2017年1月21日土曜日

バクティアリ チャハール・マハール 絨毯(アルメニア人)

実際はもっと暗い色です

ボテ模様が濃紺のバックでくっきりしています

コーカサス絨毯の特徴、ワイングラス模様

ボーダー部の花柄模様がかわいい

 最近、買った絨毯は、イラン、バクティアリ、チャハール マハールと呼ばれるものです。バクティアリ族は、イラン、ザクロス山脈の東側に住む遊牧民ですが、これはバクティアリ州のイスファファンの郊外、アルメニア人の部落で作られたもので、アルマニアバフ(アルメニア人の絨毯)と呼ばれるものです。

 アルメニアは、ユダヤ民とともに流浪の民と知られ、紀元前一世紀にはアルメニア王国として繁栄しましたが、その後、ローマ、ペルシャなど大帝国に翻弄され、三世紀にはキリスト教を世界で初めて国教としました。19世紀になると、オスマントルコによる徹底的な迫害、虐殺が行われ、生き残った住民は世界各国に散らばりました。さらにはソビエトによる迫害、近年では民族紛争が起こり、1991年にアルメニア共和国となりましたが、隣国のアゼルバイジャンとの紛争は続いています。

 アルメニアは、中東、コーカサスで唯一のキリスト教国で、四方はイスラム教徒の国で囲まれています。また美人が多い国として知られていますが、昔から絨毯作りがうまい民族で、そのデザインもイスラム、コーカサス様式を基本にしていますが、随所に花柄などかわいい模様が織られていて、少し明るいムードがあります。この絨毯は18世紀ころにイランサファビ朝によりアルメニア人勢力を分散させるため、バクティアリ州に強制移住された住民が作ったものです。あちこちに転住されてきた影響か、周囲のイラン、部族ラグの模様が見られますが、ボーダー部のワイングラス模様やフィールドのボテ模様などはコーカサス絨毯の影響を色濃く残しています。10年ほど前に、最初、写真で見た時はコーカサスの絨毯だと思いました。

 作られたのは1920年ころとされ、もう少しすれば、100年を越えるアンティークの分類になります。模様のバックが濃い藍色(光により黒にみえる)なので、小型な絨毯ですが、非常にきっちりした雰囲気があります。何段かのボーダーは豪華で、小さな花柄のボーダー部はもともともっと明るい黄色だったと思われ、藍色と黄色のコントラストはきれいだったと思います。フリンジは絨毯にしては長いもので、縦糸は色々な種類のウールを使っており、色が違います。パイルは古いものなので、かなり短くなっていますが、それでも縦糸が見えるほどでなく、まあいい方でしょう。

 古い絨毯は汚いといっていやがる人も多いのですが、1920年というと、まず羊の毛を刈り、それを糸にして、さらに自然染料で染め、編んでいく、こうした手間は今以上に大変なもので、多くの時間と尽力が必要です。同じものを当時の行程で作るとなるとかなり高価なものとなります。ミリー工房などではこうした行程で古いラグの復元を行っていますが、相応に高いものとなっています。さらに絨毯は商品の動きが少ないものの一つなので、それを加味した値段になります。かってバブルの頃、ペルシャ絨毯が顰蹙をかったのは、この加味値段があまりに高く、デパートなどでマーケットからの購入費の数倍で売っていたことです。今はスウェーデンのCarpet Vistaなどの通販サイドで安くて品質のよい絨毯が売っていますので、とくに古い絨毯に愛着がなければ、ここではパキスタンで織られたイラン、コーカサス風の絨毯を買えます。

 こうした絨毯と今回の絨毯の差は何かと言うと、ある意味、ほとんど差はなく、単に満足度の差だけなのでしょう。今回、10年ぶり絨毯を購入しましたが、海外からでなければ、今ではこうした絨毯は買えません。とくに製作年代の推定は、高度の知識を要し、私のような素人がみても明らかに間違っている業者も多く、お店を選ぶ際のひとつの基準にしています。

2017年1月18日水曜日

朝日新聞 「声」 偏向記事 2017.1.18

3つ並んだ偏向記事(朝日新聞、声)

 新聞は、朝日新聞と地元紙である東奥日報をとっている。朝日新聞は子供のころから実家でとっているので、その流れで今でも購入しているが、最近ではその偏向報道を見るために読んでいる。

 朝日新聞には、これまでさんざん裏切られてきた。まず文化大革命、大礼讃記事であった。1970年ころから、朝日新聞は毛沢東の主導する文化大革命を、これは素晴らしい、理想的な政治運動であると礼讃続けてきた。そのかいもあり、高校生ころは「毛沢東語録」を読むほど、染められた。一方、ベトナム戦争では、反米、親ベトナムの路線を崩さず、アメリカの横暴をこき下ろす反面、ベトコンには常に好意的な記事を出し続けた。ところがベトナムが隣国、カンボジアに攻め込む、中国がベトナムに攻め込む事態となると、朝日新聞はこうした事態に全く対処できなかった。侵略者であるベトナム、中国を責めるわけにはいかず、急に黙り込んだ。文化大革命にいたっては、数千万人の犠牲者があったにも関わらず、未だに否定的なコメントはでていない。要するにベトナム、中国については悪いことを書かない新聞なのである。

