2020年9月27日日曜日

山用製品のおすすめ

パタゴニア R2

モンペル 折り畳み傘

サーモスの山用水筒とスノーピークのチタンカップ


 ロータリークラブを辞めてから、ほぼスーツを着ることもないし、さらにいえば、シャツさえも着ない。それで何を着ているかというと、春は、パタゴニアのR1, キャプリーン・ミッドウエイト、サーマルウエイトなど山用のベースレイヤーに、暑さに合わせてモンペルのウインドブラストやゴアテックスのストームクルーザージャケットなどをはおり、パンツはLLビーンのドレスチノにしている。夏になると、上はポロシャツやT—シャツで、パンツはLLビーンのクレスタ・マウンテンパンツとなる。そして秋になるとパタゴニアのR2およびR3、パンツは再び、LLビーンのドレスチノとなり、冬になるとLLビーンのワーデンパーカなどのダウンジャケットをR2の上にはおり、下はLLビーンの裏地付き、ダブルエルチノパンツとなる。今年の冬は、春先に半額で買ったNANGAのマウンテンビレーコートという強力なものが加わる。こうしてみるとLLビーンを山用とするのはどうかと思うが、それでも年中、山用の衣類を着ている。他にも、ミステリーランチのリュックには、モンペルの折りたたみ傘とサーモスの山用水筒は必ず入っている。

 

 大学生の頃からヘビーデユーティーな服が好きで、ブーツ、ジーンズ、ワークシャツというコンビが好きであったが、歳をとるにつれ、見た目より機能を重んじるようになり、より動きやすく、楽なもの、より軽いもの、暖かい、涼しいものを求めるようになった。山用のものをこれらの要件を追求したものが多く、結果として山用の服を着ることが次第に多くなった。例えば、パタゴニアのR2は軽くて動きやすく、それでいて暖かく、ついでに防臭性もある。これに慣れるともういくら豪華なカシミアのセーターでも着られない。これはうちの母親もそうで、最近はほとんどセーターを着ることはなく、さらにいうと、前ジッパー式なので、着るのが容易である。また耐久性もすごく、古いR2は十年近く、秋、冬ほぼ毎日使ってもヘタレないし、毛玉も出来ない。羊毛のセーターでは無理である。さらに山用のものはほとんどアイロンが必要ないし、洗濯してもすぐに乾燥する。もちろんクリーニングなど必要ない。


 水筒は、Klean Kanteenの水筒を使っていたが、サーモスの山用水筒に比べると保温効果は雲泥の差がある。朝7時に入れたコーヒー、お茶は確実に4時頃までは保温できるのはすごい。どうしてサーモスはこの水筒をスポーツ店(登山コーナ)にしか置かないのか不思議である。またモンペルの折りたたみ傘については、これまでの使用履歴、ひどいのになると買ったその日に風により破折、を経験した上で、最強の傘と言える。リュックに入れてほぼ2年間、それこそ何十回使ったが、全く問題なく、流石に山で使うことを想定した折り畳み傘と驚く。軽くて、しかも強い。また壊れても修理してくれる。またモンペルのウインドブラストは、小雨や夏でも冷房の強い時など、バックに入れておけば、重宝するものだが、ただ収納袋が別にあるのでポケットが収納袋になるパタゴニアのフーディニジャケットの方がいいかもしれない。試着できれば、購入したい。ついでに言うと、スノーピークのチタンマグ雪峰は、ビール、焼酎、ウイスキーを飲むのに良い。チタンの二重構造で、保温、保冷効果もあり、それでいて熱が伝わりにくい。軽いのでサーモスの山用水筒と一緒に使っている。

 

 いろんな衣類を買っておしゃれを楽しむのもいいだろう。ただ季節ごとに、決まった服を使いまわして着るのは、精神的にも非常に楽である。山用の衣類や製品には年配の方にとって機能的にも優れたものが多く、もっと積極的に活用したらどうだろうか。


 

2020年9月17日木曜日

弘前に住んで26年 津軽の特徴



 弘前に来て26年、尼崎にいたのが19年間、仙台は9年間、鹿児島は9年間いたので、弘前が一番、長く住んだところだし、おそらく死ぬまでここにいるだろう。確かに学校はこちらではないが、家内は弘前生まれで、その親戚、あるいは知人、友人もほとんどが弘前出身なので、周りはほぼ津軽衆に囲まれている。それでもいまだに驚くことがあるので、少し話したい。

 

1.     苗字の呼び捨て 敬語

 医者や学校の先生は、同僚同士でも“先生”と呼ばれるので、こうした呼び名に慣れており、それ以外の名字だけで呼ばれると、どうも違和感がある。もちろん、外に出れば先生とはつけないで“広瀬さん”と呼ばれることが多いし、これは普通のことである。ところが津軽では、どうも家では“ヒロセ”と呼ばれるようである。例えば“今日はヒロセの歯医者に行ってきた”、“ヒロセとこの受付は”などである。大阪では“広瀬先生のところに行っていた”あるいは“広瀬歯科の受付は”となるが、この“先生”、“歯科医院”が省略され、あたかも屋号のように“ヒロセ”と呼び捨てされる。学校の先生も同様である。津軽弁には敬語があり、昔は主として士族の言葉として、男女共、独特な敬語があったが、いつも間にか、そうしたサムライ言葉もなくなり、敬語=標準語と教育されてきた。家内の世代では高校で、綺麗な標準語、標準語の敬語を習う授業があったと言う。そのため、標準語が話せない場合は、敬語もできないことになり、郡部の患者さん、主としてその親、祖父に中には、歯科医院でも一切、敬語、丁寧語がない場合がある。最近では慣れたが、最初に“あんだあ(あなた)”と言われて時には驚いた。

 

2.     噂好き

 津軽の人は、何より噂、特に悪口が好きである。普段はおとなしいが、酒を飲んだり、長いドライブの車中で、人の悪口や噂話で盛り上げることが多い。不思議なことに人を褒めることはあまりなく、褒めている話がいつの間にか悪口となる。どうも褒めるのに抵抗があるようで、よその子供への悪口がその子の親に伝わって親同士がケンカになることもある。大阪ではよその子供の悪口が絶対に言うな、褒めておけば親は機嫌が良いとされ、京都人に至っては外で悪口を言っても何の得もない、いつも褒めろと言う。確かに人は褒められて怒る人はいないし、悪口を言われて喜ぶ人はいない。そうした意味では、外では誰に対しても悪口を言わず、褒めておいた方が無難であろう。

 

3.     墓参り好き

 鹿児島もそうであるが、津軽の人々も墓参りが好きで、春と秋のお彼岸と夏のお盆、これは必ず、行くし、それ以外にも月命日で行く人も多い。また自分の家だけでなく、親類や知人の墓も一緒に参る人もいて、お寺をハシゴすることがある。さらに老人だけではなく、子供、孫も一緒に行くことも多い。新寺町、禅林街の大きな寺を見ると、津軽の人々の信仰の深さが実感できる。また全国的には通夜は身内の人が、葬式は一般の人が集まる式であるが、津軽ではこれが逆になり、通夜が大掛かりとなる。また焼骨するのがものすごく早く、通夜の前に骨となり、通夜、葬式では骨袋に入った骨壷が置かれる。あと気になるのは、お坊さんがお経を読む時、鐘や太鼓を使い派手である。花篭も盛籠と言ってビールや食品が飾られ、パチンコ店の開業のようである。

 

4.     交通マナー、せっかち

 日頃、車に乗っておらず、どこに行くにも歩いて行くので、横断歩道に突っ込んでくる車には驚く。信号が青の横断歩道は、もちろん歩行者優先で、車は一時停止であるが、弘前市では多くの場合、徐行して停止することはなく、前の歩行者と次の歩行者との間に2mでも隙間があれば、右折、左折してくる。盛岡市、仙台市、あるいは尼崎市でも、横断歩道を渡る時、車はその数メートル前で一時停止するのが当たり前なので、軽くドライバーに会釈して渡るのが普通だが、ここ弘前では、自分の前後1mを車がすごいスピードで突っ切り、何度もはねられそうになった。ある友人は傘を持っている時は傘を前に出して車が突っ込むのを抑えると言っていたが、私も時たまする。ドライバーからすれば厄介な歩行者と思われるが、1m先の傘に急ブレーキをかけて止まり、罵声をあげるドライバーもいる。近くの郵便局も裏の駐車場が空いていても、近くに止めたいために平気で障害者用の駐車場に止める。普段はいい人が多いのだが、車に乗るとどうもせっかちになる人が多い。

 

5.     美人が多い

 津軽出身の芸能人は少ないが、うちに来る患者さんを見ても、美人が多いところだと思う。人を押しのけてまで前に出ようとしない性格のためか、芸能界などで活躍している津軽の女性は少ないが、街を歩いていてもハッとする美人がいる。この原因として、津軽では昔から度々飢饉が起こり、多くの人が亡くなったり、逃亡した。その後、再び各地から人が集まってきたが、ルートが二方面で、一つは裏日本の各地から水路、鯵ヶ沢、五所川原を介してのルートと、最も多いのは秋田から碇ヶ関を超えて来るルートであり、人種的には秋田県に近い。秋田県が美人の産地であるので、そこから来た人が多ければ津軽も美人が多い。

 

