2009年6月27日土曜日

寺山修司生誕地




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 2007年2月28日のこのブログで寺山修司の生誕地について書いた。その時点では、弘前市紺屋町35番地が生誕地で、寺山の従姉になる海老川スミさんの話から、赤石ハキモノ店前の2軒長屋でないかと推測した。

 その後、ひょんな機会から、当時この長屋の隣に住んでいたひとが見つかった。現在、弘前で歯科医院を開業している川村先生で、地図上の川村というのがその家である。川村先生は昭和3年生まれで、寺山の出生した昭和10年当時、小学1,2年生で、城西小学校に通っていた。古い記憶ではっきりしないが、隣に細長い2軒長屋があり、赤ちゃんのいた警察官の家は2軒左隣りの角地のところだったのではないかということである。寺山一家がここをでた後は向かいの赤石ハキモノの人が住んでいたようだ。

 間口が狭く、奥行きが長いのは津軽の伝統的な街割りだが、寺山の生まれたところも道路沿いに小さな家屋があり、奥は畑になっていたようだ。(昭和10年の地図と合わせるには、グーグルの地図を90度時計回りに回転してください)

 寺山の父八郎は、当時弘前歩兵第31連隊にいた秩父宮殿下の警護巡査であり、木筒屋酒造店の中にあった紺屋町臨時巡査派出所に勤務していた。昭和16年に青森県から発行された「秩父宮殿下御在縣記念誌」という豪華本が弘前市立図書館にある。その本の中にも警護巡査として寺山八郎の名前が見える。当時、天皇の弟の秩父宮殿下が弘前に滞在するとなると、それはもう大変な騒ぎで、滞在所も粗相のないよう、最も立派な家、菊池長之、藤田謙一の別宅、高谷英城の本宅のなかから選ばれ、警護の問題や庭の美しさから菊地長之の別邸が滞在所に決定した。その後、秩父宮殿下のために家は改築され、御用肉屋、魚屋、八百屋、さらに散髪屋なども弘前の店屋の中から選ばれた。こういった事細かいことがくわしくこの本には書かれている。一部の店屋は今でも存在するが、当時は随分名誉なことであったであろう。

 菊池別宅は終戦後に火事で焼失し、その跡地は弘前明の星幼稚園に寄贈され、現在は当時の庭園が一部残っているようだ。寺山の生誕地からは東に徒歩5分くらいのところにある。

 三笠宮殿下御在所候補であった藤田謙一別邸は現在藤田記念庭園で見ることができるし、また高谷英城の家は現在翠明荘というレストランになっており、これも見学することができる。ここの今の持ち主がここの欄間を「開運お宝なんでもでも鑑定団」に出したところ、600万円の評価を得た。これらを抑えて選ばれた菊池別邸は残っていれば相当なものであったであろう。

 紺屋町には古い建物が今でも残っており、先に述べた木筒屋酒造店(川村酒造)も土地は随分狭くなったが、古い店舗が残っていて、往時の雰囲気がしのばれる。またその隣には、これもかなり古い医院があり(佐々木医院?)、少なくとも昭和初期あるいは大正期の建築と思われる。医院自体はかなり前に廃院したが、何だか往時の病院のままの状態が残っていそうだ。こういった建物は映画やテレビロケにも使えそうで、弘前フィルムコミッションなどでも活用してほしい。

2009年6月23日火曜日

第25回東北矯正歯科学会




 6月19,20,21日と第25回東北矯正歯科学会大会参加のため福島県の郡山に行ってきました。会場は駅前にあるビックアイという高層ビルで、その最上階に世界一高いプラネタリウムがあります。ホテルが遠かったのですが、会場まで歩いていったおかげで、郡山の街は探索できました。青森市とよく似た町並みです。

 大会長の奥羽大学の氷室教授の発案で、会場は扇型に開いた席になっており、アットホームな雰囲気でよかったと思います。設営は大変だったでしょう。奥羽大学の皆さんごくろうさまでした。

 学会では、福島大学人間発達学類の高谷理恵子先生の「乳児期初期の身体制御の発達過程」という講演がありました。乳児では仰向けに寝かされると手足を色々に動かし、その動作はダンスのようにエレガントなものである。この動作はチンパンジーなどの人間に近い霊長類
でも幾分観察されるようですが、ヒトほど複雑な動きはないようです。脳機能の発達障害をもつ赤ちゃんでは、この動きが協調的で、右手を挙げる時には左手も上げるという風に、一緒に動く動作を示す場合が多いのに対して、そうでない赤ちゃんでは協調性はなく、ランダムな動きをしながら、エレガントな動作をするようです。この赤ちゃんの動き方を観察することで発達障害の評価につなげようとする研究です。

 あごが左右にずれた子どもたちを見ていますと、小首を少し傾けた姿勢をとる子どもたちが多いようです。通常、左右の眼は地面と平行にあるのですが、こういった子どもたちはやや傾いた状態が落ち着くようです。右に頚を傾ける癖のある場合、下あごはこの状態に対して重力に沿って垂直に成長し、結果的にはあごが右にずれていきます。産道を抜けるとき赤ちゃんはある程度、斜頸の傾向を示しますが、次第に消失していきます。

