2020年7月12日日曜日

倹約的な学校 六甲学院

昭和三年に建てられた三上ビル

水彩専用紙に描くと雲がうまく表現できたが、車の縮尺を間違えた(もっと大きく)

 “イギリス毒舌日記”というイギリス在住の主婦が書いているブログが面白い。その中で、学校の制服のことが書かれている。イギリスの公立学校は基本的に制服制度で、学校指定の名前に入った制服を着るようになっている。ただ貧困で制服を買えない人用に、学校では余った制服を寄付してもらいそれを活用しているようである。

 それで思い出したが、私が通っていた六甲学院でもそれと同じような制度があり、サイズが小さくなったり、卒業していらなくなった制服を学校に寄付する制度があった。もちろん新品の制服は六甲駅近くの指定のお店で買えるだが、ズボンなどはサイズが合わなくなり、ここのお下がりを何度かもらったことがある。校舎一階奥の玄関横に部屋があり、ここに寄贈された制服が置かれている。サイズが合えば記帳してもらう。さらにここには電気バリカンもあり、友人同士で散髪した。中学生の頃はずっと丸坊主で、あまり伸びると校長に注意されるので、節約のためにここで電気バリカンで切ってもらっていた。カットサイズは何段階選べるようになっていて、一枚がり、二枚がり、三枚がりとなっていて、坊主刈りにもオシャレがあって、皆三枚がりを希望する。ただ、三枚がりは均一な長さにするのはなかなか難しく、どうしても凸凹のある虎がりとなる。そのため、その修正していくとだんだん二枚がり、最終的にはほぼ本物の坊主並みの一枚がりとなる。こうなると夏はいいが、冬は寒く、嫌なものである。そこで散髪の才能のある水谷くんの登場となる。彼はどうしたことかバリカンがうまく、綺麗に剃ってくれる。そのため彼に刈ってもらおうと行列になる。

 この学校は、キリスト系のハイカラな雰囲気があるが、その中に軍隊、あるいは修道院調の倹約的な側面を持つ。母体となるイエズス会は別名戦う教会と呼ばれるように軍隊的な性格を有し、さらに創設者の武宮校長が陸軍の予備役少尉であったことも関係する。私が入学する頃(昭和43年)にようやく手提げカバンになったようで、それまでは黒い風呂敷に教科書などを入れていた。中学生だけでなく高校生も丸坊主で、革靴は禁止され、布靴であった。制服も傷まないように、学校に行くとすぐに運動服に着替えた。食堂はなく、父兄会が当番で学校に来て、パンと牛乳の購入を手伝った。昼食を注文するときは朝、パンの注文用紙に書いて提出して、昼休みにそれを購入する。バザーはかなり大規模で、これも父兄会が中心になり、体育館で開催した。そしてこの売り上げが部活費となり、学校からの補助はほとんどなかった。サッカー部でも、ゴールポストは学校の大工さんヒルケルさんに作ってもらったし、サッカーボールも高校二年、三年生の先輩が修理して使った。さらに学校の備品、机や椅子なども外注すると高いので、すべてヒルケルさんともう一人のドイツ人が作ったし、さらに壁や石垣の修理などはドイツ人の校長自らがしていた。学校の隣には神父のための修道院のような施設があり、ここでの食事や生活は質素そのものであり、学校生活にもそうした雰囲気が移ったようである。

 特に変わっていたのは美術の上沼先生で、この先生の靴というと、普通の布製の運動靴の後ろを切り取りサンダルにしたものであった。多分、古くなった運動靴をサンダルに改造したのだろう。いつもヨレヨレの白いワイシャツと灰色のズボンで全く変わらない。この先生は生徒が絵を書いていると、横から“ここはこうしてこの色を使って描けばより良くなる”と手伝ってくれ、そして“これでいい絵になった”と喜ぶ。私の場合、中学から高校まで絵の成績が90点以下のことはなく、最高は99点で、この時はほとんど上沼先生が描いた絵で、他の生徒も同じような点数であったろう。

 お金持ちの生徒も多かったが、こうした質素を旨とする学校生活にためか、あまりそうしたことがわからない状況であった。同じクラスにボンカレーの創業者の息子がいたが、彼は弁当箱につめた白飯とボンカレーだけを学校に持ってきて、それを暖房用のスティームに入れて昼休みに食べていた。うまそうであったので、すぐに買って真似した。

2020年7月9日木曜日

矯正歯科における医療広告ガイドライン



 日本矯正歯科学会では、HP上の医療機関の広告に関して、かなり厳しいガイドラインを設けて、その周知徹底を図っている。具体的にいうと、矯正歯科専門医の取得に際しては、症例審査、試験などと一緒に、医療機関のHPも日本矯正歯科学会の倫理規程委員会が審査して、その修正を求めることになった。

 私のところのHPもチェックされ、修正した上、何とか認められた。まず“最新”、“県内唯一”、“最先端”などの表現はできず、同様に“症例数○○例の経験”も一年ごとの集計したものを複数年にわたって示す必要がある。また“比較的痛みが少ない”、“治療期間が短い”、“抜歯をしない”、“不定主訴が治る”などの言葉は誇大広告に該当するので掲載できない。体験談や口コミ情報なども禁止され、治療前後の写真などについても限定解除条件を満たさないと掲載できない。ここでの限定解除条件とは、治療内容、費用などの関する事項や、治療上のリスク、副作用などの詳細な説明を行った場合のみ、治療前後の写真が掲載できる。もちろん、内容も含めて患者からの同意書が必要となる。また矯正装置の商品名をそのまま載せることはできず、インビザラインのような未承認品については、かなり詳細な説明が必要となる。費用については、無料相談や検査などの費用を強調するものは品位を損ねるものとして禁止されるが、一方、大まかな矯正治療費については必ず記載しなくてはいけない。

 私のところのH Pでは、まず掲載不可能な語句は全て削除し、治療前後の写真もやめた。ただ料金の項目で“兄弟割引10%OFF”と小さな字で書いていたが、これについては品位を損ねるものとして削除を求められた。すぐに削除して、一応HPの審査は通った。他の矯正専門医のHPを見ても、皆さんなかなか苦労しているようで、やはり治療前後の口腔内写真は臨床レベルを示すために必要と感じているようで、限定解除条件に合わせてHPを修正しているところが多い。HPをみる人は、矯正治療でどれだけ良くなるか、矯正治療前後の写真は見たいものである。ただ限定解除条件の書き方が定型化して、これもどうも▲?であり、またあまり詳しい説明が必要となると、患者にHP上の掲載許可を求めるのが難しくなる。自分の写真がHPに載るのは誰も嫌なもので、そうしたお願いをするのに謝礼や治療費のディスカウントが行われるとすると、それも問題である。またこうしたHP上のガイドラインは、バイトなどに行っている一般歯科医のHPにも適用され、矯正歯科医が月1回バイトに行っている歯科医院のHPも修正を求められる。こうしたこともあり、当院のHPには治療前後の写真はやめ、不正咬合の種類を示すに止まる。

