2008年6月30日月曜日

兄弟 余華



中国人作家の中で最もノーベル賞に近い?作家余華の兄弟を読みました。上下約900ページの大著ですが、丸3日で一気に読み終えました。

一巻目は文革篇、二巻目は解放経済篇で、性、金あるゆる欲望が渦巻く世界をきわめて読みやすい文体で綴られ、なまなましい人間、社会を描ききっています。小説で、あくまでフィクションであるとはいえ、とても日本人作家には書けないリアリティーがあり、現在中国の暗部、あるいはむき出しの世界を映し出していると思います。前に「丁庄の夢」閻連科 河出書房新書 を読みましたが、この本では売血によりエイズが感染し、村が一気に崩壊する様をなまなましく描いていましたが、これもフィクションではなく実際に売血により100万人ともいわれるエイズ感染症を出した事実に基づいています。

どちらの本も日本人の感覚からすれば、なんぼなんでも人間であればそんなことはできないよといったことを、みんな平然とやっていきます。文革当時、父親が資本家であるため、投獄され、長髪の息子はむりやり髪を刈られた末、頭部の動脈も切られ、血をふきながら死に、それを知った母親は発狂、父親は頭に自らくぎを刺して自殺。こういったことはこれでもかといった案配で登場します。一方、下巻では金もうけのため、人工処女膜販売の詐欺師が出てきたり、妻のため、金のため豊胸手術をして豊胸クリームを売るが、帰ってみると妻は弟の女になったことを知り、自殺する、こんな場面ばかりですが、案外暗い感じがなく、おもしろく書かれています。

高校生当時、毛沢東思想にややかぶれ、大学2年生の時(1976)に文革後の中国にどうしても行きたくなり、親に援助してもらい広州、昆明、北京に行ってきました。初めて外国人に解放されたばかりで、街を歩くと、外国人みたさに黒山の人盛りでびっくりした記憶があります。歩くと、数十名の人たちが一緒についてきます。ちょうど解放経済が始まった頃のことで、北京の銀座王府井なんかも平屋、二階建ての商店ばかりが並び、ちょうど北朝鮮の今のような状況でした。今の若い中国留学生に聞いても、文革のことなんか100年前のできごとと感じているようです。祖父、父、子供、孫の4代でこれほど社会が急激に変遷する社会は世界史上初めてのことだと思います。それ故、人間のあらゆる欲望、絶望、喜びがマグマのように噴出している社会が現出しているわけで、これほど小説家や映画監督にとってスリリングで材料に事欠く社会はないでしょう。2ちゃんねるでも「東アジアnews」ほどおもしろいところはありません。ちょっと下品な話題ですが、ttp://jp.youtube.com/watch?v=mJCzaFsXlaoなんか、この小説そのもので、笑えます。

文革あるいはその後の中国の姿は新聞やテレビを通じて報道されているものの、実像はかえってこのような小説の中にあるのかもしれません。そういった意味でこの小説は現在中国の生の姿を伝える貴重なものだと思われます。長い小説ですが、一読をお勧めします。

2008年6月19日木曜日

山田兄弟10


写真は山田純三郎の友人で上海で暗殺された陳其美である。前のブログでは中国革命の日本人協力者は孫文ら中国人革命家とは中国語で会話できなかったのではと書いたが、実は中国人同士でも会話ができなかったという話がある。

孫文ら広東省出身者は、いわゆる広東語を話し、また陳其美や蒋介石など浙江省出身は浙江語を、黄輿ら湖南出身者は湖南語を話しており、それぞれが出身者同士で革命グループを作っていたようだ。同じ方言をしゃべる同士でグループを作り、人脈でつながっていた。それ故、広東語を話す孫文と浙江語を話す蒋介石はまったくといっていいほど言葉は通じていないとも言われている。何しろ、言語学的には広東語と北京語は、英語とドイツ語ほど違う。英語しかしゃべれないものと、ドイツ語しかしゃべれないものでは会話はできない。蒋介石にしても生涯浙江なまりが強く、その演説は誰が聞いてもわからなかったようだ。日本でも幕末、薩摩藩と長州の武士では会話できないため、文章で伝達したという話しもあるが、その感覚だろうが。今の日本人にはそのあたりの感覚はわからない。

