2020年1月15日水曜日

高校サッカー 青森山田VS 静岡学園



 青森山田と静岡学園の高校サッカーの試合は、面白かった。二点取った段階で青森山田の勝利を信じたが、やや青森山田が守りの姿勢になったのが敗戦の原因であろう。準々決勝、準決勝とも同じように追いつかれ何とか守りきったことを考えると、チームとして少し反省が足りなかった。

 青森山田高校のGKの佐藤選手は少し背が低いが、高校生としては傑出したGKであるが、どうも決勝戦ではGKとしても守りの姿勢に入ったのが悔やまれる。GKは自分がミスすると点が入って負けるという大きなリスクを負うために、なかなか攻撃的にはできないものである。それでも決勝点になった三点目は、明らかにGKの勇気が欠けるものであり、あれは前に飛び出しパンチングで逃げるべきであった。逆に静岡学園の二点目の失点は、GKが前に飛び出し、相手の足に触れたことからPKとなったが、攻撃的な守備であった。もっとボールを見て後一歩早めに飛び込めばよかったが。

 問題は、青森山田高校の一点目と二点目 の失点でどちらも50cmくらいGKのポジショニングが違っている。一点目は左に、二点目は右に寄りすぎている。一点目は5:29あたり、二点目は7:39あたりです。適切なポジションであれば、このGKのセイビイング技術であれば、どちらも止められた可能性がある。世界の優秀なGKであれば確実に止められていたであろう。

 昔はゴールライン、ゴールポストの真ん中から左右のペナルティーエリアの角と真ん中に線を引き、それを基準にゴールを守った。もちろん土のグランドを前提にして足で線を書いたが、今のようの芝生のグランドではそうしたこともできない。GKによっては芝生に書かれた白線をわざと足で50cmくらい線を引く人もいるが、今ではラインや球場の目印を参考にしてポジションを決める。もちろん自分の高校やメインのグランドでは、ゴールの真ん中と自分のポジショニングは分かっているが、あまり経験にない球技場ではこうした位置決めが難しいのだろう。

 青森山田高校のGKもこうしたポジショニングが少しずれた可能性がある。よくGKが絶好調で、当たるということがあるが、その場合はボールに対する瞬発力がいいだけでなく、こうしたポジショニングが良かったのだろう。日本では横のポジショニンが優れているGKは川島永嗣選手と楢崎正剛選手、前後的なポジションニングがうまいのは川口能活選手である。世界的には何と言ってもソ連のヤシン選手が前後、横とも抜群にポジションニングがうまい。こうしたGKは相手のFWからすればゴールの範囲が非常に狭くなり、なかなか点が取れないような錯覚を起こす。多くの名GKはこうしたポジショニングがうまい。

 数十年前のサッカーではGKもゴールエリア内の横方向のポジショニングだけを求められたが、現在サッカーはGKの守備範囲はゴールエリアの越えた範囲となっており、より複雑なポジショニング技術が求められる。ゴール裏に固定式のカメラを使ってポジショニングを確認したり、さらにはドロンによる上からの撮影も、こうしたポジショニング確認のツールとなる。ワールドクラスのGKでも横に早い攻撃ではついていけず、ポジショニングが狂うこともあり、GKコーチは新しい競技場では試合前に念入りに確認が必要であろう。

2020年1月12日日曜日

菱川やす 写真館 木脇その

菱川やす 10歳

ミニー ヨコハマの女性宣教師メアリー・P・ブラインとグランドママの手紙(安部純子著より引用、2000年、EXP)

ミニー 同上より引用

メアリー 同上より引用

 2019.3.2のブログ“菱川やす4”でInterserve USAが保管する“菱川やす 10歳”の写真を提示した。椅子に腰掛け、片方の草履が脱げても気にせず、前をしっかり向いた気の強そうな女の子が写った写真で、1872年頃のものと思われる。人物の右にある丸机に広げられた花柄のカバーは撮影された写真館を同定する有力な証拠と思われ、明治5年の日本での写真を調べているが、一致する作品はなく、いまだに撮影された写真館がわからない。

