2020年4月5日日曜日

人間の品性 安物買いの銭失い

説明を追加


ニコンF4でこんな写真が撮れました(カラーで撮影したのに)



 自分でも呆れるくらい、品性の低い男だと思っている。歯科医の家に育ち、これまで人生であまり金に困ったことはないが、人間の品性が低いせいか、どうも安売りに弱い。小学五年生の頃、三和商店街の近くにあったみどり電気で、展示品に限り全品半額という企画があった。AMだけでなくFM、短波も聞けるソニーのラジオが欲しく、それまで貯めたこづかい全額を持って、電気屋に走った。半額で確か6000円くらいであったが、500円くらい足らず、店員に30分ほど泣きついて有り金全部で購入した記憶がある。安く買ったというのが一番嬉しかった。

 大学に入り、スキーをやろうと、仙台のスポーツ店を回った。何と80%引きのスキー靴がある。カベールというメーカーで最上級者向けのものが8000円くらいで売っていた。全傾がきつくてお店の人にも初心者には向いていませんといわれたにも関わらず、安さに負けて買ってしまった。慣れるのに相当苦労した。

 最近でこそ、安売りもそれほど珍しいものではなくなったが、昔はセール期間以外、安売りすることは少なく、三宮の地下街でも年に2回のセールが行われ、全製品が安くなった。そのためお客さんは前日までに試着し、セール当日になると開店と同時に購入するパターンであった。セールの期間は人でごった返すのが毎年のことであった。

 最近では、ヤフーオークションが安売りの場となっており、ここでの購入が多い。ある時、憧れのニコンのF450mmレンズ付きで1万円くらいで売っていたので、即購入した。フィルムカメラなので、すぐに動作確認はできず、36枚撮りポジフィルムで撮影し、現像所に送ったところ、半分以上の露出が狂っていた。露出計に問題あるようで、アイフォンに簡易露出計アプリを入れ、それで露出を測り、マニュアルで撮影していたが面倒なので使っていない。またイタリアのカンタレリというメーカーのスーツが80%引きで出ていたので、これも購入した。スーツというのは通販やオークションで購入するのは最も向いていないもので、サイズ合わせが難しい。それでも同じメーカーのスーツ、ジャケットを持っていたので、大丈夫と思い、購入した。届いたスーツを着ると、丈が相当長く、結局修繕費に相当費用がかかった。こうした安売りに負けて購入し、失敗することが後を絶たない。これはどうも人間の品性に問題があるように思える。

 大阪人の変な癖に、知人に安く買ったことを自慢する癖がある。大阪以外でこんなことをすると、それこそバカにされるが、大阪ではすごいねえと逆に褒められ、羨ましがられる。この背景には、大阪の商売人根性があり、商売の基本は安く仕入れて、高く売ることであり、安く買うことができる才覚があるということになる。昔は安く買うには、店員と交渉することであり、交渉テクニックで安く買うことができる。昔、インドのニューデリーの中心街コンノートプレースで、キャッツアイを安く購入するために30分くらい粘り、最後は日本の平凡パンチをおまけにして半額くらいの値段で買った。帰国後、ネックレスにしようと宝石店に持っていくと、これは人工宝石であると言われ、安く買った値段よりさらに安いものであった。インド商人の方が一枚上だった。物を買った以上にこうした記憶が後まで残る。

2020年4月2日木曜日

弘前レンガ倉庫美術館オープン





 今年の春にオープンする弘前れんが倉庫美術館、館長に三上雅通氏が決まった。三上さんとは弘前ロータリークラブで少し面識があるが、頭の回転が早く、本職の弁護士でも母校の慶應義塾大学の法科大学院で教授をしていたほどの学識を持つだけでなく、こと映画に関する知識は半端でなく、ほとんどオタクと呼べるほどすごい。さらに弘前で行なった奈良智美さんの3回の展覧会でも主要なメンバーとして活躍し、成功に導いた。そうした意味では弘前の知識人の中でも最も新しい美術館の館長にふさわしい人物といえよう。もっと早く内定して欲しかったという不満はあるものの、本当にいい人が館長になってよかった。

 三上さんが中心になって活動しているNPO法人Harappaの活動を見ていると、新美術館の活動がおおよそわかる。ズバリ弘前市民にためにアートを切り口にいろんな活動をする拠点にするというものであろう。弘前市は観光拠点に美術館を考えているが、もちろんそうした要素は重要であるが、さらに弘前市が全国的にもアートの街として有名になり、そこに住む住民も自分の街をアートの街として誇れるようになってほしい。美術館の周囲に古民家や古い家をリノベーションした喫茶店やレストランがあってもいいし、古い映画館がリバイバルしてもいいだろうし、音楽祭や映画祭もいいなあ。また若者が作った陶器や家具を売る店もあってもいいだろうし、自分のデザインした服を売ってもいいだろう。

 2ヶ月ほど前、土手町を歩いていると、中年の外国人女性が地図を片手に困っていた。近くのメガネ屋に入ってその店主に聞いているようだが、英語がわからなく無駄だったようだ。そのまま行き過ぎようと思ったが、途中で引き返し、その女性に何か探しているのか聞くと、英語で書かれた弘前の小物、インテリアショップのマップを見せてくれた。イタリアから来たようだが、日本の小物が可愛いく、弘前でもいろんな店を探しているということだった。探している店は代官町にある店だったが、その日は定休日で、違う店を教えて別れた。わざわざ海外から来て弘前の店を探すのかと思ったが、逆のこと、私がイタリアのミラノに行けば同じように地図片手にミラノの骨董店に行っているかもしれない。

 こうした街を探索するのは楽しいことであり、さらに一軒一軒の店が全国にもここしかない商品がある店であれば、それは個性があり、面白い。これも一種のアートであろう。大きなシッピングモールもいいのだが、こうした個性的な店が集まった街はもっと面白い。

 以前のブログで是非、美術館では野外シネマ上映をしてほしいと述べたが、館長が三上さんであれば、より可能性は高くなった。ただ野外シネマの問題点は近隣の住民に反対される可能性がある。多くの人が集まれば、近くの住む人からすれば騒音になり、迷惑になろう。おしゃれな美術館であれば、“ロシュフォールの恋人たち”や“シェルブールの雨傘”などのフランス映画がいいなあと思っていたが、ふとここは、成瀬巳喜男の“石中先生行状記”はどうだろうか。撮影は地元弘前で行われており、1950年当時の弘前の街を映し出している。美術館近所に住む住民にも懐かしい映画、風景であろう。近くに住んでいる人々が楽しい野外シネマという点ではこうした地元の作品、例えば美空ひばりの“リンゴ園の少女”や“八甲田山”もいいかもしれない。

PS:もうすぐ見られなくなると思うが、“石中先生行状記”がyoutubeで挙げられている。昭和25年当時の弘前の姿が出ていて面白い。杉葉子さんという女優、今風でスタイルが良い。三船敏郎さんもハンサム。藤原釜足さんは親父の旧友で、いい味を出している。昔の土手町界隈はわかるが、他の場所はあまりわからない。第二話の芝居小屋は弘前のものだろうか。教えて欲しい。

https://www.youtube.com/watch?v=1EfbRTMPD_M

2020年3月31日火曜日

新型コロナウイルス と歯科医院 2


 メリーランド大学歯学部の齋藤花重先生の緊急レポートの第二弾が出ていたので報告する。https://www.whitecross.co.jp/articles/view/1592

 アメリカでは現時点のような非常事態下、エッセンシャル(生活必需)に当たらないビジネスは閉鎖するようと勧告されている。そして歯科医院でも「緊急性のある治療」以外はエッセンシャルでないと位置づけられ、緊急性のある急患がなければ休診することになる。こうしたエッセンシャルでない施設として、映画館、劇場、ナイトクラブ、コンサートホール、博物館、フットネスセンター、ジム、美容院、床屋、スパなどが指定され、場合によっては公園、アパレルショップも指定される。ただ不思議なことに、ペットショップ、酒屋、ランドリー、クリーニングはエッセンシャルに指定されている。

 齋藤先生は、メリーランド大学歯学部病院の急患対応を紹介している。朝8時に、担当スタッフはミーティングし、まず電話にてスクリーニングをして、来院した患者を建物エントランスで一般歯科医が再度、問診をして緊急性があるか問診をする。そして患者をみる場合も各診療用個室は使用後消毒し、最低でも90分以上、なるべく3時間の間隔を開けてから使用する。コロナウイルス3時間くらい空中に漂うからである。そして隣同士の個室は使わない、事前に器具をユニットテーブルやその他の台に置かないことになっているので、準備する時間もかかる。さらにエアゾールを防ぐためにタービンの使用は原則禁止となっており、バキュームによる吸引すら必要な時のみに限られている。結局、著者が診たのは4名で、それもインプラント手術に伴う抜糸だけであった。ごく簡単な処置である。

 レポートにはN-95マスクのことが書かれているが、もちろんそれ以外にもゴーグル、シールド、ガウン、グローブなどフル装備で治療したと思われ、原則的にはこれらは患者ごとに交換である。さすがアメリカの大学は違うと感心したが、よく考えればこれらの費用はタダではなく、後で莫大な請求されそうである。処置時間以外に3時間空けるのであれば、1日に歯科用チェアー、一台で二名しか見られないことを意味する。うちのような歯科医院では、完全に分離した個室となっていないので、1日に二名しか見られないことになるが、ただ窓を全開すれば換気は30分くらいで大丈夫だろう。前回述べた武漢大学歯学部病院の場合は、タービンは使っているようなので、アメリカほど厳格ではないが、例の白ずくめの防護服で交換なしで治療しているのかもしれない.