純三郎は子供好きだったようで、中国革命家の子供の面倒をよくみた。廖仲愷の子供、廖 承志は中国共産党史上最高の知日家といわれ、日中国交正常化に尽力した人物だが、子供のころ、純三郎とよく遊んでもらい、世話を受けたことから、日本にくるたびに純三郎の墓に参ったと言われる。また蒋介石の次男、蒋緯国は蒋介石の実子ではなく、戴季陶と日本人女性の間に生まれた子供だが、子供のころ純三郎のところに預けられたことから、戦後一人で日本に来て、当時80歳になる純三郎を訪ね、母の墓を探してお参りしたという話もある。後の台湾陸軍の上将で軍には強い影響力をもつ人物である。また冒頭の陳其美の息子も純三郎の世話を受け、その孫の陳恵夫と純三郎の子孫の交流は今も続いている。またある写真では中国革命の軍の指導者である黄輿の次男をひざに抱えている写真が乗っているが、中国革命の主要な人物との家族ぐるみの交流がしのばれ、改めて純三郎の人格を見直した。陳其美、廖仲愷、戴季陶、蒋介石、蒋介石、黄輿あるいは陳其美暗殺の折、三階で碁をうっていた胡漢民、これらの人物はすべて中国国民党の本当の主要メンバーである(Wikipdiaを参照にされたい)。もし純三郎も中国人であれば革命の功労者として同様な地位についたであろうが、逆にその後のどろどろした政争に巻き込まれ、早死にしたであろう。

国と国同士の外交と言っても存外、個人と個人の影響力が強いものである。歴史の表面には出ないものの、国同士の友好に純三郎の人徳が関連しているとも言えよう。

2008年6月17日火曜日

window マシン 2



この前買った中古のデルのコンピューターは結局、パーテションの変更ができず、ギブアップしました。パーテション変更できるソフトの購入、メモリーの増加も考えましたが、これ以上の出費は無駄と考え、windowユーザーの知人にあげることにしました(結局数時間かけて稼働できるようにしたとのことです)。

そこで一番安いwindowコンピューターということので、こりずにデルのものを購入しました。59900円で送料は無料です。ハードディスクは前の4倍、メモリーは4倍で、内蔵無線ラン、vistaも入っています。購入後、1分でAirmacとも接続でき、全く問題もありません。またDVDも見ることができ、スペック的には中古のそれの数倍はあると思います。最初から新品を買えばよかった後悔しきりです。よく59900円でもうけがあるのでしょうか。あとで調べるとデルの場合、時々特価販売するようで、この機種でもメモリーが2倍で56000円くらいで売ることもあるようです。

電化製品の中古購入はよほど注意をしなければいけないことを今回経験しました。知人のオーディオマニアに聞くと、彼は好きな曲をほぼ毎日10時間以上聞くようですが、CDレコーダーは1年くらいでピックアップがいかれ、スピーカーでも数年でだめになるとのことです。スピーカーなど数十年もつように思えるのですが、これほど酷使して使用するとだめになるようです。液晶テレビについても、やれ液晶の寿命がどうだかといったことが言われますが、実は本体はコンピュータであり、この部分がだめになるようです。コンピュターを毎日数時間使い、10年以上壊れないことはありえず、液晶テレビも同様と思われます。

ところでアップルのステイーブ・ジョブスの激やせに関しては、ネット上でかなり話題になっています。アップル本社は数週間前にかかったバクテリア感染症によるもので心配ないと発表しています。これを信じます。
ジョブスいわく「天国に行きたいと思っているひとでも、今すぐには行こうとは思わないさ」