 あごのずれについては、頬杖、うつぶせ寝、咀嚼習慣や姿勢などの種々の要因が絡んでいるようですが、はっきりしません。高谷先生にそのあたりのことを質問させてもらいました。ごく最近の研究はお話いただきました。赤ちゃんも寝る向きがあり、無理に矯正させ、まっすぐにさせても、かえって視覚狭くなくことがわかったようです。すなわち右向けに寝る赤ちゃんにとっては上向きに寝かせられるより、いろんなものがよく見えているようです。こういった癖は相当早い時期に決まってしまうものかも知れません。

 一方、欧米などで古くからある新生児を布でミイラのようにぐるぐる巻きにする、スワドルというものがあります。生後数週間使うようですが、なかには1年以上も使うようで、ハイハイなしでいきなり歩くようです。赤ちゃんにはこういった状態の方が安心感があるようで、股関節脱臼の予防にもあるようです。日本ではあまり見かけません。こういった方法で赤ちゃんの自発運動を抑えることがその後の精神発育にどういった影響があるか、あるいはあごのずれとどう関係するのか気になるところです。

 矯正歯科というと歯並びの治療のみと考えがちですが、あごの発育という点では小児あるいは乳児、胎児まで関連してきます。それだけ広い範囲の研究が求められます。大学の先生方の今後の研究を期待しています。

2009年6月12日金曜日

六甲学院サッカー部


 私のサッカー歴は結構長い。中学、高校、大学の12年間のうち、7年間はゴールキーパー、後の5年間はセンターバックをしてきた。当時は小学校にサッカー部があるところが少なく、多くは中学からサッカーをやり始めた。

 ゴールキーパーを除くフィールドプレーヤは自由に走り回れるし、何といってもゴールする喜びがあるが、その点ゴールキーパーはほんとに地味なポジションで、唯一手を使えることがかえってサッカーの本質に違反しているようで、疎外感があった。味方がゴールを入れてもみんなのようには一体となって喜べないところがあり、PKを防いでも自分にやったとちょっとガッツポーズをするくらいである。

 ゴールキーパーは練習自体がチームとは別メニューで、監督、コーチ自体もフィールドプレーヤーについては知っていても、ゴールキーパーには門外漢で、唯一の練習相手は、一級上の先輩と一級下の後輩だけである。このコンビで中学、高校を過ごすのであるが、私の場合、一級上の雲井さんは安定したGKで、一級下の中田くんはセービン技術が卓越していたが、私は全くぱっとしなかった。土のグランドでセービングに失敗すると本当に痛く、どうしてもセービングができなかった。見かねた監督が左右の足の横に部員を横たえ、それを飛び越えさせるように練習したりもしたが、なかなか恐怖心には打ち勝てなかった。

 当時の六甲学院のサッカー部は強く、神戸市や兵庫県の大会でも常に上位にあった。一級上の31期はメンバーも揃っていたし、何よりサッカーにかける情熱が違っていた。ハイライトは兵庫県大会に優勝し、第25回近畿高等学校蹴球選手権(昭和47年)に出場して、優勝したことだ。29期も強く、全国総体に出場し、国体選手も輩出したが、チーム力としては31期のチームがこれまでの六甲のサッカー史上最も強かったのではなかろうか。

 この大会は京都の西京極で行われたが、雲井さんが腰のけがが回復せず、急遽わたしが出場することになった。つい半年前まで中学生であったのに、いきなりこんな大きな大会に出場することになり、かなり緊張した記憶がある。確か一回戦は滋賀の甲賀高校?であったが、こんなたよりないGKを見かねたのか、バックがほとんどシュートを打たせないように踏ん張ったおかげで、楽勝した。次は赤いユニフォームの大阪北陽高校で、このチームは本当に強かった(昭和48年にはインターハイ準優勝、49年にはサッカー全国大会優勝)。ただこの試合から西京極のメイン会場で行われ、全面芝の会場であった。それまで土のグランドしか知らず、初めての経験であった。いくらセービングをしても全く痛くない。なんだ芝生で練習すれば、セービングも大丈夫だと本当にうれしかった。さすがに強豪で何本もゴールポストに当たる危うい場面もあったが、何とか1:0で勝利した。決勝は地元嵯峨野高校で、この試合からは雲井さんもカンバックし、安定したプレーで1:0で優勝した。優勝後はOBの方が阪急六甲駅の近くの中華料理屋で優勝祝賀会を開催してもらった。
http://www.green-ss.jp/highschool%20kinki%20Champion.html。)

 私の32期も結構強く、県大会の決勝まで行き、西宮東高校?で神戸高校と対戦した。グランドの横には神戸高校の大応援団、我が方は応援なし状況で、しょぼいシュートが右にきた。楽勝と思い、セービングしたところ、何と右手の下をするりと抜けてゴール。左の神戸高校の応援団からは大歓声、「あのGKへぼ」といった声も聞こえる。痛恨のプレーで、監督にも見放され途中で交代させられてしまった。結局大差で負けた。いまだに悔やまれる。