 アメリカ歯科医師会ではHP上に、この緊急性の高い処置の具体例を挙げているが、矯正歯科の分野ではワイヤーが刺ったり、矯正装置により潰瘍ができた場合の処置がある。他は歯の痛みに関するものが緊急性のあるものとしている。ただ処置はできるだけ最低限の処置をするようにとなているので、痛みについては鎮痛剤か、開放あるいは抜歯、義歯の疼痛は義歯を外して様子見るくらいか。これまでの休日診療の治療内容から見れば、本当の緊急性のある処置は少なく、おそらく弘前市、20万人程度の町でも二軒くらいの歯科医院で十分に対応できる。マスクやガウンのことを考えると固定した診療所が望ましい。あるいは武漢大学病院のように中心病院のみの受診が良いかもしれない。
https://www.ada.org/~/media/ADA/Advocacy/Files/200324_cdc_director_cov19_guidance_nosig


PS: 喘息治療薬のシクレソニド(オルベスコ)が初期から中期の新型コロナウイルスに効くという報告が3/9に神奈川県足柄上病院からあり、その後、日本感染症学会はその効果検証のための投与観察研究参加を提唱した。その結果が、少しずつ出てきた。3/30の報告では、大阪急性期総合医療センターの報告が、旭労災病院でもファビピラビル(アビガン)と併用した報告が出た。他にもファビピラビルによる2例報告が出ており、早い段階の治療法としてオルベスコとアビガンの効果が少しずつ出てきた。アビガンには催奇性があるが、催奇性に関係ない患者では、他には大きな副作用も少ない。インフルエンザ薬、タミフルのような使い方ができれば、大きな福音になるかもしれない。

2020年3月26日木曜日

新型コロナウイルス と歯科医院

この写真のようなサージカルマスクではダメであろうし、帽子、チェアー、ライトのカバーも必要

 青森県でも6名の新型コロナウイルス感染者が発生し、深刻な状態となっている。当院でも、標準予防策(スタンダードプレコーション)に沿って治療を行ない、患者ごとの手袋の交換はさらに徹底して、途中でカルテ書きなどをする場合は一度外し、アルコール消毒をして再び新しい手袋をするようにしている。また歯科用チェアーやライトなども患者ごとにアルコールあるいは次亜塩素酸で拭くようにし、入口の外、受付、便所、歯磨きコーナには手指用のアルコールを設置して患者に使うように指示している。また時間があれば、入口や便所の取手、待合室のソファーのアルコールによる清掃をしている。さらに注文中の非接触式体温計が届けば患者の体温測定をするかもしれない。また患者同士の接触をできるだけ減らすことと、周辺機器の清掃に時間がかかるために、予約時間を長く取り、間隔を開けるようにしている。

 ただこうした標準予防策で、今回の新型ウイルスに対処できるかといえば、誠に心持たない。歯科診療は直接、至近距離で患者さんと接するため、非常に感染リスクが高い。唾液中には多くのウイルスが存在し、歯科治療、特にタービン、あるいは超音波スケーラーによるエアーゾルが発生し、ウイルスは周囲に拡散する。それを吸い込むことにより歯科医あるいは歯科衛生士の感染リスクは非常に高まる。こうしたこともあり、感染のひどい中国やイタリアでは歯科医院はどうしているのか非常に気になった。日本歯科医師会や青森県歯科医師会からは、こうした場合の対処法に関しては一切の情報はない。少しずつ出てきた中国の科学者の論文を調べていると、中国の武漢市の歯科医の論文が見つかった。

 歯科の基礎科学では有名な“Journal of Dental Research”2020.3.12の論文で、”Coronavirus Disease 2019(COVID-19): Emerging and future challenges for dental and oral medicine”という論文で、著者は武漢大学歯学部のL.Meng, F.Hue, Z. Bianの三名である。武漢といえば中国で最初に感染者が出て、史上稀な1000万人都市の完全閉鎖を行なったところである。
ひどい状態を体験したドクターの論文だけに、多くの示唆に富んでいる。まず著者は、今回の新型ウイルスはこれまでの標準予防策では対処できないとしている。より厳重な予防策、例えば、これまで以上の頻回な手洗い、マスク、手袋、ガウン、メガネあるいはシールドの着用を必要とし、エアーゾールによる空気中の感染を防ぐためにN-95マスクの着用が全ての治療で必要としている。さらに重篤あるいは緊急性の高い患者のみ、指定病院でみることになっており、武漢大学歯学部はその指定病院になっており、新患には住所、連絡先、行動履歴(旅行の有無など)を聞き取り、さらに全員に体温測定をする。論文には書かれていないが、緊急性の低いと判断された患者は追い返すのだろう。さらに歯科用レントゲン写真は唾液接触の少ないパントモあるいはCT撮影を勧めている。また歯髄処置を必要とする患者は、院内感染の恐れから、治療の最後にして、隔離された部屋、できれば陰圧環境下での治療を勧めている。他にも細かいことが書かれているが、詳細は論文を見て欲しい。

 武漢の一般歯科はどうしているかは、この論文ではわからなかったが、おそらくは一般歯科ではこうしたより厳しい感染予防対策は取れないので一時的に閉院し、緊急患者のみ武漢大学付属病院などの大きな病院で対応したのであろう。もちろん矯正治療など全く緊急性はないので、武漢市の閉鎖時の矯正治療はストップしたと推定される。さらに一般歯科医でも義歯の製作、調整、小さなう蝕、補綴物の再製作などすぐに治療が必要なものが意外に多く、すべての歯科医院は休診状態だったろう。もちろん一般歯科でも、これまでの休日における急患対応で何とかできるかもしれないが、実際は上記のようなより厳しい感染予防対策、例えば患者ごとのガウン交換など一般歯科では準備できないので、口腔外科のある大学病院、県立病院、市立病院、大きな民間病院が受け皿とならざるを得ない。ただ調べる限りにおいては、これまで都市閉鎖で歯科医療をどうするかという危機管理は日本にはない。

 アメリカではすでに、裕福な医者は医院を閉鎖して別荘に逃げるという事態まであるようだ。流石に日本ではこうしたことはないと思う。それでも患者からの感染でいえば、歯科医院は多くの感染患者に接する内科に匹敵するリスクがある。都市閉鎖という恐ろしい事態は絶対になって欲しくはないが、そうした場合の歯科医療の指針について、少なくとも日本歯科医師会でもイタリアや中国、さらにアメリカの状況を調査して、すぐに指示が出るよう準備して欲しい。緊急患者の受け入れ、例えば、弘前市では弘前大学医学部附属病院歯科口腔外科、五所川原ではつがる総合病院歯科口腔外科、青森市では青森県立病院歯科口腔外科が、中国の武漢大学病院のような役割を担うが、人員的に厳しい機関もあり、その際に歯科医師会からの歯科医の派遣も必要となる。こうした取り決めは、無駄かもしれないが早急に地区歯科医師会と病院科長、病院責任者と話し合うべきであろう。ニューヨーク歯科医師会では3/25の緊急声明として、ニューヨーク市の歯科医院は、少なくとも3週間は緊急の歯科疾患以外は受け付けないようにアナウンスした。ただ感染予防処置の煩雑さ、歯科医、従業員の感染リスクを考えれば、こうした指示にも関わらず休診にする歯科医院も多いと思われる。https://www.nysdental.org

 ついでに言うと医師休業補償では、先生自身が新型ウイルスに罹り、休業した場合は、その期間の休業補償は出るが、従業員あるいは患者の中から感染者が出て休業する場合の保障はなく、逆に従業員については休業手当を払わなくてはいけない(平均賃金の60%以上)。それに準じれば都市閉鎖期間の歯科医院の休業保障はないと考えてよい。

PS:フェイスブックで知人のドクターから、アメリカの歯科事情を伝えるメリーランド大学の斎藤先生のレポートを教えてもらった。緊急性のない治療はしない方針や具体的な患者対応についての情報が載っているので参考になる。感染者数423名のメリーランド州でもこういうことになっている(メリーランド州577万人)。
https://www.whitecross.co.jp/articles/view/1585?fbclid=IwAR0uU1LbE7ppyQsYyi5NeRMq2sAxYaWxrs4Lkyiw8g6BtFCYUolj4oUmeSI

2020年3月15日日曜日

買って損しない衣料 パタゴニアR2

2020年のR2     スリムな昨年よりは2012年のスタイルになっている

2012年のR2

2012年、2018年、2020年のR2  サイドのパネルが広くなっている

襟が厚くなってる


 パタゴニアのR2をまた買ってしまった。自分用で3着目、家内に1着、お袋に2着、伯母さんに1着買ったので、都合7着のR2を買ったことになる。R3も1着、R1も1着あるが、やはりR2が最も使いやすい。秋から冬、春の半年以上使用可能で、汎用性は高い。10月から12月頃までは下着の上にR2を羽織り、その上にゴアテックスなどのジャケットを着る。冬になるとその上にダウンジャケットを、そして春になると薄いジャケットか、R2のみで過ごす。かなり長い期間の使用となる。今回買ったのも、最初2012年に買ったR2がややくたびれてきて、もう一枚のR2と使い回すのがきびしくなったからである。ほぼ年間150日をR2で過ごすことになり、価格は高いが十分に元は取れていると思う。