ネットから
 私は17の時、こんなような言葉をどこかで読みました。確かこうです。
「来る日も来る日もこれが人生最後の日と思って生きるとしよう。
 そうすればいずれ必ず、間違いなくその通りになる日がくるだろう」。
それは私にとって強烈な印象を与える言葉でした。そしてそれから現在に至るまで33年間、
私は毎朝鏡を見て自分にこう問い掛けるのを日課としてきました。
「もし今日が自分の人生最後の日だとしたら、今日やる予定のことを私は本当にやりたいだろうか?」。
それに対する答えが“NO”の日が幾日も続くと、そろそろ何かを変える必要があるなと、そう悟るわけです。
 自分が死と隣り合わせにあることを忘れずに思うこと。これは私がこれまで人生を左右する
重大な選択を迫られた時には常に、決断を下す最も大きな手掛かりとなってくれました。
何故なら、ありとあらゆる物事はほとんど全て…外部からの期待の全て、
己のプライドの全て、屈辱や挫折に対する恐怖の全て…こういったものは我々が死んだ瞬間に全て、
きれいサッパリ消え去っていく以外ないものだからです。そして後に残されるのは
本当に大事なことだけ。自分もいつかは死ぬ。そのことを思い起こせば
自分が何か失ってしまうんじゃないかという思考の落とし穴は回避できるし、
これは私の知る限り最善の防御策です。
 君たちはもう素っ裸なんです。自分の心の赴くまま生きてならない理由など、何一つない。

- スティーブ・ジョブズ

2008年6月16日月曜日

山田兄弟9



弘前大学医学部歯科口腔外科にマレーシアからきた先生がいる。中国系のひとで、客家(ハッカ)の家系であろう。言葉は客家語が母語であろうが、広東、福建語をもちろん、北京官語もしゃべれる。台湾からの留学生とも台湾語、北京語両方で会話ができていた。さらにマレーシアでは高等教育は英語のため、英語も堪能な上、日本の歯科大を卒業して、医局に残ったため、日本語もほぼ日本人同様にしゃべれる。一番だめなのが、マレーシア語で街に買い物に行く時使うと言っていた。5−6の言葉をしゃべるようだ。

これで思い出したのは、孫文のことである。孫文も広東語はもちろん、教養ある知識人としては北京語もしゃべれたであろうし、ハワイで育ったことから英語も堪能であった。それでは日本語はどうだったであろうか。日本には長くいたことから、ある程度の日本語はできたようだ。ただ正式に日本語を習う期間もなかったであろうし、革命のためそんなひまもなかったと思われる。それでは日本人の協力者とはどのようにコミュニケーションしたのであろうか。例えば宮崎滔天との会話はどうだったのだろうか。陳舜臣の「孫文」の場面では、英語と簡単な日本語、および筆談で行っているように描かれている。他の小説では普通の日本語で会話している。中国からの留学生をみると、正式な語学研修を少なくとも1年以上受けないと、革命論議などの細かな会話はいくら語学の達人でもなかなか難しかったのでは。おそらく他の日本人協力者との会話も日本留学者の通訳や筆談(当時の日本人は漢文に素養があり、十分に伝達はできたろう)であったであろう。

そんな日本人協力者の中、山田兄弟は最も中国語ができたと思われる。兄良政は日清戦争の頃、通訳をしていたし、純三郎も日露戦争で通訳を、また東亜同文書院の中国語の教師をしていた。とくに純三郎は終戦までずっと中国にいたことから、ほぼ中国人なみに北京語ができたし、上海に長くいたことから浙江語も堪能であったろう。

中国革命の参加した中国人の中には、日本に留学して日本語も堪能であったものも多くいて、日本人協力者とも日本語で会話できたであろうが、仲間うちでは当然中国語で会話したであろう。こういった会議におそらく山田純三郎が日本人として唯一、参加できたのかもしれない。冗談やY談などの革命の同士としては当たり前の仲間内の会話にも入れたであろう。孫文と最も緊密に接触し、秘書のような仕事を純三郎がしていたわけはおそらくその語学力と誠実性によるものと思われる。

青森では言葉のコンプレックスが強い。戦前の東奥義塾は英語教育に相当力を注ぎ、優秀な学生をアメリカに留学させていた。標準語へのコンプレックスが逆に英語や中国語の学習に邁進させたのかもしれない。