 明治初期の写真、それもじっと座っていられない子供を撮影した写真にしては、ピントも綺麗に入って、いい写真である。かなり技術力の高い写真家が撮ったものと思われる。菱川やすは明治5年(1872)に横浜にできたアメリカミッションホームの最初の学生の一人で、出身は名古屋とされている。写真が撮られたとなると、入学後に横浜で撮られた可能性が高い。横浜といえば、日本写真草創期の写真家である下岡蓮杖がまず思い起こさせる。下岡は幕末に写真術を学び、文久二年(1862)に横浜で写真館を開業する。そして明治15年に浅草に転居するまで横浜で写真館を営んでいた。下岡の弟子、鈴木眞一が横浜で開業するのが明治6年、白井秀三郎も同じ頃なので、明治5年にはまだこれら弟子の写真館はない。これらから考えると明治5年の菱川やすの写真は、下岡蓮杖の写真館で撮られた可能性が高いが、それでも下岡のスタジオには最初述べたような花柄のカバーをしている丸い机はない。

 安部純子著“ヨコハマの女性宣教師 メアリー・P・プラインと「グランドママの手紙」”(EXP2000)を読むと、同じような写真が3枚見つかった。いずれもアメリカンミッションホーム(横浜共立学園の前身)の生徒を写したものだが、一枚は菱川やすと全く同じ構図で写真の右には花柄のカバーで覆った丸い机があり、その横に短髪の少女が立っている。キャプションにはミニー Minnie King”とある。明らかな白人ではないが、明治初期の日本人女子でここまで短髪の少女がおらず、アメリカンミッションスクールの開設目的、混血児の教育という点から、この少女も混血児であるのかもしれない。2枚目の写真は“小さいミニー Minnie Harvey”となっており、背もたれが丸い椅子の横に白人の幼女が和服を着て、指をくわえて写っている。かなり小さく4、5歳くらいであろうか。3枚目の写真は、これも菱川やすの写真と同じスタジオで撮られたもので、テーブルの上には果物とカゴ、そして洋書が載っている。菱川よりは年長、1314歳頃の少女が写っており、”メアリー Mary Reed“となっている。混血児ではない。この3つの写真が同時期、同じ場所で撮影されたとなると、2番目の写真の背もたれが丸い椅子も写真スタジオを同定する参考になる。

 手元にある「150年前の幕末・明示初期日本」を見ると。オーストラリア人、ブルガーが集めた下岡蓮杖写真館コレクションが載っているが、そこには2番目の写真に使われたと思われる背もたれが丸い椅子が写っている。おそらく2番目の白人の少女写真は下岡蓮杖のスタジオで撮られたのであろう。そうすると残り2枚の写真も同じ写真館で撮影されたのだろう。下岡蓮杖のスタジオは、床が絨毯のものとゴザ張りのものがあるが、ゴザ張りのものが近い感じがする。また丸い机にかけた花柄の覆いは似たようなものがあるが、はっきりしない。時代は明治5年前後のコレクションが多く、ミッションホームの写真と時代は一致する。

下岡蓮杖は、病弱であった妻を治療してくれた医師のジェームス・ヘボンを通じて、宣教師のバラやブラウンなどと交流があり、ブラウンの家の隣にあったアメリカミッションホームについてもよく知っていたのであろう。実際、下岡自身も明治6年にはバラにより設立された横浜海岸教会で息子と一緒に洗礼を受けている。明治初期、写真はかなり高価であったが、こうした下岡の教会活動への理解があり、おそらく無料で撮影したとすれば、こうしたホームの子供達の写真があることに合点がいく。

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 安部純子著の本には(P87)には、1873516日のブラインの手紙に「(バザーの)売り子は、ミニー、ソノ、ファニーとアンだったり、次にはサケ、ベッシー、メアリー、ハンナとナイナ、それからジュリーとイーロ、カイとハル、あるいはマーベルとマミー、そしてキク、マギー、ヤス、スィエというような順番を勤めました」の記載がある。ミニー、マリーは写真の人物だろう。ソノは木脇その、サケはおそらく水上せき(Sake)、ハルは北川はる、ヤスは菱川やすのことである。カイ、キク、スィエ(スエ)は日本人らしいが、苗字はわからない。菱川やすは1973年、明治65月にはすでに混血児の子供たちと一緒に共立女学校にいたことがわかる。木脇そのについてはほとんど無名であるが、安部さんの本には詳しく記載されているので引用する。