6. 偉人が多い

 “津軽人物グラフィティー”で書いたように津軽には極めて個性的な独創的な人物が多い。版画家の棟方志功、小説家の葛西善蔵、太宰治、愛生園の佐々木五三郎、奇跡のリンゴの木村秋則、スキーの三浦雄一、柔術の前田光世、現代絵画の奈良義智、ジャーナリストの陸羯南、冒険家の笹森儀助、考現学の今和次郎などなど、本当にたくさんいるし、共通項でまとめられるような性格がある。まず群れない、一人で活動し、周りから何を言われようと突き進む。チームとして活動するのは苦手で、大きな会社の創業者で津軽出身者は少ないし、金持ちではない。これは厳しい自然も関係するが、あまり枠にはまらない、非常識な人物が出るところであり、周囲もそれを助長し、面白がるところがある。実はバカにしているのだが。そうした強烈な個性がそのまま残され、いわゆる変人を生む風土となっている。ある韓国の歴史学者が“日本の歴史を見て、羨ましいのは多くの奇人がいることだ”と言っていたが、これは新しいこと、革新的なことは奇人変人から始まるというである。真面目な秀才型の人物は勉強で育つが、こうした変人は風土が生む。これだけ奇人変人の多いところは日本でも稀であり、そうした意味では1から4まで欠点を挙げてみたが、それを上回る津軽のすごいところであり、誇ってよい。中学生、高校生に奇人変人になれとは教育しにくいが、それでも自分の好きなことを、金にならなくても、人に認められなくとも、楽天的にやり抜くことは伝えてもよいだろう。



2020年9月13日日曜日

黒沢清監督 ベネチア映画祭、銀獅子賞受賞





 黒沢清監督が、念願のベネチア映画祭、監督賞である“銀獅子賞”を「スパイの妻」で受賞した。これまで何度も挑戦し、期待もされていたが、今回はあまり期待もされなかった作品が受賞したため、本人も含めて驚いた人も多いに違いない。作品についてはまだ日本で未公開のため、わからないが、予告編を見る限り、近作「散歩する侵略者」のような風変わりな、ある意味、黒沢監督的なものではなく、どちらかというと普通の作品のようで、それだけにかえって受賞が唐突な感じがした。

 黒沢清監督は、六甲学院の31期で、私の一期先輩である。そうしたこともあり、昔から作品の多くを見てきたが、娯楽映画としては正直にいえばあまり面白くない。一番、最近見た「旅のおわり世界のはじまり」も主演の前田敦子の歯がゆい行動、危険な海外にいるのになんとこの日本人女性は無防備なのかということばかり気になる映画であった。それでも見終わった半年以上経つが、結構シーンは覚えている。昔は同姓の黒澤明監督の影に隠れて、気の毒な点もあったが、1997年の「CURE」あたりから海外にも熱狂的なファンがいる映画監督となった。日本映画が全く人気なく、細々とポルノ映画でなんとか凌いでいた苦しい時期を体験した監督の一人であり、当時は、まともな映画がほとんど製作されず、苦しい時期であったのだろう。

 我々32期からすれば、31期は一年先輩で、特にサッカー部の先輩は、試合も一緒に出るし、もちろん練習も同じなので、親しかった。それと関係して、一期先輩にも知人は多かったが、それでも黒沢清監督のことは全く記憶にない。10年以上前だったが、週刊誌“アエラ”の取材で、同窓会に行く恐怖を語っていた。何でも、しばらくぶりに同窓会に行くことにしたが、行っても誰一人自分のことを知らず、話しかけられなかったらどうしようというもので、実際は、同級生のみんな、監督の最近の活躍を褒めてもらい杞憂に終わった。あまり在学中は目立たなかった生徒だったのだろう。ただ私は、黒沢監督の最初の作品については、記憶している。当時、六甲学院では年に三回ほど、全生徒による映画鑑賞会が講堂であった。受験校で、よくのんびりと映画鑑賞などしていたなあと今では思うが、結構、そうしたことで映画好きになった生徒も多い。27期の大森一樹さん、38期の市野龍一さんも映画監督だし、36期の尾崎将也さんも多くのテレビでの脚本を書き、最近では映画の監督もしている。また同級生の古澤真くんも宝塚で「エリザベート」のプロデユーサーをしている。学校での映画上映に刺激されたのか、当時、文化祭では高校二年生が自主映画を作る習わしがあった。私が文化祭で見た黒沢清監督の最初の作品は前衛的、空想的な映画で、まず出演していた女の子をどこから調達したのか、すごく気になった。当時、学校は山の上にあり、社会からほぼ孤立した状態で、日常的に同世代の女子と接することはなかった。私に至っては、6年間、姉、親類以外の女性と喋ったこともなかった。この映画の女性もそれほど綺麗な子ではなかったが(失礼)、どのように出演交渉したのか、不思議であった。内容はすっかり忘れたが、かなり本格的な作品で、驚いた記憶があり、次の年、我々の学年も映画を作る際、とてもこうしたまともな作品は作れないと、当時流行っていたブルース・リーの空手映画のパロディーを作ることになった。大谷光瑞の別荘地、二楽荘の跡地で、同級生のAくん、Iくんなどが中心となって、何日かロケをして作った経験は今でも楽しい思い出である。その後、卒業30年目の記念同窓会で再演され、好評であった。

 今回の黒沢清監督の「スパイの女」は、地元、神戸を舞台に作った初めての作品で、そのインタビューでは、新開地などのなくなった映画館のことが語られているが、多分、僕らの世代で、最も頻繁に行った映画館は、神戸三宮近くのビッグ映劇で、二本立ての旧作がかけられた名画座で、「イージーライダー」、「いちご白書」などニューシネマ系の作品はほとんどここで見た。バス、電車が定期券で乗れたので、日曜日に尼崎から神戸に行き、映画を見るのは、それほど金がかからなかった。もしかして、ビッグ映劇の館内には黒沢さんもいたかもしれない。

2020年9月11日金曜日

困った患者さん

 

googleの悪いコチコミを一件2、3万円で削除しますという会社のメールがよくきます

 昔、鹿児島大学の矯正科教授、伊藤学而先生からよく言われたのは、医療は患者さんの治してほしいという願いを叶えるものであり、それに対して医療者はプロフェッショナルとして全力で助ける。患者さんがガンであったとして、それを治す方法があったとしても、患者さん本人が治す意志がなければ、無理強いできるものではない。ましてや歯科医療は、一部の口腔癌を除いて、生死に関わる疾患は少なく、放っておいて必ずしも深刻な状況に陥るとは言えない。例えば、小さい虫歯があり、そのまま放っておくとさらに大きくなり、神経まで達し、猛烈に痛くなる場合もあるが、それほど進まない場合もある。仮に少しずつ虫歯が進むにしても、骨髄炎まで進行して入院するような事態になることは少ない。

 

 患者さんの中には、歯科医院に来て、検査を受け、ここの虫歯が放っておくと大きくなり、神経までいきますよと言っても、逆に絶対にそうなるかと聞き返す患者さんもいる。最初に述べたようにあまり進行しない場合もあるので、絶対に進行するとは言えない。もちろん、小さな虫歯なので、少し麻酔をして虫歯を取り、レジンという充填物を入れるだけで簡単な治療であると説明するが、すると今度はレジン充填をすれば一生もつかと質問してくる。平均的な予後は論文で発表されているので、そうしたデーターを示すと、今度は、本当にそうかかと聞きなおす。結局、こうした不毛な問答ばかりが続き、何を求めて歯科医院に来たかわからない患者がいる。

 

 同じようなことは矯正歯科でも起こる。一番多いのは、例年の今の季節、学校健診で不正咬合を指摘されたケースである。現在、学校歯科検診では不正咬合をチェックする項目があり、指摘されると学校から歯科医院に行くように指導される。こうした用紙を持って親が来る。もちろん正常咬合はおらず、でこぼこ、反対咬合、あるいは出っ歯の患者さんである。ざっと見て、大まかな診断と治療法を説明するが、最初の問い、“お子さんの歯並びについてどこか気になりますか”というと、親は“全く気にならない。治療しないといけないか”と答える。これは困る。こうなるとこちらは“治療は必要ないですね。矯正治療は本人、親が不正咬合を治したくなければ、治療する必要はありません”と答え、検診結果用紙にハンコを押して帰ってもらう。

 

 不正咬合だと、確かに食物を噛むのは少し劣るし、でこぼこだと歯磨きがしにくいなどの機能的な問題があるが、大部分は審美的、社会心理的な問題である。先日、新患できた患者の親は、不正咬合を放っておくと何か問題になるのか、機能的な問題があるのかと問うので、そうした問題は少ないと答えた。そうすると放っておいてもいいのかという。ただ歯並びが悪いと、それがお子さんのコンプレックスとなることもあると伝え、気になったらまた来院してくださいと言うしかない。

 

 逆に、矯正治療に完璧を求められる患者も困る。同じような治療をしても結果は患者によって変わるというのが医療であり、例えば90% に効く治療法があっても10%には効果がない。同じようなことは矯正治療でも必ず起こり、これを医療の不確実性という。もちろん医療者は最善の治療を行おうと努力するが、それでもうまく行かないことがある。これに対してどうしても納得しない患者がいる。高額な費用を取っているだけに余計に期待通りに治らない場合の不満は高い。もちろん最初の検査結果の説明の時には起こりうる主なリスクを説明するが、実際に骨性癒着(歯が骨とくっつき動かない)などが起こると、良い結果を得ることはできなくなる。こうした医療の不確実性については、本当に理解してもらうのは難しいし、経験、知識が増えると、確実性も増す。ただ経験も知識もない医師のよる誤った治療を、医療の不確実性の範疇に入れるのも問題である。

 