 うちの母親にも数年前にR2をプレゼントに買ったが気に入り、その後、もう一枚買い、この2枚で冬の間過ごしている。ほとんどセーターを着ていないという。私も考えれば、ここ数年、羊毛のセーターはほとんど着ておらず、R2がセーターがわりになっている。たまにセーターを着ると、体が締め付けられるようで、また重さが気になる。同じことは高齢の母親も言っており、R2の軽さと動きやすさが病みつきとなる。

 パタゴニアの商品でもRシリーズは最も基本的なアイテムで、とりわけR2R1の評価が高い。値段ははっきり言って相当高いがそれでも使用頻度を考えれば安いと思う。定価で26200円、今回はパタゴニアのアウトレットで買ったが16940円、これは衣料として半端なく高い。それでもこれだけは自信を持ってお勧めできる。特に年配の方にとっては、動きやすく、暖かく、そして消臭性もあり、洗濯をあまりしなくても良い。生活そのものがラクになる。

 このR2もほぼ毎年変更しており、2012年からほぼ1、2年おきに買っているが、若者に要望に合わせて年々、サイズがスリムになってきて、私のような小太りな体型のおっさんにはきつくなってきた。ところがようやく2020年になって、少しゆったりしたデザインとなった。いつもMサイズを買うのだが、今回はゆったり着たかったのでLサイズにしたが、今年のデザインならMサイズで良かったのかもしれない。脇の下のパネル(R1の生地)はこれまで最大の大きさとなり、動きやすくなった。全体的にフリースが厚くなり、首回りはより厚くなった、首からの冷気をシャットアウトして暖かい。最高に素晴らしい仕上げになっている。R2は総じて吸汗性、速乾性は高く、この下にはパタゴニアのキャプリーンサーマル、ミッドウェイトを着ているが、ただ気をつけたいのはユニクロのヒートテックはやめたほうが良い。ヒートテックは暖かいのだが、汗をかくとなかなか乾かずにかえって寒くなるからだ。

 衣料なんてお洒落で、それほど生活には支障の出るものではないと思いがちだが、このR2を着てみて初めて衣料の必要性を知った。外界から身を守る、雪、風、雨、寒さから毛のない人間が身を守るためには衣料を必要とした。特に寒さに対して、衣料がなければ人間は死ぬ。津軽の女性は麻の着物に綿の刺し子をして寒さをしのいだ。彼女らにとって綿の暖かさは憧れであった。その後の羊毛は驚きであったろう。そうした衣料の機能的な働きを再認識させるのがR2であった。

 特に年配の方にとっては、重くて動きにくい衣料は苦痛となる。その点、R2は最高の性能を持ち、軽く、暖かく、前ジッパーで着脱しやすく、冬場は完全にセーターに代品となるため、父親や母親のプレゼントには最適であると思われる。2020年度のモデルはこれまでのモデルチェンジに比べても格段によくなった。以前、屋内用のナイロン素材の薄手のダウンを買って母親に送ったが、どうもナイロンのカサカサ感と衣摺れが嫌で着なかった。それに対してR2のフリースはビロードのような毛並みで、またこれまで8年間使っているが、毛並みの変化も少ない。唯一の欠点は、白人に合わせて袖が長い点であるが、これについては、袖口がへたらないので、それほど気にならず、むしろ寒い時は袖を伸ばして、手袋がわりにできる。

2020年3月14日土曜日

矯正治療 早期治療


 先日、7歳頃から反対咬合の治療のために来院し、14歳頃に中断された患者さんが数年振りに来られました。すでに21歳になり、顎が明らかに大きい骨格性反対咬合を呈しています。手術を併用した治療が必要な症例です。カルテを見ると、初診当時から上下の顎のズレが大きく、将来的には外科的矯正の適用になる可能性が高いと親には説明しました。その後、少しでもよくしてほしいと熱望されたため、上顎骨前方牽引装置による治療を2年間ほどして切端咬合くらいになりましたが、再び少しずつ下顎の成長が大きくなりました。やはり成長が終了してから手術を併用した治療法が良いと説明しましたが、来院されなくなりました。ある意味、7歳の初回検査時の診断が当たったのですが、長年、矯正治療をしていますと、何となく、将来顎が伸びる症例がわかります。もちろん、両親の遺伝もありますが、子供にしては下顔面の長い、大人びた顔をしているなどの特徴があります。

 下顎の小さな上顎前突の場合では、下顎ががっちりした症例では機能的矯正装置などの早期治療で下顎がかなり大きくなるケースを多く経験しますが、逆に下顎がきゃしゃな症例ではあまり効果がないことがあります。前者の場合は、本格的な矯正治療しなくてよい場合がありますが、後者の場合は小臼歯抜歯+マルチブラケット装置による本格的な治療を必要とします。

 反対咬合であれ、上顎前突であれ、成長期の早期治療で、良好な経過を示す場合がある一方、あまり効果がない場合もあります。経験上、早期治療のみで治るのは20-30%くらいで、さらにこのうち全くでこぼこもない理想的なかみ合わせは5%くらいで、その他の症例では通常マルチブラケット装置による二期治療を必要とします。矯正歯科医院も経営のことを考えると、一人の患者に期間をかけるわけにもいきません。いかに効率的に運営するかを求められために、アメリカの矯正歯科医の多くは、あまり早期治療をしません。それに対して日本では、患者さんの親の要望もあるため、多くの矯正歯科医院では早期治療をしますが、基本的には二期治療におけるマルチブラケット装置の治療を重視します。当院もそうした方針です。

 一方、一般歯科医では、早期治療をかなり重視する歯科医院が増えています。早い段階で治療すれば、歯を抜く必要もないし、本格的な治療が必要なくなるといううたい文句です。中には5,6歳から上アゴを広げるような治療をします。ただこれらの歯科医の多くは、床矯正であれば、1個6万円と矯正装置ごとに値段を取っているために、ある程度、治れば患者は途中で来なくなりことが多いと思います。そのため先生は長期の患者の経過を知らず、マルチブラケット装置による治療そのものを考えていない場合もあります。永久歯列完成時に治療を要求すると、ここまでしか治らない、後は専門医で治してくださいと言われるかもしれません。矯正専門医で治療することになっても、全く新患扱いとなり、これまでの装置代が全く無駄になります。しかしながら最初の説明では早期治療の長所だけを述べ、あまり永久歯が完成してからの仕上げの治療についての説明はないようですので、こうした場合の対応も十分に聞いておいて欲しいと思います。一般歯科の先生は、矯正歯科医が目指す理想的な咬合を目指しておらず、ある程度(非常に範囲が広い)の、でこぼこ、出っ歯があっても、あるいは上下の歯が前に出ていて口が閉じにくくても、問題ないと考えています。そうでなければ、マルチブラケット装置なしの矯正治療は絶対に患者に提示できないはずです。綺麗な歯並びを目指しているなら、最初から矯正専門医に行くべきですし、多少でこぼこがあっても安く治療したいと考えるなら装置代ごとの一般歯科での治療がいいかもしれません。

 私自身、一般歯科での矯正治療はかまわないと思っています。ただし費用が安いという前提です。早期治療で治ると言われて高額な治療費を払ったにも関わらず、これ以上の治療はできませんでは、納得いきませんが、料金が安ければ文句は少なくなります。世界中の矯正歯科医のメインの治療法はマルチブラケット装置であり、早期治療でマルチブラケット装置による治療が必要なくなるなら、皆そうした治療をしています。現在、早期治療と言われる床拡大装置は1970年代頃までヨーロッパで行われた治療法で、ドイツや北欧諸国では矯正治療も保険が適用されたため、費用の安い床矯正治療がメインで行われていました。ある程度、こうした治療法も効果があったのかもしれませんが、今では世界中のほとんどの国でマルチブラケット法が主たる治療となり、本家のヨーロッパではそれと併用して床拡大装置や機能的矯正装置が使われているのが現状です。そうした意味では“早期治療でマルチブラケット装置による本格的な治療をしなくてよい”という考えは、学問的なエビデンスもありませんし、世界中のほとんど矯正専門家は臨床的経験から否定するでしょう。何も古いものが悪いということではありませんが、ヨーロッパの多くの矯正歯科医が床矯正装置を使わなくなったのは、適用が狭く、効果が不確実なためと思われます。逆にいえばこの装置でもうまくいく症例もあり、安い費用ならやってみる価値があるかもしれません。

2020年3月11日水曜日

貨客船 はくおう を病院船に

医療モジュール

貨客船 はくおう


 横浜港に寄港したダイヤモンドプリンセ号の新型ウィルス対応については、船内で多くの感染者が出たことから疑問の声が多い。同様の事例であるアメリカのグランドプリンセス号では全乗客の下船を予定しており、その乗客は軍の施設で二週間隔離することになった。アメリカでは2000人以上の乗客を収容する軍の施設があるということだが、日本ではそうした施設があるのだろうか。

