2020年12月10日木曜日

大谷亮介

 



 テレビで、その顔を見れば多くの人が知っているのが俳優の大谷亮介さんで、テレビ朝日、相棒の三浦信輔警部補役で出ていた記憶のある人も多い。これといって代表作はないものの、名脇役の一人であろう。高校の親友の兄で、六甲学院サッカー部では3年先輩に当たる。サッカー部では、非常に巧みな技術を持つフォワードの選手で、進学校でありながら、この学年は兵庫県代表としてインターハイに出場した。

 

 実は、以前、是非ともNHKのファミリーヒストリーで大谷亮介を取り上げてくれと投書したことがある。というのは大谷さんの両親の歴史は、一つの小説になるほどユニークで、色んな分野の歴史に絡んでくるからだ。ところが

投書した当時、ちょうど俳優の高畑裕太の事件があり、その父親とだったことや、超有名でなかったことも採用されなかった一因かもしれない。ただその両親の歴史をこのまま埋めておくのはもったいないと思った。

 

 まず大谷亮介の父、大谷四郎は学生時代、サッカー選手として有名で、神戸一中から第一高等学校、東京帝国大学と進んだ。活躍時が昭和10年代という厳しい時期でなければ、日本代表として活躍したことは間違いない。戦後、朝日新聞に入社し、スポーツ記者として活躍した。当時の日本では、今では考えられないが、世界のサッカーについての知識は全くなかった。それを広めたのが大谷四郎記者で、このころ友人の家に行き、ペレのサインを始めて見せてもらった記憶がある。さらには兵庫県サッカー連盟など関西のサッカー界で尽力し、その功績により2009年には日本サッカー殿堂入りを果たした。兄の大谷一二も戦前の神戸サッカー界で活躍し、のちには東洋紡の社長、会長としてビジネス界でも活躍した。関西系の多くの日本代表監督(二宮洋一、加茂周、長沼健、岡田武史)がいるが、この大谷一二、四郎兄弟にルーツを持つ。そうした意味では、大谷兄弟の歴史は日本サッカー界の歴史にも繋がる。

 

 大谷亮介の母については、神戸サッカーの重鎮、賀川浩さんの「記者として、サッカー人として 大谷四郎」で“大谷さんの奥さんは、お父さんが朝比奈先生という東大の薬学の大先生で、かの有名なサッカーの神様`竹腰重丸が、東大の薬学部に入ったときの先生でした”としている。竹腰が東大に入ったのが1925年で、その時の薬学部の教授は朝比奈泰彦である。朝比奈泰彦は日本薬学界の重鎮で、文化勲章、文化功労者にも選ばれ、さらに1951年と1952年にはノーベル化学賞の候補となっている。もしこの時にノーベル賞を取っていれば、湯川秀樹に次ぐ二番目の受賞者になっていただろう。大谷亮介の伯父になる朝比奈正二郎は昆虫学者として有名で、またその弟の朝比奈菊雄は東京薬科大学の教授となり南極観測隊にも参加した。ただ朝比奈泰彦の長男は正二郎、三男英三、四男菊雄、長女かほる、次女千代とあるが、大谷亮介の母、福子の名はない(人事興信録、大正14年)。朝比奈泰彦の父は東京府士族、朝比奈和四郎といい、おそらく鎌倉幕府から続く朝比奈家の末裔であろう。

 

 こうした大谷亮介のルーツを見ることで、一方は草創期の日本サッカーの歴史を、もう一方はあまりテレビで取り上げられない日本の薬学の歴史を見ることができ、その意味は大きいし、さらにいうならスポーツライターの草分けの賀川浩さんも既に96歳、戦前のサッカーを知る他の関係者もかなり高齢となっている。ファミリーヒストリーは、全く無名の人物に焦点を合わせるのも良いが、こうした歴史の陰に隠れた人物にスポットライトを合わせてもいいと思うが。

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