 他にはちょっとした問題で、Googleクチコミで低い点をつける人がいる。最近1点の低評価をもらったが、受付の電話応対についてのものである。受付はウチの家内が午前中、他の方が午後だが、二人とも20年以上受付をしており、患者さんに失礼なことは絶対に言わない。最近は、矯正を受ける患者さんが多く、なかなか予約が取れず、患者さんは診療が終わると1ヶ月後の予約を入れるため、平日の4時以降や、土曜日に新患が入るスペースが限られている。これはお客さんの多いレストランで、金曜日の夜、休日前の日の予約は取れないのと同じである。おそらく患者さんから何月何日何時、予約できますかと尋ねられ、そこはすでに予約が入っています。それでは何月何日何時はどうですかと言われ、これも無理です、何回かこうした応答で、受付の対応にキレタのであろう。スタッフと相談し、患者に都合に良い日を聞くだけでなく、空いている日、予約できる日、時間を言うようにすることにした。ただ食べログでは、飲食店の三大要素は料理、空間、サービスで、予約や入店時の対応は、この三大要素のサービスのほんの一部分しか占めておらず、飲食店で食事をし、空間で過ごし、サービスを受けなければ、飲食店をレビューする権利はないとされる。レストランに予約の連絡をし、食べもしない、行きもしないで、その対応がまずいと評価を1にできないようにしている。病院や医院の口コミサイトには、受付の電話応対へのクレームのような書き込みが多いが、これは食べもしない客からの評価と同じであろう。以前から匿名の投書、書き込みは無責任で、何とかならないかと思っている。歯科医師会でも実名による患者からのクレームのみを対応しており、影響力の大きなGoogleのクチコミも原則的には実名表示を望みたい。

 

 PS:医院ではこうした口コミサイトの評価で患者数が大きく、減少することがあり、低評価の医院に、削除を一件、数万円で請け負う会社からのダイレクトメールがしょっちゅうくる。一度は明らかにこの会社と結託した人の仕業だったので、google社に報告して削除してもらった。



2020年9月6日日曜日

宮本輝 「灯台からの響き」







 小学2、3年生の頃か、毎週火曜日になると、近所の駄菓子屋に走っていき、山積みされた漫画雑誌、少年マガジンを買うのが、楽しみであった。家に帰ると貪りつくように読んだ記憶は懐かしい。現役の作家でこうした楽しみをもたらすのが宮本輝さんで、新刊が出るのが毎回楽しみで、買うと一気に読んでしまう。

 

 この作品も、内容についてはネタバレになるので述べないが、前作“草花たちの静かな誓い”が海外舞台、ミステリー調で、やや違和感が残っただけに、今回はいつもの宮本さんのタッチになったのが嬉しい。神戸で絶大な人気がある洋画家、小磯良平さんも一時、抽象画に挑んだことがあり、割合長い期間、新しい作風を作ろうともがいた時代があった。後年、小磯良平さんの回顧展を開くと、この時期の作品がつまらなく、むしろ原点の婦人像をさらに深化してほしいと思われ、この時期が残念でならない。宮本さんの場合は、こうしたこともよくわかった人で、少し冒険をしても、自分の得意な分野にまた戻る。

 

 宮本さんの最近の作品は、その作品のキイとなる言葉、趣味、人物、場所を配置する。今回の作品では、森鴎外の“渋江抽斎”、灯台、支那そばがキイとなる。明治の大文豪、森鴎外の作品、“雁”や“高瀬舟”などを読んだことがある人は多いと思われるが、実は森鴎外の作品の中で最も評価が高いのが“渋江抽斎”なのである。まあいっぺんに読んでみれば、わかるが、一回読んで、こんなにつまらない本はないと思うし、それ以前に最後まで読めない。ただ宮本さんもそうだが、何度も読んでいるうちに、江戸後期から明治に行きた市井の人々の息遣いをこれほど見事に淡々と描かれたことに驚くだろう。今、“城下の人”(石光真清著)という近代日本が生んだ素晴らしいノンフィクションを読んでいるが、鴎外の“渋江抽斎”はこれを大文豪がギュッと凝縮したようなもので、一時、弘前大学の松木明先生の人名誌で、渋江抽斎の登場人物のことを調べたことがあるが、その一人一人に、これまた渋江抽斎と同じような人生があり、鴎外の作品の奥深さに驚いた。作家にとり、ページ数を増やすことは、ある意味容易であるが、逆に必要最小限の言葉に省略するのは、非常に難しいし、決意がいる。この背景には、森鴎外の漢籍への深い知識が絡んでいるのは間違いなく、漢文では短い語句の中に多くの意味を持たせる。そうした意味では“渋江抽斎”は日本語で書かれた漢文の小説であり、これは漢文の素養が高い森鴎外以外にはもはや書かれない代物である。

 

 本題に戻ろう。本書では、各地にある灯台を巡って、主人公は旅をするが、我が青森県にも足を運んでくれ、竜飛崎にきて、龍飛崎灯台を見る。竜飛崎は弘前藩領絵図では“龍濱崎”とされ、その先にある小島、帯島は“ヨンヘイ シマ”となっている。アイヌ語では“オー”は群生する、うようよいるの意味で、“ペイ”は水の意味で、魚な鳥が群生する、寄り集まってくるという意味だというが(三厩村誌、昭和54年)、これがなまり“ヨンヘイシマ”と記載されたのだろう。せっかく青森県にくるのであれば、弘前に泊まりに、“渋江抽斎”の住んでいたところにも行って欲しかった。うちの母は大阪から弘前に来て、そこからなんとタクシーに乗って竜飛岬まで行った。車のない私にとっては、青森県に住みながら竜飛岬はアクセスが悪くなかなか行けないところであるが、本書に刺激され是非一度は行きたい。

 

 そういえば、森鴎外が“渋江抽斎”を知ったのは、鴎外の趣味である“武鑑”の収集で、その過程で、“渋江抽斎”の蔵書印のある武鑑に度々出会ったことによる。その後、渋江抽斎に興味を持つようになり、知人を介して調べていく。鴎外の執筆過程は、本書の亡き妻への一枚のハガキに導かれて多くの新たな親友、知人を得るのに似ており、“渋江抽斎”は一種の伏線と考えてよいかもしれない。ちなみに鴎外に渋江抽斎のことを知らせる佐藤弥六という人物は、佐藤紅緑の父、サトウハチロウ、佐藤愛子の祖父となり、佐藤家でも最も偏屈で愛らしい人物である。

 

 宮本輝さんの作品は、誰だって人生はやり直せるし、生き方も考え方次第で変えられると励ましてくれる。新型コロナウイルス騒動で大変な時期ではあるが何とか乗り越えてほしい。


PS:単行本の場合、あまりカバーを外すことはないが、この本の表紙はタイトルに沿ってオシャレです。



 

2020年9月5日土曜日

所得税と歳出

 



 前回の続きだが、明治20年、初めて所得税が始まった頃、300円以上の収入のある人が対象であった。明治20-30年ころの物価は、木村屋のあんぱんが1個、1銭、うどん、そばは2銭、カレーライスは5-7銭であった。一円は、今の2万円から3万円の価値となる。そうなると所得税を納める人の年収は600-900万円くらいとなる。300円以上の所得のある人の数は、全国で12万人、当時の人口、3900万人の約0.36%となる。詳しく見ると一等、3万円以上の所得のある人は東京で42名、最高は三菱財閥の岩崎弥太郎の長男、久弥で申告額は70万円となる。

 

 少し古いが2018度の所得者構成比で見ると900万円以上の所得のある人の割合は6.81%、明治時代、所得税は一家全体の収入にかかることから、今のように夫婦で共稼ぎの場合は、この比率はもっと高く、年収1000万円以上の世帯割合は平成12年で12%となっている。ちなみの2018年で見れば2500万円以上の割合が0.33%であるので、明治20年の300円以上の所得の人と同じような比率となる。

 

 明治23年の巡査の初任給は6円、小学校教員は5円、東京の大工の日当は50銭、日雇い人夫の日当が20銭くらいである。現在の警察官、教員の給与はボーナスも含めれば30万円くらい、大工の日当は13000円くらい、日雇いは最低賃金だとしても東京で8000円くらいである。給料から見ると一円の価値は4-5万円くらいと高くなる。これで換算すると、うどん2銭が1000円、カレーライス5銭は2500円とかなり高い。これまで明治20年の一円の価値は2-3万円くらいとされているが、むしろ今は大量生産により物の価値が全て下がっていると見ると、一円の価値はもっと高く45万円くらいと考えた方が良さそうである。明治の300円以上の所得のある人は今の1500万円以上の収入がある人だと見なされ、そうした人だけが所得税を払っていたことになる。多くの人々にとり税金はそれほど多くはなかったのではなかろうか。所得税は3円、高めの換算をしてもたった15万円しかなく、実収入は1485万円となる。現在では例えば1500万円の収入で、所得税が33%と地方税が10%の計44%で、収入の55%が本当の所得となり、825万円となる。1485万円稼ぐためには、今では3000万円近く稼ぐ必要がある。

 

 こうした税収の少なく財政的に厳しいのが明治の政府であった。日清、日露戦争など、軍備への支出が多かったが、社会保障費はほとんどなく、さらに文教費、公共事業費もかなり少ない。こうした歳入も少ないが歳出も少ない時代がかなり長く続き、明治20年の歳出が8000万円(今の4兆円)であったが、明治37年で2.8億円、さらに日露戦争で増え、明治44年には5.9億円、昭和に入り少しつつ増えたが、昭和12年で27.1億円となった。当時の一円の価値は今の2000円くらいなので、これでも5.4兆円くらいの財政規模であった。インフレを考えると明治20年とそれほど大きな変化はない。小さな国家であった。

 

 戦後になると、昭和23年の歳出は4620億円なので、一円は今の10-15円として換算すると6兆円くらいで、これも大きくはない。歳出が極端に大きくなったのは、昭和43年頃からで、昭和43年で5.9兆円、昭和53年には34.1兆円に、さらに昭和63年には61.5兆円に、そして平成26年には実に100.2兆円となった。昭和43年の物価は今の半分なので、当時の歳出5.9兆円は今に換算すると12兆円、まだ少ない方である。昭和63年の初任給は15万円、今は20万円くらいなので、1.3倍くらいになったとすれば、昭和63年の61.5兆円は今の80兆円くらいとなり、ほぼ今の水準となった。

 

