2016年10月30日日曜日

シグマSD Quattro

初代DP-2は子供


モノクロで近所を撮りました。いい感じです


 シグマSD Quattro買っちゃいました。シグマDP2を最初に買ったのは2010年、その後、次々新しいDPシリーズがでましたが、じっと我慢していましたが、この度、レンズ交換式のミラーレスカメラ、シグマSD Quattroが販売され、俄然ほしくなりました。といっても先立つものが2万円のへそくりしかありません。そこでまず考えたのが、痔になってから全く乗っていない、レニャーノの自転車の売却です。20年以上前の自転車ですから、1万円にもなればいいのかと思い、このブログでも購入者を募りましたが、ブログを見ている方には若い人がすくないのか2週間たっても、売れず、ちょうご近所にビンテージ自転車を扱う店ができたので、早速、持ち込み査定してもらいました。店のオーナーはアメリカで買った古いレニャーノのロードを持っているせいか、私のスポルティフにも大変興味をもってもらい、期待以上の査定をしてもらいました。それでもまだまだ足りません。そこで学生時代、食費も節約して月賦で買ったミノルタCLEも処分することにしました。このカメラはライカレンズも装着できるため、高い人気を保っていました。買ったのは37年前ですが、10年前までは中古価格でも購入時並みの価格がついていました。当時でしたら、下取りでも5、6万円で買ってもらったと思います。ところがデジタルカメラがほぼ100%になった現在では、中古価格もかなり下がり、ヤフーオークションでも4、5万円で売買されています。さすがにこの先フィルムは使わないだろうと考え、キタムラカメラで査定してもらったところ18000円、下取りということで21000円にしてもらいました。シグマSD Quattro30mmレンズの値段には、自転車+ミノルタCLEでも足りませんでしたが、何とか金をかき集め、財布には500円しかない状態で、ようやく本日、ゲットしました。

 もともとこのシグマSD Quattro、ボディはオープン価格ですが、だいたい9万円くらい、また30mmレンズ(F1.4)が59000円くらいしますので、セットで96000円というのはかなりお得価格です。おそらくほとんどひとはレンズキットを買うでしょう。


 帰ってきてすぐに箱から出しました。他のブログでも紹介されていますが、かなりでかくて重いです。とても旅行には持っていけないサイズです。初代DP2が赤ちゃんのようです。これはでかい望遠レンズなどを装着した場合も、きちんと構えるためのものと思います。グリップ感は悪くありません。また私のもっている初代DP2に比べると、処理速度も向上していますし、液晶画面もずいぶんよくなっています(それでも今のコンパクトカメラ並みですが)。ただ相変わらず、ピント合わせは遅く、電子式ファインダーもフジフィルムのミラーレス一眼カメラなどと比べると全く比較にならないほどおそまつです。それに本体には高級感はありませんし、デザイン的にもいまひとつです。


 肝心の描写力ですが、画素数が初代の3倍くらいになったので、さぞかしと思ったのですが、実際それほど違いはありません。シグマのカメラの魅力は画面上でどんどん拡大してどこまで見えるかを競うことで、3倍になったのだからすごいことになるかと思ったのですが、解像度は期待はずれです。また色調は、あくまで主観ですが、むしろ普通の色彩になったようです。初代のDP2は現像(Rawデーターのソフトによる加工)しなくてはどんな色で写っているかわからず、現像後、こんな景色ではなかった、もっと普通の景色だったと驚く画像が得られました。その場の情景とは違った景色が写る不思議さがありましたが、新しいQuattroは見たままの景色が写っているだけです。初代に見られたいい意味での裏切りはありません。


 本日、数十枚撮っただけの感想ですが、よほどシグマファンでなければ、手を出さないほうがいいかもしれません。中古のDP1、2が1、2万円で売っていますので、これで少し慣れた方がいいかもしれません。こうした中古でも十分シグマカメラの面白さが理解できると思います。中にはあまりの反応性の悪さに怒る人もいるかもしれません。私の場合でも旅行や日常の場面では、違うコンパクトカメラを使っています。あくまでシグマを使うのは天気がよくて、今日はいい写真を撮ってやるぞと決意した時です。シグマには交換レンズにいいものがあり、今度は60mmにするか、18-200mmのズームにするか、買ったばかりなのに次の目標ができました。


 シグマというメーカーは、本当にいい会社だと思います。6年前に買っただけなのに、”SEIN”という小冊子をずっと送ってもらっています。なかなかいい冊子で、バインダーまで送ってくれました。NikonCanonという大メーカーに、真っ向から挑戦しつづけています。絶対になくなったほしくない会社のひとつです。