 今回のダイヤモンドプリンセスの対応では、自衛隊のチャーター船である“はくおう”が活躍した。“はくおう”は当初、武漢からのチャーター機乗客の隔離に使われることになっていたが、最終的には千葉のホテルでの隔離に決まった。そこで横浜港に回航、ここを拠点に自衛隊員がダイヤモンドプリンセスの船内の消毒、乗客の生活支援を行った。隊員は、万一の感染を恐れ、はくおうで生活した。ただ“はくおう”は17000トンの大型客船であるが、隊員相互の感染を防ぐために、客室を個室として活用しなくてはいけないために、80名の隊員しか宿泊できなかった。“はくおう”は、熊本震災では避難所生活の人への宿泊、食事、風呂などに活用され、最大500人の宿泊は可能だが、感染隔離となるとこうした客船も活用は難しい。

 “はくおう”は全長200m29.4ノットを誇る大型客船で、トラック122台、乗用車80台、515名の乗客を乗せることができる。陸上自衛隊の普通科連隊の大隊が定員805名、特科連隊の大隊が609名なので、ほぼ特科連隊の大隊規模の部隊が運べる。2014年の北海道演習では戦車、大砲、重機など130台が名古屋から送られたというから、その輸送力が半端でない。2014年から自衛隊のチャーター船として活躍していたが、主だったものでは、2016年の熊本地震では自衛隊員、車両、物資の運送に使われ、また一泊二日のホテルシップとして2600人の熊本市民が宿泊、食事、入浴のサービスを受けた。また2018年の中国地方の集中豪雨でも支援物質の運送や入浴サービス、ミニコンサートなどを行った。2018年の北海道胆振東部地震でも入浴支援などで活躍した。まだ海外への派遣はなく、また航続距離など不明であるが、東アジアの国くらいは高速でいけると思う。自衛隊は民間船のチャーターは双胴船の“ナンチャンワールド”とこの“はくおう”があるが、ここ六年の運行実績からすれば“はくおう”に方が使いやすいのだろう。海上自衛隊の補給船、輸送船に比べて設備が充実しており、一般市民の使用には向いている。最近では何か災害があれば、“はくおう”の出番となり、活躍している。

 今回の新型ウィルス問題から病院船のことが議論されているが、“はくおう”の医務室機能を拡大するか、ちょっとした手術や入院も可能な構造に改造するのが最も現実的な気がする。レストランや大浴場は避難民に活用されているが、サロンやスポーツジムなど災害時に活用されない空間を改造して、医療室を作り、病院船の機能も併せ持つようにできる。さらに後部甲板は一応ヘリポートとなっていてヘリコプターの離着陸はできるが、もう少し飛行甲板を広げれば、重症患者などを陸の病院に移送することが容易となる。もちろん戦時には兵士を戦場に輸送するだけでなく、負傷者の後送にも使われるためにこうした医療設備が必要となる。

 病院船については、議論も大事であるが、これまでの実績を考えると“はくおう”の改造が最も費用が安くて、使いやすと思われる。おそらく医療関係の設備はコンテナ型の医療モジュールで対応できるので、最低限の医療空間の確保、エレベーターの大型化(ストレッチャー対応)、階段の拡大、ヘリポートの大型化とそれに対応した通路などが大きな改造箇所となる。それほど大きな費用はかからず、またこうした設備は災害支援や自衛隊の演習などでも活用でき、ますます災害船としての活躍は期待できるし、できればその高速性を利用して海外での災害活動にも参加してほしい。トラックごと物品を運べることは物資の搬入の手間が省けるだけでなく、現地でもトラックですぐに救援物質を救援地へ運べる。また災害援助に必要なブルドーザーやクレーン車もそのまま運べる強みもある。他の大型カーフェリーについても、大災害時の緊急輸送や海外からの邦人避難などにも活用される可能性があり、そうした可能性も考えて、国も新造船には何らかの補助を出して、無線などの設備については非常事態に対応できるようにしてもらいたい。

2020年3月9日月曜日

中国における新型ウィルス問題


 昔から国を滅ぼす要因の一つに疫病が挙げられる。国が混乱するとなぜだか疫病が流行し、多くの死者が出て、さらに混乱が加速して亡国となる。そのため、施政者にとって疫病対策が最重要課題となる。今見ている韓国ドラマ“ホジュン”でも疫病が発生すると、国家的な事件、あたかも戦争が起こったような事態となり、全ての医師が総動員されてその鎮圧に励む。それほど疫病は恐れられたし、実際にその犠牲者は莫大な数となる。

 こうした点で見ると、現代中国の新型コロナウィルスへの対応は古代からのそれと全く変わらない。この疫病に対する対応を間違えると亡国の危機があるだけに、習近平指導者始め、中国共産党の対応は戦時に準じた本気モードである。今のところ中国の患者数は終息方向に進んでいて、その対応は成功したように思えるが、まだまだ油断はできない。

 今回の騒動でも、中国人の冷静な対応と臨機応変な行動に感心した。武漢市始め、北京や上海などの1000万人以上の都市で、ほぼ外出制限のかかった隔離状態に近い状態であるが、それほど大きな混乱はない。もちろん共産党ならではの公安や警察による厳しい管理があるとは思うが、こうした状態でも市民は冷静に対応している。それと同時に多くのボランティアが活動しており、日本以上に近所同士の助け合いが濃厚に残っていると思われるシーンが見られる。また市民のIT化が日本以上に進んでいるために、学校教育もネットで何とかしているようだし、外出が困難の状態でも食料はネットや管理人を通して注文している。おそらく事態が終息しても、中国におけるIT化はますます加速するであろう。ただ農村部のインターネット普及率が低く、2019年度で普及率は61.2%で日本の90%より低いが、今後は政府が農村部への普及を後押しするだろう。中国では良いことだけ報道されているという批判は正しいが、それでも多くの中国人が困難な状態に耐えているのは間違いなく、建国以来の大きな困難という認識は強い。

 最初に中国では新型ウィルスがやや終息方向に進んでいるとしたが、このまま終息すればあたかも戦争に勝ったかのように、中国国民の連帯と共産党支持が高まる可能性がある。危機は政権にとっては諸刃の剣で、失敗すると政権崩壊に繋がるが、逆に成功すると強化となる。現指導部への支持強化は、すなわち習近平主席が長期に政権を握ることを意味し、民主化への道はさらに難しくなることを意味する。また中国の共産党のやり方を嫌い、民主化を希望していた人々も新型ウィルスへの日本も含めて西側国家の手ぬるい対応に失望し、共産党の強いリーダーシップを受け入れることもあろう。一国の経済を犠牲にしてまでの中国が強い信念でウィルス対策をする理由はこんなところにある。国家としての危機感が日本をはじめ西側諸国の感覚とは違う。

 あと今回の新型ウィルス問題で驚いたのは、発生から基本構造の解析、検査法、治療法、ワクチンの開発などの情報が瞬時にネット上に掲載され、以前とは考えられないくらいの速さで、論文発表となっているのには驚いた。私たちに矯正歯科の分野で言えば、研究をして論文を書くのに半年、その後、査読、掲載かで3ヶ月くらいかかるのが普通であるが、今回の場合は2、3日単位で次々と新しい研究結果が報告され、すでに今月くらいから測定時間の早い検査法が実用化され、ワクチンの開発も進んでいる。あと半年から一年くらいで、対応策もかなり進んでいて、感染は抑えきれなくても、画期的な治療法が見つかるかもしれないし、そうなれば、いくら感染が広がってもそれほど心配はいらない。東日本大震災では、民主党の政権で原発問題では菅総理のあたふた状態を見て、本気でこの国は潰れると思ったが、今回は、自民党、それも長期政権の安部首相であるので安心している。

 娘の会社は、中国での生産の多いアパレル会社であるが、2月の初めはこちらから中国にマスクを送ったが、最近では中国企業がマスクを調達して日本の会社に送ってくれている。新型ウィルス問題を契機に日中両国の市民レベル、ことに会社レベルでの友好と信頼関係はかなり強くなったように思える。こうした危機的な状況での両国の助けは、お互いに忘れない。

2020年3月8日日曜日

弘前の名物、お土産を作ろう

これのもう少し小さいものをクラフトバンド で作る

上のりんご籠の横に奈良さんデザインのりんごイラストをつける


 今年の春には弘前れんが倉庫美術館がオープンする。弘前公園とともに観光の目玉として期待される。弘前駅から代官町、土手町、れんが倉庫美術館、最勝院、そして弘前公園への周遊コースができることになろう。周囲にはこれから若者向けのおしゃれな店も出来ていくことになろう。

 弘前のお土産ランキングを見ると、一位はラグノオの“りんごスティック”、二位はヒロヤの“りんご大福”、三位ははとや製菓の“ラブリーパイ”、四位はおきな屋の“たわわ”、そして五位は“青い森の天然青色りんごジャム”である。全てりんごを使ったお菓子である。つまり弘前のお土産といえばりんごである。おそらくりんごそのものは箱買いして宅急便で送るのだろうが、一人で箱買いするほど食べきれないので、1個、2個は買って、ホテルで食べたりするが、友人のお土産としてはりんごそのものより、その加工品のお菓子がお土産になるのだろう。

