2010年3月26日金曜日

映画「八甲田山」



 遅ればせながら、「剣岳 点の記」をビデオで見た。剣岳は高校生の頃の、旅行で立山から仰ぎ見た思い出がある。六甲学院では立山の追分というところに学校の山小屋があり、何組に分けて立山から別山、薬師岳の縦走を行った。なだらかな立山に比べて、剣岳は険しく、映画も立山連峰の姿を美しく描いていた。ただ内容はそれほどではなく、むしろ映像の美しさの方が勝っていた。監督の木村大作さんがカメラマンとして参加した「八甲田山」(1977)に比べると失礼だが、見劣りする。

 映画にも溝口、小津、黒沢にような芸術的な作品で、北野武の映画もそれに入るが、上映時にはあまり客が入らないものと、内容はたいしたことなくても商業的に成功したものがある。小津の作品など、公開時には寝ている客が多かったと言われている。私自身の評価としては、一度見てよい作品と二度見てよい作品、何度見てもすばらしい作品に分ける。そういった意味では日本映画史上最も好きな作品は、ばかにされるかしれないが、「八甲田山」である。公開時は、大変評判で友人で、親が映画館をやっていた先生がいるが、公開当時は数百メートルも行列があり、あれほど客がきた映画はなかったといっていた。当時、相当な興行収入があったのであろう。私も公開時に仙台でみた記憶があるし、その後もテレビで2回、DVDで1回の計4回見ている。その意味では何度見てもおもしろい映画のひとつで、今でも深夜放送されていれば思わず見入ってしまうであろう。

 なにしろ夏の暑い日に見ても、体が冷たくなるほど、この映画の寒さの情景描写は半端でないし、高倉健と北大路信也の共演はすごい。外は暑くても、冷房をかけた部屋は涼しいが、それが瞬く間に冬山の世界に入ってしまう。アクション映画の分類に入るかと思うが、これほど寒さを実感させる映画も世界的に少ない。ただ、こういった商業映画でヒットした作品は、あまのじゃくの多い映画評論家の評価は低く、キネマ旬報のベスト100にも入っていない。

 アメリカから昨年来た交換留学生の高校生に青森紹介のため、是非この映画を見てほしいと思い、いろいろネットで英語字幕付きのDVDを探したがない。黒沢や小津のものや最近作は各国語の字幕が入り、今でもテレビや映画館で上映されているだろうが、案外こういった通俗的な作品は海外では知られていないかもしれない。是非とも字幕を入れて海外に紹介してほしい。いまどき映画に字幕を入れるのはそれほど金もかからないので、青森県を海外に紹介する作品として県の費用で字幕を入れるのも安上がりなPR広告となろう。以前紹介した弘前市のある旧陸軍第八師団の将校集会所である偕行社もこの映画のロケに使われたし、八甲田山のみならず、津軽の美しい風景を描いている。この映画の監督である森谷司郎は「海峡」でも青函トンネル工事を描き、青森県との縁がある。また「飢餓海峡」や寺山修司の「田園に死す」、「津軽じょんがら節」、あるいは岩木山での秋田県大館鳳鳴高校山岳部員の遭難事故を 題材にした実話、NHKの「遭難」も、青森県の紹介映画としては勧められる。

 昔、長野の黒部ダムを見学に行った時、資料館で石原裕次郎の「黒部の太陽」をガンガン上映していた。友人と結構見入ってしまい、今でも映画と実際の黒部ダムが一緒になって記憶に収まっている。今度、高校の先輩である大森一樹監督が「津軽百年食堂」を撮る事になったが、ロケにつかうだけでなく、青森県を題材とした作品をもっと観光に役立てる方策も立てたらどうだろうか。

 5年ほど前に来た交換留学生の出身地がアメリカのノースダコダのファーゴというところだったが、映画ファンならすぐさまコーエン兄弟監督の「ファーゴ」を思い出すであろう。ただ一作の映画によりアメリカの片田舎ファーゴの町は世界に知られている。映画の威力を知るべきである。