 明治からの歳出の変化を見れば、昭和45年頃が、佐藤栄作から田中角栄の頃が、近代日本の大きな分岐点、すなわち小さな国家から大きな国家になったのだと思う。

2020年9月3日木曜日

明治のお金持ち

 青森県内にある弘前市の藤田記念庭園および洋館、金木の斜陽館など、昔の大金持ちの作った古い建物を見ると、その規模、豪華さに驚く。今の時代、これほどの自宅を建てる金持ちはいない。最近でこそ、所得税の累進性あるいは、税率の上限が下がってきたが、昭和61年ごろでは所得税と個人住民税を足すと88%、現行でも55%となる。もちろん大きな家に住んでいるとこれ以外にも膨大な固定資産税がかかるし、6億円以上の相続となると相続税が55%となる。東京のような地価の高いところで、200坪で6億円というのはありうる話で、その場合、3億円以上の相続税となる。  例えば、昭和61年頃、1億円の収入がある金持ちがいたとしよう。税金に8800万円支払い、残りは1200万円しかないので、それほど大きな家は建てられない。それでは明治時代はどうかというと、明治に早い時期では地租、土地に対する税金はあったものの、所得税、相続税はなかった。その後、明治20年に初めて所得税が作られ、その時の税制では300円以上の収入、今でいうと600-900万円以上の所得のあるものだけが所得税を払った。税率は19段階に分かれ、300円では3円、1万円で200円、20万円では6000円となる。一円は2、3万円であるとすれば、600万円の所得で6万円の所得税、40億円の所得で1億2000万円である。昭和61年の税率88%であれば、40億円の収入があれば税金は35億円であるので、34億円も安い。 

  ちなみに明治20年の国家予算を見ると、歳入は8816万円、1円の現行価値を高めに3万円しても2兆6000億円くらいにしかならない。2015年の日本の歳入は96.3兆円、そのうち税収は概ね60兆円である。明治20年の人口は約4000万人で。今は2倍以上になっているとはいえ、明治政府の歳入はあまりに少なく1/20以下である。明治国家は富国強兵で軍事費への支出は高かったが、それでも2020年度の防衛費は5兆3000億円で、明治20年の国家歳入の2倍となる。 

  “生きづらい明治社会 不安と競争の時代”(岩波ジュニア新書、松沢裕作)では、明治社会は今のような生活保護のような制度がなく、貧困に落ちても国が助けてくれる社会ではなかったとしている。政府は貧困層に冷たく、恤救規則という制度があったが、その拡大には大きな反対があったという。貧困者を助けることは怠けているものを救うことになり怠惰を容認することになるという考えである。ただこれも歳入の観点から見れば、違う。例えば平成26年度の生活保護負担金は約3兆8000億円、明治20年に戻すと人口が半分としても、6300万円相当、歳入の75%となる。明治の時代に今と同じような生活保護を行えば、国家は破綻する。 

  最近では、マルクス主義的な歴史解釈をする学者も少なくなってきたが、それでも、こうした財政的なことを全く無視した議論、あるいは過去の歴史を否定することは、気をつけた方が良い。歯科でも、患者さんの中には、ネット情報をそのまま鵜呑みにして、歯科医院でそうした治療を要求する人がいる。そこには自費という観点は全くなく、通常の健康保険治療でもそうした治療ができると思い、憤慨する。また一部のマスコミでも日本の医療制度をアメリカと比較して論じる向きもあるが、これも費用を全く無視した議論である。例えば日本では健康保険、高額医療制度を活用すれば、7万円くらいできる治療があるとしよう。それをマスコミではアメリカの治療に比べてサービスや治療の質が劣っていると論じる。アメリカの医療費が1000万円以上ということに、一言も触れない。  

 こうした税制と歳入、歳出の観点から日本の歴史を論じた文庫本レベルの本を知らない。アメリカでも1910年頃、最高税率は70%を超え、一時25%くらいまで低下したが、その後、1940年代には90%を超える最高税率となり、1981年まで70%を超える高い税率となっていた。その後、レーガン大統領時代に28%くらいまで下げられ、民主党政権では上がり、共和党政権では下げるを繰り返しているものの、オバマ政権の39.6%が最高である。こうした税制の変化は政策とも大きな関連を持つはずだが、あまり論点になっていない。不思議なことである。 

  ついてに言うと、明治時代、300以上の収入があって所得税を払う人は人口の0.3%くらいしかおらず、大部分の国民は主として住まい、田畑にかかる地租が税金のほとんどであり、今の固定資産税より多少多いくらいで、そうした意味では大部分の国民はあまり税金を払っていない社会であった。一方、医療費、学校などの費用は自腹であり、今で言う小さな国家が基本であった。

2020年9月1日火曜日

ある矯正器材会社の撤退


 20年以上付き合いのある、D歯科器材会社から1通のダイレクトメールが来た。九月をもって、工場を閉鎖して、扱っている矯正製品すべての販売を中止するという。もちろん寝耳に水の話で、担当の人に連絡すると、ここに勤務する従業員もこの通知が来るまで知らなかったという。

 

 この会社はもともと1930年ころに歯科材料を扱うS会社として創立し、1960年ころから一部矯正機材を販売するようになり、次第にブラケットやワイヤーなども自社で開発し、日本ではある程度のシェアーを持つようになった。2000年になると、会社の発展のために、アメリカ資本が入り、世界的歯科機材会社Dの傘下に入るようになった。このアメリカのD社は小さな歯科機材会社を次々と買収して傘下にいれ、矯正分野でもアメリカの中堅会社がすでに傘下にある。社は基本的には自社製品を中心に販売し、審美レジンブラケットのシェアーではおそらく日本の半分くらいはあると思われる。矯正機材は比較的ロットは少ないが、付加価値は高く、この会社の営業利益も多くはないが、順調に伸びていた。

 

 そこに今回の販売中止のアナウンスである。S社に何らかの業績不振であれば、社員もわかるが、コロナ騒ぎがあり一時売り上げは落ちたとはいえ、赤字になったことはない。おそらくアメリカ進出を狙ったが、アメリカでの宣伝活動も足りず、あまり売れなかったのが、矯正事業の撤退となったのであろう。さらにD社がデジタル化ということでインビザラインのようなマウスピース矯正に参入するために既存の矯正歯科材料を扱わない方針にしたかもしれない。ダイレクトメール中ではTraditional Orthodontic事業、つまり伝統的な矯正歯科事業からの撤退と表現されている。

 

 インビザライン社の持つ特許がきれたため、それこそ雨後の筍のようにマウスピースタイプの矯正治療を扱う会社が出ている。インビザイラン社がこうした治療法を出したのが20年前だが、IT技術や3Dプリンターの進歩でどこでもできるようになったが、歯をマウスピースのよる弱い力で少しずつ動かす治療法そのものは変化なく、適用は広がったとはいえ、すべての不正咬合がこれで治るわけではない。さらにより安価なスマイルクラブという歯科医を介さない同様なシステムをもつチェン店が全米で展開されていて、この分野への参入は厳しい。さらに言うなら、今回のいきなりの撤退は多くの矯正歯科医を裏切ことになり、こうした会社の新たな製品はいやがるだろう。

 

 つい最近も、ある会社の治療薬、1キットが2億円以上というニュースがあった。今や薬でも100万円以上するのはそう珍しいものではなかったが、患者のことを考えればこうした高い値段をつけることは薬会社も躊躇われたものだが、今はそうした躊躇いするなくなった。今回の矯正機材部門の撤退ということについても、会社側は自分の会社の損得のみ考え、それを使って治療を受けている患者のことは全く念頭にない。日本ではこうした事案に対して、会社内でも相当に議論され、実行に移されるが、アメリカではCEOの決定ですべて決まる傾向があり、こうしたCEOにとって会社は常に成長、売り上げが伸び続けなくてはいけない。黒字であっての現状維持ではだめなのである。


バカなCEOは会社経営で失敗すれば、辞任すればよいが、こうした人物でまともな会社が潰れるのは許せないし、ましてや医療器材メーカーは、顧客である医師、歯科医だけでなく、その背後の患者のことも考えなくてはいけない。より高い社会倫理が求められる。このD社も企業ホームページでは”歯科や、私たちが住む世界にとって正しいことをすることが、我が社のとっても正しいことです”と高らかに唱えているが、今回の突然の矯正治療分野の撤退も、この会社に社会倫理からすれば、正しいことなのだろう。少しでも良心があるなら、撤退する製品の一部、代替わりのできない商品については、パテント、生産方式について他メーカーに譲り、引き続き、生産されることを望む。STロック(東京医科歯科大学初代矯正学教授、高橋新次郎)は代品がない。


 

2020年8月16日日曜日

奈良美智と弘前

 


 現代アートを引っ張るアートギャラリー経営者、三潴末雄さんの「アートにとって価値とは何か」(2014、幻冬舎)に弘前出身の奈良美智さんのことが書いていたので紹介したい。

 

“ただこれは私の勝手な想像だが、一見無国籍なキャラクターのように思える奈良の少女たちの奥底には、彼の出身地の青森にまつわるオシラサマや座敷童のような、民俗学的なイマジネーションがあるのではないかという気がする。もちろん、はっきりとは意識していないだろうが、高度成長期に奈良が幼少期を過ごした風土の体験は、どこか東北の神話的な世界の古層につながる表現に結実したのではないか、機会があれば、奈良がどんな子供時代を過ごしたか、訊ねてみたいと思う。”

 

 “津軽人物グラフィティー”で書いたように津軽には極めて個性的な独創的な人物が多い。版画家の棟方志功、小説家の葛西善蔵、太宰治、愛生園の佐々木五三郎、奇跡のリンゴの木村秋則、スキーの三浦雄一、柔術の前田光世、ジャーナリストの陸羯南、冒険家の笹森儀助、考現学の今和次郎女医、須藤かくなどなど、本当にたくさんいるし、共通項でまとめられるような性格がある。まず群れない、一人で活動し、周りから何を言われようと突き進む。チームとして活動するのは苦手で、大きな会社の創業者で津軽出身者は少ないし、金持ちはいない。これは厳しい自然も関係するが、あまり枠にはまらない、非常識な人物が出るところであり、周囲もそれを去勢したり、面白がるところがある。実はバカにしているのだが。そうした強烈な個性がそのまま残され、いわゆる変人を生む風土となっている。ある韓国の歴史学者が“日本の歴史を見て、羨ましいのは多くの奇人がいることだ”と言っていたが、これは新しいこと、革新的なことは奇人変人から始まるというである。真面目な秀才型の人物は勉強で育つが、こうした変人は風土が生む。これだけ奇人変人の多いところは日本でも稀であり、自分の好きなことを、金にならなくても、人に認められなくとも、楽天的にやり抜く人物が生まれることは誇ってよい。さらに彼らにとって、津軽以外の世界は全て外国であり、感覚的には東京もニューヨークも変わらず、海外への敷居は低い。