 私が高校二年生の時の修学旅行は東北一周で、最終地は弘前で、ここから夜行列車で大阪に帰り、解散となった。生徒の多くは、弘前駅前のりんご販売所で5、6個のりんごが竹製のりんご籠に入ったものをお土産として買った。大阪駅で解散し、そこからは実家にある尼崎まで阪神電車で帰ったが、乗客から青森に行ったのかと尋ねられた。りんご籠にはでかでかと青森りんごと書いていたためである。その後、修学旅行に行った弘前に住むようになるとは思わなかったが、こちらに来るようになった1980年頃にはもはや竹製のりんご籠はなくなり、プラスティック製の緑の籠に入れられて売っていた。こちらで開業した1995年にはもはやりんご籠その物がなくなり、普通のビニール袋に詰めて売っていた。

 せっかくれんが倉庫ができるのだから、この際、お土産の王道、りんごそのものを売ったらどうだろうか。できれば竹製のりんご籠を復活してほしいが、調べると製作自体はそれほど難しくはないが、材料の竹製のひごを揃えるのが難しい。であれば、今流行りのクラフトバンド、PPバンドを使ったりんご籠はどうだろうか。材料を揃えるのは簡単だし、製作法によれば子供でも作れるだろう。クラフトバンドで作った籠に美味しいりんごを4、5個入れて1200円くらいで観光客に売れる。

 ここは弘前市か、弘前商工会議所、弘前青年会議所が、全国のクラフトバンド愛好家に優勝賞金30万円くらいでおしゃれでモダン、かつ製作が容易なりんご籠を募集し、それに郷土出身で、若者に人気のある現代画家、奈良美智さんパッケージ表紙をお願いしたらどうだろうか。製作は、弘前市就労支援事業所などで作ってもらい、出来たりんごかごは一個300円くらいで、買取り納めてもらえばよい。弘前駅、弘前ねぷた村、観光館、美術館などの売店で旬のりんごを4個ほど詰め合わせて売れば、弘前のお土産として間違いなく売れるだろう。その場合、弘前れんが倉庫美術館のショップでも売れるようなモダンなデザインであってほしい。弘前旅行の帰り、りんご籠を持って東京の山手線を乗れば、いやがうえにも目につき、ああ青森に行ってきたのだとわかる。

 弘前大学の農学部であったように思えるが、農学部で作った赤と黄色の大きなりんごを綺麗な箱に入れて、何と1000円で売っていたが、あっという間に売り切れたことがニュースであった。りんごもパッケージで飾れば、加工しなくても十分に売れることが立証された。流石に地元民はりんごをこんな高い金額で購入しないが、お土産としてりんごを送る場合、箱で贈るわけにもいかず、そうかと言ってビニール袋で贈ることできない。こうした立派な包装があって初めてお土産、プレゼントとなる。

 弘前商工会議所、青年会議所の皆さん、何とかりんごそのものを弘前名物のお土産のする方法を検討してほしい。りんご籠とパッケージは、それそのものが全国に弘前をPRできるお土産なので良いアイデアと思い、数年前からブログでも提唱しているのだが、一向にそうした声は地元から出てこない。これも最近はやりの農業の6次産業に該当すると思うのだが。

*東京で”石中先生行状記”(1950、成瀬巳喜男監督)の上映会が3月14日、15日に神保町シアターで行われるが、この作品は弘前ロケで、1950年頃の弘前の街が写っているという。早くDVD化してほしい作品である。




2020年3月5日木曜日

阪急塚口駅の思い出

再開発前の阪急塚口駅の南口

向こうホームの左のアベックの少し前あたりが定位置であった


 私が阪急塚口駅を利用し始めたのは、中学校に入ってからだ。尼崎市東難波町の私の家から神戸の六甲学院に行くには、一つは阪神尼崎駅まで歩いていき、そこから今津駅で阪急今津線に乗り換え、阪急西宮北口から六甲駅に降りて学校に行く方法と、もう一つは家から東難波のバス停に行き、尼崎市バスで阪急塚口、そこから普通電車で六甲駅に行く方法である。バスを使った方が乗り換えも少なく、時間も短いため、この通学路を利用した。

 朝の630分くらいに起き、顔を洗い、歯を磨き、朝ごはんを食べて640分くらいにはバス停、645分くらいのバスに乗り、阪急塚口に行った。今でこそバス停は駅のそばにあるが、再開発前の塚口駅の降車は駅前であったが、乗車は駅から少し離れたところにバス停があった。塚口駅は北口と南口があり、それぞれの入り口からは商店街があって多くの人で賑わっていた。今は南口の方は再開発され、大きなテナントビルが建ち、あまりに変わりすぎて昔の記憶がでてこない。その点、北口の方がまだ昔の記憶が残る。

 阪急塚口駅そのものはあまり変化がなく、通学していた50年前と変わらない。もちろん乗車券売り場など細部はかなり変わっているが、駅の基本的な構造は同じで、駅の構内にある阪急そば(前は完全な立ち食いそば)もそのままだし、駅の柱の位置も変わらない。電車に乗る位置は中学高校通して全く同じで、伊丹線からの地下通路の登り口付近、電車でいうなら後ろから3両目くらいのところであった。塚口駅から私一人、次の武庫之荘駅からもう一人、西宮北口から3名ほど、その後、夙川、芦屋川から友人が乗り合わせいつも7、8人で騒いでいた。このメンバーは6年間、ほぼ同じメンバーで、それも通学友達というようなものだった。学校ではサッカー部や同じクラスの友人がいて、帰りもまたいろんな友人と帰った。小学校と違い、住まいが離れていたので、あまり友人に家に行くことはなかった。

 沿線には神戸女学院、小林聖心女子学院や宝塚音楽学校の生徒も乗っていたが、西宮北口で降りたのであまり記憶にない。いつも電車で一緒だったのが、甲南女子中学高校、芦屋女子中学高校(現芦屋学園、共学)、海星女子学院である。男子校は甲陽、灘中学高校共に阪神沿線だったので、阪急沿線は関西学院と六甲学院くらいであった。毎日、同じ車両に乗っていると女子中学生、高校生も同じメンバーになることがあり、次第に気になる子が出てくる。友人のY君などは大学卒業後、洋酒メーカーのS社に入ったが、数年して、その会社の新人女子社員から“あなたに憧れてこの会社に入りました。通学電車で一緒でした”と告白されたことがある。私の頃は、今と違い、女の子を意識していても話しかけることなどなく、何もないまま6年間を過ごした。家内や二人の娘は公立の男女共学校に行ったので、こうした意味では羨ましい。

 いまだに記憶しているのは、高校二年の頃、一人の背の高い甲南女子の中学一年生が塚口駅から一緒の車両に毎日乗ってきた。もちろん高校二年生と中学一年生ではあまりに年齢差が大きく、妹のような存在で、この子は大きくなると綺麗な人になるなあとは思い、気にはなっていた。ある日、いつものホームの定位置よりだいぶ手前に一輪の赤いカーネーション(バラ?)を持って彼女が立っていた。映画のようなシーンであったが、それ以降、なぜだか彼女はこの時間の電車には乗らなくなった。その後、大学に入ってからも気になり、帰省した折、神戸に行く時は家から近い阪神電車に乗らずにわざわざ阪急塚口から行くようにした。どこかで会える気がしたからだ。こうした願いが通じたのか、大学六年生のころ西宮北口からの普通電車の二人おいた席に彼女がいた。驚くほどスタイルのよい綺麗な大学生になっていて、彼女も気づいた様子だったので、塚口駅に着いたら声をかけようと思ったが、駅に着くやいなや、あっと言う間に走り去ってしまった。これ以降、もう神戸に行くのに阪急電車は利用しない。家内にこの話をすると、男の人はバカだなあ、女の子からすれば変な人に声をかけられそうでイヤで逃げただけよと言われたが、なるほどそうかもしれない。家内とは5歳違いで、今ではもう年齢差は感じられないが、それでも高校二年生の時の自分と中学一年生の時の家内を空想すると不思議な感じがする。

2020年3月3日火曜日

不定主訴と咬合


 噛み合わせに何となく違和感がある、顎がずれる、顎が痛くなる(顎関節症)などの訴えで、当院を受診する患者が少なくない。小学生でこうした訴えをする患者は少ないが、中学生、高校生、成人になるにつれ多くなり、とりわけ多いのは40歳以上の女性の患者である。大きく口を開けると痛いという患者のほとんどは、大きく口を開けない、硬いものを食べないといった患部を安静にする、あるいは温める、冷やすように指示すると大体は良くなる。あるいは軽い鎮痛剤を飲むことで、一過性のこうした痛みが良くなることが多い。ただ一旦良くなっても、また何かの拍子、例えばものすごく硬いものを咬む、あるいは顎を強く打つなどを契機としてまた悪くなることもある。

 神奈川歯科大学附属病院にはかみ合わせリエゾン診療科という専門外来があり、そこにはかみ合わせの異常を主訴とした患者が来る。その概要を調べた論文、「歯科における咬合異常感を訴える患者の実態とその考え方、対応」(玉置勝司、49,10,2009, 心身医)を見ると、来院した患者182名について精神医学的問診を行なった結果、咬合異常感を訴えている患者では84%が精神疾患に該当し、咬合異常感(違和感)を訴えて来院する患者では、歯科的問題だけでなく精神疾患もあわせもって来院する可能性が高いとしている。また顎関節症の治療で有名な中澤勝宏先生の「顎関節症を見直す:7。顎関節症と心」(歯科学報、103:69-93)を見ると、ここでは患者さんに最初に簡単な心理的スクリーニングテストをしており、問診を通じて何らかの精神的問題点を持つ患者を精神科に紹介しているが、半数以上の患者を心療内科の世話になっているという。