2010年3月18日木曜日

歯科崩壊



 歯科は崩壊している。本来なら歯科は崩壊しようとしていると書きたいところだが、現実的にはすでに崩壊している。それを察知したのか、受験生の歯科大学離れに拍車がかかり、昨年度は17ある私立歯科大学のおよそ60%、11校が定員割れをおこし、本年度はさらに多くなると予想されている。また歯科大学受験数も平成21年度は平成18年度のマイナス51%、平成22年度も前年度比でマイナス25%と受験者の減少が続きそうだ。

 これは高い授業料を支払っても国家試験が難しく、なかなか歯科医になれないこと、また歯科医になったとしても収入が低いことを、ようやく一般にも知られるようになり、受験生の進路決定に反映されたのであろう。歯科医は儲かる、多少授業料が高くても後でペイできると以前は考えられてきたが、歯科大学に入っても、6年間でストレートに歯科医になれる割合が45%、その後1年間の研修医をして、いざ就職しようと思っても、就職先がなく、やっとの思いで見つけた就職先も給料は衛生士以下、しかたなく開業しても銀行は資金を貸さず、親にお金を出してもらい開業しても閑古鳥、こういった現実がようやく社会にも認知されるようになった。

 確かに昭和40年以降、つい5,6年前までは、歯科もややバブルに浮かれていたかもしれないが、ここ数年の凋落ぶりは、他の業種でも類をみない。写真のデジタル化に伴い、現像、プリントを生業にしていた街の写真屋が急速に衰退したのは新しい技術の普及によるものと原因がはっきりしているが、歯科の分野ではそういった新しい技術革新、虫歯がなくなる薬が開発されたということもない。

 ではなぜ。このように急速に衰退したのか。外的な要因として、ここ数年間続く不況が影響している。給料、ボーナスの低下に伴い、緊急性の低い歯科処置がなおざりにされたこと、また自費希望者が減少したことなどが挙げられる。さらに歯科治療でターゲットである若年、中年者の人口が減り、材料の進歩により処置歯の予後が伸びたこと、う蝕自体も減ったことなどが挙げられる。内的な要因としては、歯科医師過剰と医療費の抑制に伴い、歯科医院1軒当たりの売上げが下がったこと、大型チェーン店展開の歯科医院が増えたこと、歯科医院の過当競争による過剰診療、ダンピングなどがある。歯科医師、歯科医院数が急激に増大しているにも関わらず、それでいて歯科医療費はほとんど変わらないのであるから、当然一軒当たりの診療収入は減少する。それを補うため、自費診療に活路を求めるが、昨今の不況を反映してか、自費診療は敬遠されがちであるばかりでなく、強引な自費誘導の手段がかえって患者離れと訴訟の増加を招いている。

 さらにこれ以上の深刻な崩壊は、若手歯科医の臨床能力の低下である。私のところでも歯科研修医制度の始まりとともに毎年何名かの臨床研修医がくる。彼らに聞くと、大学6年間で実際に患者をみることはなく(すべての大学ではないが)、もっぱら座学が中心のようで、大学によっては全部床、クラウンブリッジなどの技工実習もなく、ビデオを見させて、将来は技工士に頼むのだから、君らは作る必要はないとのことである。ひたすら国家試験の合格に焦点が合わされている。結果、国家試験に合格して歯科医になった後、研修医療機関で臨床をするわけだが、私のような開業医のところで、印象、レントゲン撮影も満足にできない研修医に治療をまかすことは、患者がいっぱいで忙しい頃はともかく、今のような暇な状況では、とてもできない。もっぱら見学だけをさせることになる。状況は歯科大学でも同じで矯正歯科、口腔外科は見学のみで、一本の抜歯もしたことがない研修医も多い。こうして7年間の歯科教育を受けながら、世界で最も臨床のできない歯科医が誕生する。欧米を始め、後進国のアジア、アフリカでも歯科教育でこれほど患者を診察しない歯科医は存在しない。

 さらに研修医卒業後に、勤めようとしても、今の時勢何もできない歯科医を雇うところは少なく、自然に大型のチェーン展開をしている歯科医院に勤めることになる。こういった歯科医院では、もっぱら人件費コストの低下による収益を目指しており、卒後2年目が院長、その下に新しい歯科医という配置になり、見よう見まねで診療を行うことになる。当然、きちんとした技術を学べるはずがない。金があれば、この状態で開業するし、なければこういった医院を点々としながら低賃金でこき使われる。

