吉稲荷がある。この稲荷は江戸時代には開かずの宮と呼ばれ、密かに津軽家を大名にしてくれた豊臣秀吉に感謝するために秀吉の木像を安置していたようだ。徳川幕府に知られると当然処罰の対象になるため、絶対の秘密であった。徳川幕府に忠誠を尽くしながら、城の守り神に豊臣秀吉を祀るあたり、なかなかのしたたかさと剛胆さである。明治2年地図では、当然堂々と豊臣秀吉稲荷と書かれている。この豊臣秀吉像は、明治後に東京津軽邸に移され、現在は革秀寺・津軽為信霊屋内に安置されている。

 二の丸御殿とは反対側には駕篭屯所、馬場、御宝蔵、御金蔵、矢舎などがある。太鼓楼という建物はここに太鼓を置いて城下の武士に登城の合図をしたのであろう。同様に見張所が3つあるが、追手門に近いところから、城門へ到着する早出、早馬、行列の先触などをいち早く発見して役人に連絡したところか。二の丸の当たり周囲は八寸角塀で囲まれているが、他の場所は多くは土塀となっている。

 ここまで三の丸、二の丸の建物について述べた。それぞれの建物は結構大きく、後の調査によると米貯蔵に使って籾蔵は、発掘されたもので4間×12間、8m×24mの規模、文献では20間、25間、40m、50mのものが、二の丸、三の丸に6箇所、6箇所、7箇所の計19箇所あった(その他紙亀甲町にも)。

 また津軽ひろさき・おべさま年表の見返しにある「弘前舊城之圖」を見ると、三の丸御殿は48間(約90m)、評定所は34間(60m)くらいあるようで、とてつもなく大きい。本丸以外にも二の丸、三の丸にも政治機能を司る多くの建物があり、役職によっては二の丸、三の丸だけで仕事は終わったのであろう。三の丸御殿についても、本丸御殿ほどの規模ではないにしても、十分にここで執務が可能な規模であり、本丸御殿とどういった役割分担があっただろうか。また「弘前舊城之圖」はいつ頃の弘前城の図であろうか。明治2年の地図は詳細ではないとしても、「弘前舊城之圖」とは建物の配置や大きさがかなり違う。稽古館を見ても、「弘前舊城之圖」では小さな「学校」、「土蔵」と書かれているだけだが、明治2年地図では規模が大きく、庭や図書倉庫もある。また評定所、勘定所の位置も幾分違う。明治初期、あるいは明治17年に壊される前の弘前城の状況は、明治2年地図に近いものだったと推測される。

*地図は2MBくらいで載せています。最新のマックであればIphone, Ipad同様に非常に簡単に拡大、回転ができ、こういった地図を見るのは本当に助かります。地図をさして、トン、画像がでたらもう一度、トン、指でさらに拡大し、二本指で移動、自由に簡単にかなり拡大して見れます。

2010年10月8日金曜日

君が代行進曲


 最近youtubeでよく聞く曲は、「君が代行進曲」です。アップしましたので聞いてみてください。よく耳にする曲ですが、題名が「君が代行進曲」と知っていたでしょうか。なるほどよく聞くと国歌君が代を行進曲にアレンジしたものですが、実に違和感なくなじんでおり、とても編曲したものと思わせないほど自然なできです。

 君が代が国歌に選定されたのは明治初期ですが、当時から外国の国歌に比べると君が代はじみで、ぱっとしないという意見があったようです。それならば行進曲にしようとしたのが、この「君が代行進曲」で、有名な軍艦行進曲よりは古い曲です。国歌をこう簡単に編曲しようという考えは、少なくとも太平洋戦争当時では不敬罪に当たるようなものでしょう。案外明治初期は国歌に対する思い入れは少なかったのかもしれません。

 思いつくだけでも、行進曲を国歌にしたのは、スペインの「国王行進曲」、トルコの「独立行進曲」、中国の「義勇軍行進曲」などたくさんあり、その他、多くの国の国歌も革命曲や軍歌など勇ましいものが多いようです。その中で、君が代はある意味国歌らしくない曲で、日本人でも歌う場合、やや気が滅入る曲です。とてもサッカーの試合中に歌って、選手を元気つける曲ではありません。それでも勇ましい国歌の多い中で、かえって目立ち、すぐに日本の曲と思い出してくれるでしょう。