 こうして日本矯正歯科学会の医療広告ガイドラインに沿って、HPを修正すると、広告としては非常に魅力の少ないものとなり、逆に無視した歯科医院のHPの方に患者の注目が集まることになり、不公平かなあと思ってしまう。何も医療広告ガイドラインは、矯正歯科のみに適用されるものでなく、すべての歯科医院に関わるものであり、こうしたガイドラインに当てはまらないものは医療法の規定違反となると言える。もちろん患者に被害が出るような悪質で誇大な広告は厚労省の指導が入るが、例えば治療前後の写真を入れているHPはたくさんあり、こうした歯科医院は、そもそも医療広告ガイドラインそのものを知らない場合やこれくらいは大丈夫と思っている場合が多い。結局はルールのない広告は業界自体の品位を下げることになり、その自浄は業界が責任を持たないといけない。

 最近では、当院の新患の7割くらいはインターネットを介してものであり、いかに患者はこうしたツールで病院を選択するのかがわかる。レストランの場合は、食べログなどで調べ、実際に食べてみればいいだけだが、矯正歯科の場合は、結果が出るのは少なくとも二年先であり、なおかつ一旦治療を開始すると、基本的には他にはいけなくなる。それゆえインターネットだけで病院を決めるのは、かなリスクがあり、できれば実際に治療をしている友人、知人に聞くのが一番いいと思う。よく見ると矯正装置をつけている人は案外、周りにいるもので、そうした人を見つけて今行っている矯正歯科医院のことを聞いてみれば良い。

2020年7月5日日曜日

矯正治療をする先生へのアドバイス 2

こうした単純な治療前後の写真のHP上の掲載は、医療広告ガイドラインで禁止されている。また将来的には日本矯正歯科学会の認定医の資格違反となる可能性があり、バイトにいく矯正医、雇う歯科医院双方が、医療広告ガイドラインを遵守しないといけない。単純な治療前後の写真はダメだが、一方、治療費の記載は必要となる。注意が必要である。



-->
5.     矯正歯科医のバイトは雇わない
 自分では矯正治療はしないが、矯正歯科医を雇って治療をさせているケースがある。自分でも経験があるが、1週間に一回くらいであればまだいいが、1ヶ月に一回くらいの治療であれば、その間にブラケットを取れた、装置が壊れたなどのトラブルがあり、なかなか治療が進まないし、それに伴い患者からのクレームが多くなる。費用もバイトの先生のところ料金なので、安くはない。また土日が自分の矯正歯科医院の患者が多いので、バイトには行けず、バイトに行くのは平日となる。月1回の矯正治療日で、一人の矯正歯科医が見られる最大患者数は40人くらいなので、年間の受け入れ患者数は20人くらい(マルチブラケット10名、その他10名)となる。マルチブラケット患者が月に一度の来院で、年間10名が2年間で20名、早期治療では5年間、2、3ヶ月に一度は来院するので、月に20名くらい来ることになる。ただし、実際に月一度の矯正治療日に40名も患者が来る医院はほとんどなく、せいぜい1020名くらいであろう。その場合の年間の新患数は5-10名くらいで、矯正歯科医へのサラリーを払えば儲けは少ない。それなのに、一度始めれば、矯正医も一般歯科医も、一人でも患者がいる限り、途中で止めることはかなり難しい。かって地方では矯正専門医がおらず、東京などから来るバイトの矯正歯科医が珍重されたが、弘前市でいえば、私のところより費用が高くて、月に一度しか見られないのであれば、バイトの先生がよほどの名医でなければ行かないであろうし、そうした名医は自院の治療が忙しく、バイトに行く暇はない。

6.     成人患者は避ける
 成人患者は、要求が高いし、治療にはほぼ100%、マルチブラケット装置が必要となる。また多くは抜歯ケースで、場合によっては外科的矯正を併用することもあり、難度は高い。一部の歯科医院では、わずかなでこぼこなど簡単な症例に矯正治療を勧めることがあるが、そうしたわずかな問題を気にする患者は、神経質で難しい場合も多く、必ずトラブルとなる。下の歯のでこぼこだけの患者の場合は、よほどでなければ治療しない。また子供の場合は、装置を使ってくれなかったり、使用時間が少なかったりするため、治療結果をそのせいにすることもできようが、成人ではそうしたことができず、術者の技量に起因することになる。補綴を前提とした部分矯正くらいにしておいた方が良い。

7.     契約書を作る
これは矯正歯科専門医でもそうだが、検査をしたらその結果を文面にして費用も含めて必ず患者に説明する。ただし患者はいつでも契約を破棄することはでき、基本的には矯正治療の進行度合に準じて治療費を返金する。昨年も神奈川歯科大学が消費者機構日本の指摘により“いったん納入された料金は理由の如何を問わずお返しできません”の文言を消費者契約法により削除することになった。将来的に矯正歯科も特定商取引の適用となる可能性もあり、かなり複雑な契約書を書かないと、治療そのものの支払い義務がなくなる。つまり契約書がないと患者は治療を受けても治療費を払わなくても、いいことになる。

8.     患者を脅かさない
 これは最もしてはいけないことであるが、ごくごく一部、悪徳医と言ってもよいが、こうした先生は患者に矯正治療を勧めるために、脅すことがある。“不正咬合のそのままにしておくと、顎関節症になる”、“虫歯や歯周疾患になる”あるいはひどいのになると“肩こり、腰痛や、体調の悪さは歯並びからくる”などと言って、患者を脅して治療を勧める。いずれもエビデンスはなく、不正咬合と顎関節症の関係は否定されており、矯正治療で治ることはないし、歯並びが悪いとう蝕、歯周疾患が多いという研究もない、ましてや体調の悪さは歯並び以外の原因がはるかに大きい。医師は患者の不安を解消させるところであり、逆に不安を増長させるような行為は決してすべきでない。もっというなら、こうした考え、“体調の悪いのは歯並びのせいである”と信じている患者には絶対に矯正治療をしてはいけない。かなり難しい患者が多いし、矯正治療によりこうした主訴を治すことはできないからである。

以上、まとめると一般歯科医では、小児の矯正治療のみを、極めて安い装置代、できれば先生が作る、で、十分に治療の限界を説明して行うべきである。そして治療がうまく行かないときは、躊躇なく、矯正専門医にこれまでの資料、経過、費用などを含めて紹介すべきである。