 歯科大学はもともと専門学校が発展したもので、料理のできない料理学校、コンピューターのできないコンピューター学校がないように、大学6年間で歯科臨床ができる能力を身につけさせなければいけない。今の70歳以上の先生は大学6年生の時には開業医でバイトをして生活費を稼ぎ、卒業するとすぐに開業したという剛の先生もいるが、少なくとも私の年代(50歳代)でも一通りの臨床実習は行い、技工も含めて開業医の治療を批判するくらいの知識と技術はあった。6年間の教育で時間が足りないということはない。まして昔の教養部は廃止され、大学1年生から専門教育が可能になったことや、欧米、あるいは他の開発途上国の歯科大学のシステムを比べても6年間という時間が少なくはない。ひとえに大学の怠慢であろうし、それの是正を求めなかった我々の責任でもある。

 大学からすれば、昔に比べて学生の質が低下しており、そのため座学により時間をかけなければ国家試験に通らない、研修医制度により学部学生に配当する患者がいない、歯科医師という国家資格をもっていない学生に患者を見させるのは世間の納得が得られず、訴訟に繋がるなどの理由もあろう。それでも研修医制度という1年間の追加教育を実質的に7年教育に変質させ、その間を利用して国家試験対策にあてる企みは見え見えであり、研修医になると授業料をもらえないばかりか、給料を払わなくてはいけない、やっていられないとばかり、おそまつな臨床カリュキュラムを組む。ここには一人前の臨床医を育てるという責任が欠落しているように思われる。

 こうような崩壊状況で最もかわいそうなのは、若手歯科医と学生であろう。中にはすでに歯科医をやめ、他の仕事しているひとや、歯科診療の後に居酒屋でバイトしているひともいるようだ。銀行自体も融資には慎重で、よほど親の資産がなければ開業資金は貸さないため、資産のない歯科医は開業できず、勤務医となる。以前は公立病院の歯科もかなりあったが、今では診療収入の少ない歯科は廃止されるところが多く、また仮にあったとしても今の勤務医がやめることはない。医局に残ろうとしても助教以上の有給になるのは上がつまっていてなかなかなれないし、大型チェーン展開の歯科医院も患者数の落ち込みで経営は苦しい。

 歯科界自体を改善する方法は思いつかないが、少なくとも若手の歯科医、学生の臨床能力を高める方法として、歯科医師国家試験の実技試験あるいは研修医終了の実技試験の導入を提唱したい。そもそも歯科医は手が動いてなんぼの職業であり、いくら知識があっても手が動かないのであれば、治療はできないし、患者にとっても悲劇である。そのため、欧米始め、中国やアフリカでも、実際の患者の治療をさせて臨床能力を評価する試験が行われている。規定にあった患者を集めるのは大変だし、それを試験する試験管の面倒であろうが、こういった非効率的な試験法が世界では一般的で、かって日本でも行われていた。現在でも、例えば口腔外科の専門医試験では実際の手術を試験管が審査する方法がとられていて、ひとえに臨床のできる歯科医を作ることを目標にしている。実際、こういった実技試験は評価が難しく、形骸化するおそれもあるが、少なくとも試験を受けるためには、それ相当の臨床を行わなくてはいけなく、学部、研修機関でかなりの患者をみる必要がでてくる。十分な数の学生用の患者を集めるのは大学の義務であろう。

 おそらく世界中の何百という歯科大学の中でも、卒業直後の学生の臨床能力は世界最低であることはまちがいない。厚労省、文科省、歯科医師会、患者さんも本当にこれでいいのであろうか。

2010年3月12日金曜日

年齢換算



 相撲の力士はどうして、ああも年齢の割に老けているのだろうか。テレビで貴乃花親方を見るが、どうみても50歳はいっている落ち着いた対応で、とても世間の37歳には見えない。同様にお騒がせ元横綱の朝青龍にしても29歳とは思えない。