エドガー・スノーは「中国の赤い星」など毛沢東の中国共産党の賛美記事を書いたが、今から見るとかなりプロパガンダに乗せられた記事であり、真の姿を描いていない。この理由として所詮は中国語を話せない外国人であり、革命の負の部分を知るほど、組織の中に入りきれなかったことが挙げられる。孫文の中国革命においても言葉の壁は日本人協力者に同様な問題を含んでいたかもしれない。

写真は1913年3月に日本を公式に訪問した孫文一行の神戸での歓迎昼食会のもので、下段の右端が山田純三郎である。

2008年6月10日火曜日

スティーブ・ジョブス


やばい。今日ニュースでスティーブ・ジョブスのiphone 3Gの基調講演を見たが、ジョブスのあまりのやつれようにショックを受けた。つい数ヶ月前にには元気だったが、今回の講演ではげっそりとやせ、声も枯れている。以前から膵臓ガンにかかったことは知っていたが、どちらかと言うと予後の良好なものだと聞いて、Macファンとしては安心していたのだが。

もともとappleという会社はジョブスによって作られ、きわめて革新的なコンピューターメーカーとして今日に続いている。一時はジョブスもアップルから職を追われ、まさにつぶれる寸前までいき、日本のソニーに吸収されかかったこともある。それをカラフルなImacによって復活させたのもジョブスであり、まさにこの会社はジョブスそのもので、カリスマである。そのため膵臓ガンの告知があった時は、株価は半分になった。おそらくこの映像を見れば、明日から株価の下落は免れそうにない。

ジョブの逸話には枚挙ないが、この人ほど自社の製品を熟知しているひとはいない。いつも新製品は自分でプロモーションするが、アップルの会社でも製品をこのひと以上に熟知しているひとはいない。製品開発に当たっては徹底的に現場に足を運び、細かい注文をつけていたようだ。例えばIpodの音量はかなり高い。これはジョブスがやや耳が遠いことからそうなったとの噂もある。ソニーの社長がジョブスをまねて自社の製品をプロモーションしていたが、製品を逆にもって説明し、操作もほとんどわかっていなかったという話もある。

ジョブスのトレードマークの黒のシャツは実は日本のコム・デ・ギャルソンのものだが、製品はすでに製造中止していたものを、ジョブス自身から直接注文があり、担当者がアメリカにいくと空港に待ちうけて、数百枚の注文をしていったという逸話もある。

ジョブスの生い立ちについては、スタンフォード大学での講演で中で語られているので一度、みてほしい。実に感動的なスピーチである。
日本語訳  http://sago.livedoor.biz/archives/50251034.html

一刻も早く元気になってほしいし、どうか杞憂であってほしい。なにしろまだ53歳なんですから。

2008年6月9日月曜日

前田光世2


前田光世の先祖前田三右衛門は、津軽藩の藩祖津軽為信の津軽統一にも参加した誉れ高い家門であり、その在地は俗称志戸の沢館にあり、その本家筋にあたる。光世は正式には青森県中津軽郡船沢村富栄字笹崎133番地1号の生まれ、光世の生まれたころは戸籍は平民で、河原の葦がや苅りあるいは岩木川下流の葦苅りの権利を持っていたと言われる。生誕地に行くと周囲は見渡す限りの農地でこれでは中学校に行くのにも金銭的にきついと推測されるが、鼻和小学校から明治26年青森県尋常中学校(旧制弘前中学校)に行ったことから見ると、父前田了は相当才覚があり、ただの農民ではなかったと思われる。うちの父に聞いた話では、中学校にいくのはクラスでもほんの数人で、頭がずばぬけてよいか、家が豊かなものに限られていたという。光世の生まれた船沢村から中学校に行くには相当遠いが、現在でもうちの娘の友人は自転車で1時間もかけて船沢から弘前中学校からさらに数キロ先の高校に通っている。当時、明治26年ころでは、船沢村から弘前中学校までは十分に歩ける距離であるが、それでも光世は友人の工藤十三雄の所に下宿して学校に通っている。

また記録によれば光世は明治29年に弘前中学を2年で中退し、早稲田中学校に入学するが、実は3年かかって2年生に進級したことになる。さらに進級が難しいので早稲田中学に転校したとみるべきか。成績表では英語は赤点になっている。どちらかというと勉強家というよりは、バンカラの雰囲気を残した青年であったのであろう。田舎で勉強して官吏や教員になるくらいなら、東京に出て出世しようという野心があって上京したのであろう。