 いずれの施設も、顎に問題のある患者が多く集まり、あちこちの歯科医院を回ってから来るところであり、そうした意味ではかなり重度の患者が来るところである。最初に述べたように多くの患者では、簡単な生活指導あるいは何もしないまま症状が治まるのだが、いろんな治療をしてもなかなか治らず、次々と歯科医院を変える患者はこうした精神的な問題があるのかもしれない。治療を複雑にするのは、多くの歯科医は他のところで治らなくても自分は治せるという変な自信を持っており、何らかの治療を行う。普通、何軒もの歯科医院を回る患者は、難しい症例と分かるであろうが、歯科医というのは、どうしたことか一度の経験がなくてもチャレンジしてしまう。こうした歯科医のレスキュウ ファンタジー(救援幻想:他の人は治せなくても自分はできるという幻想)により非可逆的治療を行なってしまい、症状はますます悪化する。

 矯正歯科を宣伝する歯科医院の中には、顎関節症や顎の違和感を矯正治療で直ると宣伝して、患者に勧めるところがあるが、多くの顎関節症は簡単なコンサルトで治る。そうした治療で治らないケースでは、かなり精神的な問題も含んでいる可能性もあり、さらに矯正治療のような不可逆的な治療をすることで、さらに悪化することも考えられる。こうした身体表現性障害は、それほど珍しいものではなく、女性では男性の5倍、1-2%の発生率があると言われ、来院する患者にもそうした傾向の方がいて、かなり診療に苦慮し、応対に神経を使う。初診の段階で、こうした傾向がわかれば、治療を断ることもできるが、矯正治療に熱心で、早く治療をしたいというため、押し切られて治療を開始することがある。そのため初診の段階では、矯正治療のあらまし、費用など大まかな説明をし、よく検討してもらってから検査に入るようにしている。

 矯正治療は、命に関わるものではなく、緊急性も全くない。反面、かなり長い治療期間や高額な費用がかかるため、十分に検討して決めて欲しい。また治療結果にはある程度、80-90%くらい治るくらいに考えて欲しく、100%の治療結果を求めると、期待外れとなる。

2020年3月1日日曜日

近代史の郷土資料

弘前 時敏尋常小学校 明治36年

下白銀町の時敏小学校はかなり西洋風建築だった(上写真、拡大)

卒業式のため、稚児髷に簪を刺しておしゃれしている

明治40年代の弘前、城西尋常小学校

 先週、テレビで新資料による二・二六事件のドキュメタリーを放送していた。まだ存命の方のインタビューがあって驚いたが、全て90歳以上で、これが最後のインタビューだろう。戦後、74年経つと、戦争経験者はもはやほとんどおらず、ドキュメンタリーの主流である事件の当事者のインタビューを取ることができず、二次あるいは三次資料によるものとなる。番組制作者としては難しい時代である。私たちの世代、60-70歳の人々が生まれた昭和24年から昭和34年といえば、青春期はそれより20年後とすると昭和44年から昭和54年となる。映画「ノルウェイの森」や「アポロンの坂道」の頃と考えて良い。誰も食べ物に困ることはなく、戦争など遠い過去のことで、皆青春を甘受していた。

 ただ周りの大人は全て、戦争経験者で、親はもちろん、親類から学校の先生まで何らかの形で軍隊に行っていた。子供の頃の思い出に、友人のところに行って、父親の勲章を見せてもらったことがある。階級は陸軍少将(多分ポツダム少将)で、戦後、後妻との間に生まれたのが友人で、昭和40年頃で父親はすでに60歳を超えていた。また父親の友人の歯科医はラバウル航空隊で零戦に乗っていて、最初に敵機を撃墜した時は嬉しかったと言っていた。みじかなところでは亡くなった父親は昭和17年から満州にその後、昭和23年までロシアの捕虜収容所にいたことから、がっちりの戦争経験者である。母親は大正13年生まれで、まだ元気だが終戦時、21歳で、徳島の田舎、脇町の戦前、戦中をしっかり体験した。母の兄は、昭和十二年頃から軍隊に入り、二等兵からの叩き上げで下士官となり、中国を転戦し、その後、インパールで亡くなった。

 こうしたある程度の年齢で戦争を経験した人は、あと十年で確実になくなる。確かに映像、写真、記録など先の戦争の資料は多く残るが、実際に戦争を実感として経験した人々は全ていなくなるのは、もはや大東亜戦争も歴史の一部となったのだろう。広島、長崎の原爆、東京大空襲、沖縄戦、特攻隊、対馬丸、インパール、ガダルカナル、サイパン、硫黄島などきちんとその事実を我々は後世に伝える義務を持つものの、実感はどうしても持てない。確かに映画「永遠のゼロ」などを見ると泣かされるが、同世代の百田尚樹さんが特攻隊員のリアルな気持ちがわかるわけはない。あくまで推測であり、小説であり、やはり昭和26年生まれの浅田次郎さんの「帰郷」も、50年前、つまり周囲の大人が全て戦争経験者で占められた時代に発表されたなら違和感を感じる人も多かったかもしれない。想像で書いたものと実感の違和感は、経験したもので人でないと分からず、隣国、韓国の従軍慰安婦や徴用工問題でも、実際の慰安婦や徴用工が多かった昭和30年頃であれば、今とは違った見解だったかもしれない。そうした意味では、当事者がいなくなり、実感から歴史になった瞬間に、自由に事実を歪めることができるようになる。誰も経験していないから自由に書けるのである。特に徴用工などは、30年前くらいまで、日本に出稼ぎに来た朝鮮人が多かっただけに、あれは金儲けで行っただけで、強制労働ではないと皆知っていたろう。強制労働の賠償金を払えという発想は少なくともなかったろう。

 実家の親父の子供の頃の写真がある。修学旅行の際に撮った記念写真であるが、どこの学校で、どこに行ったかがわからない。親父が生きているうちに聞いておけばすぐにわかったことが、亡くなってから調べると大変な労力を必要とする。こうしたこともあり、母親の古いアルバムにはできるだけ詳しい説明を書き込むようにしているが、父親のものは母も知らず、そのままになっている。個人的には手紙、日記より写真、それも家族写真よりは風景、町並みを写した写真は記録的価値があり、できれば弘前市でもこうした市民の持つ古い風景写真をスキャンして記録していくのはどうだろうか。弘前市立図書館などにそうした窓口を設け(ボランティア職員)、持ってきた写真の説明の打ち込みと写真のコピーをとる。一時、天守閣御殿の復元のために、昔の弘前城の写真を募集していたが、あまり応募がなく、そのまま終了となった。こうしたデジタル資料は特に場所が必要な訳ではないため、知の記憶としてこれから図書館の仕事の一つになっていくのかもしれない。
先日、明治36年の弘前時敏尋常小学校、明治末期、大正8年から14年の弘前城西尋常小学校の写真はオークションに出ていたので850円で落札した。明治、大正の頃の小学生の服装や小学校の玄関風景がわかって面白い。こうした写真は全国にも多く存在するが、おそらくどんどん捨てられていくのであろう。昔のデータが集まる場所、デジタル図書館としての使命も、これからの公立図書館の役目となると思っている。

2020年2月19日水曜日

北欧陶器5

BLA STER と  Pius

TEA ROD

 上の写真の右、コーヒーカップは、スウェーデンのGefle社のEugen Trost という作家のBLA ASTER というものである。1960年代のもので、手書きの単純なデザインである。実物のカップはかなり大きく、コーヒもかなり入るが、カップ&ソーサーと見ると、バランスは悪い。Yahooオークションで6800円くらいであった。コンデションは良好だが、青色は少し薄くなっている。赤色の色違いもあるようだが、どうもバランスが悪く、洗練されていない。

 左のカップはグスタフスベリのPia Ronndahlという作家のPlusというシリーズで1990年代のものでほぼミントの状態である。このカラフルなデザインのセットは、カップは緑、黄色、ピンク、青などの種類があり、皿も同様な種類はあるので、お互いを交換していろんなパターンを試すことができる。今回のものはカップが青で、ソーサーが緑で、楽しい。手書きではなく、シールであろう。これはSweden Motherというスウェーデンの通販サイトから買ったが、日本語でも注文できる。送料も安く(2000円くらい)、税金もかからないので、かなり安く北欧陶器を買える。今回はこのカップ&ソーサーと下の写真のカリン・ビョールクイストのTea Rodのモーニングセット(二客)を買った。Tea Rodがパン皿もついて二客で11000円、Plusのカップ&ソーサーが7000円と送料が2500円であった。それぞれオークション価格の2/3くらいの値段であり、北欧陶器を扱うショップの半額くらいである。送料を入れてもかなり安く、ほぼ現地価格なのだろう。H Pや注文方法も全て日本語でわかりやく書いているため、このサイトは日本にある北欧陶器のお店からすれば脅威になろう。種類も多く、こうしたHPができたせいか、北欧陶器を扱っているお店でも、現地での買い出しを少し控えざるを得ないようだ。というのは日本からスウェーデンに買い出しにいき、コンデションの良いものを安く買ったとしても、それを日本に持っていき、売るとすれば、買った値段の2、3倍はつけないと儲からない。それをスウェーデンの会社がネットで安い値段で売り出せば、非常に商売しにくい。EUから、あるいは日本からの輸出入については2019年からかなり多くの分野で関税が見直され、おそらく今回の陶器の輸入にも衣類同様に関税がかからないのであろうし、輸送費も国際郵便で、小型ダンボール2個、2500円であった。