 ある調査によれば、昭和55年から平成14年の幕内力士100名について寿命を調べたところ、平均寿命は63.6歳とのことであった。あれだけ、太っていれば、いろんな病気にもなろうし、早く死ぬのだろう。とすれば、早く死ぬのが漠然とわかっているので、生き急ぎ、老成化が早いとの仮説も成り立つ。人生60年と思えば、朝青龍の年齢29歳はちょうど寿命の半分となり、一般の年齢40歳と思えば理解しやすい。

 江戸期では15歳で元服が行われ、一応大人の仲間入りをしたが、現代では20歳で成人式が行われる。また江戸、明治期の乳幼児死亡を除く、20歳まで生きた成人の平均寿命は約60歳であるのに対して、現在の平均寿命は80歳である。これを基準に15/20、60/80、すなわち3/4を年齢換算と考えれば現在日本人と江戸、明治期の人々と実年齢の比較をしやすい。

 例えば、坂本龍馬は31歳に亡くなったが、この年齢換算によれば41歳で、ちょうど壮年期に当たり、これからまだまだ活躍できる年齢であった。高杉晋作は28歳、換算で37歳、これは早い死である。西郷隆盛は49歳、換算で65歳、大久保利通は48歳、換算で64歳、木戸孝允は44歳、換算で59歳と、政治家としてはベテランの部類に入り、西郷が引退したいと思うのはわかる年齢である。ちなみに江戸期では、だいたい50歳ころで大店の主は引退して息子に代を継がせたが、この50歳を換算すれば、現在の66歳で、今の会社でも完全リタイヤーして老後の人生に入る年齢であろう。

 孔子の15にして学を志し、30にして立ち、40にして惑わずという言葉も現代人にとっては、実現は難しいものだが、換算すれば20歳にして立ち、40歳にして立ち、53歳にして惑わずとなり、現実に即している気がする。

 インドやアフリカなど現代でも平均寿命の低い国の人々は、我々日本人からすれば驚くほど大人びている、老けていると感じる。女のひとで40歳を過ぎると、容姿、精神的にも、極端な言い方をすれば老人となる。おそらく寿命の短い国、時代では、それだけ人々に求められる責任、仕事、務めが早くやらされるため、今の時代に比較すれば早熟、老成化するのであろう。すなわち環境が老化、早熟化に影響すると考えられ、これは軍隊組織で見ればよくわかる。戦時中の日本軍をみても、22,3歳で少尉、中尉、30歳くらいで大尉、少佐をなる。そして多くの部下を持ち、命令を下すようになると、一気に早熟化、老成化が進む。大戦中の士官の写真を見ると老けている。

 こういった点を考えると、犯罪の低年齢化とそれに伴う少年法の改正が叫ばれているが、これは寿命が延びるにつれ、精神的な成熟は遅れるが、一方肉体的な成熟は早まっている、このギャップによるものとも考えられる。つまり昔は15歳で精神的に大人と扱ってもよかったが、今では20歳でようやく大人と見なし、それまではいくら体を大きくとも、精神的には子供として扱う、あるいは見なした方がよいのかもしれない。