子供の頃から身長はそれほど高くなかったが、たくましい体をしていて「相撲取りのなっても十分やっていける」と言われたほど腕力は強かった。早稲田専門学校の柔道場の通うと、その才能を開花させ、入門1年半、明治31年12月の無段者の月次勝負、これは無段者と有段者の分かれ、あらかじめ席順を決めて、順次勝ったものが上位に進む勝ち抜き戦である。ここで白帯をしめた乙組5、6人を簡単に投げ飛ばし、次に紫帯の上位者も次々投げ飛ばし、連続14.15人勝ち抜いた。これにより初段の認定を受けている。さらに32年10月には2段に昇段したが、一年間に二段昇段は当時でも非常に珍しい。よほど柔道が合っていたのであろう。

前田が後日、渡米時に持っていった金は12000円?(まさかと思うが、もう一度図書館で調べます)、これは現代の価値では2億円に匹敵し、またあの船沢から弘前中学、早稲田中学への進学といい、前田家の金の出所が非常に気になる。没落士族の子供が苦労してといったイメージがわかない。図書館で数冊の前田光世関係の本を読みながら、ここが非常に気になって、先に進められませんでした。

ちなみに明治30年ころの小学校の教諭の初任給が10-13円であるのに対して、旧制中学校の授業料は2円30銭くらい、東京の私立中学校は2円50銭から3円50銭とされている。1円が今の15000円くらいとすると、旧制中学校で35000円くらい、私立で45000円くらいかかることになる。割と高い。逆に大正8年のデーターでは東京帝国大学の学費は年間で35円、早稲田が50円、慶応が48円(いずれも文系)で、大学と中学校の学費が変わらず、また国立と私立の差も小さい。

2008年6月5日木曜日

Hugo Diaz



相変わらず、タンゴに凝っています。今回、紹介するのはアルゼンチンの生んだハーモニカの名手Hugo Diazです。生前は常にお酒を欠くことはなく、演奏中も常にお酒を飲んでいたようです。早く亡くなったようですが、いまだにアルゼンチンでは人気が衰えないようです。

このひとのハーモニカは非常にくせがあり、演奏にも結構きたない音が入っていたり、吹いているというより、息づかいまではっきり出てしまいます。ハーモニカの名手というと、Toot Thielemansが有名ですが、この人の技法は流れるようなフレーズをきれいな音を出して演奏します。Tootはベルギー生まれで現在86歳という高齢にも関わらず、パワフルな演奏をしています。ジャズハーモニカの世界では、一人超絶した存在で、この人の後を次ぐひとはいないでしょう。Tootの演奏はひとつひとつの音をきれいにスケールにそって(ものすごく早いのですが)、吹くのに対して、HugoDiazは3,4音を一緒にがばっと吹く、あるいは外れた音を鳴らすといった、実に個性的な奏法で、この二人の全く対称的です。おそらくHugoはタンゴのバンドネオンのイメージをハーモニカで吹こうとしたのでしょう。

ハーモニカは、楽器の中で最も手軽なもののひとつで、10年ほど前ホーナーのクロマティックハーモニカーを買って、練習していました。めざすはToothと目標は高かったのですが、あまりにレベルが違いすぎます。ところが1年ほど前から急に吹きたくなり、どこにしまったのだろうかと家中を探しましたが、見つかりません。手軽と言っても結構高いものですが、今年5月の誕生プレゼントに自分で買うお許しがでました。オークションでも12000円くらいします。Super Chromonica 270というもので3オクターブ吹けますので、ほぼほとんどの曲は大丈夫です。ピアニカはピアノのやっている人には絶対に負けますが、ハーモニカは関係ありません。うちの兄弟、姉、兄とも子供のころピアノを習っていましたが、私は全く音楽とは無縁の生活をしてきましたので、音符、特にフラットやシャープがたくさん入ると、全くわからなくなり、楽譜には下にド、レとか書き込みや半音上げなどの書き込みがしていないと演奏できません。少しずつ練習していきたいと思います。