 一時は、日教組や社会党により、国旗、国歌が忌避され、卒業式に歌わないと首にするといった物騒な話もありましたが、最近は若者の中にも自然に受け入れられてきました。先日も、フランスに交換留学生として1年間行っていた高校生が帰国しました。フランスのある集まりで自分の国の国歌を歌うことになり、彼女もみんなの前で君が代をひとりで歌いました。不思議なことに歌っていると知らぬ間に泣いていたようで、君が代は本当にいい曲ですと言っていました。

 ネパールの公募で決めた新しい国歌も聞いてみてください。ほとんど三橋美智也のカールのCM曲に近い、のんびりした曲です。こういった曲をわざわざ国歌に選定するとはすごいことです。一度、オリンピックの会場で流し、観客の反応を見てみたいと思います。でもネパールでは金メダルは無理か。

2010年10月5日火曜日

歯根吸収



 いかなる医療行為においても、100%安全、害を与えないものはない。薬を飲んでも、副作用があるように、矯正治療においても、治療そのものが害を与えることがある。

 ひとつは、歯の表面に装置を付けるため、歯ブラシによる清掃が難しくなり、虫歯が歯肉炎のリスクが高くなる。患者さんによっては、治療中に虫歯になるケースもある。ただこれは患者さんがきちんと歯みがきをし、フッ素塗布と併用することで防止できる。

 もうひとつの問題点は、矯正治療により歯の根っこが短くなる、歯根吸収がある。ひどいケースになると、矯正治療終了後のレントゲンで、全歯の根っこの長さが始めの1/3以下になることもある。このようなケースでは、歯は常に動揺があり、将来的に歯周病になり骨の高さが下がるようになると、抜ける可能性もある。

 それではこの矯正治療による歯根吸収の頻度はどのくらいあるかというと、高橋矯正歯科診療所の中村進先生の調査によれば(歯根吸収に関する臨床的考察 1997)、明らかに根の吸収が認められる2度以上(0度:根吸収なし、1度:疑わしい)の頻度は、治療前で約20%、矯正治療後で約80%だったとしている。歯根の吸収が1/4以上ある4度の頻度も5%近くあり、また歯の種類別では上下の前歯に集中している。不正咬合の種類では開咬(前歯が空いている)や上顎前突(出っ歯)の症例で多く、治療開始年齢が高く、治療期間が長いほど、歯根の吸収も憎悪する傾向があった。程度の差があっても、ほとんどの症例で歯根吸収があり、これは私のところでも同様である。

 この原因については、はっきりしない。最近の研究では、歯の移動においては常に骨だけではなく、歯根表面でも吸収と添加が繰り返されるが、骨の吸収が少ないと、歯根表面に強い持続的な応力がかかり、歯根の破折、吸収が起こりやすくなる(歯根吸収における生物学的考察 W.E Robertsら 2004)。これはIL-1B対立遺伝子の型による遺伝子要因が関与するとされている。歯根吸収しやすいひとと、しにくいひとがいるようである。すなわち歯の移動に際して、動かした方向の骨の改造がすばやく、動きやすいひとでは、歯根表面の吸収は少なく、逆に歯の移動がしにくいひとでは歯根の過大な力がかかり歯根が吸収してしまう。もともと歯根が短いひとや、歯根の形が変形しているひとでは吸収が起こりやすく、逆に根っこの治療をしている歯では吸収は少ない。結紮を必要としないセルフライゲーションブラケットでは根吸収は少ないとされ、矯正用インプラントを用いた治療法では根吸収は多いとされている。さらに言うと、治療期間が長いほど根吸収の頻度、程度は増大する。また歯の移動距離が長いとそれだけ歯根吸収も大きい。小児より成人の方が根吸収しやすく、歯を動かす力が大きいほど根吸収しやすい。