 

 奈良にとって、青森、あるいは弘前とは三潴さんのいうような民俗学的、神話的なと言った大げさなものではなく、周りのこうした風変わりな奇妙な変人がいる世界であったのだろう。太宰治の故郷に対する有名な言葉に“汝を愛し、汝を憎む”があるが、多くの津軽人が持つ気持ちである。普段は無口なくせに、我が強く、酒を飲めば人の悪口を言い、喧嘩をする。人が成功すれば妬み、不幸を喜ぶ。こうした津軽の中で生きていくためには、自分自身が強く、まっすぐに進んでいかなくては行かず、そうした決意を奈良の少女の瞳に見るし、小説家、葛西善蔵、太宰治の孤独も同じである。笹森儀助が琉球を見る目、前田光世がブラジルで見る目と奈良の少女の目は同根であり、はるか先を見続けている。奈良の少女は、故郷、そこに住む人々に対する奈良自身であり、喋ると訛りが出るほど故郷に染まっていながら、故郷の濃密な雰囲気に馴染めず、孤独であり、それを突破する強い意志、これは東京などの都市部の孤独とは少し違うが、作品に表現される。うまい例ではないがが、津軽人のこうしたねじれた故郷感は、在日コリアンが本国に持つ感情に近いかもしれない。在日コリアンは自分のルーツは朝鮮であると十分に理解しているが、いざ韓国(北朝鮮)に帰るとその生々しい人間関係に我慢できず、日本での生活の方がよほどよいという。故郷の濃厚な人間関係は、懐かしいものであるが、毎日その中で生活するのはきつく、息が詰まる。寺山修司の胡散臭い自己顕示もそうした故郷への津軽人独特の反発であり、奈良の作品にもそうした要素を見出す。

 

 奈良が今後、どのような方向に進むかはわからない。ピカソのように常に新しい画風を模索するのが画家としては理想的なのかもしれないが、これはピカソだからできることで、洋画家、小磯良平のように1950年代、時代遅れと言われ、スランプに陥り、抽象画などを模索するが、結局は原点の具象に戻ったような例がむしろ普通である。人の命は短いと考えるなら、同じ方向性でより高度で、深い表現にする富岡鉄斎や葛飾北斎の生き方が一つの理想となろう。コロナ騒動に対して奈良自身、芸術家としての回答はない。この鬱々とした社会をうまく表現するのは芸術しかなく、奈良の代表作が登場する可能性もあり、期待している。


2020年8月12日水曜日

困った先生

 


 最近ではう蝕も少なくなってきたため、一般歯科でも矯正治療に手をだす先生が増えてきた。以前は、夏休みといえば待合室に子供がいっぱいになり、う蝕治療だけでも大変で、矯正治療どころでなかった。ところが最近では学校健診をしても未治療のう蝕は少なく、先生によっては子供の治療をほとんどしたことがないという。私のところに来る患者さんも一度も歯科医院に行ったことがなく、矯正歯科医院が初めてだという子供も多い。

 

 歯科医院の経営難につけ込み、医療コンサルタントによる講習会が盛んである。講習会のほとんどは、歯科医院の経営状態をよくする方法として、自費率の向上をうたい、その中で矯正治療の導入を勧めている。多くの歯科医院は、矯正治療は自費治療で、期間もかかり、責任もあるので、なかなか手を出さないし、やるとしても子供の簡単な不正咬合について、極めて安い料金で治療を行う。ところが本当にごくごく一部の歯科医院であるが、ネットやテレビで大々的に広告をして、矯正治療を宣伝しているところがある。先生の履歴を見ても、少なくとも大人の矯正治療をできる臨床技術はないと思われる。こうした先生のところでは、ある程度治療すると、これでおしまいと言われる。文句を言うと、専門医でないのでこれ以上の治療はできないと言う。これで費用が専門医より安ければ、まあ納得もいくが、専門医以上に高いところがある。患者にすれば矯正歯科を標榜するのだから、きちんとトレーニングも受け、治療もできると思うのだが、実際の治療レベルは低い。

 

 患者にも問題があり、いくつかの先生(矯正専門医も含む)で相談にいき、ここだけはやめた方が良いところを選ぶ人がいる。四人の矯正専門医が歯を抜かなければ、きちんとした治療ができないと言い、一人の一般歯科医が歯を抜かなくても治療はできると言うなら、四人の専門医の意見に従うはずだが、敢えてこの一般歯科医を選ぶ人がいる。こうなると全く自業自得であるし、仮にうちに転医を希望しても、申し訳ないがこうした患者さんの治療は断る。

 

 私は、大学卒業後、最初に小児歯科に入局した。三年目からは口腔外科、小児歯科、矯正歯科、言語治療室からなる合同外来と呼ばれる口蓋裂専門外来に行き、主として矯正治療の研鑽を行なった。小児歯科でも咬合誘導と呼ばれる簡単な矯正治療をしていたが、それだけでは不十分と考え、矯正歯科を本格的に学ぶために、鹿児島大学に移った。そこで学んだことは、厳しい言い方であるが、一般歯科医はいくら学んでも本格的な矯正治療はできないということである。矯正科の医局で、3、4年ほど医員として矯正治療を研鑽しても、専門医として開業するにはまだまだ不十分であり、十年近く大学に残った後に、専門医で開業し、さらに十年、千症例くらい経験して初めて専門医と名乗れる。年間20例くらい矯正治療をする一般歯科の先生であれば、このレベルになるのに50年かかることになる。私自身、こうしたことが小児歯科にいた時に十分にわかったので、転科して矯正を学ぼうと思ったが、もし一般歯科で本格的に矯正治療をしようと思うなら、一度、閉院して十年ほど歯科大学などで学ぶ必要があろうが、実際、こんなことは無理である。

 

 口腔外科、小児歯科、矯正歯科の標榜は誰でもできる。ところが下手に口腔外科を標榜すると、難抜歯や口腔ガンの疑いを持つ患者がきて、治療に責任が持てないため、大学の口腔外科に残っていた先生以外はあまり標榜しない。ところが小児歯科、矯正歯科については、こうした経歴がなくても容易に標榜する。大学病院の小児歯科、矯正歯科に残った私から見れば、小児歯科を標榜するなら、少なくともハンディキャップの子供達に治療はできなくてはいけないし、矯正歯科を標榜するならマルチブラケット装置による治療に精通していなければいけない。

2020年8月9日日曜日

弘前の小さな本屋 まわりみち文庫



 弘前市のかくみ小路に“まわりみち文庫”という小さな本屋が開店した。オーナーは青森市でホテルマンをしていた人で、趣味の読書が高じて、弘前市で小さな本屋を開くことになった。場所は、弘前の人ならわかるが、市内の中心街である土手町から飲み屋街につながる小さな通りで、周囲には太宰治も通ったコーヒ店や美味しい料理店が並ぶところで、本屋がこんなところにあるとは誰も思わない。お店は8畳くらい、周りの壁に新書と古書を半分くらいずつ、おそらく500-1000冊くらいの小さな本屋である。読書家ならこれ以上の書庫を持っている人も多いと思う。

 本屋はいかにして儲けているか、知っている人は少ないと思う。一般の新刊は委託販売で、出版社、問屋は本屋に委託して本を売ってもらっている。売れなければ余った本は出版社に返して良い。委託販売料は定価などによっても違うが、だいたい20%くらいである。コミック漫画600円で言えば、本屋の儲けはわずか120円、漫画家の印税は10%60円となる。うちの母親は近所の本屋からボケ防止のために文藝春秋を毎月持ってきてもらっているが、定価が873円、本屋の儲けはその20%で170円くらいにしかならない。配達費を考えれば儲けはほとんどない。

 アマゾンは、元々は本の販売がメインであったが、次第に大きくなり、今のような何でも扱う巨大会社となった。これで送料はかかれば、誰も注文しないが、送料がかからないため、近所の本屋に行く必要が全くなくなってしまった。店舗が必要ないため、日本一の在庫量であり、絶版書を除くとほぼ全ての本がここで買える。読書人口が減少する中、アマゾンの存在は、既存の本屋に致命的な打撃を与え、多くの本屋が廃業となった。新刊の販売は儲けが少なく、ある程度、数が出ないと経営が厳しく、お客の減った本屋は次々となくなった。

 一方、古書店は仕入れ値と販売価格の差が儲けとなるため、安く仕入れて高く売れば、新刊よりは儲けが大きい。ただ企業形態が小規模で、客数が少なく、なかなか捌けずに商品の在庫期間も長かった。それを革命的に変えたのはブックオフで、漫画、雑誌も含めてほとんどの本を安く買い、それを当初は全て100円で販売していた。一冊の儲けは少ないが、大量、早く売ることで、利益をあげた。ただブックオフは全ての本を等価値とし、買い上げ、販売も同じにした。当然、中古本でも人気のある本は高く販売できるため、“せどり”という商法が流行った。ブックオフの店で何時間も粘り、コンピューター片手にネット、オークション価格を確かめ、利益の大きい本を買っていく。店の一角に陣取って、片っ端から棚にある本を調べていく。ここで100円で買った本を、アマゾンやヤフーオークションで1000円で売れれば900円の儲けとなる。流石にこうした“せどり”が大規模になると、ブックオフもバーコードで買取本の価格をチェックし、買取価格、販売価格も一律ではなくなった。