矯正治療をする先生へのアドバイス 1

風景画の方が描きやすいが、普通の画用紙では修正がきかない


-->
一般歯科でも矯正治療をするところが増えてきた。十分に注意しないと患者とのトラブルとなるので、矯正歯科専門医としてアドバイスしたい。

1.     矯正治療費は安くする
 矯正装置の原価は高くない。私の場合は、リンガルアーチ、急速拡大装置、保定装置、FKOなどの矯正装置は自分で作っており、技工代はかからない。慣れれば診療終了後の30分くらいで作れ、年間300個くらいは製作していると思う。一般歯科で、こんなに多く矯正装置を作ることはないので、作る時間はないとはいえまい。できれば自分で作ればよい。材料費が安いのにどうして矯正治療費が高いかと言うと、これは技術料が大きなウェイトを占めているからである。技術料というのは、矯正の治療経験、治療結果への保証、後戻りした場合の無料の治療(調整料のみ)などを含むため、高い費用となる。以前、鹿児島大学で勤務していた時、下の前歯に金属製のブラケットをつけた患者が、なかなか治らないということで大学病院に来た。治療自体はひどいものであったが、治療費はなんとブラケット1個が100円、これまで総額でも数千円しかかかっていない。流石にこの時は安いねというと、患者も安くて先生には文句も言えないと言っていた。
 患者とのトラブルの多くは治療内容であるが、治療費も大きな要素となり、高くて内容がまずいと文句を言う。それゆえ一般歯科医は、技工も自分でしてできるだけ安い費用で治療することが、患者とのトラブルを減らす最大の秘訣である。また矯正治療費は総額制と装置ごとの費用に分けられるが、一般歯科医は装置ごとの費用方式をとり、それも安い方が良い。口蓋裂患者の保険点数は、装置ごとの費用の一つの目安となる。

2.     治療は先生がする
 歯科医院の中では、矯正治療を先生がしないで、歯科衛生士や助手にさせるところがある。こうした先生言わせると、忙しくて矯正治療をする時間がないという。だったら矯正治療をせずに、専門医に紹介すれば良さそうだが、そういうと“うちのでの治療を希望している”というが、患者からすれば、そうした強い思いはない。少なくとも自費での治療をするのであれば、装置の装着や調整くらいは先生がすべきであり、予約時間もきちんととって治療すべきである。また患者には治療のたびに経過をきちんと説明し、経過が思わしくなければ、そのことを正直に話し、場合によっては治療費の返却をして専門医に紹介するくらいの誠実さが必要である。

3.     治療を勧めない
 基本的には不正咬合は鏡で自分の口を見ればわかるものであり、人から指摘される、あるいは何かの検査をして初めてわかるものではない。う蝕治療に行っただけなので、矯正治療を勧められることがある。うちの家内の咬合は側方歯の開咬とでこぼこ、正中のずれなどがある複雑な症例であるが、開業当初、う蝕治療のために近医を受診すると、いきなり矯正治療を勧められた。それも歯科大学卒業して2、3年目の若い先生にである。もちろん家内の主人が矯正専門医であることは知らない。まず100%満足な治療はできないだろう。また、長女はもともと反対咬合でそれは小学生の頃に治したが、高校生頃から下の前歯のでこぼこが出てきた。進学で県外に行ってため、こちらで治療できないこと、下の歯のでこぼこの治療は治すのは簡単だが、そのまま維持(保定)するのは難しいため、気にするなと言っていた。ところが京都、東京、横浜と検診で歯科医院にいくたびに、そこの歯科医から矯正治療を勧められる。その度に、父親が矯正歯科専門医であることを言うと、勧誘はなくなる。患者から矯正治療の相談を受けて、治療法、費用や期間の説明を行うべきで、決してこちらから勧めるものではない。よくクインエッセンスなどの雑誌で、全顎の治療の症例報告があり、下顎の叢生があれば矯正治療をして整列していて、患者が希望したとあるが、おそらく先生が勧めたのであり、中年以上の患者に下顎の叢生を治す機能的な利点はない。矯正専門医の私に見た目以外の下顎の叢生を治す、エビデンスに沿った意義を教えて欲しい。もちろん非常に安い費用であれば、全く問題ないのだが、こうした治療に高額な費用を取るのが問題であり、これは金儲け主義と言われても仕方ない。

4.     治療の限界を最初に知らせる
-->
 一般歯科医の場合、マルチブラケット法に精通していないため、本格的な治療はできない場合が多いし、難しい症例を無理して引き受けるより、矯正専門医に紹介した方がよほど精神衛生上望ましい。リンガルアーチ、床矯正治療、機能的矯正装置しかしないのであれば、うまくいかない可能性を十分に説明すべきであり、うまくいかない場合は矯正専門医に紹介するが、その場合は治療費が無駄になることも伝える。この説明を最初にきちんとしないと、患者から治らない、何とかしてくれと抗議され、これ以上の治療はできないと答えることになる。もちろん患者はかなり怒る。患者のためにと思って矯正治療を行なった結果、患者との信頼関係が崩れ、それは悪いウワサとなり一般歯科の治療にも波及する。

2020年7月2日木曜日

誰でもできる水彩画 2

奈良光枝(昭和23年)

トレース画 この段階で全然似ていない

彩色するとさらに変になる


 トレース図を用いた人物画に挑戦した。最初は家内の写真を使って描こうと思ったが、こうしたブログで発表すると後で怒られるので、違う人物を使うことにする。輪郭のはっきりした欧米人の方が向いているように思ったが、日本人でいいモデルはいないかと思い、ふと思い出したのが、“青い山脈”などで有名な弘前市出身の歌手、奈良光世さんが、ほりが深くていいなあと思った。早速、ネットで写真を検索したが、あまりいい写真がなく、戦後すぐに地元、弘前に帰省した時の写真があったのでこれを利用した。素材自体はかなり小さな写真なので、A4に拡大したが、細部が全くわからない。髪は後ろにリボンで束ねているようだが、はっきりしない、また着物の柄も、さらに白黒写真なので着物の色もはっきりしない。おそらく白地に薄い紫の柄の入ったものだと思うが。

 まず前回の方法に沿って、A4普通紙にトレースしたが、この段階で、写真と全くイメージが違う。また着物の折れ具合がわからないし、髪型が黒くなってしまったので、ロングヘアーかショートヘアーかもわからない。このあたりは全く想像で、イメージとしてはショートヘアーが似合いそうなので、思い切って髪型も変えた。

 着色をしてみたが、影がうまく表現できず、ペン画で人物を描くにはかなり難しい。完成した絵は全くモデルとは似ておらず、タレントの高嶋ちさ子を美人にしたようなものとなった。黒のペンで輪郭を描いたが、女性のモデルの場合は、赤や茶色、青色など、もう少し優しい色の方がいいかもしれない。ただこうした技法のいい点が、簡単に、1時間くらいで描けるので、忙しくても何とか完成でき、私のようなせっかちな人にはいいのかもしれない。