 歯根吸収の多くは、根っこの先の方、いわゆる根尖というところに見られ、とんがっている歯根が吸収されて丸くなる。この理由としては、歯は歯冠という歯茎からでている頭の部分と、骨の中に潜っている胴体部の歯根に分かれる。矯正治療ではこの歯冠の部分に矯正装置をつけてワイヤーやゴムの力で歯を動かす。土の中に木が植えられ、それを動かすようなものである。この場合、力の中心は歯根の2/3くらいになるため、てこの原理で根尖部へ過大な力がかかりやすい。一方方向への動きであればいいのだが、咬む力や舌の力、ほっぺの力が歯の動く方向とは逆の力として働く場合、そういった反復性の過重、いわゆるジグリングと呼ばれる動作が歯の疲労破折を起こし、根尖部の根吸収をおこす。こういうことで矯正治療による歯根吸収は根の先、根尖におこる。

 歯根の吸収がおこっても、ほとんどの場合、問題はないが、吸収が大きい場合は、治療目標を変更して、妥協的な治療法に切り替えることもある。そのために治療途中にもレントゲン写真を撮り、必ず歯根吸収はチェックする。

 よく床矯正やインビザラインのような取り外しのできる装置、あるいは非抜歯による治療は、歯根吸収は少ないとされているが、これは単にこれらの治療ではあまり大きな歯の移動を行わないからであり、どのような矯正治療においても歯根の吸収は起こる。できるだけ弱い力で、短期間で治療する、あるいはあまりこまめにワイヤーを変えないようにして治療をしているが、あごの華奢な患者さんではあごが小さく、華奢だけでなく、歯冠は大きいのに歯根は細く、短いということがよくある。こういった歯根の大きさや太さは、患者によりかなり差があり、大きな歯根では多少根が吸収しても全く問題がないが、もともと短い歯根では治療による歯根吸収の影響が大きい。歯の大きさ、歯根の大きさは遺伝的に決まるとされているが、白人に比べて日本人ではどうも歯根は短い。白人は頭が小さく、足が長いのと同じように歯冠は小さく、歯根は長い。それに対して、日本人は頭が大きく、足が短いように、歯冠は大きく、歯根は短い。最近の子供は昔の子供に比べて足も長くなり、スマートになってきたが、歯根はむしろ昔より短く、細くなっているようで、そういった意味では日本人の矯正治療は難しい。歯根の吸収にも気をつけないといけない。

2010年10月3日日曜日

第69回日本矯正歯科学会



 先日、第69回日本矯正歯科学会大会(横浜)から帰って来ました。以前は参加者も1000名以下でしたが、認定医の更新のためか、最近は実質参加者も2000名は超え、大きな大会となっています。矯正歯科関係の会社も商社展示というかたちで毎年参加し、今年は69社の参加があり、かなり金のかかったブースを用意していました。日本の歯科学会の中では最も派手な学会でしょう。

 アメリカ矯正歯科学会ができて110年、日本矯正歯科学会も創立は1926年ですから、すでに84年たつことになります。今年のテーマは「温故知新」で、年配の先生たちから若手へのメッセージなども企画されていました。その中で東京医科歯科大学の三浦名誉教授の話の中で、矯正歯科が日本に持ち込まれたのはアメリカの占領軍のおかげだと述べていました。戦前にも日本矯正歯科学会はありましたが、歯科臨床の中で存在は薄く、全歯科治療の中の1%以下を占めるに留まっていました。ところが戦後、日本の医療教育制度を変革しようとやってきた米軍担当者は歯科では補綴、保存、口腔外科の3科だけでなく、矯正歯科もそれと同等の教育をせよということになり、これら主要3科に加えられることになったのです。ただ日本の場合、厚労省では昭和50年代に入るまで、矯正歯科は診療科目とは認められず、基本的には診療科目としては表示できませんでした。ようやく矯正専門医が現れたのはこのころからです。