「2週間ほど前に、おそのは母親に会いに出かけました。おそのの父親は裕福な貴族でしたが、後に財産を失ってしまいました。しかし、ここではそのようなことで、人の性格や地位を変えることはありませんから、父親は以前と変わりなく尊敬されていました。台湾と戦争が始まった時、父親は陸軍の高官として台湾へ出征しましたが、二、三週間後に熱病に罹り、現地でなくなってしまいました。かわいそうに、残された母親は独りで家計を支えることが難しくなっていました。おそのが帰宅した時、西郷将軍から使いが来て、おそのと母親は西郷邸を訪れました。将軍は台湾遠征軍の指揮官で、おそのの父親とは親しい友人でした。将軍は、おそのに色々質問をして、どのくらい勉強しているか試しました。おのそが本を読み、歌を歌うのを聞いて、将軍はたいそうご満悦の様子で、おそののように英語をきれいに発音する日本人は知らないとおっしゃいました。その上、おそのが先生となる時には、薩摩で一番立派な女学校を任せようと約束してくださいました。 略 おそのが私たちのホームに来たのは二年半前にことでした。片言の英語も知りませんでした。母国語さえも、ほんの子供の会話程度のものでした。現在、11歳を少し過ぎたばかりですが、勉強では、アメリカの学校の同年代の子どもより遥かに勝っています。朝の英語のお祈りを読むのも、同室の誰よりも流暢です。」(1875.1.18のグランドママの手紙)

「きのわきそのさんは、おませで、愛嬌があり、可愛らしく、目立った少女でした。父親は西郷将軍の大変親しい友人で将軍のもとで郷士のために尽くしました。おそのさんが私たちのところにきたのは8歳の時でした。それから生徒として、先生として、特別な助手として24年間もここにおりました。」

「木脇そのの卒業年は1882(明治十五年)である。WUMSにはこの年の卒業について詳しい報告がある。式は531日に挙行されJH・バラが祝辞を述べた。卒業試験は東京、横浜から集まった大勢の来賓の前ですべて英語でなされたが、木脇そのの作文は文章、内容ともに素晴らしく賞を受けた。」

 台湾出兵で亡くなった鹿児島県出身の木脇姓は、木脇菅次で明治71018日に長崎で病死している。部隊名としては不詳 都督府出仕となっている。近衛都督の軍人として台湾出兵し、そこで熱病に罹り亡くなったのであろう。島津家の古い家臣、木脇家に連なる人物であろう。

* 故、安部純子さんのご本から無許可で写真を使用させていただきました。安部さんの素晴らしい著書を多くの方に知っていただければと思います。なおミッションホームの写真は、Archives of the Billy Graham Center, Wheaton, Illinois の所蔵、提供とのことです。


2020年1月10日金曜日

お金持ちのための弘前旅行 2

二唐刃物

ルイヴィトンのBORO

弘前大学裏にある空き地 桜が綺麗

2)料理
 イタリア料理であれば“サスィーノ”、フランス料理であれば“山崎”などが候補となる。いずれも特別料理にし、ワインも最高級のものにすれば、かなり高い価格を提示することができよう。また日本料理であれば“すずめのお宿”で、深浦のマグロやズワイガニ、天然物のホタテなど地元の高級食材を使った料理もいいだろう。サスィーノとすずめのお宿の料理は、豪華寝台列車“四季島でも提供されている。津軽は、魚などの自然の幸に恵まれ、良質の食材が手に入る。ただそれを十分に生かされているかと言うとまだまだであり、ミシェランガイドのレストラン部門は仙台だけだが、二つ星は仙台の寿司屋、結委のみで、他は全て一つ星である。青森県まで拡大されたとしても、弘前では上記のレストランが何とか一つ星を取れるかどうかだろう。特に弘前では、夕食に1万円を超えるものを食べることはまずあり得ないところであり、せいぜい酒も含めて5000円以下が普通である。良質な材料を使い、最高のサービスを持つレストランを作っても利用者がごく限られており、商売としてやっていくのは難しい。東京のような数万円の食事代がかかっても、それなりの客がいるところと違い、弘前ではせいぜいディナーで5000-8000円の価格設定でないといけない条件下で、ミシュランの星を取るのはいかに優秀な料理人でも難しい。こういうところで世界中のお金持ちが満足するような料理を提供するのはかなり厳しい。特に中国人についていえば、彼らは高い価格=いいものという考えが徹底しているため、金持ちになれば安い料理は食べない。世界中でよくやっている地元民価格と観光客価格を別にするのも一つの方法かもしれない。