 そういえば、線画といえば、日本の浮世絵が代表となるが、美人画は、瓜実顔、細い眉と目、そしておちょぼ口となっている。これは線画で顔を描こうとするとこうした表現しかできない。人間の顔は造形としてはかなり繊細な対象で、本物に似せようとするのは限りなく難しい。まして一本の線で表現することは不可能であり、重ね塗りができない浮世絵、あるいは日本画では、油絵のような立体的な表現ができなかった。ルネサンスの人物画はモデルとかなり似ているものであったが、浮世絵はあくまでその特徴を線で捉えた、ある意味、抽象画と考えても良い。ゴッホなどの印象派の画家が日本の浮世絵に憧れたのは、こうした抽象性、平面化であり、ペン画でもそうであるが、線画による人物表現は模写という点ではもともと難しいのだろう。おそらく線描画による江戸時代の最高の人物画家は士族出身の渡辺崋山と椿椿山で、両者ともかなり西洋的な手法を取り入れ、立体的な人物像を描いている。やはり陰影を用いた西洋的手法でないと具象的な人物像は無理なのだろう。下は椿智山が描いた渡辺崋山像。









2020年7月1日水曜日

誰でもできる水彩画


元の写真

A4普通紙にトレースし、それを画用紙に再度トレース
トレースしたもの


透明水彩絵具


色をつけすぎ


 昔から絵は、無心で描けるので好きだったが、いざやろうとするとなかなか才能がなく、うまく描けない。一つにデッサンが苦手で、風景画や静物画を描いても、どうも空間バランス的に変で、それを着色してもおかしい。

 絵画では、まず対象をよく見て、それを平面のキャンパスに写し取ることから始まる。もちろん抽象画などはその限りではないが、ある意味、カメラ的な技術がまず必要となる。例えば、風景画を描く場合でも、目で風景を見て、写真のようにその図をキャンパスに写し込む。まずこれが難しい。

 うちの母は、ここ40年ほど絵を描いていて、アマチュアでも、生徒に教えるくらいなのでまあセミプロといっても良い。そのスタイルを見ていると、まず気に入った景色が対象であれば、写真を撮り、それも参考に描いている。もちろん写真そのものではなく、デフォルメしたり、省略するため、元の写真と完成した絵は全く異なる。写真集などを参考にすることも多い。実際に風景を見てキャンパスを立てて写生するのが本筋なのかもしれないが、今のようなデジタル写真が発達した時代ではこうした写真を使用する画家も多いのではないかと思う。

 先日来、絵本画家、田畑精一さんの原画を集めている。買った原画の多くはマジックペンのみで描かれたイラスト風のもので、額に入れて飾ると、かっこいい。その絵を見ていて、ふと気づいたことは、写真を拡大して、それをトレースすれば同じようなペン画が描けるのではと思った。早速、以前、撮っていた弘前市内の建物をA4にカラーコピーし、それをトレース台に乗せ、A4の普通紙に水性インクでトレースしてみた。ものの10分くらいで簡単に描ける。細かいところは省略し、大まかにトレースする。普通紙では、着色に向かないので、今度はそのトレース図を画用紙に再度トレースする。画用紙の厚さでもインクで描かれていれば、十分にトレースでき、これも10分くらいで終わる。ここではpigmaという太さの違うドローイングペンを使い太さを変えてトレースした。元のカラーコピーなどをみながら細かいところも書き込んでいく。これでペン画は完成である。コピーから始めても1時間はかからない。

 これでもいいのだが、少し彩色しようと、以前買ったペリカンの固形透明水彩で彩色してみた。透明性も高く、塗っていくと、これも面白い。結果的に、塗りすぎて、失敗作となった。もう少し、無地の部分を多くした方が良かったと思う。また画用紙にペン画を書き、もう一度トライしてみたい。

 こうした写真をトレースして絵を描くというのは、本格的に絵を描く人からすれば邪道であり、軽蔑すべき行為なのかもしれないが、私自身、最も簡単で、絵が下手な人でも誰でも描けるいい方法だと思う。建物や風景でも複雑な構成である方が良い。プロの絵描きでも、構図はかなり神経を使う行程であり、遠近法の適用をきちんとする人は、定規を使って建物や人物の配置を決めていく。写真を使えば、そうした手間は必要ないし、広角レンズや望遠レンズ、あるいは画像ソフトを使えば、デフォルメも可能である。もちろん、デジタル写真をコンピュータ上の画像ソフトで加工して、絵画風にするソフトは多くあるが、これでは人の個性がほとんど出ず、写真をトレースする方がより人間味が出る。人物画でも顔、首、体のバランス、あるいは衣服の感じを出すのは難しいが、トレースして体型、顔、さらに目、鼻、口の位置をトレースで来れば容易と思い、やってみたが、あまり向かず、建物や風景に限定する方法であるようである。


PS:こうした写真から描く絵を、トレース水彩画と呼ぶようです。未読ですが、本も出ていて、プロの画家やイラストレーターなどもやっている方法のようです。カーボン紙を使う方法もありますが、ライトボックス(アマゾンで2000-3000円くらいで売っている)を使う方法がうまく行くと思います。

2020年6月22日月曜日

徳島 那賀郡立那賀実科高等女学校 卒業写真?

髪型から大正期の撮影と思われる

上記とほぼ近い時期の卒業写真で、卒業生数がわかれば年度は同定できそうである

正面玄関が上記写真に似ている

那賀実科高等女学校 加藤校長

写真真ん中の人物と似ている。加藤常七郎?

よく見ると”實女”の校章


 以前、ヤフーオークションで、明治後期から大正時代の弘前市、時敏尋常小学校と城西尋常小学校の卒業写真が出ていたので購入した。昔の卒業写真は大型で、おそらく卒業生個人にプリントしたものを送るのではなく、学校の記念として、小数枚、場合によっては一枚のみを製作したように思える。もちろん、そうした卒業写真は学校が保存し、必要があれば使用される。近所の写真館の人に聞いてみたが、大型の乾板で撮影し、直接、焼き付けたものかはわからないとのことであった。それでもデジタルカメラで撮影し、大きく拡大しても解像度は高い。

 弘前の尋常小学校と一緒に徳島高等女学校の写真も2枚入っていたので、確認できれば、寄贈しようと調べてみた。まずA3くらいの台紙の右下に“阿波 富岡 タブチ”の印がある。調べると徳島県阿南市にあるタブチ写真館の撮影であることがわかる。徳島市と阿南市は距離で約20キロ、車で30分くらいの距離であるが、明治、大正時代は決して近くではない。何より徳島高等女学校の卒業写真をわざわざ郡部の写真館に依頼することはない。さらに現存する徳島高等女学校の校舎写真を見ても、卒業生の背後にある建物に該当する建物はない。

 そこで阿南市にある女学校を探してみた。すると徳島県那賀郡那賀実科高等女学校の名が上がる。明治、大正期にできた徳島県の女学校は、徳島県高等女学校(1902,次にできたのが那賀郡立那賀実科高等女学校(1912)、そして名西高等女学校(1923)、母の母校である美馬高等女学校(1923)などがある。実科高等女学校というのは、普通の高等女学校に比べて、家事や裁縫などの実用的教科に重点をおいた学校で、徳島県には他には戦後にできた板野郡立実科高等女学校があるだけである。那賀実科高等女学校は1921年には富岡高等女学校になり、戦後は富岡第二高等学校、さらには富岡東高等学校となり、現在に至る。