 今回の学会では、東京で開業している近藤悦子先生の講演があり、大変参考になりました。近藤先生の講演を聞くのも3回目ですが、今回は3時間という長い講演でじっくりと症例を見ることができました。近藤先生は、マルチブラケット装置をメインにした本格的な矯正歯科を日本で早い時期からされた先駆的な先生で、開業が1970年ですから、ほぼ40年近く矯正専門医として活躍されています。また先生は大変真面目な先生で、長期に渡るきちんとした資料を採られており、古い症例では治療後40年以上のケースもあります。これだけ長期にわたるきちんとした資料を持っているところは世界でも少なく、先生の研究をまとめた著書「Muscle Win! の矯正歯科臨床—呼吸および舌・咀嚼筋の機能を生かした治療—」(2007)は早くも韓国版、英語版、中国版になっています。

 長期安定したかみ合せをもたらすキーは、舌・口腔周囲筋・咀嚼筋および頸部筋活動の正常化と口唇を閉鎖して鼻呼吸の確立が重要としています。これは専門すぎてわかりにくいと思いますが、歯が馬蹄形に並び、上下の歯が自然に咬むのは実をいうと歯列周囲の筋、舌、ほっぺの筋肉や咬む筋肉の力でそうなります。上の歯が飛び出ている出っ歯のひとは、中から歯を押す力(舌の力)が、外から歯を中に入れる力(口元の筋肉の力)より強いために歯が飛び出します。

 近藤先生の症例を見ていると、きちんと矯正治療を行い、それが機能とマッチすると、年齢を経るにつれ、さらにかみ合せがよくなり、顔の形もよくなっていきます。子どものころ矯正治療をしたひとと、そのまま何もしなかったひとでは、50,60歳になると、かみ合せ、顔の形、さらに人生感まで違うようです。前歯、奥歯でしっかり咬める状態にすること、お口をしっかり閉じて鼻で呼吸すること、さらにそれによるよい姿勢は、人生の後半になるにつれ、価値が高まるようです。

 さらに私自身の経験から、矯正治療をしたひとは、口に対する関心が強いため、歯みがき、歯科医院への定期的な管理など、こまめにされる方が大きく、おそらくそれがう蝕や歯周疾患の減少に繋がっていると思えます。結果的に、老年期になっても、自分の歯がたくさんあることになるのではないでしょうか。きれいな歯並び、ひとに自慢できるような歯並びは、自分自身の笑顔に自信を持つことができ、精神的にも活動的な生活を送ることができるでしょうし、また近藤先生の経験によれば、正常な鼻呼吸、バランスのよい周囲筋活動が維持されていると、年齢が経っても、若々しい顔と口元で、いきいきと生きることができるようです。

 研究方法には演繹的研究と帰納的研究があり、今後、矯正治療終了長期症例による帰納的研究、すなわち老人になった矯正治療経験患者と未治療患者を比較することで、現在の治療法についての是正も必要になるでしょうし、また矯正治療の利点についてもよりはっきりしてくるでしょう。それでも1人の矯正家が40年間治療をして初めて50、60歳の患者を経験できる訳ですから、気の長い話で、ようやく引退かという年齢になり、自分の治療法の成果がわかることになりますし、逆に言えばいくら若手で優秀な臨床家がいても、経験数をこなしたベテランの臨床家には及ばない ことになります。

 欧米の臨床医には、こういった長期の症例を帰納的にみていくという考えはないというか、全く放棄しているようです。30,40年後、どうなっているか、そんな先のことはわかりっこないし、関係ないということでしょうか。日本よりずっと矯正患者の多いアメリカでも、こういった研究はあまり見ません。また矯正治療前後で咬む能力がどう変化したといった研究は日本では盛んに行われますが、アメリカではあまりありません。どうも日本では長い間、矯正治療は医療行為と見なされなかったことに対するコンプレックスからか、矯正治療による目的に関する研究が、特にここ最近は多くなっています。正常な歯並びを、見た目に美しいだけでなく、成人、老人になっても、生活、健康に大きく影響することが少しずつわかってきました。今後、さらに研究が深まることを期待します。

2010年9月22日水曜日

岩川友太郎


 船水清著「岩川友太郎伝」の中に、岩川が子供のころに体験した2つのエピソードが書かれている。一つは江戸末期に行われた仇討ちの話、もう一つは養母殺しによる獄門打ち首の話である。ここでは打ち首事件について、同書から引用する。