 ちなみに写真下は韓国人、日本人、タイ人の女性の平均顔である。

2010年3月11日木曜日

珍田捨巳10


 こういったブログを書いていると、取り上げていた人物のことが気になり、本の中でもその人物に関連したことについ目がいく。少し古い本であるが保坂正康著「昭和天皇」(中公文庫、2008)の中に、昭和天皇訪欧の際、イギリス滞在中のエピソードのことを伝える。「3週間の日程に中で、皇太子にとってもっとも印象にのこったと思われるのは、十日の夕方の出来事である。この日はまだバッキンガム宮殿に滞在していたが、日程をこなして一室に休んでいる皇太子のもとに、突然ジョージ五世が訪ねてきた。———このときは、ジョージ五世、皇太子、そして通訳にあたった林(権助)大使の三人での会話であり、三人の間にはこの会話は決して他言しないという暗黙の約束ができあがったとみることもできる。皇太子はこの教訓を自らの胸に刻み、それを守るという使命を自ら課したと今では解することが可能である」。
 イギリス王室の国民に開かれた態度と、立憲君主制度の根底をここで学んだ点では、ジョージ五世とのこの会談は昭和天皇のその後の生き方に影響を与えた点では重要である。
 ここで保坂は、当時イギリス大使の林と3人で会談したと書いているが、これはどうもおかしい。まず林は東京大学出身の外交官であるが、とりたてて英語教育を受けた経歴はなく、国王の通訳をするほど英語が堪能であったか疑問である。さらに皇太子訪欧中の現地での直接的な世話をしていたであろうが、随員ではなかったため、皇太子のそばにいつもいた訳でない。「ポトマックの桜」(外崎克久著)によれば、王室の賓客として当時宮殿に宿泊していたのは、皇太子、閑院宮、珍田供奉長、山本信次郎海軍大佐の4名で、この中で最も英語に堪能であったのはアメリカの大学を卒業した珍田捨巳であり、外務省でも珍田の英語は定評があった。また席次においても大使より供奉長の方が上であり、たまたま林大使が宮殿にいたとしても、皇太子と国王の通訳に選ばれることはないであろう。
 福田和也著「昭和天皇」(文芸春秋)では、はっきりとこの会談は昭和天皇、ジョージ五世と珍田の3人で行われたと書いているが、この方がすっきりする。珍田とジョージ五世は珍田が駐英大使のころから非常に親しいつきあいがあり、第一次大戦での日本海軍の地中海派遣にも珍田の功があったことから、この3人で語るのが、最も気の置けない会談となったであろうし、昭和天皇にとっても思い出の深いものになったであろう。

 ちなみに吉田茂は当時、駐英大使館におり、身近に昭和天皇の人となり触れたことがリベラルでありながら、後日天皇への強い尊王の心を持ったのであろう。吉田は珍田がイギリス大使であった時の一等書記官であり、同僚の斉藤博によれば、「当時、吉田さんは秘書のように、いつもいっしょに外交団と折衝しておりました。そして後輩の館員の前で「大使のしゃべる英語には誰もかないません。珍田さんのスピーチは英国人の心をうつような詩があり、論理があるからです。諸君も、もっと言葉の武器を磨きなさい」と話していました」。吉田はパリ会議にも岳父牧野伸顕、珍田捨巳とも同行しており、案外、若き吉田は珍田を外交官として尊敬し、目標にしていたのかもしれない。

 今上天皇の教育係を務めた小泉信三も、その帝王学の教科書としてジョージ五世の伝記を用いたほど、昭和天皇にとって、あるいは現在の皇室にとっても、訪欧でのこのこじんまりした会談は印象深く、また皇室の方向を決定したように思える。写真左のステッキを持っているのが珍田であろう。

2010年3月7日日曜日

郡場寛



 郡場寛(こおりば かん 1982-1957)は青森市栄町に生まれた植物学者で、津軽藩士の郡場直世と三上フミの間に生まれた。夫の直世は酸ケ湯温泉の開発者であるが、寛の生涯に決定的な影響を及ぼしたのは母フミである。母フミは毎年、子供達にお年玉として「いくら成功してもふき掃除を忘れてはいけない」とぞうきん3枚を送ったいう。このブログでは主として弘前出身の偉人を紹介しているが、郡場も母フミが弘前出身で、郡場自身も晩年弘前大学の第二代学長をしていたこともあり、ここで紹介する。私が一番感銘を受けるのは、Wikipedia で紹介されている次のエピソードである。

 1945年8 月の日本敗戦に伴って、同年9月11日、ジュロン島の連合軍捕虜収容所に入る。このときコーナーたちは郡場の釈放を英軍司令部に願い出たが、郡場は敢えて同胞と共に収容所に留まることを希望。コーナーは「私の心を激しく打ったの は勝った日本人科学者の思い遣りや寛大さと言うより、敗けてもなお、これだけ立派で、永久に後世に受け継がれてゆく業績を残した彼らの偉大さであった。敗 残者はいまや勝利者である敵性人の心に大いなる勝利の印を刻みつけた。敗けてなお勝つとはこういうことを言うのだ」[4]と 回想している。