*11/3
 初代DP-2(1400画素)とSD quattro(3900万画素)で解像度に差はないと言いましたが、実際は私の持つMacBook Airのモニター性能が悪いため、カメラの解像度が上がっても、視覚的は差がなかったようです。画像を1/20くらいに切取り、両者の差を比較すると歴然とした画質の差があります。私のようにプリントもせず、パソコン画面上のみで見る人にはそんなに高い解像度が必要ないのかもしれません。一方、スマホのようにズーム機能を駆使するなら高解像度の方が有利でしょうが、SD quattroのようなレンズ交換式の場合は、望遠レンズを買えばいいのではと思ってしまいます。ただスポーツ鑑賞や飛行機、電車撮影の場合は、大きな望遠レンズを使わなくても、高解像で撮っておけば、切取り、ズームでもそこそこの写真が撮れるというメリットはあります。下の写真の上は初代DP2の写真を1/20くらいで切り取ったもの、下はQuattroの写真を切り取ったものです。水滴の描写に差がでています。最近買ったIpadはレティナディスプレーはきれいです。










2016年10月23日日曜日

190cmないと良いGKとは言えない


 日本代表のハリルボジッチ監督は、「現代フットボールでは身長が190cmないと、良いGKとは言えない」という発言をして、論議が起こっています。実際、ヨーロッパの強豪クラブで活躍しているGK190cm以上ですので、この意見は正しいと言えます。ただ日本のGKに当てはまるかというと。

 先々週から暇を見つけて読んでいる本があります。「孤高の守護神 ゴールキーパー進化論」(白水社、2014)で著者はサッカージャーナリストのジョナサン・ウィルソンという方で、385ページという大著で、これほどGKだけを主題とした本は知りません。よくこれだけ調べたというのが率直な感想で、サッカーの始まりから現在までのGKの歴史、名選手、国によるGKの扱いなど、実に詳細に書かれており、さすがサッカー発祥の地、イギリスの作家だと思いました。

 この本にはGKの身長について書かれているところがありますので、一部、抜萃します。
『「ゴールキーパーは身長183cmでなくてはならない。その身長なら強いという印象を与え、垂直、水平両方向の広い範囲を易々とカバーできる。その身長より低く小柄であることはハンディになる。反対にそれ以上あまり背が高くてどっしりした体型のゴールキーパーは、小柄で敏捷性のある相手に俊敏に走り込まれたり、低いシュートを打たれたりすると不利だ。そして若さが持つ敏捷性と、ベテランの賢さを合わせ持たねばならない」1906年のザ・タイムズ紙でリー・リッチモンド・ルースが書いたゴールキーパーの条件から、今もあまり大きく変わっていない。今なら理想とする身長を、あと七、八センチ足したほうがいいだろうが、本質的な部分では同じだ。ピーター・シルトン(注:イギリスの代表的なGK)は183cmで、近代サッカーが強迫的にとらわれる高身長にはこだわらなかった。「190cm以上ないといけないという説もあるが、個人的にはそうは思わない」と彼は言った。「196cmになると、183cm以下の選手より敏捷性があって、足がよく動くというわけにはいかない。ただ身長が低すぎるとこれまた困難だが、190cmを越える必要はない。」』

 多くの名GKを輩出してイギリスの意見を反映しています。ここでイギリス人に平均身長を調べますと、177.6cmに対して日本人の平均身長は170.7cmです。ちなみにアジアでは韓国が173.7cm、 中国は172.1cmです。大体7cmくらい低いことになります。となると日本人では身長190c以上の男子の割合は非常に少なく、さらに瞬発力、反応能力はまでいれると、該当する人はほとんどいないことになります。であれば185cmくらいのGKで戦うしかありません。

 ただ残念なことにアジア人は身長が低いだけでなく、手の長さも短く、「孤高の守護神」の本の中には、アジア人のGKとしてはオマーンのアル・ハブシしか取り上げられていません。アル・ハブシ選手は身長、194cmで、GKでも大型の選手です。日本のGKの歴史をひもとくと、メキシコ五輪で活躍した横山謙三選手は175cm、松永成立選手は180cm、川口能活選手は179cm、楢崎正剛選手が187cm、川島永嗣選手が185cmで、最近の西川周作選手が183cmとなっています。本では取り上げられていませんが、アジアで最も優れたGKはサウジアラビアのデアイエと思っています。デアイエの身長は188cmで、ヨーロッパの強豪クラブに行かなかったので取り上げられていませんが、その反応、瞬発力は驚異的です。

 最初に戻りますが、確かにGKの身長は高い方が有利でしょうが、世界最高のGKであるスペインのイケル・カシージャス選手の身長が185cmであることを考えると、185cm前後の日本のGKでも正確なポジショニングと反応性、広い守備範囲を持てば、世界的なGKになれる可能性があります。多くの日本人フィールドプレーヤーが海外で活躍しています。ただ川口選手、川島選手のように海外に挑戦したGKもいますが、成功していません。言葉の問題だけでなく、GKの出番は正GKが怪我をしたといった緊急の出場に活躍し、その後も一回でもミスをしないという極めて厳しい条件がつきます。FWではイージーシュートを失敗しても誰も責めませんが、GKの場合は交代され、使ってもらえません。精神的な強さと頭のよさも現代のGKには求められています。
 私は、名古屋グランパスの楢崎選手が好きですが、動画で示すシルトン選手の最後のシーンのようなセービングができれば、彼も世界で通用したと思っています。