 岩川友太郎が9、10歳、元治元年か慶応元年頃の話である。柳町に蝦名某の二男という下級武士が住んでいた。色の黒く、丸顔で愛嬌のある男で、友太郎とも面識があった。この蝦名家と同族のものが新寺町の白狐寺の門前に住んでおり、この家の主人は早くに亡くなり、未亡人と17歳の娘が暮らしていた。そこで娘に蝦名の二男を婿にすることが決めてあったが、娘がまだ年が若いので結婚はあと3年待つことにしていた(注:娘の年齢はもっと下であろう)。しかし婿として籍を入れてあったから、この男はいつも同家に出入りしていた。ところがこの婿を未亡人とは娘の祝言より一足先にわりない仲になってしまった。

 しかも、この上、この女は多情でひそかに新寺町某寺の住職とも関係していた。そしてこの住職が青森のある寺へかわることになると、住職の後を追って家を出る決心をした。このことを人から伝え聞いた婿は大いに憤慨し、殺意を抱いた。二人が弘前を離れると、その後をつけていた婿は和徳の町外れ、約半里ばかりのところで呼びとめ、近くの茶店でなじったが、しまいにかっとなってこの女を殺してしまった。養母とはいえ、親殺しのため罪一等重く、市中引き回しの上、斬罪獄門に処することになった。

 蝦名は単衣の黒紋付を着、びっこの馬に乗せられていた。背中には罪状を認めた木札を背負わされている。引き回しは朝早くから行われていたが、市中を回り歩くので時間がかかり、取上刑場についたのは正午すぎだった。刑場の周囲には青竹の矢来がめぐらされ、刑場内の正面に石地蔵を安置してある。獄門台はこの地蔵の反対側の左右に設けられている(注:当日の処刑は二人)。腰縄を引かれて刑場に入った蝦名は、地蔵の前に座し、ふところから一冊の経文を出して、これを読んで、読みおわると地蔵の右側に設けてある芦火に手をかざし、焼きスルメで冷酒を一杯飲んだ。これが刑場にしきたりだった。(すぐに赤面し、友太郎は蝦名が酒に弱いことを思い出す)。

 獄卒が荒むしろの上に罪人を座らせ、目隠しをさせ、両手を後ろに縛り、それを背後の棒の先に結んだ。この棒を前方に押し出すと、罪人の首筋が前方に伸びる。首切り役人が一人進み出て、縄たすきをかけ、長刀を引き抜いて二、三べん打ち振った。するとそばの一人が柄杓で刀にさっと水をかける。首切り役人が刀を高く振り上げた。パット打ち降ろした瞬間、首は四、五間も隔った獄門台の方に三間ばかり転んでいった。この斬首の刑が終わると、群衆は竹矢来を破り、獄門台へ向かってどっとばかり突進した。

 「人に押されて至り見しに、かの転がりたる首を二人の獄吏にて携え来たる五寸釘に上に突き刺したるところ生首の顔の筋肉を伸縮する拍子にみずから釘の上を回転し、思わず与は顔をそむけたり」としている。

 後日、成人してから記載したものだが、とても9、10歳の観察眼とは思えないほど、細かく記憶している。後年の生物学者の素質を感じさせ、当時の弘前藩の処刑をリアルに伝えてくれている。

 岩川友太郎(安政元年—昭和8年 1854- 1933)は、弘前市本町5丁目に、父岩川豊吉、母いちの長男として生まれた。父は貧しい表具師であったが、祖父は津軽藩校に務める学殖豊かな国文学者であった。生活が苦しかったので、口減らしのため、寺に小僧に出されたが、将来を考え、叔父の岩川藤兵衛をたより、15歳のころに藩の海軍局に入り、機関学を学んだ。その後藩校で英語を学び、新たにできた東奥義塾の英語の教師となった。ここで宣教師として弘前に赴任したウォルフにネーティブの英語を学び、さらに語学力を延ばすため東京外語学校に進学した。その後、開成学校、東京大学に進学するが、ここで恩師のモースと出会った。モースは日本に初めて生物学を紹介した人物で、友太郎は東京大学で最初に動物学を専攻した4人の一人であった。とりわけ英語が堪能なため、モース、後任のホイットマンにかわいがられ、生物学、とりわけ貝類学の研究にはげんだ。28歳に東京大学を卒業し、東京高等師範学校、女子高等師範学校の教授として日本の貝類研究の基礎を作った。子供のころ苦労が多かったせいか、心暖かいひとで、みんなに親しまれた。