 それでも読書好きは実際に本を見てから買いたいもので、小さな本屋であっても、置かれている本の趣味が合うなら、そこで買う。いかに売れる本を安く買取し、高く売るか、店の経営はそれにかかる。そうした点では、委託で返却が可能だが、20%の儲けしかない新刊販売と儲けがそれより多いが買取の古書販売のバランスが難しい。また古書で言えば、どこで安く買いとるかがキイとなろう。小さな本屋に来る客はもともと読書の好きな客であり、多くの本を持っている。私の例で言えば、月に20冊以上買い、数百冊溜まればブックオフに来てもらい買い取ってもらった。中古本の委託販売という方法もあり、売れればブックオフのオンライン価格より高額で支払うという手もあろう。例えば私の本“須藤かく”は買取価格、11円であったが、アマゾンでは9軒の古書店が出品しており、1347円から4039円の値段がついている。さらにひどいのは、もう一つの”津軽人物グラフィティー”で2軒の古書店が出品し、9986円と10327円の値がついているが、”須藤かく”は880円、”津軽人物グラフィティー”は1980円で、いずれも新刊が今でも売っている。売れればめっけもん商売である。

 中古本の委託販売の方法も、小さな店では置けばすぐに売れる本でないと棚に溜まったままになるし、委託販売の契約方法も面倒である。一日の予想客数を考えれば考えるほど、経営的には本当に難しい。いかに回転率を上げ、収益を多くするか、8畳の店での奇跡を期待したい。こうした小さな本屋はひとえにお客さんの来店にかかっているので、たくさん来店してもらい、応援してほしい。

2020年8月7日金曜日

ナヌカビ 弘前ねぷた





 青森ネブタ、弘前ネプタとも重要な日は、最終日のナヌカビで、元々は旧暦の七月七日、新暦でいうと今年は八月二十五日であるが、祭りの一環として八月七日がナヌカビとされ、この日は町内を昼間、回り、金銭をねだったり、扮装などをして騒ぎ、最後は、川あるいは海にネブタ、ネプタを流す。実際は水で本体から紙を剥がし取るのであるが、近年は川の汚染のためにこうした川、海での剥がし取りは禁止されている。

 「弘前ではナルカビにはねぶたの最後の日であり、ねぷた流しといって朝早くからねぷたを出し、岩木川に持って行って流した。流すと言っても、実際にはねぷたを水につけて紙を剥がし取ったのである。」(弘前ねぷた本)「ねぷたとは眠り流しなどの水に睡魔や悪いものを流してやる禊としての要素、中国伝来の乞巧奠や二星伝説の星祭りの要素、そして同時期の盆灯籠や迎え火、送り火などの灯火を用いる盆行事の要素が習合したもの」というのは松木明知先生の見解である。また子供達は「ナヌカビは集落全体が仕事休みで、ねぷたは朝早くから鼻白つけて練り歩き、「ねぷた流し」と言って川の深い所にねぷたを沈め、紙を剥がして骨の一部を解体した。その後、「七回ママ食べて、七回水浴びする」と言った。」(弘前ねぷた本)。祭りが終われば、厄災ごと水に流して清めるのである。

 日本人の民俗信仰とも言える神道では、禊という概念が重要で、祝詞にも「祓戸の大神等 諸々の曲事罪穢を 祓ひたまえ清め給へと申す事の由をーー」とあり、神社に入る前に、手水舎で清めることはよく知られている。こうした要素は確実にネブタ、ネプタにもあり、基本的には祭りに用いられたものは、祭りが終わると焼かれたり、壊されたりして、一年毎のものであり、それが再生という祭りの根本的な意義であった。それ故、過去のねぶた師の作品がほとんど現在に残っていないのは、当たり前にことで、いくら手間をかけ、名人の作品でも祭りが終われば、躊躇なく壊された。

 五所川原の大型ねぷたも、最初の年、平成十年の作品は、古式に則り、最後は火が放たれ、完全に昇天させた。ところが、その後は、製作されたねぷたは立佞武多の館に保管され、次の年の祭りにも使われるようになった。また今年の青森ねぶたはコロナウイルスのために中止となり、代わりにワラッセにあるねぶたをナヌカビに外に出し、市民と楽しもうということになった。

 確かに全国からの観光客にとって、立佞武多の館やワラッセのような観光設備があり、年中、そこで実際のねぶた、ねぷたを楽しめることはいいだろう。ただこれはあくまで観光目的の例外であり、日本の禊の概念からすれば、祭りに使われたねぶた、ねぷたは一回限りのもので、そうすることで、初めて厄災、邪悪退散の意味がある。数年前、弘前ねぷた参加団体協議会の参加団体が、「“よさこい津軽”によって汚れた土手町を清める」という発言をし、他の参加者からの暗黙の賛同があったという(よさこい津軽の関係者、ごめんなさい)。またねぷたは一回限りであるから、潔く、意味がある、と考える人も多い。昔、神奈川歯科大学の学園祭があり、青森出身の学生が、ねぷたを出そう、できれば棟方志功にねぷた絵を描いてもらおうと画伯に頼むと、快諾し、絵を描いてくれたという。ただ学生たちはもったいないといえ、ねぷたは燃やすか川に捨てるかすると思っていたので、学園祭が終わると盛大に燃やしたという。私が最初に弘前に来た時も、ねぷた絵を祭りが終わったら切り取って、くれないかというと、ねぷたは祭りが終了次第、綺麗さっぱりと捨てるので、あげられないと言われたことを思い出す。

 診療所の前に金魚ねぷたを81日より飾っているが、夜はやっぱり光ってほしい。そこで百円ショップで電池式のランタンを買い、それを内部に吊り下げることにした。単四電池3本で14時間だが、充電式乾電池にして、昼間充電、夜照明することにした。825日まで飾り、水で紙を剥ぎ取ることにする。

2020年8月6日木曜日

3歳児歯科健診 反対咬合



 昨日、久しぶりに3歳児歯科健診に行ってきた。コロナ騒ぎのため健診は厳重で、まず体温が測られ、熱がないか調べ、さらに問診があってからスタートする。歯科でももちろんグローブ着用、デンタルミラーもディスポを使用、子供の頭を置くところには、これもディスポの敷布を使い、さらに一人検診するたびに清掃が行われる。

 相変わらず、虫歯は少なく、ざっと30人くらいみて、虫歯のある子どもは三人くらいであったが、反対咬合は3人、将来、凸凹になる可能性の高い、乳歯の閉鎖歯列、叢生の子どもが10名ほど、かみ合わせが深い、出っ歯になる可能性が高い子どもが10名ほどいた。乳歯歯列での理想的、すなわち隙間が十分にあり、かみ合わせも切端に近い、浅い子どもはそれこそ、数名もいなかった。それ以外の子どもたちも大きくなると何らかの不正咬合になるのだなあと思った。

 反対咬合のお子さんは、近医でムーシールドや他の矯正装置を使っているとのことだが、あまり使ってくれず、一向に治らないと言っていた。日本矯正歯科学会の反対咬合のガイドラインは出ていないが、おそらく3歳児への矯正治療は、長期的にはムーシールドを含めて効果がない、あるいは証明できないという結論になりそうである。当院でも以前、ムーシールドは10例ほど使い、いずれも乳歯の被蓋は改善したが、永久前歯が萌出する時期になると反対咬合となり、今度は上顎骨前方牽引装置、さらには叢生に対する治療も必要となり、ムーシールドだけで、理想的な歯並びになった症例はない。つまり従来の永久歯萌出時期(6-10歳)の一期治療の前に3-6歳の乳歯期の治療が必要となり、乳歯期治療、一期治療、二期治療の3期の治療が必要になる。これは管理上大変で、反対咬合の患者は少なくとも成長終了まで見ていかないといけないので、男子の場合、18歳くらいまでの15年間の管理が必要となる。こうした長期管理のため、うちでは子供の患者は最近では断ることが多い。

 家内に言わせると、一般歯科の先生は、3歳児の反対咬合の患者がくれば、ムーシールドによる治療を行い、費用を単純に請求するだけで、18歳まで面倒をみるという気はさらさらないし、そもそもそんなことは考えないと言う。確かに日本の保険医療は全て出来高払いであり、症状があればそれを治療してその対価をもらう構成となっている。一方、矯正に費用体系は、世界中、概ね請負制度で、治すまでの費用を請求する。すなわち一期治療が20万円、二期治療が20万円とすれば、使用する全ての装置費用はこれに含まれる。よく考えれば、医療分野でこうした例はあまりなく、患者も歯科医も出来高払いの制度の方がむしろ慣れており、矯正のような請負制度には馴染みはない。

 ただ一部の一般歯科の中には、こうした請負制度を理解せず、料金だけ矯正歯科医と同じような料金体系を利用している例がある。その場合、乳歯から治療を始め、永久歯が逆に生えれば。それを治し、さらに叢生になれば、マルチブラケット装置で治す。それら全ての加味したのが請負制度であり、料金体系なのである。それゆえ、請負制度の料金体系をするなら、成長期の一期治療で治らない場合、二期治療はできないとは言えない。例えば、一期治療でうまくいかなければ、請負制なので二期治療でカバーすることになる。こうしたことを理解せず、法外な治療費を請求する歯科医院があるが、無責任といえよう。請負制度を取りながら、途中で私の技術では請け負えないと言うのは話にならず、もし請負制の料金制度にするなら最初から、例えばマルチブラケット装置による治療はできない、外科的矯正はできないなど、自分の治療の限界を十分に患者に説明すべきであろう。