*「孤高の守護神」にはおもしろいエピソードがたくさんあります。笑ったのは、ノーベル物理賞をもらったニールス・ボアはデンマークの代表GKであったが、何でもないシュートを取り損ねた上、「数学的問題に熟考中」だったと打ち明けたので、代表メンバーから外されたという話や、カシージャスの母親が妊娠中、アパートの外で物乞いをしていた靴職人から「あなたの息子は偉大なゴールキーパになる。偉大なゴールキーパを輩出するバスクの殿堂に入るだろう」と予言された話などがあります。またGK出身の有名人には多くの知識人がいます。フランスの作家アルベート・カミュー、アンリ・モンテルラン、ロシアの詩人のウラジミール・ナバコフ、エフゲニー・エフトゥシェンコ、イギリスの作家コナン・ドイル、変わったところではチェ・ゲバラや教皇ヨハネ・パウロIIもいます。

2016年10月13日木曜日

横浜共立女学校 一期生のこと

前列左二人目が鈴木雅(加藤まさ)とヴェッチ


 本日は、休診日で、午前中は弘前学院の創立130周年記念講演会があり、横浜の岡部先生の「本多庸一と長谷川誠三」という講演を聞いた。大変な内容の濃い45分間であった。帰宅後、これも縁かと思い、横浜共立学園からいただいた創立140周年記念ビデオのDVDを見た。伝統ある学校で、生徒は皆、しっかりしており、さすがにキリスト教精神に基づく伝統校だと思った。

 この学校の不思議な点は、初期の学生の中に多くの海外留学生がいたことが挙げられる。前回のブログでも紹介したが、「横浜共立学園六十年史」の中で、卒業生の寄稿文のひとつに小島清子(北川)さんの「思い出を語る」という文が収められている。少し引用すると

 「私は姉の北川晴子と弟の北川才太と三人で、ミッションホームが山手四十八番に開設された最初の生徒として入学したものでした。私たちの外に第一回の生徒として入学した人たちには福澤先生のお嬢さ達が三人、又福澤先生のお姪御さんで福澤おきよさん、井上馨(後の侯爵)さんのお嬢さんが二人、木脇お園さん。この人のことを伯爵夫人と渾名していました。中尾さん、名は何と言ったか覚えていませんが何でも芸者をしていたかということでした。苗字は忘れましたがお米さんという三十歳位の人もいました。菱川お安さん、この人は後医者となった。更木お梅さん、更木お金さん、おひささんなどでした。間もなく二百十二番に移りましたが、移ってから入学した者のうちには毛色の変わった人たちがいました。 略 おりょうさん(後栗岡氏に嫁す)、加藤おまきさん(後東京帝大の看護婦長となった)桜井おちかさん(桜井女塾を開いた)井深おせき(井深梶之助博士夫人)おとりさん、お角さん(後医者になった)お貞さん、おりやうさんなどであった。この二人は明治の初年最初の女子海外留学生として米国に往った上田てい子、吉松(益)りょう子さんたちで渡米後間もなく帰朝して共立に入ったのでした。これらは開校当時の事で明治四、五年頃の話ですが、それでも当時の社会においては相当の身分のある人たちの子供が入学したのです。」

 前のブログにも書いたが、一期生にはほかにはペンシルベニア女子医学校に進学して女医になった西田ケイ(岡見京)がいる。つまり一期あるいは二期生の中にシカゴ女子医大に進学した菱川ヤスとシンシナティー女子医学校に進学した須藤カクと何期かは不明であるが阿部ハナの四人の外国の女子医学校を卒業して女医になった生徒がいる。驚くべきことである。今でも日本の高校を卒業してアメリカの医学部へ進学する生徒がどれほどいるかと考えれば、これは凄い。さらに気になる人物として“加藤おまきさん(後東京帝大の看護婦長となった)”がいる。検索すると、旧姓、鈴木雅(1857-1940)、日本の看護師の草創期に活躍した人物である。彼女は、同期生の桜井ちかの開設した桜井女学校で、イギリス出身のナイチンゲール看護学校を卒業したアグネス・ヴェッチ(Agnes Vetch)の通訳をしていた。その縁もあり、最初の桜井女学校看護婦養成所の第一回卒業生として大関和、桜井とともに東京帝国大学に勤務し(明治21年)、その後、内科婦長となった。ここで看護師の教育を行ったが、当時の男性主体の病院に耐えられなくなったのか、2年で辞めている。その後、鈴木雅は明治24年には慈善看護婦会(東京看護婦会)、看護婦講習所などを創立した。