 前回のブログで、松前徳広の墓と水野正名の墓のことを書いた。その後、長勝寺の墓地を訪れ、探したが、それらしき墓は見つからなかった。すでに改葬され、処分されたのであろうか。

2010年9月11日土曜日

観音山普門院





 弘前に来て、はや16年になります。近場のところは大抵行ったと思っていましたが、思わぬところにまだまだ面白いところがあります。

 今回紹介するのは、観音山普門院です。津軽観音巡礼33霊所の最後のところになります。禅林街には年に何度も行きますが、案外禅林街の裏にある普門院を訪れる方は少ないようです。というのは禅林街からの道順がわかりにくく、禅林街の向こう茂森新町の道から入らなければいけないからです。よほどのことでないとこの道を通ることはありません。

 茂森新町の入口からは、杉の林に囲まれた石段が岡の頂上まで続き、こんな緑の濃いところが市内にあるのに驚かされます。石段を登って行くと、本堂が現れてきます。また工藤他山のりっぱな墓もあります。一番面白いのは、本堂を取り囲むように小道があり、そこに小さい観音様がたくさん立っています。おそらく、この小道を廻り、そこの観音様にお祈りすることで33観音巡礼と同じ功徳があるのかもしれません。江戸時代では、西国33箇所観音巡礼や四国88箇所巡礼はそれこそ、夢のような話で、庶民はこういったミニチュア版の霊場で満足するしかなかったのでしょう。今では、祈願するひとも少ないようですが、往時は結構信仰深い人々に愛された小道だったでしょう。

 訪れた時は、院内には誰もおらず、周りが古い杉林で、あたかも山奥に入ったような感覚に陥ります。裏の細い道を降りて行くと、わずか5分ほどで蘭庭院の墓所に着きます。見上げると森が見えるだけで、蘭庭院のすぐ上にこれほどの静かな場所があるとは思わないでしょう。

 工藤他山は、幕末から明治にかけての儒学者で、「思斉堂」という私塾を開き、陸羯南はじめ多くの人材を育てた人物です。生まれは現在の西茂森、昔は古堀町、その前は片堀町と呼ばれたところです。明治2年弘前地図で見ると、古川英矢という家が生誕地と推測されますが、確証がありません。もう少し調べたいと思います。また地図では普門院内に工藤主膳墓があります。工藤主膳とは工藤他山のことで、他山は明治22年に亡くなっていて、今ある墓は死後に建てられたものです。明治2年のこの工藤主膳墓は何なのでしょうか。これも宿題です。生前墓でしょうか。

 また長勝寺の境内には松前志摩守墓がありますが、これは明治元年の函館戦争中に亡くなった松前藩13代藩主松前徳広の墓のようです。どうして松前藩主の墓がここにあるのかは、調べてみてください。おもしろい話があります。また水野監物墓というのもあります。ずっと調べていてようやくわかりました。これは明治5年に弘前刑務所で獄死した水野正名のことです。水野正名は九州久留米藩の重臣で、維新後藩政を主導するも、久留米藩難により失脚し、弘前で病死します。遺骸は長勝寺で弔い、遺髪を故郷の正源寺に持ち帰ったようです。九州久留米と弘前がこんな形でつながっているのはあまり知られていないと思います。水野の墓が今どうなっているか、心配ですので、一度長勝寺に行ってこようと思います。(http://snkcda.cool.ne.jp/sekihi/mizuno/mizuno.htm)。

 禅林街に行かれる際は一度、蘭庭院から奥の墓所に入ってもらい、そこから道を上がって普門院に行くといいでしょう。まだ行ったことのないひとは一度訪れてみてください。