その朝日新聞の本日の「声」。これは過去数年で最もえげつない。まず声のタイトルから

1.      米国離れも一考してみては
2.      韓国語と中国語も義務教育
3.      元号やめてしまったらどうか

 内容は、このタイトルで想像できる他愛のない、極めて意味のないものである。朝日新聞の「声」はおそらく毎日何百とくる投書の中から厳選した3つが載る。それがこれである。記者、それも複数の記者が部署として選んだものがこれであり、むしろこの3つの投書を選んだムードが怖い。これまでも朝日新聞の声についてはとんでもないものがあったが、今回のように3つ並んだことはなかった。普通こうした偏向投書が3つも並べば、誰だったこれはまずいという意見がありそうなものであるが、それが全くなく紙面に載る。これじゃ、また第二の慰安婦、南京事件が出てくる。いくら反省したと言っても社内の感覚がずれているのははっきりしている。むしろこうした一般市民の声を借りて、社内、記者の本音、「天皇制、アメリカとの安全保障条約を破棄し、中国の属国となる」を代弁させているかと、うがって考えてしまう。

それでは質問しますが、これと逆の声を朝日新聞は選択するだろうか。
1.      中国、韓国離れも一考してみては
2.      授業はすべて英語で
3.      西暦をやめて、皇紀を復活させよう

1.      中国、韓国はややこしいので、一切、政治的、経済的な関係を放棄し、北朝鮮のような対応をする。
2.      英語は現在、義務教育となっているが、日本人は英語ができない。すべての授業、教科書も英語ですれば、ことに大学の授業を英語にすることで、国際的な人材を育てられる。
3.      日本人は天皇の臣民であり、キリスト教に基づく西暦はおかしい。イスラム諸国では未だにイスラム歴を採用しているなら、日本でも皇紀を復活させるべきある。




2017年1月15日日曜日

須藤かく 追加

横山松三郎(西田耕平か?としましたが、指摘があり、横山の自画像でした)


 正月から“須藤かく”のことを、これまでのブログを中心にまとめている。資料が少なく、100ページくらいの小册になるかと思うが、写真を多くしてビジュアルで理解してもらおうと思っているので、そこそこのものができるかと考えている。
正月に集中的にアメリカの古い新聞を検索サイトで調べたが、これまではっきりしなかったことも少しずつわかってきたので併せて書くつもりだ。ただ現時点でどうしてもわからないことがあり、これをきちんと調べてから出版するかどうか悩んでいる。

1.      阿部はなについて
横浜プロテスタント史研究会報No572015.11.15)に「女性宣教師Dr.アダリーンD.H.ケルシー」(安部純子)という論文がある。これまでケルシー女史の名についてはアデリンといていたが、マウントホリヨーク大学が所蔵するケルシーの直筆手紙をみると、安部先生が言うように、“Adaline”となっており、アダリーンが正しいのだろう。ただアメリカ人でも馴染みの薄い名なのか
Adeline”とされているものが多い(国勢調査も)。安部先生の論文では、阿部はなは東京府出身、阿部定右衛門の長女としており、この出典はわかないが、父親の名は定右衛門でいいのだろう。それ以上の情報はない。死亡証明書に父親の氏名が載っているかと思い、アメリカにはネットで死亡証明書を取り寄せることができるサイトがあるので、早速、手続きをしたが、アメリカ国籍のID提示を求められ断念した。

2.      成田よそきちについて
“よそきち”は、おそらく与惣吉か四十吉と思うが、はっきりしない。父親の名は”Hijoya”であるが、“ヒジョーヤ”という名は存在しないので、“ヒヨーヤ”とすると、弘前藩の卒族の中に成田兵弥“という人物が存在する。これはほぼ確定できた。ただ代数調でも先祖名はあるが、子供の名がなく、はっきりしない。横浜の海外移住資料館に問い合わせたところ、御丁寧にお調べいただいたが、戦前の各種の北米移民名簿に載っておらず、外務省の外交資料館にある明治の外国旅券下付記録にあるかもしれないとのことであった。東京に行って、マイクロフィルムにある名を探すのに躊躇している