 とここまで加藤まさについてコンピューターで検索した。桜井ちか、加藤まさ(鈴木)、岡見京、須藤カク、阿部ハナ、菱川ヤス、さらには二宮ワカなど同窓同士の関係はおもしろいし、さらに気になるのは芸者さんで共立に入学した中尾という人物だが、これはわからない。岩倉使節団で渡米した五人の少女の中の二人、上田悌子と吉益亮子が同級生にいて、学校生活を共にしたのは同級生にとって海外を身近に感じたのだろうし、医療分野に進む生徒が多いのは宣教医師のケルシー女史の存在も大きいように思える。

追加:静岡県士族加藤信盛の長女として生まれた。横浜のフェリス・セミーに学んだ。夫は西南の役に大隊長として活躍した鈴木良光陸軍歩兵少佐であったが、仙台の陸軍病院で病死した。夫の死後、桜井女学校附属看護婦養成所に入学、卒業後は東京帝国大学医学部附属医科大学第一医院の内科婦長として勤務した。 (看護歴史探訪 ーその3 小児精神医療のパイオニア 、佐々木秀美)


2016年10月12日水曜日

矯正歯科の診断支援システムの開発を ビッグデーターの活用



 前回、上顎前突の矯正治療ガイドラインについて述べたが、おそらく将来的にはこうしたガイドラインの作成よりは、コンピューターによる診断支援システムの方が主流となるであろう。

 すでにアメリカで開発された人工知能による診断システム「ワトソン」のことがニュースでも取り上げられ、実際の医療分野での診断にも活用されつつある。こうしたビッグデーターを用いた診断支援は今後、ますます発展すると思われる。

 もう30年ほどになるが、鹿児島大学名誉教授の伊藤学而先生が、全国の歯科大学矯正科のレントゲンフィルムを一元的に集めて、頭蓋骨形態のパターン化、成長方向、量の予想に役立てようとするシステムを作ろうとしていた。当時はビッグデーターのクラウド化もなかったし、画像分析をするためのコンピューター自体あるいはシステムも未熟で、何よりどこの大学も自分のところの資料を出すのをいやがったので、何時の間にか立ち消えになった。

 矯正歯科では、患者が来れば、検査を行う。少なくとも初診時、治療終了時、保定2年後の側方頭部X線規格写真、写真、模型をとる。実際、レントゲン写真はもっと頻回に撮るであろうし、顎運動、筋電図、その他の機能検査も行う。こうしたデーターは一大学だけで、毎年数百名、全国で数千名、これまでのデーターを累積すると数十万名、さらに専門開業医の協力を得られれば、100万人単位のデーターを集めることは可能である。レントゲン写真について言えば、多少の拡大率は大学間で違うものの、ここ八十年以上は全く同じ、規格したサイズで撮られているおり、こうした同質の莫大なデーターは他の医療分野でも少ない。

 また治療計画、経過、治療結果の検査データー(模型、レントゲン、写真)、学術論文を組み込むことで、診断ツールとしてはかなり精度の高いシステムが構築できる。例えば、男女、年齢(発達年齢)、レントゲン、模型あるいは写真を、メールで送ることで、今後の顎発育の予想、治療方針、治療結果などの類似ケース、文献を知ることができる。さらに上顎前突治療のガイドラインでも少し述べたが、個々の患者により治療に対する反応は異なり、そうした鑑別も容易となる。また今までのガイドラインではその根拠となる研究は多くて数百名、大概は数十名の対象であったの対して、こうしたビッグデーターを使うことで、数万人単位の比較研究ができ、より精度が高くなる。また法医学、人類学、形成外科にも活用が期待できる。

 おそらく数十億円程度の研究費があれば、診断システムの開発はできると思われるし、そうした研究は世界でもあまりない。一挙に日本の矯正歯科学研究を進めることができるし、何より、我々歯科医だけでなく、患者にも役立つ。さらに言うなら、各大学とも過去の資料は捨てることはなく、どこかの倉庫に保存され、一部の研究を除いて、誰にも見向きもされずに眠っている。こうした資料をデーター化して活用することは、火事や地震による資料の喪失に対するバックアップともなる。


 30年前と違い、こうした矯正治療資料などビッグデーターを活用するハード、ソフトは、かなり発展している。学会で新たなガイドラインを作ることも大事であるが、こうしたより次元の高い研究、調査を日本矯正歯科学会は目指すべきであり、ひいては矯正臨床の飛躍的な発達にも繋がる。各大学でもメンツがあろうが、近年の日本の矯正歯科学の世界的な後れを取り戻せる壮大な計画となろう。