2008年6月2日月曜日

window マシン



娘が学習塾の衛星授業を見るためにWindowsのマシンが必要と言われたのですが、何とかMacマシンで見れないものか色々と試してみましたが、結局はだめでした。そこで一番安い、Windowsマシンをオークションで購入しようとあたっていましたところ、DELL LatitudeD800という数年前の機種を2万円くらいで購入できました。かなり使用感はありましたが、インターネットさえ見れればと割り切って使った見ましたが、何とインターネットにつながりません。スペックを見ると無線ラン内蔵と思われたのですが、電波反応がありません。本屋でWindowsの本を買って勉強するもつながらず、それじゃ有線だとLANケーブルを差し込もうとしましたが、LANポートが壊れていてつながりません。ここで評価を「非常に悪い」としたところ、売り手からすぐに送れ、調べるとのことで送りましたが、とくに異常はないと言われましたが、無線LANカードがついて返ってきました。なんじゃ内蔵していなかったのか、これじゃつながる訳はないと思い、早速つなげると簡単に接続できました。そこで肝心の授業を見ると、これが途中で止まってしまいます。無線の速度を調べると、Macの1/10しかなく、これも時間の経過に伴い遅くなっていきます。ここで無線LANをあきらめ、電気屋でバッファローのLANカードを購入して有線でつなげたところ何とかつながり授業の見れるようになりました。ようやく解決かと思い、LANコードを抜き、再び無線の設定にかえると今度は無線がつながらず、Macがつながりません。Airmac EXPRESSの設定を変え、ようやくMacにつなげるようになりましたが、LANコードをぬき、DELLにつなげると今度はまたつながりません。買ってから2週間こんなことばかりに時間をくい、ここにきてストレス爆発、周囲に八つ当たり状況です。さらにどういうわけかハードディスクのCドライブの容量がわずか2Gしかなく(ちなみにEドライブは35G)、しょっちょう容量が足りませんとのアラームが現れ、Yahooイージセットアップなどのドライバーソフトも動きません。その対応を調べましたが、どうしても容量を増やすことが出来ません。病院の筋電図のコンピューターがDELLなので明日、WindowXPを再インストールしてみますが、Cドライブの容量の解決になるでしようか、あまり期待していません。ハードの故障かとひそかに疑っています。

大学にいた時は、NECのコンピュータでその当時はMS-DOSでした。apple CLASICというが高かったのですが、便利だったので、開業してすぐにLC630を購入しました、その後iMac(初代)、iMac(二台目)、現在はiMac(三台目)とiBook,MacBookを使用しています。ずっとMac一筋です。この間、Windowマシンは税理用の東芝のものが一台ありますが、全く使ってこともなく、知識もありません。今回、初めてWindowを使ったのですが、あまりに面倒なので、これじゃMacのOS8以下というのが率直な感想です。いちいちクリックしてイエス、ノーの答える形式は耐えられません。MacのOSは10以降、これはすごいものでタイガー、レパードなどはWindowsのVISTAをはるかに超えています。またフリーズもほとんどなく安定しています。

Macの唯一の欠点はOSや周辺接続方法をしょちゅうかえるため、3,4年ごとに新機種を常に買い替えなければいけない点です。OSを9から10にした時もすごかったし、スカジーをすべてなくした時もそうでした、周辺機器が全く使えなくなりました。こうした互換性も無視したappleのやり方に、Macユーザはもはや慣れっこになってしまい、また新しい機種を買うはめになります。そして期待通りの性能を持ちます。この間、Windowsは巨大ユーザの互換性に苦慮したためか全くといいほど進歩がありませんでした。今やMacはWindowも使えるようになり、なおかつWindowマシンより高速?のようです。

新品でもDELLの一番安いのが59900円くらいなので、次の試みが失敗したら、これを購入しようと思います。もはやこれ以上、このWindowマシンに関わるストレスに耐えられそうではありません。友人に相談したところ、ストレスをなくす一番いい方法はこのコンピュータを二階のWindowから放り投げることだと教わりました。そうかもしれません。お願いですからジョブス様死なないでください。アップルがなくなると本当に困ります。