 さらに写真にヒントがないかと探すと、まず卒業生の背後の建物を拡大すると玄関上に“實女”と読める校章が見られる。実科高等女学校を縮めて“實(実)女”と呼んでいたのか。絵葉書資料館にある那賀実科高等女学校の絵葉書には校舎が写っており、玄関や細長い二階建てが特徴で、卒業写真の背後の建物に似ている。また中央に座る人物は絵葉書の解説で“加藤校長”となっている人物と似ており、福岡県師範学校長などを務めた加藤常七郎であれば、相当大物を校長に当てたのだろう。

 これらのことから、この写真は徳島高等女学校に卒業写真ではなく、那賀郡立那賀実科高等女学校の大正頃の卒業写真である可能性がかなり高い。そこで、那賀実科高等女学校の系統をつぐ徳島県立富岡東高校に、写真の確認と確認できれば寄贈しようと、同校の同窓会、琴江同窓会にメールを送ったのが320日だが、その後も返事がなく、仕方がないため、高校宛に直接メールを送ったのが、521日であるが、これもいまだに全く連絡がない。コロナ問題でバタバタしているのはわかるが、それにしてもメールを送って3ヶ月無視されると腹立たしい。

 この那賀実科高等女学校の卒業写真と思われる写真は当方が持っていても意味はないので、どなたか徳島県の資料を集めている人がいましたら、ご連絡ください、お送りいたします。もちろん無料です。

2020年6月15日月曜日

矯正治療ではマルチブラケット装置がメインである


 最近、他の歯科医院で矯正治療をしているが、どうも治療がうまくいっていないので、見て欲しいという電話がくる。基本的には、現在、治療を受けている先生とよく相談してもらうように言っているが、中にどうしてもはセカンドオピニオンを求めてくる患者がいる。セカンドオピニオンとは今、受けているあるいはこれから受ける治療法について担当医以外の先生に意見を聞くことで、その際に担当医からこれまでの経過や必要資料をもらって来院する。セカンドオピニオンをする先生はこれらの資料をもとに自分に意見を述べ、担当医に返書を書く。同じ疾患によっても治療法が色々あり、どの治療を選択するかは最終的には患者が決める。ただ同じ専門医であれば、こうした治療法に違いについてはある程度、知識があるので、よほど患者の不利益がなければ、患者の選択を尊重するし、医師自身も納得できよう。例えば、乳がんの治療法についても、ガイドラインに沿ったある程度の選択の幅があるし、病院によっても治療法の違いがある。ただこうしたガイドラインに全く反する民間療法を選択することは勧めないし、強く非難することもあろう。最近では小林麻央さんの乳がん治療がこれに当てはまり、当初は手術と放射線治療による標準治療を受けることになっていたが、臍帯血による代替治療を受けたため、手遅れになった。

 矯正歯科においても、特に日本矯正歯科学会の専門医のレベルであれば、それほど治療法に大きな違いはないし、仮にうまく治らない場合でも、その原因が納得できる。例えば、前歯が開いている開口の矯正治療後の後戻りなどは、多くの矯正医が経験するもので、舌の機能が関係していて、治療後の安定が難しい。自分が治療すれば、絶対に後戻りがないと言い切る矯正医はいないはずだ。そうした意味では、私のところでもうまく治療できたと思う症例は20%くらいで、逆にうまく治せなかったと思う症例が20%、残りの60%はまあまあと思うレベルで、決して治療に自信があるわけではない。同じような診断、治療法をしても結果が全く異なることを経験する。生体の反応は、個性があり、矯正治療でも長年の経験である程度の反応は予測できるが、全く予想外の反応に苦しむこともある。ましては十年、二十年後の状態まで、考えると、正直言って治療するのは苦痛である。

 矯正歯科医は、症例発表などにより自分の臨床能力が問われる機会が多い。特に日本矯正歯科学会の専門医の審査をすると多くの他の矯正歯科医の症例を見ることができるので、大まかな自分の臨床能力のレベルがわかる。一般歯科の先生で、かなり矯正治療をしている先生でも、専門医のレベルに達することはない。これは手先の器用さなどの才能や知識の問題ではなく、経験の差であり、多くの専門医は、少なくとも1000例以上の治療終了治験、20年以上の治療経験がある。さらにこうした症例の中から学会に症例報告をする。年間、50-100名以上の新患と同数のマルチブラケット治療患者がないとダメで、この患者をさばくには、一般歯科では無理である。症例数だけなら、一般歯科でも床矯正装置をすごくしているところがあるが、最終的な仕上げまで評価できない。

 このブログで何度も強調しているが、世界中の矯正専門医のメインの治療法はマルチブラケット装置であり、これ以外の種々の治療法はあるものの、これらはあくまで副次的な治療法である。そうした意味では、マルチブラケット治療をしない歯科医院は、あくまである程度のレベルまでしか矯正治療できないとことを意味し、もし矯正治療を受けるなら、そうしたことも十分に理解しておかないと、歯科医師、患者双方ともトラブルとなる。

 昔、小児歯科にいた頃、咬合誘導という概念で少し矯正治療をしていた。その後、やはりマルチブラケット装置による治療が重要と思い、矯正歯科に転科した。当初はでこぼこ、小臼歯抜歯症例などは“バカチョン”症例とバカにしていたが、経験を積むと簡単な症例などなく、マルチブラケット装置による治療は本当に難しい。昔は矯正治療=マルチブラケット装置という感じで、一般歯科医も大学の研究生になったり、2、3年の長期も講習会に参加した。結局は難しくて諦める人も多くいたが、最近ではこうしたマルチブラケット装置に講習会すら受けず、マウスピース矯正の講習を受ける先生がいる。面倒な治療はしたくないが、金は儲けたいのだろう。羞恥心がないのだろう。

2020年6月11日木曜日

弘前レンガ倉庫美術館 行ってきました

白い部屋は事務所です。

倉庫だった頃の窓からの風景

美術館の窓風景、黄金色の屋根が美しい




 6/1から弘前市民限定で弘前レンガ倉庫美術館がオープンしたので早速、行ってきた。ネット予約開始の日、9時からの予約に合わせて、15分前からコンピュータ前に陣取って、準備した。さあ9時だ、予約しようとしても、画面が動かない、30分くらい頑張ったが、全く予約画面まで行かないので、そのまま諦め、2時間後にもう一度、トライした。今度は問題なく予約できた。それほど予約者はおらず、どうもプログラム上の問題があったのだろう。30分間隔で二十名に制限した入場で、新型コロナウイルス対策である。


 最近の美術館でおしゃれであり、作品もいわゆる額縁に入った絵を眺めるものではなく、空間を生かした造形的な作品がほとんどであった。これは十和田現代美術館や金沢二十一世紀美術館同様で現代美術館の流れである。今回は、弘前をテーマとして新作の展示物が主体であったが、すでに来館した数人の知人に聞いても、あまり面白くないという感想が多かった。正直言って私も最後の潘逸舟の作品以外は期待はずれであった。潘は幼少期から弘前で育ったため、その作品に強いノスタルジーを感じさせた。暑い夏の日の気だるい感覚や漠然と焦る青春の一コマをそこに見た。潘が若い頃に弘前で感じた感覚を表現したのだろう。