 以前、スペインからパタゴニアのR2を買ったが、これも関税がなく、もはや通販で、外国のものを買うなら、何も日本のネットで買う必要がなくなったのではないだろうか。Amazon USAなどは全く日本のアマゾンと同じ内容になっており、注文、決済も同じである。今回も注文をして9日でスウェーデンから品物が到着したが、別に急ぐものでもなければ問題ない。

 以前、東京海上火災の人と話していた時、会社の保険業務の主体は徐々に国際化し、タイ、ベトナム、ミャンマーなど東南アジアでも物量が恐ろしいほど活発となり、それに伴う運輸保険も増えているという。おそらくかって日本の個人がスウェーデンに品物を注文することなどほとんどなかったと思うが、青森の田舎の私のようなものでも注文するということは、単純にスウェーデンと青森の運輸も増えているのだろう。こうした世界中があたかも一つの市場になるような時代がすぐそばまで来ている実感がある。昔の輸入業者は海外から安く品物を買って、それを日本国内で高く売って儲けていたが、もはやそうした商売ができなくなる可能性があるのだ。もちろんSweden Motherのような日本語のサイトまで作るところは少ないだろうが、今後、こうした動きはますます活発化するだろう。これと逆の場合もあり、日本人がデパートで買うようなものは中国の片田舎に住む人も今や簡単にネットで同じような値段で買えるようになっているのだろう。

2020年2月15日土曜日

ミリタリー好き



 子供の頃からミリタリー物が好きで、少年マガジンの“紫電改のタカ”や“ゼロ戦はやと”に夢中になった。さらに家が歯科医院で、手先が器用になる物であれば買ってくれる環境だったため、100円くらいの飛行機のプラモデルを小学3年生頃から作った。筆や塗装も買ってきて、さらに航空フアンやその別冊、世界の傑作機シリーズも購入して、それで機体の情報を得て、制作、塗装した記憶がある。タミヤの1/1001/72を中心に、たまには、モノグラム、エアフィックス、レベルのものも作った。特に飛行機モデルが好きで、それ以外の艦船、戦車などはあまり作った記憶がない。特に記憶に残っているのはタミヤから出された1/50の日本海軍偵察機、彩雲の半分透明のキットで、これには驚いた。さらにハセガワが1/32キットを出すようになり、零戦などの出来の精巧さには感激したが、大きくて置き場所がなく、2、3機作ったところでまた1/72に戻った。

 飛行機関係の映画も多くみたが、日本のものは、こちらもなまじ知識があったため、特殊撮影のアラばかり目立った好きになれなかった。一方、欧米の戦争映画は、残存機体を使っているために迫力があった。テレビでの放送も含め、記憶に残る映画は、“頭上の敵機”、これは爆撃機B-17をリアルに実感できる、“トラトラトラ”、零戦はテキサンの改良だったが、空母赤城や戦艦長門の実物大模型を使った映像は迫力がある、“モスキート爆撃隊”、これは実物のモスキート爆撃機を使っている。“空軍大戦略”、これは飛行機ファンにはたまらない作品で、Bf109はスペイン製のものでE型ではないが、それでもほとんど機体は実物で、今ではこのような贅沢な映画が作れない。同様に第一次世界大戦の複葉機を扱った“レッドバロン”も、今では無理だろう。“暁の出撃”も渋い機体、ランカスター爆撃機が見られて嬉しい。最近の作品ではメンフィスベル“がリアルである。日本映画では飛行機オタクの宮崎駿の”紅の豚“と”風立ちぬ“はアニメオタクからは評判が悪いが、飛行機好きにはたまらない。

 こうなると飛行機ミリタリーオタクが欲しがるものといえば、革ジャケットとなる。有名なフライト革ジャケットといえば、A-2G-1B-3がある。A-2はアメリカ陸軍航空隊が着用していたもので、現在はアメリカ空軍採用となっている。G-1はアメリカ海軍航空隊のものだが、襟にはムートンがついており、適温気温がA-210度から30度に対して、G-1-10度から10度となっている。さらにアメリカ陸軍航空隊の爆撃搭乗員向けのB-3があり、この適温気温は-30度から-10度とさらに低くなっている。実際に着るとなるとやはりA-2で、私ももう30年前になるが、ソニー通販で、アメリカ空軍採用のクーパー社製のA-2がカタログ雑誌に出ていたので、すぐに購入した。A-2がアメリカ陸軍飛行隊に採用されたのは1931年でその後、1944年まで多く生産されたが、費用面で布製に置き換えられた。ただパイロットの中では復活の希望が強く、1988年に再びアメリカ空軍で供給されることになった。それがクーパー社のもので、タグにはSaddleryの名があり、左胸には名前、右胸には所属部隊のワッペンが貼れるようになっている。山羊皮を使っており、今でも人気があるようで100-200ドルくらいする。クーパー社は1996年に仕様を変更するが、アメリカではそれ以前の物の人気がある。

 個人的には戦争なんて大嫌いであるが、それでもミリタリー物が好きなのは不思議である。まあサバイバルゲームにはまらないだけでもまだマシかと思っている。

2020年2月13日木曜日

臨床重視の歯科教育



 美容学校で、カットやパーマ〜などの実習がほとんどなく、国家試験も筆記試験だけだと、どうだろうか。役立たずの美容師ができるだけで全く意味のない学校であろう。もちろん卒業してすぐにお客さんのカットができるわけではなく、勤務する美容院で、鍛えられて初めて一人前の美容師となる、それでも知識だけでなく、実習を通して基礎的な美容を知ることは、大事なことであり、当然、その習得レベルを試験で問うために国家試験でも規定の実技試験がある。

 歯科は医科の中でも内科ではなく、手を動かす外科に近く、いくら知識があっても手が動かなければ、優秀な歯科医とならない。そのため、昔、受けた松本歯科大学や東京歯科大学では大学の入試としては珍しく、音大や美大のような実技試験があった。松本歯科大学では彫刻刀で石膏棒から規定の形を掘り出す試験があった。これは手先の器用さを見る試験で、細かな作業をする歯科医師は、手先が器用なことは大変重要なことであり、あまりに不器用な人は大学に入っても、あるいは開業しても苦労するので、入学試験でそれを調べるのは理にかなっている。

 同級生の中にも手先があまり器用でないので、臨床歯科医をやめて、基礎の研究家になったものもいるし、県庁に勤務した人もいる。あまり学力がなくても、手先が器用で、細かい仕事ができる方が歯科医には向いているのかもしれない。私自身、それほど器用ではないが、それでもプラモデルを作ったり、絵を描くのは好きな方で、そうしたことは多少とも今の仕事につながっている。それでも本当に手先が器用で、綺麗な仕事をする先生を見ると、歯科医に向いているなあと思う先生がいるのは事実である。

 こうした歯科医は、手を動かしてなんぼという感覚は世界的な常識であり、どこの国でも座学だけでなく、実技を重んじている。とりわけ、アメリカの歯科大学では、実技の時間が多く、最終学年になると朝から晩まで患者の治療をしていて忙しい。卒業するにも症例数が必要だし、実技の試験もある。さらに州で開業するためには試験があるが、これは試験官が受験者の患者への治療を実際に見て採点して、合否を決める。これは昭和30年頃まで日本でも歯科医師国家試験で行われた方法で、実際の患者の治療を行い、それを採点した。その後、試験のための患者を集めるのが難しく、義歯の製作、抜去歯を用いた補綴、保存処置の実技などの実習試験になった。これも抜去歯がなかなか集まらない理由で、私が卒業した翌年くらいに中止となり、その後、ペーパー試験だけになった。すでに歯科医師国家試験から実習試験がなくなって40年以上たち、何度も実習試験の復活が議論されたが、その度に大学サイドの反対の声が強く、結局はペーパー試験で臨床能力を見るというややこしい方法で、こうした問題を回避した。そのため逆にペーパー試験の難度が上がり、準備のために歯科大学の最終学年が予備校化している。これは全く本末転倒である。

 開業歯科医師からすれば、こうした歯科大学の実習軽視のあり方、実技のない国家試験について、本来なら反対すべきであるが、内心、臨床のできない歯科医が生まれるのは自分たちのライバルが減るという理由で歓迎する側面もあった。歯科大学側が、世界でも珍しい臨床を軽視したこうした歯科教育、国家試験に反対しないのはわかるが、日本歯科医師会から、未だ、この現状、すなわち世界の歯科教育、国家試験、そして卒業した時点の学生の臨床能力などを調べた調査がないにはどういうことだろう。調査費は十分にあるはずなのに、歯科医師会にはこうした危機感はないようだ。そもそも東京高等歯科医学校(現:東京医科歯科大学)の創立者、島峰徹先生がわざわざ官立の歯科大学を作ったのは、歯科医は医者と違い、手を動かす教育がいるためであった。