3.      岡見京について
 横浜共立女学校の同窓でペンシルベニア女子医科大学を卒業した岡見京(西田ケイ)について、少し触れようと考えているが、昨年発刊された「ディスカバー岡見京(堀田国元著、自費出版)が唯一の評伝で大変、役に立つ。ただこの本では西田ケイの父、西田耕平について、あまりくわしく書かれていないので、青森県人名大辞典から引用する。
「西田耕平(にしだ・こうへい) 生歿不祥 明治初期商業に従事。下北郡大畑の人。若くして江戸に出て商業に従事した。江戸で生活した頃は、盛岡藩のために働き士分に採用されたが、元来自由な行動を喜び、束縛を好まず、辞退した。幕末のころ、横浜の貿易商岡田平作と懇意になり、戊辰戦争以前より佐幕方と多く取引をしていたが、戦況不利となり貸し倒れとなった。晩年商売不振となったが、渋沢栄一ら知己の巨商と提携して商業講習所を設立した。これは今日の商工会議所の前身である。横浜の外国商館の番頭を勤めながら英語を勉強したが、特の商人に外国人に忠勤をするのは思わしくないと非難されたエピソードがある.」
娘のケイを横浜共立女学校に入れ、アメリカの医学校の留学させる資金は十分にあったと思われる。明治の写真家、横山松三郎の写真に“西田耕平像”というものがある。西田耕平は松三郎とは箱館時代からの友人で、箱館商人、西田屋文兵衛と同一人物か。
http://archive.fo/GObdh
ただ引用した松三郎の撮った写真“西田耕平像”には“鈴木能婦(のぶ)像”という写真があり、「後西耕平の妻となる」とあるが、西田ケイの母親は、陸中水野藩士の娘、みよで、一致しない。
http://blog.goo.ne.jp/shunsuke-ayukawa/e/5a7d95a8eaa33f45546895c89f7de5b3
脇道に逸れるため、あまり追求しないが、この西田耕平はおもしろい人物である。商工会議所の設立に関係した割には資料がほとんどない。“西田屋文兵衛”で検索すると二つほど、文献があるが、かなり国際的な商人で、上記写真を彷彿させる人物のようである。生まれが、大畑村、田名部で商家、函館で活躍などは、西田耕平—西田屋文兵衛—西田ケイの路線は繋がるように思われる。むつ市の郷土史家からの情報を待つ。

*1/17 本ブログについての指摘があり、上記写真の説明は間違っていましたので、説明文を変更しました。写真は横山松三郎の自画像でした。”西田耕平”あるいは”男性像(大紋姿の男)”は探すことができませんでした。

2017年1月10日火曜日

台湾映画「若葉のころ」


 うちの家内、姉、母、従業員も韓国ドラマをしつこく見ている。私も昔は「ホ・ジュン」など時代劇を中心に一緒に見ていたが、現代劇はどうもあのドロドロした展開が苦手で最近はほとんどみていない。私にはやはり台湾映画とフランス映画がしっくりくる。

 今回見た台湾映画「若葉のころ」は、2015年製作で、割と新しい作品で、画像もきれいでよかった。台湾映画は初恋を主題とした作品が多く、この映画では母親の初恋と娘の初恋を重層的に描き、親子の年齢差、30年間の社会の移り変わり、若者の流行、心理を巧に描き込んで、最後にはほろっとされる展開となっている。

 母親の高校生のころ、1982年のころの女優さんが広瀬すずさんに似ていて、かわいい。同じ女優さんが2013年の高校生も演じているが、時代差をうまく演じているので、最後まで同じ女優さんだったかわからなかった。若い女優さんだが、多感な高校生の姿をはつらつと、初々しく演じていてうまいなあと思った。

 18歳から30年後、48歳になって再会し、相手のことを覚えているか。30年という期間はおそろしく長く、お互い、結婚し、子供ができ、生活もさまざまで、街の中、地下鉄の中で一瞬会っても、どうかなあと思ってしまう。映画では、初恋の人が交通事故に会い、意識が戻らない状態でお互い再会するが、実際でも30年、私の場合で言えば、40年も経てば、お互い、病気をしたり、場合によっては亡くなったりしていることも十分ありうる。こうした切ない気持ちが、初恋映画のキモとなる。

 台湾映画は、日本人と心情的に近いせいか、しっとりした味わいがあり、全く違和感がない。「若葉のころ」、確か原題は「五月一号」、つまり五月一日、私の誕生日だが、実際の曜日を表すものではなく、五月の初め、若葉のころという意味のようである。台湾の五月は雨がよく降るのか、そうしたシーンも多く、きれいで、是非ともこの季節の台湾を訪れたいものである。ビージーズの有名な歌、この映画でも挿入歌で使われているが、First of Mayが英語のタイトルとなっている。日本では「小さな恋のメロディー」で有名になった曲で、初恋の歌で、この映画でもこの曲が重要なキイとなっている。


 先日もロータリーの例会で、熊本震災への各国のロータリークラブからの義援金額が発表されていた。海外からでは、台湾が圧倒的に多く、韓国の数十倍であり、今度、台湾で何かあれば、それ以上にお礼をしたい気がするが、逆に韓国はと思ってしまう。こうした感情も台湾映画が好きな理由かもしれない。

ついでに私の青春時代の思い出の曲です。My Songs