3)お土産
 観光地に行ったら、お土産も買いたい。弘前と言えばまずリンゴがお土産の筆頭として考えられるが、検疫の関係で、生のリンゴを持ち帰ることはできない。となるとリンゴの加工品としてお菓子、ジュースやお酒がある。例えばイタリア料理店のサスィーノが作ったアポーワインがあるが、これでも2500円で、映画で有名になった木村さんの奇跡のリンゴで作ったジャムも1500円くらいで高いものはない。日本酒で言えば、最近、地元で有名な豊盃で20年古酒、“大吟醸津軽の時間”を販売したが、これは500ml13200円でめちゃくちゃ高く、これこそお金持ち向けのお土産になる。さらに青森県の最高の贅沢品と言えば、青森県陸奥湾産、高級干しなまこは世界最高と言われていて値段も高いが、そもそも地元でも売っていない。また乾燥ホタテもサイズが大きくなれば高いが、お土産店には並んでいない。どちらも中華料理によく使う食材であり、中国のお金持ちには好まれる。弘前の北、十三湖で取れるしじみを使ったしじみ本舗の大和蜆純粋エキス肝助やペーストも高いが、健康志向のある中国人には売れるだろう。

 他に高いお土産と言えば、まず津軽塗がある。座卓となると百万円以上のものもあり、作家の展覧会用に作ったものであれば、小さなものでも数十万円する。現代アーティストの奈良美智と津軽塗のコラボ作品があれば、2-30cmくらいの小さな人形でも、数百万円以上の価格はつきそうである。あとは二唐刃物で作っている暗紋シリーズのナイフ、包丁は、かなり高いが、そのデザインと切れ味を示せば、お金持ちには売れそうである。ただ全品を扱うようなお店が一軒もないのは残念である。

 さらに衣料では、まず麻の布に保温のために綿糸で縫った“津軽こぎん刺し”がある。百年以上前のコンデションの良い名品であれば、残存数が少ないので、かなり高価で取引されよう。これもこうした古いこぎん刺しを専門に扱う店がない。同様にボロと呼ばれるパッチワーク式の古着が世界中で注目されているが、それを何らかの形で昇華して製品化されていない。イランのミーリー社はペルシャ絨毯の逸品を自然染色の糸から作って復元して販売しているが、ボロの逸品をジャケットやジーンズなどに復元、応用して高く売る方法もあろう。あるいはルイヴィトンなどとコラボして地域限定バック、衣装などを作れば高級土産となる。嘘のような話であるが、中古のルイヴィトンのBOROパッチワーク半袖シャツは500000円、短パンは350000円くらいで売られている。また岡山のジーンズメーカーのKAPITALBOROビーチベストを83000円くらいで売っているが、BOROの本家である弘前ではこうした商品はない。

4)観光
 弘前観光の目玉といえば、これは桜である。豪華に咲き誇る桜は日本一である。ただこのシーズン中の旅館、ホテルは早い段階でおさえられているし、もう一つも問題点は満開の時期がはっきりしないことである。例年、半年くらい前から開花、満開予想が出るが、かなり不正確であり、2週間前くらいにならないと満開日は決定しない。満開でベストの時期は23日しかないので、それに合わせるのは大変である。逆に言えば、金持ちの旅行では、こうした満開日に合わせた日程が取られる。早めにいい旅館、ホテルをおさえるのもいいのだが、こうした必要がない豪華客船による旅行が勧められる。それも大型の豪華客船ではなく、豪華ヨットを利用したものがお金持ちの旅である。昨年だったがロシアの大富豪が持つスーパーヨットAが青森湾に停泊していたが、こうしたスーパーヨットを拠点に桜を楽しむ旅が究極であろう。さらには桜の時期に岩木山の頂上までヘリコプターで行き、そこからスキーで滑走する春山スキーも贅沢であるが、これは許可されないだろう。確か以前は雪上車であれば使えたが、自然環境保護からダメになったはずである。夏のネプタについては会期が決まっているので、宿泊先さえ決めておけば問題ない。特別感を出すならねぷた自体に参加することである。ねぷたを引っ張るのは誰でも参加できるが、台の上に乗るのは特別である。ただしかなり怖い。運行団体に寄付金を多く出せば全く問題ない。また桟敷席についても駅前に有料観覧席があり、一人、2000円だが、これも金さえ出せば優雅な桟敷席にすることはできよう。市内観光には、アルファードのようなハイヤーなどを貸切りにし、弘前大学の留学生などに母国語でガイドするようにしてもらう。