 現行の歯科教育システムでは、歯科国家試験に合格し、その後、初めて研修医として十分な臨床経験を積むようになっている。ところがこの研修医制度というのも、ほとんど中身がないもので、最終的には研修機関で個々のドクターが評価されるが、ほとんど落ちることはない。研修医の1年間、患者には触らず、実際の治療をせず、見学だけでも、この研修は修了できる。私のクリニックも研修機関になって20年くらいになるが、はっきり言ってこの研修医制度は、なかった頃に比べてメリットが少ない。端的に言えば、私らの時代の6年間の臨床経験>今の6年間の学部教育+研修医の臨床経験ということになり、より良い医療システムという点ではあまり意味は持たない。こうした歯科研修医に近い制度は、イギリスのVocational Trainingというシステムで、卒業後1年間、公立の地方のセンターで働き、一般歯科の臨床技術向上を図る。ただこの場合も大学の間に100名以上の患者を見た上での研修という点で日本と違う。学生用の患者は集めにくいというのは日本だけの問題ではないが、世界中のどの歯科大学も学生の臨床実習を重要視し、その教育方針を未だに続けている。日本が世界最先端の歯科医療を目指すなら、こうした日本の歯科教育の異様さを気づいてほしいものである。そして歯科大学での学生による患者治療を重視し、規定の症例数に達しない場合は、大学においては文科省による指導あるいは補助金の削減を、学生に対しては留年させるべきで、一方、国家試験の筆記科目は三年生頃の基礎科目の試験と最終学年の臨床科目の試験の2回として、もっと簡単なものにすべきであろう。そして合格率も医師国家試験並みの90%くらいにしてほしい。

2020年2月11日火曜日

懐かしい尼崎

尼崎市東難波町4丁目付近

難波幼稚園

 生まれてから高校卒業までの18年間、尼崎で暮らしたので、故郷といえば尼崎といってもよかろう。中学から神戸の学校にいったために、小学校の知人とは卒業以来、ほとんど会っていない。生活圏として尼崎を知っていても、地元で買い物したり、食べたり、飲んだりしたことは少ない。

 私の実家は、尼崎市東難波町というところで、実家の道隔てたところには、神戸山口組の古川組があり、警察が警備することも多い。昔、この事務所の看板が銃撃されたこともあり、道が閉鎖され、終日、警察官が見張っていた。子供のころ、この場所はクリーニング屋で、その前には幅1mくらいのドブがあり、よくおしっこの飛ばし合いをした。今は総合老人福祉センターになっているところは、昭和30年代まで、旭硝子の課長以上の一戸建ての家が並んでいた、今思えば贅沢だが、30坪くらいの玄関、小庭のついた平家の家が20軒くらいあり、課長以上の社宅となっていた。家の前の道は舗装されていない土の道で、車が通らなかったので、東京ケンパ、ママゴト、ビー玉やベッタンなどの遊びもここでした。子供達の遊び場が住む地域ごとに決まっていて、他のところで遊ぶには、そこに住む友人の許可がいった。車は少なかったし、土の道も多く、子供達の絶好な遊びであった。難波小学校の隣にある難波公園も子どもたちの遊び場で、ここでは銀玉鉄砲や2Bによる爆竹遊び、缶蹴り、コマ回しなどで遊んだ。また子供相手の紙芝居や粘土カタヤなどもこの公園で来て、子供たちが大勢集まっていた。家の裏には朝鮮人部落があり、高い木製の塀に囲まれた砦のようなところがあり、朝鮮人の数家族がここで暮らしていた。さらに十間道路には大きな尼崎天主堂があり、その裏には尼崎のシンボルであったガスタンクがあった。

 昔の中央大通りは百万ドルなどのキャバレーが立ち並び、夜になると多くの男性客で賑わい、ちょっとしたミニ難波のような雰囲気であった。昭和40年代が最も華やで、キャバレーに続き、立ち飲み酒屋やパチンコ店があった。近くには映画館やストリップ小屋などもあり、風俗店も多かった。三和商店街は、ラッシュアワー並みに多くの買い物客で賑わい、活気があった。ここではそれこそ何でもあり、肉屋、魚屋、電気屋、洋服屋、本屋からレストラン、喫茶店、食品店に至っては、乾物専門店、卵専門店、鶏肉専門など、食材により専門が分かれ、大阪の黒門市場に近かった。最初の変化は、阪神尼崎に尼センデパートができたことで、ここに少し大きなスーパマーケットや当時としてはしゃれた店が入った。それでも三和商店街の活気はビクともせず、以前とは変わらず、活気があった。その後、本通り入り口近くにダイエーができ、中央通りには長崎屋ができた。ダイエーは尼崎で最初の大型スーパーで、開業当初は人気があったが、その後、ディスカウントストアになり潰れた。長崎屋も衣料専門の大型店であったが、多くの犠牲者が出た火事により閉店した。その後は新しい店もできずに、次第に商店街そのもの客足が減ってきて、昔のような人混みはなくなってきた。平成の頃である。

 商店街が廃れる前、昭和50年頃までに、たくさんあった映画館が次々となくなり、中央大通りの百万$などの大型キャバレーも消え、夜の歓楽街が勢いを失っていった。代わってピンクキャバレーなどのいかがわしい店が乱立し、ちょっと歩くのが怖い通りとなった。近所でも、活気のあった尼崎センター市場が次第に廃れ、その挙句、火事になり全焼し、今は全く面影もない。尼崎の実家周辺は古くから住む人の多く、東京や大阪に比べて街の変化は少ないとはいえ、昭和30年代の面影は難波公園以外、ほとんどなくなった。

 上の写真は尼崎にあった診療所から前の道を撮った写真である。昭和30年代で、道も舗装されおらず、車もほとんど通らない。下の写真はこれも昭和30年代の難波幼稚園で、園長の田中花子先生が写っている。

2020年2月7日金曜日

ベルンド・フリーベリの大型ボウル

 


 Berndt Friberg1889-1981)といえば北欧を代表する陶芸家で、その作品の優れた造形と色彩で多くのファンを持つ。特に10cm以下のミニチュアの作品群は、大きさの割には圧倒的な存在感があり、また収納にも場所を取らないために、その収集をするコレクターが多い。ただ値段も高く、小さな作品でも10万円以上する作品も多い。とても手が出る値段ではなく、これまで諦めていたが、先日、あるコレクターがヤフーオークションで数十のフリーベリの作品をかなり安く出品していた。数が多かったせいか、落札者も分散され、どれも市販価格の1/4程度の落札価格であった。今回落札したのは、フリーベリの作品にしては、珍しく大きさが18cmもあり、ちょっとしたラーメンどんぶりくらいある。茶色の流れるような釉薬がかけられ、美しい。ただこれだけ大きいと、フリーベリといえばミニチュアと考える人にとっては、興味はないだろうし、展示棚にも飾れない。要するに大きすぎるのである。当初、オークションで写真を見たときは、それほど大きいとは思わなかったが、実際に送られてきた実物を見ると驚くほど大きい。フリーベリのミニチュアはものすごく小さいのに写真では大きく見えるが、この作品は逆に写真では小さく見えるが、実物が大きい。フリーベリは作品の裏には、彼のサインと制作年度を示すマークがある。この作品には”A”に小さな丸が一つついており、これは1956年の作品で、私の生まれた年である。

 フリーベリは、曽祖父、祖父、叔父も陶工だったせいか、13歳から製陶工場で働き始めた。その後、あちこちの工場で働き、35歳のとき(1934年)にグスタフスベリ製陶所に入る。当時、ここではスウェーデンを代表するヴィルヘルム・コーゲがアートディレクターとして活躍しており、その轆轤をひく職人としてフルーベリは雇われた。同時期、スウェーデンの王室ご用達の製陶所、ロールストランド(Rorstrand)にはグンナル・ニールンド(Gunnar Nylund)がいた。彼は最初、ナタリー・クレブス(Nathalie Krebs)と一緒にサクスボー(Saxbo)を立ち上げたが、その後はロールストランドで活躍した。フリーベリのこうした同時期のスウェーデンの陶芸家に影響され、次第に職人から自分の作品を発表する陶芸家になっていった。そのため、フリーベリの作品には、コーゲよりはニールンドやサクスボー製陶所の影響が強く、噴霧器で器の表面に釉薬を薄く吹き付け、それが垂れてマットで表面に兎の毛のような細い筋が浮かぶ模様となっている。ただフリーベリは長らく轆轤職人として働いた経験があるため、大きな体で器用に轆轤を回し、わずか数センチの作品も見事なフォルムを作り出した。

 写真左の小さな徳利のようなベースは、RorstrandCarl-Harry Stalhane(
1920-1990)で、彼はニールンドとともにRorstrandの黄金時代を築いた。その横のベースはEva Staehr-Nielsen(1911-1978)Saxbo製陶社で作ったもので、モデル名67と記されている。その隣の明るい茶色の茶碗のようなボウルはGunnar Nylund(1904-1989)のもので、彼は直接、轆轤を廻すことはなく、全体のアレンジや色つけなどをしたが、彼にしては珍しい薄手のスタディオものに近い仕上がりになっている。4つの作品を見ると同じような釉薬で色彩は近いが、それでも器のファルムはフリーベリが抜きん出ており、また釉薬も器の中の釉薬が外より濃い茶色になっており、縁取りが薄い色となっているのとマッチして、重厚な仕上がりとなっている。この大きさでは流石に茶道具として使えないが、せめてNylundの器並みの大きさであれば、本当に良い茶器になったであろう。それでもフリーベリは高くてなかなか手に入らなかったが、安く手に入り喜んでいる。全体的にはフリーベリの作品も含めて北欧陶器の値崩れが少し起こっているようである。以前より安くなっている。