 ただ当時でも六甲高校では高校3年生の夏くらいには引退していたため、ぎりぎり高校総体には出場できても、冬の高校サッカー選手権には高校2年生のチームで参加した。

 チームメイトの大谷くんのお父さんが確か新聞記者でサッカー記事を時折サッカーマガジンに寄稿していたが、家に行った時にペレのサインを見せてもらい、本当に感動した。ペレは当時の僕らにとっては神のような存在であった。

 今でもチームメイトから母校のサッカー部のことを聞くが、あまりぱっとしないようだ。プロリーグができてからは、高校サッカーも格差ができ、進学校からよい成績を残すことは不可能となった。

2009年6月7日日曜日

弘前のモダン建築




 弘前は戦火をくぐらなかったせいか、古い建物とモダンな建物が混在しています。今回はその中でも私のお気に入りのモダンな建物を紹介します。

 ひとつは市内の繁華街土手町のそばにあるスペース・デネガです。ここはうちからも近く、よく展示会や弘前劇場の公演などが行われています。設計は、北海道の有名な建築家上遠野徹さん(かとの てつ)で、レンガ壁の平屋の建物で、1983年に完成しました。もともとここには病院があり、その先生が私財を投げ打って病院の跡地に、自分たちで音楽や絵画を楽しむ場所、発表する場所として建てられました。「何でもやってもいいんでねーが」ということで「デネガ」と名付けられたようです。冬になると建物の脇に大量のマキが置かれているのを目にしますが、これは暖房がコークスとマキのストーブでとっているからだそうです。真冬でも結構暑く、断熱はバッチリと思われます。上遠野さんの自宅に惚れ込んで、この建築家に依頼したようですが、この札幌にある上遠野さん自宅はデネガ同様のレンガ壁の平屋で、床にはペルシャの絨毯(カシャーン?)、家具は北欧のブルーノマットソンで、見るからにくつろげる場所です。私自身、好きな建物のひとつにフィンランドのアアルトの「ヴィラ・コッコネン」という住宅があります。この建物は友人にコッコネンのためにアアルトが設計したもので、スタジオを除くとそれほど大きな住宅ではないのですが、実に暮らしやすそうな住宅です。この住宅と上遠野さん自宅の雰囲気がとても似ています。

 もうひとつ好きな建物は、有名な建築家前川國男さんの設計した弘前博物館です。前川さんの建物は弘前には初期から晩期まで8つありますが、弘前博物館が一番すきです。ここの後援会に入っているせいか、展覧会に行くことも多く、本日も「琳派・若沖と雅の世界」を見てきました。見学後にここのロビーに座り、無料のお茶を飲み、外の景色を眺めると本当に落ち着きます。まるで自分の家のような安らぎを覚えます。ソファーも座り心地がよく(低座で、おそらくは天童木工?)、ここで本を読んだりします。なにより紙コップでなく、湯のみ茶碗が用意しており、それで飲むと本当においしく感じられます。展覧会のあと喫茶店に行く必要がありません。弘前市は小さな町ですが、身の丈にあったいい美術館だと思います。小さな美術館と言えば思い出すのは穂高町にあった碌山美術館で、もう30年前に旅の途中で立ち寄ったことがあります。本当に小さな小さな美術館で、教会のような荘厳でありながら、実の落ち着いた建物でした(今HPを見るとその後3つも附属美術館が併設されたようでかってのような雰囲気はもうないかもしれません)。

 前川さんの作品は以前、小平市の江戸東京たてもの園にある前川國男邸を見たことがあります。何より感心したのは、その落着きで、明日に住んでも違和感のないような感じでした。寝室は狭く、四畳半くらいでしょうか、暗い空間です。昨今の建築雑誌などではよく明るく広い寝室が紹介されていますが、むしろよく寝る為には真っ暗で狭い空間の方が私の歳になると必要です。いくら遮光カーテンをしても夏場は明るくて起きてしますからです。またダイニングも食事をするだけなので、狭くても問題ありません。リラックスする空間の居間が広くて景色がよければいいのです。前川邸も、上遠野邸も、ヴィラ・コッコネンもここらあたりのつぼは押さえています。前川さんの作品が今での人々に愛されるのは、自宅のようなくつろぎ感があるためでしょうか。

 一方、土手町には中三デパートという建築家毛綱毅曠が設計した建物がありますが、あまり奇抜すぎるし、まだ年月が立っていないのに、メンテが難しいのか、結構汚く、好きではありません。奇抜さ、美しさ、居心地が同時に存在するのは難しいと思います。

 ここで紹介したデネガは中心街に、弘前博物館は弘前城にありますので、こちらにこられたら一度行かれたらよいと思います。ともに自由に見学できます(博物館の収蔵品はたいしたことありません)。

参照文献
Ahaus 2007.3 建築を知れば展覧会は2倍楽しい
Brutus Casa 2004.9 ニッポンのモダニズム建築100
ドコモモ・ジャパンモダニズム建築100選に弘前からは前川國男さんの木村産業研究所と上記の北海道上遠野徹自宅が選ばれています。