 郡場は京都大学理学部部長を退官後、1942年に陸軍司政長官としてシンガポールに赴任する。そして植物園園長、博物館館長をしていたが、前任のイギリス人学者ホルタムやコーナーらが投獄されるのを阻止し、研究を続けさせた。当時の状況からすれば、敵対国の学者をこれだけ擁護するのは、郡場自身にも危険なことであっただろうし、相当苦労したことであろう。学者としての精神的な高貴さを垣間みる。さらに負けてなお、その好意に甘んじることなく、進んで捕虜になる道を選んだ行為はイギリス人のジョンブル魂を揺さぶったのであろう。

 郡場の偉大なところは、戦前ほとんど著書を著さなかったことであり、その理由を「桑を食べるのに忙しくて、糸をはくとこまでいかない」と述べている。おそろしいほど豊富な知識がありながら、学問に対してはあくまで真摯で、あくことない学問への探究心、畏敬を表す。72歳になり弘前大学の学長に推されるが、「研究があるから」と3度も断った。木原均はじめ多くの日本の偉大な植物学者を育てたが、こういった精神的な面での師匠であったのであろう。

 さらにその死生観はあくまで植物学者として貫徹しており、以下のような理由で遺骨は愛する八甲田山に散骨された。

人間ハ生ヲ天ニ亨ケ動植物ニ養ハレテソノ天命ヲ全フスル 火葬サレルト有機物ハ烟トナツテ昇り雨卜共ニ降り再ビ動植物更ニ人間ニモ入ルガ骨ハ無機物卜共ニ残ル 此中ニハ植物ノ好ム燐酸石灰ガ多分ニ含マレル 植物カラ得タ養分ノ死蔵デアル 粉末ト シテ植物ニ与ヘル方ガ物質運転ノ廻路ヲ早メ天意ニ即スルノデアルマイカ 土葬ノ場合ニハ殊ニ死蔵サレル部分ガ多イ 之ヲ自分ノ遺物トシテ保存スルノガ果シ テ適当デアロウカ 個性へノ執着デハナカロウカ 若シ子孫ガ追慕シタイノナラバ墓碑ダケデモ充分デアル ソレモ決シテ永遠二残ルモノデハナイ
個性 ハ二次的デアル 二次的ナ個性ヘノ執着ヲ我ト観ズルノハ末ダ悟ラザル階程デアル 霊魂不滅ノ老モ個性ヘノ執着デアル(「遺稿集」1958年、43頁頁収 載。)

 弘前の本町で生まれたモースの弟子、岩川友太郎博士(1854-1933)も日本の生物学の草分けで、日本の貝類学の先駆者として大きな足跡を残した。このひとの生涯もおもしろいのでいずれまとめるが、幼少のころ、口減らしのため寺の小僧になり、そこを飛び出し、武術の修得、その後藩校の海軍局で機関学を学び、途中から英学寮に移り、英語を学ぶ。そして東奥義塾の英語の教師として迎えられたが、さらに学問の向上のため、東京外国語大学を卒業し、そこから東京大学の動物学を専攻してモースに出会い、生涯の学問である生物学の道に進んだ。卒業したのは28歳であった。誠にめまぐるしい青春時代で、明治人らしい。

2010年3月5日金曜日

弘前のお土産





 弘前のお土産というと、色々あるが、私の気に入っているのはコレ。

 リンゴ関係では板柳の完熟アップルジャムとラグノオのりんごスティック。ジャムはちょっと高いけれど、食パンにバターを塗ってたっぷりこのジャムをつけると最高です。紅玉の赤ラベルは高すぎて人には送りますが、食べたことはありません。どんな味かな。りんごスティックは、ごく一般的なリンゴパイですが、柔らかく食べやすいのが、うちの母や年配の方に喜ばれます。市内のあちこちで売っています。

 小山のせんべいは、お城そばや青森駅構内でも売っていますが、素朴な味で、置いておくといつの間にかなくなってしまいます。とくに気にいっているのは、アーモンドとまめ、この2種類はせんべい自体の甘みと木の実の味が混じり合って、緑茶とはよく合います。焼きたてがおいしいです。