 弘前の現代美術館と言えば、まず奈良美智の作品を期待するが、今回のオープンには“弘前犬”と奈良の写真のみが展示されていた。数年前のA to Zなど奈良の一連の展覧会を見たものにとって、今回の展示は少し期待はずれであった。主として奈良が数年前にサハリンで撮った写真が展示されていたが、確かに彼の感性によって切り取られた原風景なのだろうが、“Thank You Memory”、弘前の記憶をテーマとした展示物としてはわかりにくい。むしろ潘の作品の方が、直接弘前に関係するものはないにもかかわらず、テーマに沿い、いろんなことを思い出せる。うがって考えると、もともと奈良自身、この美術館のオープニングに出品するつもりはなく、急な要請で仕方なく写真を展示したのかもしれない。母方の祖父が樺太(サハリン)にいたという。2階ライブラリーの窓からの移り変わる景色の方がよほど面白く、弘前生まれの奈良としては新作を発表できなかったことは残念だったろう。

 美術館オープンにあたり、弘前市、運営者と奈良の間に何かあったのかもしれないが、館長も決まったこともあり、いずれ彼の大掛かりな展示会を開いてほしい。今回は新型コロナウイルス騒ぎで、大々的なオープニングができなかったが、完全収束した暁には、歴史的な”A to Z “などの展覧会を超えるユニークな奈良の作品展をしてほしい。コロナウイルスのよる世界の混乱、そしてポストコロナの世界、これに対するアーティストとしての答えを是非、作品として表現し、人々に問うてほしい。

 美術館の隣にはおしゃれなレストランができて、自家製アップルシードルを注文した。昼間からお酒は少し抵抗があるものの、美味しく、量もあり、美術館に行った折は是非、トライしていただきたい。

PS:今年のねぷた運行は中止となったが、疫病払いのねぷた運行はするべきだと提案した。陸奥新報によると市内で手持ちねぷたを飾ろうとする動きがある。扇灯籠、角灯籠、金魚ねぷたの3種類のねぷたをねぷた師に依頼して運行コースに重ねて展示するという。素晴らしい考えであり、是非とも実行してほしい。さらにいうなら、ねぷた師に依頼するのは、ねぷた師を経済的に支える点で大事だが、市民も自分でねぷたを作って家の前にもっと展示すればどうだろうが。金魚ねぷたなどは、竹ひごや和紙などの入ったキットがあれば、何とか素人でも作れそうであり、中に小さなLEDを入れて家々ごとに飾れば、それは美しい光景となる。また今までにない独自の灯篭や金魚ねぷたを作ってもらい、例年通りに各賞を与えるのもいいかもしれない。



2020年6月10日水曜日

仕上げ 矯正治療

かなり強いゴムで仕上げる

一見綺麗に仕上がっていても、ここが噛んでいないとダメ、上下顎小臼歯の舌側咬頭を落として噛ませる。

 マルチブラケット装置による治療は、レベリング、犬歯のリトラクション、スペースクローズ、フィニッシングの4段階で分けることが多い。レベリングとは、歯のでこぼこを直す段階で、主として超弾性ウイヤーなどの柔らかいワイヤーの時期で、通常3から6ヶ月くらいかかる。その次の段階としては、これも上顎前突のケースで当てはまるのだが、細いワイヤーに変え、まず犬歯を後ろに引く時期である。通常6ヶ月くらいかかる。その後は、治療法によって変わるが、前歯と犬歯の間の隙間を詰める段階で、ここでゴムを併用することが多い。そして最終段階が噛み合わせをきちんと噛ませるフィニッシングの段階となる。実はこの段階がもっと矯正歯科医の技量が発揮される段階で、一般歯科医のほとんどが、日本矯正歯科学会の認定医でも、この段階がうまくできていない場合が多い。

 このフィニシングの段階の目的は、噛み合わせを仕上げていくのであるが、まずオーバージェット、オーバーバイトが適度、2-3mmになるように調整する。さらには大臼歯、小臼歯の咬合関係を仕上げ、上顎切歯のトルクを与える。具体的に言えば、018スロットのマルチブラケット装置を使う場合は、017×025あるいは018×025フルスロットのステンレス、エルジロイワイヤーを使う場合が多い。さらにいうならストレートワイヤーテクニックの場合でも、このフィニッシングの段階では前歯部にベンディングをしてトルクを加えることが多い。もちろん前歯部にトルクを入れると、隙間が出やすいので、上顎切歯の連続結紮とタイバックは必要となる。

 上顎切歯の辺縁隆線が発達している場合は、その削合が必要となることもある。ここでのポイントは小臼歯の咬合をきちんと噛ませることで、さすがに専門医の試験では、このポイントを押さえている症例が多いが、認定医の試験ではここが甘い症例が多い。こうした試験、第一小臼歯抜歯症例ではまず上下の第二小臼歯の咬合、上顎の第二小臼歯の舌側咬頭が綺麗に下の小臼歯に咬合しているかを見る。慣れれば、マルチブラケット装置、撤去前に咬合紙で確認できる。

 噛む能力が強い患者さん、つまり噛み合わせが深い患者やローアングルの患者では、噛み合わせを挙げるのに時間がかかるが、噛み合わせが崩れにくく、最初の臼歯部の噛み合わせが維持される。そうでない症例は、このフィニッシングの段階で多くのゴムを使う。アレクサンダーのフィニシング考えでは、ここでワイヤーの一部を除去して頬側に連続したゴムを使用される。この方法では頬則の噛み合わせが非常に良くなるが、舌則の咬合は噛んでいない。

 私の場合は、上顎に一番強くて太いワイヤーを使い、下顎はそれより細いワイヤーを入れて、もっぱらゴムの力で噛ませる。もともとはLループを韓国のキム先生の多数用いたマルチループ法使っていたが、ベンディングに時間がかかりループが食い込むトラブルも多くなるため、最近ではゴムメタルを使うことが多い。ケースによってはゴムメタルを使わず、017×022くらいのステンレス、エルジロイワイヤーに小臼歯、大臼歯部に頬側へのトルクをかけること多い。下顎の小臼歯、大臼歯が舌則に倒れていて噛まないからである。

ここで小臼歯を噛ませる大きなポイントは、まず上顎の小臼歯部にわずかに挺出ベンド(0.2mm)を入れてツイードのプライヤーでリンガルルートトルクをかける。そして上下の側切歯と犬歯の間にフックをつけて垂直ゴムあるいはショートのクラスIIIIIゴムを使用する。力は150gでかなり強いゴムを使う。ゴムを終日使うことで、このフィニシング段階は6ヶ月くらいで終了できる。ただゴムを終日使うのは難しく、仕上げがうまくいかないこともある。

