2010年12月1日水曜日

函館「佐藤安之助の墓」




 暇なときは、明治2年弘前地図に記述されている名前をかたっぱしからインターネットで検索しています。2000名くらいはいると思うので、全部検索するのはさすがに無理ですが、ランダムに名前を打ち込み、検索します。当然ほとんどの人名は検索されないか、一行くらい載っているだけです。
 例えば、馬屋町、今の弘前工業高校隣あたりに白取数馬という名が見えます。20件検索されますが、実質的には1件だけで、それには「1823-1898幕末—明治時代の武士、戊辰戦争のさい藩論に抗して勤王を主張、後庄征討軍の大隊長をつとめた」とあります。

 それでは白取家の隣の貴田稲城はと検索すると、865件ヒットするが、関係するのは10件くらいである。資料を高照神社に寄付したようで、その解説に「貴田家は藩の山鹿流兵学師範を勤めた家柄で、先祖の貴田元親は山鹿素行と同門、その子一学が四代藩主信政に抱えられ、孫の親邦にいたって弘前に移り住んだ。本資料は、廃藩後の明治32年に子孫の貴田稲城が高照神社に奉納したものである。」とある。

 さらに貴田家の隣、佐藤安之助を検索すると、東京出身の軍人で、後に衆議院議員となった人がいるようです。中国通で孫文にも関係があったようです。もうひとりは、函館戦争で戦死した佐藤安之助というひとです。函館の二設口台場山の新政府軍陣地跡近くに「佐藤安之助の墓」があり、横にある大野町教育委員会の掲示板には「 墓に は「佐藤安之助鹿児島藩従者・明治2年4月24日」と刻まれているが、「弘前藩記事・戦死履歴」には「文政10年8月18日生・鹿児島藩伊集院宗次郎軍夫」、開拓使編「戦死人墳墓明細履歴書」に「42歳陸奥国津軽郡駒越村」とあるように、その履歴はほぼ明かされている。」と書かれています。また函館護国神社にも墓があるようで、その解説には「弘前藩領駒越村の農。薩摩軍伊集院宗次郎隊軍夫。明治二(1869)年4月24日蝦夷二股で戦死。享年42歳。」と、同じ内容ですが、ここでは農民になっています。また大野町文化財保護研究所ではさらに「中山に祀つられている佐藤安之助もその一人である。安之助は、青森県岩木川のほとりにある駒越村の農家に生れた。農民・安之助は、新政府軍側の薩摩小荷駄 隊に所属して箱館戦争に加わり、四月二十四日、台場山付近の激戦で命を落としたとなっている。土方歳三率いる榎本軍三百人が、乙部に上陸した新政府軍六百 人を迎え撃った「二股口の戦い」である。この戦いでどんな活躍をし、どのような最後を遂げたかは分からないが、中山峠のほかに二つの墓をもつことからも、 多くの人の胸に名を刻み込む働きをしたことと思われる。」としている。

 二設口の戦いは激しく、政府、榎本軍も多くの死者を出したが、どうして一介の農夫、従者の墓がここにあるのかは、「その履歴はほぼ明らかにされている」という説明では理解できません。

 明治2年地図中の佐藤安之助の家は、今の弘前県立工業高校横あたりになり、かなり大きな敷地、おそらく300坪以上の敷地と思われます。馬屋町小路には幕末混乱する藩論を勤王の方向に持っていった西舘孤清の家があります。西舘の家は、代々家老職を務めた家柄ですが、この家と佐藤安之助の家の大きさがほぼ同じです。

 弘前藩では、禄高により住居の大きさは決められており、200石では50坪、150石では40坪、100石では30坪、50石では25坪、50石以下では25坪以下とされ、敷地もそれに合ったものだったでしょう。例えば、現在保存されている「旧岩田家住宅」は住居が34坪、敷地が200坪です。200-500石の中流武士の屋敷です。佐藤安之助の家はこれよりは大きいものと推測されます。となると、幕末には無役だったかもしれませんが、佐藤安之助の家は弘前藩譜代の名門の家であったと思われます。

 それではなぜ佐藤安之助は薩摩藩伊集院宗次郎隊軍夫という低い身分で函館戦争に参加したのか。それはわかりませんが、42歳という年齢、あるいは家庭の事情で、藩から兵士としての参加を認められず、個人的に軍夫として参加し、戦死したのかもしれません。その死を悼み、この激戦地にお墓が作られた可能性があります。

 二設口の墓の主が、駒越村の農夫の佐藤安之助か、弘前藩の譜代武士佐藤安之助かは、地図一枚で簡単に決定できるようなものではなく、さらに資料を揃えて確証しなくてはいけません。大野文化財保護研究会にこの旨をメールにて送付したところ、早速会員の方から再考するという返事をいただき、すばやい対応に感謝しています。明治と言えば、ついこの間まで周りに明治生まれの人がいたような想いがしますが、わずか100年前とはいえ、歴史は誰かが語らなければすぐに忘却されてしまいます。

 ちなみに馬場の下に、馬役有海登という名が見えるが、荒井清明著「続々弘前今昔」では、明治4年地図では「元有海登、古川冨太郎」となっており、ここが工藤他山(古川冨太郎)の思斉塾であったところだとしています。明治4年士族引越之際の図で確認するとそう書いていました。生徒数200名という思斉塾はここにあったのでしょう。多くの書では五十石となっていますが、明治2年地図には載せず、明治4年に載せることからも、明治2,3年頃に馬屋町で塾を開いたのでしょう。

*追加:12/2 本日、馬屋町に行ってきました。町の大半は弘前工業高校になっていました。今の新坂は地図でもわかるようにあまり使われていない道だったのでしょう。むしろ馬屋丁に続く、お城からの道がもっぱら使えわれたと思います。市民会館の裏を探すと、この古道跡が確認できました。弘前工業に続いているようです。

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