 またナイトセッションとしてはやはり津軽民謡で、津軽三味線奏者、名人渋谷和生さんや手踊りの綺麗どころ、民謡歌手などを宴会場に呼び、演じてもらえば最高な津軽の夜である。



2020年1月9日木曜日

お金持ちのための弘前旅行 1


最高級キャンビングカー

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 以前、このブログでは金のかからない弘前旅行について書いた。それでは今度はお金持ち、特に外国から来るお金持ち観光客のために弘前旅行について考えてみた。

 昔、アメリカのモルガン・スタンレー家の人が、夫婦で青森県平川市にあるアップルランドに来たことがある。何でも会社のブレーンの一人が平川の出身であったことから、ここを提案したようだ。羽田空港までは自家用ジェット、そこからは完全のお忍びで、通常の羽田—青森空港路線を使って青森に来て、アップルランドに泊まった。一番良い部屋といっても二食付きで10000円くらいで、大した部屋はないし、特別な食事を出したわけでもない。奥さんはアメリカの元上院議員、資産数兆円のこの夫婦にとっては、経験したこともないほどチープな宿であったが、どうしたことか非常に気に入り、その後ももう一度、来たようだ。彼らにとっては、最高の贅沢の延長にほぼ最低の贅沢につながった。贅沢になれた彼らにすれば、こうした庶民的な宿は目新しかったのだろう。モルガンさんと呼ばれた彼らがその後、アップルランドを訪れたかはわからないが、超金持ちにはこうした側面がある。ただ今回はこうした特殊なケースではなく、例えば中国のお金持ちで金にはリミットがないような場合を想定する。

1.     宿
 弘前市で一番高い宿は、駅前のアートシティーホテルのジュニアスイートで朝食付きで一人15000円くらいで、これでは安すぎる。周辺も含めると大鰐の界 津軽星野リゾートのこぎんの間が二食つきで一人42000円くらいになる。また弘前市郊外の小沢にある洋風屋敷、アグリインホリデーも食事なしで一人2万円くらいである。いずれも大金持ちの人々にとっては、それほどトキメキも持たないであろう。むしろわざわざ弘前に来て高い料金を払って泊まるとなると、ここでしか味わえない、特別な宿が求められる。一つは藤田記念庭園の和館がある。かなり広い館で、そこからの庭園の眺めは最高である。ただ宿泊用に整備されていないので、風呂はなく、冷暖房も心配である。同様に藤田庭園の洋館も二階にベットを持っていけば宿泊は可能ではあるが、風呂もなく、金持ちが泊まるようなところではない。十和田湖であれば、昭和天皇も宿泊した十和田ホテルやさらにはこうした金持ち層もターゲットにしている星野リゾートの奥入瀬渓流ホテルの特別室などがあり、いずれも一泊3万円くらいで、景色も雄大で良いのだが、弘前の宿には該当しない。

 結論としては、弘前には海外からの金持ちが泊まる宿はないということである。最初に述べたモルガン家の人は別格として、こうした海外からの金持ちが泊まる最高級の宿となると、おそらく京都の俵屋旅館のような日本旅館で最高のサービスが受けられるところとなろう。以前、泊まったことのある倉敷市にも景観地区にこうした高級日本旅館があったが、弘前には明治12年にできた石場旅館にしろ高級旅館はない。天守閣のお城に泊まれるようなところも現れたと聞くが、弘前城の天守閣は無理である。むしろ世界最高級のキャンピングカーを本丸に持っていき、そこを貸し切りにして泊まるのであれば、可能であろう。桜祭りの期間、本丸の開園時間は7:00-21:00なので21:00-7:00まで個人の貸し切りにしてキャンピングカーとテントで、かなり高級な宿泊施設を本丸に作ることは可能である。これは贅沢である。この応用として贅沢なシャワー室とトイレのみがあるキャンピングカーがあれば、仲町の武家屋敷、先に述べた藤田庭園の洋館、和館などにも宿泊は可能である。あとは今年にはリニューアルされる弘前偕行社も宿泊候補に挙げられる。結婚式やパーティーの会場であるが、何とか宿泊はできるかもしれない。明治の洋館の雰囲気を味わえる。リニューアルされているので、冷暖房は問題ないし、トイレもOK、ないのはベッドと風呂(シャワー)くらいか。料理は、イタリア料理店のサスィーノなどからデリバリーサービスもできるかもしれない。
 