 下顎下縁平面角の開いたドリコフェイシャルのケースでは、こうしたフィニシングできちんと噛ませても、保定後に次第に空いてくることが多いが、咬合力と関係するようで、非習慣性咀嚼側側は空いてくることが多い。いずれにしてもフィニシングの要諦は、出来るだけ太いワイヤー、強いゴムを使うことで、私の場合はオームコの2F(Extra heavy)のゴムを使っている。

 フィニッシングについては矯正歯科医にとっては奥義になっており、先生ごとにその考えが違う。どのようなフイニッシュがいいのかは、保定後の安定も含めて考えるべきで、本当に難しく、この期間を一年近くかける先生もいる。

2020年6月8日月曜日

たばたせいいち(田畑精一)さん 原画

下段の左以外は”ダンプえんちょうやっつけた”の原画




 絵本作家の田畑精一さんが昨日、89歳で、老衰で亡くなった。田畑さんは大阪生まれで、京都大学の理学部で原子物理学を学ぶが、人形劇、絵本に興味を持つようになり、大学を中退して絵本作家になったという変わった経歴を持つ。代表作には“おしいれのぼうけん”、“さっちゃんのまほうのて”などがあり、いまだに人気は高い。“おしいれのぼうけん”は1974年、“さっちゃんのまほうのて”は1985年なので、いずれも出版から35年以上経つロングラン絵本である。“おしいれのぼうけん”は、最近も又吉直樹や広末涼子がコメントを寄せ、いまだに保育園では園児への読み聞かせとして人気が高い。

 実は田畑精一さんについては、昨年10月頃よりその絵本原画がヤフーオークションに出ていて、何件かは落札したので、知っている。絵本の原画は当たり前だが、この世に一点しかない。なぜこの時期、田畑さんの原画が大量に出たか不明だったが、昨日亡くなったことを知ると、ここしばらくは体調が悪く、自分の作品の原画を、死ぬ前に知人を通じてオークションに出したのだろう。全部で数十点の原画や下絵が出品されていて、安いのもので1000円くらい、高いもので10万円くらいで落札された。私が落札したのは“ダンプえんちょうやっつけた”の原画4点と、“だんち5階がぼくのうち”が1点、それと学童保育の表紙画1点である。流石に人気作品の“さっちゃんのまほうのて”と“おしいれのぼうけん”はオリジナルの原画は出品なかったが、その草稿画がかなりの値段で落札された。“ダンプえんちょうやっつけた”はいまだに再販されており。これも人気のある作品であるが、上記の本ほど読まれていない。

 おそらく今回の原画のオークション出品にあたって、代表作の“さっちゃんのまほうのて”と“おしいれのぼうけん”の二つの絵本の原画はオークションに出さず、どこかの図書館や展覧会に出すために残しているのだろう。

 こうして落札した原画は、病院に壁にきなりの立体額に入れて飾っている。当初はそのまま飾っていたが、絵本の原画なので、絵本も買って、そのセリフも一緒に載せることにした。なかなかオシャレで自分としては気に入っている。こうした白黒のシンプルな絵もインテリアとしては映える。

 うちの母もアマチュアの絵描きであるが、高齢のため、数年前から自分の作品の整理をしている。故郷の徳島県の脇町を描いた作品は、脇町の役場、図書館や観光施設に寄贈し、飾ってもらっている。また知人や友人にも送っている。展覧会用に50号以上の大型作品や屏風は、場所を取るため、知人、都会に住む兄や姉のところには送られないないので、もっぱら私のところに送られる。娘の8畳の部屋が母の絵でいっぱいになってきた。お客さんが来るときにはたまには玄関に屏風を飾ることもあるが、いずれにしてもかなり場所をとる。画家にとって自分の死後、作品が一括して美術館などに収まれば、これほど嬉しいことはないが、今や美術館も収容作品も保管場所がなく、寄贈するといっても、なかなか引き受けてくれない。勢い知人や友人に送ることになるが、人に送って喜ばれる作品とそうでない作品がある。静物画、風景画は人気があるが、人物像、裸婦、ことに嫌われるのは仏像や怖い絵である。昔、弘前ロータリークラブにいた頃、知人から青森県でも有名な作者の遺作があり、欲しい人にあげるという。写真を見ると地蔵さんが描かれた作品が2点だったが、これを家のリビングに飾ろうとする人は誰一人おらず、結局、葬儀店をしている人が葬儀場の飾りとしてもらった。

 田畑精一さんの絵本の原画もこうした断捨離の一環としてオークションに出されたものと思われる。今後、田畑さんの原画展のようなものが開催する場合は、ご協力するので是非、ご連絡して欲しい。原画には絵本とは違う良さがある。


2020年6月7日日曜日

絵図で見る弘前城のうつりかわり

士族引越之図 本丸付近  勝手に引用申し訳ありません、下図との比較のためです。かなりひどい略図です

明治二年弘前絵図 本丸御殿について、上図よりはるかに詳しい

士族引越之図 三の丸付近 本丸同様にひどい略図です。

明治二年弘前絵図 三の丸付近 はるかに詳細な図である


 本屋をのぞいていると、「絵図で見る弘前城のうつりかわり」(郷土歴史シリーズVol 5, 弘前市立博物館後援会、令和二年3月)があった。絵図ファンとしては必見の本で、楽しみに帰宅した。弘前城の移り変わりを、絵図を通じて、解説したものである。ただ残念だったのは、明治時代初期の弘前城を示す絵図として明治四年の「士族在籍引越之際地図並官社学商現在図」を取り上げ、“廃藩直後の弘前の町の様子を描いたもので、弘前城の各曲輪の様子も詳しく描かれています。これらの絵図は、廃城期の弘前城の状況を知るうえで貴重です”という説明が入っている。これについては、上記写真に示すように“明治二年弘前絵図”の方がより詳しく描かれており、なぜ敢えて「士族在籍現在図」を明治初期の弘前城を示す絵図として、この本で取り上げたかわからない。

 まず執筆は弘前博物館と弘前市教育委員会文化財課が中心になって行ったようだが、「明治二年弘前絵図」についてはすでに2冊、発刊しており、執筆者がその存在を知らないわけではない。さらに明治二年弘前絵図はすでに弘前市立図書館に寄贈しており、資料使用は全く問題なく、図書館に行って、撮影し、図書館の許可を得れば、本に掲載できる。実際、18世紀中頃の「御城之図」は弘前図書館のものをこの本で使っている。

 それでもなお、明治二年弘前絵図がこうした弘前市発行の本に引用されないのは、絵図そのものの真贋が確認されてないということか。数年前に弘前市立図書館に明治二年弘前絵図を寄贈しに行った時に、専門家による見解が出てから、正式な寄贈を受けると言われたことがある。つまり絵図、歴史学者が調査をし、学会発表し、論文にしたものが本物であり、アマチュアが調べて本にした絵図などは信頼できないということだろう。閲覧希望者がみる以外は、明治二年弘前絵図は図書館の倉庫に置かれ、未だ一度も公開されたことはない。もちろんアマチュアとはいえ本になったような絵図は今更新しい発見もなく学者の研究対象にはならず、今後とも学会で発表されることはないだあろう。