 患者の方も、こうしたことも確認せずに、歯科医の言われるまま治療を行い、不満を言うのは問題で、矯正治療をするのであれば、何軒か、治療をしている歯科医院に相談し、よく説明を聞くべきである。装置ごとの費用であれば、仕方ないが、基本治療費として大金を請求されるなら、それがどこまでカバーしているのか聞くのは、当たり前のことであり、それさえしないで、後で文句を言うのもおかしい。乳歯列で反対咬合の治療行うのはエビデンスの点では問題があるが、やること自体は別に構わない。ただ最終的には永久歯のかみ合わせが正常になることが目標なので、まず1。永久前歯が逆になった場合、どうするのか、2。永久歯が全て萌出して、でこぼこ、あるいは反対咬合の場合はどうするのか、3。いつまで治療、管理をするのか、この三点については必ず質問し、その費用について尋ねておくべきである。正解は、1。永久前歯が逆になれば、その時点で再度、違う装置で治療する。2。抜歯も含めて、その時点で、もう一度検査して、マルチブラケット装置による治療を行う、3。骨格性反対咬合の場合は、下顎の成長が終了するまで、男子で18歳くらい、女子で16歳くらいまで見ていく必要がある。もし永久歯になり、マルチブラケットによる治療が必要なら、矯正専門医に紹介すると言われたなら、もちろんそこでの治療費は全くの新患扱いになり、これまでかかった費用は無駄になる。そうした場合の返金があるかも確認すべきであろう。早期治療費が30万円かかり、マルチブラケットによる治療が必要な場合は矯正専門医に紹介するなら、最初から矯正専門医に行った方が結局は安く済む。

 矯正治療は緊急性が全くないので、もし子供の歯並びが気になるなら、あちこちの歯科医院を受診し、色々な質問をして納得してから歯科医院を決めるべき、そして一旦、治療を始めたら、その先生を信頼して治療を最後までやってほしい。

2020年8月5日水曜日

口腔機能発達不全症



 私が初めて原稿料をもらったのは今から三十年前、1990年のことで、「子供と家庭」、「こどもの栄養」の二誌に“食物がかめない、かまない子供—食べる機能の発育不全”(27:38-43,1990, 423:2-7,1991)を書いた時で、同じ原稿で二雑誌分の原稿料をもらい嬉しかった。当時、咬まないで飲み込む、かめない子供のことが騒がれ始め、そうした実情と問題点をこの論文で述べた。その後も、しばらくは鹿児島のあちこちの養護の先生や栄養士から依頼されて、そうした話題について話した。

 最近の哺乳瓶は、より母乳哺育の機能に近い構造となっているが、以前の哺乳瓶はもっぱら吸う機能のみであり、哺乳瓶哺乳と母乳哺乳では、舌、口唇の使い方が全く違っていた。そのため、1990年頃に私がいた鹿児島大学やそれと関係する東京大学の先生方と開発したのが、今でもあるビーンスタークで、母乳を飲むときの口腔の機能を再現できるようになっている。最初は大塚製薬で出していたが、今では雪印でも販売しており、人気は高い。それでも哺乳から離乳への発達はなかなか難しく、おちこぼれる子供は多く、硬いものがかめずに吐き出す、あるいは丸呑みする子供がいるし、チューンガムをうまくかめない子供もいる。また不正咬合と直接関係する舌の機能異常も多い。具体的に言えば、水やつばを飲み込んだりする時に舌を歯と歯の間に入れる舌突出癖という嚥下障害がある。小さな力だが、一日に何百、何千回もこうした癖があると、歯列にも影響して、前歯が開いている開咬という不正咬合となる。

 う蝕も減ってきたせいか、こうした小児の口腔機能不全の診断、治療に対して2、3年前に保険点数がついた。とてもいいことであるし、早期に改善することは大きな意味を持つ。まず、かむ能力(咀嚼能力)、飲み込む能力(嚥下能力)に問題がないか、種々の計測装置を使って調べ、それに対する改善法を指導する。子供への指導であるので、気長で、根気強い指導が求められる。口で大まかに指導するくらいなら簡単であるが、医院全体でシステマティックに扱うとなると、かなり大変で、特にこうした機能訓練だけでは、形態の変化、具体的に言えば、前歯が開いている開咬状態がよくなることは少ない。矯正歯科の分野でも2030年前に舌機能訓練を診療の中に取り入れるところが多かった。私のところでも、機能訓練の講習会に出たり、習った方法を色々と試したが、結局は、今はチューンガムを使った嚥下指導を時たまするくらいで、かっての熱気はなくなっている。全国の多くの矯正歯科医に聞いても同じよう状況である。そうした訳で、最近、こうした機能評価、訓練が保険で請求できるようになっても、矯正歯科医はあまり乗ってこないのは、過去の失敗から来ている。おそらく保険に導入されることなり、初めて機能評価や訓練をする先生も多いかもしれないが、ずっと根気よく続けるのは患者だけでなく、歯科医側もしんどい。

 一方、口腔機能発達不全小児ついては、その評価、診断と訓練、指導を主眼においており、必ずしも不正咬合の改善をうたっておらず、ある意味、切り離している。つまり咀嚼、嚥下機能などを訓練し、それが治癒あるいは改善がなければ中止でおしまいである。噛み合わせとは関係はない。ただ実際は、患者、歯科医ともに不正咬合とこうした機能異常を関連づけるために、自然と訓練だけでなく、矯正治療そのものに移行するし、あるいは訓練に必要な装置として、各種の既製品の矯正装置が使われる、矯正治療が必要となるとセファロ撮影などの検査も必要となる。これらは全て保険の適用されない自費治療となるため、限りなく混合診療の状況となる。厚労省が適応する新たな保険診療は、無意味なものが多いが、口腔機能発達不全小児に対する機能評価と治療に関しても、矯正治療が保険になっていないのは片手落ちであろう。開咬の治療でも、タンクリブのような補助器具や、あるいはセクショナルーアーチとゴムで前歯のかみ合わせを治してから治療するのは一般的であり、まず舌が入らないようかみ合わせを治しながら、嚥下指導を行うべきである。前歯が開いているので歯科医院に行き、保険で機能訓練を受けたが、結局、前歯は開いたままであれば、患者やその親は納得しないであろう。そもそもこうした機能的な問題による不正咬合は、種々のタイプの不正咬合の中でも最も治療が難しいもので、一般歯科での矯正治療は勧めない。それ故、最初は近くの一般歯科で保険診療による機能診断、訓練を受け、自費での矯正治療に勧められ、いろいろな治療を受けても治らないということになる。患者には期待だけさせ、治らないということもありうる。すなわち矯正専門医はこうした口腔機能訓練が保険の適用になっても自費診療をするし、一般歯科では口腔機能診断、訓練を保険でするが、矯正治療により治すことはできない。こうしたこともあり、口腔機能診断や訓練を行う場合は、形態的な改善は少ないことを最初に説明した方がよかろう。

2020年8月3日月曜日

香川芳園 2

兵庫県漁具図解 香川芳園の画風とは違う

香川芳園 イタリアのオークション


 天保十一年(1840)に京都府上京区西大路町に住む宇野助順の子として生まれる。宇野助順の名は、「勧修寺経理日記」に見られることから公家に使える人か。その後、香川行徳の養子となり、香川姓を名乗る。画は望月玉川(1794-1852)に学び、玉川の号、輝に慣い、江戸後期の画家、西山芳園と間違えられぬように芳園輝を名乗る。玉川の没後は、さらに岸岱(1782-1865)に学ぶ。明治になり、塩川文麟(1808-1877)や長谷川玉峰(1822-1879)にも習ったかもしれないが、明治四年くらいから大阪、神戸で弟子を取るようになり、さらには濱田氏(誰か不明)の依頼により外国人向けの作品を売るようになった。現在、海外の美術館にあるのは、この当時の作品であろう。近江、伊勢、尾張、紀伊などをめぐり、知見を深め、明治十六年には神戸市の依頼で兵庫県下の漁業の記録をとり、さらには京都府画学校に出仕した。養子先の香川行徳という人物であるが、略歴は全く不明であるが、京都の歌人、香川家、香川景嗣、景樹との関係もありうる。亡くなったのは明治40年(1907)だが、日本美術院など何らかの画家集団に所属することもなく、明治16年以降、何をしていたかは不明である。

 他には「蝦夷風俗絵巻」、「北海道土人風俗図」を描いた(明治309月)を描いた橋本芳園という画家がいる。絵巻の巻末に“明治二十六秋八月下旬、北海道根室国標津郡標津村於国支店写之 応需 芳園”とある。なかなかうまい絵を描くが、香川芳園と署名、印が全く違うので別人物と思われる。

 大英博物館にある芳園輝“の作品は1913年にGwynne-Evans William という人がArthur  Morisonが集めた作品を購入して博物館に寄贈したとある。アーサー`・モリソンはイギリスで作家として活躍した人物で、日本美術に興味を持ち、コレクターとなった。おそらく収集し始めたのは1890年後半以降、すなわち明治30年以降と思われる。モリソン自身は日本に行ったことがなく、収集はもっぱらイギリスであった。大英博物館にある”芳園輝“の作品は、もし香川芳園であれば、明治16年以降に香川芳園が描いたのかもしれない。署名から分類すれば、1。 西山芳園の楷書の優しい署名、2。芳園輝、芳園平吉輝”など海外の美術館にある作品の署名、3. 2と非常に似ているが、やや違う香川芳園の署名、4。 それ以外の贋作、あるいは“芳園”とする画家の作品の4つに別れる。2.3が、一緒かどうかが論争の焦点となる。2と3が違うと仮定した場合、西山芳園、香川芳園とは別の第三の芳園が存在しなくてはいけないが、明治期の画家でこれまでそうした人物がいない。逆に印が2と同じで署名が3であれば、23は同じともいえ、中国のコレクターの絵がこれに該当するのだが、署名は2とも3とも似ているが、同じではない。同じ画家でも年代により署名は変わり、こうした方法では解明は難しい。

 ほとんど記録のない画家について、その作品だけから調べるのは非常に難しく、同じ画家であっても年代によって署名、印象はかなり違うし、また作風も異なる。まずは海外にある“芳園輝”と香川芳園との関係を立証しようと考えているが、確実な証拠がない。

2020年8月2日日曜日

香川芳園 1

香川芳園  猿田彦?