 今月号の家庭画報に“家庭画報の旅”として「東北随一の史跡と桜を巡る」があった。東京から新幹線を使い、角館の旅館“角館山荘 侘桜”と先に述べた“界 星野リゾート 津軽”に泊まる3日間コースで、費用は238000円と268000円。帰りのみグリーン車仕様にしては高いが、申し込まれる方はいるのであろう。

2020年1月5日日曜日

今日出海展 直木賞受賞から70年



 青森県近代文学館で、昨年末より“今日出海展—直木賞受賞から70年—”が開催されていたので、行って来た。というのは、この展示会では、私の書いた“明治二年弘前絵図”と“慧相 「今東光と津軽の人たち」”の二点が参考文献として展示されていると知ったからである。今日出海さんについて、ブログでは少し触れたぐらいで直接記述したことはないが、兄である今東光との兼ね合いで展示されたようだ。

 著作権の関係もあり、展示会での写真撮影は禁止されていたが、著者が撮影しているので、黙って撮影してきた。申し訳ありません。会場の最初のコーナーで展示されており、今日出海の父、武平の生まれたのは弘前市山下町であるが、“明治二年弘前絵図”のこの部分のページと、“今東光と津軽の人たち”の家族の写真のページが載っていた。ただ慧相には今家の詳しい系図が載っているので、それも含めて父、武平、母、あやのことなどももう少し説明が欲しかった。この展示会で面白かったのは、今東光、日出海兄弟は、父母ともに家では津軽弁を使わなかったので、標準語が家族の会話であったという点である。武平、あやとも生粋の津軽人であり、武平は函館の商船学校で学び、外国航路に勤めていたこと、転勤も多かったこと、あやも函館の遺愛女学校を卒業したとしても、家庭で津軽弁を話さないのはおかしい。一方、あやはお手伝いさんを必ず津軽から呼び、その人との会話から日常的にも津軽弁を使うようになり、今兄弟もおそらく津軽からの今家への来訪者の会話を聞きながら、津軽弁、特に聞く能力を高めていったのだろう。展示では、文藝春秋の関係者を弘前市役所に連れて行き、市長の津軽弁を日出海が通訳したというエピソードを載せている。ただ日出海が文化庁長官になった後も、津軽から来たと受付に言うと、直接、長官室に連れて行かれとくらい、津軽を愛していたようだ。今兄弟も、夏休みになると弘前に帰省し、母親の親戚筋に当たる伊東家にはしばしば行っている。

 今東光、日出海兄弟は、結果的には二人とも小説家になったが、その履歴は対照的である。今東光は、関西学院中等部の三年生で早くも女性問題で退学となり、その後、兵庫県立豊岡中学校に転校するもここでも女性問題で退学となり、以後は独学である。それ故、最終学歴は小学校卒業となる。一方、日出海は神戸一中から東京、暁星中学を四年修了で卒業して、旧制浦和高校、そして東京帝国大学フランス文学部を卒業する。その後、おそらくは母親の希望で、法科に入り直すが、そこは退学し、少しずつ演劇、文学の方向に進んでいく。最初の著書「大いなる薔薇」が出版されたのが1940年であるので、兄、今東光の文壇デビューが1925年だから大分遅い。今兄弟が実際、仲が良かったかはわからないが、母親のあやからすれば、長男の東光は、問題児であり、悩みの種であったが、逆に日出海は自慢の息子だったのだろう。ゆくゆくは大学の教授か、外交官になって欲しかったのだろうが、それが悪たれの兄と同じ、小説家になった時はさぞかし落胆しただろう。一方、悪たれの兄、東光が僧侶になったのは、母からすれば、意外であったろう。最終的には今東光は中尊寺貫主、参議院議員となり、また日出海も文化庁初代長官となり、兄弟とも母親の願いにかなった。今綾は函館、遺愛女学校の4回生で、学校生活を通じてキリスト教に傾倒し、信者にはならなかったが、生涯、聖書を離さなかった。日出海はキリスト教徒となったが、東光は天台宗の坊主と、これも母親に逆らっている。ただあやにとって最も愛したのは、何でも自分に反抗する悪がきの東光であったような気がする。弟の日出海にすれば、その愛を少しでも自分に向かせようと、エリートコースを歩んだのだろうし、また兄、東光の破天荒な生き方にも憧れがあっただろう。