 江戸時代の絵図は、江戸、京都のような多くの人が集まるところのものは印刷物だが、弘前城下絵図などはすべて手書きで、同じ絵図の写しが数部あっても不思議ではない。ただ全くのコピーかというと、絵師の個性や絵図の用途によって内容は異なる。弘前市立図書館の八木橋文庫に明治38月の絵図(未見)が、そして明治47月の“士族現在図”が弘前市立図書館と博物館に一枚ずつある(これらは確認)。明治二年弘前絵図は10月であるので、単純に考えれば、最初に明治二年弘前絵図(10月)、明治三年8月図、明治四年7月の士族現在図となり、明治二年がオリジナルで、それ以外は写しとなる。上記に示したようにオリジナルが一番詳しく、コピーになると次第にラフになる。上記の四枚の明治初期の弘前城下絵図を記載項目について比較すれば、明治二年弘前絵図は贋作でないことは明らかである。さらにいうと明治二年弘前絵図の出所は、幕末の弘前藩御用人で活躍した楠美太素の子孫であるので、古くから弘前図書館にある“士族引越之際図”に比べて出所が不確かであるとは言えない。

 弘前市立図書館には、明治二年弘前絵図そのものを寄贈しているし、それを写真に撮りデジタル化したものも、好きなように使ってもらって良いと言っている。それでも、高岡の森 弘前藩歴史館でも今回の本でも、いまだに「士族引越之際図」が使われるのは、これまで使ってきて何も問題がなく、無難であるというのが一番大きな理由であろう。新しい資料が出て、古い資料より正確でオリジナルであれば、歴史学の発展のためには活用すべきであるし、これは理系だけではなく文系の学問も同じであろう。明治二年弘前絵図については発見者がアマチュアであったことがそもそも失敗だったとしたら誠に申し訳ないが、郷土史を調べている者としてはさみしい。

:絵図の詳細の比較については、写真を並べないと説明できないので、本から無断引用しています。なお、明治二年弘前絵図のデジタルデーターについては、茨城大学の古絵図を専門とする小野寺淳教授に送り、大変貴重なものだと評価されている。

2020年6月4日木曜日

昭和天皇の侍従長



 天皇を直接補佐する官職として、内大臣と侍従長がいて、前者はより政治的な事柄を、後者は天皇の生活全体を補佐する。戦前の昭和天皇の侍従長は、初代が珍田捨巳(2年間)、鈴木貫太郎(7年)、百武三郎(8年)、藤田尚徳(2年)であり、内大臣は牧野伸顕(10年)、斉藤実(1年)、湯浅倉平(4年)、木戸幸一(5年)である。鈴木貫太郎、斉藤実は二・二六事件で、それぞれ重傷、死亡し、藤田尚徳は終戦により、職を解かれたが、内大臣と侍従長の在任期間は概して長い。珍田は在職期間こそ2年間と短いが、大正10年の皇太子欧州訪問の責任者、帰国後にそのまま東宮大夫になり、即位に伴い侍従長となったので、皇太子時代も含めると昭和天皇に仕えたのは7年間くらいとなる。

 こうした在任期間の長さにより、昭和天皇と最も接点のある人物が侍従長であり、内大臣であったので、二・二六事件でも斉藤実、鈴木貫太郎、牧野伸顕らが襲撃対象になっている。侍従武官は陸軍から出向するため、侍従長については鈴木以降バランスをとり海軍から出ることになり、鈴木、百武、藤田はいずれも海軍大将であった。さらにいうと、この三人はすべて東京の攻玉社の卒業生であり、鈴木、百武は藤田尚徳の父、攻玉社の藤田潜の教え子であった。珍田と鈴木は11歳違い、鈴木と百武は4歳、百武と藤田は8歳違いであり、侍従長になった年齢は、珍田が71歳、鈴木は61歳、百武は64歳、藤田は64歳と、いずれも当時としては老齢であった。

 昭和天皇は、その生涯、決して変わらなかった政治姿勢の一つとして、米英協調主義がある。日本の外交方針として様々な選択があるが、昭和になると陸軍を中心として、ソビエトと敵対し、さらに勢いのあるナチ、ドイツとの連携を深めようとする動きが活発となる。ドイツとの軍事同盟はイギリス、さらにはアメリカと敵対することにつながり、昭和天皇は最後までこうした方向性に抵抗を示した。天皇側近でもアメリカ留学経験ある珍田捨巳と牧野伸顕は、こうした英米協調の強い支持者であり、欧米あるいは国際連盟を中心とした世界を常に考え、天皇に進言した。もともと昭和天皇は若い日の欧米視察で、とりわけ英国王室に強い感銘を受けたので、珍田や牧野の考えに同調した。珍田、牧野は、昭和天皇に対して強い尊王の姿勢を示しつつ、年長者として厳しい態度で接した。珍田は病のため、職半ばで侍従長をやめたが、後継者として高潔な人格の鈴木貫太郎を次の侍従長として推薦した。鈴木の妻、たかが、昭和天皇の子供時代、十年間、養育係をしていたことも関連があったのだろう。鈴木と牧野のコンビは1929年から1935年までの6年間、陸軍の暴走を止めようと紛争するが、牧野は持病のため、鈴木は襲撃により辞職する。

 今、「木戸幸一 内大臣の太平洋戦争」(川田稔著、文藝春秋)を読んでいるが、どうもこの人物は昔から嫌いで、昭和天皇も事務的な能力は評価していたようだが、人物的には陸軍同調、三国同盟支持者としてあまり好きでなかったように思える。明治天皇もそうだが、昭和天皇も実直な人物を好きなようで、内大臣より接触の多い侍従長では、地方出身者を好む。珍田は弘前、鈴木は野田(生まれは堺市)、百武は佐賀の生まれで、藤田は東京生まれであるが、気持ちは父母の故郷、弘前に近い。昭和天皇は戦後、三女、和子を百武に1年間、花嫁修行に出すほど人格的に信頼しており、在任期間の短い藤田についてははっきりしないが、珍田、鈴木に対しても他の官僚に比べてはっきりと愛情を持っている。
 
 最後の弘前藩藩主、津軽承昭の娘、津軽理喜子は、牧野の推薦で昭和天皇の皇太子時代の女官として務め、また理喜子の妹の寛子は徳川義恕に嫁ぎ。その長男の義寛は戦後、侍従長になり、昭和天皇の最後を見取り、次女、祥子は女官長、皇太后宮女官長として香淳皇后の崩御まで仕えた。こうしたことも含めて皇室と弘前の関係は深く、今はどうだろうか、市内の高校には皇室女官の推薦枠があった。津軽の女性が皇室で歓迎されていたのだろう。