 青森の酒と言えば、田酒が有名ですが、弘前の三浦酒造の豊盃もなかなかのものです。日本酒の会の会員としてここ10年くらい、数百本の日本酒を飲んでいますが、星4つくらいはいつもついており、弘前の酒としては十分におすすめできます。味は十四代、磯自慢系の今売れている酒系ですが、コストパーフォーマンスは高いと思います。大吟醸でなくとも純米吟醸で十分です。司馬遼太郎賞をとった宮本輝の「骸骨ビルの庭」でも、この酒が登場し、「酒屋の立ち呑み台で酒を飲む。主人の勧めで、弘前の地酒「豊盃」を二杯。まろやかでうまい」と書かれています。小説で固有名詞がでることは普通少なく、宮本さんもこの酒が好きなのでしょう。市内のデパートや酒屋さんで売っています。よく冷やしてお飲みください。

 後は、お土産ではありませんが、土手町にある黄金焼(白あんの小判焼)は一個50円と安く、地元のひとはそれこそ20,30個と注文するほど、親しまれています。普通の味ですが、かえって素朴な味でおやつにはいいものです。創業125年という老舗ですが、全くそんな雰囲気はなく、おばちゃんは愛想もなく、ひたすら黄金焼を焼いています。京都などでは創業125年と言うと、いかにも老舗という感じで格好をつけたがりますが、ここは街のお菓子に徹しているところが逆に潔いと思います。

2010年3月4日木曜日

弘前のそば屋



 観光に来る目的のひとつに、地元のおいしいものを食べたいということがある。せっかく来たのだから、できれば安い値段でおいしいものを食べたいというのは当たり前であろうが、お腹が減ってつい近場のところですましてしまうことが多い。あるいは有名なところに行っても味の方は拍子抜けで、値段ばかりが高く、それも行列ということもあろう。

 はっきり言って、日本で一番おいしいものが食べれるのは、東京であろう。何でもあり、それに比べると弘前でおいしいところと言われても、感動するような所はない。あまり期待されても困る。情熱大陸で紹介されたイタリア料理「ダ・サスィーノ」という全国的に有名な店もあるが、あまり地元民には馴染みがない(私は行ったことはないが、接待でよく行くひとに聞くと、すごいらしい)。

 観光で来る人には、是非とも地元の人に愛されているところに行ってほしい。味の方はたいしたことがないかもしれないが、それはそれで地元民に愛されている味であり、地方の味の好みを知ることもできる。

 お昼でお勧めできるのは、お城近くの「高砂」、新寺町の「會」という二軒のそば屋さんである。この二軒は弘前で知らないひとはいない。雑誌などで紹介されるような感動するような味ではないが、月に一回は何となく食べたく味である。高砂のご主人が以前何かの雑誌でインタビューされていたが、うまいそばを作るな、2流の味を目指していると言っていた。これは奥深い言葉で、うまい食べ物と言っても、毎日食べてもうまいもの、月に一度、年に一度、一生に一度食べてうまいものがある。常連さんが来て毎日うまいと思うものが、食商売の要諦である。これが2流の味の意味であろう。といってもこの店ではそばをゆでる湯の交換にこだわるのか、そばが出るまで相当長い時間待たされることがあり、こだわりがある。一方、會の方は、新寺町にあるため弘前の人には墓参りに後で行くところというイメージが強い。子供達にとっては會に行って、夏はかき氷とそばを食べるというのが定番になっている。お彼岸の時は相当混む。亡くなったがここの前のご主人町田さんとは晩年面識があったが、この人の古い弘前の知識の半端でなかった。誰それは、どこの家の出で、この家はもともとどういった歴史があるといった、いわゆる学問としての歴史ではなく、そこに長く住んでいる普通の歴史が語られた。本で読んでもわからないことが町田さんの頭にはいっぱい入っていて、そういった意味ではおしい人をなくした。

 昔、母の実家である徳島の脇町に帰省の度に、近所のうどん屋から出前があった。このうどんはおかしなもので、めんの太さが一本一本ちがい、めんの表面がぼこぼこしている。手打ちはまちがいないが、子供心にも何十年もうどんをうっているのだから、もっと上達してもよかろうと思うほど稚拙なものであった。継ぐひとがいないため、今はやっていないが、脇町の年配のひとにとってはこのうどんは忘れられない味であろうし、これがこの町のうどんであろう。