 今回、現代文学館で今日出海を取り上げ、その企画展をしてくれたことはありがたいが、アマゾンで検索すると今日出海の本は全て絶版で、古書店以外の通常の本屋では売っていない。悲しいことでが、今の若い人にとっては、今日出海は忘れられた作家なのだろう。私自身、これまで読んだ作品は“私の人物案内”、“隻眼法楽帖”、“天皇の帽子”などを読んだが、これを機会に他の作品を読むことにしよう。

2020年1月3日金曜日

西山翠嶂と根本雪蓬の贋作

西山翠嶂の贋作

根本雪蓬の贋作
翠嶂の贋作 拡大


雪蓬の贋作 拡大
 京都画壇を代表する文化勲章受章者、西山翠嶂の掛け軸については以前のブログにも書いた。オークションで購入した彼の作品は、かなり偽物の可能性が高いとしたが、今回、ほぼ同じ作品が根本雪蓬の作品としてオークションに出ていたので、偽物であることが確定した。

 軸装はほぼ同じ、構図、絵もほとんど同じである。ただ細かく見ていくとススキや全体の縮尺が異なる。おそらくはもともと偽物作りを企画して、一枚の絵を描き、それを手本に手書きでコピーして偽物を作ったものと思われる。本物そっくりに巧藝画と言うものがある。これは作家の了解を得て、実際の作品を本物そっくりにコロタイプ多色印刷し、それに職人が手彩色して、作成したものである。複製画として楽しむのであるので、それはそれで問題ないのだが、本作品は同じ構図の絵を手書きでコピーし、それに署名、落款、そして箱を作ったのである。これでは巧藝画でなく、贋作である。

 私も当初、印刷物を考えたが、画をよく見ると明らかな塗料の厚みがあるため、肉筆と判断した。ただ秋草の色が少し派手で違和感を持った。また西山翠嶂の署名や印もかなり研究しており、今回の根本雪蓬も同様である。同じ作品を多く出すとすぐに偽物と断定されるため、画風の近い作家の署名や印、さらには箱書きも含めて作ったのだろう。箱も二重箱になっており、かなり手が込んだ贋作で、少し骨董好きな客を騙そうとしたのであろう。手元に2018年に発行された“西山翠嶂 知られざる京都画壇の巨匠”(海の見える社美術館)がある。この本を見ると翠嶂の絵自体はもう少し精緻であるが、それでも商売用の作品としては、この秋草之図のような絵を描いても不思議ではない。

 こうした贋作づくりの前提には、贋作を高く売って儲ける必要がでる。今回の絵にしても、まず誰かそこそこの日本画家に京風の雅な秋の情景を描いた下絵を書かせる必要があり、この絵の場合は、ススキの綺麗な線を描くのは技術がいる。これらの費用もかかる。さらにこの作品では西山翠翔と根本雪蓬の署名と印が入っているが、資料を集め、それを真似する必要がある。今のようなインターネットのない時代ではこれも大変である。こうした費用をかけて上、どの程度の製作したとかなると数部ぐらいではなかろうか。