弘前昇天教会 レンガの表現がキモ


 数年前からアメリカ、シンシナティー美術館のキュレーターの方と一緒に、ある画家のことを調べている。“芳園”という号を持つ画家で、シンシナティー美術館には芳園平吉輝“と”芳園輝“の署名のある二つの作品がある。この作品は江戸後期の西山芳園の作品ということになっていたが、どうも画風や署名、印章も違い、“芳園”という号の別の画家が描いたものと推察された。そこで“須藤かく”のことで面識のある私に調査を依頼された。もちろん私はただの歯科医で、美術史に関しては全く素人であるが、文献の調査は郷土史の研究と同じ手法なので、この調査に協力することにした。また誰かはわからないが、自分の作品が、他の作家の作品に間違えられたままでいることは、故人にとっても歯がゆいことと思われるので、何とか供養の為にも解明してみたい。

 “芳園”の海外の作品を調べると、大英博物館に多くあり、ネットでも見ることができる。それを調べると、明らかに西山芳園と画風の違う“芳園輝”の署名のある二点と“芳園平輝”の署名のある作品の計3点ある。いずれも円山・四条派の華麗な作品で、西山芳園の間の大きい作品とは全く違う。署名にも“芳園輝”とシンシナティー美術館同様に“輝”の字が入っている。また2点については“應濱田氏需”の文字が入り、濱田という人の依頼で描かれたことがわかる。さらにイギリスのヴィクトリア・アルバート博物館にも“芳園輝”、“應濱田氏”いう署名の入った鷹の絵があり、この絵のことを記載している「秘蔵日本美術大観」の解説で、東大名誉教授、河野元昭は、この絵は西山芳園とは落款、画風が違うという疑問を呈している。さらにアイルランドのチェスター・ビーティー・ライブラリーには、動物、人物を描いた絵巻があり、“芳園輝”、“應濱田氏需”の署名がある。つまりシンシナティー美術館、大英博物館、ビーティーライブラリーにある6点については、いずれもほぼ同じ時期の作品群と思われる。

 他に“芳園輝”の入った作品は、私が5年前にヤフーオークションで落札したものがあるが、印章は“淳子澣印”で、海外の美術館のものとは違い、別の作者か、贋作、あるいは同じ作家でも制作時期が違うのかもしれない。その後、中国のコレクターの方から連絡があり、その方がオークションで落札した作品は、大英博物館、シンシナティー美術館と同じ印章で、署名に“芳園”と書かれた作品であった。印が同じなら、同じ作家の可能性が高い。そうなると“芳園輝”の署名だけではなく、“芳園”の二文字の署名のものも広く調査する必要がある。明治時代の画家を調べると、ほとんど作品、経歴がわからない香川芳園という画家がいる。他には浮世絵画家の野村芳園の名も検索で出るが、これは野村芳國の間違いである。香川芳園の署名のある作品は、イタリアのオークションに出ているものと今回私が購入したものの二点である。印章は“平蟾麿”、署名は“京都府画学校出仕 香川芳園”とある。画風からほぼ同じ時期、香川芳園が京都府画学校に出仕したのが明治178月なので、それ以降の作品か。さらに菊池芳文へのインタビューで「十六歳位で言いましたか、それで二十歳の時まで、滋野芳園というに就いてやりました。處が其後、先生が西國へ転じられて、行衛がわからん事になりましたので。——」とあり、菊池芳文は文久二年(1862)生まれなので、彼の師匠、香川芳園は1878年から1882年まで、つまり明治11年から15年まで大阪にいて、その後、大阪より西に移ったようである。滋野芳園は雅号を蟾麿(ひきまろ)といい、香川芳園と同じ画号で、こんな変な雅号を持つ人はいないので、同一人物である。また神戸の小西辰二郎香翠という画家が“明治四年より画を香川芳園蟾麿に学び”、また小西常次郎芳秀は“明治九年より画を香川芳園蟾麿に学ぶ”との記載があり、この頃は神戸—大阪間といえどもそう簡単には往来できず。明治四年から九年頃は神戸に住んでいたのかもしれない。また大阪の画家、岡島喜三郎香園の略歴では、“明治十一年より滋野芳園に学び、同十四年八月より田能村小斎に随い、後また専ら芳園に学ぶ”とあり、十一年より十五、六年まで大阪で弟子をとっていたのだろう。菊池芳文のインタビューと一致する。さらに香川芳園の略歴では“天保十一年三月十七日生なり、画を望月玉及び川越前守岸岱に学び、近江、伊勢、尾張、紀伊、摂津などを遊歴し、明治十六年兵庫県の命により同県下川海漁労漁具及び産魚の真写二百枚を製す”とある。これを信じれば明治十六年頃からは兵庫県の名で水産関係の仕事をしていたことになる。調べると第二回水産博覧会に神戸市が提出した「兵庫県漁具図解」があり、ネット上で関西学院大学が公開しているが、作者はわからない。これらの資料から香川芳園の履歴を想像してみたい。

2020年7月22日水曜日

ヤフーオークションの闇

落札数が400以上ということは、同一業者からの落札はカウントされないルールを考えると、月に20以上は落札していることになり、通常ありえない。


 10年ほど前からヤフーオークションをよく利用している。主として掛け軸を買うことが多いが、カメラや家具、陶器など様々なものをここで買っている。これまで特に騙されたこともなく、たまには失敗もするが、それはこちらの判断違いであり、出品者のせいではない。ヤフーオークションの特徴は、どんなに安くても、例えば1000円でも落札者が一名しかいないと値段は1000円となることで、競う相手がいないと本当に安い値段で手に入る。私が集めている土屋嶺雪や近藤翠石なども随分安く手に入った。これらはあまり有名でなく、競合者も少ないからであろう。ところがここ1、2年、昔のような極めて安く手に入ることは難しくなってきた。原因はわからないが、以前なら数千円くらいで落札されたものがその数倍でも落札できなくなってきた。理由の一つに、極めて落札数の多い何らかの集団がいるようだ。個人の収集家であれば、いくら骨董好きとはいえ、落札数は300を超えることはない。ところが最近の落札者には4000070000を超える落札者がいる。同じ出品者からの落札は一つに数えられるので、私がよく買う会社のものは10点くらい買っても落札数は1であるので、この70000を超える落札数は異常である。おそらく可能性としてはオークション代行会社のものか、出品者と結託した同業、骨董商のものと思われる。個人の入札者は落札数が少なく容易にわかるので、ネットの骨董商同士が値段をつりあげることことも可能である。昔は入札者の過去の落札品もわかったので、その傾向がわかったし、500を超える落札数はなかったが、落札者の情報が表示されなくなると同時にこうした怪しげな入札者が増えてきた。あるいは日本のヤフーオークションは海外からの参加は基本的には認めていないが、中国の代行会社から落札が増えたせいかもしれない。というのは日本の古い西洋画についてはあまり落札数の多い入札者は少ないが、中国もの、日本の掛け軸ではこうした入札者が増える。先日の伊藤若冲とされる掛け軸では、20人が落札に参加したが、このうち落札数が400を超える者は9人で、最高は76646であった。入札額が80000円まではいいのだが、そこから400以上落札数の入札者が三人200000円まで値を上げ最後は落札数74の個人が206000円で落札した。以前であれば、こうした場合も個人の入札者だけの競合であったので100000円以上になることはなかったし、この絵に関すれば230000円くらいであろう。こうしたこともあり、最近はヤフーオークションもプロがアマチュア個人を騙すようなところに見えてきて嫌いになってきた。

 話が変わるが、以前から調べている“謎の芳園”について少し新しい情報が入った。大英博物館やシンシナティー美術館にある“芳園輝”の署名のある西山芳園とされるコレクションの多くは、画風やサイン、印鑑より西山芳園でなく、別の芳園であることがわかったが、それでは誰かというと、はっきりしない。可能性としては江戸後期から明治にかけて作品を残して“香川芳園”という人物がいる。この人物、ひどい作品も多く、果たして香川芳園が“芳園輝”かはっきりしない。ところが最近、イタリア、ヴェネチアの東洋美術館が所蔵する3つの“芳園”署名のある作品について同館のSilvia Vescoさんが解説し、謎の芳園について論文にしている。結論ははっきししないが、私のブログも参考文献として引用してくれている。もう一つはボストンの美術商、松木文恭の日本美術のカタログ(1898)に”Kagawa Hoyen”の名が出てくる。ここでは”Kagawa Hoyen was born in Kiotoin,1820. He was to have inherited the title of Baron from his father, Baron Kagawa, but the artistic instinct in him was so strong that he renounced his heritage and became a painter. He studied first with the famous Shibukawa Bunrin and later with celebrated Giokuho. He was been the instructor of painting in the Kioto Art School for more than fifteen years. He work is highly regarded by modern painters.”となっている。Baron Kagawaに該当する人物として香川敬三男爵がいるが年齢が違う。また香川芳園の生年月日は天保113月(1840)で、これも20歳も違う。塩川文鱗(1808-1877)は幕末、京都を代表する絵師だが、Giokuhoは四条派の長谷川玉峰のことと思われるが、1822年生まれで、香川芳園より若く、師匠としてはふさわしくなく、むしろ“輝”の名を持つ望月玉川(1794-1852)の方がふさわしい。他の文献では香川芳園の師は、最初は望月玉川、その後は岸岱に学んだとされている。香川芳園は、海外向けの美術品カタログに取り上げられているように外国人に人気のある画家で、海外の美術館にある作品には芳園輝“の署名があるが、これは海外向け作品に使用された署名、落款なのかもしれない。ただ日本では画題が陳腐で、また号の同じ西山芳園と混同されることも多く、日本の美術館に収蔵されている作品はない。不思議な作家である。