 日本画、それも掛け軸の偽物は非常に多く、円山応挙や谷文晁の絵の本物は100に一つくらいで、ほとんどは偽物である。一方、あまり有名でない作者の場合は、そもそも本物でも高くないので、その偽物を作る意味は少ない。ただこの絵、秋草之図あるいは武蔵野之図はまず2019613日に出品し、35800円で落札され、その後、2019627日に出品し、27060円で落札された。そして20191222日に8000円スタートで始まったが、落札されず出品中である。そして西山翠嶂の名にした絵が出品されたのが2019年の7月頃なので、同時期に相次いでヤフオクに出品されたことになる。表装のコンデションなどから製作されて数十年は経っていると思われ、昭和にある時期、全国の骨董好きの金持ち相手に、同様な手口でこの絵を売ったのであろう。おそらく数十万円以上の価格で売りさばき、今でも騙されたと思っていない人がいるかもしれない。その一部がようやくネットに出てきたのだろう。現在では、こうした贋作情報もネットで出てくるために、費用をかけて贋作を作っても、なかなか価格がつかず、商売的には厳しい。これから贋作が多そうなのは、奈良美智や草間彌生などの現代絵画であるが、はっきり言ってこれらの作品はヤフオクにでることはなく、出ればほぼ100%偽物となる。


2020年1月2日木曜日

ミステリーランチ ASAPとアーバンアサルト

左:アーバンアサルト 右: ASAP




 ミステリーランチのブーティーバッグは大変使いやすいバッグで、毎日、弁当箱、サーモス山用水筒(500ml)にそば茶、モンテルの折り畳み傘、そしてミステリーランチのフラットバッグには手帳、メガネケース、ペンシルケースなどが入っている。時には本やIpadなども入れるが、かなりたくさん入る上、出し入れも簡単なので、ここ3ヶ月くらいは、ほぼ毎日使っている。色はもっともミリタリーぽいマルチカムで、よく軍事オタクと間違えられるが、実際それに近い。毎日、同じバッグもあきてくるため、もう一つ、同じようなリュックサックを購入しようと思っていたところ、前から気になっていたミステリーランチのアーバンアサルトが9000円くらいで手に入る。それもマルチカムである。さらに何か分からないが、くじ引きでクーポンに当たり、税込み8925円で購入できた。定価が17500円だからほぼ半額で手に入った。

 数年前にミステリーランチASAP(フィリッピン製)を3万円くらいで購入した。これはいかにも軍用で大きさの割には重くて、ごつい。ただ作りが半端でなく、まさしくヘビーデューティと言えるもので、例えば、銃弾や銃などを入れても全く問題ないように頑丈にできている。また独特の調整式のショルダーシステムを装備しているために、個人ごとにフイッティングできる。ただ街用に使うのはあまりにゴツくて、それをタウンユーザー向けに作ったのがアーバンアサルトである。大きさもほぼ同じ21Lで、またASAPの重量が1.4kgに対してアーバンアサルトは1.3kgで重さはあまり変わらない。

 昨日、注文していた商品が届いた。まず第一印象は、ASAPとアーバンアサルトは全く別物であるということだ。写真で見れば、差は表面に多数のMOLLEウェッピングが有無しくらいであるが、実際は全てが違う。まず生地自体が全然違い、ASAPの方がよほど丈夫である。またショルダーの作りや内部の作りも全く違っており、端的に言えば、アーバンアサルトはかなりちゃっちい感じがする。ちょっとがっかりした。ミステリーランチといえば軍用で頑丈というイメージがあるが、アーバンアサルトは普通のリュックである。ブーティバッグについては、元からそんなものと期待していなかったが、アーバンアサルトはもう少しミリタリー感があると思っていた。ただ、中のコンパートメントには13インチのairMacも入り、これには驚いた。ASAP10インチのIpadを入れるのにかなり手こずったからだ。

 現在、ASAPはフィリッピン製でなく、アメリカ製しかなく、価格も65000円とばかみたいに高い。流石に17500円のアーバンアサルトと65000円のASAPは値段がこれだけ違えば、品質も違うといえよう。マルチカモといえば、以前買ったインベーダーというショルダーバッグも、いかにもミステリーランチらしく、とてもメッセンジャバッグとは思われないほどゴツく、気に入っているが、それでも確かに日常使いにはASAP同様に使いにくい。心情的にはミリターリオタクの私としては、ゴツくヘビーディーティのものに惹かれるが、いざ日常的に使うとなると、戦争に行くのではないので、アーバンアサルトやブーティーバッグが重宝するのだろう。矛盾している。実売価格が1万円くらいであれば、ミステリーランチのアーバンアサルトはかなりいいバッグと思う。